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名色分離智:
「現実」と「現実でないもの」
「事実」と「思考(解釈)」 を観分ける智慧
名色分離智という言葉がある。 瞑想修行を始めると最初に現れる智慧 と言われている。
また、五蘊という言葉もある。
五蘊とは、色・受・想・行・識 という 五つの概念をまとめたものである。
(色・受・想・行・識 の内容は ブログの別の記事 「五蘊」 を参照して欲しい)
一般的には、
この五蘊の 「色」 以降の 「受・想・行・識」 の四つをまとめて 「名」 と呼ぶようだ。
「色」 は 体のことで、 「名」 は 心(心そのものではなく、心の要素)のことである。
この形あるものとしての「色:ルーパ:体」と
形なきものとしての「名:ナーマ:心」の 違いを
はっきりと観分ける能力を、「名色分離智」と呼ぶ。
なぜ 名色分離智が そんなに大事なのか、
なぜ カムキエン師が「形あるもの」 と 「形なきもの」の違いを そんなにも強調するのか?
そう考えたとき、 名色分離智の「色」 と 「名」 を、
五蘊の 「色」 と 「受」 の 間で 分けるのでなく
「受」 と 「想」 の 間で 分けた方がいい
のではないかと思いついた。
名色分離智とは、 五蘊の中の 五つの要素を 「名」 と 「色」 の二つに分割する智慧のこと。
一般的には 名色分離智の「名」 とは「受想行識」のことだが、そうではなく
「名」 を 「想行識」 「色」 を 「色受」 とし、
「色」 と 「受」の間に ではなく
「受」 と 「想」の間に 分割線を入れた方がいいと思われた。
なぜなら、「受」までが「現実」で (リアル)
「想」からは「現実」でない(非リアル)の だから。
カムキエン師の言う「症状」
カムキエン師は、「症状」 という言葉をキーワードとして頻用し、
「体の症状」 と 「心の症状」という表現を 使い分けている。
そして、その症状に 「ついていかない」 ことを強調し、
そのための手段が(手動)瞑想【マインドフルネス】である、と説いている。
「心の症状」 の 「心」とは 五蘊の中の「想」のことであり、
「これは こうである」 「これは こうに違いない」
「したがって、 これは こうでなければならない」などといった、
価値観を伴う 「思い込み思考*」 のことである と思われる。
「心の要素」とは 五蘊の中の「想・行・識」のことであるが、
それに対して カムキエン師の言う 「心の症状」 の 「心」 とは、
五蘊の中の「想」だけを指しているようだ。
心(想)が思い込んだ 虚構の判断に従って、その判断を追求しようとする 欲求が生まれる。
その欲求が満たされている(正しいことができている)ときは
(受とは別レベルの) 快の感覚を感じ、
欲求が満たされていない(正しいことができていない)ときは
(受とは別レベルの) 不快の感覚を感じる。
この 「正しさ」 とは、 実は 「虚構」 であり、「思い込み」 に過ぎないものなのだ。
このときの判断に対する
「快の感覚」 を「貪 むさぼり」 と呼び、 「不快の感覚」 を「瞋 いかり」 と呼ぶ。
カムキエン師のいう「心の症状」とは、この「貪とんまたは 瞋じん」のことであろう。
[貪瞋については 最下段を参照]
追求しようとする欲求、そして それに分かち難く付随する 「貪/瞋」 という感情は、
五蘊の要素の「行」 に相当(付随)する。
したがって、
カムキエン師の言う「心の症状」とは この五蘊の中の「行」のことであることが分かる。
カムキエン師が「心の症状」という言葉を使うとき、
「心」は 五蘊(色受想行識)の 3番目の「想」を意味し、
「心の症状」は 4番目の「行」を意味していることが分かった。
(*)思い込みとは、自分自身では思い込みであることに気づいていないことであり、
この点をよくよく理解していなくてはならない。
「自分には思い込みなどない」 と言ったところで
なんの意味もないことが分かっているだろうか?
まず「自分には 思い込みがあるはずだ。それは何だろう?」という地点に立ち、
そこからスタートしなくてはならない。
「ものの見方として、 そんなことは当たり前」 と思っているようなことを、 一つ残らず
すべて 疑ってみなくてはならない。
では もう一方の「体の症状」とは なんのことか?
一般の言葉で言えば、
熱があったり、咳が出たり、痛みがあったり、というのが「普通」の体の症状である。
それを もう少し突き詰めて考えてみると、それは 五蘊の中の「受」のことだと思われる。
とすれば、一般的な表現の体の症状は おもに 「不快」 な 「苦」 しい経験であるが、
寒い日に家に帰って 暖かいお風呂に浸かって 「気持ちいい」と感じるような
快ここちよい「楽」と感じる経験も「受(という症状)」に含めてもいいだろう。
「体の症状」とは 五蘊の中の「受」のことである。
カムキエン師が「体の症状」という言葉を使うとき、
「体」 は 五蘊(色受想行識)の 1番目の「色」を意味し、
「体の症状」 は 2番目の「受」を意味していることが分かった。
そして、
「体」 と 「体の症状」 の両方(色と受)を含めたものが 「形あるもの」 なのではないか?
そう考えると、 「名色」 の 「色」 は 「体と 体の症状(形あるもの)」のことで、
「名色」 の 「名」 は 「心と 心の症状(形なきもの)」のことで、
「名色分離智」 とは 「この二つ」 を分けて観る智慧である ことが分かる。
そして この二つのうちの
「形あるもの」とは リアルな現実のことで、
「形なきもの」とは 非リアルな(現実でない)観念・幻想・虚構のことである と考えると、
「名色分離智」が いかに重要であるかが明白になり、
瞑想修行を始めると 最初に現れる智慧と言われていることに納得できる。
つまり 「名色分離智」 とは、 現実と 現実でないもの
事実と 思考(解釈・意味づけ)を観分ける智慧のことなのである。
そして そこを起点にして考えをめぐらすと、様々な理解が容易になることに気づいた。
では、 「症状についていく」という表現は 何を意味しているのか?
「体の症状についていく」とは、
「受」 の感覚である 「快/不快」」 や 「好き/嫌い」 を追求したり 否定したりする欲求である
「行」 に囚われ、 それと 完全に一体化することである。
「快」 を 夢中になって もっともっとと 追いかけ続けて(享楽的欲求)
すでにある その快の状況に満足できなかったり、
「苦」 を 嫌悪して なくそうとすることに夢中になって、
不快な状況を ありのままに 受け入れることができない状態である。
「体の症状についていく」とは、十二縁起の「渇愛」のことである。
「心の症状についていく」とは、
この「受」 の 「快/不快」の感覚を 「善/悪」 の判断である想 つまり 思考に変換した後に、
それを追求/否定(行)して それと 一体化することである。
または、
眼・耳・鼻・舌・身・意の 六根の 「意」 の中に 勝手に自然に生じた 「法:思考」 に反応して、
それを追求/否定(行)して それと 一体化することである。
つまり、「思い込み」 という思考に振り回されながら、
その「思い込み」 が 満たされない状況を 受け入れられないので、
その結果 貪や瞋という感情が発生している状態 のことである。
「心の症状についていく」とは、十二縁起の「取」のことである。
私たちが いかに 「思い込み思考」 という 「現実でないもの」 に振り回されているか分かるだろうか?
そう考えると、
「症状についていく」という表現は 「行」が発生して(受と行・想と行が)一体化し、
悪循環を形成することであると理解できる。
「渇愛」 と 「取」 は、「行」 の より具体的な二種類の内容である。
「症状についていかない」とは、
このような 「快/不快」 という 「受:二次感覚」 や 「善/悪」 という 「想(思考)」 を 追求/否定せずに、
ただ 気づいて(観て:念)そのままにしておく(受容する:定)こと【マインドフルネス】であり、
すなわち 「行」 を生じさせないことであった。
「症状についていかない」 とは 受や想(法)と 行を切り離すこと
受や想(法)から 行に 移行しないことである。
再び 名色分離智
「名色の色」 すなわち「五蘊の色と受」は、
実際に生きている自然そのものである 「体」 と
「体におけるリアルな生体反応(感覚の発生)」 のことであり、
それは、現実に存在する 実在(形態:存在の表現型の基本)と
その実在と分かち難く存在する もっとも基本的な機能のことである。
これは リアリティであり、 幻想:マーヤーではない。
とすれば、「色・受」 を含めた 五蘊すべてを
幻想・虚構として 切り捨ててしまうのは 間違っていることになるだろう。
ただ それに執着するな、
執着すると( 「受」 の 「快」を追求し過ぎると)享楽的欲求となって取り込まれてしまうぞと、
ブッダは そう警告しただけではないのか?
一方 「名色の名」 である「想・行・識」は、人間が自分の頭の中で創りあげたものである。
すなわち、この「想・行・識」の三つだけが 幻想であり マーヤーなのだ。
そう考えてみれば 名色分離智とは、
何が「実在(リアル)」 で 何が「幻想(非リアル)」 なのか を観分ける
きわめて重要な智慧であることが分かるだろう。
「苦(受)」 は リアルな現実であり、
「苦悩(行)」 は 心が創りだした 非リアルな幻想である。
これを 分けて観ることができれば、 すなわち 名色分離智を得れば、
苦悩を滅する道が見えてくるだろう。
「非リアルな 苦悩」 とは、
「リアルな 苦」 を 否定しようとすることによって 発生するものなのである。
わたしたちは、「色・受」を介して 現実の世界とつながっている 一方、
「想・行・識」によって「自分」 と 「世界(観)」 を 捏造している。
思考のはたらきであり 内容でもある「想」が、「実在」 と 「幻想」 の分岐点だ。
対になる概念を生成する「思考」が、
(実在の)世界を二分して 二元の(幻想の)世界を創りだしている。
しつこいようだが、もう一度 繰り返す。
名色分離智とは、「現実と現実でないもの」 つまり
「事実と思考:解釈・意味づけ」 を 観分ける智慧 のことである。
そして「苦」 は 現実であるが、「苦悩」 は 現実ではない。
したがって 名色分離智は、「苦と苦悩の違い」を観分ける智慧のことでもある。
現実とは、 「いまここ」 のことである。
なにが現実で、なにが現実でないのか?
もう一度じっくり自分で考えてみよう。
自由と解放への道
「受」 や 「想」を追求/否定しようとせず、ありのままを受け入れれば、苦悩は生じない。
また、 「快/不快」 や 「好き/嫌い」 を 「善い/悪い」 に変換しなければ、 苦悩は生じない。
この変換のはたらきが 思考による「想」であり、
変換された 「善い/悪い」 という思考の内容も また 「想」 である。
正しい瞑想(止観瞑想:正念正定:マインドフルネス)ができれば、
体の症狀(受)に反応して ついていかずに(過剰に追求/否定せずに)すむ。
同時に「受 → 想」の反応を斷ち切り、「想」を発生させずにすむ。
そして たとえ「想」が生じたとしても、
生じたことに 気づき(念) それを ただ観ている(定:受容する)ことができれば、
それを 追求/否定することなく、「想 → 行」の反応を断ち切り、
心(想)についていかなくてすむ。
「想」または「行」の一つ前の段階で 反応を阻止できれば、
「識」すなわち自我(私が、俺が、という感覚)は 発生しない【無我】
自我がなければ 「苦悩」 は存在し得ない(苦悩を感じる主体が自我であるから)
または、 「行」を利用して 世俗的な幸せや成功を手にしたとしても、
それは 仮のものであり一時的なものである【無常】と分かっていて
「行」を肥大化させることがなければ、
(非常に難しいとは思われるが)「行 → 識」を断ち切ることができ、苦悩は発生しない。
もしくは後から気づき、 いったん発生した苦悩を緩和・縮小・消滅させることができるだろう。
しかし、そもそも 追求し それを循環させるのが 「行」 の機能であれば、
「行→識」 を断ち切ることは やはり難しい。
「色→受」 の反応が 不可分であるように 「行→識」 の反応も不可分なのかも知れない。
このニつ(三つ?)の段階の反応のうち どこかをブロックできれば
つまり 思考についていかなければ、 思考(という自分)の思い通りにならずにすむ。
思考によって(快/不快である)「好き/嫌い」 を「善/悪」 に変換すること(想)が、
そもそもの間違い・苦悩の大元おおもとである。
したがって「苦悩」を滅するためには、
まず マインドフルネスによって「受」 に留まり、 「想」 に変換しないこと。
次いで「想」に変換されたとしても、
マインドフルネスによって 思考(想)は「非リアル」 であると知って
「心(思考)」 についていかず「症状(行)」 を発生させないこと。
それができて 思考の思い通りにならなければ、自分に騙されなくなる。
(自分エゴから)解放され、自由を手にすることができる。
名色分離智は、マインドフルネス(瞑想)の 一丁目一番地
であり
現実と 現実でないものを
現実と 現実に似せたものや
現実を解釈したものや
現実を名づけて 概念化したものを
リアル(R)と 非リアル(非R)を
あるがままと あるがままでないものを
いま自分が
「感じて」いるのか「考えて」いるのかを
観分ける智慧である。
現実とは 感じるものであり、色 → 受までの反応であり、
それが「リアルなわたし」だ。
現実でないものは 考えることであり、想 → 行 → 識という反応であり、
それは「非リアルなわたし」だ。
名色分離智とは、「リアルな ありのままの 本当のわたし」と
「非リアルな つくられた 偽物のわたし」を
観分ける智慧のことだ。
わたしたちは、本当の自分を隠しているうちに いつの間にか見失い、
偽物を 自分自身と勘違いしてしまった のではないだろうか?
わたしが 本当にしたいこと・なりたいもの・在りたい形を忘れてしまい、
他者から評価されるためだけのもの になってはいないだろうか?
それらを見極める智慧が、 「名色分離智」 だ。
参考記事:カンポンさんの「名色分離智」・時間の名色分離智
[追補:三毒]
体の症状とは、「受」のことで、楽・苦・不苦不楽の 3種類ある。
心の症状とは、行に付随する感情(+α)のことで、貪・瞋・痴の 3種類ある。
貪・瞋・痴は、
「受」の 楽・苦・不苦不楽の 3種類の状態に対応していて、
「貪」は 「楽」を追求するときの ポジティブな楽しい感情、
「瞋」は 「苦」を否定するときの ネガティブな 嫌な感情、
「痴」は 「受」の反応がないので無関心になっている・無視しているときの状態である。
「貪」の真っ只中のときの感情は苦しくないが、
貪の対象が失われたときに、それは転換苦となって 苦しむ(苦悩する)ことになる。
「瞋」は まさに 「苦悩」の感覚そのものの感情である。
知らなくてはならないことを無視するのが 「痴」 であるが、
「痴」 による無関心や無視による「無知」 もまた いずれ大きな 「苦悩」 となる。
(最終改訂:2022年10月30日)