やなちゃん生誕祭2009~わたしはピヤナ/高円寺JIROKICHI(09/08/05)


1.ひまわり
2.はじまりのメロディ
3.航海日誌
4.妄想ヘルスメーター
5.キングオブロケンロール
6.泣いているのは君だけじゃないよ
7.みんな崖っぷち(新曲)


8.みんなの☆
9.お経
10.千夏さんち
11.トラブルマン
12.バッドラブ(「恋の病」新曲)
13.Happy Birthday
14.100ある幻想
15.満月小唄


16.オリオンビールの唄
17.うちへ帰ろう(「Going Home」)


18.ヒノモト音頭
19.徘徊ロックNo.5


この日は、「早い者勝ち」のJIROKICHIライブであり、前売りなどないので早くから並べば椅子に座って鑑賞できる。
たまたま休日であったので、早めに並ぶことにした。


西葛西で待ち合わせをし、久方振りに「Ramble」でランチのカレーを注文する。
残念ながら「ハヤシライス」が切れていたので、前回と同じものを注文したが、前回よりも美味しくなっていた気がした。
「キーマNo.3」は相変わらず、誰にでも薦められるバランスの取れた美味しいカレーである。
「大山鶏のチキンカリー」は、前回より調和が感じられた。
前回も「手が込んでいる」「よい材料を使っている」といった感想は持ったのだが、「客を選ぶ味」であるとも感じた。
具体的には、スパイスが味の骨格として直接的に顔を出しているので、スパイスより具材を重視する客にとっては、食べにくいところがあったかもしれない(個人的には美味しく頂けた)。
良くも悪くも「他にあまりない」タイプのカレーだったが、今回は少し変わった。
スパイスという味と味を結ぶつながりがより密になり、きめ細やかなスパイシーさになった。
スパイス初心者にとっても、一口目の違和感がなく、二口目のスプーンを進めることができる。
「ひよこ豆のカリー」も、味ががらりと変わった。
今回、メニューには1倍~3倍の調整が利くことが記されていたが、あえてそれを行わなかった。
前回、「ひよこ豆のカリー」は、トマトベースが主体の味付けで、上に載っているパクチー以外スパイシー感が弱めであった。
辛めのカレー好きには、単品での注文は物足りなく感じるのではないかと考えていたが、この日は前と同じように注文したのに、よい方面に裏切られた。
トマトベースを踏襲しつつも、単独でも普通にスパイス感を味わえる味付けがされていた。
よい材料、手間をかけた調理の精神はそのままに、日々の精進と創意工夫がカレーの行間から垣間見られて、この店に足を運んだ甲斐があったと強く感じた。
夕方までJIROKICHIに並んでも空腹にならないか心配しての入店であったが、店の出口から抜け出し強い日差しを浴びる頃には、心地よい満腹感が全身を柔らかく包み込んでいた。


高円寺に降り立ってJIROKICHIに向かうと、既に行列が生まれている。
ここからは、長丁場の路上観察の時間が始まる。
高円寺駅の阿波踊りの発車音楽を時折耳にしながら、太陽が西に向かっていくのをひたすら待つ。
JIROKICHIは一人二枚整理券を貰えるのだが、まあ座れそうな番号ではある。
「夏休み」や日曜日でなければ変わってくるのかもしれないが、1列目は午前中に、2列目は昼頃に、3列目は夕方前までに並んでおけば、座れると思う。
4列目迄しか席は並べられていないので、そこより後ろは立ち見である。
4列目よりは、そのすぐ後ろで立っていた方が、本当は観やすいとは思うが。
ちなみに、この日の入りは、数えたわけではないが100人弱ぐらいか。
舞台もフラットなので、背が低くて立見の後方になると辛いかもしれない。


舞台には、ピアノのゾーンの他に、マイクが3本ほど別ゾーンに生えていた。
後ろに、ギターが2本置かれてあり、そのうち一本は昔から見覚えのあるギターだったので、「ピヤナ」というライブタイトルに反して、ギターの演奏が期待できることが分かる。
ギターは一誠君で、ボーカル専属は久松史奈と予想でき、もしかしたら柴草玲がアコーディオンを背負って現れるのでは、という期待もあった。


音色のよいピアノの中、「ひまわり」が冒頭の空気を飾る。
PAもしっかりして、喉の調子もよく、本日のステージが期待できる。
そういえば、昔はあれほど演奏されたこの曲も、最近は演奏頻度が落ちたように思われる。
ギターで演奏していた頃からよい曲だと感じていたので、定期的に聴きたい曲ではある。
次のアルバムに入れるかもしれないが、少し「チャイルディッシュ」とのことで、未音源化曲が演奏される。
「大丈夫」風のピアノの前奏から始まる。
「はじまりの歌」だと思っていたが、「はじまりのメロディ」とのことである。
「メジャーセブンス」「マイナーナインス」などのキーワードが用いられながら歌われ、メタ構造的な要素を持った曲である。
「航海日誌」は人気のある曲だが、この日の演奏はなかなかよかった。
ピアノも弾きこなされてきたのか、力も抜けて聴きやすかった。
「千のバータフラーイ」と張り上げる声色も、ノイズが少ないよい音質で、満足度の非常に高い演奏であった。
全体にピアノも声も調子がよかったためか、「妄想ヘルスメーター」はちょっと明るく軽めに感じられた。
今までは、絶望的なほどに暗い曲調と演奏に沈み込んで、この妄想を延々と語っているのが、一つのドラマの心内場面のような世界描写が感じられた。
この日は、役者としてではなくミュージシャンとしてこの曲を演奏しているように感じた。


ここで、毎度おなじみの加藤一誠登場。
帽子と童顔が爽やかな好青年である。
何度か合わせた「キングオブロケンロール」の演奏となる。
全然ロケンロールでないが、JIROKICHIの35周年の記念に作られた曲のはずである。
「チュチューチュチュチューチュチュチューチュ」の部分のハモリや、時折入るチョーキングが、相変わらず気持ちよく入り清涼感を与える。
また、ピアノばかりでなく加藤一誠のギターも、「適度な脱力」が見られるようになったのも、一つの収穫であった。
おそらく、何度か一緒にステージに立つことにより、曲の雰囲気の中での弛緩の置き方を工夫するゆとりが生まれたのであろう。
「泣いているのは君だけじゃないよ」も、一時期毎回演奏していた曲。
水谷浩章との演奏もよい間奏が入るが、加藤一誠のギターはアドリブ風の早い動きで高音域の間奏が入り、そこはなかなかよい。
新曲の「みんな崖っぷち」は、当日加藤一誠にいきなり共演をお願いしたらしい。
結構な負担のはずだが、加藤一誠のそこでの返答がよかった。
「これもライブの楽しみ(「醍醐味」だったかもしれない)」とのことで、石川遼も顔負けの模範解答が返ってくる。
「優しい人はみんな崖っぷち」「昨日の嘘はバクに食わせる」といった歌詞があったことを記憶している。
最近の柳原陽一郎の視点は、ある程度普遍化された複数形の「人間」に目を向け、報われない者や頑張っている者に対しての暖かな配慮を投げかけているように見える。
具体性の高い特殊な事例を強調させて、そこから命題を引き出そうとする手法は、完全に市民権を奪われたようにも感じる
なお、第一部のMCは「藤沢秀行」と「自称プロサーファー」について、多く語っていた。


第二部は、まさかのギターを抱えてのスタートとなる。
「みんなの☆(星)」を、ストロークで一人演奏する。
明るい曲調の割に、歌詞が重く(暗いのではなく重い)、スターとして扱われる人物の影を落としている生い立ちや心情、葛藤などが織り込まれている。
最近の歌詞は、ある程度突き抜けて達観している境地のものが多いが、「one take ok!」頃の歌詞は、プロセスの中の緻密さ(上手く表現できず申し訳ない)が方々に感じられ、たまに聴くとハッとさせられる。
この日初めてのたま時代の曲、「お経」もさすがにギターで弾かれる。
本当は、この曲あたりを加藤一誠と合わせたらカッコいいのだが(恵比寿の「HIROKI MODE」での水谷浩章とのセッションはとてもよかった)、じきに見られると期待したい。
たま時代の曲で、加藤一誠と合わせたことがあるのは、「マリンバ」ぐらいだっただろうか。
「お経」の後の、昔の思い出話が非常によかった。
最初の全国ツアーは、なんと青春18切符で回ったとのことである。
東京の人間なので分からないかもしれないが、実は大阪から先の中国地方まではものすごく遠い、と言っていた。
山陰本線で延々と西に向かう中、他にすることもないのでひたすら曲を作っていて、その中に「お経」や「はこにわ」があったらしい。
そして、長崎の諫早の鉄工所のおばちゃんたちに、この「お経」が物凄く受けて、「これでいいんだ」と強い自信を持つに至った。
当時、マイケルジャクソンが「We are the world」などを出していたのに、片や「坊主」、だが、その方向性もこれを境に迷いがなくなった。
もっとも、受けたのは「パーカッションの人のキャラクターも大きかった」のではないかと分析していたが。
この日の「お経」は、「ボーズ」の合いの手が入るまで何度か同じ部分を繰り返し、第二の「ジャバラの夜」になる予感もした。
「千夏さんち」は、1カポのスカボロフェアといった印象。
さすがに、これをピアノで弾くと別の曲になる。
440で忌野清志郎の「僕の自転車の後ろに乗りなよ」をアンコールで弾いたが、そのときと同じぐらいのしっとりした静かな雰囲気を感じた。
ピアノに戻り、「どんと(柳原陽一郎と誕生日が同じ)」のことを歌った「トラブルマン」が久々に演奏される。
ところどころ、「トンネル抜けて」や「魚ごっこ」が挿入される。
昔は、柳原陽一郎のライブでどんとの「昨日までは男風呂、今日からは女風呂」が何度か演奏されているようなので、ぜひそちらも光を当ててほしいと思う。
そして、本人大絶賛、「マキシマムのラブソング」と自評する新曲、「バッドラブ(恋の病)」が演奏される。
松田聖子の「スイートメモリーズ」などで用いられる、「レード♯ド」と半音ずつ落ちるアレンジが、ラブバラードっぽさを出していた。


予想どおり、久松史奈が登場し、前回ピアノのバッキングで柳原陽一郎が参加した話題になる。
人のバッキングでピアノを弾くのは、人生二度目とのことで、自分のファンが一人もいない完全アウェーの中で、「あれほど緊張したことはない」とのことであった。
もっとも、ピアノの腕だけを見込んで久松史奈が依頼をしたわけではないだろう。
MCでバックに振ったとき、期待以上の言葉が予想され、何よりもコーラスとしての能力は替えが利かない力量がある。
どんなステージだったのかは観ていないので分からないが、二人きりのステージだった場合、単なる引き立て役ではなく一緒にステージの世界を構築していく役割は誰よりも果たせたのではないだろうか。
「Happy Birthday」は、当然この日の主役に向けられた歌であろう。
JIROKICHI35周年のときにも聴いたが、サビで声が被る部分に、柳原陽一郎のコーラスの全力さを確認でき、この日一番に実は力を入れていたのではとも想像させる。
3拍子の2と3で叩く手拍子もここでは新鮮で(TOMOVSKYは毎回ある)、和やかな雰囲気の中、曲も終わる。
そして、柳原陽一郎が久松史奈に「ハンドメイド」な要素を指摘し、それがよく表れている曲をリクエストした、とのことで「100ある幻想」となる。
二人で共作した「5月の空」あたりが来ると予想していたので意外であったが、バックにとっても思い入れのあることが感じられる演奏であった。
久松史奈がステージを去り、一人になった後は「リードボーカル」の話題になり、最後の曲の「満月小唄」が演奏される。
レイトショーでは毎年、喉が限界寸前になったところで歌っていた曲であるが、この日はまだまだ7~8割の感があり、余力を残したよい声のままでの演奏であった。
「満月小唄」も、加藤一誠が入ってクオリティが高まりそうに感じるのだが、「あれもこれも」というのは求めすぎであろうか。


アンコールが入り、ピアノに戻り、「オリオンビールの唄」。
前回は「タメ」を多用・強調しすぎで、ギター演奏で感じ取れる「細い線でデリケートに流れて繋がっていく世界」がかえって失われてしまった印象を受けた。
今回は、適度な揺らぎとタメで演奏されたので、喉の調子がよいこともあり、好演であった(それでも、わずかにギターバージョンの方がよいか)。
「ララーララーララーララララー」のコーラスを、ここでも聴衆に求めていた。
ソロになってからの曲にはあまりないが、たま時代の曲はこのようなコーラスがもともと入っていたものも多い。
会場参加型のライブになればなるほど、古い曲が活躍するというところは、少し面白い。
加藤一誠が再度登場し、ノリピーに捧ぐとのことで、「うちへ帰ろう(ゴーイングホーム)」でアンコール本編終了。


やはり余力を察した聴衆はアンコールの拍手を止めず、再度この日の主役の登場。
ギターを担ぎ、「ヒノモト音頭」を演奏。
この手の軽やかさは、やはりギターの方がしっくりくる。
加藤一誠再々登場で、何か曲が残っているのかと思えば、一番弾き慣れた「徘徊ロックNo.5」で終了。
この日は、ツインギターで、高音のハモリがよりビート感を強調させる。
アリスの谷村新司風に「ありがとう!」をフレーズの谷間谷間で強調し、ピアノとは対照的に力の入りまくった演奏で終了となる。


新曲あり、ゲストあり、久々のギターありで、MCの面白さも含めて十分に堪能することができるステージであった。
一時期の440でのライブがそうであったように、「JIROKICHIでの柳原ライブに外れなし」の経験則が、今回も適用されたことが確認できた。
谷山浩子との共演や、来年(意外と準備の残り時間はもう短い)の440での連続ライブにも期待したい。

Summer Music Night ホフディラン/アップルストア銀座(09/08/04)


1.遠距離恋愛は続く
2.サガラミドリさん
3.祭囃子
4.夜
5.サッポロちゃん
6.キミのカオ
7.スマイル


仕事が終わり、開演に間に合いそうだったので、銀座の街に向かう。
本日もインストアの無料ライブであり、大変ありがたい。
業界の景気が上向きであるのか、ないがための必死さなのかは分からないが、ぜひこのような企画は続けていただきたい。


アップルはiPodこそ持っているが(「ネットマイル」で昔当たった、いずれそのときのことは記したい)、PCは「マッキントッシュクラシック」ぐらいしかよく分からない。
仕事柄、縦書きの文章を打つことが多かったのだが、(今は分からないが)当時バージョンが上がるたびに縦書き文書の印刷に時間がかかるようになったので(遂には印刷だけで一日仕事に)、一太郎の使える環境から替える気にはならなかった。
店内は、アップル商品が銀座風に並べたてられ、新宿や秋葉原の電気街とは異なる層に購買意欲を喚起させていた。
店内奥に、総ガラス張りのエレベーターが控えており(こんなものは見たことがない)、これに乗るだけでも価値がある。
3階まで上がると、ミニシアター風の座席とスクリーンがあるステージが登場する。
12×7列の84席で、少しだけ横幅があった。
当然、開演直前のため満席だったが、少し余裕を持って行くことができれば、ゆったりとした座席であったのでさぞかし快適であったであろう。
後のMCに拠れば、開演1時間前から「謎の外人」が一人、曲を聴きながら頷いたりしていたとのことである。


定刻を少し過ぎたかと思われる頃、舞台に向かって右側の最後部からホフディランの二人が登場し(ドラムの田中ゲンショウも)、ステージへと上がる。
「遠距離恋愛は続く」が1曲目で、相変わらず曲の途中でMCが普通に入る。
この日に限ったことか分からないが、ワタナベイビー曲に小宮山雄飛のコーラスは入らなかった(逆は普通に入った)。
小宮山雄飛の喉の調子が聴く限り本調子ではなく、選曲もワタナベイビーボーカル主体の編成であった。
ひたちなかでのイベントで、張り切りすぎたためかどうかは分からない。
だが、「ホフディランとして」活動する大きな魅力の一つが、この声の重なり合いであり、こればかりは代わりの利かないものなので、曲のほんの一部でよいので聴けたらとは感じた。
この日は非常にアコースティックな雰囲気であり、小宮山雄飛のキーボードも非常によく聴き取れた(なかなかよい)。
個人的にはこの編成は好きだが、マイクもボーカルマイクというよりはMCマイクに合うように調整された感があった。
非常にシンプルな響きで、生歌ライブを聴いているかのような(エコーもリバーブ感もなし)印象であった。
青山テルマややなわらばー(新橋の広場前でよく観た、CD屋だと柳原陽一郎の近くにある)も、同じようなPAを行うのであろうか。


大変弾き慣れた1曲目が終わり、「銀座らしく上品な曲を」とのことで、「サガラミドリさん」が演奏される。
「サガラミドリさん」に会ったことがないので、上品なのか冗談なのかはよく分からないが、いろいろな意味でワタナベイビーにしか作れない曲である。
キーボードも面白い音を出していて、工夫の跡が見られる。
この日、前の日の事件(芸能界の「先生」の騒動)がリハーサル前からの話題の中心だったようで、この後も「先生」についてのMCが何度も入り、もう一人の主役のようであった。


「祭囃子」は、相当久しぶりに演った曲らしい。
この曲は、小宮山雄飛のボーカルで、ワタナベイビーのコーラスが被ってくるのはやはり嬉しい。
全体的に「  ラソラソ ラ ラ ソラソ(空欄は8分休符1つ分)」の音(調性は失念)が、アコースティックなキーボードかギターの高音スティール弦で鳴り続けている雰囲気である。
いわゆる「日本的」」な祭囃子の音階ではないが、同一モードの繰り返しが「祭り」の雰囲気に近く、この日も電車内で見受けられた浴衣の人並みの情景が想像させられた。


「夜」も「しっとりとした」曲とのことで、この日の小宮山雄飛曲はしっとり系のみが演奏された。
おそらく喉の調子が原因であろうが、「夜」の途中あたりからはやはり辛そうに感じる部分はあった。
曲自体は郷愁を誘う、どこか唱歌的なシンプルな「しっとり」感があり、小宮山雄飛の伸ばす部分の声質がその郷愁を増幅させていた。
小宮山雄飛の、いわゆる代表曲はこの日演奏されなかったが、逆にレア感のある曲が堪能でき、銀座まで出向いた価値があったといえよう。


小宮山雄飛が最前列の女性を指名しての「リクエスト」を行うが、これはいささか気の毒であった。
「恋はいつもまぼろしのように」の曲をリクエストするものの、「サッポロちゃんですね」、とのことで、最後には指名された女性も折れてしまった。
最後まで悲しそうな顔をして観ていた、とのことだったので、その残念な気持ちは想像が付く。
小宮山雄飛の喉が本調子であれば、最後にアンコールとしてでも演奏するべきであったと思うが、この日は仕方ないかもしれない。
でも、できれば客にあらかじめ仕込んでおいたほうが、本当はよかった。


「キ」で始まる曲のリクエスト、となると、もうかなり曲は限定されて、「キミのカオ」の演奏が決定される。
本当は1曲前も「サッポ」で始まる曲、と指定しておいた方が安全だったかもしれない。


ここで、仕組まれたかのようにアップルのコンピュータが登場し、舞台上のスクリーンの映像が切り替わる。
順序は忘れたが、iTuneを使っての、小宮山雄飛の作ったカレーや食べたハンバーガー、ワタナベイビーの「変な顔」ショットがバックのスクリーンに提示される。
翌週には、同じようなことを毎日日替わりのゲストを交えて行うとのことである。


「せっかくなので」とのことで、「キミのカオ」の演奏にいよいよ入るが、普段は何の指定もなく入ってくるとも思われる「ヘイ」の合いの手が全く入らず、ワタナベイビーが笑い出し演奏がやり直しとなる。
客席の練習の後、曲が仕切りなおしとなり、ギターはそっちのけでずいぶん前から「ヘイ」が入るモーションを示すようになった。
ともあれ、個人的には一番好きなこの曲が、やっと生で聴けたのは本当によかった。
「サガラミドリさん」などと比べて、歌詞が普遍的な世界を描きながら写実性が高く、心情も含めて曲に移入しやすい。
曲も、音符に対して言葉や文字数が多い部分があり(冒頭部など)、コントラストとテンポ感が増長されて(程よいアップテンポ)、聴き心地もよい。


「デビューシングルです」のいつもの紹介が入り、「スマイル」で終了。
音響のシンプルさのせいか、3人なのに今までで一番シンプルな演奏に感じた(ソロ演奏も含めて)。
もしかすると、この曲のシンプルさ・重厚さの実感は、そこまでのステージ全体の積み重ねの重さに比例するのかもしれない(ステージの最後に演奏した場合)。
20曲演奏した後なら、映画のエンドロールの場面のように、今までの全体を振り返り再実感(または追想)することに当てられているのであろう。
HARCOやTOMOVSKYのインストアと比べて、アップルコーナーがあった分時間は長かったが、それでもやはりあっという間に終わってしまった想いはないではなかった。
アンコールの拍手を遮るかのように、アップルの次のイベントの告知が入り、その間にアップルストアを後にした。
帰りは、タクシーの長い連結を横目で見ながら「銀ブラ」し、新橋まで出て釜飯を食して帰宅した。
なお、入場時にiTuneで1曲ダウンロードできるカードを貰った。

HARCO&TOMOVSKYインストアライブ/新宿タワーレコード(09/07/12)


HARCO
1.ペンを置いたって
2.東京ライフ(KANのカバー)
3.ピアニストの恋ごころ
4.敬虔なアリョーシャ(インスト)
5.tobiuo


TOMOVSKY(本編)
1.歌う43歳
2.最高の錯覚
3.我に返るスキマを埋めろ
4.ねる日
5.スピード
6.いいことあるぞミスタードーナツ(ワンフレーズ)
7.ほめてよ
8.仰げば尊し(ワンフレーズ)
9.ワルクナイヨワクナイ
10.サントワマミー(ワンフレーズ)
11.AKY
12.蛍の光(を弾きながらMC)
13.歌う43歳(エンディングのみ)


HARCOを生で観るのは初めてである。
ホフディランとの共演で出演したのを観た人間から、「小沢健二からキラキラ感を取った感じで、多分気に入るだろう」と紹介されたのがきっかけである。
もともと、スズキのアルトのCMソングぐらいしか知らなかったが、見た目や雰囲気は「内に秘めた想い」を繊細に紡いでいきそうなものを感じたので、一度聴いてみようとは思っていた。


松戸の印度亭でおなかいっぱいになった後に新宿に向かったが、既に1曲目の「ペンを置いたって」が始まっていた。
昼下がりのカフェの中で鳴っているような明るめのピアノの音と、それと調和した歌声が心地よく、よい曲であろうと感じた。


「東京ライフ」は、KANの20年ぐらい前の曲のカバーである。
今回、アルバムにカバー曲を入れたのは初めてであるそうである。
この曲は、副都心線沿いのインストアでは必ずやっている、とのこと。
「地下鉄が君の仕事場まで伸びたから」という歌詞の部分による。
KANの曲のはずだが、この曲に関してはなぜか徳永英明の発声を思い出した。
徳永英明に関しては、歌い始めのアタックの音からノイズを消し去り、声を楽器の一つとして、伸ばした音で表現に表情を付けているのを感じる。
「東京ライフ」はオリジナルの方は何度も聴いたが、音符に対して文字数が比較的少なく、必然的に伸ばしの部分が多くなる。
徳永英明ほど「突き抜ける」高音を強調することはないが、その分安心感を与える効果があり、アタックのノイズの少なさがHARCOの歌声の特徴を作り出していると言っても過言ではないだろう。


「ピアニストの恋心」は、7年前ぐらいから温めていた曲であるとのことである。
「不埒」な感じで、「実は自分が草食系ではなく肉食系であることがばれてしまう曲」と自分のMCで語っいてたが、全くそんなことは感じなかった。
用いられている言葉も「シャンデリア」など美しい世界を崩さないバランスが保たれ、あくまでも「淡い恋心」という一つの物語的な
だいたい、本当の「肉食系」は、「草食系」だの「肉食系」だのといった言葉を用いない。
もう少し直接的で、感覚を情景描写で象徴化することなく、ダイレクトに表現してくる。
あがた森魚のバックで回っているときに、汚いライブハウスの楽屋にきれいな女優さんがひょっと顔を出し、「なんじゃこりゃ」と感じたところからこの歌詞が生まれたらしい。
正直なところ、「東京ライフ」以上にKAN的な曲調の香りを感じた。
KANとも共通するのかもしれないが、ピアノの演奏が曲の基調を作り出していて、その上でピアノの上に覆いかぶさらないように声と旋律を乗せてくる。
歌詞は「重み」や「深み」よりも、まず全体の世界観を壊さないことが最優先され、強いメッセージを叩きつけるのではなく、世界の中に聴衆を引き込み体感させることにより伝達を行う。
一度聴いて中毒になるような強引さはないが、何曲も何度も聴くことにより一人一人の聴き手の心の避難所的なかけがえのない空間として、HARCOの音楽を捉えるようになる役割や効果があるのではないだろうか。


インスト曲「敬虔なアリョーシャ」は、ボーカル曲を多めに聴きたかったので残念なところもあったが、悪くはなかった。
ラベルやドビュッシーなどを若き日には弾き込んだであろうと、勝手に想像してしまうような儚さと透明感を併せ持つ和音が中間部あたりからよく感じ取れた。
そこに、久石譲やジョージウインストン的な、静かで聴きやすい旋律の流れを組み合わせているところがある。
やはり、元来はピアニストとしてのアイデンティティがあるのであろう。
歌声を入れることにより「HARCOの音楽」といったものを生み出してはいるが、本人の頭の中で流れベースになっているのは、おそらくこのあたりの音楽なのであろう。


あっという間に最後の曲になり、「tobiuo」の演奏となる。
装飾音をふんだんに入れたピアノの演奏を聴くと、音造り自体がピアノによって育まれてきたのがよく分かる。


ここ1年ぐらいで、一番よく行く「男性のピアノ弾きシンガー」は、柳原陽一郎である。
だが、年々ピアノに対する思い入れを深め、技術が向上していっても、「ギタリストのピアノ演奏」であると感じる。
これは非難しているのでも貶しているのでもなく、「ギタリストならこのタイミングで必ず入れたい音」に忠実で、ギタリストが安心して聴ける、といった意味である。
ピアニストのピアノ演奏は、ギタリストには不安定に感じるところがあり、育ってきたバックボーンで培ったピアノ独自の装飾法で音楽の背景に入ってくる。
柳原陽一郎は、「歌うためのピアノ」としての叩き上げの技術者であるので、ギターを聴くようにピアノを聴けるところはある。
最近は、ピアノのステージばかりであるが、ギターの世界に帰ってくることは間違いないと、個人的には考えている。
ライブの荷物が減るのは、もちろん、本当に魅力的なことではあるが。


話をHARCOに戻すと、自分の思い描く世界を「ピアノを用いて」組み立てていこうと意識が感じられる(あくまでも「ピアノのみで」ではない)。
他の楽器に置き換え可能な和音が旋律の背景で流れているのではなく、ピアノの音自体を自分の「アタックノイズを消した」声という楽器と組み合わせたアンサンブルとして提示している。
「tobiuo」の曲に関して言えば、高音部へと上昇していくサビと思える旋律部分は、明らかに言葉の意味だけではなく「言葉自体の音の響き」や「声自体の音色の調整」に意識を払っているところが見られる。
インストアライブのせいか、もう少し余韻を楽しみたかったところはあるが、曲の後奏はあっさり終わり、サイン会へと移った。


初めて聴いたのにいろいろ書くと怒られてしまうかもしれないが、あくまでもバランスを重要視した「中庸」の音造りが印象に残った。
突き抜けないで、一歩手前で抑える繊細さ、これが歌詞の上でも曲の表現の上でも現れている。
逆に、弱点としては歌詞も曲調も突き抜けず抑えた表現をするため、第一印象がどの曲も近くなってしまいがちなところがある。
商業音楽としては不利になるところはあるが、キャラクターが音楽の邪魔をしない利点もあるので、息の長い活動をしていくかもしれない。
ただ、個人的な希望を言えば、突き抜けて表現する曲も何曲か聴きたいところである。
もしかしたらもう既にあるのかもしれないが、「繊細な表現でいて、突き抜けた歌唱と言葉の選択」が何曲かあれば、ステージ全体のよいアクセントになるのではとは感じた。


TOMOVSKYの部まで、しばらく外で時間を潰していたが、戻ると既にリハーサルの最後の曲であった。
もうすっかり盛り上がっていたようだが、本番とは全く違う曲を演奏していたらしく、実際リハーサル最後の曲は本番では演奏していなかった。
今度、TOMOVSKYのライブがあるときには、リハーサルの最初から鑑賞したいと思った。
そして、まもなく整理券順の入場となる。
整理番号は300番まで出していたようで、全部来ていればインストアなのに「ワイト島の奇蹟」よりも観客が多いことになる。
当然、当日はCDも整理券も既になく、境界線のすぐ後ろで開演を待つことになった。


定刻になり、TOMOVSKYの登場となる。
30分ライブを行う、とのことで、先ほどのHARCOの雰囲気とは全く異なる、高めのテンションでのステージとなった。
あるときは椅子の上に立ち上がり、あるときは即興で歌いだし、CDの曲の紹介ライブという雰囲気ではまるでなかった。


いつもどおり、「歌う43歳」でスタートとなる。
少し間を置いて、「2番も聴きたいか」「イェー」で続きが始まる。
一応、フルコーラス完奏。
「最高の錯覚」は、途中までの演奏(おそらく、ワンコーラス)である。
「スキマを埋める」という部分から、関連のある次の曲に移る(ここまでは弾き語り、ここからしばらくカラオケタイムとなる)。


「我に返るスキマを埋めろ」は、相変わらず重い歌詞である(「不惑」ほどでないが)。
ちなみに、「ワイト島の奇蹟」のときは、喉の調子が心配だったため少し軽めのアレンジで演奏していたが、それがなかなかよかった。
TOMOVSKYの歌詞は、ラブソングのような甘めのものはほとんどなく、人生訓に通じる重めのものが多い割に説教くささがまるでない。
おそらくは、歌詞が最優先で作られてはいるものの、それと同じぐらい単独のロック(またはポップ)として通用する音楽を破綻なく当てているせいだと思われる。
職人のように宅録で、試行錯誤と労力を積み重ねて、楽屋を見せず結果だけを示しているところに美学を感じる。
この曲は、奇跡的にフルコーラス歌った。
曲目が多いと充実度はあるが、この曲のようにエンディングまでしっかり聴けると、やはり一つのコース料理を完食したような満足感がある。
関係ないが、「さよなら絶望先生」というマンガで、「ゲッペルドンガー(ドッペルゲンガー)」がテーマである回があった。
これは、「冷静な目で自分を客観視するもう一人の自分」について考察したテーマであったが、この歌を聴くとその回の話を思い出す。


「ねる日」は、珍しくスカ的な曲調である。
間に、語りのようなMCのような部分が入っていた気がした。
「スピード」は、メッセージとして「スピードを上げろ」といった内容があり、究極のところでは「我に返るスキマを埋めろ」と通じているように思える。
TOMOVSKYの歌は、一見「自己肯定」の歌に見えるところがある。
もちろん、それも一部ではあるのだが、単なる「自己肯定」だけではなく、「自己分析」や「自己暗示」的な要素が多分にある。
TOMOVSKYの歌は、おそらくは、聴衆に共感を求めて作られてはいない。
メッセージ性はあるものの、それを聴き手に強要しようというのではなく、作り手であるTOMOVSKY自身に向けてメッセージを向けているのではないだろうか。
冷静になり、自分の現在の立ち位置を「分析」しようという非生産的な行動でなく、迷いを持ちながらもそれを気にせず「生産」し続けることを、自己暗示的にメッセージとして曲に込めたのではなかろうか。


小さな子が泣いていたので、「いいことあるぞーミスタードーナッツ」とワンフレーズ口ずさむ。
首都圏では放送していないが、ミスタードーナッツのCM曲をTOMOVSKYが担当しているらしい。
40代になると、褒められないと何もする気がしない、とのことで、「ほめてよ」。
この曲も、実感がこもっているのであろう。
「仰げば尊し」のワンフレーズを口ずさんだ後、3拍子の前奏が入る。
まさか、新譜発売のインストアライブで聴けるとは思わなかったが、「ワルクナイヨワクナイ」となる。
おそらく、歌詞も曲調も一番TOMOVSKYの大通りの真ん中を行っている曲で、それだからこそこのような新譜発売の場でも演奏されたのではないかと考える。


残り時間を気にし出し、「サントワマミー」をワンフレーズ。
「あえて空気読みません」との意味の、「AKY」の演奏(これが演奏らしい演奏の最後)となる。
「蛍の光」の演奏をしながら、語りが入り、「歌う43歳」のエンディングで終了。
この日のテーマは、「東京オリンピック」と「石原都政」に反対である、というメッセージが至るところに込められていた。


ライブでのサービス精神は満載で、また本編のライブにも足を運びたいと感じた。
TOMOVSKYのCDは、旧譜も全て品切れになり、双葉双一の「涙の小鳥」とはかまだ卓の「伝説」を購入して、タワーレコードを後にした。
また、次のインストアライブを期待したい。

インド料理 印度亭/松戸(http://www.indotei.com/


二和向台の「ニューデリー」が、現在とても残念なことになっているので、久方振りに別のインド料理店に足を運ぶことにした。
普段、松戸といえば「カレー専門店印度(こちらは「亭」は付かない)」で「カシミールカレー」ばかり注文しているのだが、ランチバイキングがお勧めとのことで、ダイエーの近くまで足を伸ばすことにした。


土日のランチは少しだけ高くなるが、ヨーグルト(フルーツ入り)がメニューに追加される。
カレーの4種は日替わりで、事前にホームページでも確認できる(1か月分、分かっている)。
サフランライスは食べ放題、ナンは3種類の味(プレーンやガーリックなど)から最初選ぶが、おかわりは自由で運んでくれる。
面白いのは、他の「炭水化物」として「パスタ(スパゲッティ)」も盛り放題である。
インド風せんべいも山盛りになっており、2種のサラダも盛り放題、ホットのチャイも飲み放題であった(本来ドリンクは別料金だが、これは別)。
肉料理は、店員が周って持ってきてくれる。
具体的には「チキンティッカ」と「シッカバブ」であるが、周ってくるタイミングで必要であれば、追加もできる。



sprawl world


店内は採光のよい2階の店舗で、女性客や家族連れも多く、安心して入れる雰囲気がある。
もし、インドにファミリーレストランがあったとすれば、このような感じなのであろう。
小さな円形の金属皿がバイキングゾーンに並び、トレイに何種類ものカレーや炭水化物をよそると、眺めるだけで幸せな気分になれる。


肝心の味であるが、バイキング形式としては十分な品質であろう。
カレーは辛みは一つを除き抑えているが、肉が潤沢に入っており、具材を食する喜びがあるので飽きが来ない。
圧力釜で煮込んでいるのかと思われるほど柔らかくなったマトン(だったと思う)も、ジャガイモと煮込まれたチキン(逆だったかもしれない)も、肉料理として味わえるレベルであった。
豆のカレーは多少甘めだが、肉系のカレーの合間に、よい具合に味のバリエーションを挟むことができる。
正直なところ、パスタは多少小麦粉入りのカレーでないと、親和性に欠ける気もしたが、面白い試みなので続けては欲しい。
シッカバブは、マトン以外にも野菜か何かを挽いて混ぜたもので、火をよく通してある。
以前の「ニューデリー」の方が味は上だが、現在の「ニューデリー」より遥かに美味しい。
チキンティッカも大量に作っている割には悪くなく、味ムラなどは全く感じさせない。


実はこの日は歯が不調で、歯と接する舌が痛かったのだが、ホットのチャイが助けてくれた。
本来、カレーなどもってのほかのコンディションだったが、痛むたびに何度もチャイを飲み、カレーと肉をおかわりし続けた(貧乏性)。
だいぶ調子もよくなったので、今度は、もっと本来の味を楽しむことができると思う。
そのときは、もう少しまともなレポを上げたい。
この日、HARCOとTOMOVSKYのインストアライブがなければ、おそらくもっと長居をしてくつろいでいたであろう。
成功しているお店のお手本のような、これと言って非の打ち所のない店であり、帰りに出口を見ると多くの客が並んで待っていたようであった。


ホームページの他にブログもあるようなので、一応記しておく。
http://ameblo.jp/indotei/


読み返して、何も面白くない記事であるが、せっかくなのでアップする。
「面白くない」のは、かなり「まとも」な店なので、突っ込みどころがあまりないせいかもしれない。
加筆修正するかもしれない。

7/7(火) 国立 地球屋 

『オリヒメたちとひこぼしたち』(ジョンソンtsu/双葉双一/Ke-co BAND)


Ke-co BAND

1.国道
2.(シルバーのふち六角形?で始まる曲)
3.(煙の向こう、で始まる曲)
4.(お休み、疲れた心、で始まる曲)
5.(トライ~で始まる曲、英語)
6.(246沿い、で始まる曲)
7.(黒い雲に覆われて、で始まる曲)


ジョンソンtsu

8.不明(カーコビエン という言葉で始まっていた気がする)
9.不明(ミレーファの旋律からラソーシに移行? ロイロイローイ(ドレミの旋律で)のこだまコーラスを要求)
10.sa fadd illug mariah
11.不明(「静かな曲」とのこと)
12.Dokknumm
13.L'Elefante bianco
14.変な外人


双葉双一

15.霧の中で
16.スモールスタークラウド
17.夜の底
18.束の間の二日間
19.恢復期
20.わたしの人魚姫1
21.ピクニック
22.岬の上
23.アンダースロウ


24.タワーホテル



待ちに待った、ジョンソンtsuの再来日東京公演。
7日の国立か8日の渋谷か迷ったが、双葉双一と2人だけの公演で、地球屋にも行ってみたかったこともあり、7日に行くことにした。
後で、もう一つバンドが追加されたが、これは「七夕なので男性だけでなく女性の演奏も」という配慮か。
だが、個人的には2人だけの方がよかったと思う(第2部が強烈過ぎて1部はすっかりかすんでしまった)。


ジョンソンtsuは、ラブジョイのbikkeのブログ(http://ljbk.exblog.jp/)に詳しい(というより、他からまともな情報は入ってこない)。
bikke(断っておくが、ホフディランのゲストで出た方ではない、三軒茶屋のguruguruで原マスミと出演した方)のブログから知りえた情報は以下の通り。
・外国人ではなく、実はクオーター(母親がロシアとのハーフ)。大阪弁が実はペラペラだが、ステージではそれを見せない。『大阪豆ごはん』にでも出てきそうな生い立ちである。
・普段は大阪の「ムジカジャポニカ」というライブハウスに住み込み(?)、カレーの仕込みと土日のライブがある日はPAをしている。
・イタリアのプログレ音楽に通じ、ギターの技量も高い(ギターの腕はさすがにマイスペースでも分かる)。


マイスペースを見るだけで、これは一度行かねばならないと思わせる世界が垣間見える。
http://www.myspace.com/jyonsontsu
ブログも、個人的には興味深い(ロシア語との対訳もまたやって欲しい)。
http://jyonsontsu.blog34.fc2.com/


双葉双一は、もともと京都など関西圏で活動していたこともあり(沢田ナオヤもそう)、おそらくその頃から親交があったのであろう。
一時期、双葉双一は積極的に新譜を出していたのを止めてしまっていた時期があったようだが、そこからの「恢復期」に「再教育」と題した一連のライブが行われていたらしい。
全て双葉双一のカバー曲のライブで(沢田ナオヤも参加している)、それ以降徐々に創作意欲を取り戻したのか、新譜のリリースも間もなくであるようだ。
もちろんジョンソンtsuも、「再教育」に参加している。


地球屋の中は、アットホームな感じの空間であった。
舞台の上は、絨毯(カーペット?)が敷かれている。
腰の低そうな、髪の短い若いスタッフがてきぱき働いていた。
よい印象である。
スピーカーは、BOSEではなく、ROLANDのものがずらりと並んでいたのが珍しい。
こだわりかコネがあるのであろうか。
この日、美味しいカレーを満たしてしまったため注文しなかったが、地球屋の中でもカレーが注文できる。
「れら」の定休日の水曜日にライブがあれば、一度注文してみたい。



以下、簡単に第1部の印象。

・「今日は二人で」とのこと。多分、本当はもう少し多い編成なのであろう。
・酒場の音楽といった印象。高音でかすれるハスキーなボーカルでブルースを歌う。これはこれで悪くないのだろうが、二人の王子の世界とは少し離れており、対バンとしては他の人選の方がこの日には相応しかったか。
・女性のベースはパッシブ(後ろに乾電池を入れないタイプ)。見た目はジャコパスのベースにフレットを乗せた感じである。個人的には、相当久しぶりにパッシブのベースの音を聴けたことが、第1部一番の収穫か。
・ギターは、親指で爪弾くタイプで、ピックは使っていない。ギターのチョッパーのような弾き方やチョーキング、カッティングなどを多用する部分は、なかなか味が出ていてよかった。
・テンポのある曲や激しい曲は、この編成でも聴かせる演奏であったが、ギターアルペジオと二分音符のベースが続く曲は、平坦に聴こえてしまう。ドラムが入る前提での演奏ならよいが、この編成の場合意識的にビートを意識したアクセントを付けたほうが曲が生きると感じた。
・歌詞も「酒場の音楽」といった感があり、「煙の向こう」「246沿い」などのキーワードは、地球屋よりJIROKCHIあたりの方が似合っているように感じられた。
・2曲目と7曲目あたりがよかった。



第2部はいよいよ、ジョンソンtsuの登場となる。
マイスペースで何度も聴き、楽しみにしていたが、予想の遥か上を行くステージであった。
開演前ジャージ姿で歩き回っていたが、双葉双一も顔負けのビシッとしたステージ衣装で登場する。
振る舞いも含め、ヨーロッパの王子のようである。
譜面台が置かれ、譜面台カバーは町内会の回覧板のボードが用いられている。
小道具も含めた、演出の徹底ぶりが素晴らしい。
ガット(クラシック)ギターをストラップで吊るし、立ち姿での演奏である。
双葉双一もそうだが、ネックのてっぺんのところを紐で縛るタイプの留め方をしている。


「8」は、ラテンの雰囲気が感じられる曲であるが、スピーカーの調子が本調子でなく、バチバチいっていた。
口笛で自在にビブラートを効かせ、スペイン的というかフラメンコ的というか、情熱を感じさせる演奏であった。
「9」も、スピーカーのガリ音がバチバチいっている。
「ロイロイローイ」のところで、会場の来客のエコーを要求するが、少し長めのフレーズまで要求し、「こんなに長いのついてこれないよ」といった笑いが起きる。

「sa fadd illug mariah」は、イタリアのカンツォーネ的な声の張り上げが素晴らしいが、自由自在ともいうべきギターの演奏とテンポの緩急には目が釘付けになる。
心配だったスピーカーのガリ音も消え、ジョンソンtsuの世界全開となる。
美しいメロディも旋律を外すことなく、凝った伴奏を途切れさせることなく、曲が次々と展開していく。
一歩先が予想もつかない急激な変化と、またスローなメロディアスな曲調に戻るところが飽きさせず、驚きの連続を与えている。


「次は静かな曲やるぜ」と、わざわざ用意した紙を読み上げる周到ぶり。
知らない人間は、本当に「外人」が来日して演奏活動を行っているように感じるであろう(本当は大阪弁が堪能らしいのに)。
曲名の分からない「静かな曲」は、口笛が一つの高音木管楽器のように、前奏や間奏で美しい調べを奏でる。
日本人の感覚に一番マッチした美しい旋律だが、意味の分からない言葉でも世界に浸れるのが不思議である。
たまに「サイゼリア」に行って感じることだが(BGMはイタリア語)、意味の分からない言葉であっても音楽や歌い方による表現により、何となくメッセージは伝わるものである。
圧倒的な技量とステージパフォーマンスにより、歌詞を中心に聴く客までも惹きつける魅力を持っている。


6弦をレに下げるところは、クラシックギターでもよくある。
「Dokknumm」は、マイナー和音から入り、テーマに入るとテンポよく主題の旋律が刻まれる。
中間部の間奏のギターソロは、圧巻である。
クラシックギターの弾き手であれば分かるかも知れぬが、ドメニコーニの「コユンババ」終楽章のような(ラウタヴァーラの「ユニコーンのセレナーデ」の終楽章にも近い)ストロークと力強い和音の中から浮き上がる音の移行が印象的である。
ただ、あまりに大曲なので、どこからどこまでが中間部になるか分からない(マイスペースでは2分割してあった)。
一応、簡単に流れを示すと、「緩」→「急(見事なギターソロ)」→「緩(ホーミー付き)」→「急(アッチェルがかかる)」→「エンディング(会場内大合唱)」といった文脈であろうか。
異国で650円のランチを注文したつもりでいたら、5000円相当のフルコースの料理が運ばれてきたようなものであり、我々はただただ運ばれ続ける料理を驚愕の目で眺めるだけである。
特に、「ノンベンダーリ ノンベンダーリ」と聴こえる「急」の部分と、「ライララベラ ライララベラ」と聴こえるエンディングの部分は強く印象に残る。
ちなみに、youtubeの「ジョンソン祭り」を見ると、このバンドバージョンが聴けるが、ギター一本で十分に完成された演奏ではある。。


「皆さん、犬のように速く走って~下さい」と、CD販売と翌日・翌々日のライブの案内が入る。
この日購入した、ジョンソンtsuのCD2枚。
一つは双葉双一の曲を歌ったもので、もう一つはオリジナルのライブのCDであった。
どちらも秀逸で、双葉双一のカバーは「四月下旬並みの陽気」のアレンジがよかった。
オリジナルは大当たりで、どの曲も素晴らしい。
毎日聴いても、飽きることなくステージの感動が甦ってくる名演である。


「難しい曲やるぜ」とのことで、予想通りの曲の演奏となる。
「L'Elefante bianco」は、マイスペースで一番気に入り、ぜひ聴きたかった曲なので嬉しい。
ちなみに、CDにも収録されているが、(nero)と記載がある曲(この日は未演奏、クラシックギター弾きに受けがよさそう)とジャケットの曲順が逆なので、CDをお持ちであれば気をつけておくとよいであろう。
アラビックにも感じる速い旋律が、ギターとボーカルのユニゾンで、自在なテンポで演奏される。
マイスペースで、ぜひ聴いてほしい曲である。

曲の合間に口に運ぶワイングラスは、飲む姿も様になり、自分が閑静な国立の街にいることを忘れさせる。
「ニッポンの皆さんのためにニホンゴで曲を作ってきました」とのことで、「変な外人」の演奏で終了となる。


和音は、3弦1フレ、2弦2フレ、1弦3フレの押さえを、そのまま並行移動させる伴奏であるが、似たような曲はあまりない。
昔、「GB(ギターブック)」という雑誌に、場違いな「ルート66」の楽譜が出ていたことがあり、そのときの前奏が多少この和音に近かった。
歌詞は、同じ内容の繰り返しである。
表面上は客を「笑かす」ために組み立てられたようにも見えるが、実はとても重い、作り手の幼少期からのトラウマのようなものまで内包されているのではないか、そう感じながら聴いていた。
「変な外人やってきて」という部分の「外人」という言葉は、明らかに社会的な「他者」に対し排他的に用いる言葉である。
ヨーロッパの王子か貴公子のように見える風貌も、日本での幼少期をもし経験しているとすれば、「排他的他者」=「外人」のような存在として、扱われた過去がある可能性がある。
「僕らにそっとこう言った」は、「僕ら」と「そっと」とが引っかかる。
この部分があるということは、「僕ら」と「外人」とは別物ということになり、「僕ら」と一人称複数形になっているのは、カテゴリーとして「排他的他者」でない側に括られる。
「そっと」というには、何度も主題が繰り返され、強調される。
「そっと」という言葉自体が、逆説的に用いられているのではないか、という疑念さえ感じられる。
「生き物のバランスを壊した罪は重い」は、クオーターとして生きたジョンソンtsuに向けられた、幼少期の純血主義による偏見がこのような形で示されたのではないか、そう思わずにいられなかった。
ひょっとするとこの曲をこのスタイルで歌うために、設定も歌詞も外国仕様にして、効果を最大限に引き出せるようにしているのではないか、とさえ想像した。
もっとも、近くで笑い転げていた身近な「シグネチャー」にこの曲の翻訳をしてもらったところ、標準的な解釈とは異なるらしい。
つまり、エコロジーを唱える海外の活動家が、覚束ない日本語で「生態系」を「生き物のバランス」と言って啓蒙している様だと。
確かに、そのように聴くと、それがごく自然な解釈であり、「カフェれら」で薬膳カリーを食しながら語り合う「外人」の姿が浮かび上がってくる。
だが、ジョンソンtsuの生い立ちから生じるアイデンティティと、そこから志向される音楽、その根幹をなす枠組みが、実は「変な外人」という一つの曲の中に結晶化されているのではないか、と想像させる何かがあった。
演奏・歌唱はまさに圧巻で、客席に降りてきてから長時間のパフォーマンスも、一点の破綻もなく世界を完成させていた。


ステージを観て、やはり引き込まれてしまうのは、あり余る技術をいっぱいいっぱいに使っているのではなく、余裕が感じられるところである。
初めにパフォーマンスありきではなく、パフォーマンスなしでも凄まじく高いクオリティをボーカル面、ギター面ともに、既に持っている。
外国のプログレ曲のカバーが多いのかもしれないが、ぜひそれを超えるオリジナルを創作し演奏して欲しいと思う。
そして、「犬のように速く走って」、日本中の会場で音楽を伝えてほしいものである。



第3部は、今度は黒髪の王子の登場となる(ジョンソンtsuも考えてみれば黒かったかもしれないが)。
あの第2部の後なので、さぞかしやりにくかろうと思ったが、杞憂であった。
特徴的なダウン主体のストロークが始まり、「霧の中で」が演奏される。
双葉双一について、「舌足らず」な歌い方を指摘されることが多いが、実はMCから受ける印象ほどではない。
特に、母音が「イ」「ウ」「エ」の段の発声は滑らかで、「霧の中で」という部分は霧の幻想を全く壊すことなく、旋律と調和させている。
「舌足らず」な印象が生じるのは、全て「オ」段の音が歌詞に入るところであり、特に「~よ」で終わる部分の音がいろいろな意味で双葉双一らしい発語になっている。
念押しで使う終助詞(古語で言えば「(ぞ)かし」などと同じ)としての職能からか、双葉双一は「よ」の音を旋律と同化して飛ばすことはしない。
「よ」という音自体をメロディアスな音楽の中から再び奪い返して、一つの音の中にリアリティを持たせる。
具体的には、喉の奥からの地声を強調させ、さらりと歌う他の部分との対比により、歌詞に句点と余白を与えている。
音大卒の女性アーティストなら、アタックの音で音節を確定させて、オペラのように楽器的に声を伸ばすところであろう。
だが、双葉双一はそのようなことはしない。
あくまで、言葉の持つ響きを壊すことなく、人間という媒体が音楽に介入していることをあえて意識させている。
「霧の中で」はタイトルからの想像に反して、明るめのメロディの小品であるが、霧の存在をネガティブに捉えておらず、冒頭の演奏としては相応しいとも言える。


MCは、この日は趣向換えを行っていた。
直後に演奏される曲目を引き出す、短い言葉が入る。
「霧がかかった視界を早速晴らしてみましょう」とのMCが入り、「スモールスタークラウド」に移る。
TULIP(財津和夫の)で言えば、「輝く星」の「スターシャーイン」と音を伸ばして歌う構成に、サビが少し近さを感じる。
風など自然物を擬人化する歌詞は、さほど珍しさがあるわけではないが、情景は浮かびやすい小品であり聴き心地はよい。
「スモールスタークラウド」は、「天の川」の意味だとのこと。
七夕にちなんだ選曲であろう。


「泣いている女がいる、話を聞いてみよう」と「夜の底」が演奏される。
ここまでは、聴いたことのない曲ばかりである。
「夜の底(本人のブログでは4曲目だが、実際は3曲目で演奏している)」は、曲の触感が「時はシガレット(タワーホテル組曲の終曲)あたりに近い。」
女性側からの思いが綴られているようだが、途中三人称的に表現されているところがあった気がするので、もう一度聴いてから歌詞を掘り下げてみたい。


「こっちにも悔やんでいる男が、」ということで、「束の間の二日間」となる。
youtubeで、何度か聴いたことがあり、なかなかよかった記憶がある。
「束の間の二日間」は、歌詞が群を抜いて「文学的」である(らしい)。
自分は歌詞より曲に耳が行ってしまう方なのだが、歌詞を中心に聴く人間にとっては、この曲は歌詞が想像力を喚起するところがある、とのことである。
確かに、冒頭から「後悔クラブ」という訳の分からない「絶望遊びの集会」が提示され、「Sさんに連れられて」行くことになるというのは、突っ込みどころも想像力の入り込む余地もある。
「Sさん」とは、いったい誰なのだろうか。
「沢田さん」や「シグネイチャー本田さん」あたりは、「後悔クラブ」にはあまり行かなそうである。
「双一さん」が誘ったのだとすると、連れられて行ったのは誰なのであろうか。
そもそも、「後悔クラブ」とはどんな集会なのであろうか。
「絶望先生」のような、大正ロマンの服を身にまとった主催者が出てくるのだろうか。
冒頭だけで、想像の世界が、樹の幹から次々に枝に分岐していくように、広がり続けていく。
曲も少しだけコメントしておくと、2拍3連のゆったりとした音符使いが、歌詞を浮き立たせ、伴奏に滑らかなアクセントを乗せるのによい役割を果たしている。


「耳を澄ましてみようか」とのMCの後に、特徴的な和音がダウンストロークで弾かれる。
サティのジムノペティに音を二つぐらい足したような雰囲気であろうか。
「恢復期」は和音が重厚なわりに幻想的で、好きな曲である。
新しいアルバムに入るといった情報はないが、音源化が待たれる。
いわゆる「快復期」を主題にした文学はいろいろあるようだが、この歌は外から客観的に見た「快復期」ではなく、その前と後の状態を内側から描こうとした点が興味深い。


ニューアルバムは、双葉双一らしい歌があまりないというMCが入る。
9/17ぐらいに発売されるということである。
ブログ情報によれば、ジョンソンtsuも大曲で演奏に参加しているらしいので、楽しみではある。


弾き慣れた前奏の後に、「空が明るくなってきました」の言葉で「わたしの人魚姫1」となる。
「わたしの人魚姫1」は、「お嬢さんよろこんで」と同じぐらいハーモニカの後奏が見事な曲であり、どちらも聴けないとちょっと寂しい(今のところ、どちらかは必ず聴いているが)。
歌詞の部分部分に原マスミとの共通点を感じるが、やはり双葉双一は歌う小説家的であり、美しい表現の後にそこに連なる文脈を持ってくる。
原マスミは、文脈をぶった切ることを厭わない詩的表現を連ねることを優先させている。
日本料理になってしまったり、信号機の横の窪んだところがいきなり現れたりするが、誰にも真似できない表現の中で、思考を停止され、ただ言葉と音楽に浸ろうとさせる力がある(双葉双一は流れるプールのように文脈がある)。


「遊びに行ってみよう」とのことで、「ピクニック」の演奏である。
多少、双葉双一の中では裏芸的曲目で、意識的に最近多く演奏している気がする。
歌詞の表現の中の既製像からの冒険が感じられるが、おそらくこれはプロセスであろう。
数年後、新作が完成度を高めて結晶化するのか、全く歌われなくなるのか、見守っていきたい。


「ステージを変えましょうか」とのMCあり。
「岬の上」は、柏の街のライブで一度耳にしたが、明るい曲調とは裏腹にシリアスな歌詞であると感じた。
岬の上の崖の上から、相手を突き落とす幻想(しかもお互い)が歌詞の主題であったようだが、以前聴いたときにはメロディアスな旋律に耳を奪われあまり気が付かなかった。
ただ、やはり曲と歌詞の世界は、エーゲの海の陽射しと空気、温度が感じられるものであった。
曲的には、先ほどの財津和夫で言えば「サボテンの花(多分これは有名、四半世紀前には後からここまで有名になるとは思わなかった)」あたりの和音展開に近い陰りの少なさがあると書けば、多少理解していただけるであろうか。


この日の演奏が「スイート」であったと自ら評し、「この反省点を踏まえ」と論評していたのは面白かった。
「アンダースロウ」は、ラストにしては後味がよすぎる小品である。
双葉双一を聴いたことのない人間に薦める場合、この曲あたりは受け入れやすいのではないかと思う。
もちろん、特徴的な何曲かも一緒にして。
当然、アンコールが大曲であることを想定しての選曲であろう。


「知久さん(この日、観に来ていた)のアンコール(リクエスト)にお応えして」とのことで、予想通り「タワーホテル」の演奏となる。
「タワーホテル」については、柏のライブハウスでも大絶賛していたのを思い出す。
「ララーララーラララ」の後に、挿し込まれる一瞬の不協和音が、決して安定的でない場面の心理描写を補足しているようにも感じる。
ステージで聴くのは3度目だが、ハーモニカの後奏が長く取られていた。
何度聴いてもよい曲であるが(いつもこればかりだが)、次の日は「タワーホテル」の演奏はなかったので、この日に来て正解だったのかもしれない。
終演は23時を越え(昔行ったTOMOVSKYの七夕ディナーショー以来であろうか、この日も七夕)、途中からタクシー帰りとなってはしまったが、この日の入場料は1000円だったので、大阪「ムジカジャポニカ」に行くことを考えると安かったと言える。


次の日の演奏(次の次の日も)を聴きに行くのは断念したが、未聴の曲(双葉双一曲、ジョンソンtsuはリストなし)が多かったので本当は両方行けるとよかった。
また、どんなものであろうかとネットで調べた日比谷カタン(日比谷花壇という花屋を思い出す)も、よさそうなギター弾きであった。
ひとりくじら(杉林恭雄)を聴いたときのギターの緻密さの衝撃に近く、日を改めて行きたいとも感じた。
もっとも、ジョンソンtsuとまた共演するのではないかという予感がなんとなくあり、ひそかに楽しみにしている。
そして、8月8日のムジカジャポニカに足を運ぶかどうか、今本当に悩んでいる(青春18切符で何時間かかるのであろうか)。

カフェれら(Cafe・れら)/国立(http://ranrantsushin.com/rera/ ) 水曜定休


ジョンソンtsuの演奏の衝撃が未だ覚めやらないが、メモが見つかるまでの間、先に地球屋の近所のカレーを紹介したい。


国立駅の南口を出て、線路と垂直に真っ直ぐ直進し、一橋大学にぶつかる間一髪のところにライブハウス「地球屋」はある。
一橋大学との境界線の道を左折して数秒足を進めたところに、「カフェ・れら」はある。
本当は、旭通りを途中まで歩くと、インドやタイやネパールなどのエスニック料理の店が山ほどあるので、そこを覘いてもよかったのだが、地球屋の近くで「すーぷかりー」も美味しそうに思えたので、こちらにした。


店の外観は、こじんまりとして丁寧に作られたお洒落な空間に察せられる。
入口は、こんな感じである。



sprawl world-mise


だが、ドアを閉める瞬間から、お洒落なだけの店でないことが分かる。
木で作られていると思われるドアは、手作りなのであろうか、しっかりと押し戻さないと閉まらない。
大学時代、サークルの部室が陸軍の兵舎で使っていた建物をそのまま流用していたものだったが、そのときもこんなドアであった。
話を戻すが、おそらく、入口の上が唯一エアコンの付いている場所なので、入ったら一押しして閉めるように心がけたい。


音楽が流れていたが、入る前の予想と異なり、沖縄音楽が流れていた。
聴き覚えのある有名な「沖縄を返せ」で出迎えられるとは、予想が付かなかった。
東チモールの珈琲豆など、普通のカフェやカレー屋には見当たらないものがいろいろ販売されていた。
本棚には、『週刊金曜日』などがずらりと並び、カレーと一緒にビラでも出てきそうな予感さえしたが、全くそんなことはなかった。
店主(女性)は穏やかで品がよさそうであり、「体によさそうな天然の素材」を使うことに純粋に意識が向いているが故の店の方向かと思えた。
ちなみに、ホームページを探してもなかなか出てこないが、右下の小さなリンクの一つに女性店主が写った画像があった。


ホームページにも記載があるが、一応メニューは以下の通り(ホームページの方が見やすい)。


sprawl world-menu


薬膳カリーは、持ち帰りが出来るのが嬉しい。
この日は地球屋が待っていたので注文しなかったが、近くを通ったら(国分寺ぐらいまでならたまに行く)寄り道してもよい価値がある。
残念ながら、チキンの「すーぷかりー」は品切れであった。
ジャガイモにチーズをかけた「すーぷかりー」と、肉を用いない薬膳カリー(豆力)とを注文する。
辛さは選べたが、初回なので追加料金がかからないところまで辛くしてもらった。


胡麻や香辛料などと、小さなすり鉢と棍棒が出てくる。
摩り下ろして、一緒に食するらしい。
調子に乗って徹底的に摩り下ろしたら、すり鉢から細かい胡麻の粉が取れなくなり、カレーにかけるのに難儀する。
何事も、中庸の精神で接するのがよいようだ。


お待ちかねのカレーが、雰囲気のあるテーブルの上に運ばれてくる。
スープカレー系の店は、見た目が美しい(というか食をそそる)盛りで出されることが多い気がするが、ここもなかなかよい。
あまりよく撮れていないが、こんな感じである。


sprawl world-yakuzen


sprawl world-soup


ご飯は五穀米であったが、何と何が入っているかはよく分からない。
大盛にしても、おそらくはカレーの辛さによっては問題はない。


スープカレーはガネーシャ(新橋)でも食したことがあるが(他の店でもあるが、店がなくなったところが多い)、スープが具財に染み込み、辛さも後から染み込んでくるタイプなので、食が進みやすい。
ジャガイモなどの根菜系は、やはり味が染み込むスープ系のルーによく合い、とろけたチーズも、冬にこれを頬張ったらどれだけ美味しく感じるだろうか、と想像させられる。
次回は、ぜひチキンの「すーぷかりー」を、と言いたいところだが、この日感動したのは、もう一つの「薬膳カリー」の方だった。


「薬膳」という響きに、薬効的な魅力こそ感じていたが、「苦い漢方薬を混ぜたような味がするのではないか」という誤解を持ち続けていた。
薬膳カレーを注文する機会が何度かあったはずだが、様々な言い訳を自分自身にして、味を知らないままでいた。
だが、実際に口に入れてみたが、悪い空想とは全く異なっていた。
インド系のさらさらカレーが「混色を重ねた深い色でのモノトーン絵画」の感があるのに対し、ここの「薬膳カリー」は「ステンドグラスのような部分部分の色彩と光をそのまま生かしたような」調和と存在感が感じられた。
上にかかっているコリアンダー(パクチー)も、ステンドグラスの間のパテか窓枠のように、カレーの味の輪郭線を描き出す役割を担っているように感じられた。
本当は、エチオピアの2階や他の薬膳カレーの店のように、薬効を書いた紙を読ませながら提供した方が、自己暗示効果により薬効が倍増するのかもしれない。
だが、噛めば噛むほど、喉を通れば通るほど、味が多層化しいくつもの美味しさの形容が浮かび上がってくることは、薬膳カレーの登山口にはたいへん相応しいメニューであるといえよう。
次もまた次も、地球屋に行くときには「この店に足を運ぼう、少なくともこの店に寄る時間だけはこしらえよう」と決意させるだけの味と静かな存在感があった。
カレーというスパイシーな要素の他に、ココナツミルクの甘みや五穀米とコリアンダーのアクセントが上手く絡み合っていて、この店で自信を持って薦められるメニューであると思う。


この「薬膳カリー」の余韻が残るうちに、自分でも似たようなものを作ってみようと思い、カルディでコスモの薬膳カレーのルーを買ってきて、試してみた。
やはり、自分でスパイスを継ぎ足しても限界があり、近い味を作り出すことは出来なかった。
ただ、チャナやレンズの豆を主体にしたのと、後ですり胡麻を大量に加えたのは結構よかったので、しばらく研究を続けてみたい。
ナチュラルチーズを加えたのも悪くなかったが、当初のコンセプトとずれてきてしまったので、次は入れないで試してみるつもりである。


「薬膳カレー」といえば、自分の中では、まず白山(都営三田線)の「じねんじょ」という店が浮かんでくる。
もしかすると、他にも「もっと元祖になるような店」があるのかもしれないが、少なくとも20年ぐらい前はこの店しか知らなかった。
そういえば、最近「じねんじょ」の社長になったアメブロのブロガー? から、何度かペタをいただく。
思うところをメッセージで送ろうかとも考えたが、この場を借りて書き記すことにする。
どう読み取られてしまうか不安なところではあるが、薬膳カレーの元祖とも言うべき味を守り頑張っている姿勢に対しての、激励と敬意であることはご理解願いたい。
・元来、カレー好きは、「職人」に惚れ込むものである。
・カレーのことは何時間でも語り続けられるだけの、経験や知識、愛情を持っていると、通って店を守りたくなる愛着が湧いてくる。
・ブログは、「経営が苦しい」ということを多く語っており、正直なところであろう。だが、それだけを読んで足を運びたくなる一見はいない。
・白山は東洋大学と京華高校ぐらいしか思い当たらない不利な場所であるが、真の愛好者はカレーのためだけに切符を買い店の暖簾をくぐる。
・書きたいことは山ほどあるが、突き詰めると「自分の店の自分のカレーにどれだけ愛情があるか」に尽きると思う。
・ブログを読み、薬膳やスパイスの効能、メニューの味や香りが伝わってくるのであれば、それだけで大きな宣伝効果になると思う。

ブログを全部読んだが、「常連が支えていた店で、店主が変わり常連が離れてしまった」といった記述があった。
本当は月に一度でも二度でも当時の店主に頭を下げ店に立ってもらうのが、一番元常連を呼び戻すことが出来る方法である。
もちろん、こればかりは相手あってのことなので難しいかもしれない。
だが、「じねんじょ」のブランドは、現経営者が想像している以上に大きい。
「大衆化・一般化」の方向ではなく、過去を踏まえ(元常連の声が聞けると本当はよい)「格別化(といった言葉があるかわからないが)」の方向性で生き残る道はあると思う(と外野が勝手なことを言ってみる)。
だいぶ漠然とした曖昧な書き方に徹したが、書きたいことは大体書いた。
近いうちに足を運び、ビーフかチキンを注文するつもりである。


話を、「れら」に戻すが、「れら」という店名は、おそらくアイヌ語の「風」の意味であり、自然であることをまず第一にしたいという店主の意志の表れであろう。
ホームページ(http://ranrantsushin.com/rera/ )を見ても、あまり多くは語っておらず、カレーが美味しそうだと感じるだけである。
だが、店の中の雰囲気と空気は、店の名前に反することなく、自然であることを感じさせる。
特に、入口以外空調を抑えた店の空気は、一昔前の避暑地のペンションの店舗に近く、懐かしささえ感じさせる。
今回は地球屋の開場時間も近かったのでカレーのみ注文したが、次はケーキと飲み物も注文してみたい。
きっと、轢きたての珈琲から、東チモールの風を感じることができるであろう。

ホフディラン13年の金曜日/渋谷C.C.Lemonホール(09/07/03)


1.ホフディランのテーマ
2.SUMMER TIME POP!
3.恋はハチャメチャ
4.カミさま カミさま ホトケさま
5.夢の夢の夢の夢(かせきさいだー)
6.マフラーをよろしく(かせきさいだー)
7.NICE DAY(BIKKE)
8.ふさわしい人
9.欲望
10.デイドリームビリーバー(ダイアモンド☆ユカイ)
11.コジコジ銀座(TOMOVSKY)
12.FREE STYLER
13.甘い蜜(リクエスト)
14.SUPER DRY
15.LOW POWER
16.遠距離恋愛は続く
17.極楽はどこだ


18・スマイル
19.FUN (かせきさいだー+BIKKE)


20.あまりに大きな君
21.MY THING
22.ニューピース


日が経ってしまったので、箇条書きで。


・個人的には、ホフディランのライブは3回目。だが、ワタナベイビーを観るのは10回目。ソロ期間中に、いろいろなところで活躍していたためである。なお、ワタナベイビーの「さよなら人類」は3回ほど聴いたことがある。この日は有給を取り、開場前は近くのドーナツを食する。


・13年目とのことであったが、席も13列目。前の列はあまり立っておらず、多少観やすかった。


・座席固定のホールライブに足を運ぶのは、スピッツ以来か。大きなスピーカーと壮大なPAで独特の音響的特色がある。ベースは上手いと感じたが、歌と被る周波数音域は絞ってあるのか、バックの音が前面に出ることは最後までなかった。


・曲の終わりに小宮山雄飛が水平チョップで音を止めるのは、前回観たのと同じだった。「SUMMER TIME POP!」では、3回水平チョップだったが、2回や1回の曲もあった。何か法則性や暗号性はあるのであろうか。


・「カミさま カミさま ホトケさま」では、「ヘイジュード」の終わりの有名な主題を引用し、客席に追いかけコーラスを要求する。この日購入したDVDを観ると、よくこれはやっているらしい。


・ゲストのかせきさいだーが、カモノハシの着ぐるみのようなものと登場。付き合いの長さからか、「加藤君」と呼ばれていた。


・「夢の夢の夢の夢」は、個人的には一番よく聴いていた曲であり、生で聴けたのは嬉しい。アルバム「かせきさいだー(タイトル名も演奏者名も同じ)」の中に入っていて、ワタナベイビーの作品として演奏されている。ちなみに、このアルバムはホフディランが結構関わっており、「渡辺慎」の作詞作曲のこの曲の他に「冬へと走り出そう(「セブンファイブオー」で始まる有名な曲)」の音楽も半分?担当している。バックは、ワタナベイビー、小宮山雄飛の他に、何とベースで「シンゴスター」という第3の幻のメンバー?まで参加している。小宮山雄飛の曲も別に入っており、最近のヒップホップ系の音楽にアレルギーがある人も、爽やかな思いで聴くことができるアルバムである。


・BIKKEも単独で観ることはほとんどないはずなので、よい機会である。


・「ふさわしい人」は、DVDを観る限り休止前の最後にワタナベイビーが作った曲のようである。おそらく、「君」は相方の小宮山雄飛のことであり、最後の「バイバイ」も休止(当時は解散のつもりだったか?)の際のメッセージだと思わされる。今は「ホフディラン」という看板でまた活動を始められているが、ワタナベイビーのこの思いが合ったからこそ、13年目のこの日をまた迎えることが可能になったのではないであろうか。


・「欲望」などを聴く限り、小宮山雄飛の声は機械的な音と肉声の中間ぐらいの温感がある。そのため、良くも悪くもさらりとしており、印象が強くない代わりに暑苦しくない音楽を適切に歌いこなせる利点がある。ワタナベイビーの声は、逆にアナログ的なところがあり、この二人のハーモニーこそがホフディランの真骨頂である。



・ダイアモンド☆ユカイは、一番知らない人で、曲も聴いたことはない。「デイドリームビリーバー」は忌野清志郎追悼での演奏。全く関係ないが、鶯谷のキネマクラブでライブがあるらしい。倉橋ヨエコで3回ほど足を運んだがよい場所(特に2階椅子席)であり、多くのライブが行われてほしい会場である。


・TOMOVSKYは、一番馴染みがある。他のゲストと同様に持ち曲でなくテレビでの共演曲となった。ちなみに、たまは「あっけにとられたうた」をライブで演奏することはない。ホフディランはそうではないようだが、もしかしたらレアな演奏だったのかもしれない。ちなみに、「13年の金曜日」のDVDの「コジコジ銀座」の逆回転演奏のテークの部分は、作り手の苦労が聴き手の予想をはるかに超えていることを証明している。個人的にはTOMOVSKYをもう少し観ていたかった。


・「甘い蜜」は、リクエストNo.1であったらしい。やはり定番曲より、こういった場面ではレア曲の方が票を獲得しやすいのであろう。もっとも、柳原陽一郎や矢野絢子がリクエストをすると、一位はレア曲でなく名曲になる。もしかすると、純粋な人気ランキング投票ならホフディランの一位も別曲なのかもしれないが。


・「SUPER DRY」は、以前のライブでスポンサーの都合で歌詞が変更されていたのを思い出した。今回は「サッポロ」ではなかった。


・「遠距離恋愛は続く」は、やはりライブ向きの歌であると思う。歌の途中であるのにMCが普通に入り、歌の途中であることをすっかり忘れさせた後で、再度演奏に戻る自在さはワタナベイビーならではである。


・「極楽はどこだ」で、本編終了。この曲と「欲望」、この日は演奏されていない「恋はいつもまぼろしのように」などは、速さ的にも小宮山雄飛の歌の歌詞が聞きやすく、声の長所が生きやすい「伸ばす部分」が多用されておりよい。「スマイル」だけであればワタナベイビーのブランドでも通用するが、おそらくホフディランとして一番商品価値(好きな言葉ではないが)があり魅力があるのは、このあたりの曲で、声が重なり合う部分であろう。



・アンコールの「スマイル」は、やはり何度聴いてもよい(というより聴くごとによさを実感する)。やはりDVDの話になるが、長年ホフディランを支えてきたマネージャーが寿退社することになり、最後のライブ後にマネージャーのためだけに「スマイル」が演奏される演出があった。おそらくDVD一番の山場であり感動的な場面であるが、それからまもなくホフディランは活動を休止する。マネージャーの存在がやはり大きかったのではないか、と思わせるDVDであった。前にも書いたので詳しくは書かないが、「いつでもスマイル」というワタナベイビーの哲学が直接的に表された曲であり、その後の作品もほとんどが陰でなく光あふれる前向きな世界を歌っている。現実世界に疲れても、この「スマイル」の世界に聴き手が自分を投影できるのは、大きな支えになっているのではないだろうか。


・「FUN」は、このメンバー(かせきさいだーとBIKKE)が揃ったために、初めて演奏できた曲らしい。部屋を引っくり返したところ、「ユウヒビール」に入っていた。かせきさいだーもこの曲では高めの通りがよい声でラップ調の台詞を聴かせてくれた(「夢の~」は普通の歌)。BIKKEとの対比も面白く、当然主題も定番曲のように聴かせどころが多かった。レコーディングゲストを充実させすぎると、生演奏の機会が減る危険があることを教えてくれる曲ではある。だが、この曲が演奏されることを見込んで足を運んだファンも多かったのではないだろうか。


・「ニューピース」は、ボーカルがワタナベイビーだが作ったのは小宮山雄飛らしい。ちなみに、たまはそのような作品は一つもない(作曲が共作扱いのものはあるが)。その人物のために書いた作品は、当人の作品以上にマッチすることが少なくない(沢田ナオヤの「チキンライス」の作詞のように)。相方への観察と愛情とがなければ成り立たないパターンなので、今度は逆の方向(ワタナベイビーが作る)でも聴いてみたい。「夢の夢の夢の夢」などは、歌詞も曲調も小宮山雄飛が歌ってもおかしくないので、DVD作業から開放された今、よい作品が作れるのではないか。


・終演後、駆け足で並び、DVDを購入する。前から10番目ぐらいだったので、あっという間に購入終了。前の方は赤ジャケットの方の人気が高かったように思う(青を購入したが)。購入を終えて列の後ろを見ると既に色取り取りの傘が大行列を作っていた。30分で完売してしまったらしいが、追加販売が行われたようで、ひとまずである。このDVDは時系列的に流れがあり、レコーディング映像も多いため、この手のDVDにしては飽きが来ない。値段も手頃で大変お得である。


・「13年」とあるが、休止期間もあり、1年間の別活動期間もあったので、賞味は長くない(そういえば、太田裕美も25周年のとき、休み休みだったため「いんちき25周年」と銘打っていた)。だが、13周年ではなく、デビューから13年後に活動できている、ということは嬉しいことで、理由や経緯は考えずに素直に喜びたい。


・個人的には、「一歩遅れて音が広がる」感のある大会場よりも、ダイレクトに音が飛んでくる小さな会場の方が好きである(「ワイト島の奇蹟」の2回目はいつになるのか)。二人揃ってスケジュールを調整するのが困難なのかもしれないが、様々な規模の会場で様々な形態の活動を続けてほしいものである。



・さすがに二日続けて「静か系」ではないライブに足を運んだので、少々疲れた。本当は、その次の日も沢田ナオヤや矢野絢子、石橋英子が出演するライブにも行きたかったが、静養することにした。


石川浩司生誕前夜祭(マンダラ2 09/07/02)


(佐賀優子、中尾勘二、関島岳郎)
1.顔なし
2.40のマスカキ
3.
4.平和に生きる権利(ヴィクトル・ハラのカバー)


(バイナリキッド)
5.ハロー!バイナリキッド
6.風と木の詩
7.月見島はまだあるか?
8.オンリー・ユー
9.エンディング・テーマ


(原マスミ)
10.海のふた
11.アイス!アイス!アイス!
12.人間の秘密
13.教室


(サードクラス)
14.駒場北四丁目
15.やさしさの中のおせっかい
16.マッハ
17.どたんばのパワー
18.あわせたいあわせたい
19.ある一日


(石川浩司)
20.昭和ヒーロー数え歌
21.夜の牛たちのダンスを見たかい
22.全裸でゴーゴーゴー
23.ラッタッタ
24.ぼけ
25.東京パピー


26.カニバル


正直なところ、この日はサードクラスを観に来た。
もちろん、原マスミステージがあるのは嬉しかったし、この日の主役も当然聴くつもりではあった。
だが、知久寿焼バースディライブ以来サードクラスを聴いていなかったし、単独ステージもしばらくご無沙汰であったこともあり、出かけることにした。
ワタナベイビーも参加したワンマンライブのリストを見ると、「輪になる」「名場面」などの初期の名曲もあり、足を運べなかったことを後悔していた。
また、セッションでの献身的なバンド演奏は一目置くところがあり、この日は楽しみにしていた。


第1部は、佐賀優子、中尾勘二、関島岳郎のトリオだった。
その前に、佐賀優子ともう一人の主催出演者の「バイナリキッド」の「クドウヒロポ」が司会進行を行い、石川浩司に関するクイズなどを紹介していた。
第1部は中尾勘二のサックスの、ロングビブラートの高音から始まった。
マンダラ2は音響が非常によいので、管楽器には残響が残りすぎてしまうところはある。
だが、技術の高い管楽器奏者の演奏が味わえることが、容易に期待できた。
「顔なし」での、佐賀優子の歌い方と演奏は、力強さを感じさせるものであった。
「力強いピアノとボーカル」と言えば、矢野絢子(7/4に行きたかったが断念した)を思い出させるが、少し毛色が異なっている。
矢野絢子は河島英五や加藤登紀子系の、力を自由に音楽と結び付けている力強さに感じる。
それに対し、佐賀優子は中島みゆき(「寒水魚」時代ではなく「地上の星」などの軍歌時代、または初期の初期)や松山千春などに近い広い大地との一体感を感じさせる雰囲気を持っていた。
直感として、「北海道の歌い手ではないか」と感じたが、出身については調べたところ別の地域らしい(活動は北海道が多いようだが)。
大地とともに生きる系の超自我としての「~しなさい」の方向性が、この作り手の音楽への動機付けを支えているものであるように思えた。
「40の~」は、石川浩司の曲のカバーで、途中から本人も参加し演奏に加わる。
曲がシンプルな分、1曲目よりも聴きやすいが、途中からは管楽器は自在なアドリブ演奏、歌は絶叫に変わり、地獄絵図のような異次元空間が垣間見られた。
アイコンタクトで合わせるのではなく、好き勝手にそれぞれの楽器の限界を引き出そうとしているように思えた。
「3」は、「真面目な曲」とのことだったが、曲名が分からず、頑張って調べたが分からなかった(カバーかオリジナルかも不明)。
「40の~」とは打って変わり、ppが最初から最後まで続き、中尾勘二はクラリネットを、関島岳郎も指で効果音を出すシンセのようなもの(外山明もたまに使う)を弾いていた。
石川浩司はアジア風の大きな木製ウインドチャイムを鳴らしながら、口では乳児の泣き声を模した擬音を出し続けていて、よい雰囲気を出していた。
歌詞としては、「音楽が消えた」「心が動かない」といった部分があったはずだが、この部分が特に印象に残った。
音楽が身の回りから消えたり、欲しなくなったりしたとき、おそらく外的な要素より内的な要素の介入が大きい。
本人のオリジナルかも分からないが、作り手にとっての実感が、おそらくは込められていると確信する。
唯一曲名が分からなかった曲だが、この日の前半で一番の名演であったと思う。
歌い方としては、ppを魅力的に、言葉の内側まで届くように響かせるには、ff中心の訓練が日頃されすぎていると思われる。
本当は、「40の~」よりこの手の曲が伝えたい主題であるなら、別の曲がよかったかもしれない(サプライズは一番であったが)。
最後は、ヴィクトル・ハラのカバーで「平和に生きる権利」で終了。
日本のカバーとしては、おそらくソウル・フラワー・ユニオンの演奏が一番有名である。
3拍子で16小節Aメロを歌った後、Bメロの和音に切り替わるところが印象的・感動的である。
カバー曲ではあるが、この大地と結びつく音楽家に相応しい演奏であり、持ち味が十分発揮されたと言えよう。


第2部は、バイナリキッドの演奏であった。
公式ページのセットリストから曲目は転載したが、聴いたときにはもう1曲多かったように思えた。
2曲に分割されているように聴こえる曲目が、どこかにあったのかもしれない。
曲目ごとの感想はあまりないので、ステージ全体の印象を箇条書きで記す。
・ギターの「オリベ・U」の演奏は、技術を感じさせる。特にライトハンドなど、ピンスポットで入れる純粋な技術については手堅い。ただの「打ち込みバンド」にならずにいるのはこのギターの存在が大きい。
・ボーカルの「ミシガン」は下駄履きの学生服姿で、楽器を持たずに腕を組み歌う。おそらく、ドラムメンバーが加わったため、それ以前は演奏しながらのボーカルであったのであろう(ちなみにクールファイブの後ろの5人も、もともとはバンドマンで、楽器がなくなったので突っ立っているらしい)。声は高音も比較的出ている。
・「ミシガン」を「静」とすると、もう一人のボーカル「クドウヒロポ」は「動」である。ただ、暴力的な「動」ではない(観客のドリンクを飲んでしまう程度)。ギターも歌も上手というわけではないが、音を重ねることによりマイナー的な音楽としての差別化を行うことに成功している。
・ドラムの「ヘイコック」、安定はしているが、ギターほどの音楽上の特徴は少ない。8ビットのファミコン音楽を方向付けるなら、電子ドラムでリアル音を排除した方がもしかすると面白いかもしれない。
・キーボード「ぐ」はおそらく打ち込み主体で、パフォーマンス要員に感じられた(もしかするときちんと演奏しているのかもしれないが)。被り物を付けることのパフォーマンス上の心理的効果を考えさせられた(見ていない人には分かりにくい表現だが)。
・ファミコン音楽的な単調さを逆手に取り、売りにしているので、聴きやすくはある。パフォーマンス主体にならずに済んでいるのは、バックの技術による。
・石川浩司の「オンリー・ユー」をカバーしたが、カバー曲のカバーであるため、バンド自体の魅力を出すより、「カバーのオリジナル(変な日本語だが)」を再現することに主眼が置かれてしまっている。「リヤカーマン」あたりのフルバンドの曲の方が、バイナリキッドのピコピコ感を生かせたのではないか。
・最後の曲のみ、紅白帽を被った石川浩司とセッション。原マスミの曲で言えば「さよなら」のリフレイン部分だけが延々と繰り返されるような曲調で、印象には残るが、音楽的な面白みには減点要素である。第1部の「平和に生きる権利」のようにAメロとBメロとで「転換」を音楽的に感じさせることにより、「奥行きのあるファミコン音楽」が可能になるのではないだろうか。
いろいろ書いてはしまったが、今回の企画のステージ上の(裏方は別にいる)最大の功労者であり、精一杯演奏し、進行し、無事終えたことには敬意を払いたい。
関係ないが、「もしかして知り合いか」と思うところがあったのだが、多分気のせいだろうと思うのでそれ以上は触れないでおく。


ステージ換えの際の進行企画なので仕方ないところはあるが、「クイズ」だけでなく「映像」や「実物(本人ではなく作品やコレクションなどのモノ)」など、五感の別の側面から働きかけるコーナーがあると、それぞれの間が生きてくるのではとも感じた。
だが、おそらく膨大な準備で臨んだと感じさせるところがあり、外野が口を挟むことではないかもしれない。


第3部は、原マスミステージであり、おそらくこの日一番ゲストらしいゲストである(佐賀優子とバイナリキッドは企画者、サードクラスはバックサポートを兼ねるため)。
この日も、GURUGURUのときと同じように(そういえばその企画者のなんのこっちゃい西山氏も客席にいた)ストラップでgodinギターをぶら下げて、立ち姿での演奏であった。
やはり、格の違う独自の世界観と音楽があり、GURUGURUのときと同じように初聴の観客の心に強く残ったのではないだろうか。
特に、「海のふた」「人間の秘密」の力は、営業能力として優れているので、いろいろな対バンライブに参加してほしいとも思う。
以前、酒井俊(ちなみにこの人は女性、原マスミと反対の意味で性別を間違えられやすい名前)と共演したときにも感じたが、やはりマンダラ2は音がよい。
「人間の秘密」からは、石川浩司とセッション。
「原マスミ」という名前で回文(怪文?)を作り、「それ今日だけにして」と返されていた。
「人間の秘密」は、たま時代に共演したことがあるはずだが、おそらくその時代を感じさせるであろうセッションであった。
「教室」は、相変わらず間奏のギターソロが素晴らしい。
できれば、やるやると言って(一部を歌いだしたり、曲目を紹介すること多数)一度も演奏していない「さよなら人類」でも演奏して欲しかったが、また次の機会を期待したい。
完全に他流試合向けの選曲であったが、この部が合ったおかげでこの日全体が締った感がある。


第4部は、待ち焦がれたサードクラスのステージ。
はかまだ卓は、昔より痩せたように見える。
三色アイスのような、美味しそうな色合いのシャツを着ていた。
知久寿焼バースディライブで別人のように都会的に垢抜けたかに見えたクメムラヒトミが、またシンプルな元の風貌に戻った(ように感じた)。
残念ながらベースは不在(というか、これだけ人がいながら、この日ベースギターは一度も登場しなかった)であったが、音楽的にどう変わるか確認したかったので、たまにはよい思う。
「駒場北四丁目」を弾く前に、ハチャトリアンの「剣の舞」をバイオリンとギターで軽く合わせていた。
この日の演奏とは関係ないが、ハチャトリアン自演の「ガイーヌ」は、なかなかぶっ飛んでいてよろしい。
「駒場北四丁目」のベース抜きバージョンは、低音をキーボードで補って、その分キーボードが担っていた音を省いていた。
やはり、1台ユニゾンの音が減ると、土着的な厚みが少し軽減する。
この曲はギター1本でもそれなりに味が出せるため、周りの音が減っても違和感自体は少ない。
だが、この曲のキーボードの音の魅力もあるので、思い切ってベース部分をくりぬいて演奏するのもよいかとも感じた。
曲自体は、はかまだ卓の私小説的な世界と追憶で、おそらく歌詞だけを考えるなら、一番の得意分野と言えるのではないか。
「やさしさの中のおせっかい」は、初聴である。
音楽的には一番この日の中でよかった。
サードクラスの楽曲を分類すると(歌詞の分類はいずれそのうちに)、大きく4つに分けられる(本当はもっとあるだろうが、と勝手にそう決めてみる)


1)ズンドコ系(1拍目にアクセントが来る。いわゆる日本的な手拍子が似合うタイプ。「マッハ」「駒場北四丁目」など)
2)ズンチャカ系(アップテンポで、凝ったキーボードとバイオリンの音を入れてくる。はかまだ卓の動きが面白い。「光を見せて」など)
3)ふわふわ系(中間色系のデリケートなゆったりしたコード進行と予定調和でない旋律が特徴。「愛くらら」「輪になる」など)
4)ほんわか系(ゆったりと自然なコード進行が続く。透明感もあり、女性コーラスも入入ったりする。「ある一日」など)


もちろん、多くの曲は複合的要素があり(2+4とか)、重大な見落とし項目もあるはずだが、少ない知識で分類するならこのようなものか。
「やさしさの中のおせっかい」は3)の「ふわふわ系」に属し、篠田鉱平の言うところの「天才はかまだ卓」の才能が一番発揮されているタイプの曲である。
はかまだ卓の「ふわふわ系」の和音の展開は、教科書からではなく、自分の中からか試行錯誤の中からしか生み出せない、真似の出来ない奥行きを持つ。
名アルバム「愛くらら」が完成し、その前には家族関係の大きな変化があり、音楽的には貢献の大きかった篠田鉱平が去り、ここがサードクラスの頂点ではないかと心配したことはあった。
だが、「愛くらら」以降にこうした曲を生み出せる地力は持っているわけで、何かを創作する動機付けさえあれば、また更なる名作が期待できるかと感じた。
「マッハ」は、正直なところ、ベースがないとだいぶ物足りない。
単なるライン弾きでなく、凝った独立した動きを魅せる部分があるので、キーボードで音域だけを拾うのでは荷が重過ぎる。
低音を補完せずに、思い切って全く異なるアレンジを当てるのもありだと思う。
「駒場北四丁目」と同様、「マッハ」も名曲ではあるが、この曲はギター1本より言葉の合間に行間を埋める楽器の彩色が欲しい。
「どたんばのパワー」は、比較的新しい曲である。
先ほどの分類に従うなら、「ズンチャカ系」になろうか。
石川浩司とのセッションとなる。
「あわせたいあわせたい」も、最新曲(出来て1ヶ月ぐらいであろうか)である。
ベース脱退後の曲については、違和感もなく、調和も取れているように感じた。
もっとも、「駒場北四丁目」「マッハ」あたりは、ベース入りのアレンジが耳に焼き付いてしまっているせいかもしれないが。
「ほんわか系」の代表曲、「ある一日」で第4部終了。
こういった曲があるので、サードクラスのライブは喉越しが爽やかで、バンドのメンバーと一体化して世界に溶け込んでいたい衝動に駆られるところがある。
もちろん、メジャーレーベルなどで生き残っていく道を選ぶのであれば、突き抜けた存在感を用意する必要はあるかもしれない。
だが、今の形の(ベースがいるとなおよい)サードクラスは、十二分にふわふわ系やほんわか系などの方向では存在価値があると言えよう。


第5部は、主役の石川浩司ステージ。
登場と同時に、事前に客に渡されていたクラッカーが一斉に鳴らされる(これはばれていたらしい)。
MCで、「昭和がそのうち一括りにされて、戦争大変だったね、と言われる日が来る」と述べていたが、これはおそらく正しい。
「昭和ヒ-ロー数え歌」でスタート。
「ワイト島の奇蹟」のときは、「昭和」が付いていなかった気がする。
また、歌詞が少し変わった。
「ひとつひみつのあっこちゃん」「ふたつふしぎなめるもちゃん」の部分は、大変に語呂がよかったのだが、「ヒーロー」でなく「ヒロイン」であったためか、別の歌詞が当てられた。
ヒーローが哀れな末路を迎えるところは、前回と変わらない。
ところで、この数え歌の最後の3つは、かなり品を落とす歌詞が割り振られている。
日本の古典文学で『今物語』という作品があるが、これと共通している。
『今物語』も、途中は西行のエピソードなど、純粋に古典らしい古典文学なのだが、最後の3本だけは誰かが後から書き加えたのではないかというくらい品を落としている。
講談社学術文庫などでも読めるので、機会があれば最後の3本だけでも立ち読みしてもらいたい。


「夜の牛たちのダンスを見たかい」は、好みと評価が分かれるところである。
歌詞については、1番の「最初はたった一つの粘土」「二つに分かれて」「~年後に出会った」あたりは、原マスミの「人間の秘密」などと近い方向性でまあよい。
ところが、2番になると「2人のコロボックルのように」楽しく遊んだエピソードの歌詞となり、普遍的ではない個別の特殊世界の描写であることが分かる。
だが、この部分が「夜の牛たちのダンス」とどうも結びつかない。
牛が主人公なのか、風景として入ってくる外的なものなのかもつかみきれないため、空想図を描ききれないまま曲が終盤に差し掛かってしまう。
「ロードローラー」の件が、たとえ事実を象徴的に描いたものであっても、空想図の中で動いていた具体がリアリティを持っていなかった分、その部分だけの感情の移入で終わってしまう。
「詩は多義的であることが本質」というのは、1番の内容で貫いてこそであって、2番のような世界を構築するのであれば、ある程度写実性を持たせなければ難しいのではないか。
もっとも、部分部分はこの歌詞に見所はあり、この方面に対する石川浩司の「手探り感」は感じ取れる。
これとは別の視点で、「石川浩司の歌詞は、もっとバカに徹するべきである」という意見もある。
「○○女優」「××タレント」(想定したものはあるが、何でも当てはまるとは思う)などのカテゴリ-に属する人の声として、「○○という部分でしか見てくれない」というものがある。
だが、これは仕方がないことであり、人々はメディアの中の人間を識別する際にまずは記号として認識し、露出が多くなるにつれてその人間自体が記号となり意味的要素を拡大させていく。
石川浩司は、「記号への忠実性」においてたまの中で一番真面目である(なお、「記号への忠実性」の点で一番「不真面目」なのは滝本晃司)。
もしかすると、営業上の強迫観念もあるのかもしれないが、それが他の方面の表出を難しくしている側面もある。
個人的には「よい作品であれば方向性は問わない」考えを持つが、そうでないファンもおそらくは少なくなく、中途半端なクオリティで方向性が違うと、辛口の評価が多くなる危険がある。


「全裸でゴーゴーゴー」からは、サードクラスの伴奏が入る。
なお、選曲と編曲は全てサードクラスに拠るとのこと。
「全裸でゴーゴーゴー」に関しては、タレントの例の騒動以降、当事者の内面を冷静に分析した歌として曲を聴くようになった。
相手に対して「敵わない」という一部冷静な部分を持ち合わせていることに、当事者も実はそうした要素を持っているのではとも感じた。
「ラッタッタ」は、結構よい曲である。
千倉のスペシャルステージでこの曲が聴けたのは、素直に嬉しかった。
原曲のアレンジは悪くないのだが、クメムラヒトミもこの曲は乾いた音で原曲の雰囲気を損なわずドラムを叩いていた。
バイオリンによって、旋律のユニゾンと跳ね弓での効果音が入ってくるのも悪くない。
ゼネラルポーズの後、「アー」とコーラスの音が入るが、はかまだ卓のこの部分のコーラスはよくはまっている。
全く関係ないが、この歌には「うどんのこし」について触れた部分がある。
カレー以外にもうどんは好きな食べ物で、こしがあるうどんの愛好者として、美味しいうどん屋を何件か紹介したい(いい店があれば続くかもしれない)。


1)指田屋(西武線小平駅 サイクリングロードを花小金井方面に向かい5分ぐらい)東京都小平市天神町2-334 月曜休
指田屋はもう一軒ある(入口にタヌキの置物)が、そちらは行ったことがない。
そもそも、指田屋自体行ったのはだいぶ前である。
肉汁うどんを食べたが、こしがあり、麺自体の味や食感が工夫された「手打」といった感じで、非常によかった。
昼しか開いていないが、団子なども売っている。
2)かるかや(西武百貨店池袋店屋上)
「ぶら~り、かぜまかせ(正式な番組名失念)」の番組でも採り上げられてしまったが、デパートの屋上でこしのある本格的なうどんが食せる。
全てのメニューを冷やしにでき、おすすめは「冷やし釜揚げうどん」である。
屋上のため、雨の日は屋根のあるところまで運ぶのに濡れてしまうのが難点である。
3)かのや(新宿駅西口と東口すぐ)
もりうどんについては、あのはなまるうどんよりも安い値段の設定である。安い値段でこしを楽しむにはもってこいである。
ここは、まず給水機の水が美味しい。
立ち食い系(完全椅子席だが料金的にここに分類)の中では、材料のこだわりが強い。
蕎麦も美味しいが、蕎麦湯が出てくるのは「鴨汁せいろ」のみであったと思う。
冷たいメニューがお勧めである。
4)丸亀製麺(小岩、池袋、新鎌ヶ谷、他いろいろ)
チェーン店でこしのあり美味しい麺は、ここが一番である(と思う)。
冷やしの「ぶっかけ」がお勧め。
擂った胡麻をトッピングでかけられるのも嬉しい(はなまるは擂ってない胡麻)。
5)うどんや大将吉祥寺店(吉祥寺駅北側ガード下、西荻窪方面に30秒ぐらい)東京都武蔵野市吉祥寺南町2-1-3 0422-21-6280
チェーン店があるのかどうかはよく分からない。
吉祥寺のライブ(特にSPSとマンダラ2)の帰りに開いているのが嬉しい。
シンプルなもりうどんをよく食するが、様々なメニューがあり、ぶっかけうどんなども本格的讃岐仕様である。
見た目はどこにでもありそうな、小さな小さな立ち食い風(一応丸椅子あり)うどん屋。
店の雰囲気との味のギャップが、この店の味をさらに美味しい印象にしている気もする。
※今でもやっているかは分からないが、京成線みどり台の駅のすぐ裏の(踏切の反対側)のざるうどんは昔非常に美味しかった。
だが、21世紀になって再訪したところ、以前より麺が細くなって、感動も少し減少した気がした。
検索しても見つからないので、店自体があるのか確認できない。
新京成線鎌ヶ谷大仏駅の「小竹林」もこしがあり好きだったが、潰れて「鶏坊や」というラーメン屋になった(ここはここで美味しい)。
こしが強い美味しいうどん屋(あくまでも付け合せでなく麺自体)があれば、多少遠くても足を運びたいので、ご教示願いたい。


「ラッタッタ」で少し頑張りすぎたため、ゆっくりテンポの「ぼけ」の演奏。
そして、本編最後の「東京パピー」で、個人的にはこれが一番この部でよかった(「ラッタッタ」もよかったが)。
印象に残るのは、石川浩司本人よりも献身的に演奏していたサードクラスの姿勢である。
「ぼけ」もそうだが、大塚ヤヨイとはかまだ卓は、楽器のみに集中するのではなく、常に石川浩司に視線を向け、アイコンタクトで音を出していた。
「リンリンリンリン~」「カンカンカンカン~」のコーラスの絡みも、原曲の和やかさを思い出させ、後味もよかった。
この日、「たま全員のバックを務めた」とはかまだ卓が誇らしげに語っていたが、この誇りこそが献身的な編曲と演奏の糧となっているのであろう。
今後、多くのセッションが石川浩司を待っているであろうが、「石川浩司を純粋に引き出す」という点においては、サードクラスより適任なバックは見当たらないと思える。


アンコールに応えて再登場した石川浩司をいったん引っ込め、サックスを吹きながら歩く「テディ熊谷」とマリリンモンローに扮した「みっち。(句点が付くようだ、ハシケンの姉)」がバースディケーキを持って登場。
これは、本人にもばれていなかったらしい。
ハシケンも、「感謝」などよいアルバムがあるが、いつか紹介しようと思いながら、ほったらかしになっている。


最後の最後は、「カニバル」で終了。
モダンジャズのバックが入っても通用しそうな、音楽的には石川浩司一番の大曲である。
この曲が最後に聴けたのは、純粋に嬉しい。
サードクラスの負担も、おそらくは半端でなかったはずで、この日の音楽的努力の一番の功労者サードクラスにはまず敬意を称したい。
あえて一言だけ言えば、安全策を取らずに滅茶苦茶になっても、冒頭のボーカルとのユニゾンは「ギターも一緒に」演ってほしかった。
おそらく、高度な技術を要するので、ノーミスで弾き切るのは至難の業であろう。
だが、この日はミスをしてもオリジナルにより忠実な音を提供しようとする姿勢が伝われば、より感動が大きくなったはずである。
とは言え、キーボードで中間部からの音は十二分に再現され、この日の選曲は成功したといえる。
最終盤の間奏部分で、バイナリキッドと(おそらく)佐賀優子が再登場。
カオス感を増長させ、エンディングへ向かい、そして終了。


終了後は結構な時間だったこともあり、「うどんや大将吉祥寺店」にも向かわずに帰宅。
お行儀よく静かに鑑賞する、原マスミや柳原陽一郎のライブに慣れすぎていたので、多少疲れを感じたが、まあたまには楽しいライブであった。
この日関わった出演者、スタッフに「おつかれさま」と言いたい。
特に、サードクラスについては、ベースが入るワンマンライブがあれば、今度は足を運びたい。


だいぶ遅くなったが、以上のライブレポを上げる。
ホフディランとジョンソンtsu(感動覚めやらず)のレポを早いところ上げたいが、いつになるやら。

Adult Rock Night /三軒茶屋GURUGURU(09/06/21)


出演:bikke、杉林恭雄(ひとりくじら)、原マスミ 
ゲスト:宮武希、近藤達郎
DJと企画:なんのこっちゃい西山


1.(「夢のそばまで願いを浮かべよう」で始まる曲)
2.at home
3.(「夢の如き~」で始まる曲)
4.(「そばに来ると思った」で始まる曲)
5.彼岸へ(かなたへ)
6.(メリーホプキンの曲)
7.(「その行方に何があろうとも」で始まる曲)オレンジ?
8.マリーマリー
9.(「風はまだ止まず」で始まる曲)


10.島の娘
11.(「君のわがままは」で始まる曲)
12.(「雨の日のグランド~」で始まる曲)
13.(「日曜はダメだよ昼まで寝てる」で始まる曲)
14.電球王国
15.キノコ
16.ナガラリバー
17.セカンドライオン(?)
18.KAPPA


19.教室
20.ブレーメン
21.夜行
22.人間の秘密
23.分かっているさ
24.スターダスト
25.夜の幸
26.悲しいのはいやだ
27.海のふた


28.あの素晴らしい愛をもう一度



原マスミは6月にも8月にもライブがあるが、今回は久しぶりの「くじら、ラブジョイ、原マスミ」の共演なので足を運ぶことにした。
以前、この3組で共演したときは、表参道のFABでのバンドライブであった。
メンバーの掛け持ちが多く、ラブジョイのbikkeは「順列組み合わせで」といったことを述べていた。
楠均と小峰公子はくじらと原マスミバンド、近藤達郎はラブジョイと原マスミバンド、松永孝義はくじらとラブジョイと、非常に効率的なステージであった。
松永孝義といえば、くじらステージでの演奏中にベースの弦が切れ(激しい曲でもないのに)、スポットを浴びながらの交換作業が印象的であった。
くじらもラブジョイもそのとき初めて観たが、演奏のでき自体は目当ての原マスミステージよりも充実していて、いつかまた観たいと思っていた(特にラブジョイ)。
今回は残念ながら、「ひとりくじら+bikke+原マスミ」のステージであるが、近藤達郎(ちなみに「たつお」と読む、司会者の「なんのこっちゃい西山」は「たつろう」と読んでいた)が出演したのは嬉しい。


今回は、「なんのこっちゃい西山」氏のプロデュースであった(一般人のようなので一応「氏」を付けておく、アーティストには敬称を付けると「バッハさん」みたいに感じられるので敬称は付けたくないのだが)。
「なんのこっちゃい西山」氏については、検索をするといろいろ出てくるので、ここではあまり掘り下げないでおく。
ただ、音楽好き(邦楽一辺倒のようである)なただの一般人であっても、情熱があれば多くの音楽ステージを提供できることを教えてくれる。
今回の企画と構成、最初の受付からの運営など、心から感謝するとともに、今後の活躍にも期待したい。
関係ないが、なんのこっちゃい西山氏は、「I'm fish」のフィッシュマンズTシャツを着ていた。


この日、チケットに通し番号は打ってあったが、来た順での整列入場であった。
道草をせずにすぐ向かえばよかったとも思ったが、悪くない席に着くことができ、楽しむことができた。
原マスミ単体ではお目にかからない観客も多かったので、くじらやラブジョイのファンも足を運んでいたのであろう。
guruguruは、本当はカレーも名物であるので、よほど注文しようかと思った。
だが、シンプルなチキンカレーなどがないので、今回は見送った。
オクラなどの野菜が入ったマサラカレーと、えびの入ったグリーンカレー、どちらも美味しそうではあった。
メニューは変わるようなので、三軒茶屋に足を運ぶ際には、カレー好きは名前を覚えておいても損はない(日高屋の3階)。


第1部は、bikkeからスタート。
bikkeという名前は、7/3のホフディランのゲストにも同じ名前が連なっているが別人である(そちらは大文字のBIKKE)。
この日、出ないほうのBIKKEは東京No.1ソウルセットのメンバーで、休止していたと思ったが、また活動しているらしい。
ラブジョイのbikkeは京都在住で、東京でのライブのときだけ上京(と書くと、京都の人に怒られるか)して活動している。
「1」よりスタート。
エレキギターのズチャーチャのアルペジオから始まる。
赤い普通のエレキだったが、以前観たときはもっと大きなボディーのエレアコだった気がしたが。
さすがに「Love」であり「Joy」である世界を創る人らしい言葉を選んでいると感じる。
残念なのはギターの華やかな倍音が子音のフォルマント成分の周波数と被っているのか、一つ一つの言葉を正確に聞き取れなかったところである。
bikkeは言葉と声に魅力があるので、ギターの音はつやを消してしまった方がよかったかもしれない。
この曲に限ったことではないが、一人で弾くせいか、後奏があまりない。
多くの曲を提供したいということの、その裏返しかもしれないとは感じたが。


「at home」は予定を変えての演奏らしい。
you tubeには確認できなかったが、ニコニコ動画でもと曲を確認できた。
本当はエレキギターよりも、アコースティックギターの方が似合う曲である。
渕上純子が作曲を担当しているらしい。
「今晩、うちの晩ごはんは何にしよう」という句の、「晩ごはん」という言葉のリフレインが印象的である。


「3」は、文語的な言葉の響きの美しさを感じさせる曲である。
「とわ(永遠?)」という言葉が何回も繰り返されていたので、同名の曲目なのかもしれない。
個人的には、楽曲としては一番気に入った曲である。
bikkeは、歌い方の部分の魅力もあるが、作り手としての能力ももっと評価されるべきであろう。


「4」は、28歳のときに作った曲とのことである。
ダウンストロークの弾きなれた演奏は、歌い込んだ長さを感じさせる。
bikkeの歌い方の魅力は、声を伸ばす部分での「息を吸い込みながら歌うかのような」リアリティを感じさせる声質である。
必然として、多くの言葉を盛り込むより、厳選した言葉を大事に、ゆったり伸ばして歌う曲の方がこのよさは生きてくる。
一方、ギターはかなり自由な演奏で、小節の枠に四角く和音を置いてはいない。
4拍目の最後の和音は枠きっちりに入らず、前倒しで次の音が入ってくることも少なくない。
双葉双一あたりも近い傾向があり、これは京都楽派の共通の傾向であるのだろうか。
思い起こせば、FABでのときも聴こえないはずの場所で聴こえない和音が鳴っている気がしたが、そのあたりは目を瞑っても構わないところではある。


予定通り、5曲目で宮武希と近藤達郎の登場となる。
近藤達郎のクラリネットが入る。
「彼岸へ(かなたへ)」の1番をbikkeが、2番と3番とを作った本人である宮武希が歌った(本人の方が少しよかった)。
高田渡の、年に一度の追悼ライブ(「生誕会」という)でもこの曲を歌っていたようだが、追悼系での演奏はこの曲ははまりすぎるぐらいである。
般若心経あたりから素材は拾ってきているようだが、こういったテーマは実はあまり世にない。
喪失の悲しみを単に繰り返す曲は、少なくはない。
だが、視点を自分の側から遥かなる高みに移し、その上で「彼岸」の相手の立場を冷静に描写する手法は、描かれた心情表現とは逆説的に聴き手の心情に強く働きかけてくる重みがある。
身近に「彼岸」の人間がいたら、おそらく何度も繰り返し聴きたくなる曲である。
宮武希の声質は、大貫妙子やあかね(パスカルズ)系の(おそらくもっと適切な人間はいるだろうが)、落ち着いたつやを消したモノトーン色彩が感じられる。
この曲の歌い方に関しては、bikkeの光と芯のある声よりも相応しい素材に感じられた。


メリー・ホプキンというイギリスの音楽家の曲のカバー(曲名も歌いだしも分からず)も、宮武希と一緒に演った。
アグネスチャンも、カバーをした曲のようである。
近藤達郎は、ハーモニカで参加する。
「ノッコン」と聴こえる気がしたサビの部分が、軽やかで古きよき時代の外国曲の作りである。
二人とも、日本語の美しい響きの部分で真価を発揮するタイプなので、思い切った邦訳を付けてもらうともっとよかったと思う。
サビで声が重なる部分以外に宮武希の声があまり聴き取れなかったのは多少残念だが、曲自体は楽しむことができた。


次の曲はラブジョイの曲で、「オレンジ」と紹介された気がした(自信はない)。
クラリネットの音は郷愁を誘い、雰囲気はある。
ギターは、これもアコギの方が合う感じで、アルペジオ主体の伴奏であった。
だが、「あの夕暮れから君に手を」の部分で、近藤達郎と声が重なるところがよい。
正直に書くと、今回一番楽しみにしていたのがbikkeで、それは前回観に行ったFABでのラブジョイの演奏がよかったことに起因する。
今回残念ながら聴けなかった「富士」などの曲で、近藤達郎などの声が被ってくる瞬間、言葉がさらにリアリティを持って体に染み込んでくるような感動があった。
近藤達郎の参加によって、多少なりともその感覚がフラッシュバックしてきたのは、やはり来た甲斐があると思った。


「マリーマリー」も外国のカバー曲で、日本語の歌詞が付いていたように記憶している。
「六曜社の珈琲店」のマスターのお気に入りを「パクって」きたとのことである。
フランスの曲だが、オールドアメリカンの空気が感じられる曲であった。
エレキギターのダウンストロークが、この曲にはよく似合う。
演奏の出来自体は、この曲が一番であったと思える。

「9」は、やはりゆったりしたラブジョイの曲。
これもゆったりした、日本的な情緒の感じられる「フォークソング」になるのであろうか。
「赤い鳥」時代のシンプルな曲、おおらかな歌詞は、現在の商業音楽からは消えて久しいが、ここにまだ残っていたと実感した。
だんだん声も本調子になってきたので、名残惜しくもう少し聴いていたいとは感じた。


第1部の個人的な感想を述べると、「ラブジョイ」が聴きたい、と強く感じた。
一番自信のあるメニューを出す調理人と一番出したいメニューを出す調理人、bikkeは後者である(原マスミは前者か)。
当然、「弾き込んだ」伴奏でないので、そこが安定感に水を注すこともある。
だが、ラブジョイのバックはbikkeの音楽への尊敬の意識が垣間見られ、技術も相当に手堅い。
普通バンドはボーカルが一番個性的であるものだが、ラブジョイは逆にボーカルが一番「普通」に見えてしまうところがある。
よくもまあここまで、替えの効かない演奏家ばかりを揃えたものだと感心する。
誤解を受けてしまいそうだが、一時期服部夏樹が原マスミのバックに加わったとき、実はとても嬉しくてしかたなかった。
これは堀越信泰のギターが物足りないということでは決してない(フトンメイキンや飛竜頭はやはり「ならでは」のよさがある)。
ほんの一時期ではあっても(結構長い代役だったが)、服部夏樹のギターの特色ある演奏が原マスミの歌のバックに加わるのが楽しみだったのである。
ラブジョイは、音楽や楽曲ということでなしに、純粋に「音」そのものがよい。
特に、服部夏樹の演奏スタイルは大きな存在感があり、近藤達郎の神経質な音のコントロールとで、ラブジョイの屋台骨を構成している。


第2部は、ひとりくじら(杉林恭雄)で、これで表参道のFABのときと同じ順番であることが確定する。
FABのときに凄かった印象があったが、やはり凄かった。
「島の娘」こそ、ppで脱力してゆったりした演奏であったが、裏声も声量があり、ギターも一点の傷もない演奏であった。
特に、裏声でも正確な音程と安定した声質を保ち、音楽を操れているところは、他に似たタイプの歌い手は見つからず、驚かされる。
ギターは普通のアコギで演奏していたイメージがあったが、エレアコでbikkeが昔弾いていたのがこんなのだったような記憶がある。
赤いシャツに赤いギターが印象的だが、昔より痩せた印象を受けた。
「木星クラブ」の歌詞カードの写真の印象だと、もっとムーンチャイルドのボーカルあたりに近い記憶があったのだが。


「11」は、ブルース的なギター演奏というのだろうか。
アカペラのように自由に歌いながら、歌のフレーズの隙間にブルース和音の細かいストロークやカッティングが入る。
これは歌とギターと両方の技量が要求され、ギターとハンドマイクといった組み合わせで聴くことは多いが、両方1人で演るのは初めてかもしれない。


「12」は、「子どもたち」がどうのこうのという歌詞だったと思うが、カッティングがシャキシャキ素晴らしい。
くじらの曲はどうも歌とギターの技術に目を取られてしまい、歌詞を聴くことを忘れてしまうところがある。
できれば、機会があれば歌詞の世界も掘り下げていきたいのだが、それは次の機会にしたい。


「13」は、「くじら」のテーマソングであろうか。
「くじら」という言葉が、歌詞の中に出てくる。
北島三郎がこぶしを込めて歌っても合ってしまいそうな、「和」を感じさせる曲調であった。
このあたりの元気な曲が、自分にとっては「くじららしく」好きである。
緻密な演奏には、七五調の整った歌詞が定型的に音符とはめられているスタイルがよく似合う。
関係ないが、歌詞に名古屋城が出てくるあたりが、その地の出身であることを感じさせる。

「電球王国」は、「王子」と「踊り子」が出てくる、物語的な曲目であった。
異国情緒のあるマイナー調のゆるやかな音楽で、最後のところはアラブかペルシャ風の旋律をファルセットの声を楽器代わりに提示しているのが印象的であった。

「キノコ」も、カッティングが見事で、よくもギター一本でここまで見事に、と感心させられる。



7/11の下北沢のleteで、「こんな感じのが延々続く」とライブの告知が入る。
7月は滅茶苦茶行きたいライブがあるのでさすがに難しいが、時間に余裕があれば足を運ぶ価値のあるライブである。
少なくとも、演奏や歌唱の実力は堪能することができるはずである。



「ナガラリバー」は、観客のコーラスが入る曲で、くじらのファンが結構、会場の中で多くの割合を占めていたことが分かる。
今までの激しめの曲とコントラストがあり、爽やかな言葉と曲調で余韻が残る。
おそらく、この日の曲の中では一番、くじらファンの中での評価が高い曲であると思われる。


その次の曲は、後で原マスミが「セカンドライオンで手を叩きすぎて大きくなった」と言っていたので、「セカンドライオン」と記してはおく。
「セカンドライオン」では、「ニューオーリンズ風」の手拍子の要求が入る。
2小節を8拍分とカウントすると、「1・2.5・4・6・7」の拍での手拍子を延々と繰り返す曲であった。

最後の「KAPPA」は、FABのときに演奏されたのを覚えている。
そのときは、演奏前に練習が入って、「カッパカッパ踊るよカッパ、靴を脱いで一緒に」の大合唱があった(というか歌わされた)。
FAB以来久々に聴いたが、こんなに凄い曲だとは覚えていなかった。
サビの部分から、もう少し牧歌的な曲と思い違いをしていたが(もっとも、後日見たyou tubeのPV動画は牧歌的だった)、ギターのストロークも半拍レベルで目まぐるしく和音が切り替わる。
また、最後の歌詞の代わりに声を楽器代わりに歌い込む部分はギターとともに力強さがあり、「ギター一本でよくぞここまで」と感じさせるものであった。


FABのときは、「次は国宝、原マスミ」との紹介があったが、今回はそれはなかった。
唯一持っている「木星クラブ」の中の曲は演奏されなかったし、ネットの動画検索でも「ナガラリバー」と「KAPPA」しか引っかからなかった。
よって、セットリストもスカスカなので、ご存知の方の知識に頼るしかないところはある。


第2部を総括すると、素晴らしい技術に圧倒されっぱなしの、濃密なステージを堪能することができたと言えよう(ギター1本とはとても思えぬ)。
このステージの後は非常にやりにくいし、1部のbikkeも「この後でなくよかった」と思っていたのではなかろうか。
やはり、競演ライブのよいところは、この刺激の与え合いであり、これがあるからミュージシャンとしての成長があった(または今後も)のだと感じさせてくれる。
原マスミとくじらは10月にも新宿ロフトのイベントで競演するようで(ラブジョイは残念ながら別の日)、バンド編成でのくじらも楽しみではある。


第3部は、原マスミステージとなる。
曲目の所感についてはいい加減書くことがなくなってきたので、「初めて今日の演奏を聴く聴衆がどのように感じるであろうか」という憶測を中心に書くことにする。
第2部で圧倒された後だが、聴き慣れた曲が予想されたので、リラックスして聴けると考えながら聴いていた。
おそらく、客席が横に伸びているためだろうが、青いgodinギターを、この日はストラップでかけ、立ち姿での演奏であった。
後でも触れる予定だが、この日の曲は弾き語りのそれだが、演奏のテンションはバンドステージのそれに近かった。


「教室」でスタート。
喉の調子も決して悪くなく、快復したかに見える。
くじらのギターほどではないが、後半の間奏に一応聴かせどころのギターソロがある。
バンド編成ではないが、「ロケンロール」で曲を終えた。
ほぼ間違いなく、前のステージの杉林恭雄の完璧なギターと歌唱に影響を受けていたと思われ、「負けないように全力で向かおう」という姿勢が強く感じられた。
曲目も、近藤達郎との共演曲以外は、かなり自信のある曲の提供に徹しようという意識が感じられた。


「さすが杉林、ギター少年」「俺がいい加減に弾くコードも、ちゃんとしてんの 昔からそうだけど」などの、杉林恭雄への賛辞から始まる。
目の前で第2部を見させられた、正直な感想だろう。
だが、さすがに国宝原マスミは、その中でもベストを尽くし、あわよくばくじらのファンを取り込んでみせようという意欲があった。
「ブレーメン」が続き、いつものバンドライブだと、そろそろライブがお開きになりそうな曲が最初から続く。
杉林恭雄と異なり、観客にコーラスをさせることはなかった。
「夜行」は、バンド編成では演奏しないので、弾き語り独自の選曲である。
正直なところ、「営業」としての選曲なら、「ピアノ」か「地と皿」あたりの方が強みがあったかもしれない。
だが、次の曲の印象を強くするためのコントラストをステージ全体で設けるならば、適切な選曲と言えよう。


「次なんでしたっけ」と裏方さんに尋ね、「人間の秘密」が演奏される。
この曲は、この日初めて原マスミを聴くくじらファンにはどのように感じられたのであろうか。
「でたらめななおまじないをこしらえて」「相手の瞳の中に映る同じ悲しみを探すから」などといった印象深い歌詞と世界観は、おそらく他流試合の中でも伝わったのではあるまいか。
聴き慣れた今でさえ、この曲の歌詞には心というか意識というか内面の深いところに働きかけてくる強い力を感じる。
突き抜けた高音の声で「ワーイ」と叫ぶ部分も、くじらにはない要素であり、中毒性のあるこうした部分が新規のファンを引き込んだ可能性はある。


明るめの曲がなかったかとのことで、いきなり「山谷ブルース」を歌い出す。
哀愁が漂いよい感じであったので、機会があれば通して聴きたい気もする。
「スターダスト」は近藤達郎のハーモニカとの演奏。
原曲よりもシンプルな和音ではあるが、近藤達郎のハーモニカの音(おそらくアドリブ)がよい具合に音を補完していた。
「僕の錬金時間」のスゥイングバージョンもおそらく近藤達郎の手によるものと思われるが、自在に音楽に様々な衣を着せ替えられる技術は素晴らしいといつも感じる。


「夜の幸」も近藤達郎との共演であり、嬉しい。
bikkeが呼んできてくれたおかげで、この日の音楽が何割か充実した効果があった。
どうもハーモニカには不向きなキーでの演奏だったような会話があったが、それを全く感じさせない見事な間奏のソロが堪能できた。
もっとも、「難しいキーを」という近藤達郎に対して、原マスミは「俺、どのキーでも大丈夫だよ」という言葉を返していた。
「カポがあるからだろう」「作った本人にこだわりがないのか」という二重の突込みを入れられる、即妙な切り返しであった。
「ギターは杉林に負けるけど」「ある日杉林が完璧なシャウトを」と、ここでも杉林恭雄に対する賛辞(と対抗意識)が見られた。
「営業」という言葉に、くじらファンを取り込もうという意図が見られた(結構原マスミはラブジョイのファンとは被っているので)。
もしかすると、8月のライブなども、くじらファンが何人か足を運んでくれるかもしれない。


「悲しいのはいやだ」は、一人に戻りウクレレでの演奏となる。
この曲も「人間の秘密」と同じように、歌詞に原マスミの人生観(人間観)が含まれているが、重みのある言葉とは逆に聴きやすい明るめの曲が当てられている。
そのため、初回聴いたときよりも何度も聴くことにより消化し、吸収できるようになるところはある。
本当は、バンドバージョンの方が主題のリフレインが多く、「ノー、ノー、ノーーー」の部分がある分じっくり味わうことができる。
だが、ウクレレのアレンジはかなり凝っていて、ウクレレで弾くための周到な準備がこの曲にはあったと思われる。
ただ、「この星が青いのは」のある3番を、この日は素っ飛ばしたのかカットしたのか、聴けなかったのは多少残念であった。


「海のふた」で、第3部終了。
3rdアルバム「夜の幸」以降で一番の大作であり、讀賣新聞の連載小説にも使われた曲であるので、他流試合の最終曲には相応しいであろう。
「海」に「ふた」という発想自体が、おそらくは初聴の聴衆にとっては新鮮であり、引き込む世界となりえたのではないか。
「おはよう、こんばんは」から延々と続く台詞と伴奏、その後の3拍子に転換してのアップテンポのギターソロとゼネラルポーズ、冒頭へのスローでの戻り。
「海のふた」は、歌詞も悪くないのだが、それだけではなく音楽の構成そのものを物語的にすることによって、大きな効果が生まれている。
それにより、入口から出口までを通り抜けた聴衆が、「一つの長い人生を通り抜けてきたかのような」錯覚を味わうことに?がるのであろう。
「おーいおーい、ヘヘっー」の部分も、「人間の秘密」同様に「杉林恭雄にないもの」の提示につながっていた、と考えられる。


第3部を総括すると、「あの第2部の後」だったこともあり、普段と比べて気合の入った演奏が見られた(遠藤賢司との共演並であろうか)。
くじらの営業力には及ばなかったかもしれないが、「人間の秘密」「海のふた」あたりの代表曲は、強く印象を残すことに成功したと言えるのではないだろうか。
あと、くじら(杉林恭雄)にはなかった長所に一つ気が付いた。
それは、「儚さ」である。
杉林恭雄の声も楽器もブレもかすれもないフェルトペンのようなしっかりとした輪郭に比べ、原マスミの声やギターには墨や絵の具のかすれのようなタッチが感じられる。
不完全な輪郭と捉えられる危険ももちろんあるが、儚い音造りの中で歌詞が幻想性を持って浮かび上がってくる効果があるように感じられた。


最後は3人と近藤達郎での演奏で、フォーククルセーダーズの曲目となる(残念ながら「帰ってきたヨッパライ」ではなかった)。
THE RAWGNS(ローガンズ)の名称のグループで、「大ちゃん(近藤達郎の愛称)も老眼だよね」という原マスミの言葉でグループ名の由来が分かる。
フォーククルセーダーズのカバーで、原マスミが「悲しくてやりきれない」という曲を演ったことがあるが、カバーの演奏の中で一番よかった。
今はなきkuukuuでの演奏であった記憶があるが、まさに声にはまった曲で「やりきれなさ」の心情が言葉の意味でない部分で聞き手に伝わるようであった。
もっとも、大晦日に再演したときには歌詞を途中で忘れ、難儀なことになってしまったが、また機会があれば聴いてみたい。


当然のように再度のアンコールがあるが、再度全員登場で、近藤達郎の「もう曲がないんです」の言葉により終了。
最後に、なんのこっちゃい西山氏の言葉と、BGMの曲目紹介でおしまい(チャボの曲が流れた)。


この日一番楽しみにしていたのはbikkeで、一番凄かったのは杉林恭雄であった。
だが、やはり個人的に一番好きなのは原マスミであるのだと、再度感じた。
この日のステージが、今後のこの日の出演者(なんのこっちゃい西山氏も含む)にとって新しいものを生み出す力となることを祈りたい。


※少し前から、コメント欄もトラックバックも開放することにしている(管理に自信がないので承認制だが)。
ラブジョイもくじらもスカスカのセットリストなので(歌詞の聞き取りすら怪しい)、ご存知の方がいらっしゃればお知恵を拝借したいと思う。
どうぞ、よろしく。

今回は、あまりよい内容の記事ではない。
三軒茶屋の原マスミのライブは、7月に上げることにした。


「工事中につきしばらく休業」の張り紙からしばらく、「6/28オープン」の看板と、店の明かりが1週間前ぐらいから点った。
この店がなくなると本当に困ったので、ひとまずオープンするということはホッとした。
元が安すぎたのだから、味が変わらないのなら少しぐらい高くなっても構わないと思っていた。
とりあえず、6/28のランチタイムは足を運ぼうと決めていた。


そして当日、昼時に向かうと、大勢の人がランチタイムに足を運んでいた。
この地域にはあまりいないはずの、現地の人たちも多く客として出向いていた。
店の中は、本当に工事をしたのかと思うくらい、前と変わりがなかった。
初期の頃の高校生のアルバイトの子が書いた、星がキラキラした張り紙メニューも残っている。
いつもマスター一人で切り盛りしていたはずの厨房は、4~5人で動かしていた。
だが、一番驚いたこと、それはいつものマスターがいなかったことである。


見慣れた客も多く、厨房の中にもいつもマスターと話をしていた若い男性もいた。
だが、この店の最大の魅力であったマスターが、(この日たまたまだと思いたいが)そこに存在しなかった。


ランチメニューは、全く変わっていた。
今までの、A~Dセットはなくなり、「野菜、チキン、マトン、ビーフ」のカレーから選ぶものだった。
ライス、ナン、サラダ、ドリンクは付いていて、実際「野菜カレー」なら、前のセットよりも安くはあった。
だが、チキンティッカ、シシカバブーの美味しかったセットはなくなり、タンドリーチキンが単品で追加できるだけであった。
個人的には、この店のランチで一番美味しいと感じていたキーマカレーはなかった。


混雑のことを差し引くべきかもしれないが、注文を取るウエイトレスはだいぶ混乱していた。
混雑といっても6組程度の客であるので、注文票にテーブル番号を打っておけばよいだけなのだが、違うテーブルに違う料理を何度も持っていった。
食後にいつも出てくるドリンクが最初に出てきたり、最後の最後になってもなかなか出てこなかったりした。
会計の際も、注文票を紛失し手で打ち直し、何のための紙かも分からなくなっていた。
厨房も人数こそ多いが、ほとんどは皿ばかり洗っていて、料理が出てくるのは以前より遅いぐらいであった。


ナンの味は、明らかに違った。
いつも力強く目の前で焼いているナンは焼き立てで温かく、香ばしい火の通りも感じられた。
一緒にいつもこの店に行くもう一人のファンは、「他の店のナンと明らかに違う」と主張していた。
今回のナンはバターか何かが塗られているが、あまり焼きたてのナンの雰囲気を感じられなかった。
柔らかみこそあるものの、パリッとしたものがなかった。


カレーの味は、まあ前の味に近かった気がする。
先月行っていないので自信は持てないが、こんなもんだったかもしれない。
だが、これは意見が一致したが、カレーがあっという間に食べ終わってしまった感はあった。
いつも、Dセットを頼んでいたせいかもしれないが、物足りなさは若干感じた。
肉は前の方が柔らかかった気もしたが、こんなもんだという声もあった。


サラダのドレッシングは気持ちかかっているだけで、中は野菜だけだった。
コップの内側に、前のドリンクの色が残っていたのも「混乱」のためか。
ライスは黄色くなく、白かった。
前はライスを食していると、色素の元になっている実がたまに現れ、感心したものであったが。
ラッシーは冷え方が足りないだけで、味はさほど変わらず。
チャイはスパイスが多くなり、ミルクはあまり入っていなかった。


タンドリーチキンは、ランチに頼めるか分からなかったので、今回は頼まなかった。
だが、この店でいつも幸せを味わっていたチキンティッカやシシカバブーは、メニューにすらなかった。


「今回は様子見」と思いたい。
だが、昔来たときにこのような店なら、毎月通ったりはしなかった。
クリスマスも別な祝いの日も、この店でディナーを注文していた人間としては、たまらなく悲しいものがある。


この店の最大の魅力、それは背も高くない人のよさそうなマスターの存在であった。
子どもが見ていれば目の前でナンを焼いたり、サービスと称して1品も2品もおまけで付いてきたりしたこともあった。
そんな見た目で、東京のどこの店にも負けないような値段と味のインド料理を提供してくれた、本当に素晴らしい店だった。
少なくともオープンの日には、このマスターはおらず、全く別の店であった。
体調を崩したのだろうか、国に帰ったのであろうか、別の地で店を開いたのであろうか、不安は尽きない。


一応、救いとしては、帰りの際に「店の許可証」が見られたことである。
名前を知らないので本人かどうかは分からないが、役所の許可を取った年月日はマスターのものだと考えると丁度合う。
他の人間が店を切り盛りしていても、「店の許可証」がマスターのものなら帰ってくる可能性があるし、義務もある。


店の名誉のために言っておくと、この店は値段も安く良心的で、スタッフも一生懸命である。
機会があれば、足を運んでもらっても決して悪い店ではない(オープンの日の手際は悪かったが)。
だが、過去のよい思い出が山のようにあるので、個人的に心境は複雑である。
また、あの日の、あの味を口に含む喜びをかみしめたいと思う。