悟りとは なにか
空即是色
空なる世界の わたしの生き方
(どうやって生きるのか?)
:悟りとは、 日々の暮らしの中で
愛する実践を し続けるプロセスである
〔愛する実践〕1
この世界には
問題となる困ったこと(苦悩)は
本来 なにひとつない。
問題があるのではなく、
「わたし」が 否定の「循環」によって
問題:苦悩を創りあげているだけであった。
ただ 対処の必要な状況・出来事(苦)だけが、
つまり 課題:対処すべきことだけが存在する。
それを 「嫌だ・不快だ・やりたくない」
と言って 否定するのでなく、
「今なすべき」 で かつ 「今できる」 ことならば、
それを 淡々と行うだけである。
結果は 関係ない。
イヤだイヤだと思いながら ことをなせば、
ただの課題が 困った問題になってしまう。
(ただの苦が、 困った苦悩になってしまう)
どうせ やらなくてはならないのだ。
それならば 別のやり方があるだろう。
結果は結果として、 (それはそれとして)
自分自身から逃げ出すことなしに、
状況を避けるのでなく 逆に
状況の懐に飛び込むような気持ちで臨む。
そうすれば、問題は元のただの課題に戻る。
状況を支配することなどできないと知り、
状況をコントロールしようとしなければ、
状況をつくっている因縁の流れが見える。
その流れに身を任せれ(無為であれ)ば、
今すべきことが直感的・即興的に分かる。
因縁の流れの一地点である 状況が わたしを動かし、
その経験の中から立ち上がってくるものが
「わたし」だ。
「わたし」とは、縁起ネットワークの中で
状況:因縁によって 生まれてくるものなのだ。
その理解が、
「わたしは 世界の一部であり、
同時に 世界そのものである」
という見方を裏づけてくれる。
生きているんじゃない 生かされてるんだ。
結果も また、
縁起で生じる 「たまたまできた結び目」 だ。
縁起ネットワークという全体との関係から
生じる結果に対しては、
誰も責任を持ち得ない。
だから 結果は気にしなくていい。 そして
「どんな結果であろうと 受け入れる」
覚悟を持つ。
(自分にとって都合のいい)
結果を求めるような 取引きはしない。
他者がどうであれ
自分が適切だと思うこと(自分の課題)を
深刻ではなく 真剣に、 淡々と 行うだけだ。
マインドフルネスがあれば、 それができる。
以上のことを忘れず、これらのことに
いつも 自覚的(マインドフルネス)でいること。
無為とは、 無理に なにかをするのでなく、
自然な(因縁の)流れのなかで
自分の行動を決めることである。
反対に、サンカーラ(行)の力で
無理になにかをする(頑張る)ことを
カルマ:業と呼ぶ。
「カルマ」って、
無理やり 頑張ったり 我慢すること、
つまり なにかを
無理にしたり 無理にしないこと。
いましていることは 無理やり:有為なのか、
無理やりではない:無為のか。
そのことを
いつも 意識している(マインドフルネス)べきだ。
「行動・会話パターンにおける カルマ」とは、
過去の経験によって 条件づけられ
習慣化してしまった
不自然で・非リアルな反射的行動様式のことである。
その(不自然で・非リアルである)ことに
気づいていなくて、 かつ 反射的反応なので、
それ:反射パターンを変えることは とても難しい。
みんな、 頑張るのは 得意だ。
我慢するのも得意だ。
でも、頑張らないのは苦手らしい。
我慢しないで
力を抜き リラックスして
自然に振る舞うのも苦手のようだ。
なにを 頑張り、
なにを 我慢しなくてはならないのか?
頑張ってはダメ・我慢してはダメなときは、
どんなときなのか?
それを観分ける智慧が 名色分離智である。
そして、 サンカーラは 「結果」を求める。
結果を求めるから、 結果に不安があるとき
それを「問題」 だと感じて、 無理をする。
そして そのカルマが新たな問題を創りだし、
問題が「循環」する。
無理をすると、忙しくなる。
忙しいと、 心が 亡ほろぶ。
「忙」という漢字を よく見てみよう。
「りっしんべん」 の心が 「亡なくなる」
という 表意文字ではないか...
忙しいと、心だけでなく 身体も亡ぶ。
それで病気になる人たちが 大勢いる。
だから
無理すると 心も身体も亡んでしまう。
ものごとは 「思い通り」 にいかない。
それが「当たり前」だ。
思い通りにいかなくても、
やらなくてはならないときは あるし、
思い通りにいかなくても、反対に
やりたいときだって ある。
それに 従えばいい。
自分の 「ねばならない思いの通り」 でなく、
因縁の流れと 自分の素直な気持ちに従い、
結果は気にしないで 過程を大切にしよう。
結果を 気にしなければ、
「問題」 はなくなるだろう。
結果が 気にならなければ、
無理に 何かをすることもなくなるだろう。
やらなくてもいい こと・ときがある。
それは 本当に
やらなくてはならないこと・ときなのか?
やらなくてもいいことを やっている、
そんなことはないか?
いつも 自分に問いかけてみよう。
サンカーラが存在しなければ、
比較・競争や防衛・攻撃がなくなり、
コミニュケーションも容易になる。
コミニュケーションは、 本心を伝えるだけの
誠実でシンプルなものになる。
無意識であろうと (自分の方が優位であるという)
結果を求めて 状況をコントロールしよう
とするコミニュケーションでは、
思い込みに過ぎない
自分の優位性を証明する概念や考え方を
ひたすら繰り返すという対応になりやすい。
その過程で、結果的に(無意識的に)
他人や自分に嘘をついてしまうこともある。
または 積極的に 嘘をついて、
自分に都合のいい物語を創りあげてしまう
こともあるだろう。
サンカーラがなければ、
今の自分の 正直な(自然な)気持ちや
考えを話すだけでいい。
真の「対話」とは、
「横の関係」で 正直に会話することである。
そして 正しさの追求にこだわらず、 さらに
自分の視点だけでなく 他者の視点にも配慮し、
人間関係の中で 誠実であれば、
(大きく見れば)状況は 自然に流れ、
自分の望んだものではないかも知れないが、
適切な結果が かならず 後から ついてくる。
相手の発言内容が間違っていると思っても、
それを 頭ごなしに否定してはいけない。
なぜ 自分が それに同意できないのか、
その理由を 感情抜きに穏やかに説明する。
反射的に「それは違う」 と言うのでなく、
「こうなんじゃない?」 と問いかける。
それだけで
会話に伴う多くの対立を防ぐことができる。
誰かとの関係が上手くいっていないとき、
相手が 自分を非難したり 攻撃するとき、
その相手の苦しみを観ることができるか?
「自分だけが 苦しんでいる」のではない、
「相手も 苦しんでいる」のだと
気づくことができるか?
そして、その気づきを
受け入れることができるか?
相手が 感情的になると、それを受けて
(反射的に)自分も 感情的になりやすい。
そのことを いつも自覚(マインドフルネス)し、
相手が感情的であるときにこそ、
自分の方は 冷静でなくてはならない。
対話するとき、
自分が話している内容に 意識的であり、
相手が何を言い 何を言っていないのか
についても 意識的に聴くこと。
自分の伝えたいことを キチンと話すには、
意識して ゆっくりと穏やかに話しかける。
そこに 恐れや 怒りが ないか、
防衛したり 攻撃したり していないか、
そのことに
いつも意識的:マインドフルネスであること。
意識的な 聴き方と 話し方を、 実践する。
反射的会話パターンは消える。
本当の「横の人間関係」のためには
良好なコミニュケーションが 必須であり、
誠実で かつ マインドフルネスでなければ
良好なコミュニケーション:対話はあり得ず、
良好なコミュニケーションが なければ
本当の人間関係【横の関係】は 生まれない。
オープンな 真の対話は、
すべての人間関係の基盤である。
心を開いて
相手をまるごと受け入れながら、 話しあう。
話の内容も、
閉じて縮こまり 固まってしまわぬようにする。
そんなオープンな対話から
真の人間関係の在り方が 生まれるだろう。
人生で 何かを行うとき、
サンカーラに基づいて 無理に行うのか、
それとも
因縁の流れの中で 自然に対応するのか。
どんなときに どうするのか?
生存:有のための必要条件を満たすためには
無理しなくてはならない(ときもある)
でも もうすでに満たされているなら、
そのあとは 自然に対応すればいい。
では、自然な対応だけで それ(有の条件)を
満たすことが できるのだろうか?
一般的には 無理しない 自然な対応だけで
食べて 生きていくのは、とても難しい。
だから、 想と行(サンカーラ)と識が生まれた。
サンカーラは、 生存(必要条件)のために
人間が創りあげた 機能としての心 である。
「幸せ」 のための
「必要条件」 を満たすためには 無理し、
「十分条件」 を満たすためには 無理しない。
それ故に、
「十分条件のために
必要条件を無視してはいけない」
ことも 肝に銘じておき、
いつも、 「必要十分条件」 を意識すること。
「色即是空即是色」 という造語は、
この 必要十分条件を満たすこと でもある。
そして たんに 「何を」 行なったかではなく、
誰が どんな状況で経験して、それを
「どう」感じ・「どう」味わったのか。
それが 人生のすべてであり、
それ以外の人生など 存在しない。
人生とは その積み重ねである。
実に シンプルだ。
それに対する意味づけは、なんでもアリだ。
意味は どうとでもなる。
そもそも、 意味に変換する必要はない。
だから、 意味づけに捉われることもない。
好きなようにすればいいのだ。
人生の途上で 仮に採用し、
条件づけられ・習慣化してしまった価値観
に縛られる必要など、どこにもない。
意味も価値も 本来は空くうであり【色即是空】
いくらでも変更可能なものだ。
ただダンスを踊るように、
ピクニックを楽しむように、
生きることを経験すればいい。
踊っているときは 踊ることそれ自体を味わい、
ピクニックでは
用意すること・歩くこと・食事すること
それ自体を楽しめばいい。
子どものころ みんな、
遊びが大好きだったように…
それ以外の目的も意味も求めない、 いらない。
「未来」に目的を設定し、
「いま・ここ」を 手段と化してはいけない。
楽しいことも、 そして ときには辛いことも、
それが 「いのちの神秘」そのものである
ことが分かれば、
それ自体を 味わい 面白がることができる。
楽しいことだけを 楽しむのでなく、
楽しいことも 辛いことも 同じように楽しむ。
味わい面白がって 遊ぶようにイキイキと生きる。
ワクワクできるように 生きる。
辛いことも ワクワクに変える。
必要条件を満たすためであろうと なかろうと、
そうする(イキイキと生きる)ことは 可能だ。
「本当に生きる」とは そのような
「生きているという実感」 を伴う生き方であり、
愛する喜びを知って それを実践しながら
自分らしい在り方(being)によって
躍動感を感じながら ビビッドに生きることだ。
それが 「空即是色」 という 「生き方」 である。
このワクワクや イキイキという「感覚」 は、
貪や瞋という 行に伴う 「感情」 とは異なる
リアルな 身体レベルの 「受感覚」 である。
とすれば、
生きるという経験が誰に対しても平等である
ことが分かるだろう。
才能・能力など 与えられたものが 何であろうと、
それを使って どのように生きるのか
ということの方が大切なのである。
何が 与えられているのかではなく、
それを どのように使うのか。
何を成し遂げたのかという
業績・結果(doing)ではなく、
どのように関わるのかという
生きる態度・生き方・過程(being)の方
が大事だということだ。
関係性(存在の在り方)だけが 問われている。
そのような、
人生への参加の仕方が 問われているのだ。
誰もが
その人なりに最善を尽くして生きている。
健常者と呼ばれる人たちにとって、
コンビニで買い物をすることは
取るに足りないことかも知れないが、
あるハンディキャップを持った人たちにとって、
お金を払って何かを手に入れるという経験は
生きている奇跡そのものかも知れない。
平凡で 退屈そうに見えることの中に、
「いのちの驚異」を感じることができるか?
特別なイベントだけが大事で、
普段の何気なにげない日常は
ただの背景に過ぎない つまらないものか?
マインドフルであれば、
その 何気ない日常が
イキイキとした 光り輝くものに 一変する。
それを見て、 知って、 ビックリするだろう。
一般的には
芸術的創造や やり甲斐のある仕事の達成の
過程での経験に意味がある と思われている。
それは それでいい。 それは それでいいが、
それよりも深く重要なのは、
すべての人に平等に与えられている
人間関係における経験である
と言えないだろうか。
つまりは 人生という旅の中で、
どのように自分と他者を愛する(慈悲を生きる)
のか ということの方が 大切ではないのか?
愛することに、 もっと意識的であるべきだ。
「愛:慈悲:思いやり」とは、
自分と他者の 存在そのもの:beingに関心を持ち、
神秘なる存在そのものを受け入れること。
そして その「存在」のために、
世話をやく(花に水をやるようにケアする)ことである。
「愛:慈悲:思いやり」とは、
存在の在り方としての
自他のストーリー(エゴ)に関心を向け、
その違いを認めた上で、
「そのままで(ありのままで)いいんだ、
大丈夫だ、OKだ、もう十分なんだ」 と
心の底から納得し、自分と他者に向かって
「いまの自分(エゴ)のままでいいんだ」
と言ってあげることである。
それが 自己受容 であり、
他者信頼(他者受容)でもある。
その「受容」ができて、 はじめて 本当の
(承認欲求でない)他者貢献が可能になる。
受容の証あかしは 自然な微笑ほほえみである。
微笑みのあるところには
「横の関係」が成り立っている。
そうやって、
あなたとわたしの影(ダメな・嫌な部分)
ごと受け入れて、互いの幸せを願う【慈】
その時は そうしかできなかった、
その時も最善をつくしてそうしたハズだと、
過去も受け入れる。
愛とは 受容のことであり、
関心を持ちつつも 否定も追求もせず、
あるがままを ただ認める態度である。
自我のそのまま全部を 愛して 受け入れ、
はじめて 自我を超えることができる。
その上で可能なら「物語」の中に 一緒に入り、
「物語」をサポートするのではなく
(ときには それも必要だが)
その中で 真実を生きることに目覚めるように、
苦しみがなくなりますようにと、
手を貸す【悲】
それが、ほんとうの他者貢献だ。
誰もが目覚め・悟れることを信じていれば、
それが可能だ。
自分をケアしつつ、同時に他者も支援する。
自分と他者を 等価に思いやる。
自分以外のみんなを愛していても、
自己犠牲によって
自分自身を そこから排除しているなら、
それは 自己中心性の現われであり、
承認欲求に他ならない。
愛と 自己犠牲は 違う。 自己犠牲では、
他者の幸せを心から喜ぶ【喜】ことができない。
繰り返す、
自己犠牲は 承認欲求が形を変えたものであり、
それもまた 自己中心性の現れなのだ。
他者が私に対してどうであったか
(他者の課題)に関わりなく、
自分自身のために(自分の課題として)
他者に良きことをする。
取引きは しない。 Give & Take ではない。
結果は 求めない。 Give と Give だけある。
他人の視線も気にしない【捨】
捨とは、「課題の分離」のことである。
気づきの瞑想を実践することで
自分の中に スペースができると、
それらが すべて 可能になる。
そして いつも、
「慈・悲・喜・捨」を 忘れないでいる。
忘れても、 すぐに思いだす。 それが
「良好な人間関係」に欠かせないことだ。
「愛:慈悲喜捨」は、幸せの 十分条件だ。
その上で、一緒にダンスする。
自分が好ましいと感じる 特別な誰かだけを(と)
愛する(ダンスする)のではなく、
つまり 条件つきではなく すべての人とダンスする。
ただ あるがままに、
わたしと世界の すべてを愛する。
そのとき 人間関係は喜びに満たされ、
そして 人間関係だけに留まらず
世界との関係が、調和の中に統一される。
人生の主語が
「わたし」から「わたしたち」に、
そして「すべて」に変わる。
人生とは
関係(つながり・interbeing・縁)のことである。
あなたもわたしも、生きとし生けるものはすべて、
生老病死の苦しみをともにする仲間である。
同じエゴを持つ「仲間」である。
そして同時に、わたしたちは
分離され 区別されたものではなく、
同じ一つの輝かしい本質を持っているのだ
と気づけば、愛することは容易である。
特別な人など、どこにもいない。
わたしたちは 皆、
すべて等しく 普通の人である。
他者の中に 自分自身を見ることができるか?
他者が考えることは、わたしも考えられる。
他者が感じることを、わたしも感じられる。
わたしは 他者を理解できる。 それは、
もともと 他者とわたしが同じ だからだ。
わたしたちには 共通の基盤(座)がある。
では、誰かの嫌なところを見たとき、
それと同じ不快なものが自分の中にもある
ことを、素直に認めることができるか?
そうやって、
他者とわたしが同じであることが
心底から理解できれば、
他者とわたしの分離(の感覚)は消失し、
比較・競争は なくなる。
防御と攻撃も 不要になるだろう。
仲間(味方)しかいないのだから...
ならば、
「他者:世界はわたしであり、
すべては ひとつである」
と言い切ってもいいのではないか?
世界とは「わたし」の投影である。
したがって、
わたしの中の分離(の感覚)が消失すれば、
世界の中の分離も消え失せ、
すべてはひとつになるだろう。
思いやることは、
自我の鎧を脱ぎ捨てること、 そして
「わたしの物語」を手放すことにつながる。
鎧を着たままでは、
真の人間関係を築くことはできないのだから…
人間関係もまた 自分自身の投影であり、
そこでこそ 目覚めの真価が問われる。
もはや、傷つくことを恐れて
人間関係を避けることはできないだろう。
わたしたちは 皆、本質において 同じで
【色即是空・普遍性】
現象においては 様々に異なっている。
【空即是色・多様性】
現象(要素)としては 異なっているが、
本質(座)は 同じである。
与えられたものや 経験・状況は
それぞれに すべて特異でありながら、
同じ本質を持ったもの同士が
多様性を携えて一緒にダンスするのである。
わたしたちは、違ってはいるが対等である。
それは 比較による「同等」ではなく、
比較のない「対等」である。
それを アドラーは 「横の関係」と呼んだ。
横の関係であれば、
ちゃんと対話することができるし、
「愛:思いやり」 を 実践することも 容易だろう。
そうしていれば、 (みんな仲間なのだから)
アドラーのいう「共同体感覚」が手に入る。