悟りとは なにか
空即是色
空なる世界の わたしの生き方
(どうやって生きるのか?)
:悟りとは、 日々の暮らしの中で
愛する実践を し続けるプロセスである
〔愛する実践〕2
苦悩(の経験)のみが、
真実(存在の価値)を教えてくれる。
何気ない普通の日々(日常)を
輝かしい いのちの驚異に変え、
いのちの奇跡に 気づかせてくれる。
そのおかげで
イキイキした世界を取り戻し、
「生きているという実感」 を持ちながら
生きていくことができるようになる。
そのとき、苦しみは恩寵に変わる。
ただし、恩寵という結果を求めて
苦しみを意図的に選択してはならない。
それは、意味のない「苦行」に過ぎない。
そして 感謝の言葉の意味を、
より深く味わう ことができるようになる。
「ありがとう(在り難う)」とは、
存在の在り難さ・「奇跡」への
深い想いの表明である。
ありがたさを知れば、 謙虚になれるだろう。
「生かされて」いる、 そして 「生きて」いく んだ。
存在している(being)というそのこと自体が、
どんなに素晴らしいものか。
わたしが いまここに生きているそのことが、
どんなに素晴らしく かけがえのないものか。
いのち・地球・わたし、
すべて 気の遠くなるような奇跡だ!
苦しんだからこそ ここまで来れたんだ。
それが分かったんだ。
でも、
もう苦しまなくていい ことに、
もう頑張らなくてもいいことに、
気づいた。
だから 苦しみ(苦悩)を手放そう。
苦しみよ、ありがとう。
自我よ、ありがとう。
本当に よくやってくれた。
もういい、闘わなくていい、
無理しないでいい。
ご苦労さまでした m(_ _)m
やっと ここに たどり着いたんだ . . .
自我が いつも悪いわけではないし、
自我には 自我の役割がある。
目覚めたとしても、 わたしたちは
自我なしではやっていけない。
だから、エゴ自我を 否定し
滅尽しようとしてはいけない。
エゴは 仮なるものであり 機能に過ぎない
ということを理解した上で、
エゴと仲良くやっていく。
ただ、もはや
エゴに しがみつくことができないことを知る。
そして、エゴの中だけに生きるのではなく、
エゴをなくすのでもなく、
エゴを抱えたまま
エゴを超える 「全体」 の中に生きる。
自我を確立した上で【戒】
しかも 自我に囚われず【定】
その自我を超えて生きていく【慧】
のである。
「戒」によって 自我を確立し、
「定」によって さらにその自我を超越すれば、
「慧」によって 新しい生き方が手に入る。
三学(戒・定・慧)
:「三つの学び」とは、このことである。
「戒」は 必要条件のため
「定」は 十分条件のため
「慧」は 必要十分条件のため のものである。
自我とは 社会を生き延びるための機能であり、
戒は 健全で適正な
「自我」の確立を支援するものである。
まだ
「適正な自我」が確立されていない場合は、
戒が それをサポートしてくれる。
だから 大丈夫だ。
今は まだ不十分な「自我」でも、
かならず成長し、
適正なものに変わる 可能性を秘めている。
それを信じていれば 戒が手を貸してくれる。
従って 戒もまた手段に過ぎないのだから、
いつまでも それに囚われる必要はない。
自我を確立したあとは、
戒(というルール)を手放してもいいのだ。
それが 自由というものだ。
いつまでも 戒にしがみついているのは、
自分自身(自我)に自信がないからだろう。
自立して 社会を生き抜いていく方法が
ハッキリと分かったなら、
もう 戒など必要ない。
自我の確立後 戒は自分のものとなるので、
「与えられる戒」 に拘る必要はなくなる。
「慧」 を手にしたら
「型のない定」 を自在に使いこなせるので、
「型のある定」 も手放せるようになる。
「慧」 が現れたなら、 「戒」も「定」も 自在だ。
「自我」は、本来
集中モードとしての 「想」 を駆使して
問題を解決しようとする
脳の中の複合体:想行識に対する呼び名であり、
社会生活に必須の機能なのだ。
そして、想に要請されて生じた この自我を
適正なレベルに維持することが
最も重要なこと なのだ。
・機能が不十分で すぐに感情と一体化し
不安や後悔に陥りやすい「未熟な自我」 や、
・機能の本来の目的を見失って
「意味」 に 過剰に取り憑かれ どこまでも肥大し、
承認欲求の完璧な充足に捉われてしまう
「過剰な自我」 が、
苦しみ(苦悩)を抱えてしまう。
・だが「適正な自我」 は、 苦悩と無縁である。
未熟な自我は「十二縁起の愛」と、
過剰な自我は「十二縁起の取」と、
結びつきやすい。
* 仏教的語法では、「愛」 は 「十二縁起の愛」のことであり、
良くない意味で使われる。
仏教で 普通の意味の愛に相当する言葉は「慈悲」 である。
適正な自我を保つには、
「中道」 という 絶妙なバランスが求められる。
不十分な自我は 「戒」によって、
過剰な自我は 「定:マインドフルネス」 によって
「適正な自我」 に導かれ、
そのあとに 「智慧」が現れる。
「適正な自我」 は 幸せの必要条件だ。
そして、 思考によって
「良い」 と判定されて 受容された
「表のわたし」 の 影に隠れてしまった、
「悪い」 と判定されて 否定/抑圧された
「負のわたし」 に 光をあてる
(無視しないで関心を寄せ、意識化する)
ことによって、
その二つの対立を解消できれば、
「分離した自我」が統合され、
完全な(悪を含む すべての要素から成る)自我になる。
これが「真の適正な自我」の確立である。
この 「真の自我の確立」 が、 さらに 以下の
「真のわたし」 と 「真の実在」 の理解を導く。
「真のわたし」は 心身一如という存在であり、
「真の自我(という心)」 だけでなく、
身体と それらが存在する 「基盤:座 」 を
統合したもの、
つまり、 「要素(心=自我 と体)」 と、 さらに
それら(要素)を認識する 「本質(座)」 の
両方を 備えたものである。
そして 「真の実在」とは、
その 「真のわたし」 と 外部の存在のすべて
を含めたものだ。
外部の存在とは 社会や自然環境のことだが、
それは わたしの生存に必須の条件であり、
「わたし」と つねに相互依存し、
因縁の絆:縁起ネットワークで 強固に結ばれている。
この「真の実在」は、
「自我」 や 「わたし」を超えた存在であり、
「大いなるもの」と呼ばれる。
「真の(適正な)自我」の 確立が、
「真の実在」の理解を 可能にする。
「真の実在」は 全体のことであり、
それは ひとつであり、
ワンネスとも呼ばれる。
【梵我一如】
これが 「真の共同体」 であり、 国家のような
メンバーが限定された 狭い共同体ではない。
これこそが、究極にして 真なる
「共同体意識 :感覚」 をもたらすものであり、
アドラーが最後にたどり着いた地点である。
「真の実在」 を 身をもって確信することが
幸せの 必要十分条件だ。
必要十分条件が満たされたとき
そこに立ち現れるものは、 たんに
必要条件と 十分条件を
足しあわせたもの ではない。
それは、
対になる対極の概念を保持したままの
二元の極の一方の「幸せ」ではなく、
そのような「幸せ」を超越したものであり、
あるがままの・絶対的な「幸せ」としての
非二元の「愛」である。
このままでよかったんだ、
ありのままでいいんだ という、
絶対的 かつ 無条件に
「受け入れられているんだ」
そして、 「自分は ひとりじゃないんだ」
という感覚のことである。
それを感じたとき、
「なーんだ」 って 吹きだしてしまった。
思わず、 笑ってしまった。
そのくらい、 当たり前のことであった。
その感覚(愛)を持ってさえいれば、
自由に・流れるように・遊ぶように
生きて、死んでいける。
必要十分条件が満たされて、 初めて
「色即是空」という 真理を受け入れ、
しがみついていたものを手放す余裕ができる。
逆説的ではあるが、
「自分たちは ひとりではない」 という感覚は
孤独を突き詰めた その先に存在している。
このようにして「探求の循環」が完成し、
愛を携えて
わたしたちは 再び 「世間」 に戻ってくる。
【空から 色に 舞い戻る:空即是色:帰還】
わたしたちの 生きる(そして 死ぬ)場所は、
ここ(世間:此岸)より他には ない。
思考のフィルターが外れた 「ありのままの世界」は、
もしも言葉で表現するなら 喜びと安らぎに包まれた
平穏な世界であるが、同時に
悲しくて切ない 虚しい世界でもある。
言葉の世界は相対的であり、
対になる概念で つねに相殺される。
したがって、
ありのままの真実である「空くうの世界」 を
「至福」という言葉だけで表現するなら、
それは 誤解を招くことになる。
「目覚めの一瞥」 のような 強烈な体験で感得
した「空の世界」 を 「至福」 と感じるのは、
たんに それを経験する直前のネガティブな
状態とのギャップの大きさと
変化の急激さ によるものであろう。
「空」は 本来 中道・ニュートラルで、
ポジ / ネガ・是 / 非・優 / 劣などの
対になる意味を持たない、
裏 / 表のない・対立しない・二分されない
相対的でない、 「非二元」の世界である。
もちろん「空」は、
「苦悩」を内包した「自我」というシステム
が崩れ去った世界であるから、
苦悩が存在しないという意味で、
たしかに 「至福」であると言えるが...
分離の消失【空】を一瞬体感する
一瞥(一時的)体験は、
真理を その目で目撃したという意味で
大変貴重な体験であろう。
それは
進むべき方向を しっかりと指し示してくれる
導きの星となりうる。
しかし、
真理【空】の認識が 人生の隅々にまで浸透し、
日常生活【色】に 十分反映されないうちは、
決して その歩みを止めてはならない。
そして 目覚めの 日常への浸透は、
生きている限り 永遠に続く過程である。
「目覚めた、ここがゴール、 これで終わり」
と思った瞬間に、
その人の人生は 本当に終わってしまう。
終わりのない 変化し続ける歩みの
その一瞬一瞬の中に生きることが、
「本当に生きる」 ということだ 【無常を生きる】
したがって、真実の 「生」 に終わりはない。
真理を生きる 「歩み」 を止めてはいけない。
なぜ、無理してしまうのか?
なぜ、追求/否定・比較/競争・防衛/攻撃
という 「サンカーラ」 が発生するのか?
なぜ、頑張ってしまうのか?
なぜ 行でない 本当の欲求・リアルな身体が
求めていることを無視してしまうのか?
なぜ、受け入れられないのか?
なぜ、愛せないのか?
それは「正しい」という
(だから 〜するべき・〜であるべき という)
分離し・固定された 思い込みである価値観
のためである。
その 正しさ ゆえに、
追求/否定し・比較/競争し・防衛/攻撃して、
無理してしまい、愛を忘れてしまう。
「正しさ」を 追求し、
「正しさ」を 比較し、
「正しさ」を 守ろうとしてしまう。
「正しい/間違っている」 という 「想」による
判断ジャッジにしたがって 無理してしまい、
愛を忘れる。
間違いならば、 受け入れられないだろう。
正しくなければ、 愛せないだろう。
わたしたちが執着しているものは、
「正しさ」という「思い込み」 であり、
しがみついていたものは、「正義」 だった。
「〜すべきこと」は 「正しいこと」であり、
「〜であるべきもの」は 「正しいもの」だった。
なぜ、「〜ねばならない」のか?
それは、「正しい」からであり、
「正しくあらねばならない」からである。
自分は 「正しい」 からであり、
正しい 「何ものか」 であらねばならない
からである。
わたしたちの 「愛」 を阻害していたものは、
「正しさ」という 意味・価値であり、
それは 思い込みであったのだ。
その「正しさ」は 非リアルなものであり、
それが 幻想に過ぎないことが
心の底から理解できたなら、
「愛する」ことは 簡単だ。
それが 真理なのだ。
「正義」 とは 社会で生きるための
仮の 正しさであり、
それは 社会の変化ともに変わる
無常 なものなのだ。
「正しさ」 を 「色」 と呼び、
「幻想」 であること を 「空」 と呼ぶ。
「正しさ」は 「幻想」であったのだ。
【色即是空】
自分は 正しい:立派な 「何ものか」 ではなく、
自分は
ただの人間で、ただの普通の人であった。
では「正しさ」 という拠り所を失ったあと、
わたしたちは 一体どうすればいいのか?
そのためには、
考えることから 感じること:マインドフルネスへ
シフトすればいい。
ありのままの世界の驚異と瑞々しさを感じて、
イキイキとした「生きているんだ」 という
実感を もう一度 取り戻すことだ。
新しい拠り所は 根源的な自分自身(座)
それによって であり、
「愛する」 人生を選択することだ。
もっとも大切なもの(愛)を知れば、
「正しさ」 を拠り所とする必要はなくなる。
真理とはなにか【真理とは色即是空】を理解する
ことを「目覚め」と呼ぶなら、
目覚めは 人生のゴールではなく
「本当の人生」の スタートである。
目覚めた後 どう生きる(実践する)のか、
【空即是色:空を生きる:空に裏づけられた色をどう生きるのか】
それを「悟り」と呼ぶべきだろう。
目覚めにより、
「あるがまま」の受容が
(理解として)可能になる。
すべてがOKと知る。
しかし、目覚めは 悟りではない。
実際の人生(日常生活)とどう関わるのか、
(実践として)どう受容していくのか。
「悟り」とは そのプロセスのことである。
「悟り」は 理解ではなく 「実践」であり、
永遠に続く 内なる自己変革のことである。
目覚めたのちの生き方は
「遊び」 のようなものだと言われる。
それは まるで 遊ぶがごとく、
そして 気負わず 肩肘はらず、 しかも
結果を気にしないで 淡々と、 しかし
なおかつ 真剣に 「いまここ」 を生きる、
というような在り方(being)であろう。
やりたいように やればいい。
「どう」 したい のか、 「どう」 在りたい のか、
「根源的な自分:座 の本心:本当の欲求」 は
マインドフルネスが 「愛だ」 と教えてくれる。
「愛」とは 重い槍おもいやりのことでもある。
変換間違いではない(遊んでみただけだ)
「重い槍」が自分の心を射抜いたとき
古い自分は 死に、
(したいようにできる) 新しい自分が 生まれる。
新しい自分は、
横の関係 の在り方(being)で 関わり、
遊ぶように 人生を生きることができる。
【リーラ】
「悟り」 を 生涯の主目標として修行し目覚め、
そして それを深めた人、
または 突然に
強烈で不可逆的な目覚めを経験した人は、
「スピリチュアル・ティーチャー」 となる
道を選ぶことが多いようである。
そして、「悟りを伝える」 ことが
彼らの 「悟った生き方」 となるが、
その 「伝え方」 は 様々である。
一方、 悟りなど必要としない人々もいる。
目覚めや悟りという言葉を使わず、
特別な修行をしなくとも、
人生にとって もっとも大切なものは 何かと
誠実に追求し、それを理解し、
「普通に暮らしている」 人たちが 大勢いる。
ささやかな日常を
精いっぱい、力の限りをつくして
生きている人たちが 大勢いる。
その「生き方」も 様々である。
凡夫など呼んで 他者を見下し、
自らを卑下してはいけない。
平凡な日常の中に 悟りがある。
平凡な日常の中でこそ
マインドフルネスを実践すべきなんだ。
自分が悟ると、
周りはすでに悟っていたことに気づく。
私が 苦しんでいたのは、
少しだけ 不十分な自我と、
沢山の 過剰な自我を 持っていたからだ。
だが、
適正な自我のレベルで暮らしている人が
大勢いる。
凡夫なら、状況によっては、
不十分な自我の部分が顕あらわになったり
自我が過剰になって、
苦しむことくらい あるかも知れない。
でも マインドフルネスがあれば、
すぐに 元の 適正なレベルに戻せるだろう。
それで いいじゃないか、 そんなもんだ。
目覚めても、 凡夫であることに変わりない。
凡夫のままでいいじゃないか。
凡夫として、 悟りの人生を生きよう。
できるさ。
「悟り」を
なにか 特別なものとすべきではないし、
それは 声高に叫ぶものでもない。
難しいことは 何もなく、
本当はシンプルなこと。
(理屈でわかっている)当たり前のことを
(骨身にしみて)ただ 当たり前だと認め、
それを 実践するだけのことである。
「悟り」を、
承認欲求の手段と化してはならない。
たかが人生、されど人生。
『しょせん すべては小さなこと。
小さなことに くよくよするな』
〈カールソン〉
しかし その小さなことの中に、
どれだけの幸せを 感じることができるか?
世界と人生に 意味(正しさ)などないが、
人間は 意味なしでは 生きていけない。
でも 実は 人生の「意味」と思っていたものは、
「生きている という実感」 のことだっだのだ。
人間にとって真実とはなにか?
リアルか、非リアルか?
どちらが、人間の真実なのか?
あるがまま ―
『痛ければ痛いまま、不安なら不安のまま、
ジーッと受けとめて、
熱いお湯に浸かったような気持ちで、
しかも 逃げ出さず、
目の前の なすべきことに 打ちこむ』
〈ある心療内科医〉
メメント・モリ
「死」を、 忘れることなかれ。
そして
「生」を、「生かされている」 ことを、
忘れることなかれ。
本当のところ、悟った人はいないし、
悟っていない人もいない。
わたしだけが 悟っていて
他の人が 悟っていない、
などということもあり得ない。
特別な誰かなど どこにもいないし、
すべての人が特別である。
存在している(存在を許されて生かされている)
ということは、
すでに 愛されている
受容されているということだ。
だから、愛する・愛せない、
受容する・受容できないというのは
可笑おかしなこと。
「わたし」が 受容する前に、
すべてが すでに もう 受容されている。
理由なんてなしに…
「意味:正しさは幻想である」 と知れば、
そのことが分かるだろう。
わたしたちは、何に 執着し、
何を 手放すことができないのか?
執着し、
手放すことのできなかったものは
「正しさ」という思い込み である。
「愛」 を阻んでいたものは 「思い込み」であり、
それに執着しているのが「サンカーラ」だった。
気づいていようが いまいが、
すでにもう 受け入れられている。
生かされている。
それに気づくか、気づかないか。
自分が すでに、全面的・理由なしに
受容(愛)されていたことに 気づけば、
他者を愛することも容易だ。
そして 幸せになるためには、
具体的な誰かである すぐ側そばにいる
身近な人を「愛する」 と 「決意」 し、
実践すればいい。
それだけのことだ。
愛するための条件は 要らない。
幸せになるためには、 そうなると決意すること、
愛するためにも、 そうすると決意すること。
気づけば、
決意のための 「勇気」 は もう要らなくなる。
その気づきが「目覚め」であり、気づくと
世界がシンプルであることが分かる。
あとは 実践あるのみ。
シンプルに 好きなように生きればいい。
「あるがまま」で、そのままでよかった。
逃げも 隠れもせず、
初めから ずーっとそうだった。
真理の立場から言えば、
悟っていようが いまいが
どちらでも 構わない。
苦悩する人生も アリだろう。
究極のところ、 すべてOKだ。
L e t I t B e !
ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい
はらそう ぎゃてい ぼじそわか