二つの「苦」
どうも、「苦:苦しみ」という言葉には
二つの異なった意味があるように思える。
ひとつは、
三相(無常・苦・無我)のひとつとしての「苦」
である「感受としての苦の感覚」であり、
もうひとつは、
「想」 によって意味づけられた価値に囚われ
はまり込んでしまう 「行:サンカーラ」 によって
生じる「苦しみの感情」である。
ふたつめの「苦」は、
「苦悩」と表現すべきであり、
四聖諦(苦・集・滅・道)における「苦」 とは
この「苦悩」のことである。
だだのイヤな感じ(感覚)である
「感受としての苦」は
「リアルなあるがまま」のものであり
「なくせない」が、
苦しい・辛い感情としての
「苦悩」は
「自分が創りだした非リアルな幻想」 であり
「なくすことができる」
三相における 「苦」 と、
四聖諦における「苦悩」を
混同してはいけない。
同じ「苦」という文字を使ったことが、
混乱のもとになったのだろう。
このふたつの違いは微妙であるが、
これをきちんと区別して理解することが
が智慧につながる。
「苦」を代表する四苦八苦。これは、
避けがたいものであり、この世に生を受けた
すべての存在が直面しなくてはならない
不快な感覚:苦の感受を必然的に引き起こす
状況・事態・出来事である。
これを 「なくす」 ことは 決してできない
当たり前のこと。
この「苦」に出会うことを避けることは
できないけれど、
無常という法の原理にしたがって、この
「苦:不快な感覚」は いずれ 消えてなくなる。
ただ この「苦」を観て 味わって、
それに 向かいも 逃げもしなければ
(追求/否定の循環を形成しなければ)
いずれ消えて「なくなる」ものだ。
一方、ブッダが四聖諦で説いた
「滅することのできる苦悩」とは、
四苦八苦にともなって生じる
「感受としての苦」のことではない【苦】
四苦八苦にともなう「感受としての苦」は、
それをただ放っておけば
いずれ「なくなる」ものであった。
「なくならない」のは、
循環を形成し (ときには物語にまで発展して)
それに 取り込まれ
執着してしまっているからである。
その不快感覚を 受け入れられず、
それを排除しよう、 そこから逃げよう
とする執着(否定の循環)が形成され、
「苦」 が 「苦悩」 に
変換されてしまうからである【集】
マインドフルネスの実践によって
その仕組みを理解すれば、
循環を形成することなく、
ただ 放っておくことができるようになる。
そうすれば 無常という
法ダルマの原理によって、
自然に・勝手に「苦」はなくなる【滅】
そのための手段が 八正道であり、
「マインドフルネス」とはそのことであり、
マインドフルネスは 正念正定と同じもの。
「正念」とは、
思考が勝手に湧き上がって来ることに
「気づく」ことであり、
「正定」は、
その想いに 反射的に反応して
循環を形成することなく、
ただ観て味わっている
「受容的な態度」である。
「正念正定」とは、
自分の「心の状態に意識的」であり、
かつ その状態に煩わされずに
「平静」でいられることである。
例えば
心の状態が「焦っていた」としても、
そのことを自覚していて、
それ以上に拡大させない:循環させないこと
である。
【心の 「五蘊」 のレベルで 焦っていても、
心の 「座」 のレベルでは いつも 平静】
正念サティと正定サマーディは
八正道の最後のふたつであるが、
このふたつを兼ね備えたものが
マインドフルネスである。
そして「正念正定」という言葉は、
たんに このふたつだけを指すだけでなく、
八正道全体を代表させることもある。
だから マインドフルネスとは八正道のこと
でもあるのだ【道】
繰り返す。
四苦八苦にともなう 「感受としての苦」 は
生きることに必然的に伴う苦であって、
これをなくすことはできない。
生きていれば
それに出会わないわけにはいかない。
だから 四苦八苦とは、
生きることそのものである(一切皆苦)
「一切皆苦」とは、ときに訪れることのある
イヤな感じである 「苦」 を避けることはできない
ということであって、
人生は いつも 苦しい という意味ではない。
そして、
この苦を否定しようとして
囚われてしまうことがなければ、
その苦を「苦悩という新たな苦しみ」に
置き換えることはなくなる。
ブッダが 言った
「苦悩をなくすことができる」 というのは、
このことだ。
「苦悩」 は なくしたいし、
なくすことが可能だ。
しかし「苦」を なくすことはできない。
「苦」もなくしたいだろうが、
それを なくしてはいけない。
「苦」 を なくそうとしない:否定しないことが、
「苦悩」をなくすことにつながる。
パラドックスのように聞こえるだろうが、
この 「苦」 と 「苦悩」 の違い を理解する
ことが、非常に重要なポイントだ。
何度も繰り返す。
三相のひとつ としての「苦」は、
真理:ダルマとしての 「苦」であり、
生きている限り かならず感じる
不快な感覚(感受)として、
快の感覚:楽と対になったものである。
四苦八苦とは、4つまたは8つの
嫌な状況に付随する不快な感覚としての
「苦」のことであるが、
その不快感を受け入れられず、
それを排除しよう、そこから逃げようと
執着(否定の循環)すれば
「苦悩」に変換されてしまう。
生老病死に代表される、一般には
超えがたい・なくすことはできない
と思われている「苦悩」は、
実は「なくす」ことが可能であった。
ブッダは そのことを体感し、
その感動に獅子吼ししくしたのだろう。
ただ この「苦」を観て味わって、
それに 向かいも 逃げもしなければ
(追求/否定の循環を形成しなければ)
いずれ 消えて「なくなる」もの【無常】
であった。
マインドフルネスによって、
「死の苦しみ」を越えることができる。
四苦八苦の「苦」 は、
感受としての「苦」 とも、
それを循環させた「苦悩」とも、
どちらの意味でとらえることも可能だ。
感受としての四苦八苦はなくせないが、 それを
[苦悩]として循環させないことはできる。
四苦八苦の 「苦しみ」 を 「苦」と捉えて
そのままにしておけば、
四苦八苦の 「苦しみ」 が 「苦悩」に変わる
ことはない。
このようにして、
苦悩としての四苦八苦を
なくす【滅する】ことが可能だ。
[関連記事:二つの苦しみ(苦と苦悩)]
(最終改訂:2022年3月23日)