わたしは悪くない…
間違っていない……
わたしは正しい……
んな訳、ないだろー!
悪いに決まってるだろー
どんな人間だって。
夢の中で叫んで、目が覚めた
ちょっと過激ですが、
これが「悪人正機」
自分の中にある「悪」に気づいた人が
自分の中の「悪」を認めた人だけが
「すでに すべて許されていた」ことに気づく
もちろん、承認欲求を満たして
周りから「いい人」と思われている人も
許されていたことに気づかないままでも
往生できる
彼らは 頑張ったのだから (と真宗は説く。
そこが 真宗の優しいところ、
ファンの多い理由だと思う。
いずれにしても 皆んな「悟って」いる
のだから、それでいい)
でも 様々な因縁により
頑張ることのできなかった人も
やはり往生できるのではないか?
許されていることに気づいたなら
「いい人」よりも
「いい人をやめた人」の方が
往生できるのではないか?
「いい人」であり続けることができずに
「生きる」ために「悪いやつ」
になってしまった人も、
いや「悪」を選ばざるを得ないほど
「苦しん」だ人だからこそ、
往生できるのではないか?
「悪人正機」って、
そういうことを言っている ように思える。
善人は往生できず 悪人しか往生できない、
とは言わない。
善人でも 往生できるのだから
悪人は もっと簡単だろう、
という言い方をするのが
真宗のウマイところか。
いや、スゴイところか。
「嫌われる勇気」を持て、
などとは決して言わない。
たしかに、
それはそれでいい ような気もする。
わたしたちは、
他の「いのち」を食べて生きている。
それは「いのち」の
ネットワーク(因縁:食物連鎖)
そのものの在り方であるが、
同時に すべての「いのち」の 根源的な悪
であるとも言える。
まず そこを認めよう。
「エサ」を食べる。
「エサ」を探して苦労する。
または
「エサ」をめぐって争う。
つまり
社会で経済的に自立することが
生きることに必然的に伴う「苦」であり、
「悪」である。
わたしたちは
「いのち」 を 「頂いている」が、
それは「悪」ではないのか?
「悪い」と思うから、
「頂いた」後に「ご馳走さま」と言って
「いのちに感謝」するのではないか?
どんな生きものも
この「苦」から逃れられないのだが、
同時に やっぱり
苦労はしたくない(苦を否定したい逃避的欲求)
とも思っている。
この 「苦」 を避けたいという欲求の
要請を受けて 人類は、
言葉・概念・観念・論理・理論・知識など
【想】の集合である 「知の体系」 を生みだし、
リアルな 「苦」 に対処するために
非リアルなもの :思考を利用することにした。
つまり 「智恵の木の実」を食べてしまった。
そのことによってリアルな「苦」に
対処可能となった人類は 地に満ちたが、
もう 一方では それが原因となって
非リアルな 「苦悩」 と 「悪」 も生みだされ、
楽園からは追放されてしまった。
「智恵の実」を食べた生きものは
人間だけなので、
人間にとっての原罪とは、 このことだろう。
この罪(無明)ゆえに、
人間は 智慧(思考:想)と同時に
苦悩という 「罰」 を抱え込むことになった。
地に満ちた 数知れないほど大勢の人類は、
分業という超巨大なネットワークを使って
地球環境に介入している。
したがって われわれは 一人残らず、
地球環境の破壊に間接的に手を貸している
ということになる。
その巨大なネットワークの中で また、
知らず知らずのうちに
他者を搾取してもいる。
(または 搾取されている)
そんな風に考えれば、われわれは
まったくの 「悪」そのものではないか?
だから、まず そこを認めよう。
もちろん、
「善人」 の 「善」 も 「悪人」 の 「悪」 も、 実は
人間が勝手に創りだした
非リアルな妄想(マーヤー)に過ぎない。
それは 実体を伴わない妄想に過ぎない
ストーリーではあるが、
わたしたちは
ストーリーなしで生きていくことができない。
(善と悪がなければ、 物語りは成立しない)
自分の中の「悪」を認めて、
そのことに気づいた人だけが、
「悪」を超えることができる。
「悪」は 妄想に過ぎないし、
「善」も また同じだと理解できる。
そうやって「空」の理解に たどり着く。
だから
悪人だけが、色即是空を理解できる。
わたしたちは、
「わたしのストーリー」に
完全に気づいた【目覚めた】なら、
二度と
その わたしのストーリーに 戻ることはない。
しかし
この世に 色として存在して生きている限り、
ストーリーなしで生きることはできない。
だから
「色」 は 「空」だと知った上で、
もう一度 その 「色」を生きるのだ。
それが
「囚われることなく生きる」ことだ。
物語りに はまり込むことなく、
物語り(ストーリー)を 生きるのだ。
「わたしの物語り」を いったん手放して、
「この世界という物語り」の中に
物語りと知りながら もう一度 飛び込もう。
「わたしの物語り」を 捨てて、
新しい 「わたしたちの物語り」を 生きよう。
「空即是色」とは、このことだ。
「色即是空」の方が有名で、
この言葉の意味を体感することが「悟り」
だと思われているようだが、 そうではない。
「色即是空」 とは
たんなる 「目覚め:理解」 に過ぎない。
目覚めた後、どんな風に生きるのか。
そっちの方(生き方:実践)が大事
に決まっている。
「空即是色」とは、 「そっち」のことだ。
「悟り」とは、 目覚めた後の人生を
どのように生きるのかということであり、
それは「空即是色」の方なのである。
「空即是色」とは、
どのように 「愛する人生」 を選択するのか
という問題である。
それ(空即是色)は
「わたしのストーリー」 を 捨て、
「わたしたちのストーリー」 を 創りあげる
ことだ。
人生の主語を、
「わたし」 から 「わたしたち」 に
代えて 生きていくことだ。
あなたも わたしも、
わたしたちは みんな 「仲間」 なのだ。
「空即是色」こそが、
ことである。
「色」 が 「空」 に支えられているように、
「慈・悲・喜」 は 「捨」 に支えられている。
(最終改訂:2022年4月7日)