漁港バンドライブ/三番瀬フェスタ09『船橋港まつり』(09/10/10)

漁港(「港」は反転文字)http://www.gyoko.com/


1.鰹 出港街道
2.鯰 日本列島大震災20XX年
3.鰤 漁船の休息
4.鮪 マグロ節
5.あの海へ
6.鮪 スペースコロニー脳天頬肉


今月は仕事が一杯いっぱいにも拘らず、貴重な休みはライブに足を運んでばかりである。
毎日、一本ずつ記事を上げないとレポが追いつかないが、時間のかかるレポがいくつかある。
とりあえず、後先になってしまうが、短めで済みそうなものを先に上げるとする。


入場が無料のイベントライブであるが、「漁港」というバンドは一度も聴いたことがなかった。
その1週間前(10月3日)に新宿で「マキタ学級大文化祭2009秋」というイベントがあり、ホフディランや曽我部恵一などが出演していた。
双葉双一、原マスミと3日連続になるのでさすがに止めておいたが、参加した人間によれば、なかなか充実したイベントであったらしい。
音楽ではないが、井上マーという芸人が、オンエアバトルでは封印している尾崎豊ネタの芸を披露したのは、一番見る価値があったとのことである。
OTODAMAではあまりよく聴き取れなかった大槻ケンジの曲の歌詞が、この企画ではよく聴き取ることができたとのことでもある。
この「マキタ学級大文化祭2009秋」のイベントで、冒頭で演奏していたのが(会場は2会場であったが)「漁港」であった。
「蛸 オクトパドンVS地球防衛船 第三泉銀丸」という曲がなかなか面白かったらしく、最後にはマグロの解体ショーを演奏しながら行い、前方の観客に振舞っていたらしい。
1週間後に地元で観られるということで、せっかくなので潮風を浴びに行くことにした。


正直なところ、個人的にアングラ音楽は好きでよく聴きに行くが、パフォーマンス重視のバンドライブはあまり行く機会がない。
MCや進行にどこかグタグタ感がある方が、どことなく落ち着くところがある。
自分が比較的最近観たパフォーマンス重視なバンドは、石川浩司生誕祭のときのバイナリキッドぐらいであろうか。


以下、簡単に箇条書きで。


・音楽、パフォーマンスは公式ホームページから想像が付き、大体そのような感じである。
・楽器は演奏せず、打ち込みでの演奏である。メインの二人は歌や動きに徹し、「見習い」の一人が機械の操作を兼ねて忙しい。
・「鯰 日本列島大震災20XX年」は、面白い曲であった。少し硬派な曲の後で、体を張ったナマズの動きがコントラストを与え、楽しむことができた。
・「鰤 漁船の休息」は、「ヤングマン」のような、会場の観客にも動きを求める曲であった(ほとんどそれに尽きる)。
・「鮪 マグロ節」は、北島三郎的なデビューシングル曲であり、カラオケにも入っているところが多い。おそらく、一番「らしい」曲であろう。
・トークライブでは何度か演奏したという新曲「あの海へ」は、一番よかった。「いつか帰る」ところは、原マスミであれば「空」だが、漁港では「海」になるようだ。三番ヶ瀬という残された貴重な自然に対し、漁業権を先代で手放してしまった浦安の魚屋という視点から、MCで強く守っていくべき姿勢を示していた。ネタ曲も多いと思われるバンドではあるが、この曲のこの世界観だけは真の想いであることであろう。
・最後は、通常通り解体ショーであった。残念ながら「保冷」の関係で配布はなかったが、手馴れた包丁捌きは堪能することができた。
・なお、このバンドは意外にもメジャーレーベルである(ユニバーサル)。ゼネラリストとしての平均点が高いマイナーレーベルのバンドは多いが、この辺りがスペシャリストの強みか。もちろん、メジャーであろうとマイナーであろうと、音楽そのものに優劣はなく、個人的にはマイナーレーベルのものを聴くことは多い。だが、職人としてスペシャリストに徹することの一つの可能性について考えさせられる事例ではある。


帰りに一枚CD(DVD付き)を買い、テント内の物産をいくつか購入した。
残念ながらシラスご飯は売切れてしまったので、来年来ることがあれば今度は食してみたいと思う。
帰りは漁港のリーダー自らが車を運転し、去っていくのを見かけた。
浦安の店に戻り、次の仕事が待っていたのであろうか。
今後も、この独自のスタンスで頑張ってほしいものではある。


以下、今月のライブレポアップ予定リスト。
・原マスミバンドライブ
・サードクラスワンマン
・柳原陽一郎JIROKICHI
・柳原陽一郎神楽坂GALON
・双葉双一ヴィオロン
・小島麻由美インストア

「手に捧げる歌」発売記念ワンマンライブ~ヨイトマケの唄を歌う~/高円寺U.F.O.クラブ(09/10/01)
出演:双葉双一


1.手に捧げる歌
2.瞬き分の夜
3.インベッド
4.岬の上
5.隣人
6.田園交響曲
7.タワーホテル
8.家の中で花火
9.覚醒の歌
10.ウルスリ


11.ピクニック
12.人生やってこい(完全版)
13.ママレードパイのかわいい食事
14.旅に出なさい
15.KBM
16.インザナイトマイフェスティバル


17.もう少し歌うから
18.ハッピーエンド


最初に断っておくと、いわゆる三輪明宏や米良美一、槙原敬之などで有名な「ヨイトマケ」は歌っていない。
14曲目のタイトルが分からないが、これがその曲名でなかったとしたら、「ヨイトマケ」というのはこの日の歌う精神そのものの象徴化であり、「ヨイトマケ」そのものではない。


UFOクラブは、7月にジョンソンtsuの3daysの3日目でも使われ、余裕が当時あれば3日とも行っていたが、残念ながら国立地球屋しかいけなかった。
そのため、店名だけは知っていたが、今回が最初の来訪であった。
ホームページを見ても、場所がよく分からなかったが、検索で別のページで場所を何とか確認した。
実際行ってみると、JIROKICHIや稲生座と比べて遥かに時間を要するが、一度行けば分かりやすいところではある(大きな街道の十字路のファミリーマートの下)。
入場時に、特典CDRは貰えなかった。
遅れて、CD販売人が到着したので、会場時に入場した何人かはCDRを手にしていない可能性がある。
店内は(多分)25席ぐらいであるが、奇妙な並びであった。
ソファ7席は特等席。
それ以外は会場の周囲に丸椅子や低い椅子などが並べられ、カウンターも6席ぐらい高い椅子があった。
ただ舞台の前は何も並んでいないため、そこに客が立って観たり、しゃがんで観たりと、野外フェスティバルのような光景であった。
最初のうちは立っていた観客も多かったが、途中からは体育座りをしたファンが義務教育の学校集会のように並んでいた。
写真コンテストの期限も近くなってきたので、カメラ持参の観客も目立った。


舞台のカーテンがサッと開き、ステージが登場する。
少し遅れて双葉双一が登場するが、この日の服装はいつも通り黒で、中のシャツだけが赤の柄物であった。
UFOクラブの壁と天井が赤と黒の奇妙な柄なので、会場の色調には溶け込んでいた。


予想どおりに、「手に捧げる歌」でスタートする。
ボーカルとギターマイクの音質が気になったが、途中からよくなった。
かなり高い位置のカポタストなので、響きはやはり調整しておきたい。
演奏しながら音の修正をしていく、おおらかなライブハウスなのかもしれない。


「瞬き分の夜」は、普段と少し違う演奏スタイルに感じた。
ちなみに、京都「拾得」のときとは異なり、12弦ギターではなかった。
この曲は「タワーホテル組曲」の一曲でもあるので、歴史の長い曲ではある。
どちらかと言えば、弾き慣れている分、細かいところの弾き方や歌い方を「観客にどのように聴こえるか」を意識して演奏でき、それが伝わることが多かった。
だが、この日は声を出すべきところは抑えずに出し切っていた。
観客を意識せず、歌を流すことなく、観客の向こう側にある何か別の対象に強く訴えかけるかのような歌い方であった。
全体的に、この日は歌い方に力強さが見られ、歌い込んできたという跡が感じられた。


「インベッド」は、「10枚に1枚の割合で入っています」とのことだった。
自分の買った最新アルバムには、残念ながら入っていなかった。
ダウンストロークの伴奏で、静かな夜らしい曲であった。
アルバムの曲は全体的にテンポのある曲なので、このような曲が挟まると一息つけるところはある。
何度か聴けば、曲の感想もいろいろ書けると思う。


「岬の上」も、「瞬き分の夜」と同様の力のこもった演奏であった。
ff主体の歌い方のため、力の抜くところとのバランスの問題があるのかもしれないが、この曲に関しては気にならなかった。
メロディアスな旋律と「サスペンス」で重い歌詞、背景の場面の映像描写が絡み合い、ありそうで実は今までなかった世界を構築している。
もし、メジャー系でシングルカット発売するとしたら、このアルバムだとこの曲になりそうである。
耳当たりのよさに関しては、最近の曲の中では群を抜いている。


「隣人」は、アルバムでは2曲目だが、本日の演奏はこの位置に置かれた。
代官山のときと同じくスリーフィンガーの演奏で、やはりこのバージョンの方がよい。
この曲は、自分の周りではこのアルバムで一番評判がよい。
いてほしい存在かは別として、本当にどこかにある一場面として映像が写実的に浮かび上がってくる。
曲調も歌詞に合っていて、決して晴れることのない「私」の心象を見事にマッチさせている。
この日の演奏に戻るが、弾き初めでは背中を向けて、後ろの方に下がってしまっていたが、前を向きマイクに近づき歌い始めた。
それは、まるでこの歌の「隣人」が望みもしないのにそっと近づいてくる様子にも感じられた。
後奏の長い曲が多い双葉双一作品にしては、異様なほどあっさりと終わる。
そのあたりも、「隣人」に対して少しでも長く関わっていたくない思いが表現されているのかもしれない。


牧歌的な曲、とのことで「田園交響曲」だが、この曲も今回のアルバムからは漏れた。
本人の満足いく録音が録れるかは別として、却下された曲だけでもう一つか二つはアルバムを作ることができるだけのストックはある。
そのため、「女・子どもには売れない」という今回のアルバムは、あえてそうしたコンセプトの曲を中心に統一したのではないだろうか。
そして、アルバムタイトルは、その精神の極みである「手に捧げる歌」、そのように決定されたのではないかと感じられる。
「田園交響曲」は、古きよき時代の記号的な田舎の風景が描写され、亡き妻への追憶が同時に表現されているように取れる。
個人的には、一つのアルバムに多方面の曲が入っているのも面白いと考えるが、今後何枚も新作をリリースしていくに当たっては、アルバムごとの特色を出したいとも考えたのかもしれない。
おそらく、それこそが数年間リリースを見送り、ストックをためにためまくった主因なのではあるまいか。


「タワーホテル」は、予想外にこの日聴くことができた。
人気は高いが、定番曲というわけではないので、いつも聴けるわけではない。
また、「ウルスリ」「インザナイトマイフェスティバル」を「必ず」演奏する企画の日であったため、この種の歌は持ってきにくいかもと思われた。
特に、一番演奏する可能性が高かった代官山でのライブで演奏しなかったので、聴けたのは純粋に嬉しい。
この日は、心持ち少し速めのテンポであった。
言葉が多く詰まっている部分が何箇所かあるので、そこを丁寧にするならテンポはもう少し抑えた方が楽ではある。
だが、間延びを嫌ったのか、時間が押していたのか、速いテンポに聴こえていたが、それでもやはり壮大で長い。
この日の演奏とは全く関係がないが、個人的に「拾得」に行って一番よかったと思ったのが本物の「タワーホテル」を見られたところである。
ホテルには泊まらず(意外と安かったが)、展望台に続くエレベーターすら乗らなかったが、この場所のこの世界がこの歌を生んだのかと、曲を聴きながらリアリティを持ってイメージが広がってくるところがある。
修学旅行に行く際は、寺などに行かなくても、タワーホテルにだけは足を運んでおきたい。


「家の中で花火」は、大阪「ムジカジャポニカ」で既に「四尺玉」と「還暦スターマイン」を同時に打ち上げてしまったようなものなので、尺玉ぐらいではもう驚かなくなってしまってはいる。
この日の工夫としては、高速ストロークでギターを弾いた後ritをかけ、テンポをこの曲まで落として前奏にスムーズに移ったところであろうか。
アルバムの中で、一番広い層から受け入れられやすい歌詞なので、おそらく今後も長く弾き続けられる曲であるだろう。


「覚醒の歌」は、「束の間の二日間」的な双葉双一の得意な型のストロークである。
正直、この曲だけはまだあまり掘り下げて検討していない。
いずれ、詳しく述べてみたい。


「ウルスリ」で、第1部終了。
ギターのダイナミックレンジが、普段より大きい。
具体的には歌詞は抑え気味で唱えながらも、伴奏の音だけどんどん大きくしていっていた。
演奏よりギターマイクのコントロールの要因が大きいのかもしれないが、「ギターは歌に同調させる」というのではなく「別の生き物として生動させる」意図がこの日全体に感じられた。
「ウルスリ」の出来は、この日もよい。
おそらく、何よりも言葉を大切にする表現者にとって、この形式の発語は一番合っている。


第2部は「盛り上げていくよ」とのことで、定番曲となった「ピクニック」からスタートする。
さすがに、連日の演奏のためかギターのストロークがスムーズである。
歌のテンポにギターを同調させるのではなく、歌の根底のラインで自然に流れているので、今までで一番聴きやすかった。
最後の「ブログに載せよう」のいつもの台詞の後に、「ブログを止めよう」といった台詞が入り演奏が終わる。
実は、この前日、ブログ休止のおしらせが告知され、再開の予定もないことが記されていた。
TWITTER的な短い語りであればともかく、ブログ自体にも表現のこだわりを持つと負担は大きい。
おそらく、一番負担の大きいと思われるブログはジョンソンtsuのブログだと思われるが、これはいつ読んでも素晴らしい。
ロシア語との対訳、一つの記事自体が次の記事への伏線になっている緻密さ、「引用箇所」すらも創作対象とする(いわゆる「民明書房」型)労力と、全てがニッチな方向に突き進んでいる。
ここまで才能を無駄遣いする姿勢については、心底から感銘を受け、言葉にならない高揚感を覚える。
まさに、コメントを入れるのも憚られるほどの完成された世界であり(個人的には片岡編が一番好みではある)、宇宙の神秘すら感じる。
双葉ブログも、一時期相当な労力を割いているように思えた。
一番好きだったのは年明け頃の内容だが、ファン的には一番情報としては役に立たない(だからこそ面白かった)記事であった。
おそらく(たいへん「おそらく」の多いブログである)、休止したブログは、発表を休止していた数年間のブランクを乗り越え、新作をリリースしていくまでの思いとプロセスを、何よりも自分自身に提示し壁を乗り越えようとしていた記録だったのではないだろうか。
それだからこそ、円形の一つの結晶として作品が仕上がった今、そのままの形で継続させることに、時間的にも目的的にも疑問を挟む心境が生まれてきたのではなかろうか。
本人は、理由については何も語らず、結果のみを示している。
だが、関心とエネルギーを普及・宣伝面に向けるのではなく、真の創作面に当てるのであれば、おそらく第2第3の結晶が生まれる日も遠くないように思える。


「人生やってこい」も、「ピクニック」と同じ役回りを担う曲であり、歴史も長い。
突っ込みどころが多いだけでなく、関西方言の多用が、普段の演奏とのギャップを生み出し、何度演奏されても涸れることのない反響につながっているのであろう。
この日は言い回しに少し工夫を凝らそうという意図が見られたが、これは難しいところである。
下手に工夫した言い方にせずに、今のままの言い方の方が曲の真意は伝わりやすいかもしれない。
この日も、やはり反応自体はよかった。


「ママレードパイのかわいい食事」は、生では初めて聴く。
ははの気まぐれとの共演アルバムは聴いたが、スッと聴ける分、消化の早さも感じた。
双葉双一の魅力の一つに「消化の悪さ」があり、口の中や胃の中に言葉が留まり残っている感覚がある。
差し詰め、「誰のためのお客さん さて君は?」あたりが最も消化の悪い曲であろうが、定型句に流行の旋律を当てる大衆歌に慣れてしまった現代人の耳には、曲調のスタイルに関わらず新鮮に映るはずである。
根拠はないが、生楽器で歌った方が、この「消化の悪さ」は損なわれない気がする。
CDで特急のように過ぎ去ってしまった曲の印象が、この日は緩行列車の動きのように、一つ一つ見えた。


「いいかげん、新曲を」と、おそらく新曲と思われる曲を演奏した。
旅に出なさい」は、個人的には一番この日印象に残った。
まさか、これが「ヨイトマケの歌」ではなかろう(違うこともようやく判明)。
「買ったばかりの真っ白い靴を泥だらけにして自分の元にやってきた子どもを、思わず叱ってしまうか抱きしめて上げられるか」という1番。
「月の光に照らされたせっかくの雨のしずくが、薔薇の花の上でなく自転車のサドルやビニール傘の上で消えていることを知っているか」という2番。
「世界三大祭りの一つ、ラフォーレのバーゲン」の3番や「スケッチでシンプルなおにぎりを貰える旅に出なさい」という4番があるが、テーマは共通している。
表面的に美しいものばかりに人は目がいきがちであるが、実は人が気が付きにくいところに美しいものや大切なものが隠されている、そんなテーマではなかろうか。
買ったばかりの白い靴は表面的には美しいが、それよりも母親に対する愛情を無性に走り近づくという精一杯の表現で示す子どもの健気な心、こちらの方がかけがえのないものであると指摘している。
美しい言葉を選び、美しい映像が浮かび上がる中、込められたメッセージは強い。
新曲か旧作かも分からないが、もし新曲であるとしたら、次の方向性もここにあるのではないか。
デグジュペリではないが、「大切なものは目には見えない」。
「誰にも発見されなかった美しい雨のしずく」は、おそらく双葉双一自身が投影された対象であろう。
一歩間違えば、双葉双一自身も人々から正当な評価を受けることなく、何らかの(社会的、経済的などもろもろの)理由で表現活動を終了する危険さえあったかもしれない。
そういった思いがどこかにあったからこそ、人々が目にも留めないものの美しさや大切さなどを、一つ一つ地面の下から原石として掘り出し、磨き上げていこうとしたのではないか。
ギターの演奏は、当然弾き込まれた楽曲ほど滑らかではない。
しかし、そんなものはこれから弾き込めばどうにでもなっていく。
この曲は、ファンの従来の双葉双一像からも遠くなく、新しい双葉双一の姿勢とこれまでの実績にもずれていない、集大成とも取れる。
タイトルが分からないことだけは残念だが(「旅に出なさい」と判明)、この曲が聴けたのは大いなる収穫ではあった。


終演も近づき、「KBM」はレベルの高い演奏であった。
「ウルスリ」とこの曲あたりは、だいたいいつも演奏が安定している。
カセットテープにこの二曲を収録した時点で、もしかするとある程度弾き込まれ、演奏法も確立していたのかもしれない。


「インザナイトマイフェスティバル」は、普段と異なるギターストロークが用いられていた。
普段はもっとゆったりした印象があり、壮大な曲ではあるが、カウチに腰を沈めて楽に聴ける風情があった。
だが、この日は4分音符1拍と16部音符×4が1拍分のリズム(「ジャンンン、ジャカジャカ」の繰り返し)のパターンが続き、力強さと切迫感があった。
弁論台の上の弁士の演説的な緊迫感が、始終保たれた演奏であった。
幕は閉じず、いったん退場し、本編終了。


「みんな今日はよく来てくれたね」と、双葉双一再登場。
アンコールは二曲あったが、どちらも聴いたことのない曲であった。


「もう少し歌うから」は、過去のブログを見ると「あと少し歌うから」と表記されている記事もあり、とりあえず歌い出しと同じ前者で統一する。
昨年の12月に、新宿紅布と大阪ムジカジャポニカで演奏した記録が見られる。
この日のリストを考えると、清々しいほどに素直な歌である。
「もう少し歌うからもう少しいてくれよ」「お尻を椅子に付けて~」という歌詞の世界は、歌い手の聴き手に対するメッセージである。
それが、もともとは特定の個に向けられたものであったにしても、結果としてこれを聴く聴衆は自分たちに振り向けられているメッセージだと感じることができる。
アンコールの定番曲として本来重宝されうる便利な曲であるはずだが、1年近く封印していたようである(セットリストのない日に演奏されていたのかもしれないが)。
確かに楽屋を見せない双葉双一にしては素直過ぎる歌詞で、「お嬢さん~」の世界とも「手に捧げる~」の世界とも距離がある。
今後のこの曲の扱われ方については、見守っていきたい。


「ハッピーエンド」は、おそらく新曲である。
ちなみに、歌詞の内容自体は「KBM(こんなバカ騒ぎを待っていた)」に近い。
「バカ騒ぎ」が何を表していたのかは分からないが、共通点としては「女性が相手に振られて、自分の元に戻ってくる」ことに期待と実現、といったところであろうか。
「KBM」との違いは、「KBM」が具体描写を差し控え聴き手の想像力に任せているのに対し、「ハッピーエンド」については具体的な行動が明らかになっているところである。
「振られるのが分かっていた」理由が、「自分が相手に写真(だったと思う)を送りつける」といった行動を取ったため、としている。
「下心」と一言でまとめてしまっている動機に、今まであえて歌詞世界で表現していなかった「狡猾さ」を持ち込もうとしている。
「ハッピーエンド」というタイトルもアイロニカルであり、誰にとっての「ハッピーエンド」かを考えると(本当に「エンド」なのかも含めて)、聴き手に問題を提起しているように思える。、
ただ、曲は聴きやすく、純粋に恋心を特定の対象に向けたラブソングであるのは間違いない。
だが、夢だけを与えるのではなく、現実の決して美しくはない部分も表現しようとする姿勢に、初期の代表曲との相違が感じられる。


この日の演奏を総括すると、いわゆる「レコ発ライブ」ではあるのだが、双葉双一本人の意識の中ではこのアルバムは既に通過点として認識されていて、新しい境地に既に目を向けている、そう感じさせるようなライブであった。
アルバム曲に対しても、演奏面で様々な冒険や挑戦が見られた。
また、新曲と思われる曲に至っては、表現自体が目的ではなく真に伝えたいことの伝達手段として機能していた。
おそらく、アルバムで多方面にわたる「習作」を行ったことで、その手法を用いていくべき表現対象を少しずつ見出していったのではなかろうか。


本当は、双葉双一の演奏は、客的にはムジカジャポニカ、会場様式的にはヴィオロンがよく似合う。
開演前や休憩中のBGMにはこだわりを感じるライブハウスではあるが、UFOに乗り飛び回るには双葉双一の歌詞には重力がありすぎる。
ただ、12月にもここでワンマンがあるらしい。


大阪にも代官山にも京都にもいたCD販売人が、この日もいた。
入場時にはもらえなかった特典CDRを貰い、会場を後にした。
なお、アンケートも配っていたようだが、何故か自分が貰った紙の束の中にはなかった。
ウルスリの山羊にでも、食べられてしまったのであろう。


帰宅後、CDRを聴き驚かされたが、CDR配布イベントがまだ西で残っている。
もしこちらについて書くなら、そのイベントが終わってから(多分ヴィオロンレポあたりで)にしたい。

知久寿焼カンボジア角蝉おみやげ話の会/阿佐ヶ谷夜の喫茶店「よるのひるね」(09/09/25)


1.あるぴの
2.ねむれないサメ
3.らんちう
4.月がみてた
5.いなくていい人
6.いわしのこもりうた


この日は、ライブの番外編である。
もともと、角蝉(ツノゼミ)の観察をカンボジアで行ったときの映像を映し、時間が余れば歌を歌う企画であった。
定員は25人で、それでもいっぱいいっぱいの狭い会場であった。
すぐに定員になってしまったので、興味がありながらも多くが参加できなかったと思われる。


「よるのひるね」という店だが、14:30開場、15:00開演。
仕事は翌日と入れ替え、昼の阿佐ヶ谷に向かう。
阿佐ヶ谷と言えば、名曲喫茶「ヴィオロン」以来だが、その隣の「ピッキーヌ」というタイ料理屋が気になったので、ランチに入った。
800円で、麺ものの料理ともう一品(カレーや大根餅やおこわなど)、デザートで、量は結構多い。
そのためか、女性の団体客だけでなく、男性の一人客も多かった。
ちなみに、後で調べて知ったが、「ヴィオロン」と経営が一緒らしく、確かに建物も外から見ると繋がって見える。
一番のお勧めは「カウソイ」であり、あまり他のタイ料理屋では見かけない。
上に堅焼きそばがレモンと一緒に乗っているが、底に箸を沈めると、何とカレー味のスープにヌードル(小麦系?)が沈んでいる。
かなり凝った料理であり、これといって目的の麺系の料理がない場合、こちらがお勧めである。
ライス系のヌードルがよければ、「ヘンムーサップ」あたりが無難である。
「大根餅」は、白と緑と2色の餅が交互に並び、見た目にも美しい。
逆に、「グリーンカレー」は、具材が崩れるまでじっくり煮込んだ手料理仕様。
辛さは後から来る系であるが、じっくり煮込んだ分具材に味が染み透っている(具材での辛さの息抜きはできない)。
あまり似たタイプのカレーを出す店は思い当たらない。
「マンゴ入り仙草ゼリー(だと思う)」が、自動的にセットで付いてくる。
甘くないデザート好きには、ちょうどよいであろう。
15年ぶりに復活したメニューもある伝統のある店だが、改装されているようで小ぎれいである。
10月末にはヴィオロンに行くので、次は、カレーの代わりに気になったおこわをセットにしてみたい。


開場時間近くに「よるのひるね」に戻ると、店の前には列ができていた。
定刻になると開場、店の中にはサブカル系の書籍が本棚などに並べられ(積まれ?)ていた。
おそらく、同じテーマで老学者が講演を行ったら客層はがらりと変わると思われるが、女性客が大半であった(おそらくツノゼミ同好の男性招待客もいたにはいた)。
椅子によってはお尻が痛くなりそうな低くて硬いものもあり、目黒美術館での「原マスミ大全集」コンサートを思い出させる。
場内は、前方の白い壁(何もポスターが貼られていない部分が少しある)に、ハンディビデオとつないだ機器を操作して解説が行われる形式であった。
小さな会場であったが、一応マイクもあり、前半はあらかじめつなぎ合わせていたビデオ映像を流しっぱなしにして、マイクで解説が入った。
以下、思い出せる限りの前半の内容。
・力の強い蟻と共生の関係にあり、蟻は角蝉から水分を補給し、角蝉は他の外敵から身を守られるようになっている。
・角蝉の脱皮や産卵などの映像の一部始終。成功例、失敗例とも。20分ぐらいの脱皮場面をノーカットで見る機会はあまりないと思われる。
・なぜカンボジアに来たのかの理由。新種の角蝉がカンボジアにいる、と聞いて実際に探しに行ったら普通にいて、別の角蝉もいろいろ観察できたため、といったことを映像解説の中で述べていた。
・いろいろな種類の角蝉の名前と特徴、観察以外で出会った別の生き物(カエルなど)も適時紹介。
他にも、いろいろ話していた気がするが、角蝉への強い思い入れと、貴重な場面の観察に対する誰にも負けない執念を、映像の中から読み取ることができた。
見ている人間にとっては十数分で消化できてしまう映像も、おそらくNHKなどであれば何人ものスタッフが何ヶ月もの期間をかけて取材しなければ得られないものであろう。
それを単身、一月半の期間で完成させてしまうところに、やはり意志と行動力の強さが感じられる。


編集映像の最後まで解説しそうな勢いであったが、店のスタッフに「そろそろ休憩を」との依頼が入り中断。
「歌う機会がなさそうなので」とのことで、後半はウクレレとギターでまず一曲ずつ歌った。
小さな角蝉に通ずる「あるぴの」は、ウクレレで弾かれた。
「ねむれないサメ」か「らんちう」かどちらにしようかということで、客席から前者に一票入り、そちらの演奏となる。
本人は、以前から公言しているように「らんちう」が一番のお気に入りで、家で練習をするときにも時間を一番かけるらしい。
ただ、「必ずやる曲」であるので、リクエストでは「是非」という声は上がりにくい。
だが、良くも悪くも「完成された曲、演奏」であるので、安定した演奏をいつでも味わうことができる。
ちなみに、後半は歌も解説もマイクなしで行う、いわゆる生歌ライブであった。
年末のビストロサンジャック(西荻窪)以来だと思うが、一流のPAを使うのとはまた違う、楽器や声の素材のよさが伝わりやすいステージで貴重である。
後半の解説は、前半の残りを多少端折って、早回しも用いながら解説した。
それでもなお、「まだ半分ある」とのことで、遅い終演(一応19時から一般営業と記載はあった)が予想された。
「ホテルでの観察中BGMで聴こえる下手な草笛」「現地の少年の笑顔」「スコール前の一瞬変わる空気」など、ここで紹介しても、実際に見ないとなかなか伝わらないものも多かった。
角蝉に全く興味がなければおそらく「おなかいっぱい」で飽きが来るほどの充実した映像だったが、場面も多様で実際に観察した経験からの解説だったため、不思議と時間も短く感じられた。
最後に、角蝉の脱皮の場面をノーカットで映写しながら、生演奏となる。
やはり、「らんちう」の演奏となった。
当然、この曲では映像は終わらず、もう一曲「月がみてた」が弾かれる。
衛星放送の「熱中時間」で、最後BGMに流れていたのもこの曲であった。
この日も同じように終わるのかと思っているとアクシデントが起きた。
ACアダプターから外れていたため、曲の途中で映像が消えてしまったのである。
つなぎなおし、場面も同じところに戻し、演奏を無事終えたが、まだ脱皮しない。
客席からリクエストが入り、「いなくていい人」。
最後に、「いわしのこもりうた(だったように記憶している)」の演奏で、無事角蝉が一人前の姿となり、ステージ終了。


「小さな楽器が好き」と公言し、決して音の大きくない楽器の集まりのパスカルズにも所属する。
そんな知久寿焼の志向性の極みが、この日のこのステージで見られた気がした。
おそらくは、人の見落としてしまう、いや見ようともしない小さなものにも、価値があり存在の証明を常に示していることを、(言葉には示さないが)訴えたいのではないだろうか。
実は、本人の身体はイメージから受けるほど小さいわけではない(サードクラスがバックのときつくづく感じる)。
それでも、「小さきもの」に対する共感、同化といった意識は、表現や活動の根底を支えているものと思われる。
そうした「見えない小さな部分」に光を当て世界を創り出す姿勢が、他にない貴重な表現者としての共感を聴き手に与えているのではないだろうか。
人間は、決して全ての要素において「大きな存在」ではない。
知久寿焼の世界では、小さく弱いものに光を当てることはあっても、決して見下げたり卑下したりするようなところはない。
単なる作り話ではなく、奇妙なリアリティを持たせつつも、この姿勢だけは一貫しているところが、新作曲を量産しなくても評価を受け続けている所以ではなかろうか。


会場の別世界から扉の外へ抜けると、18時過ぎの光に外は支配され、「よるのひるね」に相応しい空気が待っていた。
だが、それでも15時からの3時間は、昼に過ごす「よるのひるね」的な時間が流れていたように思う。

谷山浩子・猫森集会Bプログラム~柳原陽一郎氏の奇妙な散歩/新宿全労済ホール・スペースゼロ(09/09/19)
谷山浩子+柳原陽一郎+石井AQ(シンセ)


1.さかなの言葉
2.夢のスープ
3.卵
4.愛のSOLEA
5.ねこなのだぁ
6.満月小唄
7.まもる君
8.フィンランド
9.満月ポトフ
10.キャンディーヌ
11.意味なしアリス
12.テングサの歌
13.恋するニワトリ
14.素晴らしき紅マグロの世界
15.星より遠い
16.終電座


17.さよならのかわりに



ある日、3ヶ月に一度の『春夏秋冬柳原』が届いて、ひっくり返るような驚きが与えられた。
9月のライブで、夢にさえ見なかった、柳原陽一郎と谷山浩子の共演があるという告知によってであった。
柳原陽一郎ライブは、行けない回以外はだいたい足を運ぶようにはしている。
以前は「440に外れなし」だったが、最近は「JIROKICHIに外れなし」な気がする。
音はマンダラⅡか南青山マンダラが好きだが、よいステージは場所に関係なく楽しめる。
共演者は力のある演奏家も多くいつも楽しみであるが(ソロでのリクエスト大会も素晴らしいが)、まさか谷山浩子と共演する日が来るとは。


谷山浩子を知ったのは、アルバム「時の少女」発売の頃であった。
音楽評論家の伊藤強がこのアルバムを高く評価し、朝日新聞の新譜の紹介欄やFMラジオの番組で採り上げ、「谷山浩子の歌詞は恐ろしい」と絶賛していた。
ちなみに、そのときにFMラジオで採り上げた曲は、「時の少女」「ローリングダウン」「ガラスの小馬」だった。
「ローリングダウン」は今でも怖く、一人で聴くことが絶対にできない。
谷山浩子の「怖さ」の部分は、「落差」であり、油断してメルヘンの雲の上でくつろいで羽を伸ばしているところから、まっ逆さまに突き落とされたようなところである。
「ローリング・ダウン」はそういった怖さの真骨頂であり、最初から身構える歌だとこうはならない。
「時の少女」も、「の」が同格の「の」である(いわゆる「~であるところの」、「イコール」でもよい)と気付いて、伊藤強の述べる怖さが理解できた。
「時であるところの少女」は、「運命」自体を擬人化したものとも取れ、運命が冷酷に無表情に人生を奪い去っていく様子が象徴的に描かれているように感じられた。
「ガラスの小馬」は、本当は「キツネ」だったそうだが、本当にいそうで怖くなってしまい、「小馬」に変えてしまったと述べていた。
少し経って、「メルヘン表と裏」という特集が組まれたときも、「裏」の側面が強調されていた。
だが、決して「裏」ばかり貫いているわけではなく、個人的には「窓」のような世界に、透き通った中に陰りがある少年の世界像が感じられ、何度も聴きたいと強く感じることになった。
生でステージを観たのはたった一度、掛川の「つま恋」が燃えてしまい、中野サンプラザで「ポプコン」の本選を行ったときのゲストとしての演奏のみであった。
それから、何年も経ち、元号も変わり、こうしてまた聴く機会が生まれた。


ちなみに、今回の入場料は決して安くはない。
前売りで6500円で、双葉双一のヴィオロンライブなら6回行ける。
地球屋ならドリンク代を入れて4回、マンダラグループだと2回弱ぐらいであろうか。
ちなみに、6500円と同額のライブは、大阪で行われた「OTODAMA」あたりである。
ユニコーンや筋肉少女隊など豪華な出演者が並ぶイベントであったが、行った人間の話では青空の下、芝生の上のサードクラスの演奏が一番素晴らしかったようである(TOMOVSKYもなかなかよかったらしい)。
しかし、結果として今回のライブ「猫森集会」は決して高くなかった。
音響、演出、照明などクオリティが高く、ゲスト出演者にきちんと出演料が回っているだろうという安心感もある。
新宿二丁目の「Pitt in」の「柳原陽一郎+水谷浩章編成バンド」などは、2000円台で豪華な編成だが金額に釣り合わない素晴らしい演奏なので「もっと高くてもよいのに」といつも感じている。

あれだけの大編成に、さらに音を加えるために自身の学生まで出演料を用意していたら、持ち出しになってしまわないのかと心配になってしまう。

ホールが良心的であるのかもしれないし、「聴き手に少しでもよい音楽を」という姿勢には頭が下がるが、よい演奏を聴かされるたびに「演奏者の元に少しでも還元されて欲しい」という思いが強くなる。

普段値段の手頃なライブハウスに行き過ぎているので、ホールコンサートはこんなものであろう。
椅子は座り心地がよく、快適なところもよい。


この日の会場が、四方から舞台を囲む客席になっていたのは予想外だった(一度でも来ていれば常識であったのだろうが)。
当然、席によって死角になったり後頭部を見ることになったりするわけだが、柳原陽一郎の貴重な後頭部を拝見できる席であった。
こういった後方からステージを観るのは、昔武道館で小沢健二のライブ「Villege」に行って以来である。
そのときも、八方の真後ろだけは使わないでいて、そのすぐ横から観ていた(指揮者の服部3代目の顔だけがよく見えた)。
今回は、完全に真後ろもあり、どのように感じられるか、楽しみでもあった。


「さかなの言葉」で始まる。
この日ほとんどそうだが、青い光が照明で照らされて、空間が美しい。
大貫妙子的なシンプルなピアノの伴奏で始まるが、声質はより人間的な倍音成分であり、ナチュラルである。
ホールのせいか、意図したものか、シンセがフルアコースティックなオーケストレーションを感じさせ、この日の全体の色調を予感させる。
四方に向かって、4回お辞儀をする。
このお辞儀は、終演まで続いた。


「夢のスープ」は、谷山浩子全盛期の恐ろしさが感じられる。
曲的には、このプログラムで一番好きかも知れない。
静かな部分は、ピアノと歌がユニゾンでなぞられる。
明るくなる部分は、音だけ聴けばスープの温もりが感じられるところはある。
ところが、聴き進めるうちに「夢のスープ」は自分が味わうものではなく、自分自身が収束していく姿であることが最後に分かる。
「階段の一番下なんて本当はないんだよ」「降りていこう螺旋階段、降りればゆるり溶けてゆく」と自分自身が「スープ」になっていく描写が淡々と歌われていく。
抵抗も感情も何も表されないまま「スープ」になり「いなくなる」概念は、自分が捕食の対象となりそれを自然に受け入れているかのようにも見える。


「卵」は、ベースを主体にシンセを組み立て、打楽器をシンセで織り込んでいるので、バンド演奏的である。
以上3曲で、魚の卵のスープが出来上がっていく、とのことだが、「卵の中で僕は死んで腐った」とある重たい歌詞からは、決して美味しそうな料理は浮かんでこない。
こうしたものをさらりと「おなかの空いている方は魚の卵のスープを思い浮かべて」と言ってしまうところが、他の作り手にない突き抜けた部分であろう。


ここで、柳原陽一郎の登場。
「愛のSOLEA」から3曲、柳原陽一郎の曲の演奏となる。
ギターのスチール弦のストローク音が美しい。
シンセの落ち着いた音の構成の中で清涼感のある高い倍音を提供し、この日の幻想的な空間に多少のリアリティを与える効果をもたらした気がした。
正直なところ、「なぜこの曲を選択したのだろう」という点では分からないところもある。
一般的な「たまの柳原幼一郎」像は「さよなら人類」「オゾンのダンス」「ラブソングは歌わない」「(訳の分からない)普通名詞がいきなり出てくる」あたりであろうか。
この曲は、それらの像と対極にある曲である。
おそらくは、一般的に貼られたラベルの再確認ではなく、ラベルを一度剥がした上で「満月小唄」の世界を伝えようという意図があったのではないか。
「オゾンのダンス」も「さよなら人類」も演奏しないのは意外であったが、結果的に現在を伝えるという点では、これは成功であったかもしれない。


「ねこなのだぁ」は、「たま」時代とも今ともモードの異なる曲である。
谷山浩子が「いっぱいいっぱい」だというピアノの伴奏が、結構よかった。
この曲は「猫森集会」の企画ということであえて持ってきた曲のようであるが、さすがに「猫を並べて」にはしなかったようである。
そのあたりに、柳原陽一郎の精一杯の社会性が感じられる。
曲調自体は決してこの日との親和性が強いわけではないが、猫の自由性や独歩性が強く感じられる面白い意図である。
前にも書いたが、後半の歌詞がかなり詩的で相当頑張っている。
ロックを一番志向してた時期の歌詞で、現在よりも冒険度が高い。
なお、柳原陽一郎は「ノアちゃん」という黒いメスネコと、昔は一緒に暮らしていたとのことである。


自分からはそう話すこともないが、人から聞かれて隠すこともしない「たま」時代のことが、この日いろいろ聞けたのはよかった。
「イカ天」について、「さよなら人類」について、「たま」について、など。
「二人目の人類」という「人類」曲を谷山浩子も作っていたので、親近感を抱いていたこと。
「妖怪一座」とよく言われていたが、柳原陽一郎のことを「この人自分は妖怪でないと思っているな、本当は違うのに」と谷山浩子が感じていたことなどが紹介された。


「満月小唄」は、谷山浩子の三大ドーパミンソングであるとのことである(あとの2曲は舶来もの)。
この日の演奏は、自分が生で聴いた「満月小唄」の中で、一番静けさと幻想性が強く感じられ、素晴らしかった。
共演者としての谷山浩子の、この曲に対する思い入れが感じられる完成度の高い演奏であった。
終始ゆったりとした演奏の中、声質も強さもバランスの取れた谷山浩子のコーラスが調和し(「殺して南へ逃げちゃった」の部分が一番よかった)、そのまま音源を販売できるレベルでの演奏であった。
水谷浩章などの楽器職人のコーラスでなく(これも悪くはない)、ボーカリストが気合を入れてコーラスを入れるとここまで曲に命が吹き込まれるというよいお手本であった(個人的にはワタナベイビーとの共演以来の戦慄を覚えた)。
なお、この曲は新宿の劇団のスタジオを夜に安く借りて、セッションしながら生まれた曲であるそうだ。
演奏の間中、ワッカのような光(「満月」か「火の輪くぐりの輪」か)が客席中を動き回る。
石井AQのシンセはベース主体で飾りすぎず、原曲がナチュラルな形で鑑賞できた。
この曲を、この形で聴けただけでも、この日のこのステージに足を運んだ価値はあったと言えよう。


「まもるくん」は、柳原陽一郎が頭から離れず、思わずリハで口ずさんでしまうほどの強いインパクトの歌詞が、柔らかな旋律に乗せられて歌われる。
マンロー・リーフ(『おっとあぶない』が有名)の絵本で、『みてるよみてる』という作品がある。
その作品で一貫して「ものみどり」という鳥が登場し、「ものみどりがきみをみてる」「ものみどりがあなたをみてる」と、自分の行動に対する環視があることを子どもに諭している。
「まもるくん」の「まもる」は、おそらく「見守る(語源的には「目守る)」に由来していると思われ、「新宿の地下道の壁」や「警官の制服の肩」や「建売住宅の屋根」などから見つめている。
鳥ではなく擬人化されているが、形のない環視の目を象徴化したものと思われ、通ずるものがあると感じられた。
結局、人々はその環視を「見ないふり」し、日常の社会生活を営んでいるのだが、そのことの是非についての結論を谷山浩子は下していない。
一見危ない人のように映る「まもるくん」の姿が、日常の中で非日常的な形で出てくる歌詞のため、どこかしらユーモラスな全体像はある。
だが、歌全体としてのメッセージは、心の中にどこか「まもるくん」のような環視の目を感じながらも、それをあえて見ないようにして個々の心の平安を保っている人間の習性の指摘である。
それを突き詰めると、「裸の王様」のような社会を警告することになるのだが、おそらく「まもるくん」を「見ないふり」することに対する肯定的な視点も作り手の中に持ち合わせているのであろう。
その結果が、結論を保留し、ただ「まもるくん」の姿を提示するのみに留めた歌の世界に集約されている。
と、思い出しながら書いてみたものの、歌詞を改めて読み返してみると、多少考えすぎだったのかとも思えなくもない。
http://www.evesta.jp/lyric/artists/a8236/lyrics/l47845.html
聴いているときは気が付かなかったが、だんだん「まもるくん」は大きくなっているようである。
また、歌詞でも特に「まもるくん」が見守るといった、行為主体としては描かれてはいない。
だが、それでもやはり、衆人環視とも異なる超自然的な存在としての「目」は感じられる。
一言で片付けるには調和の取れた概念ではないのかもしれないが、機会があれば方向違いになることを覚悟の上で、また掘り下げてみたいと思う。
また、演奏面であるが、ピアニカのような楽器で、口で吹いているのだがピアニカと違う笛のような音の出る楽器(特殊なシンセ?)が、よい効果を出していた。
この曲のCMにも使えそうな自然なメロディと歌詞世界は、まさしく柳原陽一郎との共演に相応しい曲であり、レイトショーが今でもあれば間違いなく午前3時頃にカバー曲として演奏されていたであろう。
ステージの最後でも、この曲に対する最大限の賛辞(「まもるくんレベルの曲がてんこ盛り」といった言い回し)もあり、下手をすると次のJIROKICHIのライブですら演奏されるかもしれない。


「フィンランド」は、原曲を直訳したとのことで、小室等(「ひとし」、「など」ではない)とレコーディングした曲でもあるらしい。
小室等といえば、FMの「音楽夜話」という番組で谷山浩子をゲストに呼んだとき、1週間かけて2人で短い曲を作ったことがある。
作り方はリレー小説のような形式で、小室等が「春は名のみの人の寂しさ、思いはぐれて菜の花畑」とフレーズを作ると、谷山浩子が「私は蝶よ~(あとあまり覚えていない)」と続けていた。
録音したカセットもどこかにあるはずだが、小室等と谷山浩子がそれぞれ「影」と「光」とを描き分けているようで、興味深く感じられた。
「フィンランド」は、「フィンランド」という国の素晴らしさだけを歌った曲ではない。
「どこかにある国」「海外旅行の行き先としても忘れられてる国」といったような、「存在感の薄い、どうでもよい国」のような描かれ方になっている。
そのわりに「フィンラン、フィンラン、フィンラーン」と、まるですごい思い入れがあるかのような歌われ方であることが、モンティパイソンのコメディの効果を高めていたのであろう(原曲の場合)。
http://www.evesta.jp/lyric/artists/a8236/lyrics/l47860.html
柳原陽一郎のコーラスが、この曲は素晴らしく調和していた。
コーラス音が5度でハモったり、ユニゾンになったり、後追いの掛け合い型のコーラスになったりと、めまぐるしく裏方の役割が切り替わる。
そのたびごとに音の響きは緊張と弛緩を繰り返し、歌詞のいい加減さ(あくまでも訳ではなく、原曲の)にもかかわらず、壮大な「フィンランド」像が浮かび上がってくる効果があった。


「満月ポトフー」は、柳原陽一郎のアコーディオンが聴け、なかなかよかった(正直、本人の曲よりよいできである)。
軽快な2ビートの曲であり、アコーディオンの短い和音の刻みがポトフのよい隠し味になっている。
この曲はリストから外されるところだったところを、「よい曲じゃないですか」の柳原陽一郎の一言で演ることになったとのことである。
「満月」つながりということもあるかもしれないし、アコーディオンをバッキングで弾きたかったということもあるかもしれない。
しかし、こうもわざわざ負担のかかることをゲストの身分で行うのか、柳原陽一郎の献身さには感銘を受ける。
これだけ声のよいボーカリストが、バックミュージシャンと変わらぬ負担で複数楽器の練習に(おそらく)相当な時間を割く。
出たてのミュージシャンならまだしも、キャリアもあり紅白にも出演したヒット曲もあるにもかかわらず、裏方を楽しんでいるように精一杯演奏する。
その姿勢が、柳原陽一郎というミュージシャンが古びていかない理由の主たるものなのではないだろうか。


「キャンディーヌ」は、どこか音楽や歌い方に矢野顕子的な雰囲気があった。
逆に、何が異なるのか考えてみたが、矢野顕子の方が若干発声や歌い方に自由度が多く見られるところであろうか。
場面によって少女の身長が3倍や25倍に伸びるというファンタジー世界を歌っているにもかかわらず、どこか谷山浩子の世界にはこの現実世界の延長上に存在するのでは、と思わせる雰囲気が(少なくとも自分には)ある。
だからこそ、恐ろしさも幻想性も、より実感されるところがあるのだが、これはギリギリのところでバランスを取っている歌い方に起因するのではないだろうか。
キャリアが長くなっていくと、一般に歌い方は「自分の目指す方向」へと磨き、強調したい要素が鋭角に現れていく傾向がある。
声の楽器的な部分を強調するあまり言葉が犠牲になったり、言葉の重みを強調するあまり音符の調和を犠牲にしたり、具体例は出さないがよくあることである。
「若い頃の自分の歌は自信がなかったが」と述べる歌い手も、実は若いときの方が聴き手には受け入れやすい歌い方だったこともある。
だが、「磨く」作業は、鋭角に研ぐばかりが方法ではない。
バランスを取りながら、球をなだらかな面にしていくことも一つの方法で、バランスを意識して調整していく分地道な苦労が伴う。
谷山浩子の歌は、「言葉」も「音楽」もともに大事にしようという意識、いや、それぞれを補完しようという意識が強く、両方の意味の聴きやすさがある。
NHK「みんなのうた」でよく採り上げられるのも、おそらくはそこに根本的な要因があり、これを捨てない限り今の評価は今後も続くものと思われる。
この曲に関しては、柳原陽一郎のコーラスがノンビブラートの半機械的な声質で入り、PAもあるのであろうが、器用なところが見られる。


「意味なしアリス」も、谷山浩子らしい(いわゆる一般人から見たところの)歌である。
柳原陽一郎のコーラスもサビ以降大きな役割を果たすが、この曲に関しては「調和」というよりは「役割分担」といった感があり、掛け合い的な面白さ(とそれぞれの声のコントラスト)が感じられた。
「アリス」というキーワードは、他の歌い手よりも谷山浩子が、一番生き生きと活動させている気がする。
あまり多くを語れないが、少女性だけでなく、ルイスキャロル的な乾いた記号的な遊びの要素が感じられる。


「食べ物の歌3曲、と言って、しまったと思った」「アンケートで怒られた」という3曲は、「テングサの歌」「恋するニワトリ」「素晴らしき紅マグロの世界」であった。
「テングサの歌」で、やっと既知の曲が登場した。
人間が滅びた後の地球の上で、テングサがのんびりと暮らしている歌である。
「フィンランド」とこの曲が、おそらく演奏面(特にコーラスとの親和性)のクオリティが高かった曲と言えよう。
冒頭からしばらく続く(おそらく)平行3度のハモリが、どちらかの音が出っ張るということでなしに一つの音のように調和していた。
どちらの声も、「高音を貫く」といった声質ではなく、中音域の倍音があるタイプである(無機的ではなく有機的)。
それぞれ世界観ばかりが採り上げられ論じられることの多い二人であるが、ボーカリストとして考えたとき「言葉と音楽とのバランス」という点で共通項があり、だからこその調和なのではないか、とも思えた。
「ポカポカ」「ハレバレ」「トマト」などの掛け合いコーラスも、あるべきところに適切な音がある、といったつきづきしさを感じた。
「満月小唄」のコーラス入りを聴けてよかったと感じている柳原陽一郎ファンと同じくらい、完璧にコーラスがはまった「テングサの歌」が聴けてよかったと感じている谷山浩子ファンが、きっといることであろう。
再度、ゲストか何かで共演することがあれば、ぜひこの曲は再演してほしい(できれば「まもるくん」も)。


「恋するニワトリ」は、さすがに「食べ物」で括ると怒られる。
NHKの「みんなのうた」でも、一時期流れていた曲である。
風見鶏に恋をするニワトリがテーマであるが、単にキーワードをまぶしただけではない丁寧な場面や心情の描写が行われており、映像が聴き手の脳裏に浮かび上がってくるところがある。
緩やかでのどかな旋律であるが、前奏の3つ目の和音が予想外の響きで美しく感じられ、前奏3小節目からは音楽に引き込まれてしまう(個人的には)。
「パステルウェザー」あたりにも、ハッとさせられる和音がいきなり感じられるところがあるが、そのあたりが作曲家としての谷山浩子の真骨頂なのであろうか。
「みんなのうた」用に作られたのか、作られたのが先なのかは分からないが(ニワトリが先か~)、歌詞が細やかである。
童謡作家が同じような歌詞を作ると、ニワトリと風見鶏との狭い世界の中で完結させ、耳当たりのよい言葉で調和させていくと思われる。
だが、「恋するニワトリ」は、4番になると世界がパッと広がり、そこで庭のニワトリに戻ってくる。
このあたりが、前奏の和音とともに曲のスケールの大きさを感じさせるところである。


「素晴らしき紅マグロの世界」は、トルコ風のマーチのリズムである。
シンセで、小太鼓(スネア)の威勢のよい響きが聴こえてくる。
「たま」で言えば、石川浩司の役割を担う曲であり、サビの部分の柳原陽一郎のコーラス(「アーアー呼んでいる」の部分)も、どことなく石川浩司のときたま出す「いい声(フランク永井調)」と同じように聴こえた。
歌詞はあまり覚えていないが、純粋に曲と雰囲気を楽しむことができる曲であり、飽きさせないステージもこうした曲が挿入されるところから来ているのであろう。


「星より遠い」は、この日ほとんどなかったラブソングであった。
柳原陽一郎との共演とのことで、あえて外していたのであろう。
「たま」以降の歌では存在するものの、「たま」時代の柳原曲(他のメンバーもそうだが)にはあまり思い浮かばない。
もちろん、ファンもそうした方向性を好んでそれが定着していたところもあるのであろうが、「たま」以降作りたくても出せなかった種の曲が何曲も発表されている。
この日、柳原陽一郎の曲は少なかったが、演奏の質の高さだけでなく全体の曲の構成面からも、「たま」ファンが楽しめたステージであったと思う。
「星より遠い」の一人称は「僕」であるが、谷山浩子には女性シンガーソングライターの中で珍しく(かどうかは分からないが)「僕」の一人称が多いと感じる(「河のほとりに」「夜のブランコ」などは異なるが)。
この効用については、以前長々と論じたのであまり掘り下げないが、簡単に論点のみ繰り返す。
「少年」というある意味純粋な記号が存在し、それが女声で「僕」という一人称で提示されることにより、男声で提示されるより聴き手が自己投影しやすいところがある。
それは(自分がそれを通り過ぎてきたかのように錯覚している)男性の聴き手だけでなく、「少年」的な記号に幻想を抱く女性の聴き手に対しても魅力を与える。
曲に投影した瞬間は世の雑事を忘れ、純粋でデリケートな気持ちを抱いているかのような心地を感じることができる効用がある、と考えられる。
昔、そのようなことを考えたのを、思い起こさせる曲であった。


「終電座」は、最後に相応しい演出があった。
「3番をみんなで歌う」ということは事前に告知があったが、途中入口からそっと何人かの劇団員が終電の乗客のような服装で入ってきて、部分部分のコーラスの役割を担った。
児童向けミュージカルのような夢のある演出であり、柳原陽一郎の役割(電車役)のコーラスも効果的な歌唱であった。
このBプログラムは、他のプログラムと比べどれだけ評判がよかったのかは分からないが、ステージの完成度は非常に高かったのではないかと思われる。
プログラムの終わりに、これほどの演出が他のプログラムでもあったとは考えにくい。
ところで、4人の劇団員の他に舞花(まいか)というもうすぐデビューする19歳の歌い手が交ざっていた。
ロングトーンのコーラスを担当し、よい効果を出していたが、事務所はヤマハで谷山浩子と同じだとのことである。
ヤマハは、基本的によそから移籍で事務所を大きくすることはしない。
アマチュアや少年少女の逸材を発掘して、そのまま契約していることが多い。
二大看板の中島みゆきと谷山浩子も、確か10代から頑張っていたはずである。
どんどん消えていく人材も多いが、個人的にはヤマハの姿勢は評価したいところはある。
楽器(特にクラシックギター)についてはいろいろ述べたいこともあるが、音のバランス自体は悪くないので何か特色を出してほしいとは思う。
なお、曲名を聴いたとき「星座」と思ったが、曲を聴いているときは演出のせいか「劇団名」と勝手に思っていた。
改めて歌詞を眺めてみると(http://www.evesta.jp/lyric/artists/a8236/lyrics/l47843.html )、やはり「星座」であることが確認できた。
記憶は、あまり当てにならないものである。


ほどなくしてアンコールで再登場し、ライブの告知や物販の紹介、三文芝居などが繰り広げられる。
そして、「さよならのかわりに」で本当に終了。
「星より遠い」と同様に「僕」の一人称の曲であるが、過去ではなく現在を描写したように感じられた。
前奏のしっとりした木管楽器の音(当然シンセであるが)も、叙情をそそりよかった。
名残惜しそうに、出口のところでしばらく立ちずさんでいた谷山浩子の満足した表情が印象的であった。


この日、一番よかったのは、楽器のアタックの音が高い天井のため柔らかく奥行きがある音色になっていたところである。
多分、下北沢の440あたりだとこうはならなかったと思う。
上質でデリケートな音楽と世界が、青い光のこの空間の中だから生まれたところはあるであろう。
夢にも見なかったこの二人の組み合わせを、この会場で観ることができたのは幸運であった。


この日、居心地がよかったのは、観客のお行儀がよい点もある。
柳原陽一郎のライブも、後奏の楽器の音が消えるまで拍手はしない。
手拍子も、基本的には要求しない。
だが、この日のステージはもう少し徹底していて、演奏者がお辞儀をするまで拍手はしない。
3曲セットでも、3曲目が終わるまでは物音一つ立てない。
このようなライブは、前回の双葉双一のヴィオロンライブぐらいしか記憶がない(10月にまたある、楽しみである)。
何はともあれ、いろいろな意味で谷山浩子と柳原陽一郎の親和性はかなりよく、しっくりくるものがある。
猫森集会でなくてもよいので、ぜひ共演の機会を設けてほしいと感じる。
また、柳原陽一郎がゲストに出なくても、猫森集会に足を運んでみたいとも思った。


そして何より、バッキングやコーラスとして全力を尽くす柳原陽一郎の演奏が観られたのが、一番よかったところである。
「たま」脱退から解散によって一番失われてしまったのが、実はそれぞれのメンバー(主に主役二人)のバッキングとコーラスのクオリティの高い演奏場面を観る機会が極度に減ってしまったことである。
「たま」のよさは、メインに出るボーカルのよさではなく、実はそれを支えるクオリティが高く独創的な演奏とコーラスにあったとつくづく感じる。
久松史奈との共演もよかったが、「満月小唄」のハモリが聴けた分、この日のステージの方が満足度が高かった。


最後に、来年前半の柳原陽一郎全曲ライブであるが、やはり声を一流の歌い手と重ねることは魅力的で、そちらの方面のゲストもいてほしいとは思った(せめて最初の2回だけでも)。
ファンが一番望むゲストはおそらく難しかろうが、何とかワタナベイビーぐらい調達できないものであろうか。
マンダラⅡの「蜃気楼中央線」ライブでの共演は、今でも鮮烈に記憶に残る(あと、柴草玲も出ていた)。
ボツ曲ばかり集めた第6回も開催してほしいとは思うが、その前にまずコーラス隊が充実すると嬉しいと、個人的な希望を書くことにした。

今回は、「音楽」も「カレー」もない。
検索リンクで飛んできたのでなければ、今回の記事は飛ばした方がよいと思われる内容になっている。


Yahoo!光(Yahoo!BB光)が、サービスを年内で終了するらしい。
Web上のYahoo!BBのページにはどこにも記載がないが、利用者に届いた案内の文章がネット上に上がってきており、撤退は間違いないと思われる。
光利用者は、withフレッツのプランに切替を求められているらしい。
もっとも、回線事業者を乗り換えられなければではあるが。
全ての地域、マンションタイプも含むかなど分からないところはあるが、withフレッツでないサービスの申込ページは、ホームページ上見当たらない。


以下、首都圏の簡単な回線事業者の歴史を振り返る。
数年前まで、5つの会社が光ファイバー回線を提供していた。
1)NTT東日本
2)東京電力
3)USEN
4)KDDI
5)Yahoo!
他にもACCAなど、マンションタイプで提供していた事業者はあったが、個別引き込みを行っていたのは以上の5社であった。
ちなみに、首都圏以外では電力系が変わり、KDDIが提供していない地域もあったが、おおむね上記と変わらなかった。


1)占有タイプの「ベーシック」と共有タイプの「ファミリー」が、最初の分類である。
10mbpsの「ファミリー」の後、100mbpsの「ニューファミリー」の提供が始まったが、いわゆる「なんちゃって共有(実際は共有していなかった)」であり、国から排除勧告を受けた。
その後、PON(GePON)と呼ばれる独自技術の開発となる。
1本の光ファイバーを最大32分岐する企画を商品化し、「ハイパーファミリー」で「ひかり電話」とともに大々的にセールスをし、シェアを大幅に伸ばした。
現在、NGN(フレッツでは「ネクスト」)のサービスを始めて、新サービスをいろいろ始めている。
目玉は地デジ(まだごく一部だが)が利用できる「ひかりTV」ぐらいだが、コンセプトは「ベストエフォートでない帯域保証」であり、「使えるか保証できないひかり電話」を保証するものであった(ように記憶している)。


2)「100メガ回線独り占め」で、一時期大々的にCMを打っていた。
NTTの「ベーシック」で1万円以上かかっていた占有回線が、プロバイダー料込で6000円台で利用でき、回線品質も高かった。
0AB番号(いわゆる市外局番)が使える「DTIフォンひかり」というサービスも一部地域で利用でき、ナンバーディスプレーが無料などメリットも多かった。
ただ、占有にこだわり続けたため、「ハイパーファミリー」のエリア展開を広げるNTTとエリア的な差が付きすぎてしまった。
東京電力は!SpeedNet(スピードネット)のFWAとプロバイダー業務を終了。
POWEREDCOM(パワードコム)の法人回線をKDDIに譲渡し、個人向けプロバイダ業務も最終的にはフリービットに移管した。
「TEPCOひかり」サービスも、KDDIに移行。
サービスは存続しているものの、新規のキャンペーンは終了し、このプランしか使えない一部地域以外は需要がほとんどない。


3)「BROADGATE01」という個人向けサービスと、「BROADGATE02」という法人向けサービスとで2本立てだった。
途中、「01」の方は「Gyao光」という名称になり、今に至る。
当初、かなり気前のよいサービスで、「直収型(いわゆる「占有」)」の回線を用い(2芯という噂もあった)、「TEPCO光」で使えない固定IPが標準装備されていた。
NTTとも電力系とも違う、独自の光ファイバーネットワークを持っていたのだが、ある時期から「申し込んでもまず断られる」といった時期が生じた(らしい)。
また、途中から「直収型」や「固定IP」が保証されなくなり(これも噂だが)、それが実際ホームページ上でも「異なる場合がある」と但し書きがされるようになった。
量販店レベルのキャンペーン撤退は一番早く(やっていたかも分からないが)、やり手の営業が一時期導入しまくったマンションタイプ以外は利用者は少ないと思われる。
現在は「withフレッツ」のプランで、プロバイダーとしての「Gyao」ブランドだけを前面に出している。
以前、総務省が各回線事業者を呼び出し、NTTのNGNのダーク開放について質疑がされたことがある。
そこで「新規の回線ネットワークの拡大が、最近熱心でなくなった」ことについて、総務省から質問を受けている。
そのときUSENは否定していたものの、まず間違いなく独自回線からの撤退を決定していたはずである。
高サービス期に入った利用者にとっては続ける価値があるが、今は入る価値があるか、また加入すること自体できるのか疑問な事業者である。


4)NTTのダークファイバーを借用した「KDDI光プラス」が出発点である。
だが、上記の3社と異なり、NTTから8分岐単位でダークファイバーを借りるため、料金設定もエリア展開も制限受けるサービスであった。
具体的に示すと、借りた8本全部使ってもらえればレンタル料は回収できるが、1本しか使ってもらえないと持ち出しになってしまう。
エリア展開も、もちろんNTTが構築したエリアのみとなる。
「メタルプラス」というADSLを前面に展開していた出遅れがあり、自前の光ファイバーネットワークの獲得が悲願であった。
そこで、KDDIと東京電力で「KDDI&TEPCOキャンペーンプラス」という、東京電力のダークファイバーを用いたホームタイプの提供が始まり、「ひかりone」の名前に変更となる。
共有であるが、電話サービスが利用でき、ネットワークもNTTより速度が出ている点が当初売りであった。
現在は首都圏では初めての(関西圏のeo光はだいぶ早い)ギガサービス「ギガ得プラン」を、従来より1000円以上安い値段で始め大々的に売り出している。
au携帯との連携による無料通話「auまとめトーク」など、KDDI得意の垂直型統合サービス(WiMAXは難しいようだが)も売り材料である。


5)ADSLの値段を数千円下げた「Yahoo!BB」のブランドだが、光については後発で目立った活躍がない。
他社で光を大々的に売り出しているときにも、相変わらずADSLのパンフレットを量販店に並べていた。
一部の地域で自治体と提供して光ファイバーを提供していたが(「シティ」)、どちらかと言えば安さで遅いタイプのADSLを展開していた。
当然、NTTダークファイバーを借用してのサービスで、KDDIと異なり電力系との提携もなかった。
ソフトバンクの孫社長がNGNの1分岐単位での開放にこだわり、総務省内で大演説を行ったのもここでの苦い経験があったゆえであろう。
ただ、ほんの一時期、とても面白いサービスを日本で普及させようとしたことがあった。
マンションタイプでおなじみのVDSL規格であるが、これを個別引き込みしようというものである。
具体的に言えば、電柱まで光ファイバーを引き、そこから既存の電話線でVDSL信号を流す。
あとはADSLと同じようにモデムを付けて接続すれば、上りが若干遅いものの、大家の了承なし、工事もなしに光のサービスが利用できる。
どこまで受け入れられ、エリアが広がるか注目させられたが、残念ながら採算が取れるサービスにはならずにホームページからも「工事不要型」のプランは見当たらなくなった。
そして、回線事業者からプロバイダー業務のみに切替を行おうとするのか、「withフレッツ」のプランが開始される。
未発表であるが、おそらくその後の「Yahoo!光」プランの撤退は規定路線であろう。


エリア的な問題がなければ、基本上位サービスを利用者は欲し、申込を行う。
!SpeedNetのFWAやYahoo!光の「工事不要型」の失敗は、おそらくそこにあるのだろう。
「それしか使えない人だけが申し込む」サービスは、需要が減少しても拡大することは少ない。
それより、フリーライダーとなって回線使用料を払い、別の部分に労力と資金を回したほうが、ビジネスとしての旨味は大きい。


おそらく、撤退の最大の原因はNGNの存在だろう。
NGNは電力系もサービス開始は難しく、事実上NTT東西の独占となる可能性がある。
まだ、8分岐か1分岐か開放の単位は定まっていないが、「1分岐」「NGN」でYahoo!は価格攻勢に出てくると思われる。
「ひかりone」のギガサービスでなく、ひかりTVの地デジエリアがさらに広まったところで、そちら中心のCMを2011年までにしてくるであろう。


サービスが高度化されるほど、プロバーダーも回線事業者も淘汰されてゆく。
SNSなどで興味深い新サービスが始まる可能性はあるが、基幹となる部分のサービスそのものは、もう奇を衒った新サービスが生まれにくい構造になっていると言えるだろう。


いろいろ思うことはあるが、記憶違いや憶測も多く入っていると思われるので、今回はこのぐらいにしておく。
いずれ、この続編を書くことがあると思われるので、「その1」と付けておく。

手に捧げる歌



双葉双一「手に捧げる歌」先行発売ライブ~フタバチック・リターンズ~/京都拾得(09/09/06)
出演:双葉双一
ゲスト:シグネイチャーホンダとはやく人間になりたい
(Gu:ジョンソンtsu/Gu:吉田ピンチfrom~ヒトリトビオ/Dr:藤井寿光from~ANATAKIKOU/Key:林美紀from~トウヤマタケオカルテット)


1.はやく人間になりたい(?)
2.(「~熱い戦い」で始まる曲)
3.(「沈み行く泡の太陽が」で始まる曲)
4.2階には何もない(?)
5.(「~の存在、三年かけてたどりつく」で始まる曲)
6.LOVE
7.恢復期
8.ピクニック
9.夜の底


10.手に捧げる歌
11.隣人
12.瞬き分の夜
13.岬の上
14.家の中で花火
15.覚醒の歌
16.ウルスリ
17.K.B.M
18.インザナイトマイフェスティバル


19.人生やってこい


せっかく、青春18切符のシーズンでのライブだったので、有給を貰って上洛することにした。
「拾得(じっとく)」というライブハウスは、酒蔵の建物を改造してそのままライブハウスにしたところで、大変味のある場所らしかった。
柳原陽一郎も、誕生日ライブを何年かここで行っていたので、一度行きたいとは考えていた。


一月前と同じ、始発の2番列車に乗り(午前5時少し前出発)、11時間の旅の始まりとなる。
大阪より少しだけ近いのだが、その後バスに乗るので結局同じくらい時間がかかってしまう。
凍らせたお茶と500円以内のおやつ、300円ショップで買ったクッションを携え、西へ向かう。
東京駅で買った二つのパンは静岡県を抜ける頃には形がなくなり、遠い過去の思い出となり消えていった。
JR東海の区間を過ぎると、発車の笛はサッカーの試合終了のように3回鳴らなくなる。
前回より少し手前の京都駅で下車し、待ち合わせによく使われる京都タワーホテルを写真に収めて拾得に向かう。



sprawl world-tower


拾得のホームページ(http://www2.odn.ne.jp/jittoku/ )を見ると、「バスターミナルB乗り場から26番以外どの系統でもOK(*9番がお勧めです)」とある。
だが、これはどうも正確ではない情報の可能性がある。
3桁の系統で乗ったのだが、15~20分どころか60分以上乗っても目的地に着かなかった。
途中、大文字焼や金閣寺の前などちょっとした京都観光になったのだが、さすがに開演に間に合わない可能性があったので、タクシーで拾得に向かい、何とか辿り着いた。
拾得に初めて行く場合、京都のバスのホームページも確認しておくのがよいであろう。
下手なバスに乗るのであれば、JR二条駅から歩いた方がまだ早い。


ライブハウスらしからぬ見た目と、中の寛げ具合がよい感じである。
天井も含め空間がゆったりとしていて、人数的には結構入るはずだが、贅沢にテーブルと椅子が並べられている。
酒造りに使われていたと思われる木造品が、そのまま人間の座る部分に改造されているのも面白かった。
食堂の座敷席のように、靴を脱いで観覧するスペースもある。
日本人なら、靴下を脱ぎ、座布団を二つ折りにして枕にし、ごろんと横になりたくなるような、そんな寛げ感があるが、そちらは人気なのか満席であった。
後から来た客も含めると、30~40人ぐらいであろうか。
京都は双葉双一の強い地盤のはずなので立見を覚悟していたが、予想外にゆったりと座れた。
チキンと豆のカレーもまあ美味しく、玄米を用いていたのも外ではなかなか経験がないので高評価であった。


さて、第一部のジョンソンtsuのステージである。
これがなければ、さすがに京都までは来なかった。
八月八日のムジカジャポニカと同じメンバーで、双葉双一曲もさらに演奏するようなことが告知されていたので、それも楽しみであった。
衣装であるが、前回は短いズボンに柄物タイツ、「波動」と書かれたサングラスの登場であったが、今回はもう少し地味だった。
サングラスはなく、赤いズボンは長く、前回と異なり帽子もキーボード以外は被っていなかった。
ただ、バックの3人は、蛍光色の細長い風船を折り曲げて作ったようなメガネをかけていた。
ムジカのときは、前奏で饒舌な日本語での挨拶があったが、今回は「はやく人間になりたい」と一言だけ呟き、演奏がスタートする。


「あまりにもやばいあまりものを(歌詞カードがあるわけでないので、歌詞が違っているかもしれない)」で始める、八月八日のムジカの4曲目と同じ曲が演奏される。
もしかすると、これが「はやく人間になりたい」という曲なのかもしれない。
そう考えてみると、そのような歌詞がどこかにあった気がする。
この曲は、前回聴いた中では一番自分の好みではあった。
吉田ピンチの弾くギターが、この曲は高音部でボーカルの旋律とは別の動きで独立しているのが面白い。
サビの部分からはドラムの藤井寿光の上手さ(多分、この人は物凄く上手いはずである)ばかりが目立つが、サビの二つ手前までは多声音楽のような面白さがあり、なかなか近い音楽が身近に思い浮かばない。


今回も正確に歌詞を聞き取れなかったが、「~熱い戦い」で始まる曲(八月八日の2曲目)は今回の方が本格的に聴こえた気がする。
ベースのいないバンドであるが、吉田ピンチのギターがその部分を補完しているらしく(キーボードの補完もあるのかもしれないが)、今回音の厚みが感じられた。
「ラッラドラッラド」のベースラインの部分を高い音で鳴らすと、どこかコミカルな雰囲気が出てくるものだが、今回オクターブ音を落としたのかそれが感じられなかった。
今回も、後奏のギターソロは見事であった。


今回、一番圧巻だったのが、初めて聴く次の曲だった。
「沈み行く泡の太陽が(これも歌詞が合っているかは分からない)」で始まる、ゆったりした曲である。
「フライミートゥーザムーン」を四拍子にして、テンポを遅くしたような旋律から始まる。
長い長い後奏でやはり見事なジョンソンtsuのギターが入るが、単なる速弾きでないにも関わらず、空気の動きや時間の流れまでも感じさせるような空間全体を音楽で表現しており、大変素晴らしい。
安定したドラムがあってのことかもしれないが、ギターに専念する演奏を見ていると、「ギター一本で十分第一線で活躍できるのではないか」と感じられる。
このような曲でこれだけ聴かせるためには、表面的なテクニックではなく、音楽性を支える真の技術が必要だが、それが十二分に存在する。


次は、前回「みんなが知ってる曲」と言っていた曲で、「二階には何もない」で始まる曲が演奏される。
「二階には何もない、そこで氷でも食べてなさい」「地下室は初めからない、床をはがすのは止めなさい」という歌詞は、家宅捜査を思い出させる。
シグネイチャー本田先生の怪しい薬はないから探すな、という曲かと前回考えたが、どうだか。
いずれにしても、いろいろ想像力を喚起する歌詞は何かの大切な条件の気がするので、この曲にはそれがありよい。
一番一般受けしそうな曲であり、今後も演奏を期待できる。


その次の初めて聴く曲は、珍しくタンバリンを持ち、それでもギターは離さなかった。
音域的には女性アイドルが元気よく歌う曲のようであるが、高い音も振り絞るような声で難なく出し、芸の広さを感じさせる。
途中からタンバリンでギターを弾いたりと、見せ所、聴かせどころのある曲であり、舞台映えする曲であった。
双葉双一のカバー曲「LOVE」は、歌詞が少なく、楽器の演奏とエフェクターの効果を中心に聴かせる演奏であった。
曲も終わりに近づき、双葉双一が乱入してくる。
黒地に白い水玉の半袖シャツに、「波動」の文字が書かれた例のサングラスをかけて登場。
その怪しげな格好の、似合うこと似合うこと。
そのまま、前回も同じ組み合わせで聴いた「恢復期」が演奏される。
「本日は、全曲バンドバージョンでお送りします」と、そのときは結構信じてしまったMCがある。


いつものマーティンギターを持たずに、「ピクニック」がバンドバージョンで演奏されるが、これはよいアイディアである。
最悪、誰も「あいーとーへいわー」と歌ってくれなくても、舞台の上でマイク付きのハモリが保証されている。
ピクニックの楽しげな雰囲気も、ギターのカッティングとキーボードの音質で醸し出しやすい。
「夜の底」で、ジョンソンtsuはバイオリン用と思われる弓を取り出す。
下北沢440で昔、柳原陽一郎のバックで名越ゆきお(椎名林檎のバックでも弾いているらしいギタリスト)が同じことをしていた。
そのときは少し大きめのギターであったが、普通のエレキギターでもこのような奏法が可能なのだと驚かされた。
この曲は、確かにこのような音が伸びる弾き方の方が効果的であると思う。
今回も(3回連続)演奏途中でボーカルの双葉双一が退場し、残されたメンバーだけでステージ終了のご挨拶となった。


第一部はやはり、ジョンソンtsuのギターの上手さが光った。
そして、より抜かれたバックの技術の高さ(特にドラムは目立って高い)からしか生まれない高品質の音楽。
歌がない曲もじっくり聴いてみたいと思わせる、美しい演奏であった。
結構、この部で満足してしまったところはあるが、まだメインステージが残っているので聴いていくことにする。


第二部は、やはり先ほどのMCが偽りであったことが分かる一人での登場となる。
全曲バンド演奏は、さすがにバックの負担も大きかろう。
さて、肝心の演奏であるが、代官山のときと比べ、声が柔らかい。
おそらく、喉の調子もよいのであろうが、拾得の高い天井や木造の壁や床が音の柔らかさを増長させているのかもしれない。
もしライブのCDを出すのであれば、電気を通すのであれば拾得、生音ならヴィオロンがよい会場と思われた。
「手に捧げる歌」は、「実体験に基づいたホラー」とのことである。
「8月より蚊が多くないですか、今晩は双葉双一です」との自己紹介が入るが、確かにそう感じることが多い。


「さて、次の怖い話は」とのことで、「隣人」が演奏される。
リアルにありえる分、こちらの曲の方が怖く感じる聴き手も多いかもしれない。
表現をストレートにしすぎると放送コードに引っかかってしまいかねない曲だが、その辺りは上手に言葉を選んでいる。
ただ、アルバムや代官山ではスリーフィンガーでの演奏だったが、今回はストロークで演奏していた。
確かに、慣れた奏法である分安定感があり、自信を持って演奏していることは見て取れた。
だが、スリーフィンガーでの演奏は、全曲を一つの物語として考えた場合、空気の変わる一つのよいアクセントになっていた。
統一感だけを優先させるのであれば、ストロークもありであろう。
しかし、今回の双葉双一は歌詞の面でかなりの冒険をし、今までにない世界を描こうとした。
好き嫌いは別にして、生み出す世界を広げ、曲ごとのコントラストを強くする意図であろうとは想像できる。
それであるならば、演奏についても冒険を躊躇わず、この曲もスリーフィンガーで弾いてほしいと思う。
従来の双葉双一の世界に統一感や一体感があったのも、歌詞の世界だけではなく、奏法の点も大きい。
個性には、「引き算の個性」と「足し算の個性」があると思う。
「引き算の個性」は、ある程度その個性を示しやすく、「お嬢さん~」に代表される世界は統一感のある「個性」であった。
だが、本人の中で、「発展」「拡大」を考えたとき、「引き算の個性」からの脱却が必要で、「足し算の個性」を作り出していかなければいけないことに気付いてしまったのであろう(と勝手に想像してみる)。
今まで歌詞であえて「引き算」していた部分に焦点を当てたように、奏法でも一番世界を引き出す弾き方を選り抜いていたのがスリーフィンガーだったのではないか。
正直、ジョンソンtsuの後で、自信の持てない奏法は採りたくはないし、怖い。
しかし、ここにも「足し算の美学」を貫くことが、将来的な世界の拡大につながっていくと確信する。


ここで、見慣れない12弦ギターに持ち替える。
何度か聴いた「瞬き分の夜」であるが、複弦の音の広がりがある分音楽が立体的に聴こえ、奥行きが感じられるところがある。
とてもよい試みである。
この曲は、「このアルバムのために作られた曲」ではないので、従来の世界観に近く(当たり前だが)、弾き慣れている分聴きやすい。
比較的明るめの曲調が続き、「岬の上」が演奏される。
このアルバムでマイナー調らしいマイナー調の曲は、「隣人」ぐらいかもしれない。
「サスペンス岬の上」と紹介されていたが、ホラーありサスペンスありと忙しいアルバムである。
もっとも、曲の中での物語性の重視という点ではこれらの曲にも貫かれており、「文藝系」から大きく脱却することは想定していないのかもしれない。


「家の中で花火」も聴きやすく、面白い曲であるが、やはり最初のムジカでの演奏が最高のシチュエーションであったために、あれを超える衝撃はなかなか得られないであろう。
「笑い」を提供する要素のある曲はなかなか難しく、何度か聴くと慣れてしまうところがあるが、そうでない曲もある。
この曲がどちらかは分からないが、間隔を空け、場所を選べば、効果的なアクセント曲となる可能性もあると思う。
ちなみに、この曲も12弦ギターを用いていた。
曲後に「淡々とやっていますが、結構凄いことをやっています」と述べていたのは、多分この12弦ギターのことであろう。
「流行の~」ということで「覚醒の歌」だが、「覚せい剤ではありません」とのフォローも入る。
「束の間の二日間」のような二拍三連のストロークかと思わせるが、一拍目が少し長めにも聴こえる。
今回作られた曲の中では比較的おとなしめの内容で、従来のファンでも抵抗なく入ってくる歌詞に思える。
真夜中に目を覚ました子どもが自分の母親に目を遣る内容の歌詞から始まる歌であった。
「家が少女を襲うのは」といった歌詞があった気がしたが、これは歌詞カードもあるので調べなおしてみたい。
「ウルスリ」は今回も名演だが、喉の調子がよい分この日のほうが聴きやすい。
「KBM」を聴き、PAが結構、拾得の会場に合うように細かい調整をしていたことに、いまさらながら気付く。

リバーブが強調される部分があり、バラード感が漂う。
この日はアルバムの先行発売も兼ねていて、ムジカジャポニカにも代官山にも来ていたおそらくレコード会社の人が、今回も出向いて販売していた。
代官山のときと異なりサインも応じるとのことだったが、「女、子どもには分からないので、女、子どもには売りません」と述べていた。
この後のライブの予定などについても、珍しく長く述べており、最後にジョンソンtsuを舞台に上げて、「インザナイトマイフェスティバル」の演奏となる。
八月八日はフルバンドでの演奏であったが、小節を縦で合わせるというより、言葉を優先させて曲を乗せていくところがあるので、即興性の高い演奏となる。
今回、ジョンソンtsuのみが加わったのは、ある意味この曲に関しては正解かもしれない。
もう少し、ギターが出てもよいかとも思ったが、この曲の主人公はあくまでも「歌詞」である。
本人の「自伝」とのことであったので、思い入れも高いのであろう。
個人的には「ゆやーんゆよーん」の中原中也の引用のサーカスの部分と、「彼らに釣られるようなまぬけな魚ももういない」あたりの部分(出典は不明)が好きである。


大曲を終えて、アンコールで再登場。
用意がなくリクエストを募るが、控えめな客が多いのか声が上がってこない。
「皆さんがアンコールしたのだから、責任を持ってください」とのことで、やっと「人生やってこい」「誰のためのお客さん さて君は?」「タワーホテル」の声が上がる。
圧倒的に女性ファンが多いはずなのに、全員男性のリクエストだったところが面白い。
結局、最初に声が上がった「人生やってこい」の演奏となる。
この曲は、「ピクニック」や「家の中で花火」より、笑いの寿命が長い曲であると思う。
歌詞を分かっていても笑えるのは、この曲が「前言撤回」をぬけしゃあしゃあと行っているところが原因であろうか。
この曲には、突っ込みどころも多い。
「代打出そうか」と言っているが、そもそも代打は今まで出ていた人間の「代打」である。
また、「渋滞につかまっとる」というのは、どこから見た視点であろうか。
少なくとも、グランドのベンチに張り付いている人間の目の高さではない。
だが、もしかすると、この歌の中の「監督」は単なる野球の監督ではないのかもしれない。
「監督」という言葉を象徴的に用い、天からの視点(「神」「運命」と置き換えてもよい)で「個」の人間にメッセージを送っているのではないか。
思うようにはいかない人生、神からの指示も「前言撤回」的な軌道修正を強いられる。
しかし、そのような中、「人生やってこい」と、あくまでも自分の意思と身体で人生を選択し、自分色に染め上げていくことをよしとしている。
一見、「笑い」を提供しているだけの曲にも見えるが、タイトルと最後の部分の「人生やってこい」にはそうした意味合いも込められているのではなかろうか、とそう感じた。


大変よい会場で、ゆったりと音楽を楽しむことができた。
帰りは掛川で途中下車し、花鳥園に足を運び、ヨウムのアンソニーと遊んで帰った。
次の来訪はいつになるか分からないが、また拾得には足を運び、ゆったりと音楽を楽しみたいものである。

フタバチック 双葉双一「手に捧げる歌」先行発売ライブ/代官山「晴れたら空に豆まいて」(09/08/20)
ゲスト:知久寿焼、キン・シオタニ


1.ねむけざましのうた
2.すいか畑
3.アンテナ
4.電車かもしれない
5.南風
6.らんちう
7.ギガ
8.いちょうの樹の下で
9.月がみてた


10.手に捧げる歌
11.隣人
12.瞬き分の夜
13.岬の上
14.家の中で花火
15.ピクニック
16.ウルスリ
17.覚醒の歌
18.K.B.M


19.インザナイトマイフェスティバル


この日は、「タワーホテル」と「きみしかいない」とが聴けると思い、生まれて初めて代官山に登った。
結論を書くと、どちらの曲も聴けなかったが、それなりに楽しめるステージではあった。
あと、遅れに遅れたこのレポは、現在よりによって「拾得」行きの列車の中で打ち込んでいる。
普段より短めになっても、京都の先行発売ライブを聴く前に、強引に上げてしまいたい。
よって、曲の重複が予想される双葉双一ステージは、京都のステージの際に詳しく記すことにしたい。


この日の開場前、結構余裕を持って来たので、ライブ会場の一つ上のフロア(ライブ会場はB2、行ったのはB1)にカレーを食べに行った。
唐揚とジャガイモが入ったカレーは多少油っぽかったが、豆腐が入った方は爽やかであった。
基本はタイカレーのイエローカレーがベースで、なかなか美味しい。
店が空いているのも、くつろげてよい。


店を出ると、店の前の階段には列ができているので並ぶことにする。
マンダラグループや440など、整理番号順に入場するシステムに慣れきっている身としては、早く行けば早く入れるライブが最近よく続いたので多少違和感を覚えるが、まあ助かる。
やがて開場になり、どこかで同じものを入手できそうな小石(これがドリンクチケットの代わり)と、メルマガを見たと言えば貰える色取り取りの豆の詰め合わせを貰う。
そして、早速新譜を購入し、前回のタイトルが分からなかった曲が「手に捧げる歌」であることが判明する(そちらはもう修正済み)。
開場には靴を脱いで座れ、一段高くなっている桟敷席もあり、姉妹店の「月見ル君想フ」より面白い作りである(和風)。


この日の「歌わない」ゲストのキン・シオタニは、一度姉妹店のほうで見たことがある。
矢野絢子と倉橋ヨエコの間のステージで、即興でOHPか何かで絵を描くものだった。
具体的に手法を説明すると、例えば「ちくとしあき(当日は「としやき」と書いていた、読み方を知らなかったのかもしれない)」という文字をまず書く。
その後、その文字列に補助線を加えて、歌い手の似顔絵や歌詞の内容の絵を描いていくものである。
双葉双一のブログの中に出ている写真も、もとは「futabafamilia(これもfutabadafamiliaではなかった)」という文字に補助線を加えたものであり、よく見ると文字の名残がある。
おそらく下準備もしていると思われるが、そのような「即興性」「偶然性」を強調することにより、他の描き手との差別化を行っている。
この日も、知久ステージ前、知久ステージ中、双葉ステージ前と活躍を見せたが、双葉ステージ本編では「ピクニック」の曲のみ歌の後ろで描いていた。
おそらく、聴衆にはアルバム曲に対して、意識を専念してもらうためであろう。


そんなこんなで、知久寿焼ステージのスタートとなる。
面白いのは舞台袖が襖のようになっていて、主役の双葉双一が客席から見えないように(実は見えている)陰でそっと聴いていたところである。
客席でゆったり鑑賞すれば、とも思うが、さすがに自分のステージが控えているため、そういう気分ではなかったか。
MCで、「あまり人の曲を聴くことはないが、双葉双一の曲はよく聴くこと」「楽屋で一緒にいるが、特に二人とも何も話さないこと」などが紹介される。


1曲目から3曲目まで、比較的頻度の低い曲が演奏される。
もの悲しめの曲調で、メジャーからマイナーに和音が移っていく曲があった気がする(メモにはあるが記憶が薄れている)。
「ねむけざましのうた」と「アンテナ」を両方一度に聴いたのは、初めてである。
このあたりは、この日の主役のリクエストであろうか。
だが、「電車かもしれない」で、またいつもの色調に戻る。
ちなみに、2曲目からはキン・シオタニの絵画が後ろに描かれながらの演奏なので、ちょこちょこ後ろを気にしながら演奏を続けていた。
「電車かもしれない」の最中には、ぐるりと環状の線路が描かれた。
お盆にちなんだ曲とのことで、「南風(なんぷう)」が演奏されるが、それは知らなかった。
「アニーあの世でまた遊ぼライララライ」は、兄を盆時に追悼している歌だったのだろうか。
自分が聴くのは曲中心で、歌詞についてはよく聴いていなかったので、重大な誤解があればこっそりこのブログも修正したい。
健康のために、毎回必ず演る「らんちう」。
後ろの絵が魚だったので、中間部の語りも「魚の目」バージョンであった。
この曲に限った話ではないが、やはりたまに聴くと声がよく出ているとつくづく感じる。
ウクレレを用いて、「ギガ」、そして「いちょうの樹の下で」。
いつ「きみしかいない」を演るのだろうと思っていたら、「月がみてた」で第一部終了。
良くも悪くも、毎回頭抜けた安定感があり、50年後も全く同じステージを再現できるのではないか、と思わせる演奏である。
ただ、贅沢を言えば、豊富な曲が結構眠っているところがあるので、ステージも「ベストアルバム」ばかりでなく「コンセプト」の縛りがあるステージも観たいところではある。
まあ、現在のクオリティを以前から長年保っている点については素晴らしいことであるので、それが何より一番ではあるが。


懐かしさを感じさせるコニーフランシスのBGMをバックに、キン・シオタニのコーナーがまた始まる。
そして、「拍手」という無言の文字のMCで双葉双一の登場となる。


先に曲順を説明すると、未収録の「ピクニック」以外は全てアルバム曲で、なおかつ曲順も同じであった。
全体の印象として、声はムジカのときより硬質系で、逆にギターは修練を積んだと思わせる滑らかさがあった。
この日、MCで咳止めシロップを飲んでいたと述べていたので、喉については本調子ではなかったかもしれない。
特に、知久寿焼ステージの後なので、ちょっとした不調も目立ってしまうところはあった。
以下、かなり端折ったレポとなる。
「手に捧げる歌」に続き、「隣人」。
カセットテープでは「私の隣人」というタイトルだったが、改名されたようである。
このアルバムには珍しい、スリーフィンガーの伴奏で、CDを聴いてもこの曲だけはがらりと色調が異なる。
「瞬き分の夜」も大分歌いこんで弾き込んでいる気がした(この曲は新譜ではないが、安定度は向上していた)。
「飛べるさ」の「さ」の部分で入る、Cメジャーセブンから裏声に移っていく部分が、個人的には好きである。
「岬の上」に続き、「家の中で花火」。
「自分が常識人であることを証明するために」とのMCの後歌われたが、大阪ムジカの反応がよすぎた分、東京のお行儀のよい反応はいささか気の毒であった。
もっとも、ムジカジャポニカのあの日のステージは、ちょうど爆撃のような花火の音が聴こえていたところであり、この曲を歌うにはまるで準備したかのようなシチュエーションであった。
「覚醒の歌」は、初めて聴いたが、京都のレポで詳しく記す。
「ピクニック」は、キン・シオタニの牛の絵が入り、「手拍子!」などと指示が入るが、「歌おう友よ」と書いてほしかった、と本人は述べていた。
大阪で味を占めたか、「あいーとへいわー」のコーラスを求めて、何度も最後の部分を繰り返すが、ムジカジャポニカのときのようなコーラスにはならず、諦めて終了。
「ウルスリ」はよかった。
もともと、高音域より中音域、なおかつ言葉を大事にする発声の方が合っているようで、吟遊詩人(しかも叙事詩)的な方向の世界はとてもしっくりくる。
「K.B.M」でいったん終了。


アンコールで二人が登場し、「インザナイトフェスティバル」。
知久寿焼はいろいろな楽器で曲に絡むが、口琴が一番合っていて、ウクレレとの親和性は低いように感じた。
ムジカジャポニカのバンドバージョンの方が音楽的には面白いが、じっくり壮大な歌詞を堪能できるメリットはあった。
今回も演奏の途中で、「本日はおしまい」と双葉双一一人で先に退場する。
取り残された知久寿焼が、後から一人退場し、終演となった。
そして、代官山を下山し、家で購入したばかりのアルバムを聴く。
当然のことかもしれないが、CDを取り込んでもiTuneで曲目は自動的に出てこなかった。


米原駅が近づき、バッテリーが危なくなってきた。
尻切れトンボのようではあるが、ひとまずここまででライブレポを上げてしまう。

原マスミ真夏の夜の弾き語り/南青山マンダラ(09/08/15)


1.ムー
2.砂山
3.月面から目薬
4.心配
5.壁の人
6.花のひかり
7.も・いちど
8.ずっと君が好きだった
9.ウィミン
10.海で暮らす


11.ブレーメン
12.人間の秘密
13.血と皿
14.イナフ
15.空
16.はてしないチルドレン
17.夜の幸
18.海のふた
19.教室


20.夜明けの歌
21.耳の夢


一年前の「真夏の夜の弾き語り」からライブレポなどを上げ始め、ちょうど一回り地球も公転した。
EeePCを購入してからも一年経つわけで、PCのくたびれっぷりも記したいところだが、まあこれはおいおいとする。
八月後半に暇がなく、また実際のライブとのラグが出てしまった。


街はお盆の人の流れで、心持ち電車の中も快適であった気がする。
昔は毎月のように行っていた南青山マンダラだが、大晦日以来で今年は初めてだったと思う(厳密には前売りを買いに一度来た)。
受付のスタッフは毎度変わらず、安心する。
休みはあるのだろうかと心配になるが、自分の聴かないジャンルのライブのときに休みを貰っているのであろうと、勝手に思うことにする。
舞台の上にはウクレレだけが置かれていて、何故かギターはなくスタンドだけが置かれている。
おそらく、冒険的な曲があり、開演までも練習に励んでいるのであろう。
ステージへの意欲が感じられて、期待が膨らむ。
だが、同時にベースギターが置かれていないことが確認でき、「カメラ」と「オヤスミ」が聴けないこともほぼ確定する。


海の「ザザー」という効果音、青い照明で原マスミの登場となる。
夏のマンダラでのライブでは、比較的よくある演出である。
「海」に関した曲が予想されるが、少し本線ではなく海が関連する「ムー」からのスタートとなる。
最初の3枚のアルバムは元がバンドアレンジ付きのためか、この「ムー」のギターの前奏もなかなか凝っていて楽しめる。
心持ち、南青山マンダラのためか音も柔らかく、よい。
「海で暮らす」とも「悲しい夢」とも少し違うこの前奏は、歌が始まってやっと「ムー」であるという確証が取れる。
昔よりこの曲の演奏頻度が高くなった気がするが、個人的にはとても嬉しい。
双葉双一を聴くことが最近多かったのだが、原マスミの声はやはり「まるで飲み物のように」スッと入ってくる。
双葉双一はどちらかと言えば、ピカピカに磨いてショーウィンドーに飾ってあるアルトフルートといった印象がある。
それに対し、原マスミや知久寿焼あたりの声は、弾き込んで高音の倍音が突き抜けるようになった楽器に近い。
Spitz(スピッツ)の草野マサムネあたりであると、もう少し「節」を抑えてメロディコントロール重視になる(フィッシュマンズの佐藤伸治はメロディアスだが、別な「節」がある)。
だが、原マスミや知久寿焼の場合は「節」で装飾音が入り、突き抜ける部分は最後まで突き抜けることを優先させる。
その辺りの音そのものが中毒性を持つのだが、双葉双一はその辺りで少し損をしているところがある。


なぜかこの時期よく演奏される「砂山」は、有名な唱歌であり、原マスミよりも年上の曲である。
昔は「詞がいまいち」などと、他人の作品によく謙遜していたものだが、最近あまりその台詞を聞いていない。
「砂山」は、音符の数と文字の数がほぼ同じで、必然的に声を伸ばす部分が多くなり、「節」が存分に発揮される。
ギターも思う存分バチバチとチョッパーを効かせ、気持ちよく演奏できる曲であろうことが想像される。


「昔の曲」とのことで、「月面から目薬」が演奏される。
この曲は、定番曲ではないが、年に一度くらいは演奏される。
初期の曲は「恥ずかしい」とのことで演奏されないものも多いが、この曲はそうでないようだ。
思うに、人を喰ったような内容の歌は、比較的MCの中身とも共通していることも多いので、照れが少ないためではないだろうか。
「ヒマラヤの~月がたくさん転がってるらしいよ、ウソだよ」や「頭を抱えたついでにシャンプーを済ませちゃうから、君ちょっと待っててね」などは、はぐらかされ感が特に強く芸術的でさえある。
他曲でも、「カメラ」の「お願いだよ帰ってきておくれ、あっ帰ってきた」や、「理由なき普通」の「トンビがトンビの子を生んだよ」あたりにも、近い芸術性が感じられる。


もう一曲、ファーストアルバムから「心配」も演奏される。
前奏、間奏、後奏が長い割には歌の部分は長くない。
一応、2番まであるが、Aメロだけなので、もしかすると「悲しい夢」よりも歌部分の割合が短いかもしれない。


「壁の人」は、物静かな曲であり、音がブレークした後にCメジャーセブンでスッと入るところが、儚げな世界を象徴しているようで好きな部分である。
なお、「耳の後ろの匂い」というフレーズは、Jungle Smile(現在、活動「中止」中)の代表曲「小さな星」という曲にも存在する。
もともと鼻が利く人間でないのでよくは分からないが、自分が知らなかっただけでそのような言い回しがもともとあるのかもしれない。
JungleSmileの「高木ゐくの」も倍音成分の多い声質で、風の音を感じさせるボーカルであるが、また徐々に音楽活動を再開させたらしい。
「小さな星」などを聴くと、よい歌詞と感じるので、また新たなる作品を生み出してほしいものである。


この日は珍しく、最初の3枚のアルバムの曲が続く。
「花のひかり」も、久しぶりな気がする。
破壊力のある独創的な歌詞がこの曲には少ないので、歌うことに抵抗が少ないのかもしれない。
静かな曲が続いたため、少し空気もゆったりしたものになる。


「も・いちど」は、バンドバージョンでは毎回演るが、ソロではたまにの演奏である。
この日の第1部のコンセプトが、多少見えてきたようである。
もともと曲が先にあったらしいので、ギターはインスト曲として十分に堪能できる。
だが、歌詞はまだ掘り下げて考えたことがないので、いずれ検証してみたい。


「ずっと君が好きだった」も、歌詞を今まで掘り下げたことがなかった。
タイトルと同じ歌詞の部分のリフレインが何度も続き、そちらに耳を奪われていたからである。
だが、この日、この曲を聴きながら、いろいろなことが頭に浮かんできた。
まず、「君」とはいったい誰なのか、何なのか。
もともとは、実在するかどうかはともかく、具体的な人物が存在し、そちらにベクトルを向けたものだと考えていた。
だが、もしかしたら「君」が象徴的なもの、もしくは形のないものなのではないか、との思いが浮かんできたのであるが、考えすぎであろうか。
「君」の中身を検討する前に、もう一つ感じたことを先に記すと、「ブレーメン」で現れる境地の萌芽が、既にこの曲にあったのではないか、ということである。
「夢を見るのはもう止めよう」の境地に至るまでの過程としての部分が、「僕は古びてないかい」などの現状を客観的に見ようという方向性の歌詞の中に感じ取れた。
「ずっと君が好きだった」を初演した南青山マンダラのステージは、今でも多少記憶がある。
あまり古くはない曲だが(「海のふた」の次ぐらいだったか? 確信は持てないが)、それ以来よく演奏し続けている(同じ新しめの曲でも「さよなら」などは演奏機会が少なくなっている)。
この曲は、ずっと孤独に、ストイックに自分の世界を創り続けていた詩人が、窓を開けて外界の空気を入れたような境地を思わせる。
そこには、疲れや老いや諦念などが含まれているかもしれないし、今まで目をそむけていた最大公約数の世界に対する再評価の思いもあるかもしれない。
そこで、「君」だが、「君」とは今まで自分の世界として取り込むことを拒否し、我慢してきた世界そのものなのではあるまいか。
「原マスミの世界」として自他共に認めてきた部分以外の世界、それらと接点を持ち、自然に歳を重ねていくことを許容しようという志向の変化と言ったら言い過ぎだろうか。
決して、初期から続く世界は、「間違った時間」でもなければ、「王様のいないトランプ」のような味気ない世界でもない。
だが、作品世界の微妙な変化の転換点に、もしかしたらこの曲は存在していたのかもしれない。
見当違いかどうかは別として、いずれ、もう少し掘り下げてみたいところである。
話は変わるが、「歌詞重視」の聴き手にとって、この曲の歌詞はなかなか聴きどころがあるらしい。
この曲を評価する知人が、音源は発売されておらず、年に一度か二度だけライブに引きずり回しているだけのはずなのに、この曲の中間部の歌詞をすらすらと唱えたのには驚かされた。


ウクレレに持ち替えて、「悲しいのはいやだ」かと思ったら、「ウィミン」であった。
間奏は「悲しいのはいやだ」と全く同じで、レゲエ調で弾くかどうかだけが違う、という種明かしが付いてきた。
「地球に優しい」と述べており、間奏を新しく作るのに必要な電気代やいろいろなものを節約できるとのことである。
そういえば、この曲もいまさらながらに気が付いたことがある。
それは、「ウィミン」と複数形であることである。
つまり、この曲は特定の「ウーマン」に捧げられた恋愛歌ではなく、「ウィミン」という存在そのものに捧げられた歌なのである。
ラブソングは一般に、「個」の具体的な経験を表現し、対象もあくまでも差別化された「個」に向けられている。
だが、この曲はそうではない方向性を持っており、意外とそういった視点の曲は少ない。
歌詞の全体像を検討したわけでないのであまり書けないが、少しそういったことを感じた。


「海で暮らす」で、第一部終了。
最後まで旧譜が続き、充実したステージであった。
この曲は、圧倒的に稲生座のアンコールで店長がリクエストしていた印象が強いが、ギターだけでなく歌詞もやはりよい。
特に、「海の中から~流れていく山脈を見ていたい」の部分は、人間の生き死になどよりスケールの大きな、何か時代を超えても残っていく大自然の精神を感じさせる。
この曲を聴くと、些細なつまらなさや悲しさなどはどうでもよいことに思われてきて、海の音と同時に感じられる大きな余韻に浸ることができる。
ところで、この曲も「さよなら~女友達たちよ」と、ここでも複数形が現れる。
リアリティを持つ「個」を複数重ね合わせたのではなく、あくまでも存在の全体像に向けられている。


休憩を挟み、いきなり「ブレーメン」が演奏される。
いつもであれば、ライブが終わってしまうことを感じさせる曲である。
この曲は一見異端な曲であるが、いずれもう少し検討してみたい。
「人間の秘密」は、毎度おなじみの名曲で、一つの完成形であり、世界観としては代表曲かもしれない。
「血と皿」は、以前の弾き語りでは毎回演奏していたはずだが、なぜだか最近ライブで聴く機会がなかった。
この曲もなかなか凄い曲で、2番の歌詞は生半可な才能ではあそこまで書けない。
情景がここまでリアルに浮かぶ、街角の描写はなかなかない。
弾き語りでしか弾かない(近藤達郎とのデュオなら演奏する)ので、この曲を聴くのであればバンドライブ以外も行く必要がある。


代表曲2曲が済み、最新曲と思われる「イナフ(Januaryは作詞のみで一応除外)」の演奏。
このあたりで、第二部のコンセプトが大体つかめてくる。
そう思っていたら、弾き語りでは久しぶりの「空」が聴けて、結構嬉しい。
「人間の秘密」と「悲しいのはいやだ」は大体いつも聴けるが(この日は後者は演らなかったが)、「空」は最近演奏機会が多くない。
曰く、「ブレーメン」と被る気がして、とのことだが、「空」と「ブレーメン」は同質ではない。
「いつか返す日が来る」と「空」で唱えていた「いつか」は、「ブレーメン」ではどことなく遠くないという実感を感じさせる。
「向こう側が透けてしまうぐらいに」と意気込んでいた姿勢が、いつのまにか現在透けつつある認識も「ブレーメン」にはある気がする。
60になっても70になっても、「いつか」「向こう側が透けるぐらいに」といった認識で歌い続けてほしいとは思う。
また、「かばんを提げて駅に立っているのか」の部分は、はっとさせられる部分であり、音源化されて何度も聴きたいという希望もある。
近藤達郎を初めとするバックが健在なうちに、形にしておいてほしい。


大原麗子の番組のナレーションをしたときの話をして(別の曲の辺りだったかもしれないが)、「はてしないチルドレン」に続き、「夜の幸」が弾かれる。
最後のハーモニクスは「フェアリーテール(原文のまま、おそらくフェアリーで妖精のこと)」を象徴しており、上手く弾けないと「バタッ」と妖精が倒れてしまうのでなるべく上手に弾きたいとのことである。
「海のふた」で終わりが近づき、「教室」で本編終了。
どちらも、弾き慣れたギターで、見事な演奏を毎度聴かせる曲である。


アンコールで、「カバーを演ろう」とのことで、「夜明けの歌」の演奏となる。
自分は独身だから、山城新吾か大原麗子かどちらかの最期を迎えるのではないか、との想いで、予定していた「アイスアイスアイス」ではなく、リクエストを募る。
「明るい曲が歌いたい気分」とのことなので、個人的にリクエストしようと思った「仕度」は引っ込めざるをえなかった(多分一番暗い)。
「ハッシャバイララバイ」と「猫よ」が却下され、「耳の夢」がリクエストされる。
確かに明るい曲で、素晴らしい選曲だが、弾き語りでひょいと弾けるのだろうか、と疑問に感じた。
だが、軽々と弾いているのを観て、そういえばkuukuuのクリスマスライブのときも、伴奏自体はギター一本であったことを思い出した。
「ブレーメン」も客席にコーラスを呼びかけることがあるが、さほど愉快な曲というわけではない。
だが、「耳の夢」は主題が音楽そのものであり、この場面で客席と一体になれる明るい曲という点では、これ以上の選曲はない。


帰りに、バンドライブのチケットと栗コーダーカルテットとの共演CDを購入して帰る。
この日は、それなりに充実したライブであり、ホームの南青山マンダラならではの意欲も見られた。
バンドライブの翌月には、新宿でまた「くじら」との共演が観られる。
「カレンダーに印を付けて」、楽しみに待つことにしたい。

悲しいことだが、多分、今回がこの店のレポートの最終回になる。
前のマスターが戻ってくることでもない限り、もうこの店のテーブルの前に座ることはもうないだろう。
今回のレポは、実際には少し前に訪れたときのもので、リアルな現在のレポではないことは断っておきたい(おそらく大差はないと思われるが)。


前回のレポで、マスターがおそらく変わってしまい、料理の味もまったく別のものになってしまったことは記した。
ただ、再オープンの慌しい日であったため、もしかすると次に来たときは改善されているかと、淡い期待は抱いていた。
ランチ時に店の前を通ったところ、以前のA~Dランチが復活していた。
もしかしたら前のマスターも復活しているのではないかと、祈るような気持ちで店の中に足を運んだ。


期待虚しく、別な調理人であった。
ただ、再オープンのときの調理人ともまた別の人間にも見え、一応注文することにした。
前の店のあの味が受け継がれていれば、また通う可能性もそのときにはあったので。


今回は肉料理が入るCとDで、シーフードカレーは別メニューに代えてもらう。
前の店と同じかどうか、これで確認できる。


ライスは白くなく、今回は黄色かった。
だが、色が黄色いだけである。
前のライスは香辛料と一緒に炊き込んであり(松戸の印度亭もそう)、それだけで一つの料理であった。
今回は、おまけに水っぽくも感じる。


ナンは、再オープンのときともまた味が違った。
パンのように柔らかくしっとりしていた前回よりはましで、多少の香ばしさはあった。
だが、大きさは小さい。
前のマスターは力いっぱい生地を伸ばし、焼き上げていた。
作るプロセスの間も、出来上がりの美味しさを予感させる大きな音を響かせていた。
残念ながら、今回のナンはマニュアルどおりに作った域を超えなかった。


肉料理が一番残念だった。
シッカバブは、肉の臭味が残ってしまい、食が進まなかった。
カレーに漬けて、何とか食べることができた。
以前、一番美味しかったチキンティッカも味が別物になった。
前は、スパイシーかつジューシーであり、日本人に受け入れやすい美味しさがあった。
今回は、ジューシー感がなくなり、クリスピー感があった。
レモン風味で、これはこれでよいとは感じたが、タンドリーチキンをカットしただけのようにも見えた。


サラダは、ドレッシングが少なく、完食まで苦労するようになる。
盛り付けも前の方が美しかった。
前回で懲りたので、ドリンクはチャイを入れずラッシーのみ。
さすがに、これはたいして味に変わりはない。


肝心のカレーであるが、ビーフカレーが一番ましであった。
少し、出されるまでに時間はかかったが、丁寧に作ってあり値段を考えると及第点であろう。
野菜カレーはだいぶ味が落ち、以前は一番評価していたキーマカレーに至っては食べられたものではなく大半残してしまった。


これでは、昔からの常連は通うことはできない。
後から腕のよい調理人が入って味が変わるのならともかく、これは厳しいものがある。
たまに店の前を通るが、以前のような繁盛を見ることはない。
店員は真面目だろうし、値段も良心的、信号機の横の窪んだところでよくチラシも配っている。
だが、そういう次元の話ではないのだ。
レシピが店を作るのではなく、調理人が店を作る。
音楽で言えば、レシピは楽譜、調理人は演奏家である。
一流の演奏家は、楽譜の中の真の内面を引き出す。
音符が読めることと楽譜が読めることは、決してイコールではないのだ。


この店には良い想い出ばかりがあった。
安い料金設定であるのに、肉料理やドリンク、デザートなどをサービスもしてくれた。
新しいメニューを注文するたび、新鮮な驚きと感動があった。
直接マスターに話しかけることはあまりなかったが、常連客との会話の中で人柄のよさを感じ取ることができた。
豆のスープカレーやチキンティッカなどは、本当に美味しかった。
倍の値段を出してもいいので、どこか別の店で料理しているのであれば、マスターのいる店まで遠くても出向いていきたい。


おそらく、遅かれ早かれ、この店はなくなってしまうだろう。
腕の良い調理人が加われば分からないが、少なくとも自分はこれが最後だと思う。
想い出というものは、複数の感覚に密接に結びついている。
マスターが変わり、聞こえてくる声が変わる。
当然、厨房の中の映像もカレーの視覚的要素も変わってくる。
何より、料理の香りと味が全く違ってしまうと、ここは同じ緯度と経度にあっても別な店である。
今後、ここに足を運ぶことが、今までの良かった頃のこの店の想い出に上書きをしてしまいそうで、それが怖い。
このレポの第1回と第2回を追想し、そのときの味を心の中で再現できるように、そっと片隅にしまっておきたい。


この店の、以前のマスターの消息をご存知の方がいれば、コメントでもメッセージでも、お知らせください。
ネットの他の記事で調べたところ、「タルちゃん」と呼ばれていたようなのですが、それ以外何も分かりません。
カレーを注文することはできなくても、どこかで元気に暮らしているということだけでも知りたいので。

八月八日はフタバーの日/大阪ムジカジャポニカ(09/08/08)


双葉双一
オープニングアクト:
シグネイチャーHONDAと四つ子の姉妹
(Gu:ジョンソンtsu/Gu:吉田ピンチfrom~ヒトリトビオ/Dr:藤井寿光from~ANATAKIKOU/Key:林美紀from~トウヤマタケオカルテット)


1.(曲名不明、不思議な四人の姉妹?)
2.(曲名不明、「~熱い戦い~」という部分が最初にある)
3.(曲名不明、2階には何もない?)
4.(曲名不明、「あまりに~」で始まる)
5.スポーツと気晴らし


6.山麓にて
7.ワルプルギスの夜
8.8月のほんの少し
9.家の中で花火
10.わたしの人魚姫1


11.手に捧げる歌
12.束の間の二日間
13.夜の底
14.ピクニック
15.人生やってこい(完全版)
16.こんなバカ騒ぎをまっていた(KBM)
17.ドラムレディ


18.恢復期
19.イン.ザ.ナイト.マイ.フェスティバル


20.アンダースロウ
21.瞬き分の夜
22.ウルスリ


この日は、青春18切符で早朝から列車に乗り込む。
本当は始発で向かう予定であったが、接続の関係で2番電車でも間に合うことが分かり、20分ほど余計に準備をする。
事前に麦茶とオレンジジュースを凍らせ、おやつも500円分以上詰め込み、なんとか予定の列車に飛び乗る。
この時点で、午前5時ちょっと過ぎ。


東京で沼津行きの東海道線に乗り、ほぼ順調に乗換ができるルートに溶け込む。
沼津で、凍らせていたジュースと麦茶が底を付く。
島田行き、浜松行き、豊橋行き、大垣行き、米原行き、姫路行きと、ほぼ11時間かけて大阪駅に辿り着く。
多少時間があったため、服を着替え、コインロッカーに荷物を預けたが、大きな花火大会の日と被ったようでなかなか空いているところがなく難儀した。
通りも人通りが多く、街では祭りのような格好をした人たちが、狭い地下街の通路を滞らせていた。
開場の少し前、さすがに多少の空腹を覚えていたので、「松葉(「双葉」ではない)」という串カツ屋に連れられていき、中身の分からないロシアンルーレット串カツを数本堪能した。


「ムジカジャポニカ」は、できたてかと見紛う学校校舎の対面にあった。
「ムジカ」はロシア語かイタリア語か分からないが、ジャポニカはロシア語なら「Японйка(スペル自信なし)」で「ヤポーニカ」という生格になると思われ、ラテン語系のイタリア語だと思われる。
おそらくは「ニッポンの音楽」といった意味のはずで、この店の命名にジョンソンtsuが関与していると思われる。
出発前、「マンダラ2」並みのキャパを想像していたが、阿佐ヶ谷の名曲喫茶「ヴィオロン」か国立の「地球屋」ぐらいのキャパしかないように見えた。
開場になり中に入ると、双葉双一の旧譜が4枚とも販売されていたので、「春と乙女」「ママレードパイのかわいい食事」を購入する。
この日出演するはずのジョンソンtsu王子も、開場間もない時間は厨房ゾーンで甲斐甲斐しく働く。
時折、「日本語で」やり取りがあり、ロシア語やイタリア語だけしか話せないわけでないことが再確認できる。


そして、ムジカジャポニカでの一つの目的、ジョンソンtsu王子の仕込んだ(筈の)「チキンカレー」を注文し、食す。
まず、ライスは丸い型にいったん詰めてからよそってあり、カレーの盛り付け方も含め美しく、食欲をそそる。
チキンカレーの鶏肉は、程よい大きさの塊がじっくり煮込まれ、強く噛み締めなくても解れていく柔らかさである。
柔らかな肉に染み込んだカレーの味は、決して辛くはないが、程よくスパイスを効かせて小麦粉を使わずサラサラに調理した品のよさが感じられる。
ランチで食せるのであれば、週に何度かは注文したい味だが、喫茶店やカレー屋ではなくライブハウスでこれを味わえるのは嬉しい。
なお、チーズなどのトッピングができるようなので、多少欧風好みであれば足すとよいかもしれない。


決して広くはない店内は、いつしか満席になり、入口カウンター付近には立見の客も見られた。
ちなみに、ステージ上には2本のエレキギターとドラムセット、キーボードが置かれ、地球屋のときとは異なる演奏スタイルが予想された。
なお、このドラムセットは「ママレードパイのかわいい食事」のアルバムのバックを務めた「ははのきまぐれ」から入手したものらしい(ラブジョイのbikkeブログ参照)。
そのため、双葉双一のマイスペースで観ることができる「5×5のクリスマス」のPVの中に、この実物と同じドラムセットを確認することができる。


いよいよ11時間かけてやってきた、目的のステージが始まる。
バックの3人は、皆帽子を被っていた気がするが、キーボードの女性の服装は覚えていない。
ギターはこの夏に不似合いなふかふかのロシア風の防寒帽、ドラムは南欧の映画の男優が被っていそうな帽子(名前は分からない)で、どちらもあまり関東では被っている人を見かけない。
ドラムの、立ちながらのハイハットのみの拍打ちで始まる。
だが、一仕事終えた後ならまだしも、叩き始める前から銜え煙草に火を点けて演奏に入ったのだけは、どうもいただけない。
ステージ横からジョンソンtsuが、けったいな様相で登場する。
サングラスには一文字ずつ「波動」とかかれ、上着もズボンも明るめの色のストライプ。
短いズボンから覗かせる両足は、ロシアのカモシカのように細く、柄物のタイツ(おそらく女性もの)を覆い被せていた。
「お久しぶりです、シグネイチャーHONDAです」と、流暢な日本語で前奏のBGMの中、挨拶を始める。
何でも、この日のセミナーの主題は「ロック・オペラ」で、アンサンブルによる「癒しの波動」をじっくり味わうことらしかった。
「ピンチお願い」と女性的な物言いで、ハイポジションのギターの旋律が奏でられる。
4ビートのゆったりした曲調で、ジョンソンtsuはギターを持たずハンドマイクを持ち、客席に降り握手して回る。
握手できたジョンソンtsuのファンにとっては想定外の幸運であったといえるであろうが、一応この歌が文脈のある「オペラ」的要素を持っていたと言えるのであろうか。
歌詞の内容は、「4人の姉妹は母親の病を治すために旅に出て、シグネイチャー本田先生に薬を貰いに出かけたが、結局先生には会えず、神の啓示によりバンドを組んだ」という内容だったと思う。
おそらく、この編成のテーマソングのようなもので、冒頭に演奏されるための曲なのであろうが、母親の病は大丈夫なのか心配なところではある。


「ラッラドラッラド」と「ドッドミドッドミ」のベースラインが、ベースではなくギターにより弾かれる。
そこでギターをやっと手にしたジョンソンtsuが、速弾きなど技術を駆使して「変な外人」のときとはまるで異なるパフォーマンスを魅せる。
次は、「みんながよく知っている曲」とのことだが、知らない曲が演奏される。
「2階には何もない」で始まる曲であったが、もしかしたらそれがタイトルかもしれない。
メロディは聴きやすく、プログレ系と異なり、人口に膾炙する一般受けのする曲であった。
格好は奇妙ではあったが、やはり間奏のギターソロでギターのみに集中して演奏するところは格好よく、ギターに対する半端ではない真剣な姿勢が窺える。
「どうぞ」とドラムを叩かせ、「4(曲名不明)」の演奏となる。
個人的には、このステージで一番この曲が気に入った。
太目の撥で叩く厚めの音のドラムと、旋律の倍音と少しずらして高音のギター(吉田ピンチの方)が音楽の表面を這いずり回る感じ(少し分かりにくい表現だが)がむず痒い中毒性をもたらし、また聴きたい気にさせる。
似た曲があまりないタイプの曲なので、タイトルが分かればぜひ知りたいところである(この曲に限らず、曲名が分からない曲のタイトルを教えていただけると大変助かります、よろしくお願いします)。
最後は、聞き馴染みのある「スポーツと気晴らし」で終了する。
双葉双一曲ばかりを演奏したジョンソンtsuのCDにも入っているが、同じ編曲だと思う。
演奏者としての役割を終えた後は、ムジカジャポニカのPAとしての役割に移り、スピーカーの音量の調節などを行っていた。
オープニングアクトは、もっと聴いていたかった気もするが(20分ぐらいか)、やはりジョンソンtsuのギターの上手さが光った。
日本語も達者だということと、ガット以外のギターも上手だということは、よく分かった。
もっとも、双葉双一と比べて言葉優先ではなく音符優先の歌い方であったため、歌詞がやや聴き取りにくく、頭の中で消化し切れなかったところはあった。
だが、バックも非常に安定してクオリティが高く、ムジカジャポニカの告知の「無駄に豪華なオープニングアクト付き」のコメントに相違はなかった。


さて、次はメインステージである。
このライブの数日前、双葉双一本人のブログで「歌詞や変な世界観を褒められるよりも、歌がうまいと褒められるのが一番嬉しい」といったことを書いていた。
歌詞と世界観で長年勝負し、現在の立ち位置を確立したと思われる双葉双一本人の言葉としては、かなり意外なところはあった。
だが、新作アルバムに向けてのコメントの中で、従来の双葉双一像からの脱却を意図する内容が刻まれており、従来の像から外れる世界も含めて表現していく宣言がされていた。
ヘルマン・ヘッセの『デミアン』で言うところの、「アプラクサス」の像を志向しているのあろうか。
今まで「双葉双一の世界」の「表の世界」として表現していた世界は残しつつも、双葉双一の超自我が今まで抑え込んできた「裏の世界」も解放し、それらを含んだ真の全体世界を表現しようというものではないか。
楽屋をあまり見せない(若干ブログからは入ってくるが)双葉双一は、おそらくは歌を「言葉の飾り物」ではなく「音楽」として聴かれることを望み、陰で鍛錬に励んでいたであろう。
「天才」と自称しながらも、その像を崩さないように、陰で「職人」的な努力を重ねていると想像される。
偶然かもしれないが、ギターに関しては「職人」レベルを超える弾き手との共演が、かなり続いている気がする(結構勇気の要ることであるが)。
その中から、やはり音楽全体のクオリティを高めようという影響を受けていると思われる。
今回のレポで「歌がうまい」と褒めることができるかは分からないが、本人の希望する歌唱面から主にこの日のステージを振り返ってみたい。


「山麓にて」は、「三拍子で踊る~」で始まる曲であるが、双葉双一を初めて聴いた頃に比べて、曲の導入部分からの安定が感じられる。
その頃は、歌い始めの最初の部分の最初の音は音程より言葉を優先させていたように感じた。
今回は、一音目の立ち上がりがスムーズで、この日に向けての意気込みが強く感じられた。
歌唱面に関しては、前半はこの曲と次の曲がよかった。
特に、「さーらーばー」のサビと思われるあたりに、陰で歌い込んできたとも思われる安定感がある。
曲が終わり、頭を深く下げそのまま10秒ぐらいは静止する。
直感的に、「この日はこのスタイルで統一するのでは」と感じた。
最後の「アーアーアー」の部分には力強さも感じ、


「ワルプルギスの夜」と3拍子の曲が続く(裏拍がストロークで鳴り続けるので、いわゆる「ブンチャッチャ」ではないが)。
この曲も1曲目同様、音楽として消化しようと、歌い込んだ跡が見られた気がした。
ギター一本の演奏にかき消されがちだが、「ワルプルギスの夜」には結構音楽的には壮大な広がりがあり、歌うのは決して容易くはない。
だが、「俺とナオヤのロングトーン」のときより、オーケストラ感のある歌い方であったように思えた。
それにしても、第二回の「俺とナオヤのロングトーン」は誰が出るのだろうか。
今、人選の会議の真っ只中かもしれないが、楽しみではある。


「8月のほんの少し」は、高音ストローク主体の、比較的おとなしい曲。
ちょうど旬の8月にしては、涼しげな感じで、口笛も含め聴き心地がよい。
だが、この日はその前の2曲のような曲向けに喉を作りこんできたのではないか、とは少し感じた。


昔、筑紫哲也の「ニュース23」という番組で、ユーゴスラビアの空爆の現地ドキュメントを放送したことがある(当時は民放もよく見ていた)。
その中で、今でも忘れられない印象深い映像があった。
爆撃の空襲の雨の中、地下室まで響き渡る爆音。
その空間の中に、不似合いなピアノが置かれていて、爆撃のノイズと戦うかのように、ピアニストがベートーベンの月光のソナタ(多分)を演奏する。
打楽器のように不定期に入る爆音と、対照的な静かなメロディ。
「誰が」「なぜ」そのような演奏をしていたかのかも、もはやよく覚えていない。
だが、破壊的な環境音の中で奏でられる音楽を聴くたび、このときの映像がフラッシュバックのように甦ってくる。


この日、近くで大きな花火大会が開催されていたようだった。
3曲目が終わるあたりから、花火の音が大きくなり、飼い犬がいる家庭では「家の中に入れろ」と犬が騒ぎ出す頃合である。
それに合わせたかのように、「家の中で花火」が演奏される。
当然、この花火大会の晩につきづきしく、趣向を感じた客席から笑い声が漏れる。
もちろん、外は空襲のような爆音が鳴り響いている。
「君が思うような、かわいいのじゃないよ、家の中で花火、それは打ち上げ花火」という部分などは、一般人にはとても思いつかないスケールの大きさを感じさせる。
「1番でも言ったけど」と繰り返す趣向も、さらにユーモアが二度塗りされ、笑いを誘う。
なお、「台所で慎ましく線香花火」という部分が歌詞にあるが、実際はなかなかそうではないようだ。
居酒屋で線香花火をやった知人に拠れば、想像を遥かに超える煙が店中に充満して、こっぴどく店から大目玉を食らったとのことである。
もし、店内での線香花火大会を計画をしている人がいれば、注意した方がよい。


「わたしの人魚姫1」は、毎回のように聴いているが、飽きが来ない。
やはり、いろいろな意味でこの曲はよくできている。
調和の取れた美しい歌詞と、緩急がある割に程よいテンポで聴きやすい。
ハーモニカの後奏も聴き応えがあり(この日は普段よりさらに長い気がした)、2よりもバランスよく作られている。
最初に双葉双一を聴くなら、「タワーホテル」もよいが、バランスの点ではこの曲がお勧めである(「タワーホテル」の方がはまる要素があるが)。


お辞儀を長時間する代わりに手を振り、いったん舞台から退場。
結局、一言もMCを入れなかったため、途中のステージが終わっただけか分からず、アンコールの手拍子が始まる(こんなに早く終わるはずはないのだが)。


再登場しても、MCを入れずにアップテンポでギターが入る。
「手に捧げる歌」は、「リリリリーリリーン」という擬音語が音楽的には印象深い。
多少暴力的な表現か、と思わせる他の双葉双一曲にない歌詞であり(「鼻の穴を三つにしてやろうか」など)、否が応でも歌詞が印象に残る。
この曲も従来の双葉双一像からの脱却曲の一つと思われるが、もしかしたら古い曲かもしれないので何とも言えない(8/20に新曲と判明)。


「束の間の二日間」は、やはり歌詞の方を褒めるべきであろう。
ちょうど一年前の出来事を追憶する歌詞が、その当時の緻密な描写ではなく、現在の出来事の描写から憶測させる構造になっている。
「後悔クラブ」という絶望遊びの集会の描写は具体的だが、「ちょうど去年の昨日」などに何があったかについては多く語られていない。
聴き手の想像力を喚起させる優れた歌詞であり、これを聴くと本人の意向に関わらず、やはり歌より歌詞を褒めたくなる。


「夜の底」は、しっとりとした曲で、「束の間の二日間」とは逆の並びで、国立地球屋でも続けて演奏された。
女性側の視点で、より内面描写が豊かなので、移入した想いで聴くのであれば、こちらの方が前曲よりも合っているであろう。


「ハンカチはなくても大丈夫です」というMCがやっと入り、毛色の違う曲が演奏される。
泣ける曲ではなく笑える曲でもハンカチは必要かも知れぬが、ともあれMCがない緊張感からは開放される。
「ピクニック」は、さすが大阪、東京とは反応が違った。
東京が「クスクス」型の反応であるのに対し、大阪は「アハハハ」型(おまけに手を叩いて笑う)の反応が何度も返ってくる。
確かに、ジョンソンtsuや沢田ナオヤのムジカジャポニカのライブCDを聴いても、東京よりも反応が大きい(良い、悪いではなく、あくまでも「大きい」)。
特に、最後の部分の「あいーとへいわー」のところで、観客がしっかりコーラスするのは、東京のライブでは聴いたことがなかった。
この曲は、これが入って完成した気がする。


「人生やってこい(完全版)」も、観客の反応が大きい。
特に、この曲は「パチンコ行ったらあかんで」「自腹やで」など、大阪言葉がところどころに用いられており、そのあたりが反応を増大させているところはある。
この日一番の大喝采で、関西でのライブでは演らないわけにはいかなそうな曲である。


「こんなバカ騒ぎをまっていた(KBM)」は、カセットテープでは入手したが、生の演奏を聴くのは始めてである。
「バカ騒ぎ」とは言っているが、曲は落ち着いた雰囲気で、この逆説的な曲の付け方が「バカ騒ぎ」を冷静な目で見ている視点を強く感じさせている。
「待っていた」と言っている割には寂しげな内面を感じさせるが、いずれ深く掘り下げて聴いてみたい。


「後半ちょっと冴えていなかった」と述べていたが、それは聴いている方は感じなかった。
途中、「090-××××‐××××(実際は全部言った)」で有名な双葉双一でした、とMCが入っていたが、本人の本当の番号なのだろうか。
ファンから本当にかかってこないか、少々心配にはなった。


「ドラムレディ」で、いったんソロステージ終了。
後奏の最後のギターのハンマリングオンの連続が、どことなくドラムっぽさがあり、ギター一本でもこのように弾けるのだと感心した。
再度手を振り、ステージから消え、再度のアンコールの手拍子。


「恢復期」からは、先ほどのバンドのメンバーが再登場する。
だが、「四姉妹」のコスチュームはもう着替えた後であり、普段着姿での演奏であった(それでもどことなく関西風)。
双葉双一とジョンソンtsuとが、ギターを持って並んでいる。
双葉双一の曲をともに演奏できる喜びからか、この上なく嬉しそうな表情で双葉双一に微笑みかけるジョンソンtsu。
それを一部始終目にしながら、冷静な表情を全く変えない双葉双一。
対照的な二人が見つめあうこの瞬間こそが、おそらく、この日のこのステージ一番のハイライト場面であろう。
絵心でもあれば二人の王子のこの映像を残しておきたいところであるが、「10本アニメ」レベルの絵しか書けないのが残念である。
「恢復期」は、もともと幻想を感じさせるモードの和音展開であるが、安定したドラムとジョンソンtsuの高音域で豊かな音色の輝きを発するギターとの効果で、歌の世界の映像化をいっそう強くする。
個人的には、「耳の中を馬が走る」歌詞から、一定の速さで回転木馬が回り続ける映像が浮かび上がってきた。


「イン.ザ.ナイト.マイ.フェスティバル」は、この日一番の大曲であるが、レコーディング同様にジョンソンtsuのギターが入ったのは嬉しい。
もう少しボーカルの音量に音量を割いてもよいかとは感じたが、様々な技術を駆使したジョンソンtsuのギターは、力量の大きさと深さとを両方感じさせる。
曲は「タワーホテル」同様、サビ以外の部分は語りのような形式で歌詞が歌われている(なんと、13番まである!)。
ドラム・キーボードは、合わせにくそうにしていたところもあったが、バンマスのジョンソンtsuは、そのたびにメンバーに合図を送っていた。
後奏の間に、主役の双葉双一は退場。
当然、本人の再登場を求めるアンコールの手拍子が起こる(本日3回目)。


「今日は皆さん、かわいい格好してきてくれてありがとうございました」とのことで、アンコール開始。
「アンダースロウ」も、声の出具合がよくなってきたようで、よい演奏である。
調子のよさを自覚したのか、拍手が起こる前にメドレーのように「瞬き分の夜」が続けて演奏された。
「ウルスリ」で、本当に終了。
催眠誘導のように、映像的な言葉がギターストロークを背景にしてリフレインされる。
「タワーホテル」や「イン.ザ.ナイト.マイ.フェスティバル」と同じ、語りで大半が構成される曲だが、だいぶ毛色が異なる。
前二曲はサビっぽい主題があり、そこにそれまでの語りが収束され、独自の世界という液体の中にそれまでの言葉が溶け込んでいく感がある。
だが、「ウルスリ」はそれまでの言葉が、固体のまま最後まで残り、最後にそれが消化されない一つの形としてまとまってくるように個人的には感じた。
曲が終わりBGMが店内に流れるが、ステージ脇にしゃがみ込んだジョンソンtsuが、最後の最後までアンコールの手拍子を止めずにいたのが印象的であった。
終演後、せっかく遠路訪れたのでジョンソンtsuに話しかけたい欲求はあったが、そのまま帰ることにした。
舞台の上と客席と、一つの空間で、素晴らしい音楽に包まれていたことに満足すべきと、そう考えたからでもある。
東京にも(厳密には千葉だが)、ファンがいて音楽活動とブログの更新を楽しみにしている人間がいるということは、いずれ伝わることであろう。
国立(関西の方のために読み仮名を付けると「くにたち」と読む、昔清原と桑田がいた頃のPL学園が一回戦で進学校の都立国立高校と対戦したので有名、そのときはぼろ勝ち状態だったので清原まで投手をやった)で購入したCDしかなかったが、「四姉妹」系のCDも製作されればぜひ購入したい。


この日の総括を延べると、やはり長時間かけて来ただけのことはある(フェスティンガーの認知的不協和理論ではなく、本当に)。
二人の王子は、あまり楽屋を見せない美学を持つようだが、少なくとも片方の王子はPAやら厨房やら、楽屋側でも活躍している姿があり、それを見ることができた。
国立(くにたち)ではプログレ系音楽で一つの完成系を持っているかと思われたが、音楽面でも技術面でも多方面への可能性を持っていることを知らせてくれた。
両方の王子ともに、今後の活躍を祈りたい。


翌日の帰りは、京都経由ではなく亀山経由で名古屋に出る。
去年、富山で乗ったトロッコ列車(一般のではなく砂防ダムの見学用の工事用の車両)と同じような森の中を突っ切る、大自然が堪能できる経路であった。
大雨が降ると、陸の孤島に取り残されそうなスリルがあった。
滝本晃司と知久寿焼がよく共演する「月の庭」を見ようと思ったが、場所が分からず駅に引き返す。
帰って調べたら、もう少し先に行けばあったようである。
帰りは12時間ぐらいかかった気がするが、よく眠った。
青春18切符のシーズンに、京都でもまた二人の共演があるようだが、さすがにこれに足を運ぶのは難しそうである。
8/20の代官山で、まずは次のステージを楽しむことにしたい。