:無我とは、
「他の人と違う特別なわたし」などいない
という意味であり、
「縦の関係」 を否定するための概念である。
「本当に生きる」という経験は、
いまここに在る【being】
「自分と世界の あるがまま」 を、
・思考【想】によって
価値判断することなく、
・物語的な執着【行】を 捨てて、
・「わたし」 という感覚【識】を
介して限定することなしに、
ただ感じて 観つづけること:
マインドフルネスから 始まる。
〔わたしの理解〕: 無我という理解 2
自我は「縦の関係」を生みだす機能である。
人間は 非常に未熟な状態で生まれるため、
親の愛を勝ち取ることなしには
生きていけない。
赤ん坊のときは 誰もが無力で、
親に頼りっきりだ。
親に依存することなしには生きていけない。
だから 子どもたちは 親の愛を得るために
(意識には昇らなくとも、意識のはるか下で)
その期待に応えようと、 死に物狂いなのだ。
(意識の上では「親が好き」と感じている)
このときに まず、親と子の間に
人と人との 基礎的な関係が築かれるのだが、
したがって その関係は、
依存・被依存の 「縦の関係」 になりやすい。
つまり、人は その人生を
「縦の人間関係」で スタートしがちなのだ。
このときに、 親が 子どもの人格を認めて
「横の人間関係」で
一人の人間として扱ってくれるのなら、
良好な対人関係一般に必要とされる
ありのままの状態を受け容れる感覚、
すなわち 無条件で自分と他者を信じる力である
「横の関係の感覚」 を育てることが 可能だ。
しかし、
現実には それを行うことはとても難しい。
従って 条件つきのものになる依存関係が、
その後の人生の 主たる関係となっていく。
無機質な「縦の関係」は
関係自体を不安なものにし、
関係を怖がる「愛着障害」を
創りだすこともあった。
「依存・被依存の相互関係」は、
「支配・被支配(服従)の関係」と
言い換えることもできる。
次いで、身体的に生きて行くために
生計をたてるための必要条件として、
「社会人として 経済的に自立するための自我」
を確立する必要があるのだが、
そのとき 往々にして
他者との比較/競争が 強調・強制される。
家庭でも 学校でも 社会でも、
他者との比較/競争が 強調・強制される。
そのため、自我は個体の生存のために
つねに 他者より優位に立とうとし、
競争に「勝とう」としてしまう。
その結果「過剰な」否定/追求・防御/攻撃
が生まれてしまう。
ここでも また、 「縦の関係」が強化される。
このようにして、 社会で生きていくため
わたしたちは 「自我」 を創りあげていく。
つまり「自我」 とは、
社会的必要から生まれた 機能なのである。
自我(「わたし」という感覚)は、
肉体としての個体が生き延びるための
機能であり、
その機能に名づけられた 概念であり、
それゆえに 実体のない仮想現実:無我である。
生き延びるために備わった
「非リアルな 機能としての感覚」 に 過ぎない。
自我は 上記のようにして形成されるため、
「縦の関係」を基本的な在り方としている。
仏教の五蘊で説明するならば、
思考【想】が 対象を 意味づけ
対象に与えられた その意味に惹かれた
サンカーラ【行】が、
その意味を 追求 / 否定する主体として、
「わたし」という感覚【識】を生みだした
【想→行:欲求→識】 ということになり、
この想行識複合体の特性が
縦の関係なのである。
自己否定と いま否定と 承認欲求に
駆り立てられ、 努力し続ける自我は、
この地球上で ホモ・サピエンスという種しゅが
大躍進する 原動力となった大発明であり、
鳥の翼・象の長い鼻のような
自然選択によって育まれた
人類の適応戦略の手段である。
自我によって 人類は 自然に働きかけ 支配し、
生態系の余剰以上のものを生みだし、
生産性を向上させて 「文明」 を作り上げた。
だから
自我と 文明は、切り離せない関係にある。
農耕・牧畜で始まった文明は、
資本主義経済の成立によって 近代以降は
それをますます発展・加速させ、 そして
「もっと」多くのモノを生みだすことが
人類の普遍的な在り方となり、 それが
ヒトの心理に密接に関わることになった。
だから
自我と 資本主義意識も、切り離せない。
したがって、
文明と資本主義を支えるものも また
自我による 縦の関係なのである。
同時に、群れの拡大によって
機能的な分業集団である「組織」が生まれ、
さらに
それらが複雑に重層化して 「社会」 になった。
その中には、心の故郷:ホームとして
人々に安らぎを与え 同時に しがらみとなる、
様々なレベルの 「共同体」 も 存続し続けた。
そして、 そのような 成員が 「限定された」
「共同体」 には 横と縦の関係が混在していた。
その 拡大した群れである社会において、
「わたしという感覚」 に基づく
個別の 「行」 を制御し 秩序を維持するため、
法律や 協調圧力としての宗教、
そして 洗脳としての教育など
様々な 「統治手段」が考えだされ、
統治のために「縦の関係」が利用された。
そのようにして
文明の様々な要素が積み重ねられてきた。
サバイバル:生産性向上 のためにある。
現代において その集団の最大規模の在り方は、
構成員の意志【行】の総体が主権を持つ
民族的同一性の高い 民主的国民国家や、
苛烈な方法で 様々に異なる多民族の 「行」 を
無理やり抑え込んで支配する 専制的帝国、
本来なら 「行」 を共有する部族としてしか
まとまり得ない 小さな集団を
一定レベルの機能を有する国家の大きさに
まで 引き上げた 独裁的人工的国家、
などに分かれている。
国民国家の構成員は
同じような価値観【想】を持っていて
意思【行】の統一を図はかり易いが、
異なる 「想」 を持つ構成員の 個々の意思:行
を無視して、 無理やりまとめているのが
帝国や 人工国家である。
したがって
帝国や 人工国家における国家の意思は、
国民の意志の総体ではなく
支配者の意思【行】のことになる。
争いは、一般に
生存に必要なパイをめぐって引き起こされる
ものだが、
「想」としてのあるべき価値観・世界観の違いは
生存の必要性を はるかに超える 過剰な
否定/追求・比較/競争・逃走/闘争【行】を
発生させ、そして それを介して
内戦や対外戦争という より過酷な争いを
起こすことになった。
人間だけが戦争をするのは、
人間だけが サバイバル戦略として
個々に違う価値観【想】や 特性に基づく
「想→行→識という 個体を分離して
個体の多様性を生みだす 脳のシステム」
を採用したからである。
そして、
すべての人類が 同じような価値観【想】を
有することは、 今のところ ありそうもない。
とすれば 我々が平和のためにできることは、
「想→行→識 システム」 に 自覚的になること、
すなわち
一人ひとりの 世界の見方・価値観【想】は
みな異なり、
どうしたい・どう在りたいのか【行】も
みな異なる
ことを 知っておくことだろう。
集団の「行」は、
共同体幻想とも 集合的無意識とも呼ばれる。
集団の「行:サンカーラ」が、
集団の「行動:カルマ」を決めている。
集団(共同体)レベルでの「価値や意味」 の
否定/追求・比較/競争・防衛/攻撃が、
(内戦や戦争という)カルマの原因なのだ。
国家というシステムが 最大の共同体であり、
様々な価値観を有する国家を超える
意思【行】決定機関が存在しない限り、
世の中から 不毛で 残虐な 大規模な争いが
なくなることはないだろう。
つまり、地球上の すべての人々が
全世界を一つの共同体とみなす
「梵我一如:ワンネス」 意識を持たない限り、
内戦や戦争がなくなることはないだろう。
本来はサバイバルのために採用された
「想→行→識 というシステム」 であったが、
しかし それに囚われ 暴走し続け、
縦の関係 で
つねに 他者を敵として認識しているため
いつも 安心することができず、
「苦悩」 や 「戦争」という 代償・副作用を
抱え込むことになってしまった。
これが、「矛盾」 と感じられることの
すべての基底に存在している構造であり、
この構造から抜けだす(解脱する)ことは
とても難しい。
「想行識システム」 は 縦の関係 なので
いつも 他者と自分を比較し、
絶えず 優越感か 同等感か 劣等感を感じ、
優越感(傲慢)のときは 心地よく、
同等のときは まあいいかと思い、
劣等感のときは 惨め(ときには怒りやうつ)
になる。
縦の関係 では 周りは 敵だらけなので、
いつも「勝ちたい」 と思っている。
だから
本当の意味で 心休まるとき:平穏がない。
[自我は影を内包している]
さらに 自我の特性として、
思考により 悪しきものと判定された
自分自身の「負の側面」 は、
否定され抑圧され 無意識の奧底に
閉じこめられてしまう。
そして
その幽閉された「負のわたし:シャドー」 は
巨大なエネルギーに成長する。
ときに そのエネルギーは
芸術などの 創造の源泉となったりして
世俗的な成功を もたらすこともあるが、
多くの場合は「影」となって
「表のわたし」を脅かし、
苦悩として体現されることになる。
その影は 個人的なものであれ、
集合的普遍的なものであれ、
意識の光の下に照らし出され、
「本当のわたし」の中に
統合されなくてはならない。
気づきと受容【マインドフルネス】の光のもとで
自らの無意識を意識化し、
制限も・分離もされていない自分(全体に)
になる(戻る)
限定され 小さく収縮・緊張した わたしが緩み、
より大きなもの へと広がり、
全体そのもの に到達する。
「部分としてのわたし」ではなく、
「全体としてのわたし」になるのである。
マインドフルネスとは、
視野を広げ 全体を見渡せるようになる
技術のことでもある。
「善い人である わたし」 や 「悟った わたし」
に留まっていてはいけない。
承認欲求のために
「悟り」 を利用してはならない。
「ダメな・嫌な・酷いわたし」 を受け入れて
生きなくてはならない。
そうすれば 謙虚になれ 感謝できるだろう。
状況によって「善い人」のこともあるが、
また「悪い人」にもなるのが当たり前だ。
いつも「善い人」なんてあり得ない。
無常なんだから...
いつも「いい人」は疲れるだろう。
「いい人」を辞めてしまう
「嫌われる勇気」を持とう。
不快な感覚【苦】から 逃げようとすれば、
かえって
それが 苦悩を形成するのと 同じように、
「負のわたし」を 抑圧・否定することが
苦悩を生み出してしまう。
これが、苦悩の発現様式である。
ダメな わたし【苦】から、 逃げないこと。
ダメなのは 当たり前のことだと、
受け入れること。
そして 実は、
「ダメ」 も 「ダメでない」 も 思考が付与した
非リアルな 概念に過ぎなかったことを知れば、
それを 簡単に受け容れることができる。
そうすれば 統合(という目覚め)によって、
自分が 自分自身だと信じ込んでいた
自己イメージが 解体され、 消滅してしまう。
「正しさ・良さ」は 限定されていて、
仮のものであったと知り、ついには
「正義・良きもの」の呪縛からも解放される。
自己イメージとは、 やって来ては 去ってゆく
不確かな構成要素の集積に過ぎなかったものを
無理やり カチカチに固めたものであり、
それは 本質ではなかった【無我:空】
そこに気づけば、座でない 要素としての
自分は 空っぽ【空:無我】であり、
実体ではなかったことが分かるだろう。
かつて 私は なぜ、本質でないものに
あれほどまでに 拘こだわっていたのだろう?
今となっては、自分でも分からなくなった。
本質でないものを取り除いたあとには
空っぽ(広く開かれた空間)という
本質(座)が残るだけだが、
空っぽは 実は 無限の可能性を秘めている。
それは「全体」であり、
すべての要素を支えて 観ている
「存在の基盤」であり、
それこそが「実体」なのだ。
「空っぽな自分」 とは ときに 「実体」 でなく、
また ときには 「実体そのもの」 なのである。
つまり 「要素としての自分」 は実体でなく、
「座としての自分」 が実体なのである。
「空」であることは
なにか虛しい感じ ときには恐怖 を呼び起こし、
人は それに耐えられないので、
「空である」 すなわち 「何ものでもない」 ことを
認めたくないのかも知れない。
「わたし」と思っていたものは
本当は 実体がなく、
更新し続ける 世界との関係性・因縁の中から
立ち現れた(縁起による:縁によって起こった)
一過性の 仮の概念に過ぎなかった。
【無我:空】
相手や状況により「立場や役割」は変わる。
ときに 父であり 夫であり 子どもであり
先輩であり 後輩であり
社長や 医者や 弁護士であったり
賛成であったり 反対であったり
当事者で義務があったり 傍観者だったり…
年齢を重ねることで
「価値観」が変わることもあるだろうし、
「わたし:要素としてのわたし:自我」は、
いつも 首尾一貫しているわけではない。
「わたし:自我」とは、
全体との関係である因縁によって生起:結生
する 結び目に現れた現象に過ぎない。
ダイナミックに変容して、
更新し続けていくものである。
そのような理解が 自我の「影」を統合し、
真の自我の確立を促すものだろう。
そして、 真の自我の確立が
自我でない真我の発見につながり、
「真我」こそが 全世界を一つの共同体とみなす
「梵我一如 ワンネス」 意識をもたらすのであり、
内戦や戦争をなくすものに違いない。
それを、
「地球市民意識」 と言っても いいかも知れない。
私は、かつて
「共同体としての地球」 という意識など
絵空事えそらごとに過ぎないと考えていたが、
瞑想の修行と 真理の探究を 通じて、
その意識を持つことが可能であると
確信するに至った。
そして 限定のない 地球市民意識であるならば、
「限定された共同体」 の 負の側面である
「しがらみ」 を伴うこともないだろう。
『わたくしといふ 現象は、 (現象は無常)
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です』〈賢治〉
これが
:無常としての「わたし:自我」の 在り方。
「真我」 とは、 上記の 無常の原理を超えた
変わることのない 「本当のわたし」 であり、
「現象」を生みだす 大元おおもとのものである。
「真我」 こそが 「全体」 であり、
すべてを観ている 「存在の基盤」であり、
それこそが 「実体」 なのだ。
「梵我一如:ワンネス」 とは
梵天(ブラフマン:宇宙の原理)と
真我(アートマン)が 同一であること。
人間:ホモ・サピエンス だけが
「わたしという感覚:自我」 を持っている。
だから、ヒトの文明にとって
「わたし」の集団である 民族や共同体に関わる
「意味づけ:想」 である
物語りが 不可欠なものになった。
共同体の物語り(ストーリー)とは、
歴史(ヒ ストリー)や 神話のことである。
その限定された意味を否定しようとするものが、
「無我」 という概念なのである。
(最終改訂:2023年4月15日)