十二縁起(十二因縁):前編
1) 無明 → 2)行 → 3)識 → 4)名色 →
6) 六入 → 6)触 → 7)受 → 8)渇愛 →
9)取 → 10)有→11)生→12)老死憂悲苦悩
「十二縁起から五縁起へ」という記事で、
十二縁起について考察した。
考察するうちに 色んなことが観えてきて、
かなりスッキリと自分なりに理解が進んだ。
しかし
考察の過程をそのまま文章に残したために、
少々分かりづらくなってしまった。
また、この考察で諦あきらかになった
十二縁起の構造が、
「心の構造と状態(5)五蘊のバリエーション」 と
ほとんど同じであることにも気づき、
「十二縁起」 と 「五蘊」を比較すると
もっと分かりやすくなりそうだと思った。
五蘊は エゴの発生過程を説明し、
十二縁起は
その過程を 違う視点で説明した上で
そのエゴが 何故生まれたのかを解き明かし、
そして そのエゴの衰退が苦悩を発生させる
と説明している。
では、この五蘊と十二縁起は
どのような関係になっているのか?
そこに注目して、もう一度
十二縁起(十二因縁)について
まとめてみることにした。
一般的には、十二縁起を
1)から順に 12)まで ひとつづつ
前の因子が 次の因子の原因 となり(因)
次の因子は 前の因子の結果になっている(果)
と考え、
1)の無明が大元おおもとの原因となり
12)の最終的な苦悩が
順々の因果のつながりの結果として発生する、
と説明される。
しかし これ(因果関係)だけでは、
十二縁起を まともに理解することはできない。
私は、いままで 因果関係で述べられた
様々な説明を目にしてきたが、
部分的に理解できる繋がりもあるものの
「全体像」 を把握することは不可能であった。
それら(因果関係で)の説明を
ちゃんと理解できる人がいるのだろうか?
十二縁起を 因果関係で
一般人に分かるように説明することは、
本当に可能なのだろうか?
一般人が理解できない教えに、
何の意味があるのか?
仏教の専門学者やお坊さんに訊いてみたい
と思っていた。
しかし これ(十二縁起)を
いくつかのパーツに分けて、
その組み合わせとして考えると
スンナリと理解できることが分かった。
十二縁起は、
十二因果ではなく十二因縁であるのだから、
その内容を
因果関係ではなく因縁関係として
理解すればいいだろう。
おもな原因(因)に
様々な条件(縁)が作用して、
縁のベクトルが 途中から入り込んだり、
結果が枝分かれしながら 現象が生成され、
そして 滅していくのが 「因縁関係」 である。
それが「縁起の在り方」であり、
「あるがままの現実」である。
十二縁起という言葉の内容もまた、
そのような構造だったのだ。
因果関係は
非常に単純な(理解の容易な)考え方:想であり、
人間の脳には分かりやすい。
しかし、
「あるがままの現実」は もっと複雑である。
苦悩(の原因や発生)を説明するために
ブッダは様々な言葉を方便として使い、
ときどきの状況に応じて
それを使い分けたに違いない。
そのときに使われた
様々な言葉を覚えていた弟子たちが、
キーワードになると考えた単語が
十二個あった、ということであろう。
そして それらをなるべく分かりやすく
因果関係 「的」 に並べてみたものが、
十二縁起なのであろう。
だから
部分的には因果関係が成り立っているものの、
まったく つながらないところもある。
十二因縁という言い方もあるのは、
そういうことを言いたかったからではないか?
縁起とは、
因果関係ではなく因縁関係のことである。
十二縁起もまた、
途中で間違えられてしまったのだろう。
一番目の無明から始まって
最終的に苦悩が発生するというのは 正しいが、
その途中の前後は 一対一の因果関係で
キレイに続いているわけではない。
なにも 十二の因子(言葉)が十二個キチンと
順番に並んでいなくてもいいではないか。
[十二縁起]
1) 無明(想)→ 2)行 → 3)識
↑名
← ← 4)名色 → →
↓色
5)六入 → 6)触 → 7)受 → 8)愛
↓
想 → 9)取
3)識 → → →
↑ ↓
10)有 → 11)生 → 12)老死 憂悲苦悩
[生とは、識が生まれること]
1)無明
無明とは、
同じ意味の 別の言葉である。
【無明=想=法】
意味を持たない
ありのままの現実(空・非二元)を概念化して
「善 / 悪」 「優 / 劣」 などと意味づけることが、
「想」であり「無明」である。
したがって 無明とは 概念化のことであり、
リアルな現実【色】を 非リアル【名】に
変換することであり、
(言葉を使った)思考のことであり、
名前のないもの(空・非二元)を名づけて
二元化することである。
そして、測定(評価)可能なものに
変換する(数値化する)ことでもある。
無明が「意味や価値」という
幻想(マーヤー)を生みだしている。
概念や 数値(お金・IQ・点数など)に
変換することによって、
そこから こぼれ落ち 失われるものがある。
そしてわたしたちは、 こぼれ落ちてしまった
概念に変換できない大切なものを
忘れてしまう。
概念化によって、人類は
生き延びてきた(生存を勝ち取った)
概念化によって、人類は
世界(と自分)を知ったつもりになった。
本当は(完全には全体を)知り得ないのに、
(正義や正解を)知ることができると
信じてしまった。
そして わたしたちは
大切なことを忘れてしまった。
概念化が 「思い込み」 や 「信念」 を創りあげ、
「◯◯ねばならない」 とか 「◯◯に違いない」
と 人々を洗脳してしまう。
この 「想おもい(考え方:五蘊の想)」 が、
「想い」 を同じくする集団の絆きずなを
強固なものにし、
逆に
「想い」 の異なる集団を分離し隔ててしまい、
ときに(ではなく 往々にして?)
争いを引き起こすもとになる。
個人間の争い(攻撃/防御)の元も、
同じである。
もともとは
「思い込み」 から自由になるための宗教が、
逆に
「思い込み」 を強めて争いを生むこともある。
エゴを コントロールしようとして、
エゴに
コントロールされてしまった結果である。
宗教とは、「想い込み」から
自由になるためのものなのか、
それとも「想い込む」ものなのか?
「思い込む」ことで 心の平穏を得るのか、
「思い込み」から逃れることで 得るのか?
思い込むことで平穏を得ようとしたのが
一神教で、
思い込みから逃れることでそうしたのが
仏教なのだろう。
脳は 洗脳されることによって
機能を発揮するという特性を、
否応いやおうなしに与えられている臓器である。
その「洗脳」から自由になることが、
どんなに難しいことか...
「難しい」というよりは、だから
結局のところ 洗脳からは逃れられない。
できることは、
「洗脳されている」 と自覚することだけだ。
概念化・数値化(想)とは、
(全体である)世界を
部分に 分割・分離することであり、
非二元の世界を 二元化する
(対になる概念を与える)ことであり、
その結果として
分離した個人という感覚(本質において、
わたしと他者は違うという感覚)
を創りだし、
(評価によって)比較と競争を生みだした。
比較と競争は、
(本当は完全に知ることなどできないのに)
知ること(評価)が可能である
という前提の上に成り立っている。
本来 評価は幻想(マーヤー)である。
学校教育が その評価というものを
確固たるものにしている。
自分で 自分だと思い込んでいる
自己イメージも、
「客観的に」在るもの(リアルな現実)
でなく、
「主観的に」創りだされたもの(幻想)
に過ぎない。
「自分は なにものでもない」
だから 本質において、比較できず
「わたしと他者は 同じである」
「特別なわたし」 という自我など存在しない
ということが 真理(無我:空というダルマ)なのに、
それ(ダルマ)を知らないことが無明である。
2)行:サンカーラ
すべての生命体(生きもの)は、
外界の情報を感覚として認識し、
それに反応しながら生きている。
外界の環境が 生存に有利であれば
楽/ 快(受)と感じ、そちらへ向かう。
逆に 生存に不利であれば
苦/不快(受)と感じ、逃げようとする。
この「快に向かい」 「不快を避ける」
働き(機能)が、
人類において強化されたものが 「行」 である。
リアルな感覚である
「快/不快」という「受」を、
人類特有の能力
(言語=思考=想=法=無明)によって
非リアルな「善/悪」という概念に変換し、
これ(非リアルな概念)を
どこまでも追求/否定しようとする
欲求・願望・意志が「取という行」である。
もしくは、受を想に変換することなく
ダイレクトに「受の快という感覚」を、
強い欲求によって完璧を目指して極限まで
追求しようとしてしまう(渇愛という行)
「取」 や 「渇愛」が生まれるのは、
こぼれ落ちてしまった大切なものを
忘れたまま 思い出せないからだ。
この行(と その基になる思考)は、
鳥の翼・象の長い鼻のように、
生物としての人間が
サバイバルのために獲得した機能である。
他の生物が みな
形態(自らの身体)を変化させること
により得た(自然適応・進化の)能力を、
人類は
心の内容(想・行・識)を変化させること
で、急速に獲得した。
「苦:不快」は 避けがたいことなのに
それを無視して
生存を永続(不死)させようと、
衰退し消えていく 無常という真理に
逆らっているのが 行の姿であり、
その行を支えているものは 思考(想=無明)
である【無明(想)→行】
「苦:不快」を避けるために
世界(と自分)を
思い通りにコントロールしたいのが
「行」の在り方であり、
行とは「欲望」のことである。
コントロールできないときは
「苦:不快」を受け入れればいいだけなのに
それができないのが「行」の在り方である。
真理を無視しているので、
行は 苦悩を内包している。
「行」の詳細な内容については
「行の分類」を参照してほしい。
3)識
「識」とは
「わたし:自我:エゴ」のことであり、
「わたし」という意識
「わたし」という感覚 のことである。
この 「感覚」 とは、「〜のような感じ」
という非リアルなものである。
無明によって発生した行が、その主体として
「わたし」 を必要とし 「わたし」 を生みだした。
欲し・願い・「◯◯するぞ」という
意志(行)の主体として、
「わたし:自我」 が生まれた。
「わたし」 という実行主体を獲得することで、
行の力は ますます強化された。
「わたし」とは、
役割や立場によって与えられた
期待・想定される自己イメージに過ぎない。
「わたし」は 創られたイメージであり、
現実には存在しない
幻想(マーヤー:非リアルなもの)である。
【無我】
十二縁起の
1)無明 → 2)行 → 3)識 は、
「識」という自己イメージ すなわち
「わたし」が生まれる仕組みを説明している。
五蘊の
3) 想 → 4)行 → 5)識
と同じことである。
1)無明(想)→ 2)行 → 3)識(自我)
という十二縁起の 最初の三つは、
自我の発生過程を表す基本的な構造である。
その自我が 苦悩を引き起こす過程は、
十二縁起の 最後の三つ
( 10. 有→11. 生→12. 老死 )で示される。
4)名色
「名色」は 五蘊の内容を
体:物質と 心:精神の 二つに分けたもので、
一般的には
「色」だけが 体という物質であり、
他の四つが
心という精神的なもの(名)である
と説明される。
しかし 私は、「色と受」の二つを
リアルな現実としての「色」とし、
「想と行と識」の三つを
非リアルな幻想である「名」とする
方がいいと思っている。
名と色の境界線を、
受と想の間に 持ってくるわけである。
心(名)とは 非リアルなものであり、
名づけられることによって
思考されるようになったもの(想)と、
それを 追求しようとする欲求・意志(行)と、
その主体(識)で
構成される。
一方「色」は
たんに 「体」のことだけではなく
リアルな 内外の現実のことであり、
すべての生きものは 現実を感覚で認識し、
(その一次感覚から)切り離せない
(二次的な)ものとして 「受」 を発生させる。
だから 「色と受」 を一体のものとみなせる。
このリアルな現実は
すべての生きものが感じている対象であり、
それに対して「受」が発生することは
「生きる」ことそのものである。
その 「受(に対する反応)」 が
生存を方向づけている。
ところが 人間だけが(サバイバルのために)
このリアルな現実(である 「受」 )を
さらに 非リアルな概念(想)に変換し、
それに執着すること(行)で
自我(識)を生みだした。
これが「名」という言葉で
ブッダが言いたかったことだろう。
五蘊の「色・受・想・行・識」を、
Rである「色受」と 非Rである「想行識」
すなわち さらに「名・色」の二種類
に分けて考えることが有用である。
名は 非リアル(非R)な幻想であり、
色は リアル (R)な現実である。
色(R)から 名(非R)への 変換が
「苦悩」を生みだすのであり、
これを理解すること(名色分離智)が
「苦悩」発生の理解のキーポイントになる。
これを理解することがきわめて重要なので、
欠かすことのできないものとして
十二縁起の中に持ち込んだのであろう。
*「色即是空の色」 と 「名色の色」は、
まったく反対の意味であり、
「色即是空の色」 は 「名色の名」の方になる。
「色即是空の色」は、
「五蘊(色受想行識)の一部である色」
ではなく、「五蘊全体を意味する色」 である。
4)の名色は、
前後の因子と直接的な因果関係を持たない、
独立したワードである。
五蘊を、リアルである色(色・受)と
非リアルである名(想・行・識)の
二つに分けて表現したことに意味があり、
Rから 非Rへの変換(受 → 想)の
重要性を指摘するための キーワードとして
他に適当な場所がなく、
ここに置いたのであろう。
非Rである 「名:精神」 と Rである 「色:体」 を
きちんと分けて観る(考える)ことは、
仏教の理解においてきわめて重要なことであり、
このことは「名色分離智」と呼ばれる。
十二縁起では、
この名色の 前の「無明・行・識」の三つが
非リアルな「名」で、
この名色の 後の「六入・触・受」の三つが
リアルな「色」なので、
その中間にこの言葉を置いたのかも知れない。
5)六入
六入は 六根・六処とも言い、
以前の記事で触れた 「六境:色声香味触法」
という感覚を生みだす、
六つの感覚器官のことである。
色からだの感覚器官である眼耳鼻舌身が
外部の情報を 色声香味触という
感覚(五境:五識:五感)に変え、
名こころの感覚器官である意が
法という感覚(思考・雑念・観念・信念など)
を生みだす、
と言われるが、「意」は 仮の概念である。
リアルな存在である
六入(意だけは 初めから非リアルな法を生じさせる)が、
非リアルである「苦悩」を引き起こす
スタート地点(入り口)となる。
六入→触 を経て現れた
受を直接追求する 「愛という行」 や
受を 想で変換された概念を介することで
間接的に追求する 「取という行」 が発生し、
その行が満たされないことで
「苦悩」 が引き起こされる。
「法」という感覚が
苦悩のスタート地点になる場合、
本当は 「意」は感覚器官ではないし
「法」は感覚ではないので、
実際は
「六入→触→受」 という反応を介していない。
六入とは、
いのちの反応の大元になる
「情報」 の 「入り口」であり、
その「情報」を元にして、
いのちは 様々な活動を行う。
6)触
心は 座と要素からなる二重構造をしていて、
座が要素を認識して(要素が座の上に載って)いる。
この「認識する」ことを「触」と呼ぶ。
六入(という感覚器官)が、
外部:環境 または 内部:からだの刺激に反応し、
それを座が認識すること(触)で、
六境(厳密には六識)という感覚が生まれる。
「六境」 という形で、多様な情報を伝えている。
つまり、六入は
「触」 を契機として 六境:六識を生じさせる。
逆にいえば、「触れ」なければ
感覚は心の中に生まれない。
「触れる」というのは、
座の上に要素が「載る」 ということである。
眠っているとき以外、かならず
何かの要素が載って(触れて)いる。
*ここで言う「感覚」は、
「座の上に載るもの」を意味している。
その意味で
「法」 を 「感覚」の中に含めている。
したがって
何に触れるのか(Rなのか、非Rなのか)
という選択を通して、
五蘊という反応
(色に留まるのか、名まで進む・名から始まるのか)
をコントロールすることが可能になる。
何に触れる(何を認識する)のかという
「選択のトレーニング」が
マインドフルネスである。
「名」 を認識するのか、「色」 を認識するのか?
どちらを認識するのか?
そして
それらを 「認識しているもの」 は何なのか?
7)受
六入が「触」を契機として生じさせた
「一次感覚の六境」には、かならず
快または不快(楽または苦)または不苦不楽という
「二次的な感覚である受」が 付随する。
リアルな 「五識の感覚」 にも
非リアルな「法という感覚:意識」にも、
同じように「受」が発生する。
*「受」という二次感覚は
本来リアルなものなので、
非リアルな法にも「受」が発生する
というのは 可笑しな表現だが、
「想」の代わりに
「法」という言葉を使うときは、 こうなる。
「法」における「受」とは、
「考え方・見方」に対する「好き嫌い」
のような感覚のことである。
十二縁起の
5)六入 → 6)触 → 7)受 は、
五蘊の 「色」 の内容を 「六入と触」 に分けて
より詳しく説明したものであり、
五蘊の
1)色 → → → 2)受 と同じである。
8)愛
この受に対して、
2)の 「行」の項で述べたごとく、
すべての生きものは、
生存に有利な 楽(快) へ 向かい、
逆に 生存に不利な 苦(不快)から
逃げようとする。
この快を 直接追求しようとする
原初の[一次的な]反応が 渇愛である。
いつも いつまでも 楽しい人生が 欲しい、
もっともっと 欲しいと、
留まるところを知らない欲求が 愛である。
わたしたちは、「六入(五入)」という
感覚器官から入ってくる外部の「快の刺激」
が満たされることが「幸福」である
と勘違いして、それを追いかけている。
この 「二元の極の一方である 幸福」は
「無常」であり、永遠に続くことはない。
それが 失われると、
それは 「もう一方の極の 不幸」に変わり、
転換苦という「苦悩」を感じることになる。
リアルな五識の感覚に対する
直接的で 過剰な追求(行)
すなわち
「感覚的な快楽をどこまでも求めること」 が
「愛」 である。
「楽しい人生」 という言葉は、
この 「愛」 である可能性が高いだろう。
5)六入 → 6)触 → 7)受 → 8)愛 は、
身体からだというリアルからスタートして、
リアルな受に対する直接的な執着(愛という行)
が発生する過程を示している。
五蘊では
2)受 → 3)想 → 4)行 となっていて、
受を一度 想に変換してからその想を追求する、
という形になっていた。
これだと、
受をそのままダイレクトに追求することが
忘れられてしまう。
このダイレクトパターンを強調するために、
十二縁起では
7)受 → → → 8)愛 と、
連続させて並べたものと思われる。
9)取
内外のリアルな自然に対応する
一次的な感覚である五識(五感)の
「受の快」を、
そのまま直接 追いかける
[低次の]執着が「愛」であった。
一方、 そのリアルな 快/不快の感覚:受を、
非リアルな善/悪・優/劣 等の概念(想)に
変換し(想)
それらで構成された
意見・見解・イデオロギーなど(これも想)に
強く執着する[高次の]反応が 「取」 である。
意見・見解・イデオロギーへの執着
(取:思い込み)は、
ときに 渇愛よりも激しく人を捉え、
苦しめる。
「取」 は 「愛」 に比べると
「より高次の行」と言える。
「愛」 も 「取」 も
「行」 の より具体的な説明であり、
五蘊の受レベルにおける快である
「心地よさ・楽しさ」を追求し
執着する行 が「愛」
五蘊の想レベルにおける快である
「正しさ・正義」を追求し
執着する行 が「取」である、
と考えると分かりやすいだろう。
「承認欲求」と呼ばれる行は、
「愛」でなく「取」の方に含まれる。
正しいと信じることを
「〜ねばならない」と追求することは、
「観念的な快楽の追求」
と言い換えてもいいだろう。
「愛」 は 「感覚的な快楽の追求」 であり、
「取」 は 「観念的な快楽:正義の追求」 である、
と言える。だって、正義って 気持ちいい。
間違っていると信じている
(思い込んでいる)ことを
「〜であってはいけない」 と否定することも、
「取」である。
それもこれも みな、
「感覚的な苦痛(苦)を 徹底的に否定」
しようとするからだ。
生存を脅かす感覚情報を、
生体は「苦(不快)」 と感じる。
この「苦」を逃れようとする欲求が
「行」であるが、
最終的には どうやってみたところで
「苦がある」という真理から
逃れることはできない。
「感覚的な快」 や 「観念的な快」
を追求したところで、
この「苦」から逃れることはできない。
それどころか、
「感覚的な快」 や 「観念的な快」の追求は、
結果的に 逆に
「苦」 を 「苦悩」に変えてしてしまう。
「苦」 は たんに 嫌なこと、そして
「苦悩」 は それを 嫌だ嫌だと増幅すること。
「苦があること:苦」 と 「苦しむこと:苦悩」
は違うことであり、
「苦」 を 「苦悩」 に 「変え」 さえしなければ
「苦しむこと:苦悩」 からは自由になれる。
「苦」 を 「否定」するのでなく、
「苦」 を 「受容」すれば、
「苦悩」からは自由になれる。
「苦」 に対しては、
ただ 淡々と対処すればいいだけだ。
そして、 対処できなければ 諦めればいい。
そうしていれば いつの間にか、
苦を受容することが
人生に深みを与えていることに
気づくだろう。
5)六入 → 6)触 → 7)受 → 9)取 は、
身体からだというリアルからスタートして
リアルな受を 非リアルな想に変換した後
の間接的な執着(取という行)が
発生する過程を示している。
五蘊では
2)受 → 3)想 → 4)行 となっていて、
受を一度 想に変換してから その想を追求する、
という形になっていた。
十二縁起では
7)受 → 8)愛 → 9)取 となっているが、
これは「受→愛」 と 「受→取」という
二種類の行のパターンを
まとめて表現したものだ。
十二縁起の構造上、
取を愛の次に置いた形になっているが、
愛から取が発生するわけではない。
5)から 9)までで、2)の 「行」の二つの形
(受に対する行・想に対する行)の発生を
説明している。
「愛」 も 「取」 も 「行」 の内容なので、
二つ続けて記載したのだろう。
そして 補足するなら、
十二縁起では 理解を容易にするために
「行」 を 「愛」 と 「取」 に分けて
説明しているが、
現実の行(欲望)は
この二つが 結びついて絡みあい、
多様な姿を見せている。
さらに この二つの行の関係は
とても微妙であり、
「渇愛」 を滅しようとすれば
「取」に取り込まれ、
「取」 を滅しようとすれば
「渇愛」に取り込まれてしまう
という 相反する傾向もある。
十二縁起の 1)から 9)までの内容は、
五蘊の 1)から 5)と同じ
「行と識」の発生を説明するものであり、
互いに一部言葉を変え 補いながら、
「自我」 の発生について 解説している。
十二縁起(後編)へ続く