唯識
「心の構造と状態」 という記事を
書き終えたとき、
ふと 「唯識」 という言葉が目にとまった。
唯識ゆいしきという言葉自体は
以前から聞いたことがあったが、
どういう考え方なのか
その内容は知らなかった。
が、「唯」 と 「識」 という字を見ていたら、
その二つの文字が
ファーっと浮きあがって
クッキリとした像となり、
ある考えが焦点を結んだ。
唯(ただ) 識(しる:知る:認識する)
「ただ認識する」 って... それは、 つまり...
心の座の機能のこと、
なんじゃ ないだろうか?
唯識って、
心の座の機能のことなんじゃないか...
ひょっとしたらと思い、
ウィキペディアで調べてみた。
そして ウィキペディアの説明を読んで、
なーんだ 「唯識」 って 自分で書いた
「心の構造と状態」 という記事の内容と
同じじゃないか、と思った。
そして、ウィキペディアの説明に
重大な間違いがあることに気づいた。
ウィキペディアによれば、
「個人【わたし】」 と
「個人にとっての あらゆる諸存在
【他者と世界】」 が、
唯ただ 八種類の識によって成り立っている
という 大乗仏教の見解の一つである。
八種類の識とは、
五種の感覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)・
意識・二層の無意識 を指す。
唯識思想では、
各個人にとっての世界は
その個人のイメージに過ぎない*1と主張し、
八種の「識」を仮定する。
よって これら八種の識は総体として、
ある個人の広範なイメージ・認識を内含し、
あらゆる意識状態や
それらと相互に影響を与えあう
その個人の無意識の領域をも内含する。
あらゆる諸存在が
個人的に構想された識でしかないのならば、
それら諸存在は主観的な存在であり
客観的な存在ではない。
それら諸存在は 無常であり、
時には生滅を繰り返して
最終的に過去に消えてしまうであろう。
即ち、それら諸存在は「空」であり、
実体のないものである。
このように、
唯識は 大乗仏教の 「空」 の思想を
基礎に置いている。
【 「唯識」 は、 空の思想の 別の表現である】
*1 アドラーいわく、
『人は誰しも、
客観的な世界に住んでいるのではなく、
自らが意味づけをほどこした
主観的な世界に住んでいます。
われわれは 「どう見ているか:想」 という
主観がすべてであり、
自分の主観から逃れることはできません。
【すべてはわたしである】
だから、問題は
世界が どうであるかではなく、
あなたが どうであるかなのです。
【わたししかいない 】
あなたは 世界を、そして
自分自身を 直視することができるか。
あなたに その「勇気」があるか』
八識説の概念図の一例
唯識では識であると考える。
感覚は 五つあると考えられ、
それぞれ
眼識げんしき:視覚・耳識にしき:聴覚・
鼻識びしき:嗅覚・舌識ぜつしき:味覚・
身識しんしき:触覚など と呼ばれる。
これは 総称して「前五識」と呼ぶ。
【唯識の「前五識」とは、
十八界(六処・六境・六識)のうちの
「六識」の中の、
感覚要素である五識(五感)のことであり、
外界 もしくは身体のリアルな情報(五境)が
「感覚器官」 である眼耳鼻舌身(五処)によって
脳に伝えられ、認識されたものである】
その次に 意識、つまり
自覚的意識【思考・世界観のようなもの】が来る。
六番目なので
「第六意識」と呼ぶことがあるが
同じ意味である。
【前五識は リアルな感覚のことであり、
意識は 非リアルな思考のことである。
唯識の 「意識」 とは、
五蘊の 「想」 と同じものである】
また 前五識と意識を合わせて
六識 または 現行げんぎょうという。
【初期仏教に
「六入→六境→六識(十八界)
という言葉がある。
六入とは、外界に存在する
(色声香味触 法 という)六つの感覚(六境)
を認識する
(眼耳鼻舌身 意 という)六つの感覚器官
のこと。
六処・六根とも言う。
六識のうち
眼識 耳識 鼻識 舌識 身識の 前五識は、
色声香味触という(外界と身体に存在する)
リアルな 「感覚」に対応しているが、
意識は、「意」という
架空の感覚器官によって伝えられる、
(外界には存在しない)法(=想)という
非リアルな 「思考」のことである。
現行という言い方は、
六識は、
無意識の 「行(末那識)」の上に現れた
意識されたもの という意味だろう。
六識は
「無意識」の上の「意識レベル」にあって
自分で認識できるものであり、
無意識の 行が追求する
意識されている 「対象」である。
行は
リアルな感覚(前五識)レベルの
「好き」を追求(渇愛)したり、
非リアルな思考(意識)レベルの
「好きな 善き考え方」を追求(取)する
「働き」のことである。
この「働き」は
通常 意識されていないので、
末那識は 無意識のレベルに存在する
ことになる。
「五蘊の行」は
他の四つの要素と並立している形
になっている(同じレベルにある)が、
「唯識の末那識」 は
「無意識のレベル」 に存在していて、
自分からは
「隠されている」 形になっている】
その下に 末那識まなしき
と呼ばれる 潜在意識が想定されており、
寝てもさめても 自分に執着し続ける心
であるといわれる。
【この自分とは、 「自分」 の好きな 「感覚」 や
「自分」 が正しいと信じる 「考え方」 のこと】
熟睡中は 意識の作用は停止するが、
その間も 末那識は活動し、
自己に執着するという。
それは、
「受」 の快/不快を追求/否定しようとしたり
「想」 によって生みだされた
善/悪を追求/否定しようと(執着)する
「行(サンカーラ)」 と同じものだろう。
普通の状態では 末那識(執着する心)は、
無自覚的に反応・活動する
無意識のレベルにあり
この執着が 「苦悩」 を生みだしているので、
マインドフルネスによって
それを意識化することにより
「苦悩」 から脱することが 可能になる。
この図では、
「前五識」 と 「意識」 という 二つのものが
無意識下の「末那識」の上に載っている。
これら(前五識と意識)は、
十二縁起の 「渇愛」 と 「取」 という 「行」
の対象となるものである。
渇愛は
感覚レベルの「好き」を追求する「行」
のことであり、
前五識の生みだす 「快楽」を追求し、
取は
思考レベルの「好き」を追求する「行」
のことであり、
想(法)の生みだす 「観念」を追求する。
渇愛は、
「楽しいことが幸せ」だと誤解していて、
取は、
「役に立つことが正しい」 と信じ込んでいる。
感覚の 「前五識」 と 思考の 「意識」 が
上に載っている形は、
その下の 末那識(行) が
上にある 前五識(感覚)と
意識(思考)を追求している
ということを表している。
思考(想)の追求が「取」であるのだから、
五蘊の「色→受→想→行(→識)」と、
唯識の「前五識 ・ 意識 / 末那識」は、
同じことを表現しようとしているのだろう。
「前五識」 が 「色→受」
「意識」 が 「想」
「末那識」 が 「行」 に相当する。
そして、
六識の「識」は「個別の識」であるが、
一方 五蘊の最後に位置する「識」 は、
それら個別の識から導かれる(をまとめた)
「わたし:自我」 という 「全体を表す識」 であり、
「八識図の上 七つ」が
五蘊の 「識」 に相当する。
だが、 五蘊の中に
阿頼耶識に相当するものはなく、
五蘊では
阿頼耶識は 隠された存在となっている。
唯識とは
「苦悩」 の原因が 「末那識:行という欲望」 であり、
その欲望の対象が 「前五識:感覚」」 と 「意識:思考」
であることを
シンプルにまとめたものであった。
「苦悩」 の原因は 「行:末那識」 という
一つの言葉で表わせられるが、
その対象は「渇愛」 と 「取」 の
二つからなっていている。
「唯識」 では、その二つの対象を
「前五識」 と 「意識」 の二つに分けて
並置することで、
そのことを表現しようとしている。
この 「(苦悩の原因が)二つある」 ことが、
「苦悩の原因」 の
理解・克服を複雑にしている。
「渇愛」 を滅しようとすれば 「取」 に取り込まれ
「取」 の追求は 過剰な 「承認欲求」 につながる。
「取」 を滅しようとすれば 「渇愛」 に取り込まれ
「享楽的な生き方」につながってしまい、
もう一方の 「別の形の苦悩」 に陥るからだ。
通常の状況で自覚されているが、
末那識という識を
通常の状態で自覚することは難しい。
だから 末那識は、六識の下の
「無意識のレベル」に置かれていて、
下にあって載せているもの(末那識:行)が
その上にあるものを 追求している、
という構造になっている。
この構造を示すことによって、
無意識を意識化することで
「苦悩」 から解放される
ことを説明しようとしている】
阿頼耶識あらやしき【心の座と同じもの】という
根本の識があり、
この識が 前五識・意識・末那識を生みだし、
さらに 身体 を生みだし、
他の識と相互作用して
我々が 「世界」 であると思っているものも
【認識することで】生みだしている
と考えられている。
「阿頼耶識」 と 「心の座」が 同じもの
を表していることが分かる。
「生みだしている」というよりは、
「認識している(メタ認知している)」 という
表現の方が 誤解を招かないだろう。
「生みだして(創造して)いる」 という表現は、
オカルトチックに捉えられる危険がある。
下にあって認識しているものは、
上にあるものからは認識されない。
阿頼耶識(座)を認識するものは、
阿頼耶識(座)そのものだけである。
阿頼耶識を認識できれば、
その上の末那識も認識できるようになる。
「苦悩」から解放されることになる。
末那識とは、
思い込み:想と その思い込みを追求する
意志・欲求・執着:行のことである。
すなわち、
苦悩から解放されるために
末那識を意識化するためには、
自らの「心」を調べつくして
阿頼耶識(座)の存在を認識するしかない
のである。
阿頼耶識の存在を認識するためには、
(どうどう巡りになってしまうが)
執着しているもの すべてを手放して、
そこ(心の座)にたどり着くしかない。
阿頼耶識とは「涅槃」のことでもあり、
そこに達すれば
「すべてがありのままでいい」 ことが分かり、
末那識(行)の存在にも気づき、
そんなもの(末那識:行)は不要であった
(正確には 「過剰な」 末那識は不要であった)
ことが分かる】
【阿頼耶識を除く】それら諸存在は
主観的な存在であり 客観的存在ではない。
【阿頼耶識は それら諸存在を認識する主体】
【阿頼耶識を除く】
それら諸存在は 無常であり、
時には生滅を繰り返して
最終的に過去に消えてしまうであろう。
【阿頼耶識を除く】それら諸存在(色)は
【阿頼耶識という】「空」
【に認識されるもの】であり、
実体のない【単独では存在し得ない】
もの【無我】である。
【それが「色即是空」 ということだ】
は 仮に存在するものであり、
その心のあり方を 瑜伽行
【ヨーガの行・マインドフルネスの実践】
でコントロールし、
また 変化させて 悟りを得ようとした。
【八識説の概念図で注目すべきは、
前五識と意識が 阿頼耶識の上に
(末那識を介することなく)
直接 載っかっている部分があることだ。
マインドフルネスとは、
阿頼耶識の上に 末那識や意識でなく
前五識を置くトレーニングのことであり、
このトレーニングによって
阿頼耶識の存在を認識することができる。
また、末那識を介さずに 意識を
阿頼耶識の上に 直接置くことができれば、
思考や判断能力が飛躍的に高まる】
この世の色しき【意味づけられたもの】は、
ただ 心的作用【想と行】のみで
成り立っているとするので、
西洋の唯心論と同列に見られる場合がある。
しかし 東洋思想 及び仏教の唯識論では、
その心の存在も 仮のものであり、
最終的に その心的作用も否定される *2
したがって
唯識と唯心論は この点でまったく異なる。
また、
唯識は無意識の領域を重視するために、
「意識が諸存在を規定する」とする
唯心論とは明らかに相違がある。
阿頼耶識は 仮のものでなく
それらすべての要素が存在する
基盤としての実在である。
ウィキペディアの記載者は、
「意識」という言葉の字面にこだわって、
「意識されている 意識」 は
「意識されない阿頼耶識」とは違うもの
と断定しているが、
「意識される前の『意識』は
無意識」だったハズなので、
唯心論の「意識」 を 「阿頼耶識」と
読み換えることが 不可能なワケではない。
(唯心論の 「意識」 と、
十八界の中の六界の 「意識」 である 唯識の 「意識」 は、
同じ漢字だか 違う意味である)
西洋の唯心論も
「心の構造と状態」と同様の考え方になる。
だとすれば 結局のところ、
仏教の唯識と 西洋の唯心論は
同じものではないのか?
プラトンの唱えた「イデア」とは、
「阿頼耶識=座=涅槃」と
同じものなのではないか?
「意識されていなかったもの:阿頼耶識」は、
マインドフルネスによって
「意識化」可能なもの(実体)だ。
もしも 永遠に意識化されないのなら、
それは「実体」ではなく、
たんなる「概念」に過ぎない。
仏教と
科学的・合理的な 「思考:想」 を絶対視する
(唯心論の対極にある)唯物論との対比が際立って、
より明白になるだろう。
唯物論もツールであり、
ストーリーに過ぎない。
そして 結局のところ
唯心論も 唯識も アビダンマも
「心の構造と状態」 理論 と同様の
ツール(ものの見方・考え方)に過ぎない】
以上、ウィキペディアより。
これは、心の構造と状態を
現象(要素)のみから成り立っている
と考えるのか
現象を超えたもの(座)も内包している
と考えるのかという、
基本的な問題における 見解の相違である。
現象を超えたもの:阿頼耶識 の存在を、
自ら(の心)を観察対象として
発見したのか どうか、の違いである。
存在するのか しないのか?
存在するとして、それは
自分の外側にあるのか、内側にあるのか?
私の見解では、
阿頼耶識は「心の座」のことなので、
唯識でいうところの心(阿頼耶識を含む八識)は、
阿頼耶識という 「現象を超えたもの」 も内包し、
阿頼耶識以外の 他の要素は
それに支えられていることになる。
阿頼耶識は「仮のもの」ではなく、
唯一の「実在」なのだ。
阿頼耶識を含む八識のすべては、
現象(色:要素)であり、
仮のものであり、
滅するものである。
つまり、
それらは(色即是空という真理により)「空」
であるから、
仮のものであり、滅すると断じている。
『阿頼耶識という根本の識があり、
この識が前五識・意識・末那識を生みだし、
さらに身体を生みだし、
他の識と相互作用して
我々が「世界」であると思っているもの
も生みだしている』
と言っておきながら、
それら諸存在(色)は「空」であり、
実体のないものである(色即是空)』
と断定し、
『「色」 は「空」 であるから
実体がないものであり、
「空」 もまた 実体がないものであるから、
最終的には
すべてが否定され 消え去ってしまう』
と説明している。
これは、大変な間違いである!
この識が すべてを生みだしているのなら、
阿頼耶識を
他の七識と同列に扱ってはいけない。
阿頼耶識は「色」ではない。
阿頼耶識は、
その 「色」 を支えている(生みだしている)
「空」 の方なのだ。
阿頼耶識以外の七識は たしかに
「色(現象)」 であり、
「空(本質)」 の中に滅するものである。
だが
その 「空」 とは、阿頼耶識のことなのだ。
「空」 そのものが 滅することはない。
「空」 とは、
「色」 の世界における「意味」 が滅するところ、
つまり意味の存在しない世界であるが、
「空」 という存在が 「無い」 わけではない。
二元の一方の極として 「有る」 のではなく、
絶対的な非二元の存在として 「空」 は 在る。
『「空」 もまた 実体がないものである』
というのは、完全な誤りなのである。
だから「空」 である阿頼耶識こそが、
すべてを生みだす・すべてを認識して
支えて 載せている
たしかな 唯一の実体なのである。
「色」 には実体がなく 「空」 が実体であり、
「色」 は 「空」 という実体の仮の姿である、
と言うべきだ。
ウィキペディアの記述は、
「空」 について 完全に誤解しているのだ。
この世は すべて 「仮のもの」 になってしまい、
それは「虚無思想」につながるだろう。
この間違いは よくあることだが、
重大 かつ 根本的な間違いだ。
このような認識・解釈のため
仏教は正しく理解されず、
ときに 虚無的な思想へと
堕落してしまうことがあり、
修行者を惑わすことにもなっている。
だから 仏教が誤解されるのだ!
これは「色即是空」 のみを真理とみなし、
「空即是色」 を無視した見方にもつながる。
「空」が実体のないものであれば、どうして
「色」の世界に「空」が 自らの姿を現そう
とするだろう?
「空」も 仮のものであれば、
「色」は その存在の根拠を失ってしまう
ではないか。
「空」 は「仮のもの」ではなく、
「空」 こそが「実在」なのだ。
そして「色」は、 その実在である 「空」に
しっかりと支えられているのだ。
この間違いは、わたしたちが生きている
「現実の世界を否定してしまう」
ことにつながる。
それ(現実の現象世界)は
たしかに「仮の姿」ではあるが、
それこそが
「生きる」ことの「具体的な形」なのだ。
それ以外の「生き方」など存在しないのだ。
現実を否定してしまってはいけない。
この間違いは、
大乗仏教である 唯識派の
根本的な間違いなのか、
それとも 途中で
教えが歪められてしまっただけなのか、
たんに
ウィキペディアの記載者の誤解なのか?
なんか 途中で間違えちゃった気がする。
いかにも エゴのやらかしそうなことだ。
そして、 「わたしとは なにものなのか」
ということの 決定的な重要性が問われている。
唯識では、心の構造を
「意識(自覚)されるもの」と
「意識(自覚)できないもの:無意識」の
二つに大別していることが 大きな特徴である。
意識されている 楽しい感覚・立派な考え方
を追求することが、
普通の場合(世間的には)
「生きる動機(エネルギー)」 になっている
と思われているが、
実は それこそが
私たちの苦しみの原因(行)だったのだ。
「えーっ」と思うだろう。
だからこそ、それは意識されない
「無意識」のレベルに留まっているのだ。
追求すればするほど 苦しくなるのは、
追求する対象を間違えている
(幸せの方向を間違えている)からなのだ。
そして 実は、
「追い求める」 こと自体が間違っているのだ。
そして さらに実は、
その意識されるものも 意識されないものも、
もっと深いところにある 別のレベルの
意識されないもの によって支えられて
(認識されて) 形を与えられている。
マインドフルネスによって、
このもっとも深いところにあるものを
意識化することで この構造が観えてくる。
そして
「わたしとは 何ものでもない」 ことが分かる。
だから、
もっとも深いところにあるもの=
阿頼耶識=心の座=涅槃=本当のわたし
を意識化することが、
もっとも大事なこと(目覚め)である。
「目覚め」を
大そうなものだと思っている人たちには、
それは とても難しいことのように
思われるだろうが、そんなことはない。
それは 「大そうなこと」 ではない。
ちゃんとマインドフルネスができれば、
誰にでも それが観えてくる。
修行しなくても、
ときどき 観えている人もいるし、
修行で観えるようになれば、
いつでも それが観える。
(最終改訂:2022年8月8日)