わたしとはなにか
色即是空
わたしは空である
:無我とは、
「他の人と違う特別なわたし」などいない
という意味である。
「本当に生きる」という経験は、
いまここに在る【being】
「自分と世界の あるがまま」 を、
・思考【想】によって
価値判断することなく、
・物語的な執着【行】を 捨てて、
・「わたし」 という感覚【識】を
介して限定することなしに、
ただ感じて 観つづけること:
マインドフルネスから 始まる。
〔わたしの理解〕: 無我という理解 3
[自我の統合]
隠された影:シャドーを 統合することにより、
分離され 限定されてしまった自我は
再び あるがままのものとなり、
そこから 「わたし」の復活が始まり、
真我へと至る。
この統合の過程で、
「負のわたし:シャドー」のエネルギーは
感情エネルギーとして放出される(浄化)
しかし 「影」 を 意識下に置こうとすると、
劣等感が刺激されて 屈辱を感じる
(プライドが傷つく)ことになり、
この感情エネルギーを持った影は ときに
怒り・非難・不安・恐怖・うつ などの形をとって、
統合に対して 激しく抵抗する。
その抵抗にジッと耐えて それを
観続けること:マインドフルネス ができれば、
その感情を正当化し 支えている
思考や信念や思い込みが明らかになり、
分離(の感覚)は解消される。
「自分の中の 悪(ダメな・愚かなところ)」
を認めることは、 とてつもない苦痛である。
だが その苦痛が どれほどのものであろうと、
とにかく マインドフルネスの元で 観続けて、
その抵抗による辛さにただ耐えるしかない。
耐えて 観切ったとき、
「わたしという感覚」 の元になっていた
「わたしそのものと思われていた自我」 は死んで
本来の機能となり、
「悪のように思われていたもの」 の
受容が成立する。
そのときやっと このエネルギーは力を失い、
「わたし」は 平穏(穏やかさ)の地平 に至る。
自分が「何ものでもない」ことを知り、
安堵する。
「わたしという感覚」が、
歳を取ることなく 変わらず続いていた
存在【being】そのものに根ざしている
「自分自身という感覚」に変わる。
「わたしという感覚」 が
「自分自身という感覚」 に 変わるとき、
の上にきちんと載っている構造が理解される。
その構造は、マインドフルネスによって
たしかに「実感できる」
マインドフルネスとは、
「わたし」を その構造に戻して
維持することである。
「自分自身という感覚」 は、ジャッジすることなく
自分を含めたすべてを ありのままに捉え、
自分と 他人と 世界は 同一:
【非二元・梵我一如・ワンネス】であり、
自分は 普通の 何ものでもないものであり、
分離・限定され 孤立したものではない、
という感覚である。
その感覚は「横の関係」を導きだし、
このようにして、自我は統合される。
「わたし という感覚」は
「何かをすること:doing」 で成り立つが、
「自分自身という感覚」は、
ただ「いまここに在る:being」
「I am (ただ在る)」 という感覚である。
doing は必要ない。 何もしなくていい。
「I am 」とは、わたしは「いい人」だ
というような 条件つきの存在ではなく、
ただ在るという 無条件の beingである。
生まれたとき、 わたしたちは
ただ 「Iam 」 だけであった。
その後 様々なものを身につけ
「Iam 〜」 となり、 「〜となって」 いった。
「わたしという感覚」がなくなることで
「わたしはいない」 ことが分かり、
「自分自身という感覚」に代わることで
「わたししかいない」ことを知る。
「小さなわたし」 が 「大いなるわたし」 に
代わる、という言い方も可能だろう。
「部分としてのわたし」 が
「全体としてのわたし」 に代わる (元に戻る)
と言ってもいい。
相対する二つの言葉を提示することで、
初めて 真実(ダルマ)が 姿を現わす。
色即是空と空即是色
無我と真我
小さなわたしはいない が 大きなわたしがいる
無常と非無常
[二重構造のわたし]
「わたし」は、「要素」 と 「座」 からなる
二重構造をしている。
「座」は (真我のことでもあり)
生きとし生ける すべてのものに共通する
変わらない 本質的なもの【非無常】であり、
「要素」は
時とともに移り変わる 機能【無常】である。
「わたし」 は、たんに
特性や 役割といった 要素(部分)を
寄せ集めた 塊かたまりに過ぎないものであり、
「わたし」 が、それまで
自分だと思い込んでいたもの【色】は
一時的な機能に過ぎなかった ことを知る。
そして 「わたし」 は、たんに
要素【色】を寄せ集めた 機能としてだけ
ではなく、
それを 受け入れている(機能させている)
本質・座【空】と ペアになったもの (全体)
である」
わたしが
何かをコントロールすることはできないが、
同時に
わたしの決意なくしては 何も変わらない。
そして
「嫌なこと」 を
他人のせいにすることもできない。
すべてはわたし(全体)なのだから。
いつも 全体を意識:マインドフルネスしていよう。
アポロの宇宙飛行士たちが
月から 地球を眺めたとき、
地球に生きる大勢の「わたし」が
「小さなわたし」に観えた
のではないだろうか?
月は 「大きなわたし」の視点だ。
遠くから 「小さなわたし」 を観ることで
初めて、
「大きなわたし」 を意識できるようになる。
「大いなるわたし」 は、
月を超え、 太陽系を超え、 銀河を超え、
そして その 「わたし」 と この 「わたし」 は、
違う ようで同じ だが違う 「わたし」だ。
同じ ようで違う だが同じ 「わたし」だ。
「わたししかいない」感覚である
新しい「わたし」になると、
doing の中身(何をするか)も変わってしまう。
その「わたし」は 「色」 であるが、
この「わたし」は 「空」 のことか?
それとも「色」 であり 「空」 でもあるのか?
「色即是空即是色」とは、
自分の本質が「空」であることを理解し、
その理解に基づいて「色」を生きること
(暮らしの実践)である。
[行と結びつかない純粋な感情と純粋な思考]
この「負のわたし」のエネルギーは
たった一つのものであり、
それが 様々な形となって現れていた。
探求のエネルギーの源も 同じものだった。
したがって、
感情の放出を伴う「浄化」によって
自己否定が 自己受容に変わったとき、
真理の探求も 終わりを迎えて
「もう いいや」 っていう気持ちに変わる。
ただし、感情が
いつも 苦悩と関連しているとは限らない。
思考や 欲求・願望:行 に支えられていない、
思考と一体化していない、
貪とんでも 瞋じんでもない、
生命の驚異に対する感動という感情や
真実の穏やかさ・切なさ・荒々しさの
表出としての 感情もある。
快や不快に対する 行ではない
自然な反応として、
「喜び」 や 「悲しみ」 という感覚が
湧きあがることもある。
貪や瞋という感情(行レベルのもの)が
価値判断(想)に基づく非リアルな感覚
であるのに対し、
この喜びや悲しみ(受レベルの感情)は
あるがままの リアルな感覚である。
( 「受→想→行」 については 五蘊 を参照)
この 自然な反応は 人生を
ビビッドに生きることの基盤であり、
この 喜びや悲しみを
けっして 滅尽しようとしてはいけない。
「悟り」 とは、 完全に貪瞋を手放した上で
この自然な反応に意識的になることだ。
一方、価値判斷しないので
欲求・願望:サンカーラ が生じない、
感情と一体化することのない、
理に基づいた適切な思考というもの【正思惟】
も存在する。
それは たんに この世界(此岸)を生きて
行くために有用であるばかりでなく、
真理(彼岸)に到達するための
重要な手段ともなりうる。
しかし これだけで到達することはできず、
真理に至るためには 逆に、 その直前で
これを 手放さなくてはならない。
此岸から 彼岸には、 泳いで、 つまり
自分の努力(ここでいう努力とは自我の特性)で
渡ることはできない。
彼岸に至るには、
ジャンプする(飛び越える)必要がある。
やるだけのことをやったなら、
あとは思い切って勇気を出して
正思惟も手放し、
暗闇の濁流の中に飛び込まなくてはならない。
すべての努力・意志の力:サンカーラを放棄して
諦め、そして
努力とはまったく反対のものに任せて、 深く
深く 川底にまで 沈んでいかなくてはならない。
それは 完全に 「負けて」 武装解除すること。
自我の鎧を脱ぎ捨てること。
自分の力では もうどうすることもできない
と、降参すること【サレンダー】
自分の無力さを とことん知ること。
このことを
仏の力を借りる 他力 と呼ぶのだと思う。
神への 祈り というのも、 同じだろう。
それは「負ける勇気」でもあり、
「負けるが勝ち」なのだ。
そのとき、
どんな思考も どんな努力・意志の力も、
邪魔者以外の何者でもない。
役に立つのは 「マインドフルネス」 だけだ。
そうすると不思議なことが起こる。
再び 河面から顔をだしたとき、 思考では
パラドックス としか思えないようなこと
【負けるが勝ち】が起こる。
もっとも「暗い」 ときにこそ 「光」 が現れる。
いずれにせよ 思考は便利な道具ではあるが
やはり道具に過ぎず、 本質的なものではない。
(生存のための)道具に過ぎないものを
まるで 神であるかのごとく祭り上げ、
自分の全存在を捧げるのは、 もう止めよう。
思考(知性・理性)より大切なものがある。
考えるな! 感じろ!
「感じる」 ことが、 「生きる」 ことである。
(思考の目的である)生存は 必要条件に過ぎない。
では 幸せの 十分条件はなんだ?
[もう一つの統合]
人間における 二分化された
一方の極は 男性性であり、
もう一方の極は 女性性である。
女性の中にも 男性性があり
男性の中にも 女性性がある。
男性性とは、問題解決能力のことであり、
人類は 思考によってそれを達成してきた。
それが 必要条件である。
女性性とは、共感性(愛:受容)のことであり、
それは ありのままのリアルな感覚であり、
絶対的な(無条件の)幸せ(well being)
の 十分条件である。
男性性とは 考えることであり、
女性性とは 感じることである、
とも言える。
ただし、実は 感じる ことにも二通りある。
① 一つは、リアルな身体が
ありのままに 感じることであり、
② もう一つは、非リアルな心(思考)が
②の感覚を修飾して
二次的に 感じることである。
「女性性」 とは あくまでも ①の感覚であり、
この二つの感覚の区別は とても大切である。
ちなみに ①の感覚が「苦」 であり、
②の感覚が「苦悩」 である。
[参考記事:苦しみとは何か(苦と苦悩)]
従って、 ②の感覚は 「男性性」 なのであり、
この ①と②の 観分け(名色分離智)が
非常に重要である。
そして マインドフルネスとは、
強化され過ぎてしまった男性性を
抑圧されてしまった女性性に、 つまり
考えることから 感じることに シフトし、
それによって この二つのバランスを
回復しようとするトレーニングであり、
さらに
名色分離智をもたらすものでもあるのだ。
これまでの文明の進展(在り方)は、
男性性を強化し 女性性を抑圧する
ことによってなされてきたのであり、
それが 「苦悩」 を生みだした大元であった。
一般的には 男性において男性性が
女性において女性性が
優位である傾向があり、
そのことが 過去の文明社会において
現実の女性が抑圧されてきた理由である。
生存のために 縦の関係を創りだす男性性が
横の関係であろうとする女性性を
支配してきたのである。
だが驚異的なテクノロジーの進展によって
生産力が人類人口を超えて高まりつつあり、
生存のための問題解決能力の必要性の比重が
個人レベルにおいて弱まりつつある現代は、
その回復過程にあると言えるだろう。
この男性性と女性性の統合(タントラ)により
ひとりの人間の中で 必要十分条件が成立し、
それが 「パラドックス」 を生みだしたのだ。
しかし これは個人レベルのことでしかなく、
社会全体で この統合がなされることによって
初めて 真の世界の平和が訪れることだろう。
[ありのままの世界は 無我]
思考のフィルターが外れたありのままの世界とは、
対象・現象・状況・自分に 「善いとか悪い」
といった「意味や価値」 が 思考によって
付与される以前の世界:空のこと。
存在している「世界そのもの」には、
もともと そんなもの(非リアルな属性)はなく、
人間が勝手に創りあげて くっつけただけだ。
自分で思い込んでいた「自分:自我」 とは、
自分が意味を与えて創りあげたものであり、
自我とは
「意味づけられた自分:色」のこと であった。
思考によって意味を与えられた
(意味づけられた 非リアルな)世界が「色」
(その意味を剝ぎ取られた リアルな)世界が「空」
無明とは、本来の(概念化:思考以前の)
世界と自分の本質が「空」であることを
知らないこと。
自分から意味を剥ぎ取った
「何ものでもない自分:空」 が、
自分自身の本質であった。
それが、 「無我」 という言葉の内容だ。
[ありのままの世界に戻る]
「いま・ここ」 に 思考はなく、
「いま・ここ」 は あるがままで 空くうだ。
マインドフルネスのとき 空に留まっている。
それが「色即是空」だ。
「色即是空」 とは、
「善とか悪という 意味に彩られている世界:色は
人間の創りだした 非リアルな幻想世界であり、
本来の リアルな世界には 意味などない:空」
ということ。
そして、 ここでいう「意味(価値)」 とは
二分された 対になる概念の一方の要素のこと。
一方の意味だけが単独で成立することはなく、
かならず 他方の対照を必要とし
それゆえ 相対的であり、
この二つの極を結ぶ軸に沿って
否定/追求や比較/競争・逃走/闘争が発生する。
二分化の片方としての(意味・価値)は
つねに 全体の一部としてしか存在し得ず、
実は「全体として存在している」 という
そのことだけにしか「本当の意味」はない。
ここでいう「本当の意味」とは、
対になる 相対的な概念を持たない
絶対的な「意味そのもの」のこと。
絶対的な意味は 頭で考えるものではなく、
全身で感じとるものだ。
「全体としての存在」は
「絶対的な意味・無条件の価値」を持っている。
だから、存在するもの(being)は
(全体として)そのままでいい・すべてOK【愛】
なのである。
そして、 それを理解することが 幸せなのだ。
「いま・ここ」が 無条件に 愛であり、
幸せなのだ。
あとは、そのことを感じとれるか どうかだ。
[ありのままの世界は 愛]
human being も 愛である。
だから、そのままでいい。
どんな人も 「無条件に」 愛されているのだ。
「愛されている」 ということは、
まったくもってすべてが大丈夫ということ。
あるがままの 「苦」と あるがままの 「欲」に、
思考(想:思い込み)と意志(行:執着)
を介して「わたし」という識を発生させて、
過剰な否定/追求・比較/競争・防衛/攻撃
をすることなく、適切に対処すること、
それが、 「本当に生きる」 という経験だ。
なぜ、行が発生するのか? それは、
世界が空であることを 知らない:無明からだ。
想(思考)が、
空くうを 色しきに、 リアルを 非リアルに、
変換していることを 知らない:無明からだ。
つまり、
変換前の リアルな(空である)世界の本質が
「愛」 であることを 知らない(無明だ)からだ。
あなたに、
この言葉が しっくりと響くだろうか?
この説明が、 腑に落ちて聴こえるだろうか?
(最終改訂:2023年4月20日)