生老病死(の苦しみ)という言葉には、
二通りの意味がある。
一つは、
身体:からだ としてのわたしの 生老病死であり、
もう一つは、
自我:こころ としてのわたしの 生老病死である。
「からだ」の生老病死は、 本来
生きることは「苦」であり、
からだが老いて病んで死んでいくことの
「苦」を意味している。
ところが、その当たり前の「苦」を
イヤダと思って否定しようとすれば、
生きることが「苦悩」になり、
からだが老いて病んで死んでいくこともまた
「苦悩」になってしまう。
「苦」は たんなる
リアルな 不快な「受としての感覚」であるが、
「苦悩」は 「苦」 より もっともっと苦しく 辛い
「瞋」という ネガティブな
非リアルな「行にともなう感情」のことである。
「からだ」の生老病死には、
「苦」 を表す場合と
「苦悩」 を表す場合の 二種類の 「苦」 がある。
「苦」 と 「苦悩」は、まったく違うものだ。
一方、「こころ」の生老病死は、
自我:こころが 生まれ、その自我が
老いて病んで死んでいくことの「苦しみ」
を表現している。
からだの生老病死の 「生」 は 「生きる」 なのに対し、
こころの生老病死の 「生」 は 「生まれる」 である
ことに注意して欲しい。
ここで言う「自我:こころ」とは
心の要素のことであり、
社会的な役割や立場のことである。
例えば 野球選手になる:生まれるとする。
だが 選手になれても 成績が落ちたり、
もしくは 年老いて 引退する時が来る。
例えば 会社役員になる:生まれるとしても、
ミスして 降格かクビになることもあり、
いつかは 定年になって辞める時が来る。
このような役割や立場、そして
それらに付随する知識や能力は、 生まれても
いずれ 衰えて:老病 なくなって:死 いくものだ。
【無常】
このような役割・立場・知識・能力など
心を形づくる要素の集合体を自我と呼ぶ。
自我は もともと、
生きていく上での 「苦」 に対処するために
生まれた(生)機能であり、
その機能が衰え なくなっていく(老病死)
ことが、「こころの生老病死」である。
これは当たり前のことなのだから、
残念なこと:苦 ではあるが 仕方ないことだ。
「わたし」 が そう思えれば、
それ〔こころの生老病死)は「苦」にとどまるが、
「わたし」 が、 「なくなってしまうこと」を
受け入れることができずに 嘆き喚わめけば、
それは「苦悩」になってしまう。
以上のように、
からだの生老病死にも こころの生老病死にも、
「苦」 と 「苦悩」 の 二通りの 「苦しみ」 がある。
「苦」は、リアルな「からだ」に付随する
ありのままの「受」の感覚であるが、
「苦悩」は、「わたし」が創りだした
非リアルな「行」の感情である。
リアルは なくせないが、
非リアルは もともとは なかったのだから なくせる。
「苦」 は なくせないが、 「苦悩」 は なくせる。
苦悩をなくすことが 四聖諦の 「滅」 である。
一般的には、生老病死という言葉は、
「からだ」の「苦しみ」のことを言っている
と思われているようだが、 実は
仏教が伝えようとした生老病死とは、
どうも
「こころ」の 生老病死の「苦悩」のこと
のようだ。
仏教が伝えようとしていることは、
「苦悩」 を創りだしているのは 「わたし」 だ
ということである。
自分で 勝手に苦しんでいる というワケだ。
十二縁起の
11番目の「生」と 12番目の「老死」は、
「こころ」 の 生老病死の 「苦悩」 を表している。
「わたし」とは、
五蘊の「想行識」のことである。
「からだ」の生老病死は、
本来は たんなる「苦」に過ぎないが、
「わたし」が その苦を否定しようとし
それを イヤダイヤダと思えば
「苦悩」に転換されてしまう。
「こころ」の生老病死も、
本来は たんなる「苦」に過ぎないが、
わたしが その 「苦」 を 否定しようすれば
「苦」 が 「苦悩」 に変わってしまう。
「苦」 と 「苦悩」は違う。
[まとめ]
4種類の生老病死の苦しみ
からだの 生老病死の 「苦」
からだの 生老病死の「苦悩」
こころの 生老病死の 「苦」
こころの 生老病死の「苦悩」
「こころ」 の 生老病死の 「苦悩」 を 抱えたまま、
この世界を生きていくことを 輪廻と呼ぶ。
「生老病死」と言うとき、
この4種類のうちの どれを指しているのか?
(最終改訂:2021年11月29日)