てろてろ

1.てろてろ
2.闇の現
3.ニーナ


別のアルバムを採り上げるつもりだったが、10曲入りはやはり時間がかかる。
次回かそのまた次にでも上げることにする。
今回はフルアルバムでなく、3曲入りのマキシシングルである。
3曲目が10分以上あるので、「シングル」という感じはあまりしないが。


矢野絢子(「やのじゅんこ」、「あやこ」ではない)は、1度観に行ったことがある。
廃業してしまった倉橋ヨエコと外苑前のライブハウス(「マンダラ」ではなく、「月見る~」の方)で共演していた。
このCDも矢野顕子と間違えて買ってしまったところもあるが、この日も矢野顕子との共演だと思い違いをしたままライブハウスに入った。
前に「文藝系」で触れたミドリカワ書房も矢野絢子も、倉橋ヨエコと共演していなければ生で聴くことはなかったので、よい機会であった。


そのときの印象を一言で述べると、河島英五を女にしたような歌い方、詩の世界、といった感じだろうか。
ラブソングはほとんどなく、フィギュアスケートで言えば恩田美栄のような、直線的な力強さのある歌詞が多かった。
そのステージの最後で、加藤登紀子の曲のカバーを1曲演った。
「加藤さんとは、やっている音楽は全然違いますが~」といったようなMCが入った記憶がある。
だが、個人的には「やっている音楽の方向」も決して遠くないように思えた。
ピアノ自体は力強く演奏するが、歌詞優先の歌い方で、最初から最後まで脱力せずに突き抜ける。
1曲の中でAメロからCメロまで作って、音楽的に構成をするタイプではない。
Bメロどころか、Aメロ1つで長い時間歌い込めてしまえる、初期の吉田拓郎なみの腕力がある。
加藤登紀子も矢野絢子も、「はじめに音符ありき」といった歌い方では、決してない。


ただ、その数少ないラブソング「笑顔」は、非常によかった。
http://lyric.kget.jp/lyric/kw/ol/
一人称が「僕」で、それでも歌詞の内面的な世界は女性ならではの繊細な組み立てになっている。
「誰もいない駅のホーム」あたりの数少ない具体描写が、実を結ばない切なさの心象にリアリティを与え、聴衆に移入の空間を提供する。
シンプルであり、ありふれた語彙も用いているはずなのに、それを感じさせないのがこの曲の奥深さかもしれない。


1.てろてろ


AメロとBメロのみ。
タイトル曲であり、人気も高い。
動画を検索しても、本人のライブ映像どころか、真似して歌うファンの映像まで次々に引っかかる(あえてリンクは貼らない)。


この曲の面白いところは、冒頭の「知らない所に行きたい」気持ちを、途中で全否定してしまうところである。
「嘘だよほんとはね」の後で、「ここに居たい」気持ちを本音として伝えている。


一般的に「旅」「旅行」といった語句は、肯定的に捉えられることが多く、否定的に論じられるものをあまり読んだことはない。
だが、分かりやすい「旅」といった作業は、身近な日常の些細な変化を感じ取る能力を鈍らせるのではないか、と個人的には感じている。
「見たこともない新鮮な景色と旅情」といったものの対称物として、「平凡な日常」を一括りにする例も少なくないであろう。
確かに、古来から「ハレ」と「ケ」という概念はある。
だが、「ケ」の部分にこそ生活の大半はあり、その変化を分節化するためにこそ「晴れ舞台」は用意されていた。
「平凡」と我々がラベリングしているものの大半は、実は「非日常」的な記号の飽和状態からもたらされているものではなかろうか。
日々の生活の中こそを「旅」として認識することにより、新鮮な発見が用意されているはずである。
そのように個人的には考えているが、まあそれはよいとする。


http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND18745/index.html
この曲には、日常の生活と回りのものをまず大切に考えていこうという精神が感じられる。
メジャーデビュー曲でありながら、かなり地に足が着いた人生観がそこにあり、高知という土地で育ち活動をしている創り手の生活環境がそれを生み出したのかもしれない。


この曲の「てくてく」「とろとろ」の精神は、少し前の作業効率・経済効率が最優先されていた時代のアンチテーゼとも言える。
ドラえもんで言えば、のび太がそのまま大きくなったような一人称像で、「時々パンクもする」という部分から失敗続きの「情けなさ」も垣間見える。
この曲の中に入り込むとき、世界に対して背伸びせず身構えず、等身大の自分のまま存在することが許される。
スマートでない、無駄だらけの空間がそこにあり、牧歌的な空気の中、リアリティを持って「身の回りの世界とのつながりを実感できる自己」を取り戻せる力を与える。
この曲の支持者は、おそらくこの曲により現実社会の中で心の居場所、置き場所を取り戻した思いを感じたのではないか。
特に、「街灯の灯りが~」や「僕がさわれるもの全部~」あたりの歌詞が秀逸である。
「のんびり行こう」「力を抜こう」的な方向の歌詞は、大衆音楽の中にも山ほどある。
だが、効率の対極を行きながら、その中で身の回りの日常に積極的に目を向け、愛していこうとする方向の歌を、他に自分は知らない。
「てくてく」「とろとろ」の精神で、ステレオタイプのかけらもない曲が出来上がったのは、一種の奇跡と言っても過言ではない。
個人的には、長い年月を通して聴き続けていく場合、「ニーナ」よりも色あせることが少ないと考える。


2.闇の現(うつつ)


「現(うつつ)」という言葉は、「夢うつつ」と並べられて用いられることが多く(他には「うつつを抜かす」あたりか)、夢の同義語と捉えられることは決して少なくないように感じられる。
「うつつをしっかり見つめろ」的な言い回しがないため、今後もリアリティを持った意味を感じ取らせる言葉とはなり得ないであろう。


「うつつ」と言えば、なんと言っても浮かぶのがドラえもんの「うつつまくら」である。
初期も初期のドラえもんの傑作で、中後期には見られない実験的な物語構成が存在する。
「好きな夢を調製して見られる枕が合って、それで見た夢が現実になる」という、一ひねりのある直接的でない道具が主役である。
最後に目が覚めたとき、夏休みも終わりというのに宿題が残っていることに気付き、ドラえもんに「うつつまくら」を出すように哀願する。
そこで、「うつつまくらなんてない」「夏休みは始まったばかり」という、今までの展開の全てを否定する言葉が、ドラえもんの口から発せられる。
正直、リアルタイムで読んでいたときには、すぐにはこの最後のコマの意味が分からなかった。
一つ目の言葉だけで二つ目の言葉がなかったならば、解読することすらできなかったであろう。
このマンガが、小学館の学年誌に註釈もなく掲載されたのである。
一応、解説しておくと、「うつつまくら」を使って夢を次々と現実化していく、という一連の作業の全体が大きな一つの夢だった、という二重構造を持っていて、小学生がさらりと読めるような予定調和とは対極の存在である。
古来から、「夢落ち」という手法は、一種の反則技とされてきて、用いること自体が創作者の敗北とされることも少なくなかった。
だが、これは「夢」を扱う表現者としての一種の挑戦であり、最後の一コマまで「夢」自体を悟らせない姿勢を貫いているのが素晴らしい。
ドラえもんの道具の中では「時間貯金箱」が欲しいと個人的には思うが、作品としては「道具自体が主人公でない」この作品に強い魅力を感じる。


そろそろ歌の中身に入ると、この曲は前後の曲とはかなり趣を異にしている。
実際に聴いてみると、どのような曲かよく分かる。
前に「おかあさんといっしょ」について触れてとき、youtubeの動画を貼りまくったが、全部削除になっていた。
このリンクも削除されるかもしれないが、一応貼っておく。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2156632
曲については、おおむね評判がよいようだ。
ただ、前後の曲に比較して、歌詞への着目が非常に少ない点には気になるところがある。


この曲は、いわゆる「ライブ栄えのする」曲である。
ピアノをかき鳴らし、声も張り上げて、力強いジャズに近いところもある。
だが、前後の2曲に比べ、歌詞があまりにも抽象的で、その解釈が聴衆の理性の部分に全面的に委ねられてしまうところがある。
正直、部分部分は移入可能なフレーズも顔を出し、曲主体の中でそのようなフレーズを断片的に拾っていけば「よい曲」として捉えられることもできなくはない。
だが、1曲目、3曲目を愛する多くの聴衆は、映像化の可能な柔らかな具体像を示す歌詞に、あまりにも魅力を見出し過ぎてしまっている。
下手をすると、言葉が音だけで上滑りして、矢野絢子の声という楽器の音としてしか聴き手の脳裏にインプットされていかない可能性さえある。


「闇」という言葉は、手垢がかなり付いている割には個々の認識が異なる難しい言葉で、例示もなく「闇」というだけを語だけを提示するのはかなり危険である。
たとえば、サードクラスの「年上想い」という歌も、「先輩、闇だねここは」などと「闇」が主題として扱われている。
だが、「闇」という語の包括する要素が大きすぎて、表現者が当初意図したであろうメッセージにソフトフォーカスがかかり、「分かったような分からぬような」聴後感につながっている。
もともと、具体に具体を重ねて行間の余韻を醸し出すことに長けたところがあるのだから、「闇」という言葉を一言も使わずに「闇」を表現した方が遥かにサードクラスらしさが出たであろう。
「闇」を引き算ではなく、何かを生み出す足し算的な側面から見つめた寺山修司のような例外はあるが、「闇」の定義をあやふやなままではリアリティを与えることはできない。
もっとも、メッセージがないにもかかわらず、いかにもあるように見せるのであれば、「闇」という言葉は実に便利な言葉である。


一応、「闇の現」について、自分なりの解釈を記す。
「の」は、同格の「の」である(「八百屋のおじさん」型、「~であるところの」と置き換えられる)と思われる。
「闇であるところの現実」、つまり、「現実」を「闇」のように実体が見えない世界と捉え、その中で立ち止まることなく力強く前に進むことの必要性をメッセージ化したものである。
「見たいものだけ見たらいい」という部分は、実体が見えない現実の中では、前に進む原動力となるものが個々の意思と理想のみであり、それのみを原動力として持っていくことを説いているのではないか。
「目を離すな」については、迷い諦めてしまうことの戒めが感じられる。
とは言うものの、明らかに「てくてく」「とろとろ」の精神とは、二律背反こそないもののアクセントの位置が異なっている。
「てろてろ」に移入ができればできるほど、「闇の現」をカッコいいジャズ調音楽としか認識できなくなっていくという逆相関の図式が、そこに存在すると考えられる。
この同居は、ドラえもんで言えば、「うつつまくら」と「のび太の恐竜」あたりを同居させるようなものである。
「散らかった部屋」がコンセプトのどこかのブログならいざ知らず、分かりやすいコンセプトを与えるのには決して成功していない(個人的にはもちろん好きだが)。
ライブで聴くとやはりカッコいい曲だが、この3曲の並びは「闇の現」の要素を打ち消す方向に強く働いている点が、少々楽曲には気の毒であった。


3.ニーナ


12分の大曲で、「ニーナ」は椅子の名前である。
「てろてろ」に負けず、おそらく一番の人気のある曲であろう。
さだまさしの「親父の一番長い日」などと違い、歌詞が詰まっていて間奏もほとんどなく、ゆったり歌うと3倍ぐらいの時間がかかってしまうぐらいの内容がある。
小学校の音楽の教科書で、4段分の五線紙があれば足りるような旋律の繰り返しで、ほとんどの部分が歌われている。
一言で要約すると、「ある椅子の一生」である。
「生活に疲れたときに聴くと、この曲は泣ける曲だ」と、紹介があった(いつもの先達)のが、そもそもの聴き始めであった(買った後しばらく聴いていなかった)。
また、「大きな古時計」にかなり近い要素を持っているとも評していて、これは実際に聴いてなるほどと感じた。
椅子を擬人化した世界に、大海赫著『クロイヌ家具店』があるが(自分はこの本の挿絵の版木を1枚持っている、宝物である)、「ニーナ」はあくまでも普通の椅子である。


http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B09795
ある家具職人の手から生まれ、椅子のその美しさのために、売るときから人を選んで販売されている。
そして、様々な人の手に渡り、海も渡り、椅子自体も手が加えられ、それぞれの人物(猫も含む)の人生にオーバーラップされる。
「大きな古時計」は動かなくなるところまでいくが、「ニーナ」も脚が折れて「もう、お疲れ様と言ってあげよう」というところを帰着点としている。
椅子自体の人生(椅子生?)もないではないのだが、椅子の視点で描かれる人間ドラマが中心となっている。
そのあたりが、一個人の半生や人生を主題にした作品と比して、多要素を彩色に用いた世界の深みを生み出している。


この曲が聴き手を癒すもう一つの要素は、人選である。
椅子に関わる人の中に、「悪人」は出てこない。
老若男女は様々だが、一生懸命生き、働き、前向きに行動している。
この曲を聴くと、無性に「いい仕事」をしたくなるところがあるのもそのためであろう。
だが、それでも全てが満たされてはいかない運命が横たわっており、それについて椅子は何も語ることなく、傍に存在しているだけである。
おそらくは、この曲に一番移入できるのは、「一生懸命生きるが、全てが報われたわけでもない者」であろう。
曲中では、彼らの不平や不満は決して語られることはない。
しかし、投影可能な対象像が、慈しみを持った視点で淡々と描かれている。
椅子は何も語らないが、全てを見ていることも、世界への移入の手助けをしている。


椅子が壊れる前、人生(椅子生)が逆時系列的にフラッシュバックされ、今までの歩みが語りにより回想される。
それを聴くとき、あたかも自分がその人生を送ってきて、その全体を振り返っているかの錯覚を引き起こす。
「自分が最期の時、はたして総括して美しい人生だったと思うことができるだろうか」、そのような問題提起を間接的に聴き手に投げ掛けているようにも聴こえる。
音楽的には、その直前の「ニーナ、ニーナ」と声を張り上げる部分が頂点で、後は美しい余韻を残すのみに用いられているだけだが、むしろその余韻こそが後を引く。


この曲は1つの物語であり、紙芝居や絵本にしても十分読み手に印象を与える作品である。
逆に、この曲の弱点もその「物語」性にあり、聴くときには必ずその世界の浴槽に身を浸さねばならず、準備と覚悟がそのたびに要る。
天沢退二郎は、「詩の本質は多義性」のようなことを朝日新聞で書いていたが、「ニーナ」は象徴的に解せることはできるが、多義的ではない。
心の準備がない、疲労の際にも手が届きやすい点では、「てろてろ」の方が多少長く親しむことができやすいとも言える。
音楽は、決して世界の邪魔をしないピアノのシンプルな伴奏と、シンプルな和音展開に限られている。
それが、紙芝居の外枠のような役割を果たしている。


本当は、ファーストアルバム「ナイルの一滴」にはこの3曲も入っていて、もっと多くの曲が楽しめるようだ。
だが、この3曲を聴くだけでも十分価値があり、お勧めしたい作品である。