CatMemoNote/フリーソフト


EeePC4Gは、当然容量の面からワープロソフトを入れるのは難しい。
メイン機は今でも一太郎とAtokを入れ、文語モードなどもバリバリで活用している。
だが、EeePC4Gではさすがにそうもいかない(本当はAtokは何とか入れたいが今度試してみたい)。
もともと、インターネットというより文章の打ち込みのために購入したところもあるので、軽くて便利なエディタは当初から入れる必要があった。


知人のホームページで知り、よさそうだと思って入れたのが、以下のソフトであった。


http://www.cc9.ne.jp/~pappara/catmemonote.html


このソフトは、結構見た目の割に高機能なので、使い勝手がよい。
このブログの下書きも含めて活用させてもらっている。


公式ページでは白いバックにカレンダーが表示されているが、個人的にはCatMemoNoteのテーマが好きなのでバックに使っている。
水色の斜めチェック柄であるが、緑やクリームなどの色が追加されるともっと嬉しい。


右下にネコのアイコンが出る。
アクティブでない状態にすると、ネコが眠るアイコンになる。
これも、個人的には好みである。
あと、「Cat」らしい点としては、カーソルが全角のときはネコの足跡がオレンジ、半角のときは黒で表示される。
ショートカットのアイコンも、白いネコである。
個人的には、実体としてのネコより記号としてのネコの方が受容できる志向があるのだが、このソフトは統一感により気持ちよく扱うことができる。


便利だと思うのは、以下の機能である。
・文面は自動更新(保存をしなくても、閉じれば勝手に保存される)。
 ちょっとしたことを打ちたいときに、これは便利である。
・全機能ショートカット付き。
 たとえば、「Ctrl+n」で、新規のメモタブが開く。
 「F2」を押すと、名前の変更ができる。
 使いこなせば、マウスを使わずに短時間で多くの作業を行える。
 EeePCは、画面も小さい。
 機能ボタンを置くこともできるが、できるだけ広い画面で作業を行いたい。
 そのため、「覚えればマウスもボタンも要らない」この機能は嬉しい。
・機能と言うわけではないが、Dに置いても、バージョンを新しいのに置き換えても、ディレクトリーに関係ないので、この手のPCには都合がよい。


正直なところ、このソフトを機能面で完全に使いこなしているわけではない。
ショートカットも覚えていないものは、マウスクリックで行っている。
だが、このソフトを入れて、EeePCの「制約」を逆に楽しめるようになったのは大きい。
今まで、自分は「足し算の美学」で生きてきたところがあって、混色を重ねたオリジナリティにこそ価値があると信じていたところがあった。
だが、この軽い、ファンシーで高機能なソフトには、重い荷物を捨てさせ、身軽な生き方の充実感を提供するだけの力がある。
完全な「引き算の美学」とも少し違う、精神的な冗長性のみを残したところに、このソフトの魅力があるのであろう。
EeePCでブログ打ちを考えているなら、このソフトは老若男女問わずお勧めしたい。


EeePC4G単体では、あまり記すことがなくなってきた。
これからしばらくは、本体そのものよりも周辺部についての情報の記述になると思われる。
来月からは、またライブレポが多くなるので、今月もう少しこのテーマで書いてみたい。

それにしても、普段よりだいぶ短い。

本来、ブログの量はこんなものであろうか。

「おかあさんといっしょ」の新年度の週を2回ほど見たので、ごく簡単に感想を記す。


1)冒頭が、「モノランモノラン」になった。
一応、横山だいすけと三谷たくみの二人は出てくるが、スタジオの子どもたちは冒頭では映らない。
「主役は子ども」ではなく、「モノランモノラン」に何とかスポットを当てたいという意図が感じられる。
3人の登場人物のほかに、ポストのような脇役も設定されていた。
前回シリーズと同じ声優が一人混じっているので、想像以上に違和感は少ない。
「にこにこぷん」の頃は、中間部に「あららこりゃりゃそれからどんどこしょ」という、花のコーラスがあった。
それに近いコーラスが、時計? か何かでやっていた。
このシリーズの支持は、どれだけ親の視点と子どもの視点との点で、共感を得ることができるかにかかっている。
破綻はないが、これからの様子見である。


2)音楽が変わった。
「スプラピスプラパ」が変わるのは予定通りだが、冒頭のテーマ音楽まで変わったのは予想外であった。
この部分が変わったのは、いつ以来であろうか。
ちなみに、衛星放送の「おかあさんといっしょ」は、冒頭も「スプラピスプラパ」も変わらず。
3人のメンバーも同じであった。
ちなみに「ぱんくろう」も普通に放映している。
衛星放送で驚いたのは、放映されていたコーナーが「ぐ~チョコランタン」ではなく、その前身の「スプーとガタラット」だったことである。
おそらく、今までの流れを全て再放送して、「モノランモノラン」に切り替えようという意図だろう。
「スプーとガタラット」が一話完結でなく、次回を見なければ先が分からないのも驚かされた。
ちなみに、通常版の「おかあさんといっしょ」の最後の音楽は、三谷たくみの声に合うような美しい旋律を持っているが、子ども受けは前回の方が上だろう。
原点帰りのところもあるが、どれだけ馴染ませることができるかが勝負である。


3)昔ながらの定番童謡の割合が多い。
これは、4月はいつもそうなのかもしれない。
毎年変わっていく、新しい幼児。
昨年は「今井ゆうぞう&はいだしょうこ」から代わったので、そのためだと思っていたが、そうではないのかもしれない。
まさか、5月以降も定番童謡が続くわけではないだろう。


他はあまり変わった様子が見られなかったが、全ての曜日を見てみないとなんとも言えない。


他の番組もいくつか見たが、「わたしのきもち」はあまり変わっていない。
当然、モッサンも復活してはいなかった。
去年書いたものの続きになるが、やはりベッキーは去年のうちに降板していたようだ(代わりに中川翔子)。
去年からは「かおのたいそう」ではなく、「かおじゃんけん」になっている。
番組の性質からすると、表情筋をコントロールする目的の方があっていた気はする。
じゃんけんの前の部分は冗長的であり、「かおのたいそう」時代の決め細やかな説明が入った方が一緒に動かすならやりやすい。
監修スタッフのエンドロールで、相川充教授の他にもう一人誰か表示されていたような気もするが、気のせいかもしれない。
今度はよく見ておきたい。


NHKのニュースは好きでよく見るが、登坂淳一と武田真一は4月からも見られるが、衛星の原口雅臣が宮崎に行ってしまったのが痛い。
深夜の時間のニュースの頃は、毎日違うメガネを架け替えて、NHKらしくない雰囲気(民放らしくもない)に驚かされた。
坂本朋彦も知らぬうちに仙台に行ってしまったが、衛星の昼の番組(「BS列島ニュース」)でたまに見かける。
出山知樹は広島から、真下貴は大阪から、それぞれ元気な姿を見せてくれるよい番組である。
残念ながら、この番組は宮崎からは入ってこない。
知事がらみのニュースで情報が入ってくるのを、気長に待つしかなさそうである。
それにしても、宮崎の視聴者は18~19時台で、「登坂→原口→武田」と3人連続で見られて羨ましい。
ちなみに、登坂淳一はカメラで映しているときに決して原稿に目を落とさない、プロ中のプロである。
祝日にも休むことなく(おそらく「休め」と言われない限り休まないのであろう)、頭が下がる。
話は飛ぶが、この前に衛星放送で見た前髪を下ろした野村正育の雰囲気の柔らかさにも驚いた。
「ことばおじさん」こと梅津正樹は、「お元気ですか日本列島」3月最後の出演で「4月からの定年後も継続すること」は報告があった。
高校野球の終わった来週からになると思うが、「ことばおじさんの気になることば」がまた見られるのは嬉しい。
http://www.nhk.or.jp/a-room/kininaru/index.html
このコーナーについてはいずれ採り上げようと思っていたが、「正しい間違い」の短絡的解説でなく、語源までしっかり提示するところがよい。
流行の言葉については多くのバラエティ番組では「言葉の乱れ」的な扱いしかしないのに対し、語源的・語用論的に意味を掘り下げている点は素晴らしい。
それにしても、原口雅臣は早いところ戻ってきてくれないものだろうか。


「ストレッチマン2」や「ピタゴラスイッチ」なども一通り見たら、何か思うことを書いてみたい。


以前レトルトを1度紹介したが、今回もレトルトのカレーを取り上げたい。


カルディは、珈琲を入口で無料で振舞ってくれるのでついつい前を通ってしまう。
インスタントドリップの珈琲はグラム数が多く、味がしっかり出て手軽な割りに美味しいが、エスニック系も手頃でよい。
東南アジア系のスパイスや麺などが充実しているが、カレーのレトルトもオリジナルブランドを含め揃っている。
その中で、値段が手ごろな割りに頑張っているのがキーマカレーである。


キーマカレーは、多くの場合「挽肉カレー」の総称で用いられているので、店舗や商品によって味はまちまちである。
インド料理店ではチキンかマトンが多いが、ビーフとポークの合挽きなどを出すところもある。
新宿ハイチのドライカレーも、ある意味水分を減らしたキーマカレーのようなもので、おそらく合挽きである。
西葛西のRAMBLEのドライカレーNo.3もよい出来であったが、やはり合挽き系だろうか(記憶が定かではない)。
よく行く二和向台のニューデリーのランチは、マトンのキーマで、安いセットの中では一番お勧めである。
多くのインド料理系のランチバイキングのキーマは、グリンピースや豆などが入っているが、それはそれでよい。

一般的に、合挽き系の挽肉のキーマは後から胃の負担があり、それが食後感に影響を与えている気がする。

店舗系のキーマは、玉葱などの野菜もカレーのアクセントとして使われ、店によっては調和しないまま野菜自体の味がダイレクトに直撃することもあった。

そのあたりが、初対面の店舗でキーマを避ける理由にもなっていた。


カルディのキーマカレーは、肉はチキンで食後の胃に来る重みが少ない。
値段は250円+消費税程度の安値であるのに、スパイス感がしっかりあり美味しい。
鼻からスッと抜けるようなスパイス感で、クミンか何かを使っているのであろうか。
表示は「生姜」と「ガーリック」以外は「香辛料」としか書かれていないので、自力で再現できないのが残念である。
鼻をスパイスが抜ける爽快感は、御茶ノ水のエチオピアのカレーあたりの感覚に近いだろうか。


「玉葱」「トマト」などは、しっかり熱せられて、むしろ鶏肉に染み込む味としての存在に近い。

玉葱感を楽しみたいのであれば物足りないかもしれないが、玉葱自体にもスパイスのコーティングがされ、カレー全体としての調和が生まれている。
家で食するのであれば、卵や豆など、様々なトッピングにも合いそうで、ドライカレーにしても美味しそうである。
200グラムの分量は、値段を考えると充実しているといえる。
レトルトで多幸感を味わえるカレーを以前紹介したが、ケララカレーも最近店頭からは見なくなったので、このカレーが一番かもしれない。


おそらくカルディは、このカレーについてはある程度のコストをかけて、評判を上げることを計画しているのではなかろうか。
カルディの商品にはそういったところがあり、グラム数の多いインスタントドリップの珈琲も、決して値段は高くなく、出来上がりの味には驚かされる。
「カフェ・アンデス」というのを買ってみたが、酸味が少なめでコクと深みがあり美味しかった。
スパイスの効いたカレーの後に、飲んでみたい味であった。
カルディは定番商品が一般的にはまだなく、商品より店の名前の方が有名なところがあるので、しばしばこういった方針が採られるのであろう。

「この商品を購入するためにカルディに足を運ぶ」というオリジナル商品は、まださほどあるようには思われない。

酒と珈琲を入れ替えた「やまや」のようにしか見えない店舗もある。


実際、キーマカレーがどこまで店の看板を背負える商品になるかは分からない。
だが、値段と味とを考えると、この商品がカレー商品部門の看板を背負えるだけの力は持っていると思える。

もしかすると、「珈琲とカレーのショップ」として、世間に認識させられるかもしれない。
この商品を代表商品として定番化させ、「キーマカレーに合う珈琲」を提示することができれば、カルディに新しい道が開けるであろう。


音楽だらけのテーマのこのブログで、カレーもランキングのジャンルに加えてしまった。
責任があるので、とりあえず記事を一つ追加することにする。

センネン画報

まったく「童話・児童書」のカテゴリーの更新が進まないので、範囲を「書籍」に広げることにする。
とは言え、シェークスピアやプルーストなどを採り上げるつもりは毛頭ないので、大してジャンルは変わらないとは思う。


最近、一冊の「漫画」を購入した。
漫画といっても、台詞はほとんどなく、静寂な雰囲気の中、心象風景が淡い水色を基調として描かれている。
また、Webで全作品公開しており(しかもこちらはカラーで)、ほぼ毎日新作が更新されている。
http://juicyfruit.exblog.jp/
ファンにとってありがたいのは、作者自身が転載を認めているところである。
http://juicyfruit.exblog.jp/7780275/#7780275_1
一応、このブログでもイラストを拝借させてもらったので(最近追加したプロフィール画像)、出典ページを明らかにしておく。
http://juicyfruit.exblog.jp/7959319/
数日に一度ある「more」をクリックすると、購入した書籍を私書箱に送付すればサインを入れて返送してくれる、とある。
大変なサービスで、売れすぎてしまう前に享受しようと考え、一筆書き加えて送ってみた。


今日マチ子は、ライブドアの「デイリー4コマ」で「ラブ☆トレイン」という作品を描いていて、個人的には一番のお気に入りであった。
http://4koma.livedoor.com/creator/profile/c00038.html
ちなみに、ライブドアの「デイリー4コマ」は、堀江ショック以前は唐沢なをきなど(他にもいたが忘れた)既に売れている作家の作品も多く掲載されていた。
だが、事件以降、メジャー誌で連載を抱えている作家は登場しなくなり、いつしかバックナンバーからも削除された。
とは言え、個人的には今日マチ子などのメジャー誌で読めない作品を読める頻度が上がり、それはそれでよかった。
「電車がテーマ」「台詞はなし」「当然4コマ」など、縛りだらけの漫画であるのに、毎回質も落ちずに楽しむことができた。
だが、昨年末(2008/12)以降更新がなくなってしまい、どこかで忙しく作品を発表しているのでは、と調べたらこの本が出てきた。


とにかく、全作品Webで読めるのだから、つまらぬ評論は抜きにして原典に当たってもらうのが本当は一番よいのだろう。
「ラブ☆トレイン」がおじさんや子ども、女子高生など、記号的な登場人物が中心だったのに対し、「センネン画報」は2人の登場人物がいる。
高校生の制服姿の男女が、毎回のタイトルや素材と関連するように描かれている。
時には心象を、時にはメタファーを、短いコマで無言で描いている。
秀逸なのはタイトルをの付け方(もしかするとタイトルが先かもしれないが)で、表層だけではタイトルになぜ結びつくか分からない回も多いのがよい。
この書き方は読者をなめることなく信頼している(試している?)ためにできることで、心象を感覚の部分で味わいながら、同時に奥底に込められた筆者の真意を解読する楽しみも味わえる。
特に作者は正解も解説も用意していない。
読み取れるもの(=作品)が全てであって、それ以上でもそれ以下でもないといった作者の姿勢が垣間見られる。
世阿弥の『風姿花伝』ではないが、秘することにより、言葉では表現し切れなかったこと(またはそれ以上のこと)を表現するのに成功している。
込めるテーマ、結びつける手法、用いる素材、それらの準備の苦労は一切見せずに、短い結晶のみを提示することのみに心を注ぐ。
楽屋を見せない美学が感じられ、表現者としてこの姿勢は評価されるべきと考える。


サイレントマンガと言えば、昔『ラジオマガジン』という雑誌があった。
全国DJ人気投票という企画が好評の雑誌で、ちなみに第1回の第1位は笑福亭鶴光のオールナイトニッポンであった。
出立ての頃の立原啓裕などが連載を持っていたり、ビートたけしのフライデー襲撃事件の原因になった石垣利八郎が記事を書いていたりと、特徴のある雑誌だった。
以前書いた、森田童子の「チューニングができない」は朝日新聞ではなく、この雑誌の取材だったかもしれない。
この雑誌の中で、川西義人の漫画がメジャーになりつつあった高橋春男の「マイナー学園」の代役でしばらく掲載された。
後に、高橋春男の代わりに連載を持つことになるが、一時期コンセプトにしていた「サイレントマンガ」が一番よかった。
4コマではなく数ページの均等割りで、社会を一般化したものではなく「私小説的な」実験作品だった。
だが、この作品で漫画文化の系譜から外れる部分の、多くの可能性を感じることができた。
正式連載後、普通の漫画になってしまったのは残念である。


サイレントマンガの長所は、立ち止まって味わえることである。
一般の漫画では、「台詞にある言葉」の力はやはり大きく、その最大公約数に読み手は安心させられてしまう。
記号によりプロットを構築してしまえば、あとは読み手の想像力に一定の制約を加えるためのみに「絵」が用いられる。
「言葉」も「絵」も、それぞれを監視し、それぞれを規制するために方向付けられてしまうことも少なくない(主導が片方の場合もあるが)。
だが、どちらか片方が切り離されれば、監視や規制はなくなる。
「小説と漫画」の対比でよく用いられる構図だが、「漫画と絵画」についても同様である。
また、表現の解釈の方向も自由になり、逆に想像力による補完が必須となる。
これは表現者にとっては諸刃の剣で、意図と異なる方向に解釈される恐れもある。
だが、読み手にとっては無理に用意された一つの言葉に意識を強制する必要がなくなり、自分の取る解釈のみで読み進めていける。
この楽しさを、「旅」や「地図」などに喩えることもできようが、意味が若干ずれてしまいそうなので止めておく。
情報を単に受けるだけではなく、「考えること」や「感じること」がよりできる手法といえよう。


「考えること」と「感じること」、その区別は何であろうか。
前者は、言語化することができるし、言語化しないのであれば本当は考えていないのかもしれない。
だが、後者は「言語化」という作業が、実は「そのように意識としてラベルを貼ろうとしているだけではないのか」という自己警告を内包している。
漫画には「ふきだし」があり、台詞が付記される。
その空間は、本来別の風景、人物、表情が置かれていた場所であり、それらを押しのけ一つの会話文が居座ることになる。
少し、ずれてしまうかもしれないが、自分は大学の卒業論文で音声知覚の実験を行った。
結論だけ述べると、音声情報と視覚情報は完全同期の提示より、ほんの少しだけ前後させて提示した方がそれぞれの影響を受けやすかった。
絵のあるコマの台詞自体はサイレントにし、台詞だけのコマを前後提示すれば、読み手は最大限にその融合を認知できるかもしれない。
だが、「ふきだし」で完全同期してしまう現在の漫画スタイルでは、本来持つ「絵」や「言葉」の伝達能力を弱めてしまう可能性がないだろうか。
「考えること」については、読み手の心持さえあれば、スタイルはある程度どうにでもなるかもしれない。
だが、「感じること」については、極力ノイズを排除しなくてはならない。
サイレントであることが、言葉を理解することに向けていた意識を別のことに向けさせる力につながっている。
以前も書いた、生前の最後の日本公演かと思われるパントマイムの巨匠マルセル=マルソーの「青年、壮年、老年、死」にも言える。
G線上のアリアこそ流れているが、言語は一切提示されず(パントマイムなので当然だが)、ただマルソーが歩いているだけである。
だが、逆に何も解説されないからこそ、人間が老いていき死んでいくことの実感としての理解を持つことができたのであろう。


作者にサイレント以外を描くなと述べるつもりはないし、ノンサイレントでもおそらく活躍していくことにはなると思われる。
だが、この手法自体は一つの有効な表現手段として、取り続けていってほしいと感じる。
現在の自分には、まだこの作品を総括する力がない。
月並みな言い方ではあるが、今後の活躍を期待したい。


やはり、書き慣れないテーマは難航する。
今回もやはり、直接作品に関係ない記述が大半になってしまった。
次回作の紹介の際には、もう少し作品自体を掘り下げたい。




インドカレーカーマ/御茶ノ水または神田神保町


公式ホームページが見当たらないので、代わりのページで。
http://r.tabelog.com/tokyo/A1310/A131003/13000243/


以前にも書いたが、ブログのアクセス解析で、リンク元URLが分かるので、よくそれを参考にしている。
検索ページがリンク元であると、自分以外の記事が他に引っかかり、美味しいカレー屋や貴重な情報が発見できることもある。
前に採り上げた西葛西のRAMBLEのカレー製作者のブログも、一市民時代には他店を採り上げている。
その中で、足を運ぼうと思ったのは、以下の店である。
http://gold.ap.teacup.com/ponkoro/89.html
正直なところ、その場所にカレー屋があること自体知らなかった(共栄堂と違い前を通らない)し、日曜日が休みなのも来訪の機会を奪っている。
仕事帰りに足を運んだところ、たまたま休業していた。
そこで、出直しての仕切り直しとなった。


カウンターとテーブル席とで、20席はないだろう(忘れた)。
意外と小ぎれいな店内の雰囲気で、釣りキチ三平の映画の大きなポスターが貼ってあった。
「仕切りの向こう」というキッチンカウンターではなく、食卓の反対側といったところに主人と奥さん。
注文を受けて1つ1つ、カレーを作り、客に出している(共栄堂は注文してすぐ出てきた、料理はできていてよそるだけなのであろう)。
持ち帰りもできるようだが、「野菜カレー」の持ち帰りは、品切れか不可かで、店内でチキンカレーを食しただけだった。
かなり期待をしながらメニューを見ていると、チキン、キーマ、野菜のカレーの写真が貼られていて、「一番人気」の紙がチキンカレーには貼られていた。
ちなみに、外の看板には「チキンカレー」「キーマカレー」だけが書かれていた。


ネットでのリサーチどおりの、美しいカレーが出てくる。
前日の共栄堂が1100円だったので、850円は安く感じる。
肉をもりもり食べたいのであれば物足りないかもしれないが、大盛りにしても1000円なので、割安感はある。
一口食べて、習慣的に一番近い味のカレー屋を探す。
新橋(地下街WING内)の「カリカル」の、特製インドカレーが一番近いかと感じた。
鉄のカレー皿に入っているかどうかの違いはあるが、スパイスの溶けたスープの辛さが、米に染み込み口の中で調和する共通点がある。
前日食した共栄堂は「カレーソース」といった雰囲気があったが、カーマは「カレースープ」といった形容が適切であると思えた。
液体感だけを見ると、レトルトで言えば前に紹介した「男乃カレー」に近いが、あちらは赤いオイルがスープの中に浮いている感じであった。
だが、カーマの場合、それはなくもう少し食欲をそそる落ち着いて均一な色合いであった。
この手のスープ状の液体系は、胃にもたれることなくスパイス感だけを効率よく吸収できるので、中毒性とまでは行かないが、ある程度習慣性が生まれる。
決してこの手のカレーは口の中で辛くてたまらない、といったことはないが、香辛料が吸収され蓄積されたところで、体の中から辛味を(HOT感を)実感する。
夏は発汗、冬は抹消の寒さの軽減と、心地良い体内変化を伴うところも、習慣性の起因の一つであろう。


大きなメークインは、見た目には美しい。
個人的には、少しずつスプーンで砕き、スープを染み込ませて食したい。
カレーといえばジャガイモが付き物ではあるが、どのように扱うのがよいのかは最近悩むところである。
「エチオピア」のバターを添えたジャガイモを取っておき、カレールーと混ぜるのも美味しい。
昔、どこの店だったか(錦糸町あたりだった気がする)、油でフライ状の丸じゃがを入れたところもあった。
それはそれで新鮮だった。
そもそも、日本のカレーにジャガイモが入ったのは、ジャガイモをスプーンで潰して、辛さを調整するためだったため、と聞く。
実際、それを参考にカシミール系では、同じようなことを試みている。
家では圧力鍋でクタンクタンに蒸して、それに染み込ませると、味が上品になりよいかもと思った。
いろいろと、自分でも研究してみたいとは思う。
個人的には、大きなままよりは一定のコンセプトでカットした方が、カレーとの調和にはよいのではと感じる(見た目は丸ごとの方が美しいが)。


スパイスはそこまで詳しくないので、よくは分からない。
ガラムマサラ系ではなく、カルダモンやクローブ系の落ち着くようなスパイスが基調なのだろうとは感じる。
キーマは注文しなかったので分からないが、チキンカレーはスープ状の液体を一滴も残さずに染み込ませて口の中に入れたいという思いは確かにある。
「このカレーで」インゲンやキノコの蒸したのを混ぜたら、それはそれで美味しいのではないかとも思った。
辛いカレーには、熱を通して甘みを持つ野菜が結構合う。
昔、某ファミリーレストラン(ただ店名を忘れただけ、ロイヤルホストかCASAか?)の夏のカレーフェアでブロッコリー(カリフラワー)がカシミールカレーに入っていた。
本当はスパイスが飛ぶので邪道なのだが、家では辛い味をじっくり具に染み込ませて楽しんだりしている。
だから、「野菜カレー」も中辛ではなく、思い切ってチキンより辛くして野菜の甘さとコントラストを付けたらどうだろうか。
食べてもいないカレーを論ずることは本来できないが、チキンだけにこのスープを用いているのはもったいないような気もした。


書くつもりはなかったが、店の主人のことについては同じブログの別の記事の意見とほぼ同意見である。
http://gold.ap.teacup.com/ponkoro/155.html
自分はもともと、逆バイアスをかけやすいところはあるのだが、それを差し置いても「人付き合いに慣れない、少し気の弱そうな」人物にしか見えなかった。
それでも、カレーという料理は、これと決めたレシピや味の方向性は貫かなければならないところはある。
そのために、いろいろなところで書かれている料理以外の評価が生まれてしまっているのであろう。
掛川駅の掛川城側に、「甚八」という鰻屋がある。
そこも、この店と同じように「対応」についての評価が、いろいろ書き込まれている。
だが、行ってみたら(ここには今でもよく行く)、料理の味はもちろんよかったが、個人的には「対応」の部分こそがよかったと感じた。
過度ではない顧客対応は、本当に料理自体を味わいたい人間には、プラスでこそあれマイナスにはならなかった。
外食チェーン店の普及により、チェーン店マニュアル型の接客対応に顧客は慣れ過ぎている現状がある。
そのような中、料理の味や調理法に全力を注ぐ店の姿勢は、視点によってはマイナスに見えてしまうところはあるようである。
均一化したサービスや味を求めるならそれも正解の一つかもしれないが、自分には逆の部分の中にこそ真はあるのではないかと考えている。


「エチオピア」ほど足を運んでいない(というよりも1回行っただけ)この店が、No.1かどうかは分からない。
だが、この店の姿勢(あえて味とは言わない)については積極的に支援したいし、また機会があれば来訪したいとも思う。






CD・アルバムレポは時間がかかりそうなので、簡単なカレーレポを少々。
今回から、公式ページがあればリンクを貼る(過去分もおいおいと)。
http://www.kyoueidoo.com/


共栄堂は相当昔から前を通ったことがあり、知ってはいた。
カレーはともかく、普段食卓に上ることのない「焼林檎(昔の立て看板はこの表記だった気がする)」メニューの存在が幻想性を喚起し、非日常的な異空間が想像の中で生まれていた。
いつかは入ろうと思いつつ20年(としておこう)、扉(自動ドアだったが)を開けることはなかった。


理由はいくつか考えられる。
閉店が20時と早く、ラストオーダーが19時45分であること。
近くに「エチオピア」があり、カレーを食するときにたいてい足を運ぶのは坂を下り切らない店までであったこと。
当時の看板はポークカレーと焼林檎以外のメニューの確認ができず、チキン系のメニューの確証が取れなかったこと(ポークカレーは食べない)。
神保町の共栄堂側を通ることは日中は少なかったこと、などが挙げられる。
4点目を補足すると、神田古本街は書籍の保護のために、北側入口(三省堂の通)の店が圧倒的に多い。
共栄堂側は日中の陽光が差す南向きで、並びに古本屋が非常に少ない(若干あるが)。
義務教育時代から、神田古本街にはよく足を運んだ。
シュトルムやリルケの文語訳(片山訳が好きだった)の文庫本を探しに、何時間もかけて方々回ったものだった。
成人後も基本的には行動様式は変わらず、少しでも時間があれば古本屋の稀少本(自分にとっての)を捜し歩くことが多かった。
共栄堂はそのような自分にとって、対岸の店であり、蜃気楼のような存在であった。


だが、長い歳月とともに書籍文化、古書文化は大きく変化した。
大型チェーン店の展開、書籍媒体の衰退、中小専門出版社の減少など、この街がかつて持っていた吸引力そのものが変化した。
自分の中でも、無限に思われていた書籍の奥の世界が感じられなくなり、有形の伝達媒体の一つにしか思えなくなっていった。
たとえ少しの時間があったとしても、埃の積もる陽の当たらない空間で時を過ごす機会は減っていった。


インターネットという媒体は、今まで市民権を得られなかった弱小な個々の情報に、体系化と標準化の機会を与えた。
今まで、稀少な研究者のみの対象物であった文化も、インターネットという土俵に上ってしまうと、大衆文化と等価に存在することができた。
だが、養老孟司だったろうか(自信はない)、「情報はいったん人間のフィルターを経由したものである」といったニュアンスのことを述べていた(多分、朝日新聞)。
インターネット上の一見中性的に見える情報も、人間の頭の中で一度消化され、取捨選択されたものであるというのは意識すべきことなのであろう。
書籍というラベルの付いた情報媒体は、一応情報が突き詰めれば主観のフィルターを通していることを想起させてくれる。
厳密には、「オリジナルの発信かコピーか」という点で情報を分類すべきかもしれないが、媒体自体の性質も加味されるべきであろう。
機会があれば、この件は論じてみたい。


だいぶ道草をしたので、そろそろ共栄堂の店の中に入ろう。
焼林檎も注文するなら、14時以降の注文である必要がある。
カウンター席はなく、テーブル席のみの配置である。
一人でカレー屋に行くときにはカウンター席が多いので、一般の食堂に来ている印象を受ける。
ポークカレーやチキンカレーが一番安いが、それでもチキンカレーで1100円であった(自分の頼まないポークは900円)。
一番高いタンカレーだと、1600円する。
カレー単品で1000円を超える店に入ったのは、新橋の驛舎珈琲店(ビーフカレー1100円、珈琲付き1500円、喫茶店系では美味しい)以来かもしれない。
焼林檎は500円で、10~3月限定とのこと。
もうすぐ、秋までお別れである。


公式ページを見て分かるように、昔ながらの金属のカレー入れに入って出てくる(タンカレーは陶器)。
チキンの肉は柔らかく(他もおそらく柔らかくなるまで煮込んでいる)、美味しい。
この手の(柔らか肉)カレーは先述の驛舎珈琲店など、喫茶店やレストラン系のカレーに多いのだが、その点でもここは「カレー屋」的ではない。
ただ、ルーは喫茶店系と違い、欧風ではなく、さらりとしている。
カレーの種類ごとに別々に煮込んでいるので、別の肉の雑味が入ってこないところはよい。
イメージとして、ハヤシライスぐらいの水分具合のルー(別にハヤシライスもメニューにあるのだが)に、26種類の香辛料(なんだかは分からない)を入れて煮込んだ感じである。
決して辛くはなく、どちらかというと肉を煮込んだ風味を味の基調としている感があった。
MENUと書いているページの、上の方に張り付いている写真を見ると分かるが、黒い(または焦げ茶の)点々のような色彩が見た目の基調となっている。
煮込んだ野菜なのか、香辛料なのかは分からない(肉由来かもしれない)。
味覚的な好奇心はそそるが、お世辞にも「美しい」という形容詞を当てることはできない。
「日本で唯一のスマトラカレー」と記載があるが、新橋や虎ノ門にも「スマトラカレー」という店はある。
ポークカレーなので食してはいないが、普通とは違った趣があったと、来訪者の話を聞いたことがある。
カレーの総括として(1回しか行ってないのであまり偉そうなことは言えないが)、「柔らかい肉を、ゆったりとした雰囲気で、ほどほどのスパイシー料理で食べたいとき」の理想店と言える。
おそらく、タンカレーは美味しい。
間違って口座に大金が振り込まれることでもあれば、これを注文してみたい。
だが、その美味しさは、牛タン専門店のよく料理されたタンシチューの美味しさに近いものがあるだろう。
一財産築いて、老後は古書巡りの散策三昧の日々を送ることができたなら、定期的に通ってもよい店である。
一人で行きたい店ではなく、旧友(昔話ができるレベルがボーダーライン)と長居する店として相応しい。


焼林檎は、冷やしてあった。
焼林檎自体口に入れたことが今までなかったので、これが普通なのかは分からないが、熱々の林檎が出てくるのかと思っていたので、それは違っていた。
林檎は柔らかく、甘みが付いていた。
ただ、丸ごと焼いた林檎のホールは、見た目にはさほど美しいものではなかった。
流行のスイーツ店などでは、美しくカットして上品な皿に盛り、シナモンパウダーなどで色のコントラストを付けたら、食欲を喚起するとも思えた。
死ぬまでに一度は「焼林檎」を、という思いが強すぎたせいで、「焼林檎」は想像上の生き物として肥大化しすぎてしまった。
味は本来「こんなもの」なのだろうが、やはり期待を大きくしすぎるとよくないことが多い。


とりあえず、共栄堂は、「昔のレシピをそのまま忠実に守り続けている」系の、「カレーライス店(カレー屋ではない)」であると感じた。
相当の年配の客も、安心してカレーライスを注文して味を楽しんでいる様子が伺えた。
大正13年の創業は、京都的な何も言わせない「伝統力」のようなものがある。
ちなみに、「エチオピア」は昭和63年創業らしい(ちなみに昭和64年は1/7まで)。
初期の頃から通っていたのでもっと歴史があるように思っていたが、これなら松戸の「印度」の方が歴史がある。
正直、コストパフォーマンスはあまりよくない。
場所も、空間も、効率よく収益を上げて、カレーの値段を下げるようには作られていない。
変えたくても変えられないところも、京都型の「伝統力」の要素ゆえである。


こういった伝統店に、「将来」というものがあるのかは分からない。
ネット通販以外に、新しい冒険をすることも難しいところはある。
ただ、場所が古書文化を引きずった街であり続ける限り、生き残っていく可能性は高いと考える。
共栄堂という店自体を1冊の本と捉え、小説の行間と同じように、この街の行間として読み解いていく要素を残していく。
それにより、カレーの味の中に、無限の世界を感じ取れる客を再生産し続けることに成功できるかもしれない。


帰りには、「ジャニス2」に寄って、中古CDを探した。
昔、いくら探しても見つからなかったPTON!の3枚目のアルバムを廉価コーナーで発見した店だが、今回も掘り出し物があった。
双葉双一の「双葉双一に気をつけて」のサンプル版が、安く入手できた。
この街には、音楽の文化も根付いている。
このCDのレポも、そのうちに上げたい。





まだ、3月の放送が残っているが、ひとまず今年度の「おかあさんといっしょ」に関しての私見を述べる。
個人的に、長年の出演者の中でも「今井ゆうぞう&はいだしょうこ」の二人が理想の組み合わせであったので、どうしてもそのような視点になってしまうことを初めに断っておきたい。


今井ゆうぞうの後釜の横山だいすけであるが、やはりロングトーンで歌うところは今井ゆうぞうの方が魅力があっと感じる。
横山だいすけは、劇団四季でのミュージカル経験があるようだが、発声がどちらかというと言葉の立ち上がりを重視するスタイルに感じる。
言葉の発声が初めに来て、楽器として声を用いる意識はさほどないと思われる。
そのため、声が被ってきたときの感動が今井ゆうぞうのときほどではないのは、覚悟していたとはいえ少し残念である。
ただ、「ジャングルポケット(歌詞は「ジャングルポッケ」)」に関しては、坂田おさむや今井ゆうぞうより合っているように感じた。
関係ないが、この前土曜日の朝に教育テレビを見たら、坂田おさむ(作曲家としては「修」)が、小学生の前で歌の作り方をレクチャーしていた。
「入学式」という言葉を、「桜の花が咲く頃」「ピカピカのランドセル」など、映像が浮かんでくる言葉に置き換える手法を解説していた。
坂田修には歌い手というより、貴重な作り手として、今後も活躍してほしいと思った。
個人的には、ノンフィクション的な「ママの結婚」あたりよりも、ファンタジー的な「タンポポ団に入ろう」あたりの方が好みではある。
「ジャングルポケット」は、福田和禾子(この人も亡くなってしまった、ご冥福を祈りたい)の曲の中では、声を伸ばす余韻で聴かせるのではなく、細かい音節を変化させる技量が求められる。
横山だいすけは、音符あたりの音節が多く、音を伸ばさず短く処理するタイプの歌については、上手に歌いこなす才能があるといえる。
もっとも、個人的には「ぼくときみ」の今井ゆうぞうの「ああったー」あたりの甘い声質が、やはり忘れられず思い起こしてしまうのだが。
http://www.youtube.com/watch?v=M60dWPWVJKY &fmt=18
2つ以上の動画の貼り方が分からないので、リンク(「ぼくときみ」昨年までバージョン)のみ貼っておく。
今井ゆうぞうは、この曲が一番力量を発揮していると思う。


三谷たくみは、はいだしょうこと並んで登場したときこそ「しずかちゃんとドラえもん」が並んだような差異が感じられたが、今は「結構よいかも」と感じている。
見た目も、1月あたりの重みの取れた髪型はよく似合っていて、はいだしょうこよりも一定層からは支持を受けてもおかしくないところはあった。
ストックがあまりなかった4月ごろよく流れた「やまのワルツ(ロンリムリム、ロンラムラム、の曲)」などは、はいだしょうこより合っていると感じる。
もちろん、はいだしょうこの方が全体的な平均点は高く、技術の幅もあるのだが、三谷たくみにしかない魅力もある。
はいだしょうこバージョンは、下のリンク。
http://www.youtube.com/watch?v=XAPlBqgRe_I&fmt=18
これはこれで素晴らしい。
三谷たくみバージョンは、下のリンクの他に、最下段にも動画を貼った。
http://www.youtube.com/watch?v=KvBW8kgkKwg&fmt=18
高音域での、力の抜いたファルセットが美しい。
最近は番組でこの曲をあまり聴かないが、何度でも聴きたくなるような柔らかな高音楽器の奏でに通じ、他の誰にも代えがたい魅力がある。
技術もあったはいだしょうこならではの「ママゴリラ」などは、三谷たくみには歌わせずに、当面は柔らかな美しい音楽を歌わせていた方がよいと思う。


「ドンスカパンパンおうえんだん(かなり流行っているらしい)」「あっちこっちマーチ」など、音符上の音ではない掛け声が多様されている(下にそれぞれのリンク)。
http://www.youtube.com/watch?v=0OBS3ZIpzVQ&NR=1&fmt=18
http://www.youtube.com/watch?v=-OCuIrN3jS8&fmt=18
この方向性になるのは、去年の二人が降板したときから予想は付いていた。
前にも書いたが、「今井ゆうぞう&はいだしょうこ」の組み合わせは、音楽的にはかなり力量があった。
そのため、「日暮真三&渋谷毅」の創作スタッフは、制約よりも音楽的可能性を広げることに専念できていたはずである。
今年はさすがにそうではないので、原点帰りし、「出演者の技量(特に横山だいすけ)に合うような」といった視点で創作していると思われる。
音節が多く、掛け声的な音符と歌詞で、元気よく歌える歌が、横山だいすけには一番よいところが出やすい。
その手の歌は、歌う子どもにとっても歌いやすいわけで、そのあたりが流行りにも結びついているのであろう。
「おしりかじり虫」のヒットと、そう変わらない構造がそこにはある。
「今井ゆうぞう&はいだしょうこ」時代に、社会的ブームになった曲がなかったのも、遠因はそこにあるのであろう。
「ぼよよん行進曲」などは、紅白に出してもよいぐらいの「名曲」的要素があると思うのだが。


小林よしひさといとうまゆの、相対的位置付けも変化したように見える。
「今井ゆうぞう&はいだしょうこ」は、「NHK教育のヨン様」「元宝塚」的な売られ方をさせられていたため、2の線で2人はいつも登場していた。
そのコントラストとして、電柱の着ぐるみを着せられ、犬におしっこを引っ掛けられる、3枚目の役回りが与えられていた。
だが、新しい2人は、さほど「かっこよさ」を売りにしている雰囲気ではない。
小林よしひさといとうまゆも、歌の2人と同じような衣装を着て「あっちこっちマーチ」「夢の中のダンス」に出ていると、去年までとはかなり違う雰囲気がある。
アドベンチャーミュージカルか何かで、脇役4人が勇ましくヒーローかヒロインを救いに行くような清々しさを感じる。
4人が4人、ヒーローやヒロインに見えないところが、今年度の調和の取れたバランスに結びついているとも言える。


ぐ~チョコランタンは、今年度で終了するらしい。
やはり長寿だったにこにこぷんのときと同じく、BSでは放映するようだが、クールダウンの移行期間のみであろう。
ドレミファ・どーなっつ!と比較して、ぐ~チョコランタンが成功したのは、それぞれの役割分担がうまくいったためだと思われる。
才能に頼ったり、短所を個性として表出させたりするのは、教育番組だとどこかで破綻がおき、長続きはしない。
ぐ~チョコランタンでは、一番の弱者であるズズまでも、動物と唯一話ができ、自然に対する思いやりを持つ。
短所を引き出すドタバタ劇にせず、毎回誰かの長所を引き出しともに成長していく構造を作り上げたところが、長く支持されていた点であろう。
うたのおにいさんとおねえさん以上に、新しいキャラクターは拒絶される可能性が高い宿命を持っている。
新年度に期待はしないが、様子は見守っていきたい。


前回記すのを忘れていたが、「今井ゆうぞう&はいだしょうこ」時代の途中で、5分ほど時間が短くなった。
「おはなしたまてばこ」のような、魅力あふれたコーナーが消滅してしまったのは残念だったが、短いなりに工夫しようという試みは見られる。
今年度、「パンツぱんくろう」は、短編アニメとしては放送されていない(実写コーナーに登場しているのみ)。
「だんご3兄弟」で大成功を収めたこの番組としては大冒険で、新しいおにいさんとおねえさんにかける時間を多くしようという姿勢が見られる。
もちろん、ショートアニメは子どもに受けがよいので、また復活するものと思われる。
「でこぼこフレンズ」と2本立ては時間的にはきついものがあるが、「こんなこいるかな」が始まったときの衝撃は今も忘れられない。
番組内で育てて、5分の別枠番組に「ひとり立ち」させてもよいと思う。
また、帯である必要も必ずしもなく、日替わりの1日分だけを充ててみてもよいと思う。
ぐ~チョコランタンの後番組は、当初はさほどブームにならないのは見えているので、リサーチをかねた日替わりメニューで様子を探ってみるのが必要であろう。


「今井ゆうぞう&はいだしょうこ」の「おかあさんといっしょ」には、とてつもない個人的な思い入れがあるので、どうしても客観的には論じることができない。
だが、現在の、来年度の、また未来のスタッフの努力については応援していきたいし、素晴らしい番組となることを期待していきたい。


次回の論評は、おそらく来年度となるだろうが、思うところがあればまた記したい。








何のひねりもないありきたりな書き出しだが、解散したバンドの復活の報道をよく耳にする。
以前からいろいろ思っていることもあるため、私見を少し述べたい。
音楽的な視点では決してないことを、初めに断っておきたい。


バンド形態での事務所との契約は、本当は著しく経済効率が悪い。
バンドというのと少しずれるが、昔「シャネルズ」(後の「ラッツ&スター」、鈴木雅之や田代まさしらが所属)がデビューしヒットしていた頃、収入が極端に少なく悩んでいたと紹介されていた。
10人もの大所帯だと、ある程度仕事が入り売れたとしても、一人当たりの実入りは10分の1になる。
もともと前職で稼いでいた額(それもごく普通の仕事)と比べても少なく、10万円前後の手取りしかなかったらしい。


たとえば、5人のバンドメンバーを事務所で雇用するということは、1人でペイできる売り上げの5倍の稼ぎが必要だということでもある。
もっとも、そんな単純なものではないのは自明のことだし、雇用も歩合給ならそこまでの負担はないはずである。
ただ、「赤字にならない」というだけではなく、「利潤を稼ぎ出す」商品がないと事務所は潰れる。
商業主義の中では、イベンターを儲けさせた上で、なおかつ自分たちの食い扶持を稼ぎ出さなければならない要求がある。
昔、「BONNIE PINK」の無料ライブに当選したことがあり、見に行ったが、そこで前座のバンド(名前も忘れた)が大所帯であった。
曲は悪くなかったが、印象はあまり強くなく、ドブロまでいたので経済効率はかなり悪い。
今でも当時のメンバーのままで、メジャーに所属しているとは考えにくい。


では、経済効率のよい形態とはどのようなものか。
それは、ボーカリストをピンで売り、バックはそのつど調達する方法である。
派遣雇用ではないが、その都度腕の立つミュージシャンを調達してくれば、恒常的なコストは最小限で済む。
音楽はその都度変わってしまうが、腕のよい駒と取り替えれば、逆に楽に質を向上できる。
そのように考えている事務所は、決して少なくはないと思われる(少なくとも以前は)。


それほど売れていないバンドで、個人的に好きだったのが「PTON!」だが、やはり3枚のアルバムを出した後、解散して(させられて?)しまっている。
「PTON!」は、森岡純のボーカルに森岡三知のコーラスが入り、音質的には理想とされる姉妹のハーモニーが聴けた(その意味での究極コーラスは「サーカス」、だが音域面での弱点もある)。
森岡姉妹も作曲はしていたが、ギターの朝三憲一が直線的でないよい曲を書いていた記憶がある。
だが、3枚目の「Private Trip」になると、森岡三知とのハモリや朝三憲一の特徴的な曲は前面に出なくなった。
ボーカリストとしての森岡純(後に「名犬ラッシー」の主題歌を歌う)のみが強調され、その後のアルバムは出なかった。
残念だが、最初から(または途中から)森岡純を一人立ちさせるためのバンド期間だったのかもしれない。
もっとも、メンバー自身が「見切りをつけた」という可能性はあるが。
実際、「フェアチャイルド」時代にYOUは何度も「バンドを解散するように」事務所から言われ、その度に「いやじゃ」と答えていたと聞く。
一昔前は、バンドという形態は効率のよい商品(ピンのボーカリスト)を育てるまでのプロセスとして捉えられていたように思われる。


固有名詞を並び上げるのも不要なくらい、バンドブーム後のボーカリストは切り離され商品化され、バックは歩合のミュージシャンとして非常勤化された。
このモデルは成功していたはずで、経済的にもうまくいくはずだった、本当は。
だが、このモデルは近年破綻しつつある(というかしている)。
ピンで一人立ちさせて、5分の1のコストになっても、肝心の売り上げがそれ以上に落ちている。
CD媒体自体の売り上げ低下もあるのだが、会場への集客力も含めると商品価値だけを低下させているように見える。


バンド上がりのボーカリストは、少なくとも作詞か作曲かのどちらかは行っていたことが多い。
少なくとも、それが純粋ボーカリストとの差別化であり、そこに商品価値があるはずだった。
だが、創作活動はインプットとアウトプットとの調和・バランスが崩れると、得られる果実が変わってくる。
インプットがなくなり、果実のみを要求されたとき、単なるボーカリストと比べて優位な要素というのはほとんど消滅する。
消耗と鮮度落ちにより、少なくとも一般的な表舞台からは消えていく例も少なくない(もちろんそれが全ての価値ではない)。


消耗といえば、全員制作をしているバンドは消耗も少ない。
「ユニコーン」や「チャットモンチー」、「たま」のように全員で作詞や作曲をすれば(どちらかはしない場合もあるが)、1枚あたりの1人の負担は分散される。
クオリティーを保ったままで、一定の期間で量産していくことも難しくはない。
音楽的にも幅が生まれ、聴き手の食傷感も防止することができるメリットがある。
フィッシュマンズ(ちなみにこのバンドは解散していない)も、「土曜日の夜」や「オアシスへようこそ」など、佐藤伸治以外の名曲が奥行きを広げている。
だが、5分の1になれば、5倍のアウトプットが求められるようになる。
もちろん、バンド時代のインプット量よりさほど減るわけではないが、そこまで増えるわけでもない
ベスト版やリメイク版などを出していかなければ、長期間売り続けることは難しいのではないか。


話は飛ぶが、前時代も現在も、バンドの形態の一番のメリットは「バンド名があること」である。
これは冗談でもなんでもなく、ノンラベルの個人に簡単に一つの「ラベル」を刻することができる。
だからこそ、「元~の○○さん」というラベルで一人立ちさせるモデルが成り立っていたのである。
だが、当然「元」が付かないラベルの方が大きな力を持っている。
「ホフディラン」も「真心ブラザーズ」も、2倍どころではない商品価値と集客力があるのは解散後と復活後を見てもよく分かる。
ソロ活動も継続していけば、2人の規模なら解散させずにラベルは残しておいた方が遥かによい。
規模は違うが、「TUBE」や「サザンオールスターズ」のように、期間労働者のように集客していくのが、長く食傷させない方法である。


一応、音楽面からのフォローをしておくと、「そのメンバーだから」生まれる音楽は確かにある。
朝三憲一がいたから「PTON!」の方向性になったわけで、本田毅あたりと先に組んでいたら全く別の方向性があったと思われる。
復活系バンドも、幻想かもしれないが、「このメンバーだから」とのことで創作への意欲や情熱を取り戻すこともあるかもしれない。
ハーモニーはやはり音程だけの問題ではないので、オリジナルメンバーでないと違う色になる。
そのあたりが「ラベル」の強みか。


「安易な復活」という批判はあるだろうが、どんどん復活してもらいたいというのが、個人的な考えである。
特に縛られることなく、「ラベル」だけをオリジナルとして残しておくのなら、そこまで負担は生じないからである。
もちろん、「断ち切らなければ進めない」タイプの「ラベル」であれば、一度剥がす意味はある。
だが、使い分ける「ラベル」として復活させたところで、大きな被害や困難はないであろうと思われる。


今回も、推敲や読み返しはせずに上げることにする(多少の人名確認はしたが)。
気が向いたら、加筆や修正を行いたいと思う。







ギター・ベース・アンプ専門店アリア・エレキギター・Aria通販ショップ

柳原陽一郎JIROKICHI SESSION 通算20回突破記念Special/高円寺JIROKICHI(09/02/23)
ゲスト 久松史奈vo.


1.ファミリープラン
2.サボテンちゃん
3.涙があふれてる
4.大丈夫
5.妄想ヘルスメーター
6.オリオンビールの唄
7.君を気にしてる
8.ゴーイングホーム


9.徘徊ロックNo.5
10.King of Rock'n Roll
11.天使の休息
12.そっとI think so
13.Happy Birthday
14.5月の空
15.ブルースを捧ぐ


16.ジャバラの夜
17.ブルーアイズ
18.Love


19.徘徊ロックNo.5
20.ふしぎな夜のうた


今月はJIROKICHI35周年月間で、毎日のメンバーがかなり豪華であった(その分3月はしょぼめ)。
前売りありの、ゲストありので、普段のJIROKICHIライブとはかなり趣が違っていた。
ただ、前売りがあったので、普段なら整理券と入場で2回並ぶのだが、1回で済んだのは楽であった。
ゲストは豪華ではあるのだが、少々心配なところはあった。
ゲストに遠慮して、余所行きの選曲や演奏に落ち着いてしまうのでは、というものである。
カッコよいところを魅せようと、カッコよさそうなラインナップになってしまう気がしていた。
だから、あまり期待しすぎないように行くことにした。


整理番号順に入場、問題なく座れる。
日曜日のJIROKICHIライブは立ち見でギッシリになることも多いが、今回はかなり余裕がある。
平日のせいか、ゲストが出て曲が少なくなるせいかは分からない。
今回もギターはなく、ピアノ1本での演奏が確定する。


開演時間から程なく、柳原陽一郎登場。
普段着とさほど変わらない、青系のシャツにジーンズ?系のズボンの出で立ちであった。
「ファミリープラン」でスタート。
この曲は、ギターで弾かれることが多い。
ギター曲の多くを、ピアノに移植しているところなのだろう。
「ママは冷蔵庫」「流線型」など、象徴的な歌詞が印象的で、好きな歌詞ではある。
伴奏の付け方は「ブルーアイズ」のピアノ的に、軽やかな方向を目指しているように見えた。
「サボテンちゃん」は、しっとりとした伴奏になる。
歌詞は、3人称的な人物描写と2人称的なメッセージ性が共存したような立ち位置である。
この曲は、間奏のコード進行や後奏が美しく、水谷浩章のアレンジが壊れないように流用されているのかもしれない。
「涙があふれてる」は、前のモード(前の前かもしれないが)でよく演奏された曲である。
アルバムが再発されるとのことで、またよく演奏されるようになった。
以前にも似たようなことを書いたが、この頃のモードは「立ち止まって思索し、また歩き続ける」感があった。
今のモードは、「肩の力を抜いて歩き、出会ったものを受け入れていこう」という自然体である。
今回再発されるアルバムは、ロックシンガーへの志向性を持っていたときの産物であるようだが、その試行錯誤も感じ取れる。
やはり、ゲストもいて気合が入り調整が万端なのか、声の出がよい。
同じく再発の、「大丈夫」へと続く。
ボサノバ調のメジャーセブンス系の曲なので、アレンジをそれっぽくすると、また面白いかもしれない。
そういえば、「間違いなんかじゃない」を昔、レコーディングのとき「間違いだらけ~」にしようとして、皆に止められたらしい。
何回前か忘れたが、MCでそのように言っていた。
「妄想ヘルスメーター」は、最近必ず演奏している。
アンコールのMCで、久松史奈が歌詞を大絶賛していた。
ちなみに、「酒を飲んで呂律が回らなくなってきた」という時事ネタが、最後の語りで入った。
この曲は、曲調を絶望的に暗くしてこの歌詞を付けたのが妙なバランスを産み、よかったのであろう。


「オリオンビールの唄」も、ピアノで弾くのは始めてである。
いよいよ、ピアノマンとして生きていく意志が出てきたと思われる。
ロックシンガーへの志向性を外れたため、拍車をかけたところもあるのであろう。
だが、正直なところ、ノーテンポで弾く部分と、低音部で大きな溜めを設ける弾き方は引っかかるところがあった。
ギターであれば、ある程度躍動感は途切れることなく続き、その中で微細な溜めを設けることは容易である。
しかし、ピアノはテンポをキープするための楽器でなく、音の減衰もないので、溜めたいだけ溜められ、無限に自由が利く。
「アンドロメダ」からはアップテンポ気味になったが、個人的には本当に強調したい部分のみテンポをいじった方が、聴き手に伝わりやすいのではと感じた。
「35周年なのでやらない曲を」とのことで、「君を気にしてる」の演奏となる。
極端なレア曲ではないが、この曲を歌うときは何かを思わせるMCが軽く入ることが多い。
いつものことではあるが、この日も熱演で、前半のハイライトであった。
「砂漠で別れた~」のあたりが、心に沁みる。
「ゴーイングホーム」で前半終了。
この日のMCでは何も言っていなかったが、派遣切りのニュースなどから生まれた曲らしい。
ただ、歌詞だけ見れば原点回帰への志向性が見られないでもない。
JIROKICHIでよくライブをするようになったのも、その一環かもしれない。


後半は「徘徊ロックNo.5」でスタート。
前半気合が入ったのか、少し喉の調子が前半と変わった。
前奏は「風博士」などに近い軽快な感じだが、歌詞は現在のモードのど真ん中の曲である。
おそらく、しばらくはこの曲を演奏しないことはないと思われる。
JIROKICHI35周年のお祝いに作った「キングオブロケンロール」だが、表記は英語かカタカナかは分からない。
「レスポール」や「チョーキング」など、それっぽいキーワードは出てくるが、あまり「ロケンロール」な曲調ではない。
和音はジャジーなところもあり、リズムもブルースがかっている感もあった。


ここで、久松史奈の登場となる。
デビュー当時のジャケットを見て心の準備をしていたが、不自然に細すぎた感のあった輪郭はナチュラルになり、違和感なくJIROKICHIの舞台にマッチした。
そこでいきなり「天使の休息」となる。
おそらく、この曲しか知らない聴衆がほとんどで(自分もそうだが)、アンコールあたりで「さよなら人類」あたりと一緒に演奏するのかと思っていた。
声質はなかなか興味深い。
弦楽系ではなく、吹き込んだ管楽器の豊富な倍音の音に近い。
NOKKO系の抜けた高音域の倍音に、安定した基本フォルマントを組み合わせたような特殊構造で、歌詞も聞き取りやすい。
馴染みのある歌に、この声なので、十分楽しむことはできたが、サビでハモってほしいとも感じた。
MCで血液型の話となり、会場で挙手を伴うアンケートが行われた。
A型は非常に少なく、B型は柳原陽一郎のサイド側一角にのみ固まっている。
O型がほとんどで、AB型はほんのわずかである。
カットスイカに喩えるなら、赤い部分がO型、皮と白い部分がB型、種がA型で、上にかけた塩がAB型と言えよう。
「そっとI think so」という曲からは知らない曲ばかりである。
岩崎良美の「I think so」とは関係のない、別曲である。
バラードっぽい曲調だったかと記憶しているが、最後の「あーいしーんそー」の部分でハモリが聴けたのは非常によかった。


たま時代は、「ハモりハモられ生きていた」ところがあり、それは他のメンバーにも言えることであった。
メインのボーカルだけではなく、コーラスであの声質が被ると、危うい調和の美しさが感じ取られ非常によかった。
先日の「電柱」で知久寿焼とワタナベイビーとのハモリが聴けたが、この日もハモリの美しさを実感できた。
最近、柳原陽一郎は、ボーカルに関してはかなりよいポジションにいる。
水谷浩章や鬼怒無月(きどなつき)など、飛び抜けて技術のある音楽家とセッションをしても、ボーカルは全面的に任されている。
合いの手やユニゾンコーラスが入ることがあっても、対等の力量で3度や5度の声が被ることはほとんどない。
ほぼ最初で最後に聴いた「対等の」ハーモニーは、「蜃気楼中央線」のワタナベイビーとのセッションまでさかのぼる。
もっともそれも、メインボーカルを取っていたので、ハーモニーの引き立て役で本気を出したのを聴くのは初めてだったかもしれない。
もしかすると、カルメン・マキとのステージでは本日と同じような場面があったのかもしれないが、残念ながら行っていない。


「Happy Birthday」は3拍子の明るい曲。
ファンがいたのか、ステージで求めたのか、2と3で叩く手拍子が起こる。
TOMOVSKYで言えば、「ワルクナイヨワクナイ」型の手拍子である。
普段行くライブは、手拍子どころか拍手も音が全部消えてから叩くところにしかあまり行かないので、慣れない。
この曲も、美しいハーモニーが聴けたのは嬉しい。
そして、この日のために作られた「5月の空」の演奏となる。
作詞が久松史奈で、作曲が柳原陽一郎であった。
歌詞は初恋のときの思いを歌にしたもので、爽やかな世界であった。
曲は「柳原陽一郎の和音」とも言うべきコードが多用されていて、上品な作りになっている。
具体的には、「涙があふれてる」的な歌詞を浮き立たせるコードに加えて、「回れ糸車」的な微妙な中間色コードで文末を修辞している。
水谷浩章と関わった以降の曲では、「あの娘は雨女」のようなシンプルな和音展開は減り、音楽的に柔らか味を付けようとしているように感じる。
歌詞も曲もハモリもよい曲なので、ぜひ音源化されてほしいと思う。
予想通り、現在のテーマソング「ブルースを捧ぐ」で本編終了。


アンコールで「ジャバラの夜」が演奏され、驚く。
本日は、「余所行き」の選曲に徹すると思われていたからだ。
ピアノ一本での演奏は記憶がない。
「じゃばらじゃばらばじゃばらばば」の部分が、「カモン」で求められ舞台と客席との掛け合いになる。
歌詞も、本日の他の曲とはだいぶ異なる雰囲気であった。
だが、その後出てきた久松史奈の評判もよかったので、次回の共演があればこのような曲もセッションしてみても面白いのではないだろうか。
例えば、久松史奈と「オゾンのダンス」や「とんかち」あたりを歌ってほしいとも思う。
久松史奈のボーカルで、柳原曲の「ブルーアイズ」の演奏となる。
この曲は、おそらく一番自在にピアノを弾きこなせる曲である。
柳原幼一郎時代のソロ曲は、ハレルヤなどのカバー曲を抜かせば3曲ある。
そのうち、「みんなおぼえてる」「アメリカンボーイ」はギターでの演奏が多いが、「ブルーアイズ」はピアノ伴奏である。
たま時代の曲は一人で演奏するには時間がかかったとのことなので、ソロ演奏で一番長いキャリアがあるともいえるであろう。
「クラクション」の部分の後の半音で重ねた音を擬音化するなど、細かい工夫も安定感もある。
この曲は自分の曲のためか、コーラス(というより合いの手)もかなり遊びの要素を入れていた。
最後に外国曲(ナット・キング・コール)のカバーで「LOVE」。
山口智充(通称「ぐっさん」、「もっさん」ではない)がNTTコミュニケーションのプラチナ・ライン のCMで歌っている歌、と書けば分かるかもしれない。
よい雰囲気で終わり、よかったと思っていたら、まだアンコールが鳴り止まない。


再度、一人で柳原陽一郎の登場。
リクエストはないですか、と客席に声をかける。
スーツ姿のビジネスマン(若くはない)が挙手し、「第2部の1曲目」と答える。
「徘徊ロックNo.5」は、最近のライブでは必ず聴ける曲である。
レア曲が来ると覚悟していた本人には、意外な反応だったかもしれない。
「第2部の1曲目」という言い方は、あまり常連ファンはしない。
おそらくは柳原ライブに来るのは初めてで、もしかすると久松史奈の方のファンなのかもしれない。
だが、この曲には日々の生活に疲れたビジネスマンには、一つの前向きなメッセージが込められているとも考えられる。
多分、無防備で聴いていた歌詞の中に、琴線に引っかかる部分があったのだろう。
正直なところ、自分はこの場面ではレア曲を聴きたい。
だが、最近の柳原陽一郎のライブはほぼ全部出かけ(ウェアハウスはなかなか行けないが)、様々な曲を耳にしている。
アンケートで書きまくったおかげで、「満月ブギ」も「ジャバラの夜」も「寒い星」まで引っ張り出すことができた。
リクエストの場面でいつも心は動くが、やはりこのような客に権利は譲るべきかなとも思う。
度胸があれば、「とんかち」とか騒いでいたかもしれないが。


昔、JIROKICHIでお披露目をしたという「ふしぎな夜のうた」でクローズ。
この曲と「ジャバラの夜」は、普通にリクエストしたかった曲なので素直に嬉しい。
「ふしぎな夜のうた」は、前にも書いたが、他の曲にないほどの透明感がある歌詞と旋律である。
知久寿焼でいえば、「いわしのこもりうた」の存在に近い。
そう言えば、「不思議な~月の夜」のシリーズも、もしかしたらこの曲となんらかの関係があったのかもしれない。
今の組み合わせが内外で好評であったために固定化しているが、もともとはいろいろなミュージシャンとツアーを行う企画だった覚えがある(記憶違いなら申し訳ない)。
ゆくゆくは柳原陽一郎ともセッションを、と企てていたのかもしれないとも思うが、考えすぎであろうか。


総括として、普段聴けない側面や、新たな方向性への一歩という点では、来る価値の十分にあるライブであった。
個人的には、前回の440よりも楽しむことができた。
「天使の休息」と「さよなら人類」の距離から、おそらく「今回はパス」したファンも少なくはないであろう。
だが、どんな相手でも埋没することのないものを、今の柳原陽一郎は持っている。
できれば、次の共演では「余所行き」モードを払拭して、あきれられるぐらいまで突き抜けてほしいとも思う。
アルバム「長いお別れ」は、もうすぐ発売である。









「コントラバス界の妖精&香り光る鍵盤」(池上里奈/コントラバス 高井可織/ピアノ 内田絵理子/フルート・ピッコロ)


1.ジュ・トゥ・ヴ(サティ)
2.組曲「動物の謝肉祭より「象」(サン・サーンス)
3.鳥の歌(カタロニア民謡)
4.ノクターン9-2(ショパン)
5.前奏曲集第1巻より「西風が見たもの」(ドビュッシー)
6.「アルルの女」組曲第2番より「メヌエット」(ビゼー)
7.サウンド・オブ・ミュージック(ロジャース)


8.エンターテイナー(S・ジョプリン)
9.コントラバス協奏曲1楽章(ディッタースドルフ)
10.ピアノ協奏曲第1番2楽章(ショパン)
11.ピッコロ協奏曲3楽章(ヴィヴァルディ)
12.「雪」~「冬の夜」~「春よ来い」(春の歌メドレー)
13.「なごり雪」(みんなで歌おう)


近所の公民館で、地元のプロの音楽家の演奏を無料で聴こうというイベントがあり、整理券をもらっていた。
さすがは無料なだけあって、配布から10分後ぐらいに行ったら、もう半分以上捌けていた。
また、地元の音楽に詳しくない人でも楽しめるようにか、ポピュラー音楽や「みんなで歌おう」の企画までプログラムされていた。
とは言え、あまりコントラバスのソロ演奏を聴ける機会もないので、さほど期待しすぎないように聴きに行くことにした。


コントラバスのソリストと言えば、「ゲリー・カー(ゲイリー・カー)」が有名である。
コントラバス1台で、ここまでのことができるのかと世界に伝えた功績は大きく、自分もレコードを何回も聴いた。
高校時代の一時期、シマンドルの教則本とピラストロの松脂を買ってきて、練習に励んだ時期が自分にもあった。
小学校のときからギターを習っていたので(さらに中学校はギター部)、3~6弦をオクターブ下げた音域は取っ掛かり安いところはあった。
フレットレスベースの教則本にある「3本の指でポジションを取る」ことには少し混乱があったが、伴奏を弾いて楽しめる程度には上達することができた。
コントラバスに関しては、クラシックの世界からはだいぶ離れてしまったが、今でもオーケストラやバンド演奏の最低音に耳が集中してしまうところはある。
柳原陽一郎+水谷浩章のライブのときには、ボーカルそっちのけでベースの演奏に見とれてしまうことも少なくなかった。


正直なところ、来場前はコントラバスの演奏についてあまり期待してはいけないのではないかと思っていた。
演奏者はまだ若く、自分はゲリー・カーぐらいしかクラシックのソリストを聴いていない。
ジャンルは違うが、phonoliteでの水谷浩章の演奏はありえない技術で、口がポカンとするぐらいいつも驚かされる。
地元の若い演奏家を応援するつもりで聴きに行くのがよいであろうと、自転車で公民館に向かった。
会場はやはり、年輩の観客が多く、若い人間や楽器をやっている人間はほとんどいないように思われた。


「ジュ・トゥ・ヴ」で、ピアノとコントラバスとの2重奏が始まる。
そこで、やはりクラシックのコントラバス奏者と感じさせる点が見つかった。
ボーイングで旋律を弾く音色が美しく、ビブラートも比較的自然に付けられていた。
ジャズなどの畑のベーシストは、ピチカート系のアドリブ技術はもの凄い。
だが、ボーイング系の音は伴奏や効果音としてはまあまあよく使われている演奏者も、ボーイングで歌わせるということに関しては満足させてくれたことはない。
おそらくは高価であろう楽器で、スムーズに音を鳴らしているのを見て、やはり来て聴いてよかったと感じた。


「動物の謝肉祭」は「白鳥」が有名で、本来チェロのために書かれたものだが、ゲリー・カーはこちらを演奏している。
さだまさしの「セロ弾きのゴーシュ」の前奏でもこの旋律が使われているので、セイヤングの最後のBGMで聴いた人も少なくないだろう。
コントラバス用の「象」の演奏となったが、カーのように「白鳥」で勝負するのも面白いのではないかと思った。
「鳥の歌」は、ギタリストには馴染みのカタロニア民謡の曲である。
一般向けのプログラムとしては、飽きさせずまずまずだったのではないか。


ピアノのソロで、ショパンの一番有名なノクターンと、この会場で関係者以外誰一人知らない「西風が見たもの」が演奏される。
これを聴いて、多分ピアノが本当に上手な人なのだろう、と感じた。
専門外なのであまり細かいことを語れないが、ピアノの音質というものは演奏者の力量で決まるらしい。
ギター弾きなどは「誰が鍵盤を叩いても出る音は一緒」と思ったりするが、それは違うらしい。
タッチや離し方など、何か微妙なところで音質が変わってくるらしい。
この人のピアノは、クリスタル系の澄み切った音質がした。
他の曲でも緊張感のある緻密な透明感があり、これがこの人の音と音楽なのであろう。
「西風が見たもの」は、ドビュッシーらしからぬ激しさがある曲で、この曲を「公民館コンサート」で取り上げたことは大変な意義があると思う。


フルートの人が出てきて「アルルの女」と「サウンド・オブ・ミュージック」が演奏される。
もともとこの人は楽団系の、ソリストではない人のため、自分が出る曲よりも他の楽器を引き立てることに長けていた気がした。
「サウンド・オブ・ミュージック」あたりでは、コントラバスも高音域で旋律を弾くことが多かったが、実は正確な音を取るのは結構難しい。
グリッサンドで音を持ってくるのなら多少楽だが、音が飛んだときにその音と他楽器の音とピッチを揃えることはきつい気がする。
コントラバス(弦バスと言われるのを嫌うのは世界共通)を吹奏楽で弾いていた頃、「平均率」のピアノで音合わせをすると、「純声調」の管楽器と音が合わないことが多かった。
少なくとも開放弦の音は使えず、根音から3度なら少し低めに、5度なら少し高めに持ってきて、やっと調和した記憶がある。
根音も、442や444で調律されると、頼りになるのは自分の耳のみであった。
B♭やE♭の調の楽譜を、頭の中で移調して弾いていたのは、ギターでも役に立っているが。
完全ソロならしっくりくる音程でも、他楽器と合わせると音がずれてしまって聴こえるのは、技術のせいではない。


後半、「エンターティナー」は、やはり公民館コンサート用の親しみやすい有名曲である。
一般的には、とても楽しめる曲ではあるだろう。
「普段聴く機会の少ないコントラバスやピッコロのコンチェルトを」とのことで、別の曲から1・2・3楽章を演奏する。
個人的に、この企画が一番よかったと思う。
程度にも依るが、大衆に迎合した曲ばかり演奏するより、クラシックならではの音楽をぶつけた方が、驚きと感動は大きい。
1楽章は、楽団の採用曲に使われることが多い、ディッタースドルフのコントラバス協奏曲であった。
ライバルが多いと、さらに緻密さを上げていかないと本当はいけないのであろう。
個人的にはいろいろな音程や技法が使われ、興味深い曲ではあった。
2楽章は、演奏者が愛して止まないショパンのピアノ協奏曲第1番。
思い入れがあることが、何よりも完成度を上げていく事例がこの曲と「西風が見たもの」には感じられた。
3楽章は、ピッコロの華やかなビバルディで終了。
所用があり、ここで帰宅。
アンコールがあったかは定かではない。


地元の、同じ中学校の若い演奏家なので、がんばってほしい気持ちはある。
同じ高校を卒業している井上玲奈などは、やはりテレビで見ると応援したくなる気持ちはあるが、それに近い。
だが、正直なところ、決して道はなだらかではないのだろうとも思う。
池上里奈はアイドル的な売り方ができる容姿で、希少性のある楽器というメリットはある。
ホームページで几帳面に日記などの情報を頻繁に配信しているところは強みで、表舞台に出る機会が多ければ知名度が一気に上がる可能性もある。
http://music.geocities.jp/contrabassrina/
だが、如何せん、この楽器自体の需要が少ない。
ゲリー・カーの「白鳥」並みのインパクトのある持ち曲を作り、メディアで紹介されるようにならないと、埋もれてしまいやすい楽器である。
だが、ソリストとして磨きをかけられる時間は、他の活動の時間を考えると限りなく少ないはずである。
ギターの世界では、コンクールに入り浸りになるとなかなか自分のコンサート活動に時間を当てられなくなるところがある。
おそらく、それは他の世界でも同じであろう。
ピアノの高井可織は、専門外の自分でもさすがに上手なことが分かる。
だが、ピアノの弾き手はあまりにも多い。
何があれば「一流」なのか、自分には難しすぎて分からない。
逆に、情報発信には目を向けず、自分を磨く作業のみに力を注いでいる感があるが、実を結んでほしいとは思う。


正直なところ、クラシックのコンサートはあまり行かず、避けている。
特に、自分が演奏したことのある楽器は、楽しみはなく考え込んだり昔を思い出したりしてしまう。
だが、やはりたまにすがすがしい演奏を聴くと、また自分で演奏したり関わったりしたいという思いを抱く。
どちらの演奏者も、また機会があれば聴きに行きたいと思う。


今回は、一応「ライブ」のカテゴリーに入れることにする。












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