原マスミ バンドライブ/吉祥寺SPC(09/06/10)


原マスミ[vo,g],近藤達郎[key,acc],堀越信泰[g],楠均[drs],内田ken太郎[b]


1.耳の夢
2.ムー
3.千年にひとり
4.光の日にち
5.人間の秘密
6.も・いちど
7.悲しいのはいやだ
8.ずっと君が好きだった
9.夜の幸


10.約束の満月
11.フトンメイキン
12.STEREO
13.カメラ
14.毛
15.イナフ
16.海のふた
17.ブレーメン
18.教室


19.アイス!アイス!アイス!
20.飛龍頭


21.冬の星座


久々の原マスミのライブである。
原マスミ公式ホームページは、セットリストが必ず上がるので非常にありがたい。
最近、双葉双一や滝本晃司のセットリストで非常に苦労したので、ありがたさをつくづく感じた。
もっとも、原マスミ曲はほぼ聴けば全曲タイトルが分かるが、これも毎回のリストのおかげであるかもしれない。
管理人には大変感謝をしており、今後もぜひ続けていただければ、と思う。


今回のライブは、自分の感じたことから憶測を広げたレポである。
自分の当てにならない感覚を根拠に論じているので、誤解が大きい可能性があることを初めに断っておきたい。
諸方面にご迷惑をおかけすることがあれば、初めに謝っておきたい。
「ごめんなさい」と。


今回は、原マスミの喉の調子が悪かった、と最後の最後で本人の口から述べられていた。
だが、そのことは全く感じさせないステージであった。
また、今回の大きな特徴として、PAがいっぱいいっぱいに頑張っていたところが挙げられる。
夏の南青山の弾き語りでは、よく最初に効果音(波の音、とか)が使われていることはある。
だが、ここまでSPCでPA(音響)が前面に出たステージを聴いたことはなかったように思える。
まるで、この日がフィッシュマンズナイトであるかのような、そんな錯覚さえ起こさせるほどであった。


1曲目の「耳の夢」から、PAが前面に出ていた。
そもそも、この曲が1曲目から演奏されることが珍しく、kuukuuやクアトロのライブでも、後半の佳境で演奏されることがほとんどであった。
「音楽だけをまとって」といったファンタジックな世界が、神秘的なシンセサイザーの音から始まり、繰り広げられる。
音楽をテーマにした曲として、ZABADAKに歌詞のみを提供した「遠い音楽」という曲が挙げられるが、「遠い音楽」が天然色系の色彩であるのに対し、「耳の夢」はパステルカラーの色彩が感じられる。
どちらも名曲ではあるが、「耳の夢」の方がより内部から音楽を実感し、浸っている印象を強く受ける。
転調前の間奏でソロが入り、その後のコーラスでエコーがかなり強調されて入る。
個人的にはkuukuuのときのような人海戦術の方が好きだが、男性ばかりのバンド編成で目一杯頑張るとこのような方法になるのだろうと、そのときは思っていた。


2曲目の「ムー」も、バンドでは珍しい。
かなり印象的な前奏の旋律が、シンセで奏でられる。
弾き語りもよいのだが(「星が落ちたよ」の後のギターの部分とか)、シンセが入った方がリアルさを人工音で包む分だけ、この曲は幻想感が強くなるように感じる。
あと、この曲に限った話ではないのだが、楠均のドラムのスティックが曲により、布を巻いてアタックを柔らかくするものを用いていた(ビブラフォンなどで用いる撥)。
チャカポコ感にあふれ、ドラム的というよりパーカッション的な響きに、クアトロ時代の空気を感じることができた。
この日は、楠均のドラムが普段より冴えているようには感じた。
個人的には(この言葉が多用されるが、申し訳ない)、3枚目のアルバムでは一番好きな曲である。
「静かな夜」という言葉の修飾語を作らせたときに、「楽器を忘れてきちゃったオーケストラのように」という語句を用意できるのは世界中で原マスミだけである。
2曲続けてかなりの冒険がプログラムに見られ(数年前ではまず考えられない)、先が期待できそうなステージであった。


「千年にひとり」で、いつもの曲調に戻る。
以前、クアトロ時代のライブで、「ビブラートをするには、首を振るとよい」といったアドバイスを小峰公子か誰かにしていた。
首ビブラートが、この後もあちこちで見られた。
曲後、「原マスミバンド」「ライブ」ではなく、「原マスミ」「バンドライブ」であることが力説される。
それであれば、SPCのリストも「原マスミ」とだけ載せればよいのでは、とも思うが、FABのステージ以来、「原マスミバンド」で載るようになっている。


「光の日にち」は「もう7~8年経っているでしょうか」と述べていたが、そんなものではきかないはずである。
青いgodin(ゴダン)ギターを抱えて、7カポにセットする(確か、そのくらいだったと思う)。
弾き語りのときは5カポぐらいだった気がするが、あまり自信はない。
音源化していない曲では一番好きな曲で、今日は1部からついていると感じる。
間奏の堀越信泰のボトルネックの響きが、おばけの出そうな青白く澄んだ怪しさを漂わせ、バンドならではの世界を提供してくれる。


近藤達郎がアコーディオンを背負い込み、「人間の秘密」と「も・いちど」が連続して演奏されることが予想される。
「人間の秘密」は、やはりPAが活躍し、「ワーイ」と叫ぶ部分でのエコーがあり、効果的であった。
こちらは1曲目よりも上手くいっているように思えた。
「人間の秘密」は、おそらく深い意味があるであろう振り付けが付く分、弾き語りよりも言葉の重みが伝わってくる。
「も・いちど」も、だいぶ今の編成が耳に馴染んできた。
クアトロでの演奏の頃は、小峰公子のコーラスばかりが耳に付いていたが、近藤達郎と楠均のオクターブユニゾンのコーラスがしっくりくるようになってきた。
前回は楠均の声の調子が本調子でなかったような感じだが、今回はドラムも声も本調子であった(2年に一度くらいこんなときがある)。
前回は堀越信泰のギターの上手さばかりが光ったが、この日はドラムデーであった。
もっとも、近藤達郎のコーラスがこの曲というのではなしに、入ってこないことがあった。
曲の別の部分に神経を注いでいたのではないかとも思われるが、やはり二人入ってこそのコーラスであるところがあるので、もうちょっとだけ無理をしてもらいたい。


「悲しいのはいやだ」「ずっと君が好きだった」と続く。
言われてみれば、この時点で声を張り上げるところは声の調子が本調子ではなかったのかもしれないが、かすれ系の変調なので、ひっくり返らない分気が付きにくかった。
「悲しいのはいやだ」は前回も書いたのであまり書くことはないが、よい歌詞である。
「人間の秘密」や今回演らなかった「空」あたりの方が第一印象は強いが、原マスミの人生観が実は一番出ている曲なのかもしれない。


「じゃあ聴いてください、さよなら人類」のMCが入るが、もちろん「さよなら人類」は演奏されない(「さよなら人類」が紹介されたことは多いが、実演は一度もない)。
「夜の幸」で、第一部の終了となる。
正直に書くと、最初アルバムを買ったとき、そこまでこの曲は好きではなかった。
ヒルティの『幸福論』第1章信奉者の当時の自分には、「いつまでも遊んでいようよ」の世界が実際よりも享楽的に映ってしまっていた。
だが、時が経ち20世紀も通り過ぎた今、この曲は儚げに映写機で映されたような幻想的世界を感じさせる絵のように感じられるようになった。
束の間の間だけ輝いていようとする妖精が、相応しいロータスの中で戯れている像である。
「さよなら人類」が演奏される日がいつ来るかは分からないが、「夜の幸」はエンディングの突然の途切れと余韻もあって、純粋に楽しめるようになった。
やはり、原マスミ曲は曲が終わった後の余韻も世界の一つであり、味わうべき空間であると感じる。
「海のふた」初演の後の長い沈黙の余韻は、曲に打ちひしがれた余韻に浸りたいがためであり、当人が考えていたような「しっくりいっていない」わけでは決してなかった。


第二部が、長い前奏から始まる。
「約束の満月」で、やっと気が付いたことが出てきた。
以下は、仮説なので見当外れかもしれない。
まず、「約束の満月」のバンドアレンジは、これ以上いじれないくらいに完成されている。
ピアノの音とフレットレスベースのスライドさせる音との調和が、鳥肌を立たせるくらいの存在感を生み出している。
静かな湖面かどこかで自分が佇み、満月の神秘的な光を浴びているような、そんな錯覚を起こさせる力がこの曲にはある。
だが、この日は美しい演奏だが、普段ほどではない印象だった。
これは、休憩明けの曲順のためだけではないのでは、と考えた。
この日は楠均の音はよく入ってきたが、ベースの内田ken太郎の音がさほど耳に残らないところがあった。
普段は、フレットレスだが歯切れのよい音で、印象にもよく残る。
だが、この日は音量だけは普段に負けない音量だが、クリアではなく重低音部主体の周波数を意識的に拾っているように感じた。
ピアノの音も、浮き立たせているというよりは、原マスミの後ろでピアノの音の残響が残っているぐらいの音の印象があった。
ところが、あれだけ大きな音で伴奏が鳴っているにも拘らず、原マスミの声がクリアに聴こえていたのは不思議であった。
考えた結果、辿り着いた結論が「音声識別のための周波数帯域を避けるように、楽器の周波数帯域を絞ったのではないか」というものだった。
ベースの音は重低音を基調として、ベースの音に輪郭を与える周波数帯域は犠牲にする。
キーボードも、おそらくは楽器が美しく聴こえる周波数調整ではなく、倍音成分を絞った基本周波数に重きを置いた調整をPAで行ったのではないだろうか。
ドラムはよく分からないが、今回は乾いた硬い音と、布で包んだアタックの弱い柔らかな音と、どちらかが多く中間はなかった。
気のせいかもしれないが、これも今回のための調整だったのかもしれない。


「フトンメイキン」が後半に来たのも珍しい。
普段は、前半の2曲目か3曲目辺りであろうか。
アルバムとほぼ同じアレンジで、ライブで聴けるのは嬉しい。
自分にとってはこの曲が原点であり、「非現実的」というより「超現実的」な世界が可視できるかのような歌詞と音が素晴らしい。
絵画で言えば、ダリやキリコ、マグリットあたりか(ピカソよりは音楽の色に光が感じられる)
堀越信泰の復帰後、この曲と「飛龍頭」の演奏頻度が上がったのは嬉しい。


「STEREO」は、何回か前のバンドライブで久方ぶりに演奏されていた。
堀越信泰の戻る前の服部夏樹がギターを担当していたときだったと思うが、そのときとは若干アレンジが異なっていた気がする。
メンバー全員、小さなパーカッションに持ち替えて演奏する部分があったが、今回に関してはその部分を見た印象がない。
この曲は、前回も今回も熱演で、生で聴くとよさが再確認できる曲である。
バンドでも弾き語りでも、歌い込んだ曲では決してないので、全力で声を絞り出す。
それがまずよい。
楠均のドラムがこの曲は素晴らしく、乾いた叩きの音が心地のよい少し変わったリズムで刻まれる。


この後、「カメラ」が来るのではないか、と考えていたら、MCの後本当に「カメラ」が演奏されて驚いた。
欲を言えば、MCなしにそのまま続くとなおよかった。
「カメラ」と「STEREO」の共通点、それは「ネコ」である(と思う)。
以前、この曲について知人と話をした際に、おそらく、「カメラ」も「ステレオ」もネコの名前であろうという結論に達した。
ネコが「甘いもの食べ」るのか、という疑問こそ残るが、他の部分はネコと考えると納得できる。
それにしても、ネコに「カメラ」という名前を付けるという感覚、これは凡人にはなかなか生まれない発想である。
今回も、ベースではなくギターでの演奏であった。
なお、MCで6/21に、くじら、bikke(ラブジョイの方)、原マスミの3人で、三軒茶屋でライブを行う告知があった。
思えば、表参道のFABでのライブも同じ顔ぶれであった。
このとき以降、しばらくバンドライブはお休みしていたし、小峰公子もこの後共演していない。
そして、今回のテーマ「原マスミバンド」という表記が生まれたのも、この3組の共演ライブのときであったと思う。
せっかく近藤達郎が出演するのだから、ギャラを少し上積みして原マスミステージでも参加してほしいものである。


「毛」は、PAがバリバリ入り、一番の「フィッシュマンズナイト」であった。
おそらく、フィッシュマンズは原マスミのファンなら、一度は聴きこんだ経験があるのではないか。
歌詞の座標軸が若干異なるが、佐藤伸治なき今、原マスミの音楽にエコーをかけまくったら、近い世界を味わえるのではないかと考えた両者のファンは少なくないはずである。
この曲は、もともと現実感からは距離を置いたアレンジなのだが、この日はフレーズの終わりに声のエコーや電気処理が強調されて入っていた。
今後も、「夢の四倍」あたりのアルバムの曲なら、この手法が効果的に生きてくるはずであり、喉の調子がよくなっても試みてほしいものである。


「イナフ」からは比較的新しい曲が続く。
散らかったままの部屋を肯定する精神が原マスミから唱えられたことは、個人的に大変心強い。
誰も気にしてはいないだろうし、興味もないであろうが、このブログは「散らかった部屋」という副題が付いている。
「散らかる」という言葉は、マイナスの意味に使われることが多い。
逆に、「整理・整頓」という言葉は、人間の社会生活に必要な、それがなければダメ人間とみなされかねない評価を受けている。
だが、常日頃から自分はそれに疑問を抱いている。
なるほど、最終的に提示されたものは、張った伏線も全て解消した秩序あるものを示すのが理想であろう。
だが、物事を生み出す場合、完全な秩序と整理の中からは、創造性に溢れたものは生まれないのではないだろうか。
何度も書いて申し訳ないが、寺山修司は闇を引き算したものではなく、物事を生み出す源泉のようなものとして捉えていた。
我々が取り戻さねばならないものは、実は光ではなく真の闇なのではないか、とも自分は感じる。
地理の教科書に「スプロール化現象」という言葉が出てくる。
都市計画もされずに、だらしなく秩序なく都市が開発されていく現象を指している。
このブログのタイトル「sprawl world」は、この言葉から自分が勝手に作った言葉である。
雑多で、分かりにくく、無秩序である世界(アウトローということでなく)、この中からしか新しい素数的な創造物は生まれないのではないかと考えている。
シンプルで、無駄が全部削ぎ落とされた引き算の世界からは、公約数と公倍数の計算できる世界しか生まれないのではないか。
語りたいことは尽きないが、ライブレポとは離れてきたので、さすがに今回はこの位にしておく。


「海のふた」は、定番曲。
喉は苦しいのかもしれないが、歌い方が部分部分で異なるだけで、いつもの世界が待っていた。
以前、讀賣新聞で同名曲のタイトルの連載が始まったとき、音源化されるのではないか、と期待していた。
文庫化はされたが、残念ながら音源化はされておらず、メンバーも含めて元気なうちにぜひ収録されてほしいものである。


「ブレーメン」、「教室」と、2番目と3番目に新しい曲が続く(一番新しいのは「イナフ」、「椰子の花」や「January」は入れていない中でだが)。
「ブレーメン」の歌詞は、今までの世界に対する自己否定ばかりではないのではないか、とも思えてきたのだが、まだ自分の中で結論は出ない。
「教室」は、ピアノの遠くから聴こえてくるかのような響きが印象的である。
教室ライブが思い起こされるが、残念ながらもう次はないらしい。
この曲も近藤達郎と楠均のコーラス(掛け声?)が入るはずだが、残念ながら近藤達郎の声が被ってこなかった。


アンコールの中、「アイス!アイス!アイス!」が演奏される。
本編に入れにくい、他の曲との時間の違いがあるので(他の曲の時間はケーブルカーが走っていない)、アンコールに置かれることが多い。
堀越信泰のボトルネックでのスライド音が、なかなか心地よくアイスを食べたくなる気にさせる。
「飛龍頭」でアンコールの本編終了。
「海のふた」同様ゼネラルポーズがあるが、拍手をわざと求めるようにしてブレークに入り、再演する。


BGMは鳴り始めていたが、再度のアンコールで登場。
明るい曲を、とのことで、日本一早い「冬の星座」の演奏となる。
この曲は、内田ken太郎のベースが一番目立ち、かっこよく弾かれる曲である。
楽器屋でベースを試奏するときに、誰もがこのフレーズを試したくなるような印象深いフレーズが繰り返される。
この日は、少し輪郭部の音域をカットされていたかに感じるベースだったが、さすがにこの曲はベースが主体で、聴いている方がほっとする。
演奏後、「よいお年を!」のMCで終了。
日本一早い年末が終了した。


今回のライブは、出そうとした音程をコントロールできないコンディションの悪さに関して、本人は不本意だったかもしれない。
だが、PAの活躍、プログラムの冒険、ドラムの冴え具合など、全てがそれを補完し、大成功のライブだったと言えるのではないか。
今後、喉の調子がよくなっても、今回のような挑戦的な試みを続ける限り、新鮮な感動を味わえるのではないかとの期待を持つことができた。


次のライブまで、ゆっくりと喉の保養に努めてほしいと思う。
もっとも、48時間後にはそのライブは終了しているが。

「経済最前線」/BS1


原マスミのライブレポを上げたいが、時間がかかるかもしれない。
別のテーマで、先に一本記したい。
今回は、手短に。


あまり、この手の番組を見るほうではなかったが、この番組は好きだった。
おそらく、全く経済について関心がなくても、この番組を見続けている視聴者も少なくないだろう。
23:40からの20分番組であるが、テーマの特集が充実しており、楽しむことができた。


先週まで神子田章博記者が、「編集長」を担当していた。
ちなみに、この番組ではメインキャスターを「編集長」と呼ぶ。
坂本朋彦(元NHK会長の孫にあたるアナウンサー)が昔やっていた「ハツラツ道場」という番組でいう「道場主」に相当する。
その後、「ハツラツ道場」はどうも道場破りにあったようで、道場主は現在、仙台放送局に勤務している。


話を「経済最前線」に戻すと、この番組には掛橋愛理というアシスタントの女性もいて、二人の組み合わせがとても気に入っていていた。
NHKの経済番組とは思えぬ、柔らかな掛け合いが親しめ、目を話せないところがあった。
個人的には「今井ゆうぞう&はいだしょうこ」の組み合わせの「おかあさんといっしょ」と同じくらい、「この二人でずっと続けて欲しい」と感じさせる組み合わせであった。
神子田章博は、以前はワシントン支局から記者レポートを伝えていたが、ここ2年は少なくともこの番組で活躍していた。
だが、このたび部署の異動が行われて、残念ながら「経済最前線」の編集長を離れることになった。


毎週金曜日に編集長のコラムがあるのだが、最終回はなかなかよかった。
「この国は腐っている」という有名な台詞のある経済映画を冒頭で紹介し、「この国は本当に腐っているのでしょうか」という提言で始まった。
「この国は決して腐ってはいない」という主張がすぐに示され、それがいろいろな取材を通して頑張っている人々を通してそのように実感できたようなことを述べていた。
そこで、第二の提言が示される。
「おカネはヒトを幸せにするでしょうか」という問いかけで、それをすぐに否定し、「ヒトを幸せにするのはヒトである」という自論を唱えた。
後の部分は転載せずに、文字に起こした記事を紹介しておきたい(厳密にはこの部分は「全文」ではなく「後半」、だが、ここが主題である)。
http://d.hatena.ne.jp/nuke/20090606/1244230896


この挨拶を見て、やはりこのキャスターだから自分のような人間が、楽しく見続けることができていたのだと実感した。
正直なところ、経済番組でこのような自論を唱えるのは、「青い」と思われてしまうところはあるであろう。
だが、このような「甘さ」があったからこそ、経済を一般の視聴者に伝えることができたのではないか、と考える。


ステーキで「ミディアム」という焼き方があるが、これは「中間」の焼き方を指す(個人的には「レア」でよく注文するが)。
「メディア」という言葉も「中間物」で、「伝え手」と「受け手」との中間に位置している。
「中間」にいるメディアは、専門的でありすぎるのがよいのであろうか。
おそらく、答えは「ノー」である。
受け手のことを常に意識しつつ、伝え手の意図を崩さない精神、それが「メディア」の持つべきあり方ではなかろうか。
「中間」ではなく、第三の点に座標を置く「メディア」も増えているようだが、この乖離は「メディア」の存在意義を低下させるのではないかと、個人的には考えている。
先週までの「経済最前線」は、まさしく「中間物」として、存在価値を持って輝いていた。


アシスタントの掛橋愛理も、決して経済通の雰囲気ではない。
BSの女性キャスターと言えば、メガネにスーツに英語が堪能という勝手なイメージがあるが、そのどこにも当てはまらない。
経済の病めるときも、健やかならざるときも、いつもニコニコとした笑顔で、株価の下がったニュースを明るく読んでくれる。
その精神は、相場の上下に一喜一憂するべきではないというメッセージを、視聴者に伝えてくれるかのようである。


「おカネが全てではない」という思想の記者と、経済に興味のない(ように見える)アシスタントの掛け合い。
この、「最前線」とは程遠い組み合わせで「経済」を論じていたこと、これが理想的な経済メディアを生み出していたのだとつくづく実感した。


新しい編集長が就任して、もう一週間経った(掛橋愛理はそのまま)。
神子田章博前編集長の異動先はまだ分からない。
新しい編集長は、おそらく優秀な経済記者で、手際のよい解説を行う。
まるで、経済番組を観ているかのような錯覚すら感じる。
だが、前の二人の組み合わせ、掛け合いは今でも脳裏に焼きついており、また二人で出演する番組が生まれて欲しいとも思う。
できれば、NHK総合の21時のニュースで、現在の担当者の代わりのポジションに収まってくれると非常に嬉しい。


神子田記者は、またワシントンに戻ってしまうのであろうか。
宮崎放送局に行ってしまった原口雅臣に続き、惜しい人材がまた身近な番組から消えてしまった。
だが、今後の神子田章博記者の活躍を、心から祈りたい。
どのような場所でどのようなテーマを扱っても、視聴者の心に届く取材を行ってもらえると強く信じている。
神子田章博記者を今後も応援し続けていくつもりである。



追記


最終回とは別の金曜日の動画が見つかった。
www.youtube.com/watch?v=hhsRxxELfzk
もちろん、毎回このようなことばかりしていたわけではない。
だが、二人の柔らかな掛け合いを示すのには、よいサンプルである。


最後の部分まで含め、おそらくは用意された「芝居」であろう。
NHKはこういった「芝居(猿芝居ともいう)」が好きで、首都圏ネットワーク(845と同じキャスター)という番組で、金曜日に見ることができる。
内多勝康(おそらく今は名古屋放送局、以前見た旅行番組では、野口五郎と駄洒落の飛ばしあいをしていた)、真下貴(大阪放送局、BS日本列島でよく見る)、池田達郎と歴代キャスターは皆、芝居を義務付けられる。
やはり、内多勝康が一番楽しそうに演じていたように思える。


神子田章博のよいところは、真面目で柔らかそうな雰囲気で、このような「芝居」をやってくれたところである。
動画は消されてしまっていなければ、ぜひ一見して欲しい。 



2011/10/30追記

番組が終了して久しいが、「掛橋愛理ブログ」というブログが存在しているのを発見した。

以下の記事と写真は、当時のファンにはとても嬉しい。

http://ameblo.jp/airi-kakehashi/entry-11062308649.html


秋の日の ヴィオロンの
ためいきの 身にしめて
ひたぶるに うら悲し


鐘のおとに 胸ふたぎ
色かへて 涙ぐむ
過ぎし日の おもひでや


げにわれは うらぶれて
こゝかしこ さだめなく
とび散らふ 落葉かな


(「落葉」 ヴェルレーヌ~上田敏訳)


この日はもともと、地元で将棋大会があるので(渡辺明永世竜王記念)、そちらに参加するつもりで仕事自体は外していた。
だが、名曲喫茶で、しかも手頃な価格でソロライブがあるとのことで、どちらに足を運ぶか迷った。
将棋大会には参加しなくても、ちょっと見学するくらいはできると思い、将棋大会は次の機会に譲ることにした。
「名曲喫茶」の類はどの店舗にも入ったことがないので、それも含め楽しみであった。
結局、午後の何時間か急な仕事が入ったので、これで正解であった。
幸い、そのまま阿佐ヶ谷に向かえば、充分開場に間に合いそうであった。


当日、まず、今月一度も行っていなかった二和向台の「ニューデリー」に、ランチを食しに向かう。
ショックなことに、貼り紙が貼ってあり、しばらく工事のためお休みだとのことである。
「閉店」とは書いていなかったので、しばらく待てば再開店すると思われるが(そうでないと本当に困る)、いつまでか書いていなかったのが心配である。
この店をつぶすわけにはいかないので月に一度は行くようにしていたし、このブログでも2回紹介したのだが、もっと頑張らなければいけなかった。
いつもランチに行くとそこそこ繁盛していたので、大きくする工事か水周りの工事なのかもしれない。
そうであれば、また美味しいカレーがすぐにでも食べられるようになるだろう。
仕方がないので、「鶏坊や」というラーメン屋で、久しぶりに自宅以外でラーメンを食べた(原マスミ大全集のとき以来)。
つけ麺で太麺だったので、また行くことがあれば同じものを注文したい。


仕事に行く前に、入賞する予定だった(結構賞品は豪華だった)将棋大会を覘いてみた。
入口に入るとすぐ横では、女流棋士が指導対局を行っていた。
アイドル的な容姿の女流棋士であったので誰かと思ったが、渡辺弥生(みお)女流2級であった。
日本将棋連盟のサイトでは、もう少し中背の、大き目の容姿を想像していたが、実物はこざっぱりとして品と知性があり、普及面でも活躍が期待できると感じた。
東大に2回入っている年齢にもまったく見えず、学生プロ棋士と変わらない純粋な直向さが見て取れた。
鈴木環那女流初段のようなアナウンサー並みの発語能力と将棋の実力がつけば、タイトル戦の中継でも見られるようになると思われるが、これは先の話かもしれない。
渡辺明永世竜王も、初めて生で見た(http://blog.goo.ne.jp/kishi-akira/ )。
第21期竜王戦は大変な熱戦で、第4局と第7局はネット中継で最後まで結果が分からず、楽しむことができた。
羽生善治名人は将棋界の最大の功労者であるが、渡辺明竜王もさるさる日記時代から情報発信に積極的で、「妻の小言」というブログ(http://inaw.exblog.jp/ )とともに毎日楽しませてもらっていて、両方応援したい気持ちが強かった。
もちろん、渡辺明永世竜王の指導対局も行っていたので、7月にはぜひ(将棋大会は無理でも)指導だけでも受けたいと感じた。


仕事が終わり、阿佐ヶ谷に向かう。
風情のある名曲喫茶が、駅から少し歩いた場所にあった(となりはタイ料理屋だった)。
「ヴィオロン」という喫茶店は、様々な音楽企画も行っているようで、店頭にいろいろな音楽企画のチラシが並んでいた。
今回の企画もそうだが、安価で多方面の音楽を支持している点はとても素晴らしく、末永く店舗も繁栄して欲しいと感じた。
開場前に「お嬢さんよろこんで」のハーモニカの音が流れてきて、この曲が聴けるのが分かる。
18時までは店舗も通常営業で、その後の設営だから、おそらく他の曲は会場ではぶっつけ本番であったであろう。


以下、セットリスト。
曲目は、ネットの動画で確認できたものが多く、だいたい大丈夫だと思う。
と思っていたら、本人のブログでリストが公開された。
過去のブログから、「ミルク・ミー」かと思っていた曲が「ピクニック」となっていた。
もしかすると、改題されたのかもしれない。


双葉双一LivE/名曲喫茶阿佐ヶ谷ヴィオロン(09/05/31)


1.悪い空想
2.あの子が好き
3.お嬢さん気をつけて
4.天使とドライブ
5.田園交響曲
6.だれのためのお客さん さて君は?


7.タワーホテル(タワーホテル組曲)
8.くらいはなし(タワーホテル組曲)
9.瞬き分の夜(タワーホテル組曲)
10.時はシガレット(タワーホテル組曲)


11.ピクニック
12.人生やってこい(完全版)
13.スポーツと気晴らし
14.走るのってすてき


15.お嬢さんよろこんで


開場後、カウンターでドリンク代込の1,000円を払い、選択権のない強制オレンジジュースを持ち、好きな席に向かう。
別料金を払ってでも珈琲を注文したい雰囲気であったが、またの機会と思うことにする。
布地の比較的ゆったり座れるソファーもあり、長く腰掛けても身体的な負担が少ない種の店舗であることが再認識させられる。
舞台にはギターが立てかけられていて、ハーモニカも台の上に並べられていた。
マイクなどの音響機器はなく、生歌のライブであることが分かる。
店内には、欧風アンティークな装飾品(特に音楽系が多い)が並べられていて、店の雰囲気を作り出している。
舞台の裏は、半地下から半2階ぐらいまでの高さがある大きなスピーカーがあり、その裏側も音響を重視した曲線状の空間が用意されていた。
そのスピーカーの上を、スーザホーンの朝顔のようなラッパ型スピーカー(ビクター犬が覗き込んでいるのと同じ形)が、何本も生えていた。
この建物自体がどこかの居ぬきでなく、最初から名曲喫茶を前提に建てられた建造物であることがよく分かった。
なお、古時計はたくさん置かれていたが、全部止まっていて、店内はさながら時間の止まった空間のようだった。
会場は中央が1段低い空間になっており、そこに10席ほど、両サイドに10席ずつ、後ろの空間に10席ぐらいと思われた。
だが、40人どころか60人ぐらいは入っていたかと思われ、店のキャパシティを考えると満員御礼といった様子であった。


定刻よりは少し遅れて、双葉双一の登場。
今回も、上から下まで黒い衣装であった。
黒いシャツはボタンのところにひらひらが付いていて、一番上までボタンをしっかり留めていた。


「悪い空想」でスタートする。
閉じた空間の中での「空想」が、この歌の主題であろうか。
アクセントを付けない3拍子の旋律が何度も繰り返す曲調が、「空想」が何度も表れる歌詞の反映とも取れる。
この曲に限らず、ハイポジションでのカポタスト(SHURBだった、原マスミなどと同じタイプ)の多用が見られ、指の長い左手では弾きにくくないかと心配になったところはある。
一般的な難点を言えば、小節ごとの和音の切替が点ではなく、幅を持っている点であろうか。
だが、この緩やかで自由な和音の移行までもが計算されて生み出されたかのような、不思議な調和がある。


「あの子が好き」は良かった。
個人的には、第1部では一番曲に浸ることができた。
3拍子の、タワーホテルをも思わせる前奏から引き込ませる。
「青い空、白い雲」といった定型句から始まるとは思えない、描写力のある世界がそこに待っている。
陰りのある歌い方と、コントラストのある澄んだ明るさのある歌詞とのコントラストが、切なさを増長させ印象的である。
特に、「黒い陰ひとつ作れないあの子が好き」の一句は、秀逸である。
この曲は非凡なシンプルさにより心情が浮彫になっており、もっと評価されてよい曲である。


「お嬢さん気をつけて」も3拍子の、一般受けもよさそうな曲である。
「レディーがランプに」の冒頭が、高音を張り上げる音程で、その後の旋律の流れも自然で聴きやすい。
この曲は動画などでも聴いたことはあるが、生歌の方が歌詞が聞き取りやすいように感じた。
この歌は、歌詞の完成度が非常に高い。
「他の歌はどうなのだ」と反論がありそうなので換言すると、1つの主題へのアプローチが他の曲以上に多方面から行われていると感じる。
「老人はそういうものが好きです」「命は短く、金は少ない」「春の大安売りだ」あたりの一見主題とは遠そうな言葉を、「お嬢さん」という方面に自然に結び付けている技量はやはり非凡といえる。


「きれいで優しく、おまけに双葉双一です」という短いMCの後、「天使とドライブ」が演奏される。
会場が名曲喫茶のため、音楽を聴かせるための作りになっていたせいか、音響が非常に良い。
440で聴いたときよりも、非日常のドライブの中の高揚感が強く感じられる
ギタリストとしての双葉双一は、この手の歌い手の中では珍しくppの響きを大事にしているように感じられる。
P.A.で増幅された音はppの音も増幅されてしまうが、生歌生演奏なら思う存分ppを響かせ、そこからfを浮遊させることができる。
ドライブの浮遊感をより感じることができたのは、この会場のこのステージの特性かもしれない。


「田園交響曲」も、「天使とドライブ」同様に440で演奏された曲の再演である。
この2曲は、どちらかというと、曲調より歌詞に耳が行く。
田舎教師の追想を主題にしながら、野暮ったさがまったくなく、どちらかと言えば欧風の田園風景が広がって見える。


「こんなにお客さんが集まったのは、イタリアの歌手が来て以来」とのMCが入る。
全般的に、MCは多くない。
また、自分の心情をそのまま語ることもほとんどない。
自分の作品が全てであり、それを伝えることを第一義に考えているためであろうか。


「だれのためのお客さん さて君は?」で、早くも第1部終了。
3部ぐらいの構成である予想がつく。
曲調は、打って変わってメロディアスになる。
「とびきりの歌をわからずやどもに歌ってやろう」という、ホームページのどこかに記載があった一節は、この曲の一節である。
だが、今回は歌詞の評価はできない。
部分的に印象的な一節はあちらこちらにあったのだが、全体を貫く主題をまだ見抜くことができないでいるからである。
休憩になるが、一般のライブハウスと異なりBGMが流れないままの空間が続く。


第2部は、「タワーホテル組曲」のみのステージで、間の拍手も不要という徹底ぶりである。
「天才の仕事を始めます」とのことで、演奏が始まる。


では、「天才」とは何であろうか。
よく、「説明不能」の語の置き換えでこの言葉が使われることがある。
だが、実際はもう少し積極的な意味がこの言葉にはあると、個人的には考えている。
自分なりに、「天才」という言葉を他の言葉に置き換えると、「跳躍」という言葉が当てはまるのではないかと考えている。
また、別の座標の同じようなプラス軸に、「職人」という言葉がまた存在するのではないか、とも考えている。
1から100まで順に積み上げていくのが「職人」であるとしたら(沢田ナオヤは多少「職人」寄りに見える)、同じ100のプロセスでは届かない地点に「跳躍」し、世界に組み込むのが「天才」ではないかと。
そのため、「天才」という言葉は正負両面から用いられることがあり、双葉双一の評価を一言で処理してしまうには便利な言葉ではある(ハーモニカについては「職人」的な部分も見られるが)。


「タワーホテル」は、やはり鳥肌が立ち、身震いがする。
「陰気な2人旅」のツアーで、毎回リクエストされたという噂があるが、やはり1番の名曲と言える。
サビ以外は、ほぼ語りに近い話し方で、夜の一つの場面が心情ごと映像化している。
音程からもリズムからも自由になった言葉は、より明確に浮き立っている。
「マンドリンのような音を聴いていた(この一節は何度聴いてもよい)」「時計よたっぷりと回転しておくれ」あたりの部分は、中でも印象的である。
何度も繰り返されるサビの部分、「タワーホテルで」のFメジャーセブンの直前のところで、思い切った不安定な和音を用いているのも、曲の完成度を高めている。


名残惜しい1曲目が終わり、「くらいはなし」に移行するが、余韻を打ち消さないような静けさがある曲である。
「ジュースにこぼれた涙は」で始まる冒頭は、全部ダウンストロークのノンビート。
2カポぐらいで、7ポジションの高音主体の和音を用いているので、開放の1弦とハイポジの2弦が共鳴しあって、静かな空間の中の空気の揺れに近い効果があった。


「瞬き分の夜」は、この組曲の中では多少異質なところがある。
残り3曲が決して活気を求めた曲ではないのに対し、「瞬き分の夜」にはビート感があり、コード進行もメジャー調である。
チャイコフスキーの「悲愴」で言えば、第2楽章(5拍子の曲として有名)のような存在であろうか。
組曲としての役割は、収束曲に向けてのコントラストと時の経過を生み出す働きがある。
だが、やはりこの曲の扱いは難しい。
曲順としては、本来「くらいはなし」の前に来たほうが、文脈的には自然であるようにも見える。
だが、それでは「タワーホテル」のせっかくの余韻が刹那に冷めてしまい、「くらいはなし」「時はシガレット」の連続も音楽的な効果を考えると打ち消しあってしまうところがある。
やはり、曲順はこのままでなければならない。
だが、やはりもう一つ難しい点があり、それはどこまでこの曲に活気を持たせてよいかという点である。
この曲は、単独で弾く分にはノリのよいフォークとして、いくらでも活気を与えることができる。
しかし、「組曲の1ピース」として考えた場合、あまりに色調が違いすぎるとアンティークに迂闊にはめ込んだ新品タイルのように浮いてしまう危険がある。
実際、440で全開で弾き込んだ演奏と比べると、まだffでどれだけ開放するかに迷いがあったようにも感じられた。
この4曲を組曲として発表する頃には、おそらくそれは解消されることかもしれない。
だが、その直前まで、おそらく「理想の形」を試行し、追究していこうとするのではないだろうか。


「時はシガレット」は、音程の変化の少ない、「呟き」のような言葉の連続で全体が構成され、嫌でも歌詞が浮き立つ。
「彼女の空けた穴」「秘密のノート」などの具体が、ステレオタイプな追憶に収束させない効果を生み出している。
おそらく、4曲を通して、実体験ではなく自らの作り出したフィクションの中で、この世界を映像化させ生み出していったものと思われる。
このあたりが、双葉双一の「跳梁」の真骨頂だと考えているのだが、どうであろうか。
また、言葉の響きにも気を使っており、例えば「時はシガレット」「夜はベルベット」の対比なども、韻を踏んでいて美しい。


あえて、この4曲のみでこの第2部を構成したのが、おそらくはこの日のこの舞台の第一の目的であろう。
本人のブログにも記載があったが、この日の客のマナーのよさは特筆すべきかもしれない。
この4曲に静かに耳を傾け、初めの言葉どおり全曲終えるまで拍手も私語もなく、「タワーホテル組曲」世界の構築に力を貸していた。
ほんの4曲ではあったが30分程度の時間を要したこの第2部は、今回のライブの最大の成功であり、充実した濃縮された時間であったと総括されよう。


第2部の終わりと第3部の初めで、「笑い」をテーマにした曲が披露される伏線のMCがある。
おそらく、この曲が来るだろう予想していた曲が、「ピクニック」であり、想定どおり演奏された。
過去のブログでは「ミルク・ミー」という曲がリストにあり、この曲は同曲と思われるが、「ピクニック」の方が内容の理解にとって適切である。
「高原牧場」での行動と所感が、一時的なものなのか継続的なものなのかで、曲の解釈が異なってくる。
「ピクニック」というタイトルは、その問に対する解答となりえて、イメージの構築に安心感を与える。
歌詞だけ見ると、用いられている言葉が明らかに他曲とは異質で、笑わせることのみをテーマとしているようにも取られかねないところはある。
だが、「文明が進む前の昔の人のように」自然に感じたままの思いを、シンプルに表出していこうという万葉集的な精神の習作であったのかもしれない。
そのことが(おそらく副題でもあろう)「愛と平和のギャグ精神」とも結びついている、といった思想があったのではないだろうか。


「人生やってこい(完全版)」は、ファーストアルバムに入っているバージョンより長い長い。
これは、純粋に面白い。
「ヒット打ってこい」あたりの発展が、突っ込みどころの多い命令に展開していき、最終的には主題に収束される。
前言撤回的な面白さと、現実乖離的なはみ出しっぷりが、淡々と繰り返されているところが、また笑いを誘う。


「スポーツと気晴らし」も、「陰気な二人旅」ツアーで聴いた曲である。
さすがに、3曲続けて「笑わせる」曲とはならず、メロディーとテンポのある曲の演奏である。


「普段は…」と言いかけて、「やっぱり止めた」とMCを遮断する。
そのときの、率直な心情をおそらくは述べようとしたのであろうが、本人の日頃の意識がそれを許さなかったのかもしれない。
おそらく、それを咎める観客はおらず、逆に知りたいとさえ考えていたはずであるが、楽屋の暴露は俗な私小説的世界に繋がりかねないと、美意識がブレーキに足をかけたのかもしれない。
そして、代わりに「残念なお知らせ」が、本人の口から発せられる。
本人のブログにも記載があったが、6月下旬発売予定のアルバムが、レコード会社を決めるところからやり直しになったことである。
このMCを聞いたときに、「最近繋がりもできたことだし、地球レコードあたりからでも出せばよいではないか」と、軽く考えていた。
だが、ブログの真意を汲み取ると、それ以上のものを求めている決意だったのであろう。
正直、早くなくて構わないので、本当に満足のいく結晶としてCDが形になることを望みたい。


プログラム最後は、「走るのってすてき」の演奏となる。
柔らかな3拍子が軽やかで、「素敵」という言葉をとても自然に口に出せる爽快さが感じられる。
だが、もしかすると、「走る」ということは創作における内外両面の辛苦を飛び越えていくことであり、その貴さを自他に示そうとしているのかもしれない。
「走る」が象徴的な使われ方をしているのかは分からないが、ワンマンライブのプログラムの最後に置かれたところを考えると、自分にはそのように思われてならない。


予想どおりアンコールとなり、予想どおり「お嬢さんよろこんで」が演奏される。
双葉双一曲のアレンジの一つの特色として、後奏の長さが挙げられる。
下手をすると、原マスミの「ピアノ」並みに長いかもしれない。
この「お嬢さんよろこんで」や、前回「わたしの人魚姫1」などは、見事なハーモニカの演奏がスケールの大きなギターの伴奏と重なり、延々と示される。
もう一度歌に戻って、といった欲深さはなく、あくまでも今伝えた言葉の世界に余韻を与える役割を担い、一つの世界に赤絨毯の丁寧な着地点を与えている。
この曲は、「お嬢さん気をつけて」とは逆で、一つの面からひたすら「お嬢さん」に対する自己犠牲をも含んだ一途な愛情を示している。
この文学的な一途な世界は、やはり聴き手に身震いをさせる一つの大きな力を持ち、自分がその世界の登場人物になったかのような錯覚さえ引き起こさせる。
特に、「風邪でもひいちゃえ」「もしあなたと心中したら」「わずか~の命だってね」のあたりは、引き込まれて聴いてしまう。


長い長い後奏の後、「今日はありがとうございました」の挨拶があり、満足感を覚え、ステージは終了した。
もしかすると、もう1曲ぐらいアンコールがあったのかもしれないが、他の多くの観客も満足感を覚えたのだろう、拍手が途切れ鳴り止んだ。
アンコールという行為は、観客の満足感だけでなく、物足りなさの裏返しでもある。
正直、この曲で終わるべきだと思ったし、この後にどの曲を置いたらさらによいステージになるのか、全く思い浮かばなかった。
1000円では安すぎるぐらいの充実したステージで、その思いのまま阿佐ヶ谷を後にした。


今回のステージについては、もう特に述べることは残っていない。
演奏家としての双葉双一に議論を移すと、ギタリストとして、ボーカリストとして、まだ伸び代はあり、さらに上を目指すことはできる。
だが、今後も技術だけを追求する必要はなく、表現を通じ理想形に近づいていけばよいのではないか、とも率直に感じた。
一番大事なもののためには、他の些細な要素を犠牲にする精神が、もしかしたら双葉双一の表現そのものかもしれない。


話題が飛んで申し訳ないが、考えたことを1点だけ述べる。
以前、ネット上の掲示板で、原マスミと双葉双一の比較が論じられていたことがあった。
当時、双葉双一を知らなかった自分は傍観するのみであったが、少し作品を齧ったことでもあるので、自論を少し示したい。
原マスミは詩人であり、言葉の構成ではなく、一つ一つの言葉にきらめきを持たせている。
「信号機の横の窪んだところで」などという言葉の、妙なリアルさが音楽上で独自の世界を構築している。
逆に、双葉双一は小説家であり、一つ一つの言葉は登場人物のいる世界の中で、必然的な意味を持ち、繋がりを持たせている。
おそらくは、本人の中では登場人物のディテールまでもが想定されていて、その世界を崩さずに言葉と音とを選んでいるのであろう。
音楽的には、歌詞主体の曲付けの意識が感じられ、原マスミより友部正人の方に近い(本人が志向しているので当然ではあるが)。
原マスミは、(特に初期は)歌詞とは独立した曲自体に一つの彩色があり、その微妙な調和・不調和が魅力の一つでもあった。


双葉双一の次回ライブは7月だが、6月には原マスミのライブが続く。
考えてみれば、今年は行く機会を逃し続けていたので、久しぶりに楽しんできたい。

東京カレーラボ アーモンドチキンカレー〈中辛〉/江崎グリコ


今月、まだカレーについては何も記していない。
デリーのルーとグリーンカレーのペーストとで、代わり番こにカレーを作り、食してはいた。
だが、レシピと言えるほどのたいしたものではないので、レトルトについて1つ採り上げることにする。


「東京カレーラボ」自体は、東京タワーの中にあるカレーショップらしい(行ったことはない)。
「アーモンドチキンカレー」も店内で注文すると、1000円ぐらいするらしい。
武蔵小金井のぷーさんや神保町の共栄堂でも、1000円ぐらいの値段は普通にするので美味しければよいだけのことではある。
だが、場所柄、地代や人件費、宣伝費の割合が、他店よりも大きいのではないかとも勘繰ってしまう(実際のところは分からないが)。
もちろん、機会があればそういったコンセプト系の店にも足を運んでみたいが(そういえば横浜カレーミュージアムもだいぶ前につぶれてしまったらしい)、場所柄なかなか機会がない。


このレトルトバージョンは定価も300円と手頃であり(スーパーだともう少し安い)、店で1食する値段で3箱は楽に買えてしまう。
ルー自体の味は、(店のものを食べたことはないが)おそらく特徴ある製法はそのまま踏襲していると思われる。
昔、御茶ノ水の「エチオピア」もチキンカレーとビーフカレーを、メーカーからのレトルト製品で出していたが、そのときも店のルーに近い本格的なものであった。
一般的に、この手のレトルトカレーは、店の評判を落とすことがないように、しっかりと監修が付いて味の管理がされていることが多い。
期間限定品が少なくないことが、少々残念なところではあるが。


「アーモンド」と言っても、クラッシュやスライスのアーモンドがトッピングされているわけではない(自分でかけるのはありだとは思う)。
おそらく、パウダーか溶かすか(どうやって?)して、カレーの味に溶け込むようにアーモンドは使用されているのであろう。
ナッツ系かクリーム系か分からないが、まろやかなコクと深みがあり、インドカレーで言えばチキンコルマをたっぷりクリーミーにしたところに近い。
もちろん、いわゆるインド系のカレーではなく、匙で掬うととろとろとしたまろやかさがある(「デミカレー」レベル)。
カシミールカレーやタイグリーンカレーを毎日食した後だともちろん辛さは弱いが、甘すぎると言うほどではない。
アーモンド系、クリーミー系の他に、フルーティーな後味と奥行きが感じられたので、りんごがある程度の隠し味として活用されているのであろう。
実際、辛さだけを求めていないのであれば、口にルーを入れたときにも、いろいろ混ざり合った味のハーモニーを楽しむことができ、トッピングの活用によりさらに幅が広がることも予想される。
原材料で言えば、ウスターソースが由来と思われる、ルーの土台の味付けがしっかりしていて、飽きが来ないメリットがある。
共栄堂のカレーのように、至近距離で見ると黒い小さな点が分かり、煮込みか何かの過程でルーに旨味が溶け込んだことが確認できる。


鶏肉が2切れ入っているが、硬めで圧縮された紙を食べているようにも感じる。
熱を加えすぎた牛肉のようであり、よく噛んでも鶏肉の名残はあまり残ってはいない。
おそらく、この点が誰の目にも明らかな短所であり、市販のサラダ系チキンのパックを温めて別に入れるのがよいと感じた。
法律上、レトルト食品は(たとえ加熱するにしても)生肉を食材として加えることができない。
そのため、うどんすきなどのセットの肉も、一度ボイルされてパックされる。
だが、柔らかく煮込んである加工肉は、ヌードル系でもカレー系でも味が染み込みながら、肉であることのアイデンティティを主張し続けることが少なくない。
ここまで細かいルーのバランスに気を配りながらどうして、という思いはあるが、もしかするとここが大きく値段の設定を変えてしまう要素なのかもしれない。
ルーさえしっかりしたものがあれば、肉は自分で加工するにせよ加工品を揃えるにせよ、自分でも入れることはできる。
本家の店は柔らかくて美味しい肉を使っているらしいので、その部分がささやかな差別化の抵抗であったのだろうか。


このカレーの(自分にとっての)最大の長所は、インド系でないにもかかわらず重い味付けでなく、コクも味わえるところである。
レトルトでコクを求めると、胃にもたれて何時間も胃から欧風カレーの自己主張が上がってくることも多い。
だが、このカレーはスープ的な舌触りと喉越しを残しながら、スパイスが直接体内で交友するインド系とは一味違う「素材から引き出された味」を大切にしているところがある。
「食材至上主義」のレトルト派には、おそらく向くカレーではない。
しかし、自分のような「スパイス至上主義」の人間には、「辛物好き」「インド系好き」であっても、理解できる部分はたぶんに感じられると思う。
「研究所」でこれよりユニークで、人口に膾炙するものが出てくるかは分からない。
それでも、このカレーを世に出し、レトルトの形で一般の家で食することができるようにしたのは、大いに意義のあることと言えよう。


このカレーはあまりコンビニでは見ないが、西友には置いてあった。
西荻窪にも津田沼にもあったので、西友であれば購入できると思われる。
個人的には、このカレーの固形のルーが販売されたら、台所に常備しておきたいと感じた。


大人の日~柳原陽一郎の宵/下北沢440(09/05/06) 
柳原陽一郎+Medicine Men<加藤一誠(G)開 輝之(B)沼倉 寿(Ds)>


1.スマイル
2.ゴーイングホーム
3.ねこなのだぁ
4.哀しみ
5.がんばって
6.そして、ペンギンは語る
7.君を気にしてる
8.ハレルヤ


9.徘徊ロック
10.流れてゆこう
11.人魚の時間
12.まわれ糸車
13.決めないの知らないの
14.きみの重さ
15.愛のSOLEA
16.キングオブロケンロール
17.長いお別れ


18.僕の自転車の後ろに乗りなよ
19.キミノタメナラシネル
20.奇跡の人


21.徘徊ロック


前のライブの更新が遅れたため、2週間遅れのレポとなる。
この日のライブで、3週間でたまの4人を全部生で聴いたことになる(もっとも、石川浩司にはお金を落としていないが)。
石川浩司も滝本晃司も、たま時代の曲を演奏したわけではないが、「らしい」姿を見せてくれた。


正直なところ、今回のライブは見送るかどうか迷った。
最近、比較的似た選曲が続いていたので、もう少し自分自身が新鮮な気持ちで聴けるようになったときにでも、また行こうかと考えていた。
原マスミは毎回同じ選曲、ステージでも、一生通い続ける覚悟は自分自身の中で出来ている。
柳原陽一郎の場合、ステージがよいのでついつい毎回出向いているところがあるので、今回1回パスした方が次回がより楽しめるのではないかとも考えた。
だが、バンドバージョンのライブに足を運んだのは久しく前になるので、やはり行くことにした。


この日は頭痛がひどく、ピットインの原マスミのステージは断念したが、予約の取消のできない440なので、頑張って下北沢に向かう。
前3回のたまメンバーは比較的近くで見ることができたが、今回の柳原陽一郎はかなり後ろの席になった。
人気のほどが伺わせられる。
いつもと異なり灰皿が並び喫煙する観客もいたので、まさか復煙したのかと思ったが、ライブが始まるといつものように灰皿が片付けられた。
多分、スタッフが忘れただけなのだろう。


最初は1人で登場。
今回も、ピアノマン(厳密にはキーボード)に徹するようだった。
喉の調子が、この日やっとよくなってきたとのことである。
医者が、なかなか花粉症と言ってくれないらしい。
言ってくれたらどんなに楽だか、という人生上の場面は他にもいろいろ想定できるが、あまり深く掘り下げないことにする。
しっとりした曲が続くという予告があるが、これは喉の調子を考えてあらかじめ作られたプログラムだったのかもしれない。


チャーリー・チャップリンの「スマイル」でスタート。
映画「モダンタイムス」の最後に歌われていた記憶がある。
日本語に訳された内容は「いつも、どんなときも、スマイル」というメッセージがかなり直接的に示されている。
ホフディランの同名曲の精神が、ここでも感じられる。
「ゴーイングホーム」は、最近の定番曲の一つ。
確か、派遣切りか何かの報道から生み出された曲であったと記憶している。
この曲に限った話ではないが、最近の柳原作品は弱者や報われない者に対する慈しみの視点が目立つ。
社会を全体に批判の目を向けるのではなく、その中の一人一人の個人に励ましを送ろうという姿勢が、「泣いているのは君だけじゃないよ」以降、よく見られるようになっている。
力を抜き、現状を受け入れ、それでも前を向いて生きること、それをゆったりした明るい曲で歌うのが、現在のモードであるとは感じる。


「ねこなのだぁ」は、キーボード1本では始めて演奏された曲であるかもしれない(自信はないが)。
マチルダロドリゲス(あと、かわいしのぶあたり)と一緒に活動をしていた頃は、比較的聴いた曲ではあった(もちろんバンド編成で)。
この頃の歌詞は、言葉の選び方がかなり頑張っていて、洗練された印象がある(いわゆる柳原節が少ない)
「テキーラを飲み干して」「バレリーナよりも高く跳ぶ」「野苺と戯れて」など、カッコいい具体が次々と提示される。
今と異なり「脱力」はないが、久しぶりに聴くと詞の完成度の高さは実感させられる。
2人称の対象像(最後は「オレたちゃやっぱり」となるが)に象徴的なものを当てているところは、「サボテンちゃん」あたりとも多少通ずる。
曲調の違いは、水谷浩章後のモードとの違いではあるが、やはり変わらぬ視点や手法といったものもあると感じさせる。
どうでもよいことだが、「~なのだぁ」はバカボンパパを思い起こさせる。
「哀しみ」は、ケチャップの曲に柳原陽一郎の詞を付けたものであり、美しい旋律であった。
ウェアハウスとの共同制作以来、他人の作品や競作を自分の世界に取り込んでいくところが多く見られるようになった。
初期・中期と比べて、楽曲で使われる和音の色調が、原色系から中間色系に重心を移している感があるのも、そのためであろう。
「哀しみ」は、曲としては小林明子の「恋に落ちて」系のしっとりさを強調させ、和音使いを繊細にした感じであろうか。


「がんばって」は、この日に発表された新曲である。
さえない人に対する応援歌として作られたらしい。
「我が家が真っ赤に燃えたとき、お前はツバメと踊ってた」といった歌詞があったように記憶しているが、このあたりの「笑える悲壮感」が真骨頂であろうか。
ただありきたりな一般論を語るのではない説得力が、極端でありながら映像的な具体の存在によって生み出されている。
曲調は「だめもと節」系か。
「そして、ペンギンは語る」も、「哀しみ」同様に作詞のみ柳原陽一郎作品である(作曲はWarehouseのベーシスト大坪寛彦)。
「オーロララララ、アンドロメダダ」のさびの部分の、ゆったりした三拍子が心地よい。
個人的には好きな曲の一つだが、作曲者との共演以外に演奏の機会がなかったので、この日聴けたのは嬉しい誤算であった。
最近の曲で音源化されて欲しい曲を一曲選ぶとしたら、この曲を自分は選択するかもしれない。


「きみを気にしてる」も予想外の曲である。
おそらく、作り手にとってこの曲は相当な「特別な曲」であり、「思うところある決心の日」にのみ披露されてきた歴史がある。
今回は、「長いお別れ」の再発のための披露かもしれないが、まあそんなことはどうでもよい。
歌詞は、誰が聴いても、同じように解釈される曲であろう。
いつも作り手の思いが伝わる演奏であるが、この日も名演であった。
関係ないが、この曲の頃は「頑張れ」という言葉が「嫌いな言葉」として提示されているが、「がんばって」という曲も同時に歌われているところが面白い。
もちろん、「がんばって」は報われない弱者に向けられた言葉で、No.1を目指す志向の「頑張れ」とは異なっていることは聴き手は皆理解している。
「ハレルヤ」で、第1部終了。
この日のステージにたまの曲はなかったが、たま時代から歌い続けてきたこの曲は、もはやカバー曲といったレベルではないだろう。
「月や星の歌ばかり歌っているのに」あたりの歌詞は、当時の自身の投影とも取れ、他のどの自作曲よりも本人の輪郭が感じられる。
なお、「屋根の上で水浴びしてる~」は、旧約聖書に出典がある(その後の展開はだいぶ違うが)。
一つの歌の中で次々と様々な世界を歌い散らかしていく様は、独創的な混色にも感じられ、味わい豊かな世界を創り出している。


第2部は、バンドステージ。
メディシン・メン(Medicine Men)の面々がバックであったが、加藤一誠以外はお初の顔ぶれであった。


「徘徊ロック」は、前まで「No.5」という言葉が付いていたが、今回のMCではそれがなかった。
一応、MCどおりの表記にしておく。
そもそも、「No.5」という表記は、作り手以外には謎に包まれていた記号であったため、決定版が出て取り外された可能性はある。
上声でハモリが付く。
加藤一誠は、今回はエレキギターを構える。
ベースは寡黙な職人系の見た目である。
背が高く、帽子を被り(この日はバック全員帽子着用)、見た感じは倉橋ヨエコのバックでよく弾いてたメガネレンチのベーシスト、ジャンボリー時光にも似ていた。
ドラムは、あまり見えなかったので風貌はよく分からない。
4/15からの練習で、この日に備えたらしい(http://hanabsa-kt.seesaa.net/article/117534091.html )。
ベースもドラムも腕は悪くないと思われるので、次回は周到な準備ができることを期待したい。


「流れてゆこう」「人魚の時間」は、旧譜からの演奏であり、「ねこなのだぁ」より少し前の時期の曲である。
「ねこなのだぁ」「ハニー・ムーン」あたりの曲の歌詞はよくできたフィクションであり、一つ一つ言葉を磨き上げてからショーウインドーに並べられている感がある。
それに対して、ここら辺の曲はたいへん喉越しがよく、するっと入っていくところがある。
個人的には、「人魚の時間」などはきれいにまとまった短編といった雰囲気があり、よい曲だとは思う。
だが、この時代の曲は喉越しのよさと引換えに刺激物も少なく、中毒性にもかけるところはないとはいえない。
水谷浩章との共演以降、この時代の曲の印象がどんどん薄くなっていったのも、演奏機会の少なさだけが原因ではないだろう。


「まわれ糸車」で、加藤一誠のギターがエレキからアコースティックにいったん替わる。
既にJIROKICHIなどでも共演済みの曲であるので、やはり加藤一誠のギターソロは際立つ。
個人的には、第2部で一番よい出来であったと言えると思う(この曲が好きだという理由もあるが)。
加藤一誠のギターは、アコースティックであれだけの技術を魅せつけるところに価値があり、エレキだとギターの魅力がなかなか浮彫にされてこないもったいなさはある。


「決めないの知らないの」は最近の曲だが、今回再発されたアルバムの曲と、音楽的な温度差が不思議に少ない。
原点帰りしたというよりは、メッセージ優先で、一番しっくりくる旋律がこの形だったのではないだろうか。
「きみの重さ」は、やはり喉越しのよいメロディーラインで、さらりと通り過ぎる。
「嘘つき鳥が~」といった印象深いキーワードが散りばめられているのは、どの時代にも共通であるが。


「愛のSOLEA」は、間奏の加藤一誠のソロが美しい。
ベテラン演奏家たちとのセッションと比べても、このギターは見劣りがしない。
ベースがコントラバスに持ち替えたのはこの曲だった気がする。
「キングオブロケンロール」は、やはりこの編成で聴くべき曲である。
曲自体が(和音も含め)あまり「ロケンロール」でないので、編成がバンド編成になるだけでだいぶ違う。


「長いお別れ」は、再発アルバムの表題曲。
おそらく、旧譜再発に合わせた選曲なのであろう。
今年、あと何回かは演奏が聴けると期待される。
一応、この曲で2部終了。


アンコール1曲目は1人で登場。
「僕の自転車の後ろに乗りなよ」は、RCサクセションの曲のカバー。
この数日前に逝去した忌野清志郎の追悼の意味が、もちろんあったと考えられる。
「スマイル」と同じ、ブンチャ型の伴奏で、細かい転調が顔を出す繰り返しがなかなか面白い曲である。
RCサクセションは「初期のRCサクセション(←アルバム名)」は好きで、「金儲けのために生まれたんじゃないぜ」あたりはかなり生き方に影響を受けた曲である。
宝くじは個人的には当たってくれるに越したことはないが、何のために生きてきたのかは見失わないようにしたい、そう再認識させてくれる。


「キミノタメナラシネル」は、「愛の嵐」あたりと同時期の曲で、ひねりとは反対の意味でなかなか一般人には付けられないタイトルの曲を、あえて作っていた頃の作品である。
音楽的には当たりのよいポップスになるのかもしれないが、一応「one take ok」の頃の曲である。
「奇跡の人」も懐かしい。
いったい、いつ以来だろうか。
40歳の誕生日ライブのときに、時代順に振り返った演奏をしていたが、そのときはエレキギター1本で弾き語っていた。
だが、この曲はAメロ、Bメロ、サビと、メロディーやリズムが変化している面白さがあるので、リズムセクションが入った方が遥かによい。
個人的には、ここで終わるのが余韻を残すのに、本当はよいのだろうとは思った。
「愛しあってるかーい」と何度も叫び、いったん退場。


再び登場し、再度の「徘徊ロック」の演奏で終了。
前回、JIROKICHIでも、この曲はアンコールでもう1回演った。
そのときはリクエストがあったためだが、今回は「もう曲がない」ためであった。
そういえば、昔、与野にスティーブライヒの演奏を見にいったことがあるが、そのときも当然のようにアンコールがあった。
その日は「ドラミング」全楽章がメインであったので、アンコールはクラッピングミュージックあたりの軽いものだと予想していた。
ところが、演奏されたのは、たった今終わったばかりのドラミングの4楽章であった(せめて1楽章の方がまだ軽かった)。
ちなみに、これが今まで聴いた一番重いアンコールであり、音楽的には、かなりおなかいっぱいになって帰ることになった。
話を「徘徊ロック」に戻すと、1回目の演奏よりも自由度が高く、フレーズの合間にやはり「愛しあってるかーい」を連発していた。


「ブルースを捧ぐ」と「おろかな日々」は、本当に久しぶりに演奏しなかった(両方ともなしは初めてかもしれない)。
曲が生まれてからは毎回のように、「帰宅部」というネタ曲バンドの演奏ですら、この2曲は演奏されていた。
今回のライブの位置づけであるが、いろいろ考えられることはある。
1)純粋に、アルバム再発の記念ライブ。
2)新作アルバムの構成や人選の準備。おそらく、加藤一誠は次回アルバムで何曲かに参加することになるであろう。
3)来年の1月に、440で行われる予定のライブ(決定ではないので詳細は一応ここでは伏せておく)に向けての「旧譜の虫干」。
4)加藤一誠を交えた、ライブ後の合コン。


前にワタナベイビーが、その日一緒のステージに上がったテルスターやサードクラスを「舎弟」と呼んでいた(Club Qにて)。
考えてみると、対等か大御所のミュージシャンは周りにいても、「舎弟」に近い若者は加藤一誠ぐらいである(ライブのために早めに帰省から戻ってくれたこともある)。
若くて技術のある加藤一誠(見た目も爽やか)は、音楽的に若い新鮮な刺激を受け続けるには、とても貴重な存在と言える。
正直なところ、この日の選曲をもっと上手に弾けるバックはいるであろう。
だが、若さや情熱の部分などを含めてステージを満喫しようとの考えが(おそらく)あり、旧知のミュージシャンでなくメディシン・メンに託したのであろう。
いつまでもとは言わないが、長くつながりを持って欲しいミューシャンである


久々のバンドライブだったが、個人的には1部がよかった。
バンド曲は、意外とさらりと流れてしまい、印象に残りにくいところはあった。
だが2部も、「人魚の時間」「奇跡の人」あたりが聴けたのは無理して行った甲斐があった(頭痛は途中で薬が効いてきてよくなった)とは思う。


来年の1月の440が入れるのか本気で心配になるが(できれば「春夏秋冬柳原」購読者枠があると嬉しい)、楽しみではある(ライブレポでも何でも書くので入れてくれないだろうか)。
秋の谷山浩子との共演も、本当に楽しみである。
名曲「窓」「Lady Daisy」あたりが聴けると嬉しいが、「ローリングダウン」あたりのトラウマソングも聴いてみたい。
柳原曲では、「あの娘は雨女」「オゾンのダンス」あたりが、特定の時期の谷山浩子の曲の温度に近いだろうか(この日の曲なら「ペンギン」あたりか)。


何はともあれ、3週間でたま4人を全員聴いた。
いろいろ考えたこともあったはずだが、今回はこのくらいにして、気が向いたら加筆したい。

曲目確認と締め切りに終われ、2週間も経ってしまった。
やっと時間が少し取れたので、何とか上げられそうである。


オレとナオヤのロングトーンvol.1/下北沢440(ゲスト滝本晃司 09/05/02) 


(沢田ナオヤ)
1.ヘイウーマン
2.毎日の今日
3.そばにいておくれ
4.月夜のカルテット
5.チキンライス
6.昼の途中で
7.ロングトーン
8.ボール
9.Beautiful Day


(滝本晃司)
10.楽し楽しい時間
11.おひる
12.落下
13.G線上のスキップ
14.空の下(ウクレレ)
15.雨の日の午後
16.ガラスのコップの

17.また雨のうた


(双葉双一)
18.あたしのハート
19.ワルプルギスの夜
20.田園交響曲
21.天使とドライブ
22.アンダースロウ
23.わたしの人魚姫1
24.ピクニック
25.恢復期
26.デビリー


27.瞬き分の夜(双葉双一)
28.ラブソング(沢田ナオヤ)
29.自転車にのって(滝本晃司)


この日の3人は、単体でのライブに足を運んだことはない。
どれも共通の共演者がいて、そちらを聴きにライブに行ったのだが、残念ながらその共演者は月末までカンボジアに虫取りに行っている。
だが、それぞれの世界をそれぞれに持っており、MCも他では聴けない話風である。
この話芸が3人揃って聴けるということで、これは行かないわけにはいかぬと、メキシコへの日帰り旅行を断念し下北沢に向かった。


沢田ナオヤは、2年ぐらい前の「マンダラ2」での知久寿焼ライブのゲストで出演したとき、一度聴いた。
「晴れたら空に豆まいて」で双葉双一とは共演していたが、それには行けなかった。
巻上公一はともかく、ジョンソンtsuについては観ておきたかったが、また次の機会である。
ジョンソンtsuは、関西が活動の地盤らしいが、公式ブログが露西亜語と和語の対訳になっており、負担も大きかろうが美しい。
ガットギターで爪弾くワールドミュージック(ジプシーまたは東欧から中央アジアあたりに近いか、モスクア周辺よりはねっとりしている、ラテンの混血も感じられる)的な曲調が特徴である。
マイスペースで何曲か聴いたが、日本で(血はどこかの国のクオーターのようだが)これに近い音楽を創るミュージシャンを自分は知らない。
集客力にはやや欠けるが、「オレとナオヤのロングトーン」の企画が続いたら、一度呼んで欲しいゲストである。


沢田ナオヤのステージで、滝本晃司を二人とも敬愛していることや、最後が双葉双一ステージであることが話される。
心の準備が、ある程度そこでできる。
MCは相変わらず素晴らしく、一日中家でギターを練習している職人が、無理に華やげようとして空回りしている実直さがあった。


「ヘイウーマン」「毎日の今日」と2曲続けてまず演奏される。
相変わらずよい声である。
ボーカリストとしての上手さは、高音部への発声の切替がどれだけ自然かで分かるところがある。
沢田ナオヤの中音域は、「半ファルセット」的な豊かな倍音の付き方があり、高音部への移転の際にほとんど段差を出さずにスッと滑り込む気持ちよさがある。
聴きやすいメロディーに、自然な和音展開、素直で嫌味のない歌詞。
何度聴いても、ゆったりとした気分になれ、生きて生活することのささやかな喜びをかみしめることができる。
2曲目の「毎日の今日」は、以前聴いたときにも名曲であると感じた。
最初の口笛での旋律が美しく、インスト曲としてでも十分BGMで使える出来である。
一音一音に音を丁寧に乗せて歌うので、楽器としての声質も優秀である。
ただ、そのような発声・発音のために、英語の単語もカタカナ発音として聞こえてしまう点はある(「サンデーマンデー」などの部分など)。
本当は、歌詞も英語の単語を用いず、和語に徹した方がこの歌い方が生きるのかもしれない。


「そばにいておくれ」は、「唯一明るい曲」ということだが、他の曲も派手でないだけで十分光が差している。
3連符の音の飛びの少ない構成の中に、1音を1音符の中に込め、思いを伝える歌詞を浮き立たせている。
沢田ナオヤの歌詞は、主に2人称的な視点で書かれていて、基本は伝達性のあるメッセージである。
そのメッセージの中に、日々の生活についての感動と2人称的な相手に対する感謝の思いが、素直に織り込まれている。
聴き手としては、それを伝える側としても受ける側としても、移入し共感することがたやすく一種の浄化にもつながる。
単に声だけのアーティストでなく、日々の生活の光の部分にスポットを当て実感させる社会的な役割を担いうる、貴重な人材である。
この曲は、手拍子を求めていたので少し慣れず戸惑ったが、ダウンストロークのテンポのよさがそれを助けた。
「月夜のカルテット」は、個人的にはこの日一番の名演で、名曲であると感じた。
哀愁のある夜の世界と3拍子の伴奏、こうしたクラシック以外の音楽では珍しい強弱やrit.などの音楽表現、全てが相関して効果を相乗させていた。
おそらく、音楽的にしっかりとした土台があり、そこに自分の楼閣を建造していったのであろう。
この「月夜のカルテット」はファーストアルバムには入っていないが、ライブハウス限定アルバムには入っている。
ファーストアルバムより、音楽的な成熟は後のアルバムに感じられる。


次に、沢田ナオヤの一番の代表曲「チキンライス」の演奏だが、アルバムを帰宅後確認して驚いたことがあった。
この曲だけ、作詞が別の作り手(高柿たくろう)であったことである(ちなみにファーストアルバム「Silhoutte」のクレジットでは作詞が合作になっていた)。
まさに、沢田ナオヤの世界観そのものであり、内外からの評価も高いこの曲が、まさか別の作詞家の手によるものとは予想もしなかった。
あえて他曲との相違を検討してみると、「チキンライス」という具体物に世界が収束されている点ぐらいであろうか。
他曲は、具体物でなくもう少し大きなテーマの中に、日々の生活を押し込んでいる。
この曲の成功点は、「チキンライス」という味覚や嗅覚と結びつく具体物を主題に持ってきたことによって、より聴き手にリアリティを持って映像を伝えられた点であろうか。
時を意識することなく、幸福を意識した瞬間が、残像のように浮かび続けるところがある。
今後も「チキンライス」は、おそらく、沢田ナオヤの代表曲であり続けることであろう。
なお、ファーストアルバム「Silhoutte」にも入っていて、マイスペースでも聴けるが、観客の歓声なども入ってしまっているので、生で聴く方がよい。
ちなみに、「Silhoutte」のアルバムの曲は、「チキンライス」「Beautiful Day」以外、この日は演奏していない。
正直、このアルバム「Silhoutte」は歌詞がもう少し観念的、理知的で、情感ではなく理性に働きかけようという計算があった。
「チキンライス」こそが、このアルバムでは異質であったのを思い出した。
もしかすると、「チキンライス」という作品自体が、沢田ナオヤの音楽的な転換点であったのかもしれない。
「チキンライス」という世界が、自分の中で消化され、血となり肉となり表現世界の範疇に加えられたのかもしれない。


「昼の途中で」は、「チキンライス」の続編で、5年後ぐらいを描いた曲とのこと。
一般的に、「名曲の続編」的な曲は元曲を超えられないことが多い。
度胸のいる作業であるが、この「チキンライス」世界についてはやはり思うところがあり、常に現在として創作世界の対象であり続けたいのであろう。
正直なところ、本家の「チキンライス」を初めて聴いたときほどの印象はない。
茶化すでなく、はみ出すでなく、真面目に作っているのだが、この曲の評価はあと何回か聴いてから行うようにしたい。
今回のテーマソングでもある「ロングトーン」は異質であった。
冒頭は「ラビニュー」でも始まりそうな、静けさと鳥のさえずりのような口笛。
2小節単位でリズムが構成されるストロークに、エフェクトのかかりまくった洗練されたボーカル。
後期フィッシュマンズを思い出させるかのような、少な目の和音を何度もリフレインさせ、一種のトランス状態に引き込む音作りである。
アルバムでは複数の楽器を用いているが、逆に1本のギターでの演奏により効果が増大しているようにも思える。
沢田ナオヤの声質にはとてもよく合う曲で、今後の方向性によってはこの形がメインになってもおかしくはない素晴らしさはある。
「ボール」はアルバム未収録曲であるが、映像が聴き手の脳裏に浮かんでくる作りになっている。
沢田ナオヤは、曲主体と思わせるしっかりしたメロディラインとギターアレンジがありながら、決して歌詞を音への当てはめで終わらせてはいない。
言葉の語韻を大切にしながらも、ある程度聴き手に映像的な世界を提示してくれている。
「Beautiful Day」で、第1部終了。
アコギのピック弾きで、高速のハンマリングオンやプリングオフが繰り返されるアルペジオが圧巻である。
この曲は、とにかくギターに目が行くので、歌詞や旋律などをバランスよく評価することが難しい。
ファーストアルバム(ライブ版)も、この曲が終曲である。
おそらくは、沢田ナオヤのアイデンティティの根幹は「ギター弾き」であって、その主張こそがこの曲の置かれた位置に表れているのであろう。


総括すると、第1部は万人に勧められる安定したよさがあった(2部と3部は人を選ぶ)。
病めるときも健やかなるときも、楽曲の世界をゆったりと味わえるステージであった


僅かの休憩を挟んで、滝本晃司のステージになる。
今回のホスト役で第1部の演奏を終えた沢田ナオヤが、舞台上の滝本晃司に直接飲み物を手渡したのも、「敬愛」の一環であろうか。


滝本晃司は、昨年の千倉と吉祥寺での一時的な「たま復活」を観て以来である。
その前は、2(ni)で知久寿焼とバックにサードクラスを携えてのステージを観た。
そのとき、「はだしの足音」で久しぶりに二人がハモるのを聴いたが、後ろの音の数が充実している分感動も大きかった。
今回は、そのときよりは少し伸びた髪の毛を黒い帽子で隠し、ジーパンを履き、他の二人と違い椅子に腰掛けギターを弾いていた。


聴き覚えのある「楽し楽しい時間」からスタートする。
一般的なCDなどの音源と比べて、音程も安定していて聴きやすい。
もともと弾き語りで力を発揮するタイプで、楽器の音と一体化させ、全体でバランスを取っていくスタイルなのであろう。
「君の指をかじると星の味がする」あたりに、滝本晃司の歌詞の世界を感じる。
沢田ナオヤの歌詞が「2人称的な、相手への働きかけ」が感じられるのに対し、滝本晃司は「一個人のつぶやき、夢想」がそのまま一つの世界に結晶化されているように感じる。
そこに2人称的な存在が置かれていても、決して働きかけることなく、主体の頭の中で完結する世界のみが言語化されているように見える。
深いが、一見さんには入ることを躊躇させる、閉ざされた特殊空間がそこに存在しているかのようである。
また、この曲は、音楽的には、比較的ゆったりできる伸びやかさがある。
千倉のソロステージも比較的そのような曲が多かったが、今回のステージでは「楽し楽しい時間」のような曲はむしろ少なめであった。


「おひる」(「お昼の2時に」ではない)から先は、緊迫した3拍子曲が続く。
前にも書いたが、4拍子の楽譜に最初に「C」と書くのは、3拍子が三位一体の完全なものであるという考えから来ている。
3拍子は完全なもので「○」、4拍子は不完全なもので「C」、その半分の2拍子は「¢」と表された(「○」は今使われていない)。
滝本晃司の音楽は、極端なほど3拍子が多いが、本来の意味の3拍子にかなり近いと感じる。
同じ3拍子の多いTOMOVSKYの曲調は、3拍子の枠を強調し、右足と左足が平凡に足並みを揃えていかない世界観を象徴しているかのようである。
滝本晃司の曲調は、3/4というよりは6/8に近いのかもしれないが、1拍目以外をさほど強調することがなく、1つの小節の中は四角い間取りのままである。
4拍ある曲は、最後の1拍が呼吸の間として客席に与えられるが、3拍子の空間は無駄も隙間もなく完成された別世界として用意される。
「おひる」はスローなシャッフル系3拍子であったが、滝本晃司的なメジャーセブン(ナインス?)やSUS4などたっぷりの和音展開であった。
他の作り手と違って、不安定な和音をすぐに安定した和音で調和させてしまうのではなく、デリケートな不安定な和音を最初から最後まで構築していくところが職人的である。
三位一体の調和の象徴の3拍子により、不安定な要素を一つの世界にまとめ上げる技は、神が世界を創る作業に通ずるものがある。
「お昼」も音楽的には「昼」らしくない陰りが感じられ、物憂げな情景が醸し出されている。
「落下」は、ハイポジションのカンパネラ奏法的な高速3拍子アルペジオで、息もつかせぬ閉じた世界がショーとして提示される。
まさに、「クローズドGショー」である。
歌詞は断片的に印象的で、「アリス」などの落下物が象徴的に用いられている。
「1・2・3・5・8」という、階差の数列も印象に残りやすい。
なお、冒頭のアルペジオは「満月小唄」のギターアレンジと近い指の動きであり、近い効果があった。
「G線上のスキップ」が、拍子的には一番特殊であった。
最初は、8分音符の3+3+2の組み立てだと思ったのだが、「ラーララーラ」の辺りはどう考えても8分音符が奇数入っている変拍子である。
絶対に、手拍子が出来ない曲である。
ギターの重低音を聴かせて曲が始まり、壮大な広がりを見せて曲が終わる。
沢田ナオヤが、比較的小ぎれいにまとめていた作りであったのに対し、収束より拡散に主題を置いた印象があった。
サラリではなく力を込めた歌い出しは、ZABADAKの吉良知彦などの声質に近さを感じた。
おそらく、フォルティッシモでの歌い込みは多くないと思われるので、その分高音部での安定はよくはない。
だが、中音域で糖度が増す声質なので、それが生きる曲では真価を発揮する(本当はこのタイプの声質に煙草はよくない)。


「空の下」で小休止。
ウクレレに持ち替え、ゆったりとした4拍子に戻る。
声質でバリエーションは付けられないが、緊張と弛緩とでステージ全体のバリエーションを作り出している。
ウクレレは1曲で終わるが、「雨の日の午後」もゆったりとした曲で、雨の日の窓から見える風景のような世界が映し出される。
冒頭の「駅前広場は~雨降り」という1節は、やはり「満月小唄」を思い出させる。


第2部最後の2曲は、タイトルが分からなかった。

(※おかげさまで、分かりました。リストは修正済み。コメント欄で教えていただきありがとうございます。また、このような機会があればよろしくお願いいたします。)
原マスミや柳原陽一郎のホームページと違い、曲目が確認できる可能性は低いので、今回試しにコメント欄を書き込みできるようにしてみる。
他にもタイトルが分からない曲がいくつかあるので、ご存知の方がいらっしゃればご教示願いたい。
どれだけ読まれているのか分からないが、コメント管理が出来るようになれば、今後も欄を開放したい。
分かり次第、当記事は修正を加えていきたい。
ラスト前の曲は、やはり3拍子の閉じた世界。
冒頭の言葉が聞き取れなかったので、聞き取った歌詞は誤っているかもしれない。
ラストの曲は、とてもよかった。
4拍子ではあるが、ゆったり感と緻密な描写された世界が共存しており、和音の進行も文末がセブンスの明るさで分節化されるため、曲に天然光の輝きが感じられた。
おそらく名曲で、代表曲でもあるはずなので、この曲に関しては音源を入手し、コピー演奏もしてみたい。


滝本晃司のMCは、相変わらず正直でよい。
「沢田君がクサナギ君の事件のことを話していたけれども、自分は特に関心がない」
「ほとんどこういうところに呼んでもらえる機会がないので、呼んでくれて本当に光栄で嬉しいのだけれど、慣れない気疲れはする」
などと、思ったことを話し始めてから、実は言いたいことも上手いまとめ言葉も準備がないことに気付き、本音をつぶやいてフェードアウトする話芸である。
よくある最近の洗練されたMCとは異なり、作られていない真の内面の発露が見られる。


第2部は、音楽的な構成については、さすがに頭抜けたセンスとデリケートな仕上げが感じられた。
やはり、長年のキャリアで磨き続けた作曲スキルのなせる業か。
声が裏返った箇所が、記憶では2箇所あった。
中音域主体のメロディラインなので、コントロールは難しいところはある。
さほど気にはならないところはあるが、楽曲がデリケートな構成である分、歌唱表現で効果が増大するところもあるのかもしれないとは感じた。
「~合うなら」の部分など、歌詞が正確に聴き分けられなかった部分は、少々もったいなくも感じた。
正直、たま4人の中で一番生で聴く機会が少ないところはあるが、音楽的に一番優れた能力があるとは感じられる。
次にいつステージを観ることができるか分からないが、一流のバックの演奏とコーラスを付けて聴きたいと思う。


双葉双一は、今年知久寿焼とツアーで回っているのを聴いた。
以前にも書いたが、なかなか興味深い世界で、機会があれば別の作品も聴こうと考えていた。
今回は、とてもよい機会であった。
ギターの調弦も、今回は何も気にならないレベルであった。
前回はツアーの最中で、新弦が安定していなかっただけなのかもしれない。


「カップルの待ち合わせ場所になっている双葉双一です」と挨拶がある。
ステージでたびたび、「~ている」の部分が変えられて自己紹介が続く(「LPを買ったときレコードカバーを貰う」あたりは少し滑る)。
途中、「あんな偉大なシンガーの後で、このようないかさま師が~」というMCがあったが、おそらく、これは本音であろう。
元来、フィクションを作るということは、「実際にはない」ものにリアリティを与えていくという点で、常にいかさま師的である。
「あたしのハート」から「デビリー」までのフィクション世界にはかなりの幅があり、定点的ではない一人称がおそらく作り手の映像世界の中では移ろい続けている。
その中には、「自分の本音を言葉に事寄せる」発想はなく、表現したい世界そのものを「自分の世界」と偽り続ける孤独な果てしない作業が続く。
喜びも悲しみも、そのままの形では語ることが出来ない文藝家としての陰が、どこか感じられる。
本人のブログの態度も、そのような姿勢が貫かれているところが見られる。
この日のMCも、真の気持ちはまったく示さず「~ている双葉双一~」という言葉だけを何度も繰り返すのみであった。


ステージは前回とがらりと曲目が変わり、曲目を特定するのに時間がかかった。
結局2曲は分からなかった(おそらく、どちらかが「田園交響曲」であろう ※判明、リスト修正済み)。
以下、寸評と雑感。


「あたしのハート」は、2流アイドルあたりがひらひらした衣装を身にまとい歌えば、普通に社会の需要にはまるところはあるだろう。
双葉双一の歌詞は、女性の一人称で書かれた曲の方が内面描写が多いように感じる。
男性の視点で書かれた曲は、外から見た客観的な内面を抑えた描写になっている。
ところが、女性の一人称の歌詞は、完全に外からではなく内からの視点・心情が主題となっている。
「あたしのハート」は、短くまとまった曲であるが、そのような傾向がよく見られる。
「ワルプルギスの夜」は、あえて日本的な例に置き換えるなら「ねぶた」あたりが近いだろうか。
非日常的な催しの中での、騒乱と高揚あたりが主題であろうか。
抑揚をつけないで一つの音を少しずつ移行させていくストロークは、オーケストラアレンジを意図して作り出された印象を与える。
「ワルプルギス」という異国情緒あるハレの世界を持ってくるところは双葉双一らしく、手垢が余りついていない主題に自分の彩色ができる利点がある。


「(田舎のあぜを~)で始まる曲」(※「田園交響曲」と判明)は、田舎の学校の教師の追想の歌であろうか。
田舎の風景は浮かび上がってくるが、主題が別にあるため、言葉を選び野暮ったさを感じさせない。
「天使とドライブ」は、かなりぶっ飛んだ歌詞である。
天使が舞い降りて一緒にドライブするが、「何か今轢いたよ」「ブレーキ踏む代わりにでなくアクセルを踏ませるのは天使」あたりは、かなり無茶苦茶でよい。
音楽的にはシンプルだが、その分歌詞が楽しめる。
「アンダースロウ」は、水への石投げで「3回跳ねたら~」と恋の成就の願をかけるのがテーマの曲である。
いつも思うが、双葉双一のハーモニカの音は美しい。
少し前に福間未紗と共演した倉井夏樹は、ハーモニカの本職で技術的にも素晴らしいのだが、歌いながらの演奏ということを考えると、双葉双一の演奏もなかなかのものである。
ハーモニカの一つ一つの音が、表情を持ってギターのストロークに調和する。
ストロークも、ビートよりも和音の響きを重視するので、繊細なところがある。
「アンダースロウ」は小品ながら、味わい深い曲であった。

「わたしの人魚姫1」は、個人的にはこの日一番の名演に感じた。
「アンダースロウ」と同様に、ギターのストロークの音の変化がデリケートで、ハーモニカも間奏、後奏などで聴き応えのある演奏を聴かせる。
歌詞も、どこか原マスミ的な夜と夢の世界に通じる色が感じられ、印象に残る。
「めくるめくスカートの夜、頭の上にお星さま」の部分などは、特によい。
「(空にかかったレインボー)で始まる曲」(※「ピクニック」と判明)は、先ほどの「田舎」曲と比べて、野暮ったさをあえて前面に出している意図が見られる。
「虹っすね、空気っすね」などといった訛り言葉の多用や、他の双葉双一曲に見られない「品を落とした言葉」を直接的に用いている。
終曲の部分は、おそらく観客も含んだ全員合唱を想定した作りであろう。
昔のフォークのように「みんなのコーラス」の後に観客への呼びかけがたびたび入る効果を考えていたようであり、他曲と比べ異質感は見られる。
初めて双葉双一を聴いた観客がいたら、意外とこの曲辺りが一番楽しめたのではないだろうか。


「恢復期」だけは、前回の柏のライブでも耳にした。
「耳の中を馬が回る」という病の中にある状態と、「耳の中から馬が逃げる」という快復期の状態とを、対比し象徴的に描いているように見える。
ちなみに、前回の記事でアナトール・フランス著(三好達治訳)の『少年少女』の中の作品を紹介したが、そちらの表記は「回復期」であった。
「恢復期」という表記は、『恢復期』(堀辰雄著)という作品があり、図書館で他の作家と混じっていない文学全集に掲載されていた。
なお、青空文庫にもあった(http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/4811_14378.html )。
アナトール・フランスの「回復期」は「回復期というものは、それより前の健康な時よりも、いっそう気持ちの楽しいもの」という視点がある。
逆に、堀辰雄の『恢復期』には、病から恢復期に向かうまでの過程の中で、生に執着することへの懐疑が柔らかく美しい文体の中で表現されている。
堀辰雄の文体、どこか非日常的な舞台設定が双葉双一の歌詞の世界とオーバーラップして感じられるところもあった。
「文藝系」という括りは、当人は望んではいないかもしれない。
だが、非日常のディテールを映像化する歌詞は、「文藝系」と呼ぶにふさわしいとも感じられる。
「デビリー」は、伴奏こそマーチンギター1本だが(福間未紗のマーチンとはヘッドがだいぶ違った)、ロックンロール(オールドアメリカン的な曲調)である。
「デビリー」の意味は分からないが、おそらく悪魔の愛称か何かで「小悪魔ちゃん」ぐらいのニュアンスなのかもしれない。
「おばけは要らない」あたりの歌詞はあった気がするが、ノリのよい曲であるという印象の方が強かった。


残念ながら「タワーホテル」は聴けなかったが、おおむねよいステージであった。
だが、双葉双一を論評するのは少々難しい。
他の人間が1から10まで順番に積み立てていくところを、平気で3から7ぐらいまでをすっ飛ばしているところがある。
その代わりに、13や17を平気で提示しているような聴き所もある。
正直、歌う際の滑舌の部分はCDやyou tubeなどで数を聴けば、慣れてしまうところはある。
しかし、「この曲は三橋美智也のようにストーンと高音が落ちればさぞかし素晴らしいだろう」などと、「~なら」という仮定形が顔を出してしまうところはある。
決してボーカルに問題があるのではなく、楽曲として独立性が高く、それぞれの曲にそれぞれのふさわしい別の歌い手も想定され、それとも聴き比べたくなる。
双葉双一の歌い方は、フレットレスギターに近い。
アタックの音は柔らかめで、音程の変化もなだらかなグリッサンド的な移行が行われる。
本来、この歌い方は音が少なめでゆったりと歌う曲で効果を発揮するものだが、双葉双一の歌詞は言葉が多く詰められている。
「アンダースロウ」あたりは大変合っているのだが、音節数が多くなってくると音程と調音が少し犠牲になってくる。
ピカピカのハーモニカホルダー、美しいギター、ここら辺に双葉双一の音楽に対する姿勢が見られる。
力いっぱい音楽を表現して必死さを見せてしまうよりは、多少与力を残して演奏する姿自体も崩さずに見せようという欲張りな姿勢である。
音に対しての妥協を行わない姿勢に切り替わると、おそらく何かが犠牲になる代わりに楽曲への効果は高まることであろう。
とは言え、前回以上に歌詞、楽曲ともに幅の広さがあり、楽しむことの出来たステージであった。


アンコールがあり、双葉双一のみで登場。
「瞬き分の夜」が演奏される。
比較的評判のよい曲であり、この日の最後に持ってきたのも分かる。
演奏が終わっても、客電が点かず、アンコールの手拍子が続いた後、沢田ナオヤの登場となる。
やはり、他の2人と比べて声の通りがまるで違う。
「空が高いな~」で始まる曲は、タイトルこそ分からなかったが(※「ラブソング」と判明、情報を下さりありがとうございました)、清涼的な心地よさが感じられる。
性別は異なるが、さねよしいさ子のような(「あした あしたが来る」あたり)、突き抜ける感じのするボーカルがやはり印象的である。
空回りと空騒ぎの中間ぐらいで華々しく演奏を終えるが、舞台裏に戻る際にアンプに激突したのは、狙ってか自然にか。
最後は、滝本晃司の「自転車にのって」で終了。
おそらく、滝本晃司ソロ曲一番の名曲で、人気も高いと思われる。
本人の演奏を聴くのは初めてだが、昔国分寺のライブハウスのイベントで、一人の演奏者がコピーしているのを聴いたことがある。
滝本晃司の声は、沢田ナオヤの声と違い倍音成分が少なく、ギターの音と声の成分が近いため、歌詞がスルリとは入ってこない。
だが、この曲はゆったりした3拍子の中にも、凝った和音で余韻を残しているため飽きがこない。
この曲で「オレとナオヤのロングトーンvol.1」が締めくくれたのは(vo.1というところが意気込みを感じさせる)、よき記念碑となったのではないだろうか。


この日は、三人三様の音楽と話芸を堪能することができた。
ジョンソンtsuか知久寿焼あたりがvol.2になるのではないかと勝手に期待しているが、今後も続いて欲しい企画である。
なお、双葉双一のカセットと沢田ナオヤのCDは買って帰ったが、滝本晃司のアルバムの物販はなかった。


次のライブレポ(5/6分)も、忘れないうちに早いところ上げることにしたい。

てろてろ

1.てろてろ
2.闇の現
3.ニーナ


別のアルバムを採り上げるつもりだったが、10曲入りはやはり時間がかかる。
次回かそのまた次にでも上げることにする。
今回はフルアルバムでなく、3曲入りのマキシシングルである。
3曲目が10分以上あるので、「シングル」という感じはあまりしないが。


矢野絢子(「やのじゅんこ」、「あやこ」ではない)は、1度観に行ったことがある。
廃業してしまった倉橋ヨエコと外苑前のライブハウス(「マンダラ」ではなく、「月見る~」の方)で共演していた。
このCDも矢野顕子と間違えて買ってしまったところもあるが、この日も矢野顕子との共演だと思い違いをしたままライブハウスに入った。
前に「文藝系」で触れたミドリカワ書房も矢野絢子も、倉橋ヨエコと共演していなければ生で聴くことはなかったので、よい機会であった。


そのときの印象を一言で述べると、河島英五を女にしたような歌い方、詩の世界、といった感じだろうか。
ラブソングはほとんどなく、フィギュアスケートで言えば恩田美栄のような、直線的な力強さのある歌詞が多かった。
そのステージの最後で、加藤登紀子の曲のカバーを1曲演った。
「加藤さんとは、やっている音楽は全然違いますが~」といったようなMCが入った記憶がある。
だが、個人的には「やっている音楽の方向」も決して遠くないように思えた。
ピアノ自体は力強く演奏するが、歌詞優先の歌い方で、最初から最後まで脱力せずに突き抜ける。
1曲の中でAメロからCメロまで作って、音楽的に構成をするタイプではない。
Bメロどころか、Aメロ1つで長い時間歌い込めてしまえる、初期の吉田拓郎なみの腕力がある。
加藤登紀子も矢野絢子も、「はじめに音符ありき」といった歌い方では、決してない。


ただ、その数少ないラブソング「笑顔」は、非常によかった。
http://lyric.kget.jp/lyric/kw/ol/
一人称が「僕」で、それでも歌詞の内面的な世界は女性ならではの繊細な組み立てになっている。
「誰もいない駅のホーム」あたりの数少ない具体描写が、実を結ばない切なさの心象にリアリティを与え、聴衆に移入の空間を提供する。
シンプルであり、ありふれた語彙も用いているはずなのに、それを感じさせないのがこの曲の奥深さかもしれない。


1.てろてろ


AメロとBメロのみ。
タイトル曲であり、人気も高い。
動画を検索しても、本人のライブ映像どころか、真似して歌うファンの映像まで次々に引っかかる(あえてリンクは貼らない)。


この曲の面白いところは、冒頭の「知らない所に行きたい」気持ちを、途中で全否定してしまうところである。
「嘘だよほんとはね」の後で、「ここに居たい」気持ちを本音として伝えている。


一般的に「旅」「旅行」といった語句は、肯定的に捉えられることが多く、否定的に論じられるものをあまり読んだことはない。
だが、分かりやすい「旅」といった作業は、身近な日常の些細な変化を感じ取る能力を鈍らせるのではないか、と個人的には感じている。
「見たこともない新鮮な景色と旅情」といったものの対称物として、「平凡な日常」を一括りにする例も少なくないであろう。
確かに、古来から「ハレ」と「ケ」という概念はある。
だが、「ケ」の部分にこそ生活の大半はあり、その変化を分節化するためにこそ「晴れ舞台」は用意されていた。
「平凡」と我々がラベリングしているものの大半は、実は「非日常」的な記号の飽和状態からもたらされているものではなかろうか。
日々の生活の中こそを「旅」として認識することにより、新鮮な発見が用意されているはずである。
そのように個人的には考えているが、まあそれはよいとする。


http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND18745/index.html
この曲には、日常の生活と回りのものをまず大切に考えていこうという精神が感じられる。
メジャーデビュー曲でありながら、かなり地に足が着いた人生観がそこにあり、高知という土地で育ち活動をしている創り手の生活環境がそれを生み出したのかもしれない。


この曲の「てくてく」「とろとろ」の精神は、少し前の作業効率・経済効率が最優先されていた時代のアンチテーゼとも言える。
ドラえもんで言えば、のび太がそのまま大きくなったような一人称像で、「時々パンクもする」という部分から失敗続きの「情けなさ」も垣間見える。
この曲の中に入り込むとき、世界に対して背伸びせず身構えず、等身大の自分のまま存在することが許される。
スマートでない、無駄だらけの空間がそこにあり、牧歌的な空気の中、リアリティを持って「身の回りの世界とのつながりを実感できる自己」を取り戻せる力を与える。
この曲の支持者は、おそらくこの曲により現実社会の中で心の居場所、置き場所を取り戻した思いを感じたのではないか。
特に、「街灯の灯りが~」や「僕がさわれるもの全部~」あたりの歌詞が秀逸である。
「のんびり行こう」「力を抜こう」的な方向の歌詞は、大衆音楽の中にも山ほどある。
だが、効率の対極を行きながら、その中で身の回りの日常に積極的に目を向け、愛していこうとする方向の歌を、他に自分は知らない。
「てくてく」「とろとろ」の精神で、ステレオタイプのかけらもない曲が出来上がったのは、一種の奇跡と言っても過言ではない。
個人的には、長い年月を通して聴き続けていく場合、「ニーナ」よりも色あせることが少ないと考える。


2.闇の現(うつつ)


「現(うつつ)」という言葉は、「夢うつつ」と並べられて用いられることが多く(他には「うつつを抜かす」あたりか)、夢の同義語と捉えられることは決して少なくないように感じられる。
「うつつをしっかり見つめろ」的な言い回しがないため、今後もリアリティを持った意味を感じ取らせる言葉とはなり得ないであろう。


「うつつ」と言えば、なんと言っても浮かぶのがドラえもんの「うつつまくら」である。
初期も初期のドラえもんの傑作で、中後期には見られない実験的な物語構成が存在する。
「好きな夢を調製して見られる枕が合って、それで見た夢が現実になる」という、一ひねりのある直接的でない道具が主役である。
最後に目が覚めたとき、夏休みも終わりというのに宿題が残っていることに気付き、ドラえもんに「うつつまくら」を出すように哀願する。
そこで、「うつつまくらなんてない」「夏休みは始まったばかり」という、今までの展開の全てを否定する言葉が、ドラえもんの口から発せられる。
正直、リアルタイムで読んでいたときには、すぐにはこの最後のコマの意味が分からなかった。
一つ目の言葉だけで二つ目の言葉がなかったならば、解読することすらできなかったであろう。
このマンガが、小学館の学年誌に註釈もなく掲載されたのである。
一応、解説しておくと、「うつつまくら」を使って夢を次々と現実化していく、という一連の作業の全体が大きな一つの夢だった、という二重構造を持っていて、小学生がさらりと読めるような予定調和とは対極の存在である。
古来から、「夢落ち」という手法は、一種の反則技とされてきて、用いること自体が創作者の敗北とされることも少なくなかった。
だが、これは「夢」を扱う表現者としての一種の挑戦であり、最後の一コマまで「夢」自体を悟らせない姿勢を貫いているのが素晴らしい。
ドラえもんの道具の中では「時間貯金箱」が欲しいと個人的には思うが、作品としては「道具自体が主人公でない」この作品に強い魅力を感じる。


そろそろ歌の中身に入ると、この曲は前後の曲とはかなり趣を異にしている。
実際に聴いてみると、どのような曲かよく分かる。
前に「おかあさんといっしょ」について触れてとき、youtubeの動画を貼りまくったが、全部削除になっていた。
このリンクも削除されるかもしれないが、一応貼っておく。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2156632
曲については、おおむね評判がよいようだ。
ただ、前後の曲に比較して、歌詞への着目が非常に少ない点には気になるところがある。


この曲は、いわゆる「ライブ栄えのする」曲である。
ピアノをかき鳴らし、声も張り上げて、力強いジャズに近いところもある。
だが、前後の2曲に比べ、歌詞があまりにも抽象的で、その解釈が聴衆の理性の部分に全面的に委ねられてしまうところがある。
正直、部分部分は移入可能なフレーズも顔を出し、曲主体の中でそのようなフレーズを断片的に拾っていけば「よい曲」として捉えられることもできなくはない。
だが、1曲目、3曲目を愛する多くの聴衆は、映像化の可能な柔らかな具体像を示す歌詞に、あまりにも魅力を見出し過ぎてしまっている。
下手をすると、言葉が音だけで上滑りして、矢野絢子の声という楽器の音としてしか聴き手の脳裏にインプットされていかない可能性さえある。


「闇」という言葉は、手垢がかなり付いている割には個々の認識が異なる難しい言葉で、例示もなく「闇」というだけを語だけを提示するのはかなり危険である。
たとえば、サードクラスの「年上想い」という歌も、「先輩、闇だねここは」などと「闇」が主題として扱われている。
だが、「闇」という語の包括する要素が大きすぎて、表現者が当初意図したであろうメッセージにソフトフォーカスがかかり、「分かったような分からぬような」聴後感につながっている。
もともと、具体に具体を重ねて行間の余韻を醸し出すことに長けたところがあるのだから、「闇」という言葉を一言も使わずに「闇」を表現した方が遥かにサードクラスらしさが出たであろう。
「闇」を引き算ではなく、何かを生み出す足し算的な側面から見つめた寺山修司のような例外はあるが、「闇」の定義をあやふやなままではリアリティを与えることはできない。
もっとも、メッセージがないにもかかわらず、いかにもあるように見せるのであれば、「闇」という言葉は実に便利な言葉である。


一応、「闇の現」について、自分なりの解釈を記す。
「の」は、同格の「の」である(「八百屋のおじさん」型、「~であるところの」と置き換えられる)と思われる。
「闇であるところの現実」、つまり、「現実」を「闇」のように実体が見えない世界と捉え、その中で立ち止まることなく力強く前に進むことの必要性をメッセージ化したものである。
「見たいものだけ見たらいい」という部分は、実体が見えない現実の中では、前に進む原動力となるものが個々の意思と理想のみであり、それのみを原動力として持っていくことを説いているのではないか。
「目を離すな」については、迷い諦めてしまうことの戒めが感じられる。
とは言うものの、明らかに「てくてく」「とろとろ」の精神とは、二律背反こそないもののアクセントの位置が異なっている。
「てろてろ」に移入ができればできるほど、「闇の現」をカッコいいジャズ調音楽としか認識できなくなっていくという逆相関の図式が、そこに存在すると考えられる。
この同居は、ドラえもんで言えば、「うつつまくら」と「のび太の恐竜」あたりを同居させるようなものである。
「散らかった部屋」がコンセプトのどこかのブログならいざ知らず、分かりやすいコンセプトを与えるのには決して成功していない(個人的にはもちろん好きだが)。
ライブで聴くとやはりカッコいい曲だが、この3曲の並びは「闇の現」の要素を打ち消す方向に強く働いている点が、少々楽曲には気の毒であった。


3.ニーナ


12分の大曲で、「ニーナ」は椅子の名前である。
「てろてろ」に負けず、おそらく一番の人気のある曲であろう。
さだまさしの「親父の一番長い日」などと違い、歌詞が詰まっていて間奏もほとんどなく、ゆったり歌うと3倍ぐらいの時間がかかってしまうぐらいの内容がある。
小学校の音楽の教科書で、4段分の五線紙があれば足りるような旋律の繰り返しで、ほとんどの部分が歌われている。
一言で要約すると、「ある椅子の一生」である。
「生活に疲れたときに聴くと、この曲は泣ける曲だ」と、紹介があった(いつもの先達)のが、そもそもの聴き始めであった(買った後しばらく聴いていなかった)。
また、「大きな古時計」にかなり近い要素を持っているとも評していて、これは実際に聴いてなるほどと感じた。
椅子を擬人化した世界に、大海赫著『クロイヌ家具店』があるが(自分はこの本の挿絵の版木を1枚持っている、宝物である)、「ニーナ」はあくまでも普通の椅子である。


http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B09795
ある家具職人の手から生まれ、椅子のその美しさのために、売るときから人を選んで販売されている。
そして、様々な人の手に渡り、海も渡り、椅子自体も手が加えられ、それぞれの人物(猫も含む)の人生にオーバーラップされる。
「大きな古時計」は動かなくなるところまでいくが、「ニーナ」も脚が折れて「もう、お疲れ様と言ってあげよう」というところを帰着点としている。
椅子自体の人生(椅子生?)もないではないのだが、椅子の視点で描かれる人間ドラマが中心となっている。
そのあたりが、一個人の半生や人生を主題にした作品と比して、多要素を彩色に用いた世界の深みを生み出している。


この曲が聴き手を癒すもう一つの要素は、人選である。
椅子に関わる人の中に、「悪人」は出てこない。
老若男女は様々だが、一生懸命生き、働き、前向きに行動している。
この曲を聴くと、無性に「いい仕事」をしたくなるところがあるのもそのためであろう。
だが、それでも全てが満たされてはいかない運命が横たわっており、それについて椅子は何も語ることなく、傍に存在しているだけである。
おそらくは、この曲に一番移入できるのは、「一生懸命生きるが、全てが報われたわけでもない者」であろう。
曲中では、彼らの不平や不満は決して語られることはない。
しかし、投影可能な対象像が、慈しみを持った視点で淡々と描かれている。
椅子は何も語らないが、全てを見ていることも、世界への移入の手助けをしている。


椅子が壊れる前、人生(椅子生)が逆時系列的にフラッシュバックされ、今までの歩みが語りにより回想される。
それを聴くとき、あたかも自分がその人生を送ってきて、その全体を振り返っているかの錯覚を引き起こす。
「自分が最期の時、はたして総括して美しい人生だったと思うことができるだろうか」、そのような問題提起を間接的に聴き手に投げ掛けているようにも聴こえる。
音楽的には、その直前の「ニーナ、ニーナ」と声を張り上げる部分が頂点で、後は美しい余韻を残すのみに用いられているだけだが、むしろその余韻こそが後を引く。


この曲は1つの物語であり、紙芝居や絵本にしても十分読み手に印象を与える作品である。
逆に、この曲の弱点もその「物語」性にあり、聴くときには必ずその世界の浴槽に身を浸さねばならず、準備と覚悟がそのたびに要る。
天沢退二郎は、「詩の本質は多義性」のようなことを朝日新聞で書いていたが、「ニーナ」は象徴的に解せることはできるが、多義的ではない。
心の準備がない、疲労の際にも手が届きやすい点では、「てろてろ」の方が多少長く親しむことができやすいとも言える。
音楽は、決して世界の邪魔をしないピアノのシンプルな伴奏と、シンプルな和音展開に限られている。
それが、紙芝居の外枠のような役割を果たしている。


本当は、ファーストアルバム「ナイルの一滴」にはこの3曲も入っていて、もっと多くの曲が楽しめるようだ。
だが、この3曲を聴くだけでも十分価値があり、お勧めしたい作品である。

パスカルズ(Pascals)「水曜日」発売記念インストアライブ(新宿タワーレコード 2009/04/23)


1.さんぽ
2.Am 8 Beat
3.森
4.ファンファーレブーメラン
5.のはら
6.走れ廻れ


パスカルズは、一度だけ生で観に行ったことがある。
高田渡逝去直後の吉祥寺音楽祭で、吉祥寺駅前のロータリーで無料ライブのトリを務めていたと思う。
ほとんどインストゥルメンタルだが、知久寿焼やあかねのボーカルが入る曲もあり、石川浩司のパフォーマンスや火花飛ぶチェロなど、見応えはあった。
大人数の割には、音楽的には聴きやすい作りになっており、ユニゾンの多用が安心感を与える。


この日は、19時30分開始の予定だったが、1時間前に行くと普通に同じ場所でリハーサルをやっていた。
それで、だいたいの雰囲気は分かり、期待が持てると感じた。


知久寿焼と坂本弘道は、残念ながら欠席であった。


1.さんぽ


石川浩司は、Tシャツと花柄の短いズボンに穿き替えていた。
女性メンバーは、ほぼ全員パスカルズのトレーナーを着用していた。
トイピアノの音は、一見おもちゃに見える割にはしっかり作ってあるのか、美しい音色を奏でる。
全体的に2拍子ののどかな流れで、フレンチ風の耳当たりのよい旋律が続く。
視覚的に印象に残ったのは、石川浩司がピコピコハンマーでパーカッションを叩いたところか。
「音が鳴るものでさらに楽器を叩く」というのが、この日結構共通して見られた演奏法であり、普段ないアタックの音がこの技法により提示されるため、興味深い試みであるとは感じた。
もちろん、視覚的効果の方が大きいところはあるが。
インストゥルメンタルなので、あまり述べることもないのだが、チェロの通奏低音が基調になって上の音楽が組み立てているのだと感じたところはあった。


パスカルズののどかさの基本は、「ユニゾン」である。
無駄なぐらいいるメンバー数も、こののどかさには必要な要素となる。
シンプルなソロ楽器の演奏は、一つの楽器の脈拍に聴き手が同期させて聴き入る必要があるため、緊張と集中を強いる。
楽器が増えると、聴き手は音と音との間を渡り、「いいとこ取り」できるために、緊張の度合いが減少する。
だが、楽器が増えても呼吸や脈拍を全て合わせたアンサンブルは、逆に緊張をも増幅させるのである。
パスカルズが、なぜのんびりと聴けるか、この答えはまさにここにある。
それは、縦を合わせないからである。
比較的自由なテンポで、多少の幅やゆれは音符の音自体の厚みにもつながり、緊張を強いるスポットの山場も少ない。
バイオリンも低音も打楽器も、「リストラ」して経済効率だけを貫けば、半分でおそらく近い音符の音楽はできるであろう。
だが、同じ楽器で音を重ねることにより、音の周波数成分を安定させ、聴き手にリラックスさせる効果を出しているのである。
パスカルズは、音の決して大きくない楽器を集めて、一種の合唱(時には斉唱)を行っている、とも言えるかもしれない。


2.Am 8 Beat


1曲目が終わると、ステージ横からひょっこり横澤龍太郎が入ってきて楽器を出し始めた。
どこかのステージの後に駆けつけたのであろうか。
ドラムとして紹介されるが、この曲はタンバリン(皮が張ってあったのでパンデーロであろうか)のみであった。


この曲はアルバム「水曜日」の作品ではなく、旧譜からの演奏であった。
全体的にモード系で、近い和音展開が繰り返され、音が重なり合い盛り上がっていく構成であった。
もっとも、マイナー調なので、盛り上がりの頂点も、「歓喜」と言うよりは「不安」を象徴しているかのように感じられる。
パンデーロ(と決め付けることにする)が入ったおかげで、曲自体のテンポ感が増した。
石川浩司のパーカッションは、テンポをキープするための存在では決してないので、チェロの他にやはり安定したリズムを刻むパートは欲しい。


この曲の石川浩司で感心したのは、振れば鳴るカウベルか何かの鉄製楽器を、両手で持ち振って鳴らしっぱなしであったところである。
旋律楽器で言えばトレモロ演奏のような効果を、肉体的負担の大きいこの楽器で石川浩司はやってのけた。
一般的に石川浩司はパフォーマンスの人で、同じ音を出すにしても「どのように視覚的効果を与えるか」にまず意識が向くところがある。
それは本人の得意分野であり、聴衆の反応もストレートに返ってきてやりやすいはずである。
だが、音のムラを出さずに、地道に裏方として安定した音を出し続けたところに、パーカッション奏者としての石川浩司の意地を感じた。


最後のffでの演奏は、音の小さな楽器には結構しんどいものがあったと思われるが、実際の音量より視覚的効果のおかげでffに聴こえてくる不思議さもあった。
インストアという制約もあるだろうが、音楽の出し方見せ方を分かっている強みはあった。


3.森


今回の曲目の中では、唯一ボーカルが入る曲であった。
旧譜では「326」や「きんとんうん」などがあり、本日欠席の知久寿焼かあかねかどちらかが歌うことが多い。
パスカルズ自体は基本インストゥルメンタルの楽団だが、あかねの歌い手としてのキャリアは結構長い。
20年以上前の音源を聴いてみると、トイピアノなどの生楽器の音にはかなげな声が重なり、他にないような世界を作り出している。
歌詞は病的に陰りがあり、曲調も淡々と暗めの調子が続く。
商業主義の対極にある世界であるので、バブルが来ようと金儲けができる作品ではないが、個人的には嫌いではない。


「森」は、金井太郎のガットギターのボサノバ型の音で始まる(いわゆる「ブンチャーブチャッチャ」の形)。
安定した音とリズムで、この曲全体の基調となる。
石川浩司は、シャボン玉を飛ばし続ける。
割れないタイプのシャボン玉であったので、曲が終わっても飛んでいたりどこかに引っかかって残っていたりするものがあった。
石川浩司のパーカッションは、この曲では「鉄の鎖」。
よく、営業時間を過ぎた駐車場に張ってあるアレである。
ガチャガチャと鉄同士が当たり合う音で、曲の音に彩りを与えていた。
鳴り物で太鼓を叩くのは、この曲も同じであった。
この曲あたりになると、横澤龍太郎は地べたに座ってボンゴ(だと思った)を叩き始めたので、ほとんど見えなくなってしまった。


あかねの声質は、クリアな音ではなくホワイトノイズが全体的にかかった感じである。
アタックの音の力強さはその分削がれるが、逆にロングトーンを伸ばしたときの効果は大きい。
高音域の倍音成分により神秘的な印象になり、リアルな現実世界の中で中波のAMラジオの音が鳴り響くのに近いところがある。
「1つ目はクレヨンが」のあたりの、さびで声を伸ばす部分は、大貫妙子にも通じる澄んだ世界への引き込みの力を感じさせる。
パスカルズはパフォーマンス的には個性的な面々(特に坂本弘道と石川浩司)が並ぶが、音的には置き換え可能な自在さはある。
だが、あかねのボーカルは音的に置き換え不能なパーツであり、パスカルズ全体の宝であり財産であるともいえる。
「きんとんうん」と比べて、もともとあかねが作り出していた音楽に近く(「オルゴオル」など)、よさが引き出されているとは感じる。
やはり、言葉と声の魅力は大きく、個人的にはこの曲が一番印象に残り、名演であると感じた。


パスカルズの曲のエンディングは、基本フェルマータの全音符で終わり、アドリブ的なカオス状態の中、ジャンと収束する。
これは、バンド演奏では恒常的に見られる形態であるが、生楽器でのアンサンブルは短音符で縦を合わせて収束点が誘導されることも少なくない。
だが、パスカルズは集団主義的な収束ではなく、個々のエネルギーの発露の場として着地点を設けているところがあり、今後もこの精神は変わることがないであろう。
パスカルと言えば、哲学者が思い出され、『パンセ』という書がまず浮かんでくる(個人的には「深淵」の件の部分の方が好きだが)。
「人間は一本の考える葦である」という精神が、パスカルズという楽団名に冠せられた根本であると考えるのは考えすぎであろうか。
一人一人の考える「個」の葦の存在を尊重し、発露とする場を与え、その弱い葦(実際弱い音量の楽器が多い)を集めて一つのかけがえのないものを作り上げよう、といった方向性がロケット・マツの意図であったのではなかろうか。
作り過ぎず、「個」の入り込む余地を大いに残した楽曲と演奏形態は、そのように想像させるのに十分な表情を持っている。


4.ファンファーレブーメラン


この曲で、再びインストゥルメンタルに戻る。
金井太郎のガットギターと原さとしのバンジョーが、ブンチャブンチャの弾き方で中高音域の楽器の特性の音を強調させていた。
やはり、バンジョーというのは特殊な楽器で、音的にはよく目立つ。
一般に、バンジョーはブルーグラスの記号的な存在として用いられることが多いように思える。
だが、パスカルズではあえて既存の記号として用いられるのを拒絶し、多様で自在な奏法に羽ばたかせるような意識が感じられる。


小さい音の楽器のインストゥルメンタルバンドと言えば、他に「栗コーダーカルテット」と「ピラニアンズ」あたりが思い出される。
前者は、もともと別楽器の奏者が4人集まり、リコーダーを基調としたアンサンブルを行い、CMやNHK教育で大活躍している(「ピタゴラスイッチのテーマ」など)。
後者は、ピアニカ前田率いる、音量の小さいバンドとして結成され、「スタジオパークからこんにちは」の初代テーマソングとして長年親しまれた「チキンズ・パレード」が有名である(聴けば絶対思い出す名曲である)。
ピアニカが入る分、若干ピラニアンズの方がパスカルズの音色に近いが、どちらも少人数でコンパクトにまとまった音楽である。
だが、パスカルズは人数が3倍以上に膨れ上がり、弦楽器だけでもピラニアンズの人数を超える。
音楽的には「栗コーダーカルテット」と「ピラニアンズ」を足して、さらにごちゃごちゃいろいろ混ぜた、雑多性のようなものが特色であろうか。
「ファンファーレブーメラン」などは、この形態を生かした曲想のつけ方をしている。
冒頭部から音楽を盛り上げていく部分までは、音の小さな楽器は主旋律の脇役に徹し、音楽に飽きを起こさせないように動かしている。
曲が最高潮に達し盛り上げていく場面では、ほぼ全ての楽器がメインストリーミングに合流し、一つの大きなユニゾンとして、明確でシンプルな輪郭を提示する。
生楽器独自の盛り上げ方であり、電気楽器(「明和電機」を除く)であればほぼ逆の、細かい音を複雑に絡み合わせていく手法を取ると思われる。
音の増幅が可能なこととダイナミックレンジを重視していないことがその要因であろうが、電気増幅は意図とは裏腹に音楽を平面的に誘導してしまうことがある。
ppのない音楽は、音の強さに対する感覚を麻痺させ、音楽の一つの要素を表現対象から奪ってしまう。
だが、クラシックに代表される生楽器での表現は、この部分が重要な表現の一部となり、音色、テンポの変化にさらに表情をつける役割を果たしている。
ラベルの「ボレロ」から、電気増幅でppを奪ったらどのようなことになるか、考えてみると分かりやすい。
歌入りの音楽でも、小川美潮の「おーい」などのように、ppからffまでのダイナミックレンジを用いる曲が増えて欲しいとも感じる。


なお、この曲の石川浩司は両手に音の鳴る人形(ひよこ?)を持ち、鳴らしながらステージ上を歩き回っていた。
あかねなどに視線を合わせ、トイピアノの上の別のひよこに挨拶をさせたりなどしていた。


5.のはら


バイオリン部隊のうち、後ろの二人がリコーダーに持ち替える。
リコーダーが入る分だけ、栗コーダーカルテット系の音に近くはなる。
牧歌的な雰囲気を、楽器の変化によって表そうとしている。


なお、石川浩司はにわとりの被り物を頭に乗せて、舞台から客席まで歩き回り、最後は客席との仕切りの柵を潜ってステージに戻った。
この日、久しぶり(「ワイト島の奇蹟」以来)に見たら劇ヤセしていて、誰か分からぬぐらいであったが、パフォーマンスは健在であった。
そう言えば、石川浩司と言えば、「全裸でゴ・ゴ・ゴー」という曲があった。
この曲は、ネタ曲、イロモノ的要素が強く感じられる曲に一見見え、歌詞を吟味しようと思わせないような衣を纏っている。
だが、現在報道されている事件(というより「騒動」か)にほぼ内容的な一致があり、日常世界とイロモノ世界が実は紙一重の世界であることを感じさせられる。
もしかすると、人によっては食傷気味にも感じられる可能性があるパフォーマンスも、日常世界とイロモノ世界の境界線上の世界を、それとなく提示しようという意図があるのかもしれない。


この曲も、「水曜日」未収録曲であった。

本当は、この曲はロケット・マツのアコーディオンについて何か論じる予定だったらしい。
だが、すっかり忘れてしまったので、何か思い出したら追記することにする。


6.走れ廻れ


時間も予定の30分ぐらいになり、「あと1曲いいですか」とのことで最後の演奏。
渋谷のタワーレコードで演奏されたのか、タイトル曲の「水曜日」の演奏はなかった。
ロケット・マツはマンドリンに持ち替え、うつおと大竹サラはこの曲も前半はリコーダーを演奏した。


この曲で感じたのは、ビブラートを通常以上に効かせて、音楽の装飾以上の役割を担わせたところである。
通常、クラシックのビブラートは周波数の揺らしや、音符による長さまで定めておく(と自分は思うが違う世界もあるのかもしれない)。
あくまで、主となるピッチが特定できるように、上下ではなく下の帯域に揺らしを持ってくる(と公開レッスンでは習った)。
だが、パスカルズではビブラフォンのように、ビブラート音自体を一つの音色のように扱い、旋律を奏でる。
ノンビブラートの音の動きは機械的な調和を印象付けるが(いわゆる松任谷由美や麗美の歌唱法など)、ビブラートの音の幅と揺れは聴き手の生体としての律動に調和する余地をもたらす。
パリのゆったりとしたカフェで、手に汗握る緊張感を持った曲を聴きたいとは誰も思わないであろう。
このあたりも、フランスでパスカルズがある程度評価を受けているところなのかもしれない。


30分を少し過ぎるステージが終わり、サイン会となる。
旧譜でも買えば、今回特典の3曲入り未発表音源のCDが貰えたらしかった(渋谷とは別内容)。
少し迷いはあったが、この後のライブスケジュール(もちろん聴く方)を考えて、やめることにした。
予想以上に充実したステージであった。


パスカルズは、とにかく大所帯である。
経済効率だけを考えたら、「このようなバンドは作ってはいけない」バンドのお手本のようなバンドである。
パスカルズだけで一生不自由しないことはありえず、メンバーも版画や漫画、家具などを創作し、生計を立てている。
だが、逆に普通の生活者(決して普通ではないかもしれないが)の視点、呼吸、生活があるからこそ、この音楽につながっているともいえるかもしれない。
もちろん、音楽専従者も多くいるが、メンバーの多様性が、社会の最大公約数を踏まえた上で、素数の要素を付加した方向性につながっていると言える。
ロケット・マツの精神とあかねの歌声、調和させ過ぎず技巧に走り過ぎずのこの方向性は、末永く続いてほしいと感じた。


ライブ評というよりも、石川浩司の行動記録のようになってしまったが、よいステージであったので上げることにする。
これからも無料のオープンステージで、積極的に演奏活動を行ってほしいものである(「無料ライブ」にパスカルズはとても合う気がする)。

知久寿焼と福間未紗の横浜春祭りライブ(2009/04/16 横浜サムズアップ)
福間未紗with倉井夏樹、知久寿焼

1.春祭り
2.鐘の歌


3.幸福な間
4.ねじ
5.火星
6.緑の質

7.一瞬だけ
8.夏の星座
9.ジャム
10.午前4時のロビン


11.あるぴの
12.いちょうの樹の下で
13.死んぢゃってからも
14.電車かもしれない
15.ちょっと今ココだけの歌
16.いわしのこもりうた
17.らんちう
18.電柱
19.そんなぼくがすき(リクエスト)


20.月がみてた
21.夜の音楽
22.押し花
23.学習
24.クロアゲハ
25.ユリの丘
26.ハオハオ


27.円盤旅行
28.金魚鉢


3月は、珍しくライブハウスには行かなかった。
近所の公民館で、コントラバスの無料リサイタル(既報)と地元の中学校のギター部の定期演奏会(未報)は観に行ったが、それだけである。
コントラバスは一応プロで、ギターも全国大会で賞を貰う演奏なので、レベルは高いとは言えるのだが、普段とは経路がかなり違う演奏であった。
4月も半ば、久しぶりにライブハウスに足を運んだので、忘れぬうちにレポを上げたい。


横浜サムズアップ(ThumbsUp)は、前に一度訪れたことがある。
「不思議な~」シリーズのライブで、篠田鉱平がサードクラスを脱退した後で、三重野徹朗がサポートで入ったときの会であった。
ハンバーガーを注文すると大量のポテトが付いてくるのが特徴で、次回はぜひこれを注文しようと計画していた。
グァバジュースやクランベリージュースなど、あまり他では飲めないドリンクがあるのもよい。
サムズアップとは直接関係ないが、開演まで時間がある場合、このビルの1階の珈琲が安くて美味しい。
作り置きせず1杯ごとに抽出するためか、濃くも苦くもないのだが、新鮮な珈琲の香りが飲んだ後からも香ってくるようで、お勧めである。
アルコールやおつまみなども出している店で、禁煙席の方が狭いのだが(神奈川禁煙条例でどうなるか)、期待が小さかった分美味しく感じられた。
トールサイズやテイクアウトもあるので、時間待ちにはお勧めである。


福間未紗と知久寿焼の共演は、おそらく知久寿焼の誕生日ライブのゲストにワタナベイビーと出演したとき以来であろう。
その頃の誕生日ライブは暗い曲が多く、「陰気な誕生日」といった風情があったようだが、このゲスト2人が出演した年はいくらか明るかったようだ。
それでも、現在の雰囲気と比べるとだいぶ暗い構成だったらしい。
しばらくの間、福間未紗は音楽活動自体をお休みしていて(創作はしていたかもしれないが)、昨年末ぐらいからまた活動を開始している。
昨年末の何かのライブの折込にお知らせが入っていて、いずれこの2人の共演があるのではないかと思われていたが、今回実現の運びとなった。


最初の2曲は2人で登場した。
横浜は、福間未紗の地元とのことである。
ハートランドの瓶を片手に、「Nature isn't Endless」のシャツ(2日前のイベントのものか)、リアルな枝豆のストラップが腰からぶら下がっているのがおしゃれであった。
おそらく、今回のテーマでもある「春祭り」でスタート。
知久寿焼の世界にも通じる牧歌的な要素があり、のどかな気分で聴くことができる。
見た目の不釣合いとは対称的に、二人の声質の相性がよく、ハーモニーが楽しめる。
それぞれの声にない周波数成分を補完し合うような混声で、お互いを埋没させず新しい新鮮な音を創造するようなところがある。
飲み物で喩えると、香ばしい麦茶と深みのある烏龍茶をブレンドした状態であろうか(このブレンドはお勧めである)。
上声で知久寿焼のコーラスが入る機会はそこそこあるが、下声でハモるのを聴くのは始めてであった。
普段はステージ後半の曲となる「鐘の歌」も、同じように上声で福間未紗のコーラスが入る。
ただでさえ高音の曲にさらに上声のコーラスが、調和する声質で入るのは、ある意味奇跡的な組み合わせといえる。
最後の最後の高音部は、福間未紗が下声で重ねたところも興味深かった。
おそらく、この曲に関しては共演が確定したときから下準備をして、自分の音域で曲を最大限に生かせる副旋律の音程作りとハモリの稽古を重ねていたはずである。
何度も聴いた曲であっても、このように人が加わり再構成されると音楽に命が吹き込まれ再生するようにも感じられる。
2曲演奏したところで、福間未紗だけが残りソロステージとなった。


「幸福な間」で、ソロステージのスタートとなる。
アルバムには入っていない、相当前に歌ったのを引っ張り出してきた曲らしい(本人ブログ http://ameblo.jp/maam33/ より)。
アコースティックギターを、そのまま指でストロークする弾き方であった。
インテンポのギターストロークで歌の間取りを決めてしまうのではなく、歌をある程度自由なテンポで歌いながらストロークのタイミングを合わせるスタイルを取っていた。
歌い方は一音一音かみ締めて歌うところがあり、それが聴き手の意識のフックにも引っ掛かりを与えている。
演奏中ギターを置く足の上げ下げがあったが、椅子の高さが合わなかったのではなく、曲の情感を体全体で表現するタイプであったようだ。
個人的には、福間ステージの中でも印象に強く残った作品であった。
「ねじ」「火星」と続く。
「ねじ」は少し速めのテンポの、「火星」はゆったりとしたマイナー調の曲であった。
「永遠のねじを巻こう」というフレーズが印象的であった。
「火星」の途中から、倉井夏樹のハーモニカが入ってくる。
哀愁が増長されて、よい雰囲気となる。
発声・歌声が、誰に近いかを考えながら聴いていた。
リアルタイムで聴いていたときは、かの香織あたりに近いかもと考えていた。
だが、かの香織の歌声はもう少し引っかかりが少なく、さらりとすり抜けていくのに対し、もう少しアナログ的な余韻を残す声質であると感じられる。
家に帰りCDなどを聴き直すと、音符に文字が詰まった歌ではないのだが、川本真琴の方が少し近いかもしれないと思い直した。
ギターはストロークからシンプルなアルペジオになるが、親指の低音部の演奏でバチンと摘み上げてアクセントをつけるのも情感からの表現か。
クラシックギターで言えば「バルトークピチカート」であるが、原マスミもgodinギターでの弾き語りのときに多用している。
原マスミの場合ナイロン弦であるが、スチール弦でバチンと鳴らすところは異なっているが。
ギターは、新大久保駅のホームからよく見るロゴと同じであったので、おそらくマーチンギターであろう。
型番までは分からなかったが、形は双葉双一のマーチンギターに似ている気がした。


「緑の質」からは、最初から倉井夏樹が加わり伴奏の音が豊かになる。
脇役に徹しようという姿勢が感じられ、自己主張の少ない控えめな性格に見える。
同じ「夏樹」でも、Lovejoyの服部夏樹は反核運動のチラシをライブで挟み込み、原マスミのバックでも積極的に話しかける。
Lovejoy自体が脇役に徹しない人の集まりのバンドだが、本日の「夏樹」は斉藤哲也(「カモンハナマルボックス」のアナウンサーではない)的な静かな職人気質を感じさせる(「なつき」といえば「きどなつき」というギター弾きもいた)。
同じアコースティックのギターを重ねての演奏で、ハーモニカも美しく吹いていた。
双葉双一などもハーモニカの美しい演奏をするが、倉井夏樹は伴奏に徹する分ハーモニカのみの演奏の際は両手でボリュームやビブラートをコントロールできる強みがある。
メジャーセブンでのロングトーンが、歌声自体の魅力を増長させる。
一気に爽快な風が吹き抜けるようなアレンジになり、音楽的には初期の遊佐未森的な印象を与える演奏になった。
その次は「一瞬だけ」と曲を紹介したように感じたのだが、「緑の質」と公式ブログ(http://ameblo.jp/maam33/ )には記載があった(修正済みに付きこちらも修正)。
歌詞からして、「一瞬だけ」の曲の気がする。
この曲も、短いがよい演奏であった。
三拍子に時折入るハーモニクス、速いテンポとブレーク、予想外の和音での再入と、音楽的に飽きさせない作りになっている。
テーマは春祭りだが、夏の曲ばかり増えてしまったとのことで(サポートも倉井「夏」樹である)、「夏の星座」の演奏となる。
ボサノバタッチとのテンポに、強調されたハーモニカのビブラートが印象的である。
「ずっと待っててあげる」のさびの部分が、口ずさみたくなるような自然なメロディーであるのもよい。
「ジャム」は、おそらく一番印象に残りやすい曲調と歌詞で、「ジャムジャム真っ赤なジャム」という部分が耳に残る。
あっという間に終わる曲だが、「みんなのうた」で放映されてもよさそうなシンプルなまとまりがある。
「午前4時のロビン」は、倉井夏樹のギターが美しい音色を奏で、深夜の幻想的な雰囲気を効果的に醸し出していた。
このステージを総括すると、一言で評するには多様性がありすぎるが、倉井夏樹の音楽的な貢献も大きく、歌の一粒一粒が大事にされたステージであった。


知久寿焼ステージは、ウクレレでの「あるぴの」からスタートした。
普段は、ウクレレステージよりもギターステージの方が聴き応えのある印象はある。
だが、サムズアップのハワイ風南国感のためか、ウクレレが非常に合っているように思えた。
ウクレレの4本の弦は、3拍子のアルペジオには逆に強みになる部分もあるという発見もあった。
「いちょうの樹の下で」「死んぢゃってからも」とウクレレ曲が続く。
この日のステージに限っては、もっとウクレレステージが続いてほしいような気分であった(「昔むかし」とか)。
「電車かもしれない」からは、ギターステージスタートとなる。
おそらくこの曲と「らんちう」あたりが、一番弾き込んでいて一番自信のある曲であろう。
ギターの諸技法、言葉遊び的要素のある歌詞、憂いのある情景と世界観など、何度聴いてもよく完成されている曲だと思う。
全ての要素でこれを上回る曲を作るのは相当困難だが、比較的早い段階でこの曲を完成させ、ここまで歌い込めることができたという点では、幸福な音楽人生だといえるのではなかろうか(と外野が勝手に評してみる)。
「ちょっと今ココだけの歌」で、また最近の曲の演奏となる。
「いわしのこもりうた」とタイトルを告げた後、「オイルサーディンララバイ」と英語訳をする。
生演奏でばかり聴いていたので気が付かなかったが、「いわし」は「オイルサーディン」だったのである。
そう思って聴くと少し歌詞も新鮮に感じられ、目から鰯の鱗が落ちるようであった。
「らんちう」は、やはり大作であると感じる。
演奏しないことはないため、安定感では一番である。
中間部は、久々に「おじいさんとおばあさんが澄んでいました」バージョンであった。
「電柱」は、本当は二人で合わせたいと福間未紗からリクエストがあった曲らしい。
この曲はやはり、ワタナベイビーとの共演が素晴らしく、思い起こされる。
声が重なる部分は感動的であり、この日の演奏はよかったのだが、やはり二人で何とか演奏してほしかった。
原因は音域的な問題のようで、「何でもできるわけではない」とのことである。
「旅先で心ない人が、よく『さよなら人類やって』というけど、自分のキーと合わないのでできない」という話をしていた。
残り時間を見て、リクエストを募り、「そんなぼくがすき」が演奏される。
こちらは正真正銘、NHKの「みんなのうた」の曲となった作品である。
全体的に定番曲は多いが、安定したステージであった。


いよいよおまたせの全員ステージとなる。
「月がみてた」は、やはり上声が入る。
このステージハーモニカに徹した倉井夏樹の音が冴え渡る。
やはり、声が重なり合うのは気持ちのよいものである。
「夜の音楽」は暗い海外民謡であるが、不思議と日本語の歌詞にも合う。
下声を福間未紗が担当した。
「押し花」は、デビューアルバム「モールス」に入っている曲である。
「君の押し花になりたい」あたりで、声が重なってくる。
基本ゆったりめの2ビートの演奏のため(このステージ全部とアンコールも)、知久寿焼曲とそう変わりなく、8ビートの多い歌い手相手だとこうはいかなかったであろう。
「学習」は、上声と下声とそれぞれ副旋律を設け、互いに主旋律を歌いあう工夫が見られた。
一箇所、お互いが副旋律を歌ってしまったところがあったが、控えめな性格がお互い出たためか。
3人そろって目を閉じて声を張り上げるところがあり、普段は大きな瞳のためにコントラストが面白かった。
「クロアゲハ」も2ビートのチャカポコ感があり、主題が「昆虫」であるため、やはり二人で演奏する違和感がない。
「ユリの丘」は、昔の知久寿焼バースディライブで共演した曲らしい。
当時の演奏が素晴らしかったという評判で(自分は聴いていない)、今回の共演に足を運ぶことになった。
「君の胸にロケット弾」「月のコバルト」あたりが印象的な部分で、このステージ3曲の福間曲の中でも一番二人の息が合った曲であった。
「ハオハオ」は、「おかあさんといっしょ」でよく歌われる曲である。
「今井ゆうぞう&はいだしょうこ」より前の、「杉田あきひろ&つのだりょうこ」時代の曲であるが、一度たま時代にバックで生演奏している。
また、うたのおねえさんやおにいさんが替わっても、このバックの演奏は昔の音源のままなので、たま時代の雰囲気を味わうことができる。
全編を通じて、倉井夏樹の小さな鐘を鳴らす音が響いた。
七尾旅人が譜面台にトライアングルをぶら下げて、足で「チーン」と鳴らすのを思い出した。


アンコールに応えて、まず「円盤旅行」の演奏となる。
福間未紗は、最初の4枚のアルバムが「宇宙4部作」とされていて、全部ではないが宇宙についての歌が多い。
原マスミも「月」や「星」の歌が多いが(あるアルバムは歌詞にほぼ全部「月」が出てくる)、どちらかというと地上から(「地球」でなく「地上」)見た月や星であった。
柳原陽一郎(本当は「幼一郎」時代)も、木星にこそ着いたが、基本地球から眺める幻想性を持った月(「満月ブギ」しかり)などである。
だが、福間未紗の歌う宇宙は、もう少しリアルなところがある。
実際のリアルな宇宙に旅行に行く視点は、原マスミや柳原陽一郎にはなかった。
「オリオン」や「青い夜」といった聞き覚えのあるタイトルの曲もあるようだが、原マスミとは別曲であろう。
機会があればどういった視点から見ているのか、違いを聴いてみたい。
「金魚鉢」で、アンコールも終了。
他では聴けない副旋律をつけていたのが新鮮であった。


音楽的にも食べ物的にも、おなかいっぱいの満足感のあるライブであった。
正直、この後行く予定のライブも、ここまでは満足しないであろうと思われる。
それを思うと、複雑な思いはあるが、何はともあれ福間未紗が音楽活動を再開したのは喜ばしいことであるとつくづく感じた。
また、別の機会にも足を運び、別の側面も見て行きたい。




追記


今回のライブで、知久寿焼暦での今年度が終わり、虫取り旅行後に新年度のライブが始まる。

それにしても、7月の土樽山荘のライブがなくなったのは、つくづく残念である。

山菜は美味しく(水もお米も美味しい)、時間を気にせずゆったりとライブを聴ける。
今年は前泊もしようかと考えていただけに、残念度が増した。

また復活する日が来るのを祈りたい。

「おかあさんといっしょ」の前の番組で、5分間のアニメーションがある。
曜日による日替わりであるが、1年間固定されているのは「カペリート」など一部で、新作ができるたびに放映される曜日もある。
原マスミやもりばやしみほ(「みほみほまこと」の一人、CDは個人的には朝日美穂しかもっていないが)などが声を担当している「ジャムザハウスネイル」は、月曜に放映されることが多い(気がする)
音楽は栗コーダーカルテットが担当していて、昔「幻燈音楽会」で映像と音楽を一緒に鑑賞する機会があり、「ジャム」のダイジェストをそのときに見た。
そのとき、原マスミは「オヤスミ」のスローな音源にあわせて作られた映像に生演奏で合わせることができず、苦労していたのを思い出す。
あの企画は足が疲れたが、また行ってほしい企画の一つである。


この5分のアニメは、挑戦的・実験的な性質を持つ。
連続ものではなく、クレイアニメなど一般的ではないアニメが多いが、5分間という枠がそれを可能にさせているのであろう。
その中で、特筆すべきは「すなあそび」である。
主に月曜日の祝日に放映されているが(不定期)、4/6のプチプチアニメでは放映されていた。


東京MXテレビでCMを紹介し、評論する番組があった(今もあるのかもしれないが)。
その中で、「NTT西日本」のCMだったと思うが、砂で絵を描き、それをアニメーションにするという印象的な作品があった。
TEPCO天気予報の影絵と、ステンドグラスを足して、3で割って、残りに何か混ぜ物を足した印象がある技巧であった。
その作品と同じ作者と思われる作品が「すなあそび」であった。


暗めの画面から始まり、台詞もなしに音楽が始まる。
「トゥギャザー、トゥギャザー、行こう」という、ルー大柴的な歌詞で本格的にアニメーションが動き出す。
砂の表現独特の、陰影のグラデーションが視聴者を深い世界に引き込み、緻密さに欠ける表情などの描写の弱点を補って余りある表現力を持つ。
暗い洞窟の中を2人の子どもが進んでいく映像で、この手法によく合った場面を描き出している。
この「砂」による描写でよくぞここまで、と思わせる躍動感があり、幻想性と相俟って画面から目を離すことができない時間が続く。


このアニメーションで面白いのは、アニメーションの「楽屋」的な部分が作品中に示されているところである。
洞窟の場面から、いったん明るい場面に切り替わり、自然光で二人(おそらく大人と子どもを想定している)の手と砂とが提示される。
「手の指でこのように一つ一つの場面を描いているのだ」ということを認識させ終わった後で、また自然光から幻想光へと切り替わる。
その後は、テーマの広がりを見せながら(フィッシャーの騙し絵的な広がりにも似ている)、子どもたちのつながりに完結させられている。
これだけ制約だらけの表現方法で、それを逆手に取った幻想性を導いている点で、「飯面雅子(いいめんまさこ)」  


このアニメーションは、音楽も成功していると考える。
歌い手は子どもの声であり、途中で多くの子どもの歌声が、ハーモニーではなく斉唱として重なってくる。
それも、訓練された児童合唱団のものではなく、一般的かそれ以上に「音程が怪しい」子どもの声で、である。
だが、この声だからこそ、このアニメーションの真の意図が表現されたと言えるのではないだろうか。


昔、ラジオで「神津善行音楽研究所」という番組があった。
神津善行は、本当は神津牧場の跡取だった人で、神津カンナの父親でもある。
「あなたのメロディ」の司会もしていた気がする。
「神津善行音楽研究所」は、いろいろなジャンルの音楽にスポットを与え、音楽の背景にある様々な情報を提示してくれた興味深い番組であった。
そのどこかの回で、次のようなことを述べていた。
「コーラスは上手すぎる人間だけを揃えるよりも、わざと下手なのを何人か混ぜておいた方が音に幅が出る」と。
実際、大多数の人間である程度安定した旋律が望めるのであれば、ありえない倍音成分をもたらすものは、異なるピッチの声だけであろう。
有名どころでは、オフコースの「I love you」あたりは、途中でかなりひどい音程の子どもの声が混ざる。
ここまでいくと、もはや倍音成分といったレベルではなくなってしまうが、小田和正の声とのコントラストは面白い。
個人的には、「I love you」は車酔いのときに効果のある曲No.1だと考えているが、比べたことがないので統計的な数字は出せない。


一応この歌は、作曲「つのごうじ(つのこうじ、ではない)」、歌「ピタゴラス」とはなっているが、トレーニングを受けた子どもは少ないと思われる。
だが、「はじめの一歩(ボクシング漫画とは関係ない)」という歌のタイトルどおり、これから前に進んで行こうという気になる活力が与えられる。
「倍音成分の充実」が、もしかしたら、違った境遇の子どもたちで手と手を取り歩いていこうという方向性を、効果的に表現しているのかもしれない。
マイナーチェンジ後はまだ見ていないが、「わたしのきもち」でも子どもが歌う歌が流れることがあった(年度末頃)。
「ぽっかーぽかぽかぽっかぽか」という部分のある歌だが、この歌も個人的には好きで何度も聴きたい曲である。
「はじめの一歩」よりは牧歌的なところがあるが、聴後感の余韻は結構近いものがあった。


「みんなのうた」のファンは少なくないと思うが、正直なところ、昔の「みんなのうた」の方が番組のコンセプト的によくできていたと思う。
現在の「みんなのうた」は、曲として多様性は出てきているのだが、「大人から子どもまで、皆が聴いて歌って楽しめる」というところからはずれてしまっている。
「とのさまガエル」「グラスホッパー物語」など、画面を見ながら聴いて楽しい歌はたまにある。
だが、最初から最後まで子どもが歌いたくなるような曲は、残念ながらあまりお目にかからない。
個人的に一番好きなのは「まあだだよ」で、この頃の「みんなのうた」は「誰が歌うか」ということよりも「歌自体の中身」に目を向けていたように思う。
「まあだだよ」は「A→B→C」の短く印象的な構成で、歌詞も子どもの自然な日常的な夢に目を向けており、つい口ずさみたくなる。
Aで変声期前の少年の独唱、Bで少しだけ年長の少女達の斉唱(合唱)、Cで掛け合いと、構成もよくできている。
本来の「みんなのうた」は、プロの歌い手が歌ってよく感じる曲でなく、少年少女の代表者が歌ったものを聴いても、一緒に歌いたくなるものでなければいけない、と考えている。
「矢車草」のような伝統童謡の名曲を採り上げることも、今はない。
時報の5分前に慌ててチャンネルを回すだけの力が、今の「みんなのうた」には失われているところが(少なくとも自分には)ある。


「すなあそび」のBGMには、昔の「みんなのうた」的要素がかなりある。
歌を主役にして、「みんなのうた」でこのままの映像で流す荒技もありだと思う。
おそらく、歌自体も評価され、子どもたちからも一定の支持を受けるであろう。
小学校の「今月の歌」として、教室から聴こえてくるだけの存在になる可能性すらある。
気の遠くなるような砂絵のアニメーション化だけでなく、この曲の魅力も短編としての名作に結晶化させた一つの要因であると考える。


「ガギグゲゴーゴーギンガくん」ほど短くないが、5分という制約はストーリー性を構築するには苦労があると思われる。
だが、この「すなあそび」はいつ観ても、5分という時間の密度の濃さを実感でき、壮大なファンタジーやミュージカルを観終えたレベルの余韻を味わうことができるのである。


できれば大きい画面がよいと思うが、見つけた動画も貼っておく。
なお、この前リンクを貼った、今井ゆうぞう&はいだしょうこの「ぼくときみ」は削除されていたので、リンクを変えておいた。