結局のところ わたしたちは
世界を どうすることもできないが
同時に 「どうとでもなる」 と言える
心の要素は 因縁によって決定され
わたしたちの思い通りにはならない
だから、 わたしたちに 「責任はない」
だが 心の座は
他のなにものにも 影響を受けない
だから
わたしたちの 座の在り方がすべて
であり
心の座の在り方に 「責任を持とう」
ねばならないと 無理に思うのでなく
自然に 「こう在りたい」 と思うこと
座の本来の欲求に 素直に従えばいい
心の座には 「本当の 真の欲求」 がある
それこそが
わたしたちを 突き動かしている
大元おおもとの 「エネルギー」 だ
それ なくしては 生きていけない
座の 「真の欲求」 とは 「愛」 のことだ
それが 心の座の 「本来の在り方」 だ
「ダルマ」 に従えばいい ダルマ:法:真理とは
無常であり 苦であり 無我であるということ
色は空であり 同時に空は色であるということ
当たり前の現実は 非二元であるということ
当たり前のことは 当たり前だ
あるがままで そのままだ
なるようにしか ならない
心の要素は 無常であり 苦である
二元に分割され 切り離されたものであり
「バラバラ」な存在である
一方
心の座は 非無常であり 空であり
非二元という「全体」である
色という わたしたちが生きる実際の世界は
無常であり 苦であるが 楽もある
色は 人生の 「要素」 である
結局のところ 「色は様々」 だが どーでもいい
しかし その色しきは
空くうであり 非二元であるものが
自らを「表現する」 ための世界である
空であり 非二元であるものは 座であり
それは みな同じだ
同じものが 異なった形を 表現している
座が 本来の在り方であれば
「様々な色」は どーでもいい
色という この世の経験は
座が 本来の在り方であることを
確かめるための
具体的な形(提示された条件)に過ぎない
なにが 与えられたのか
提示されたものは 何なのか
ということは 問題ではなく
その与えられたものを使って
どう生きるのか それを どう味わうのか
「無我」とは 色と空をつなぐ言葉だ
無我という言葉によって
わたしたちは 色は空であること【色即是空】
色は空に支えられていること を思いだす
だから、「(要素としての)わたしは いない」
「いない」 というのは 本質ではないということ。
わたしたちは
色という「どうすることもできない」
世界を生きているが
空の視点から観れば その色を
「どうとでも」受け止めることができる
マインドフルネスがあれば
「どうとでも」なる
マインドフルネスとは
「自分の心を観る」ことである
マインドフルネスで
心を 辿たどり 遡さかのぼる
息もできず 苦しいまま
深く深く 落ちていく
そして 湖の底にタッチする
そこは からっぽの 空くうだった
その空を まるで絶望のように感じた後
そこには 愛だけがあり 愛しかなかった
ことを理解し 復活し「再生」する
「新しい自分」が生まれる
心が観えれば
それは 要素と座の二重構造である
ことが分かり
要素の動く様さま 座の動かざる様さま
が観えてくる
揺れ動くことのない 心の座が
本来の わたしたちの居場所だ
故郷ふるさとであり 我が家だ
そこにあるのは 愛(受容)だけだ
そこには わたししかいない
すべてがわたしだ
全体と一緒である 「わたし」 だけがいる
わたしたちは
色と空という 異なる次元を
同時に生きている
どんな経験をするのかは 問題ではない
その経験を どんな風に受け止めるかだ
わたしたちは 全体のなかから生まれ
そして「全体」のなかに 帰っていく
全体は いつもわたしたちと共にある
わたしのなかの
良きものだけでなく 悪しきものも
認め 受け入れることで
わたしは 「全体」そのものになる
『フランダースの犬』という童話の中で、
ネロ•パトリッシュ•おじいさんの「生」は、
貧困の下で、辛く困難なものであり、
その最後も 悲劇的なものであったが、
その「生」 は 同時に 愛に満ちていて、
「幸せ」 と呼べるものであった。
作者は、
『この世で愛は報いられず、
信じる心は実を結びませんでした』
と終わりに書いているが、
それがなんだというのか?
報いられ 結実するという結果が 必要か?
それ(結果)は どれほどのものなのか?
「愛」 も 「信じる心」 も、
たしかに そのときの「いまここ」 に
存在( being )していたではないか?
それで 十分なのではないか?
この 「地上の生」 で十分に幸せであった。
幸せを天国に求める必要などないだろう。
結果があれば もっと良かっただろうが、
それは +αアルファみたいなものだ。
結果は 本質ではない。
38年前、
ネパールのカトマンドゥで見たボーダナート
(ストゥーパ:仏舎利塔)
壁面に描かれているブッダの巨大な目は
心こころを観つめる瞳であった ことが、
今 やっと分かった。
その「目」は、
「メタファー」 というよりは「メタ認知」 か?
(最終改訂:2022年7月22日)