「わたし」が生まれる仕組み
五蘊では 3)想 → 4)行 → 5)識
十二縁起では 1)無明 → 2)行 → 3)識
と表現される内容は、
想(無明:思考)が 世界を意味づけて
その意味を追求する 行の実行主体として
「識:自我:エゴ」 が生まれた
ということである。
そして、
世界と 出来事の是非 のジャッジを行い
意味と価値を与える思考(想)が、
自分自身に対しても 同様に作用して
自我を創りだし、
「行」が それを守ろうとしているのだ。
「想」 が わたしの 「あるべき姿」を規定し、
「行」 が 「あるべき姿」になろうとして
努力する。
「識」 とは、 その 「あるべき姿」 のことである。
「あるべき姿」は
他者と同じ「普通の姿」 であってはダメで、
「特別な 何ものか」 でなくてはならない。
自我(識)とは、「わたしの」 という感覚、
自分と他人は 違っていて
自分だけが 特別(善)であるという
自己中心的な(self interest)感覚、
分離・限定され 孤立した
視野の狭い自己イメージ
のことである。
そして 誰にとって 「善い」 のかと言うため、
経験の意味づけを より強固にするために、
「わたし」 という主体を 後づけで生みだした。
「〜する」 「〜である」という
述語だけでは落ち着かず、
誰々という 主語を持ちだした。
思考にとっても 行:サンカーラにとっても
主体【識】が必要なのだ。
わたしたちは
主語なしで考えることが難しく、
主語とは 人類が採用した
思考(言語)システムに必須のものなのだ。
「わたし」という概念を創りだし、
自然から 「わたし」 を切り分けて、
世界(自然)を客体
わたし(自我)を主体としたことが、
「分離:無明」の始まり なのだが、
「主 / 客」という言葉も また、
思考が生みだした
非リアルな 対になる概念に過ぎない。
「わたし(識)」が、
世界は こんなところだと 「思い込み」【想】
「あるべき世界」 を目指そうとしている【行】
自然を 客体と規定したことにより
自然は 介入して操作されるものとなり、
農耕・牧畜という文明が生まれた。
農耕・牧畜という文明の誕生によって
自然は「わたし」と対立するものとなり、
「わたし」は 自然から排除されてしまい、
非リアルなものとなって
リアルである 故郷を失い、
根なし草になってしまった。
リアルな 「自然性:根」 を なくしたために、
非リアルな 「あるべき世界」 と 「あるべき自分」
が 追求されることになった。
成長の過程で たまたま出会った
特定の状況下の出来事から、
これは 善い(正しい) ・ これは 悪い(間違い)
これをしてもいい・これはしてはいけない、
と教えられ 自ら学び 一般化 普遍化して
「あるべき世界」 と 「あるべき自分」
を創りあげた。
それを 「自分の」 見解・願望・信念とする
条件づけ(洗脳)が成立した。
そのようにして
こり固まった価値観を創りあげ、
それに合わないものは 自分を不幸にする
と信じ込んでいる。
条件づけされたもの(思考体系・世界観)は、
過去の経験の 積み重ねである。
そのときは それで善かったかも知れないが、
それが この先も ずっとそうだとは限らない。
過去の経験を適用してはいけない・できない
「いま」もある。
自分の人生の特定の過去の
一部分に縛られては いけない。
そして
「快(善い)」に結びつく要素をまとめて
「わたし」とし、
「不快(悪い)」を呼び起こすものを
そこから除外していく。
そのようにして
「わたし」を構成する要素
(役割・立場・価値観など)を増やし、
または 減らして、
限定され・条件づけされた
「ライフスタイルを持った わたし」を創りあげる。
時代により、
家族・社会・国家・文化・言語などにより
さまざまに条件づけされ、鎧をまとった
価値や意味の塊としての
「表のわたし(仮面)」ができあがる。
それが自己イメージとなり、
承認されるべき「わたし」となった。
条件づけられた考え方が 習慣化して
「わたし」の常識となり、
その「わたし」にとっての
当たり前の考え方を基にして
反射的な行動が起きている。
一度 立ち止まって、
その常識・「わたし」の考え方を
見直してみてはどうか?
「わたし」とは、
「わたしの考え方」のことであった。
自己イメージも また、
自分が自分に付与した
「非リアルな仮のもの」であり、
もとは「空」だ。
「空」であれば、
そんなものに拘こだわることもない だろうに。
(最終改訂:2022年9月10日)