双葉双一ムーンウォーク大披露ツアー2009ファイナル/大阪ムジカジャポニカ(09/12/20)


1.I think that 以下
2.氷の上の乙女
3.岬の上
4.天使とドライブ
5.タワーホテル
6.手に捧げる歌
7.瞬き分の夜
8.誰のためのお客さん さて君は?
9.お嬢さん気をつけて
10.密漁の夜
11.お嬢さんよろこんで
12.インザナイトマイフェスティバル
13.夜の底


14.ポケットと冷たい手
15.お高くとまった季節
16.クリスマスに誕生日


17.もう少し歌うから
18.ピクニック


19.旅に出なさい



最初に断っておくが、このライブには足を運んでいない。
それどころか、12/18の高円寺のU.F.O.クラブのライブすら行っていない。
そのため、演奏面については何も論評できないし、下手をするとセットリストに誤りがあっても分からない。
しかし、このライブについては密偵から詳細な報告を受け、様々な興味深い試みが行われたことを知った。
セットリストも入手できたため、せっかくなので「さも観てきたかのように」ライブレポを上げてみたいという想いが募った。
「嘘、大げさ、紛らわしい」といった点があれば、公共機関でなくコメント欄などでご指摘いただきたい。


この日の少し前に、ムジカジャポニカの年内のランチタイムは終了しており、昼にカレーを食べることは出来なくなっていた。
だが、夜には普通にジョンソンtsuが店内で働いており、直々にドリンクを手渡してくれたそうだ。
「再度の東京公演(千葉でも可)」や「第二回ジョンソンまつり」を、ぜひ依頼してほしかったところだが、こちらのレポで要望しておくことにする。
ジョンソンtsuのブログも、唯一無二の世界のブログで、「アタックオブザキラートマト」というB級映画のパロディなどは、そのニッチさに感動させられた。
個人的に一番好きな「片岡編」に再度突入したので、続きを楽しみにしている。
ライブも、年明けにはまた多く行われるようで、関西在住のファンが羨ましいところである。


翌日が京都の「拾得」でのライブで、この日は関西圏で視聴率が高いM1グランプリ(自分は、今年初めて見た)の放送と被ったということもあり、夏に大入りになったときよりは少な目の客入だったようである。
23日にムジカジャポニカで演奏する沢田ナオヤも、この日は観客として来場していた。
おそらく、お気に入りのスパワールドに入りびたりの関西滞在であろう。
スパワールドは、老若男女問わずお薦めの施設である。


やがて、双葉双一の登場で、この日の衣装はお似合いであった。
黒を基調とした帽子と外套を羽織り、よい雰囲気を持っていた。
「I think that 以下」で、この日のステージがスタートする。
「氷の上の乙女」は、フィギュアスケートのテーマであり、この季節には相応しい曲である。
夏にムジカジャポニカで聴いた「束の間の二日間」などは夏に相応しい曲だが、冬の会場では冬の曲がやはり映える。
ちなみに「あなたはなぜに横顔なの」というフレーズは、「インザナイトフェスティバル」にも共通で使われている。
最近定番となっている「岬の上」に引き続き、「天使とドライブ」と「タワーホテル」と初期の名曲が演奏される。
「タワーホテル」は、日によって速さも溜めも音の高さも(柏は6カポ、以降は7カポが多かったように思う)まちまちな、まさに生演奏である。
この日は、大阪の空の下、どのような演奏が披露されたのであろうか。


「手に捧げる歌」は、なんと口パク・手パクで演奏した。
難しくて長い部分があるからのようだが、詳細は分からない。
また、東京や京都などでも、同じ試みが行われたのかは分からない。
もしかすると、勝手知ったるジョンソンtsuがPAを担当していたがために可能だったのかもしれないが、ムジカジャポニカ以外の情報をお持ちであればご一報願いたい。
12/18のライブの紹介文には「前回ライブは全曲口パク手パクで行った」旨記載されていたが(ライブ終了後削除済み)、もちろんそのようなことはなかった。
SMAPはソロパート以外はマイクをオフにしてあるという噂があるが(真偽不明)、広い会場でなければそれも不可能である。
もしかすると、紹介文はこの企画のための一種の告知を行っていたのかもしれない。
とにかく、大変口パクも手パクも見事にこなし、観客から大いなる喝采を受けることとなった。


「瞬き分の夜」も、演奏頻度が高い。
「誰のためのお客さん さて君は?」と続く。
「お嬢さん気をつけて」は、しばらく聴いていない。
双葉双一の曲を初めて聴くのによい曲として、ファーストアルバム発売時に紹介されていたと思う。
「お嬢さん」シリーズの中では、世界が集約せずに、広がりを見せているところがあり、その点が気に入っていたのであろうか。
「密漁の夜」は、友部正人のカバー曲で、阿佐ヶ谷のヴィオロンでも演奏されている。
今月に友部正人の生演奏を聴く機会があったが、残念ながらこの曲は演奏されなかった。
ぜひ比較してみたいところではあったが、いずれその機会も来るだろうか。
ヴィオロンのときは本人の曲以上に真剣に演奏していたのであるが、今回もおそらく同様であろう。


「お嬢さんよろこんで」は、「友部作品の後に持ってきても恥ずかしくない」という自負を持っているからこその曲順であろう。
この曲は、聴かなくても最高の出来であったことが容易に予想が付く。
「森に住んだり、小川を飛び越えたり、意味深いことをそっと、してあげるよ」という美しい歌詞の世界は、もともと評価できる曲である。
だが、音源化後この曲は音楽的に進化を続け、長いハーモニカの後奏が映像化された歌詞の余韻を常に与え続ける。
本当にシンプルな旋律にも拘らず、これだけのものに仕上げられる緻密な才には脱帽させられる。
「インザナイトマイフェスティバル」は、今回一人での演奏であった。
ジョンソンtsuとの共演も期待されたが、今回はPAか何かに専念していたようだ。
「横顔」の一節があるため、「氷の上の乙女」と同じステージで歌われるのは意外であった。


本編最後の「夜の底」で、再度のサプライズがあった。
ピアノを弾き出し、歌い始めたことである。
ピアノが置かれていた会場は、今までにも何箇所もあった。
だが、ピアノを弾きながら歌ったのを観たことは、今までなかった。
そう言えば、本人の昔のブログ(受験生編)のときに、ピアノを弾いてた写真があったような記憶がある。
曲後、「やあめたやめた」と、ピアノの前から立ち去り、下手へ退場する。


ここで、やっとムーンウォークの披露となる(最近始めたtwitterでも既に記したが)。
「~に教えてもらった」「彼は小学校のときから~前にもムーンウォークができる」「こんなの2流ですよ、M1見なくていいんですか」と、自身を謙遜する言葉を唱えていたらしい。
そう言えば、阿佐ヶ谷ヴィオロンのときは、阿佐ヶ谷駅からムーンウォークで会場入りしたと言っていた。
この日も、ムジカジャポニカまでムーンウォークで会場入りしたのだろうか。
沢田ナオヤとジョンソンtsuと、皆足が細い人間同士で並んでムーンウォークをすれば、さぞかし絵になると思われる。
話は逸れるが、「小学校のときから」というムーンウォークの師匠の話は、おそらく本当であろう。
マイケルジャクソンは、義務教育の教室の中まで大きな影響を及ぼした唯一とも入れる人物であったであろう。
今では信じてもらえないかもしれないが、ムーンウォークが全盛の時代、休み時間になると廊下や教室の後ろでは皆ムーンウォークで歩いていて、自分だけが普通に歩いている方が異様であった。
また、教室の床は蝋が一面に塗られていて、その滑ること滑ること(ムーンウォーク仕様の床)。
掃除の時間に机を少し押しただけで、「スー」と教室の端まで摩擦係数を減らした机が何とも順調に進んでいく。


アンコールに応えてまず3曲披露されるが、どれもこの季節らしい曲であった(「お高くとまった季節」もおそらくそう。
特に、「クリスマスに誕生日」は、この1週間が一番相応しい曲である。


再度の登場で、今度は音源化されていない2曲が、連続して演奏される。
「もう少し歌うから」は、アンコールのために作られたといっても過言ではない歌詞である。
「ピクニック」の「あいーとーへいわー」のコーラスも、前回は感動的なぐらいに会場と一体化して客席中から声が聴こえたが、今回はそれほどではなかったとのこと。


まさか「ピクニック」で終わりではないだろう、という会場全体の予想があったようで、3度目のアンコールは一番新しい「旅に出なさい」で終了する。
この曲が初演されたときに聴いたが、「旅に出なさい」は「手に捧げる歌」以降の創作世界の中で、最大の傑作にもなりうるだけの素晴らしい方向性を持っている。
前にも同じことを書いたかもしれないが、「お嬢さん」的テーマへの固執を捨てながらも、目に見えない小さな大切なものにあえて目を向けていこうという志向が感じられる。
同じ日に初演されたと思われる「ハッピーエンド」は今後どれだけ再演されるか分からないが、「旅に出なさい」は双葉双一の魂が滅びるまで歌い続けられるであろう。


この日は、演奏の出来は評価できないが(そりゃそうだ)、季節にも相応しい質の高いセットリストで、「口パク・手パク」「ピアノ演奏」「ムーンウォーク」と三つの見せ場があり、おおむね満足できたのではないだろうか。
双葉双一のステージは、楽器の数が多いわけではないのに、選び抜かれた言葉のフルコースで、終演後精神的な満腹感を覚える。
この文章を書くために歌詞カードを眺めるだけでそうした気分になるのだから、ステージを堪能した聴衆も同じ満足感を持つに至ったのではなかろうか。


思えば、昨年の今頃は、双葉双一の歌を一曲も聴いたことがなかった。
それが、知久寿焼とのツアーを観たことで(沢田ナオヤとの出会いも知久寿焼ライブだった)、何度もライブに足を運び、アルバムも全部揃えることになった。
新参ものが何度もレポを上げることは諸方面から心苦しく思われているかもしれないが、唯一無二の世界を築く表現者の活動を多くに伝えたいという思いはある。


来年も、「オレとナオヤの新春ロングトーン」が国立(くにたち)の「地球屋」である。
2月には西荻窪のビストロサンジャックで「ひくつ系音楽会Vol.2~」があり、こちらも素晴らしいメンバーである。
共演の日比谷カタンは、前回共演のときに後から動画を検索して、行けなかった身の不幸を嘆いた(ジョンソンtsuも共演だったのでなおさらである)。
山田庵巳は、名前を知らなかったので検索したが、自分のために音楽を創ってくれたかのような個人的なツボに入り、毎日のように動画を鑑賞している。
歌詞の世界だけなら双葉双一や原マスミの方が上だが、隠しようのないクラシックギターのバックボーンと徳永英明や沢田ナオヤ、佐藤伸治あたりに通じる声質が心地よく、これを生で聴けるかと思うと、今から興奮で夜も寝られない(朝は眠たいが)。


大切なことなのでもう一度断っておくが、今回のライブレポは自分が足を運んでいない、伝聞情報と過去の情報を組み合わせただけの「架空ライブレポ」である。
「三つの見せ場」を記しておきたい欲求に駆られ、密偵から情報を聴取して、あたかも観てきたかのように書きとめたものである。
だが、実際に聴いていない分、自分の好き放題に書けて意外と楽しかった。
もし、今後も情報さえあれば、似たようなライブレポを書き記したいと思う。


mugimaru2 五周年記念イワトコンサート(原マスミ・友部正人)/神楽坂シアターイワト(09/12/08)


1.アイス!アイス!アイス!
2.ブレーメン
3.人間の秘密
4.悲しいのはいやだ
5.血と皿
6.海のふた
7.教室


8.歯車とスモークド・サーモン
9.言葉がぼくに運んでくるものは
10.池田さん
11.ダンスホール
12.生きていることを見ているよ
13.(ムギマルの詩の朗読)
14.手袋と外国コイン
15.地獄のレストラン
16.反復
17.朝は詩人


18.すばらしいさよなら
19.心配
20.イタリアの月
21.ピアノ


22.おやすみ12月


神楽坂でライブを聴くのは、確か4度目である。
このムギマル(麦丸)2の企画で、同会場での原マスミライブが1回。
神楽坂駅前のEXPLOTIONでの「ワイト島の奇蹟」で1回。
つい最近の帽子屋GALONでの絵本朗読も、ライブに入れれば1回。
なお、絵本仕掛けの音楽会「ありがとうがききたくて...」については、今月12/23に無料で鑑賞できる機会がある。
残念ながら柳原陽一郎の朗読ではないが、中川五郎というやはりベテランのミュージシャンの名前があったので、きっと朗読担当なのであろう。
伴奏などの2人は前回と同じルマタン・デテ(スパン子&南谷朝子)なので、全体のトーンはあまり変わらないと思われる。
無料だが、予約はした方が確実らしいので、興味がある方は下のリンクから探してほしい。
http://minamitani.deko8.jp/schedule.htm
朗読の職人である原マスミにも、こうした機会があることを期待したい。


開演前、舞台側をホームベースとすると一塁側の壁に、原マスミと友部正人が歓談しケーキを食する様子が映像として映された。
これを文字に起こしたものが各席に置かれていたパンフレットであろうが、この動画もWebで上がらないものであろうか。
関係者に要望してみたいところではある。


前にも記したが、友部正人の生演奏を聴くのは初めてであった。
「六月の雨の夜、チルチルミチルは」は酒井俊が歌うのを聴いたし(原マスミと共演時に聴いた、名前から男性だと思っていた)、「密漁の夜」は双葉双一がカバーするのを聴いたばかりである。
だが、本人の演奏を聴き、双葉双一や知久寿焼の音楽にどのように影響を与えているのか、この目で見極めようという学究的な興味がこの日は強く働いていた。


入場時に、ランダムにマンジウ2つの入った袋が配布される。
いろいろ種類があるようだが、食したものはどれも美味しかった。
舞台の横の方に何台かギターも並んでいて共演者がいるのかと思ったが、後で片付けられた後出番はなく、結局何の楽器だったのかは分からない。


「アイス!アイス!アイス!」から始まるが、スピーカーが持参の小さなアンプでエフェクターも何もなしだったので、ストロークの音が相当野性的になってしまっている。
以前、この会場ではサイド席から観たが、会場自体は反響がよいので、一度跳ね返ってくる音質は決して悪くなかった。
アンプラグドの方が、いろいろな意味で相応しい会場だったとは思う。
ただ、小さなアンプが直接耳に届く方角で聴いていると、やはりマンダラグループの音とは違った音楽に聴こえる。
「ブレーメン」は、さほど強いストロークでない分、あまり気にならず、終わりのほうで弱めの音を多用するようになったところなどはいつもの調子であった。
この2曲は、この二人の組み合わせで演奏するには多少もったいない気もするが、「原マスミの今」を聴かせるには悪くない。
個人的には、二人の旧曲がより多いとさらに、とは思うが、贅沢かもしれない。


「人間の秘密」からは、歌詞に一癖も二癖もある原マスミの世界になり、この日の共演に相応しい曲が続く。
ちなみに今回のレポの主題は「双葉双一や知久寿焼への音楽的影響の考察」であるが、知久寿焼の影響の半分は原マスミである。
この日は近年の曲が多いため、原マスミから知久寿焼への影響曲をこの日のリストから探すのは難しいのだが、「人間の秘密」的なギターで前奏の旋律も伴奏も組み合わせて弾く弾き方は影響が強く見られる。
知久寿焼も、当然ハーモニカを吹くのだが、ギターを伴奏に徹底させず、前奏に間奏に歌の合間にも伴奏以外の音をどんどん入れてくる。
こうした姿勢から想像されるのは、「自分の創りたい世界を生み出す」前に「徹底的に手本の音楽を弾き込み鍛錬する」過程を相当長く取っていただろうということである。
また、こうした人間の存在や生と死などを掘り下げる歌詞世界も、知久寿焼の描く(特に初期)中に垣間見られ、「安心」という曲(原マスミは「心配」)などは友部正人よりも原マスミの影響が強いであろう。


「空気の変わるような明るい曲なかったっけな、それがないんです」「弾き語りは縁起の悪い曲ばっかりで」と、いつもどおりのMCが入る。
そこで、楽器ケースを開けてウクレレを弾き始め、「楽器は南国だけど歌の内容は真っ暗なんですよ」と呟き、「悲しいのはいやだ」が始まる。
今回も三軒茶屋のGURUGURUのときと同様、2番までで終了する。
何か意図があるのかもしれないが、分からない。
3番の歌詞も好きなので、通常通り聴きたかったところではある。
ただ、2番で終わると本当に真っ暗であり、目を閉じたときのその暗黒感を強調したかったのであろうか。


「血と皿」は、タイトルとはほぼ無縁の(強引にこじつけることはできるが)名作である。
友部正人ファンの観客にも(女性なら特に)、この破壊力のある歌詞と独自の世界は印象に残ったことだと思われる。
この曲は音源化されていない中では1番か2番かの代表曲で、映像がここまでリアルに浮かぶ歌詞は(特に2番)大変貴重である。
演奏面も第1部では一番よく(会場との相性も含め)、聴き応えがあったと思われる。


「友部さんとは初めてなんですよ」と、共演が初めてということを述べるが、意外であった。
「12~3回ぐらいやっている気がした」というのも、頷けるところであった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  
最後に二人で演奏するステージが設けられるという告知もあり、期待が高まった。


「海のふた」も定番曲だが、友部正人との共演向きである。
歌詞も詩的であるが、一番この日に相応しい部分は別にある。
後半部、朗読ではないが日常の様々な場面の台詞が次々に繰り返される部分がある(「おはよう」「こんばんは」など)。
何度も聴くと、音の高さや言葉の詰め方、間合いなど全てが緻密に計算されて、いつも同じように再現されていることが分かる(「もしもし」の3回目をマイクから引いて弱くしたり、など)。
歌唱であれば五線紙の上をなぞり再現することもできるが、ピアノの白鍵と黒鍵との間の音程の非常に繊細な動きで、職人芸の朗読を披露してくれる。
歌やギター、絵画以上に、原マスミの朗読技術の高さには驚かされるが、その裏には天性の発声の他に緻密な計算があると実感させられる。
今回の演奏では、ゼネラルポーズが短めに設定されすぐ演奏に戻ったが、余韻は多く残っていた方がよいとは思う。
友部正人のファンに曲の終了前に拍手させて、恥をかかせてはいけないという配慮があったのだろうか。、
ちなみに、友部正人の日記では、「最後の海のふたは圧巻であった」旨記載があるが、最後から2曲目である。
また、原マスミ公式ページでは、この曲の後に「夜の幸」のタイトルがあったが、実際は演奏されていない(おそらく、予定でリスト化されていたのを何らかの理由で演奏しなかったのであろう)。(→修正されていました。管理人様、いつもお疲れ様です)
だが、そんなことは些細なことで(とはいえ書いてしまうが)、この曲は壮大な長編小説を読み終えた後の読後感に近い余韻が残るので、「圧巻」という言葉は非常に理解できる。


いつもどおり、「教室」で第1部が終了となる。
本当は見事な間奏があり、ソロライブでは楽しみにしていたのだが、残念ながら省かれてしまった。
大晦日に演奏するのであれば、そのときは期待したいと思う。


友部正人のファンは、おそらく言葉の世界を大切に思う志向があるのではないかと勝手に想像するが、「人間の秘密」から「海のふた」までの閉じた独自の世界は原マスミ世界として理解されたのではなかろうか。
第1部は、いつものレパートリーから大きく外れることはなかったが、楽しめるところは少なくなかった。


15分の休憩が挟まり、白いシャツにストラップの友部正人が登場する。
「一本道」の世界と異なり、朝の健全で爽やかな世界の音楽がイメージさせられる。


「歯車とスモークドサーモン」は、「歯車」が奥さんで「スモークドサーモン」は友部正人本人の象徴だろうか。
「歯車」のように規則正しく働き者であろう夫人の姿が、曲を聴くと思い浮かばれる。
無機質なものと食品を並列させる発想は確かに新鮮で、「まだ硬くなっていない」というのはこの発想や表現のことであろうか。
曲の中での言葉の間合いや歌い方に知久寿焼との共通点を感じ、知久寿焼に与えた影響の大きさを再確認する。


「言葉がぼくに運んでくるものは」には、大変驚かされた。
弾き語りのギターを置き、前奏や間奏などだけハーモニカを吹く。
足拍子だけでビートを刻み、アカペラで歌う。。
歩いたり手を上で振ったりと、歌っている姿だけ見ると石川浩司の「ヒーロー数え歌」と変わらぬ印象であった(特に「ドゥングン」と繰り返すあたりは)。
背景のない人物画のように、言葉だけが何物にも邪魔されずに浮き上がってくる。
こういった表現方法を取っているとは予想していなかったので、大変に印象に残った。


「池田さん」という歌は、「ふちがみふなと」との合作らしい。
この日のパンフレットには、友部正人が合作について原マスミに尋ねているところで、「ない」という返事だけで終わってしまっているところがあった。
本当は、他のミュージシャンと合作・共作することによる可能性や広がりについて、自論を述べるつもりだったのではあるまいか。
発表しているアルバム数の違いは、この合作による刺激の連続も多大に影響しているとも思われる。
「ふちがみふなと」は、自分のよく聴くミュージシャンと多く接点があるようだが、まだ聴いたことがない(「ハンバートハンバート」も同様
ちなみに、「池田さん」とは、渕上純子が5歳のときに出会った水商売の女性らしいが、こうした固有名詞まで出てくる私小説的歌詞は背景まで理解してからでないとなかなか体の中に染み渡ってこない。
原マスミ作品でほぼ固有名詞が現れないので、自由に聴き手が移入できるところがあるのだが、こうした私小説は少し距離を置きながら聴かなければならない不自由さがある(贅沢だろうか)。
なお、曲後の「チューニングのとき、皆同じ顔になる」ことを嫌い、後ろ向きでチューニングを行う。


「ダンスホール」は、伴奏が面白かった。
と言っても、Gの和音の次の小節に4弦の2ポジと3弦の3ポジを押さえる和音に切り替わるのが面白い効果を生んでいたところが主であるが。
「ダンスホール」の中の「お客様」を、「卵」になぞらえた歌詞であった。


「生きていることを見ているよ」は、佐野元春との共通点が感じられるが、より有機的な感じがする。
アスファルトの都会的な香りが佐野元春からはするのに対し、土と言うか人間と言うか、より表面的には柔らかさや温もり、内面的には強い芯の存在がある。
本人の日記の今年の10/4の記事を見ると、この曲は新曲であるらしい。


主催のムギマルについての詩があり、主催者の要望でそれを朗読する。
小麦の饅頭が食べたくなる、よい詩であった。


「手袋と外国コイン」も、あえて言えば佐野元春あたりに影響を与えた方向だろうか。
友部正人も佐野元春も、曲の作り方が「歌詞が浮彫に浮き上がる」タイプの作りになっている。
二人とも、メロディ優先で歌詞が沈んでしまうメロディを選択することはしない。
「ポケットの中は手袋と外国コイン」というサビのメロディは印象に残るが、そうしたリフレインで言葉が繰り返される部分以外はメロディアスの誘惑には囚われられない信念がある(個人的には囚われる方が好みだが)。。


「地獄のレストラン」は、枕木を擬人化している歌詞が印象に残った。
この日の友部正人曲で面白いのは、人間などは無生物に象徴化させるのに、無生物には生命の息吹を吹き込み擬人化するというところである。
一つの音節に複数の音符を当てて、音を上ずらせるように膨らませ強調する手法が知久寿焼の取る手法と同じで、影響というよりはこれは学習であろう。
ギターだけで前奏の旋律と伴奏を組み立てるような、ギターの弾き方などは原マスミの影響が強いと思うが、知久寿焼のメロディラインと歌い方は友部正人のコピーから生まれていると思われる。


「反復」は、逆に一つの音符に4つも5つも入れるメッセージフォークであった。
おそらく、この日一番有名であろう曲であり、曲後の拍手も3割ほど大きかった気がする(たまとの共作「けらいの一人もいない王様」にも収録)。
音程はあるものの小節の中では同じ高さの音で絶叫して言葉を詰め、「この僕を精一杯好きになっておくれ」「君はとてもかわいい女の子だよ」と歌い込める。
大変な熱演であったが、影響の大きさは分からないが、2曲目と同様石川浩司を思い起こさずに入られなかった。
絶叫し、飾らぬ言葉でメッセージを歌うこのスタイルは、実は石川浩司が一番表現したい、目指している形だったのではないだろうか(「オンリーユー」などにそれが見られる)。


「朝は詩人」は、主催者の麦丸からのリクエストだが、個人的にはこの部で一番よかった。
曲の作りが上品な(他が下品というわけではないが)三拍子の曲で、「君が歌う その歌の 波紋を僕は眺めてる」という言葉と朝らしい爽やかなメロディが、香ばしいトーストとバターのように調和し、朝の木漏れ日のような映像を浮かび上がらせる。
この曲も決して詩は負けていないのだが、純粋に楽曲として楽しむことができるクオリティの高さがあった。


この日のラインナップからは、残念ながら双葉双一への影響を見つけることはできなかった。
双葉双一の世界は、詩というよりも文学小説の風情があり、曲も語用論的な方法(意味の要素でなくどのように言葉を伝えるかの方法)での影響はあるものの、友部正人という出発点から切り離された後双葉双一は自分の道をひたすら切り開いたかのようにも思えた
逆に、知久寿焼にはメロディラインの構成や歌い方に、多分に影響を感じられた。
出発点に飽き足らず、より多くのものを吸収した上でそれを土台に自分の世界をこしらえたのであろう。
また、予想外に石川浩司と佐野元春への影響は感じた。
佐野元春は確かにあるようだが、石川浩司はたまたまかもしれない。
ちなみに、現在の佐野元春と現在の友部正人は、見た目的にも通ずるものがあるように思われた。
まとめると、言葉の中で音程を動かすところは知久寿焼に、メロディの中で言葉を浮き立たせるところは佐野元春に、五線紙から外れて言葉を押し込むところは石川浩司に、それぞれ近い。


言葉最優先で曲も歌唱も組み立てる友部正人の音楽は、音楽重視で聴いてしまう自分にはまだ正直なところ距離がある。
だが、様々な発見も多く、第2部は大変有意義なステージであった。


この後、休憩も挟まず原マスミが再登場し、第3部の共演ステージが開始する。
この部では、いつもの青いgodinギターでなく、最近復活したスティール弦の黒いギターをアンプラグドで演奏する。
青いシャツの原マスミと白いシャツの友部正人と、「夜の音楽」と「朝の音楽」とが並んで立っているような不思議な感覚がある。
友部正人の歌詞も音楽も朝の陽光が差しているのに対し、原マスミには闇の中に浮かび上がってくる幻想の世界がある。
ちなみに、主催者の用意したパンフレットからも、少し引用しておきたい。

「友部さんの歌は、切り取られた景色を、その場所で歌っている友部さんと一緒に見ているような、風景の中にいるような感じがする。」
「原さんの歌は、彼方遠くに在る、手の届きそうにもないものが、錯覚とも思える距離をもって、となりにいたりする。」

もはや何も書き加える必要もない、適切な対比である。
二人の音楽を外からではなく自分の体に取り込んで消化した者でなければ表せない言葉であろう。


まず、原マスミの口から「縦社会」という言葉が出てくる(昔、阿佐ヶ谷ザムザでの知久寿焼との共演時「インディーズ界は縦社会」との名言があった)。
「客席のミュージシャン率がやたら高く、かたぎの人がいないてやりにくい」とのコメントもあったが、どんな面々が客席にいたのかは分からなかった。
もちろん、世界一この日の共演を喜んでいるであろうミュージシャンの顔は見かけたが、それ以外のミュージシャンは一観客としてその場にいたためか探しても気が付かないくらいであった。
もしかしたら、相当な大御所も来場していたのかもしれない。
二人並び、「同じ顔」になりチューニングをする(原マスミがふざけておかしい顔をするのは予定通り)。
なお、SMAP方式(複数の人間で歌うがハモらない)で演奏されるという友部正人による周知がなされた。


「すばらしいさよなら」は、原マスミによるリクエストで、曲後歌詞を絶賛していた(「素晴らしいさよならを見つける」という部分)。
こうした共演は、やはり普段何気なく聴いている原マスミの特徴を再認識させてくれるという点で貴重である。
声の倍音が、おそらく2万Hzぐらいのところに集中していると思われる原マスミは、特に絶叫しなくても言葉とメロディがクリアに聴き手の三判器官に届く。
楽器も、一人だと不安定にも感じるギターの弾き方も、2台のギターで重なると原マスミの楽器は空中を漂うフェアリーのように幻想的な多重性を加味する。
友部作品は詳しくないのだが、第2部で演奏された曲群と比較してメロディアスに感じた。
詩の朗読的な部分が後半のところにあるが、友部正人の朗読から少し遅れてエコーのように原マスミの朗読が被ってくるところが一番印象的であった。


友部正人が「心配」をリクエストしたのは、少し意外であった。
いつもの凝ったギター伴奏でなく、カッティングのシンプルなストロークに、友部正人のハーモニカが入り、歌が始まる。
短い歌なのであっという間に終わり、ハモるどころか声も被っていないが、普段と異なる演奏は興味深く聴くことができた。


曲後、また二人でチューニングを行う。
「これで食べていけたらいいね」「何も生産していませんからねえ」という、微笑ましい対話が印象的である。


「イタリアの月」は、二人でストロークをするが、立体的な音の広がりが感じられて面白かった。
友部正人のストロークは、和音のルート音を主体にして土台的なものがしっかり感じられる構造を持つ。
それに対し、原マスミのストロークは、高音部での音の動きや響きが細やかに表現され、相互の補完が上手く働いていた。
「僕にできるのはただ、悲しみのないところにいて歌うだけ」と二人で歌うと、ハモっていないのに補完によりさらに魅力的な音楽になっていた。
ちなみに、原マスミ曲には「月」がよく登場し、アルバム「夢の四倍」には全曲「月」という言葉が入っていた記憶がある(確かめてはいないが)。
歌詞も曲もよかったが、そうした思い入れもあり、この曲をリクエストしたのかもしれない。


「ムギマルの早苗ちゃん、金いっぱい持ってますから、饅頭が売れて売れて」「でもちょっと孤独なの」と、嘘なのか本当なのか微妙な原マスミの語りが入り、最後の曲に移る。


「ピアノ」は、以前阿佐ヶ谷の「ザムザ」で知久寿焼と共演されたのを聴いたことがある(確か、目黒美術館でも)。
だが、知久寿焼があまりに原マスミのオリジナルを再現できすぎてしまうため、ほぼ伴奏がユニゾンになってしまい(目黒では改善されていた)ハーモニーや楽器役割の分担などがあまり感じられなかった。
今回は友部正人がコードを鳴らしている間に原マスミのアルペジオが動き回り、よい感じの広がりが存在した。
Cメジャーセブンで収束して前奏が終わり、歌が始まる。
2番の友部正人が歌うところのサビではハモリがあり、原マスミが上声のコーラスを担当した。
「ピアノ」は久々に聴いた感じがしたが、やはり何度聴いても美しい世界で、よい曲である。
「イマジネーション通信(アルバム名は別の人が付けたらしい)」というファーストアルバムの最後の曲で、曲後の余韻の時間が非常に長い(弾き語りの後奏も長い)
原マスミを最初に聴くなら、女性なら「イマジネーション通信」、男性なら「夢の四倍」が一番よいと思うが、個人差もあると思うので聞き流していただきたい。


アンコールに応えて、「おやすみ12月」で終演となる。
友部正人の日記に寄れば、友部夫人の発案らしい。
「おやすみ原マスミ君、僕は旅に出るよ」「おやすみ友部さん、僕は旅に出るよ」と、それぞれ歌い、和やかに終了する。
ところで、原マスミ曲で「旅に出る」というと、「仕度」が思い浮かばれる(厳密には「この街を出る」といった内容であったが)。
知久寿焼ファン(特に暗い曲ファン)には一番のお薦め曲であるが、こちらは全く和やかではない。
全体として、「さよなら」「おやすみ」「月」「旅に出る」といった共通的な言葉が出てきても、二人の生み出す世界にはやはりそれぞれ異なるところは大きい(当然だが)。


おそらく、こうした機会がなければ二人の音楽を同じ日に聴き比べる機会はなかった。
主催者は、時々こうした企画を行っているようであるので、次回の企画にも大いに期待したい。
また、別の主催者であってもよいので、二人の共演をまた観たいものである。




実家に、DTIから封書が届いた。
以前のTEPCOひかり(テプコひかり)のプランである、「ひかりoneTタイプ」が2010年3月を持ってサービスを終了するとのことである。
KDDIも終了の告知を行っているが、地上波アナログ放送終了より先の2011年9月までサービスを続けるはずであった(2010年9月でなく2011年の9月である)。
だが、DTIはこのタイミングを見計らったかのように、1年以上早いプランの終了を我が実家に送りつけた。


関東以外の地域では知名度が低いが、DTI(ドリーム・トレイン・インターネット)はフリービット系のインターネットサービスプロバイダー(以下「ISP」と表記)である。
石田宏樹という社長の経歴は後で述べるとして、社外取締役にはあの木村太郎キャスターがいる。
NHKを退社して久しいが、日航機墜落事故の際に社長の記者会見より乗客リストを優先させた現場判断には範となる報道精神が感じられ、今でも飛行機事故の際は木村太郎キャスターを探してチャンネルを回してしまう。
何でも、DTIの初期のユーザーで、石田宏樹社長の精神を買っての役員承諾を行ったと聞く。


DTIの最初の最初は、三菱電機の子会社のISPであった。
社長本人のブログなどに詳しいが、個人用商用インターネットの黎明期、ダイアルアップアクセスポイントはつながらないのが当たり前であった。
速いとか遅いとかという問題ではなく、インターネットそのものに繋がるまで30分以上かかるのが当たり前だったのである。
喩えるならば、チケットぴあに皆がダイアルして、繋がった人だけがインターネットをできるようなものである。
ダイアルアップは、インターネット接続料の他にアクセスポイントまでの通信料(いわゆる「電話代」)がかかるが、10回接続に失敗して断念してもアクセスに失敗した通信料がかかっていたのである。
そのため、この時代のインターネットは(特に23時以降の「テレ放題」という通信料固定時間は特に)、ISPの選択が何よりも重要であった(ADSL、光の時代になり、意義が薄れた)。
そんな時代、IIJ4U(「アイアイジェーフォーユー」と読む)とDTIは、料金は高いが抜群に繋がることで評判であった。
IIJは日本最初の商用ISPなので、他の子ISPや孫ISPにネットワークを提供する立場なのだから、まあ納得がいく。
後発のDTIがなぜ「つながる」ISPとなりえたのかについては、当時の石田宏樹社長の功績が大きい。
アクセスポイントごとに利用者数を徹底的に管理し、設備増強が追いついていない地域についてはDTI加入希望者を待たせてまでもユーザーの利用環境を優先させた。
この手法は大手では難しかろうと思われるし、現在のフリービット系の帯域制限の精神もここにルーツがあるのかとも思わせる。
ただ、石田宏樹社長は2000年に三菱電機のDTIを離れ、ベンチャー企業フリービットを立ち上げる。


現在のDTIの源流を辿ると、もう一つ大きな川があり、それが「パワードインターネット(通称「POINT」)」であった。
「東京電話インターネット」とか「東京テレコミュニケーション(だったか忘れた)」とか名前は変わっているが、東京電力系のISPであった。
東京電話やTEPCOひかりで、「東京電力系だから」と申し込んだユーザーも多かったと思われ、利用者はかなり多かったと思われる(首都圏のみだが)。
もう一本、別の川(「!SpeedNet(スピードネット)」これも東京電力系でもともとは無線アクセス(FWA)のISP)も合流するが、きりがないので一応大きな川2本を合流させる。


合流後は、東京電力と三菱電機両方が株主となる。
とは言え、圧倒的に持株比率が異なり、東京電力の連結子会社となる。
その後、東京電力は通信部門から撤退し、回線と法人部門はKDDIに、電話はフュージョンに、そしてDTIはフリービットの手に移った。
いわば、生みの親のところに長い年月をかけて戻ってきたというわけで、ここまで書くと積極的に応援したいところではあるが、そうとばかり言えない事情がここから書き記されることになる。


石田宏樹新社長がDTIに復帰した際、具体的なヴィジョンがあり、それを表明していた。
その中の一つに、DTIを全国レベルのISPにし、そのためにNTTのBフレッツ回線との提携サービスを強く勧めていく方針であるとあった記憶がある。
当時、DTI+Bフレッツのユーザーは数えるほどしかいなかったはずで、withフレッツのプランもそのためなかった。
そこで、so-net並に他のISPからの切替を勧めるのであればまだよいのだが、TEPCOひかりの利用者にBフレッツへの切替を勧めまくったのはよろしくなかった。
TEPCOひかりのプランを値上げした上で、「Bフレッツにすると安くなる」という宣伝を送ってくるようになった。
ひどいのは、マンションタイプでTEPCOはVDSLの料金を、Bフレッツはイーサネットの料金を示して比較を行っていた点である。
同じマンションなら、両方の設備が入っていても同じ規格で入っているのが普通なので、JAROに訴えられてもおかしくないレベルである。
そして、今回のタイミングでのサービス終了である。
もう少し早く提携を終了したISP(Hi-Hoなど)であれば、別のISPに切り替えて使うことができた。
だが、他のISPに切り替えもできない、この唯一のタイミングでDTIはサービスを終了する発表を行った。


実家のPCを立ち上げると、毎日石田社長の顔が動画で強制的に流され、サービス切替の承諾のメールアドレスを入力するとBフレッツプランの申込書が送られてくるようになっている(まるでワンクリック詐欺の後の強制立ち上がり画面のようである)。
多くのユーザーには特に見たくもない動画を毎日見させられるのは苦痛であろうが、そこまでしないと「3月末までに手続きをしなければ強制的にBフレッツプランへの移行」を唱えることができなかったのかもしれない。
我が実家のようにホームでない家には、ADSLを勧めているらしい(ネットを探すといくらも書き込みはある)。
TEPCO型の設備しか入っていないユーザーに、1年半早く打ち切るのは、ユーザー本位の姿勢といえるであろうか。
DTIから送付された資料には、「Bフレッツのプランであれば、安くなりメールアドレスも引継ぎできる」という記載があるが、ひかりoneのギガ得プランに切り替えてもメールの引継ぎはでき、料金は1000円ぐらいさらに安い。
だが、そんなことはDTIは全く隠し、Bフレッツだけが唯一の選択肢のように宣伝している。
KDDIでは、DTIのままひかりoneのプランに切り替えるとユーザー専用の特別キャンペーンが適用になるようだが(確認済み)、個人的にはDTIとは契約を切ってしまいたい気持ちが強い(もっとも自分の契約ではないのだが)。


今回の記事は、いろいろ個人的な思いもあり、多少感情的な記述があることはお詫びしておきたい。
だが、顧客は考える力も情報を手に入れる力も持っている。
東京電力時代を現社長はなかったことにしたいのかもしれないが、それによって失う可能性のあるものはあまりに大きい。
正月には、我が実家で家族会議が開かれる予定である。

「Drive to 2010]」原マスミ・くじら/新宿LOFT(09/11/04)


(くじら)
1.イン マイ ソウル
2.DRAGON
3.ナガラリバー
4.銀河のブギ
5.電球王国
6.キノコ
7.KAPPA


(原マスミ)
1.千年にひとり
2.ずっと君が好きだった
3.人間の秘密
4.STEREO
5.フトンメイキン
6.飛龍頭
7.悲しいのはいやだ
8.夜の幸
9.海のふた
10.アイス!アイス!アイス!
11.教室


12.冬の星座


本当は、11月のこの日までに足を運んでおきたいライブがいくつかあった。
・10/31 はじめにきよし/旧自由学園講堂明日館 
・11/1 Pascals/井の頭自然文化園
・11/2 知久寿焼/高円寺稲生座
・11/3 love joy/マンダラⅡ
時間的・経済的・健康的に問題がなければ、全部出向きたいところではあったが、3つとも問題だらけで前売りを購入していた11/4のステージにだけ出向くことにした。
ちなみに、10/31の「はじめにきよし」は半端でなくピアニカが上手かったとのことである。
NHK教育の「不思議大好き」は、現在原マスミが主題歌を歌っているが、その前は「はじめにきよし」だった。
短いが不思議感にあふれた大変な名曲で、アルバムにも収録されているので、お勧めである。


本当は、11/4のこの日のライブも、メインステージでD-DAYも出演することになっていたので、聴く予定ではいた。
だが、体調が思わしくないので、目当てのくじらと原マスミが2番目・3番目である情報を確認し、ゆっくりと開演後に入った。
バーステージの方では、斉藤インコ(斉藤美和子、どちらかというとタンゴ・ヨーロッパの「にゃんこ」といった方がピンと来る)が出ていた。
一時期、巨大な匿名掲示板に本人が書き込んで近況や当時の裏話を記していたので、興味深く当時を思い起こしていた覚えがある。
昔、オールナイトニッポンをよく聴いたので(元「Do!」の山梨鐐平もゲストか何かでよく出ていた。「Do!」時代の名曲「フェラーリ308GTB」を斉藤美和子のコーラス付きで演奏したときのカセットテープはどこかにあるはずである。ちなみに「Do!」には「ぽにょ」で有名な藤岡孝章も在籍していた。)、できればこちらも観てはおきたかった。
「くじら」と「原マスミ」の間の舞台替えの間にステージがあったので、最悪の場合でも、モニターでは見られそうなのが幸いであった。
オールスタンディングと記載のあるチケットではあったが、この日は舞台前面に椅子が並び、離れた位置からも見やすくはなっていた。
おそらく、次の日の戸川純では完全なスタンディングになっていたと思われる。


スクリーンが「くじら」の文字を浮かび上がらせ、「イン マイ ソール」で緞帳が上がる。
客席との間に柵があるステージは、いつ以来だろうか(初めてかもしれない)。
フロントの真ん中に杉林恭雄が立ち、向かって左手に小峰公子、右手にサクソフォンを下げた多田葉子が立ち両手に花状態である。
多田葉子のさらに右手に、「Drive to 2010」サイトには名前が入っていなかった関島岳郎がチューバを持って立っていた。
近藤達郎はクラリネットで参加で、本来のメンバーのドラムの楠均とベースの松永孝義は大勢の陰で弾いていた。
小峰公子の声は、久々に聴く。
それこそ、前回の共演の表参道FABのとき以来ではないか(そのときには原マスミバンドにも参加)。
ブルガリアンボイスにも通ずる力強い高音が、音楽全体にコーティングされる。
この日は、全体的に「管」が強めの演奏で、チューバやサクソフォン、クラリネットが大きく出ると、残りの楽器の音量的な比重が減る。


「DRAGON」は、表参道FABでは1曲目に演奏された曲だったと記憶している(記憶から飛んだ曲があるかもしれないが)。
「ヘイヘイ、サタディナイト」のフレーズを聴き、週休二日が定着した時代の土曜日の夜の意義とは何かを思ったのを覚えている。
関島岳郎のチューバが、曲の前半は全体を支配する演奏だった。
この曲までは、チューバとベースギターと重低音が2本入っていたので(これはダブルベースとは言わない)、多少松永孝義には気の毒にも思えた。
松永孝義のベースは、まるで打ち込みの演奏のように「ピタ、ピタ」と寸分の狂いもなく適切な場所で音が入ってくる特徴が感じられる。
チョッパー的な華やかさなどはないので、緻密な3人くじらの演奏にはしっくりくるが、華やかな管が3本も入るとさすがにそちらに耳を奪われてしまうところはあった。


「峠の我が家」の4小節を管楽器を弾いた後、有名な「ナガラリバー」のギターの高音ストロークが聴こえてくる。
この曲は、くじらの他の曲より歌詞にも曲調にも透明感があり、清涼感が感じられる。
拍手も、一番大きかったように思われた(dBを測定したわけではないが)。


ここで挨拶があり、「リハは、原マスミバンドよりもやっている」とのMCが入った。
確かに、原マスミバンドは、いつも、直前にリストが送られて来るという噂はよく耳にする。
「銀河のブギ」は、比較的楽に聴ける明るめの曲だった。
「電球王国」は、この前「ひとりくじら」で三軒茶屋で聴いた。
なお、今回のリストはネット上から入手したが、このようなタイトルとは分からなかった(もう少し「王子」が前面に出るタイトルだと思っていた)。
後半の、小峰公子の高音での絶叫型コーラスはよかった。
「キノコ」も、同じ三軒茶屋のひとりくじらで聴いた。
だが、ギター一本の方が、カッティングギターの技術の高さが凄まじく浮かび上がってきた気がした。
「みなさん一緒に歌ってください」とのことで、予想どおり「KAPPA」で終了となる。
前回、ギター一本で聴いた「KAPPA」は、緊迫感のあるギターのストロークが見事であったが、今回は原曲(you tubeで聴けるバージョンとする)的な牧歌的な雰囲気が強かった。


この日のくじらの演奏の評価は難しい。
日頃、くじらのライブに通い詰めている客層であれば、新鮮な編曲に演奏を堪能できたので、感動も大きかったことであろう。
バックは皆、力量のあるミュージシャンである。
だが、正直なところ、あまりくじらのライブに足を運ばない身としては、表参道FABや三軒茶屋GURUGURUのときの演奏の方が強く印象に残った。
音が少ない分、ギターの上手さに耳が行くところもあったし、期間工でなくその曲専門の職人が音を紡いでいる細やかさもあったろう。
管楽器は音色が華やかで、多田葉子と小峰公子が前面で演奏する様は外見的にも華がある。
しかし、管楽器の音はある意味ヴォーカル的な響きであるので、聴き手の意識は拡散する。
ヴァイオリンやチェロの響きであれば、同じ多人数であっても印象は変わったかもしれない。


くじらは、歌詞と曲の強さの比率が、後者にかなり傾いているように感じる。
くじらのファンには怒られてしまうと思うが、圧倒的に完成度の高い曲と演奏の印象の割に、歌詞がなかなか記憶に残らない。
「楽器として優秀な声」「旋律に溶け込む響きとして優秀な歌詞」は、言葉の世界に入り込むには残念ながら大きな力にはなっていない。
原マスミや双葉双一などの、特徴的な「詩人」の世界の言葉ばかりを最近耳にしているせいかもしれないが、ノイズの少ない杉林恭雄の歌詞は常温のミネラルウォーターのように引っ掛かりが少ない。
とは言え、やはり完成度の高いステージはこの舞台に相応しいものであり、熱演であったと言えよう。


「くじら」のステージが終わると、スクリーンとスピーカーから斉藤美和子が登場する。
「タンゴ・ヨーロッパ」当時の面影のある歌唱が、スピーカー越しに聴こえてくる。
この日は、自分の体調を考えてバーステージに移動はしないことに決めていたが、「桃郷シンデレラ」でも流れていたら間違いなくバーカウンターへの重たい扉に手をかけていたに違いない(「くじら」と被った何分かの間に演奏されていたかもしれないが)。
いわゆる「裏」ステージにしては、力量のありそうなバックを従えて、熱唱していた。
詩の朗読のような呟きからメロディにつながっていく大曲で締めくくっていたが、メインステージでもおかしくない聴かせるステージであったとは思った。
「途中で終わったら残念だ」と感じていたが、幸いにしてスクリーンの終演を待って原マスミステージが始まった。
この日のバーステージでおそらく一番人気のあるであろうステージに、おそらく敬意と気配りがなされたのであろう。
長い曲が2~3曲、それもスクリーンを通してであったが、いろいろな意味でこの時間が感動は一番大きかったかもしれない。


原マスミのバンドステージは、少し前に聴いたばかりではあるが、やはり晴れの舞台であるとは感じる。
堀越信泰がメガネとカラフルな水色のロングマフラーのいでたちで、韓流ドラマの主人公を連想させるかのような風貌であった。
前側に垂れているマフラーの端が、ギターの弦にかからないか心配しながら観ていた。
「千年に一人」でスタートするのは、比較的珍しかったと思う(演奏しないことは一度もない)。
「ずっと君が好きだった」と、比較的明るめの曲が続く。
この最初の2曲は、どちらかといえば激しい曲が続いた後にホッとさせる曲調であるので、この日は「ホッとさせずに最後まで激しく突き抜ける」意図があったのではとも感じられる。
「人間の秘密」は、もはやあまり書くことがない(この曲も必ず演奏する曲である)。
間奏のギターソロが、いつものバージョンに少しだけ手を加えていたように思えた。


「STEREO」は、最近演奏機会が増えて嬉しい。
ここから数曲は、80'sニューウェーブロックの世界で、この日はドラムやキーボード以上にギターが冴え渡っていた(近藤達郎も楠均も連続演奏なので「おつかれさま」なのだが)。
いつもは、乾いた楠均のドラムの音がもう少し強調されるのだが、PAが異なると演奏の雰囲気も大きく変わるものだとは感じた。
「フトンメイキン」は、S.P.C.の生ピアノが入るバージョンの方が好きだが(前衛的で曲の超現実感が3割増しになる)、この場所で演奏されることに意義がある。
1984年発売のLPに入っている曲のはずだが、そのときとほぼ同じ編曲で、この企画(Drive to 201)の趣旨には一番近い曲であろう。
日常世界からの乖離という点では、歌詞の面でも曲調の面でも頭抜けていると思われる。
このような「他流試合」の場での演奏は、やはりこうした原マスミにしかない世界を強調した選曲がよい。


「飛龍頭」は、この舞台にまさに相応しい曲で、一番ロック的なアレンジである。
初期のボウイやStreet Beatsなどが演奏する新宿Loftの場でも、堀越信泰の切れのある高音の疾走は全く遜色がない。
関西圏の方はご存知であろうが、関東圏に住む自分は「飛竜頭」という言葉の意味を知らなかった。
「まんが日本昔話」の冒頭のように、空の上を龍が飛び回る図をイメージしていた。
だが、ある日ふと「この言葉はもともとある言葉なのではないかと思い立ち、「飛竜頭」をネットの国語辞典で検索した。
関東圏の自分には驚愕の事実がそこにあったが、千葉の出身である原マスミが、なぜこのタイトルを用いたのかは謎である。
おそらく、関東圏の言語文化で育った人間共通がこの語に対して抱く(誤った壮大な)イメージを画伯原マスミも抱き、この世界に昇華させたのであろう。
「飛竜頭」の意味はこの記事の一番下に記しておくが、「体が心のように自由に動けばどこへでもいけるよ」の「体」とはこういうことだったのかと思わせた(全く違うかも知れぬが)。
なお、この曲は(「海のふた」もだが)ゼネラルポーズ(全員全休符)があり、こうした共演形式の時には曲が終わる前に拍手が起こる。
だが、それを逆に楽しむかのように、拍手の波の中に音の船を再度浮かべて航海へと戻り、より大きな港に辿り着く姿には風格が感じられる。


ここで、やっと自分のギターを抱え(ここまではハンドマイク)、いつものようにチョーキングでギターの音を合わせる(合うはずがない)。
前回のバンドライブでは入院中であった青のgodinギターが、この日は退院して復活していた。
そこで「悲しいのはいやだ」が始まるが、前奏ではエフェクターのディレイを相当派手に効かせて(まさか設定を間違えたわけではあるまい)、いつもと異なる堀越信泰のギターの響きから入る。
「海のふた」も、終曲間近のゼネラルポーズで拍手が起こる。
ということは、このほとんどが、この日原マスミのライブ演奏を初めて聴いたということでもある。
初めての耳にこの曲はどのように聴こえるのか、気になるところではある。
この曲も演奏されないことはない曲なので(そんな曲は非常に多い)、今では曲の隅々、構成までをも聴きながらなぞってしまえるようにはなっている。
だが、この曲が初演されたときに、ある意味打ちのめされたような感覚に陥った記憶があり、同じような感覚を今でも何人もの聴衆が味わっていると思うと、多少うらやましくもある。


「アイス!アイス!アイス!」は、最初バンド演奏に移植したとき、どのように処理するのだろうかと考えていたところもあったが、ボトルネックの浮遊感あふれる音が「山の頂上」などの非日常世界に誘う。
「夜」的な映像世界が多い原マスミ作品の中で、「山の頂上でアイスを食べ」る行為は、数少ない「昼」的な映像である。
「教室」で、一応ステージ終了となる。
最後、「ロケンロール」と叫んで終わるので(もともとこの形だったかは分からないが)、最後に持ってくることが多い。


アンコールに応えて、「冬の星座」が演奏される。
最近、「白い手」で挿入されている「シャカトゥクシャカトゥク」といった部分が曲の冒頭で口ずさまれることが多い。
せっかくなので、「白い手」などの他人の作曲した曲もバンドライブで少しずつ引き出してほしいとも思う(「こまっちゃクレズマ」あたりとの共演の方が期待できるか)。
オリジナル歌詞の3番への間奏で、全員それぞれのソロが披露されるので、そこでメンバー紹介が行われる。
この曲は、内田ken太郎のベースの聴かせ曲であり(他には「約束の満月」あたりか)、ここまであまり目立たなかったベースの響きが堪能できる曲であった。
そして、新宿のステージの緞帳が下りていき、ステージも終演となった。


このLoftのステージは、マンダラグループの音のよさに慣れてしまっている耳からすると、音質面は物足りなさがないでもない。
だが、隣のバーステージが合間に中継されたり、それぞれのステージが始まる際に出演者名が表示されたり、スクリーンがあることのメリットは大いにあった。
また、堀越信泰のギターがこの街のこのステージには相応しかった(近藤達郎はもう少し音響のよいところの方が映える)。
前回も堀越信泰の多大な貢献(曲順の件など)があったが、今後もバイク事故などに気を付けて活躍してほしいと思う。


終演後、時間的・経済的・健康的に問題がなければ、物販を巡ったり演奏後の出演者を横目で見ながら余韻に浸ったりしたかったが、3つとも問題ありまくりで帰路に着いた。
出口で、今までメディアという壁の向こう側にしかいなかった、タンゴ・ヨーロッパの「にゃんこ(斉藤美和子)」とすれ違う。
自分が年端も行かない頃に聴いていたので、かなり経歴は長いはずであるが、見た目から年齢は全く分からず考えようとも思わなかった。
本来、自分は年齢を重ねていくことを肯定的に見ることが多いのだが、「シンガーは歌っているときは歳を取らない」とも実感した。
残念ながら聴けなかったD-DAYも、物販に立つ本人たちの姿を見て、生み出されると予想されるメロディが期待でき、次は聴いてみたいとも感じた。
翌日は戸川純で、キノコホテルが前座でJON(犬)が裏ステージの扱いだった。
ほぼ全員、戸川純目当てで来ている客のどれだけが裏ステージに来るのだろう、と心配をしていたのだが、どうやら舞台替えの束の間の時間だけのバーステージだったようだ。


おそらく、10年後、Loftがあれば「Drive to 2020」があるであろう。
今年のリストを保管しておき、10年後のリストと比べてみたいところである。







※「飛竜頭」=「がんもどき」




ELLE LOVES MUSIC LIVE feat. 小島麻由美/アップルストア銀座(09/10/30)
小島麻由美(vocal)塚本功(Guitar)長山雄治(Wood Bass)


1.結婚相談所
2.chakachaka
3.メリーゴーランド
4.アラベスク
5.黒猫のチャチャチャ
6.ラストショット!
7.ハートに火をつけて
8.茶色の小瓶


今回の企画は、『ELLE』という雑誌の招待イベントで、抽選に当たった客だけが聴ける限定ライブであった(50組100名)。
http://www.elle.co.jp/culture/elm/mayumikojima_interview
前回、この会場に足を運んだときはアップル主催のホフディランのインストアだったので、そのときは立見で大入りであった。
今回は人数を絞った分だけ席に余裕があり、ゆったりとしたよい椅子で束の間のひと時を過ごすことができた。
少し残念だったのは、前回はアップル主催のためか、来場者全員にiTuneミュージックカードがプレゼントされたが、今回は「ELLE」のシールのみであった。
前回分はジョンソンtsuがよくカバーするAREAの曲を落としたのだが(なかなかよかった)、今回分はなく欲張りかもしれないが、それだけが少し残念であった。
だが、それより価値のあるライブを聴けたのだから、まあ全く問題はない。


本当は、自分の身近に小島麻由美について詳しい先達がいるので、情報を仕入れて「さも自分が知っているかのように」レポを上げようとも考えた。
だが、情報が少ないときに、聴いたままの感想を書ける機会は実はあまりなく、今回は情報をあえてあまり仕入れず、感じたままのレポにしたいと思う。


事前に知っている情報といえば、
・8ビートが好きでなく、変拍子の曲が多い(三拍子も多い)。
・旋律も、ロックやポップスとは一線を画す曲調で、インストゥルメンタルにしても店で流せるお洒落な感じである(ジャズとイージーリスニングの間ぐらいか)。
・歌詞も、「先生のお気に入り」など、他であまり見られないテーマが多く、ありきたりなラブソングなどは(多分)ほとんどない(個人的に好きなのは「チョコレートを溶かして固めて溶かして固めて~」という曲)。
・ライブの回数は多くなく、年に数回のペースだと思われる。ただ、その際は、ベースはエレキでなくウッドで、ギターもかなり技術のある弾き手が参加しているとのことだった。
といったことぐらいであろうか。


やがて司会者が登場し、日本版『ELLE』20周年の企画の8回目だと紹介される。
そして、前回同様に会場後方から登場し、舞台へ向かう。
「こんにちは小島麻由美です」と、舞台の向かって右手に立ち、ご挨拶。
白いポロシャツを着たすっきりした女性シンガーで、長すぎない髪も清楚な感がある。
対照的に、ギターの塚本功とウッドベースの長山雄治は、かなり怪しい雰囲気満載で、銀座の街よりも新宿裏通りの小さな酒場の方が似合うような風貌だった。
30分のステージということで、MCもそこそこに演奏が始まる。


「結婚相談所」は、小島麻由美のデビュー曲らしい。
塚本功のアコースティックギターの、カッティングのストロークで演奏が始まる。
一般に分かるように昔の流行歌で近いものをあえて探すと、「君たち キウイ・パパイア・マンゴーだね。」の前奏に雰囲気が
短い曲で、あっという間に終わる。


MCも入らず、かなりのハイテンポのリズムで「chakachaka」へと続く。
長山雄治のベースが四分音符で動き回り、ジャズっぽいお洒落な感がある(「デキシージャズ?」だろうか、細かい定義を知らないが。
ニッポン放送でなく、FM東京で流れていそうなメロディである。
歌が楽器的に感じる曲で、最後声をロングトーンで伸ばして伴奏の音が動いていく様はインストゥルメンタル曲にも近い印象があった。


ここで、一旦MCとメンバー紹介が入る。
アコースティックセットは初めてか何回目かということで、とても新鮮だということである。
楽器の味がよく、かなりよい編成だと思うので、この編成で多く演奏機会が設けられてもよいのでは、とは感じた。
そして、ニューシングルからの演奏となる。


一転ゆったりして、もともとピアノの曲をギター伴奏で「メリーゴーランド」が演奏される。
カンツォーネとシャンソンの間(「ろくでなし」の冒頭部をそのままカンツォーネにしたら近いか)ぐらいの導入(アメリカ第2国歌「星条旗よ永遠なれ」の第2テーマにも何故か近く感じた)から入る。
タイトルは「メリーゴーランド」ではあるが、個人的にはベニスの舟歌的な、1/f揺らぎを感じる演奏であった。
ピアノより弦の方がこうした揺らぎは表現しやすく、この編成がこの曲は効果的だったのではなかろうか。


次も新曲で、「怖い感じなんで手拍子とかお願いします」とのことで、「アラベスク 」へと移る。
いわゆる「アラビック」な曲調ではなく、ボサノバ風のゆったりしたリズムに憂いのある気だるげな旋律が乗る。
このあたりが、他の歌い手の作品と(まだ)一番近いのであろうが、他のお洒落すぎる楽曲との対比がそう思わせているだけなのかもしれない。


「黒猫のチャチャチャ」は、個人的には一番この日よかったと感じた。
導入が難しく、アウフタクトどころか3拍めの裏から音が入る。
小島麻由美は歌唱にも特徴があり、高音ギリギリで声がひっくり返る音を、意図的に自在な場所で効果音として織り込むことができる。
歌詞もこの曲は聴き取りやすく、思わず口ずさみたくなるレロイアンダーソン的な中毒性のある旋律も素晴らしく、全てにおいて完成度が高かった。


「ラストショット!」は、テンポが自在に変わる。
手拍子を要求したが、なかなか叩く方は大変である。
だが、一般的なポップスは「音量」「速度」の変化が少ない。
この辺りが、演奏重視の人間が、ポップスに飽き足らずクラシックに向かう要因の一つだが、自在なテンポや速さを操るこのような曲が多く登場してもらいたいものだと思う。
accel.やrit.が自在に入ることによって、やはり音楽が生き物のように心臓のうごめきごと感じられる。


そこで、赤坂ブリッツでライブをする旨の告知があった。
日程を忘れ、ギターの塚本功に手帳を開けさせ、11/14であることを確認した。
11/14はもともと予定が入っていたが、双葉双一のライブもこの日で、下北沢でも大々的な音楽イベントが行われていた。
ただ、下北沢の方は夜のTOMOVSKYは大混雑が予想されたし、夕方16時には個人的に興味のあったANATAKIKOU、ガールハント、それから沢田ナオヤが見事に同時刻別会場でバッティングしていた。
人込みは得意ではないので、おそらく行けるとしたら双葉双一に行っていたであろうが、既報のとおり11/14はライブには行っていない。


残り2曲と告げられ、「ハートに火をつけて」は、2ビート主体の曲であった。
「3つ数えたら」の後の、「パパデュビドュビドゥーダー(合っているかは自信がない)」といった擬音語でフレーズを締める技術はやはり職人的な技術が感じられ、小島麻由美らしさを表現している(と思えた)。
ウッドベース(普段のレポはコントラバスと記載しているが、今回のレポは公式サイトの表記に統一した)のピチカート(指弾き)の音は、さすがに気持ちよい。


「茶色の小瓶」で、この日の短いが充実した催しは終了となる。
同タイトルの曲があり、ジャズで有名だが(エレクトーンの初級の方でも昔出てきた)、それとは別曲である。
途切れることのない速いパッセージのカッティングが続き、ギターソロの頃には高温弦が1本切れてしまっていたらしい(弾くべき音が弾けず周囲も本人も苦笑していた)。


無料の30分ライブとは思えない、かなり本格的な演奏で8曲を堪能できた。
1曲ぐらい3拍子の曲も聴きたかったところだが、8ビートのない選曲(もともと存在しないようだが)は、やはり音楽自体の多様性や楽しさを再認識させてくれる。
小島麻由美の歌う楽曲群は、明らかにポップスと比較すると非日常的な世界を感じさせてくれるので、定期的に生活の中で聴いていきたい音楽であると感じずにはいられなかった。


あまり情報(知識)がないため、今回のレポは歌詞についてはあまり採り上げていない。
また、つれづれなるままによしなしごとを書き記したところも多いので、ご容赦いただきたい。
また、ライブかCDを紹介する機会があれば、もう少しまともなことも掘り下げていきたい。





双葉双一ヴィオロン第2回定期演奏会/阿佐ヶ谷ヴィオロン(09/10/28)



1.ポケットと冷たい手
2.Welcome to my show
3.I think that 以下
4.D♭の題名のない練習曲
5.岬の上
6.だれのためのお客さん、さてきみは?
7.覚醒の歌
8.ワルプルギスの夜
9.さようならプロスティテュート



10.追走曲
11.タワーホテル
12.お嬢さんよろこんで
13.密漁の夜
14.耳
15.旅に出なさい
16.クリスマスに誕生日



17.5x5のクリスマス



本当は、このライブについては、既に双葉双一公式サイトの掲示板にかなり秀逸な感想、レポが上がっており(中野氏記載の記事)、ここで再度記すまでないかもしれない。
掲示板記載の文面はまるで無駄がなく(逆にこのブログの半分以上は無駄でできているので、仕分け人がいたら大幅カットが予想される)、なおかつ真に押さえるべき要素は外さずに美しい調和が感じられる。
本来、ブログでのライブレポというものは、あれぐらいのタイミングであれぐらいの内容で書くのが理想であろう。
だが、無理なことを言っても始まらないので、いつもの分量、いつものペースで書き記し、仕分け人が入らないようにしたい。



既報のとおり、この阿佐ヶ谷名曲喫茶ヴィオロンでは春に一度双葉双一のライブが行われ、客入りも演奏の内容もよく次回の公演が待たれていた。
演奏だけなら他でもよかったステージはあったのだが、この会場の空間の雰囲気、観客の演奏に向かう姿勢が格段に他会場とと異なっている。
今回も、器の関係か珈琲は飲めず、オレンジジュースか冷たい緑茶のみの強制選択であった。
だが、それを差し置いても、ここの会場はアンプラグドのライブ会場としては最高の場所であると感じられる。



今回、開場後驚いたのが、相当たくさん男性客がいたことである(しかも単身客もそこそこいた)。
これは当人が希望したことかは分からないが、もし期待しない結果だとしたら最新アルバムが全ていけない。
自ら「おんなこどもには売れません(於拾得)」と総括するアルバムなど出すから、男性客が山のように増えてしまった。
もう一枚同じようなアルバムを続けたら、男子校のような客席になってしまうかもしれないが、この日の演目を見る限りそうした心配はないだろう。



開演時刻を過ぎ、双葉双一が静かに登場する。
特にMCも入らずに、「ポケットと冷たい手」が演奏される。
双葉双一の特徴である、高音のアルペジオのような独特のビートを付けないストロークの上に、「王道」を行くようなハーモニカの前奏や間奏が入る。
ライブでは初めて聴く曲だが、やはり会場がヴィオロンだけあって心地よく聴けるよい音である。
「はじめまして、名探偵コナンの声を担当させていただいております双葉双一です」との自己紹介が入る。
曲後、「フリスクと冷たいコーラ」で木村カエラのカバーとの紹介があった。
何でも、この日は「JPOPのカバー曲を中心に演奏」するとのことであった。
結果として、全曲中2曲は確かにカバー曲であったが、それ以外はオリジナル曲で、それを「(~人名)で(~別の曲名)でした」と他人の曲を紹介するかのように扱っていた。
その意図は何であろうか。
もちろん、観客が「ヴィオロンのソロライブに来た客」だということも、演奏やMCで素を出さない「楽屋を見せない美学」を持っているだろうことも、原因としては挙げられるであろう。
だが、それ以上に自分が既に作り出した作品を、誰の手にでも届くところに置かれている存在として、客観的に見ることができるようになっているという思いがどこかにあるのではなかろうか。
自分の作品が、もはやJPOPの曲たちと同様に、着メロやカラオケなどで扱えるほど身近になってきていると言ってもおかしくない普遍性を持っているという自負の表れではなかろうか。



「Welcome to my show」も、ライブで聴くのは初めてである。
歌詞は目立った奇抜さはないが、カントリー風の和音・ストロークと、吸い付くようなハーモニカの音が特徴に感じられた。
ハーモニカが、和音の支配する二度下の音からスラーのようにスライドして和音上の音程に上がる効果音が印象的である。
この曲は、「ドリカムワンマンショー」と紹介された気がするが、響きが似ているのでもしかしたらこちらの聞き違いだったのかもしれない。
「I think that 以下」も、ライブでは初聴である。
「23階のビルの上、あれはただのお姫様」で始まった後、旋律の音程があまり飛ばず、歌詞優先で作った分だけ言葉が液体の表面で固形化しているように残りやすい。
最後の和音(忘れたが)もよかった。



「D♭の題名のない練習曲」は、今年1月に柏で聴いた曲であるが、今回の方がより躍動感や自然な展開が感じられた。
ただ、この歌とタイトル名が結びついたのは、今回のライブでセットリストが発表されてからである。そうした意味では、サイト内でのセットリストの公開は非常にありがたい。
曲はメロディアスで聴きやすく、歌詞もテーマのようなものが見えてこなくもない。
後からタイトルを付ければ、いくらでも相応しい曲名はありそうなものではある。
だが、おそらく、この曲はタイトル先行で歌詞を書き上げたのではないだろうか。
「この曲はこの店で作ったんです」と、曲後に述べていた。
東京に出てきてすぐ、この店でこの曲は書き上げたとのことである。
「この店=ヴィオロン」ということは、必然的にクラシックのBGMが流れている、ということでもある。
クラシックの曲は標題が付いていないものも多く(逆に付いているものだけ「標題音楽」と冠される)、「Sonata/Dm/op.40」などといったように、形式と調性と作品番号だけ示されているものがほとんどである。
一般的にはルビンシュタインの「へ調の音楽」などが形式のみのタイトルで知られる名曲だが、そうした「聴いてみて初めてよさが分かる」という魅力に少し憧れを持った時期があったのではないかと想像される。
だが、元来、双葉双一は詩人であり、タイトルを見ただけで想像が膨らむ見事な言葉使いが多用されている。
また、シンガーソングライターで「Etude/D♭/op.20」などとする例は、今のところない。
今後、このタイプのタイトルは用いられないとは思うが、面白い試みであり、先駆者としてもう少し評価されてもよい曲だとは感じた。



今回は6弦ギターで「岬の上」となる。
「タイトルは歌っている間に思いつくと思います」と、でまかせのタイトルが用意のあるものでないことを示し、演奏に入る(演奏後特に変わったタイトルは述べていなかった)。
舞台上にヤマハの12弦ギターが置かれていたので、てっきり前例のある(京都拾得)この曲は12弦ギターでの演奏になると予想していた。
ちなみに、ヤマハはギターだけでなくベースも多弦ものをよく出しており、その姿勢は評価したい。
この曲はもともとメロディアスだが、聴くうちにだんだん演奏がゆったり聴けるように向上してきて、歌唱も歌詞が映像を頭のスクリーンに描けるほど丁寧に歌われるようになった。
本当は「シグネイチャー本田と~」のバンドアレンジが、この曲は似合っていると思われるのだが、また共演されないものだろうか。



「だれのためのお客さん、さてきみは?」は、歌詞にばかり耳が行くが演奏も流暢であった。
「僕らのおしゃべりを隣の人がタイピングしている。物語に登場して最後で始末されるのも知らずに。」という部分が印象に残るが、全体のテーマはまだ把握できないでいる。
「招かざる客」がテーマという意見があるが、また吟味したい。
なお、この曲は、「三鷹というよりも三鷹台だろう」と紹介された。
三鷹台が、双葉双一の住まいなのであろうか。



「酒井法子で『覚醒の歌』」とのことで、新アルバムからはこの曲と「岬の上」だけが演奏された。
ここ3回ほど足を運んだライブは、新アルバムの曲を全部(UFOクラブだけは他曲も多く演奏されたが)演奏するライブだったが、さすがに飽きたか、ヴィオロンぽくないと感じたか、他の新アルバム曲は演奏されなかった。
だが、公式サイトの掲示板の書き込み(これも中野氏によるもの、大変ありがたい)で、浜松のライブが従来型のリストに戻っていたことを知る。
そこで、今回のヴィオロンライブも、おそらく従来型に近いと予想していた。
旧譜からの流用2曲(「瞬き分の夜」「インザナイトマイフェスティバル」)以外の曲の中では、比較的ヴィオロンの雰囲気にも合う静けさがある。
歌い方も、この会場のためか歌い込んだためか、力が抜けてさらりと歌い、声までもが心地よい楽器のように感じられる(知久寿焼から力強さを抜き儚さを付けた雰囲気)。



ここで、ヤマハの多弦ギターに持ち替える。
「もうすぐハロウィンですね、僕は双葉双一に変装してきましたよ」とのことで、変装姿のまま「ワルプルギスの夜」が演奏される。
高音の通る弦の響きがある分、遠くの方から響きが聴こえるような錯覚に陥る。
かなりハイテンポだったようで、「オレとナオヤのロングトーンvol.1」のときのような重厚感は感じられなかったが、空間的な広がりは感じられた。
なお、沢田ナオヤのブログに拠れば、国立地球屋で年明けに「オレとナオヤのロングトーン」が再演されるようである。
だが、未定なのか見送るのか、今回はゲストがいなかった。
本当はジョンソンtsuあたりが来てくれると嬉しいのだが、まあ無理も言えない(知久寿焼はまた一観客として来訪するかもしれないが)。
3組あるとまた終電が危なくなるので、2組ぐらいが地球屋はちょうどよいのかもしれない。
この曲も、「ホネホネロックでした」とさらりと告げる。



「さよならプロスティテュート」は初めて耳にする曲であるが、個人的には「田園交響曲」に近い映像を感じた。
テーマは共通などしていないが、どちらもモノクロ名画フィルムの世界の空気が感じられる。
一つの物語として筋が繋がっていながら、用いられている言葉は「プロスティテュート」などと手垢にまみれておらず厳選されていて、響きの美しさがある。
一人称で「プロスティテュート」と「奥さん」に対する思いやメッセージが語られるが、それを鏡にして「プロスティテュート」や「奥さん」の純粋な心情がクリアに浮かび上がってくる。
「プロスティテュート」という、一見穢れて見える立場の人間の方が実は内面は純粋でデリケートで、金銭で取引する「私」より美しい心を持っているのではないか、という構造が表現意図であろうか。



第2部も、やはり静かに始まり、やはり未聴の曲が演奏された。
「追走曲(「追想曲」ではないらしい)」は、静かな器楽曲のクラシック音楽にアンティーク的な詩が添えられた風情があり、大変素晴らしかった。
「ワルプルギスの夜」なども「クラシック音楽」的ではあるのだが、オーケストレーションを一本のギターで表現しようという意図が感じられる。
だが、「追走曲」は木管の古楽器の静かな調和の取れたアンサンブルの風情がある。
「1メートルの長い手紙の中で過去は甦る」で始まる旋律は、ゆったりとした四分音符主体の曲で、繰り返される「今日は私の死んだ日、森の中の中の兎だけが~」の部分が静かに、しかししっかりと耳に残る。
この曲は、前半最後の「さよならプロスティテュート」同様にアルバム未収録であるが、どちらも音源化が待たれる。
個人的には、バロックアンサンブルのような静かな中に重厚な和音を響かせてほしいとも思うが、いずれにしても本人の満足いくまで仕上げきって音源化してほしいところではある。



「タワーホテル」は、いまさら何も記すまでもない名曲である。
何度か聴いたが、この日の演奏は速くもなく重たくもなく、幻影的なタワーホテルの淡い輪郭と京都の空気が浮かび上がってくる。
この日のハイライトは、この曲と次の曲で、これが双葉双一とヴィオロンの組み合わせの真骨頂である。
一般的に、クラシックと比べポップスはppもffもない、ダイナミックレンジの少なさが欠点で、音楽的には耳だけが疲れるか退屈するかを味わうことも少なくない。
だが、ヴィオロンの双葉双一の演奏はppが確実にある。
youtubeでどれほど確認できるかは分からないが、弱く弾くところ弱く歌うところは本当に弱い。
客が小声でひそひそしゃべるのと同じか、それ以下の音量であり、ヴィオロンという会場、行儀のよい観客あって初めて成り立つ演奏である。
ppも極まると、後ろを向いてギターを鳴らし、pppを表現する。
このヴィオロンバージョンの「タワーホテル」は、ファーストアルバムより前に上がった動画より出来が格段によいので、双葉双一を知らない層にもお勧めである。
なお、この曲も、「いきものがかりで『茜色の約束』でした」とのことであった。
関係ないが、多くの国民と同様「いきものがたり」と思っていた。
「いきものがたり いきものがかり」とアンド検索すると、ヒット数の多さに驚かされる。
話を戻すと、双葉双一はこの日、阿佐ヶ谷の駅から「ムーンウォーク」で会場入りしたとのことである。
「ヨイトマケ」の前科があるので、本当に「ムーンウォーク」を披露するのかはまだ眉唾物である。
だが、クローズしたはずのブログで「ムーンウォーク」の練習写真が披露されていたので、もしかすると本当にやるかもしれない。




「お嬢さんよろこんで」は、やはり素晴らしい。
双葉双一の不幸(不適切で言い換えるなら「苦労」)は、ファーストアルバムで「タワーホテル」と「お嬢さんよろこんで」を作ってしまったことである。
これを超える作品を、この後どう作れというのであろうか。
この日再聴して改めて感じたが、これだけ本編が短いにも拘らず、長い長い後奏のハーモニカがあるおかげで(ファーストアルバムにはそれはない)、「時間よ、風邪でもひいちまえ、お嬢さん、もしあなたと心中したら」などの世界が何度も余韻としてリフレインされ咀嚼されているのである。
説明がもはや不要な世界と、他の会場より一つ頭抜けた美しい演奏が、幸いにして動画で何度も観られる。




「カバーついでにフォークを」とのことで、友部正人のカバー曲「密漁の夜」がかなり心を込めて演奏される。
「月の砂漠」のような前奏から始まり、フォーク的な呟きが繰り返される。
双葉双一曲の中では、「春と乙女」に近いか。
こうした呟き系の曲を演奏すると、双葉双一の第一印象の「森田童子」的な言葉重視系の表現者の像が、改めて浮かび上がってくる。
用いられている一つ一つの言葉は、双葉双一のそれとは微妙に異なっているのだが、用語論的な意味での言葉の用い方にはこの「師匠」の影響が多分に感じられる。
それはそうと、12月8日に「原マスミ」と「友部正人」のツーマンライブが、神楽坂で開催される。
この二人は、知久寿焼の2大教祖であり、客席にいなかったら大変な驚きである。
正直、自分は原マスミしか詳しくはないが、知久寿焼や双葉双一(また、その他大勢)に多大な影響を与えている友部正人世界の片鱗をこの目で確かめたいと思う。



野村麻紀のカバー曲「耳」は、和音の支配する旋律で作られている感があるので、さらりと流れてしまうところがある。
それまでの数曲と比べて、言葉と音の引っかかりが少なく、それが長所でも短所でもある。
だが、「引っかかりのある曲」ばかりでは、それに慣れてしまい感受が鈍くなる危険があるので、よい挿入であったとは思う(特に友部正人曲の後ならなおさら)。



その次に演奏された「旅に出なさい」は、今後の方向性が期待できる新曲であり、U.F.O.クラブで(おそらく)初演された。
それまでの双葉双一の曲では、多く「お嬢さん」という記号的な言葉を二人称的に用いて、独自の世界を作り上げていた。
おそらく、今後も「お嬢さん」で名曲が作れるであろうとは予想されるが、「お嬢さんよろこんで」をそうそう超えられる曲が量産できるとは思えない。
「旅に出なさい」は、「子を持つ母」「自転車のサドルに付いた露」など、多様な視点から組み立てられているにも拘らず、瑞々しい透明感のある仕上がりになっている。
正直なところ、前回のもう一つの新曲「ハッピーエンド」は今後歌い継がれるかは分からないが、この「旅に出なさい」は後に双葉双一の代表曲となりうる可能性すらあると考えている。
初演のときより演奏もこなれ、歌詞もよく聴き取れ、演奏面での見劣りは感じられなかった。



「カバー曲をメインにお届けいたしましたが」と、最後までこの調子が続く。
最後も、「スキマスイッチで」と、「クリスマスに誕生日」が演奏される。
アンコールの「5x5のクリスマス」と続けて、クリスマスの曲である。
この辺りも、中野氏のレポでもう補足することはないのだが、「5x5のクリスマス」については韻律の美しさが特に感じられる。
お洒落な単語を並べているだけではなく、テーマ的な結びつきもあり、数秒間で歌われる部分にどれだけの時間と労力が割かれているのだろうと思わされる。



この日のMCで、11/14に学校の校舎を使ったライブが行われると告知があったが、残念ながら予定が被り足を運んでいない(「第3回『ビビを見た!』会」参加のため)。
ただ、芸能花伝舎(だったと思う)でなくても「教室ライブ」は可能なようなので、原マスミの教室ライブもまたどこかで、とは思った。
また、友人の撮った映画にも出るとのことで、そちらも期待される。
ともあれ、夜の10時から通常営業とのことで、ライブはこれでお開きになった。



この日の演奏は非常に満足で、サラリと力を抜いて歌うところがよかった。
新作での取り組みや努力が、旧譜の演奏や歌唱の充実につながっているとも思える。
12月には12月は、またU.F.O.クラブでのワンマンがある(西八王子「アルカディア」は少し遠いか)。
ヴィオロンの音と空気、雰囲気の方が好きだが、来年の沢田ナオヤとの共演前に年内に、今年観ておくことにしようか。



このライブは10月にあり、日付は11月で記事は上げるが、本日は実は12月である。
早いところ、たまったものを片付けてしまいたい。

絵本仕掛けの音楽会「ありがとうがききたくて...」 /神楽坂 galon(09/10/24)


原作:友永コリエ「オートバイとリヤカー」
台本・音楽:南谷朝子
出演:ルマタン・デテ(スパン子&南谷朝子)
朗読:柳原陽一郎


高円寺JIROKICHIのレモンスカッシュの味も消えやらぬ二日後、神楽坂のgalonという帽子屋の地下で音楽と童話の融合された企画があり、足を運んだ。
全部で3回の公演であったが、10/24の昼の部に足を運んだ。
本当は、この日は青梅で原マスミのソロライブがあり、梯子をすれば行けないこともなかったのだが、青梅はさすがに遠く感じられて見送った。
後からリストを見ると、信じられないほどのレア曲がメドレーで演奏されたようだが、暮れか年明けのライブで再演されると信じたい。
また、この日の朗読は柳原陽一郎であったが、原マスミの朗読は絶品であり、一度朗読専門の企画があってもよいのではないかと思う。
「教室ライブ」やバンドライブなどで少し披露されたことがあったが、やはりプロフェッショナルといった力量が感じられ(職人的という点では音楽や絵画以上か)、長編を一度に朗読する企画が待たれる。


以下、箇条書きでいくらか記すことにする。


・会場は、神楽坂のメイン通りから一本入った細道沿いだったので、道に迷った。
・入るときにプラスティック製の警笛(体育の時間によく吹かれる笛)が配られ、実際に吹く場面が出てくるとのことだった。
・会場は満席で、階段から観ている観客もいた。
・ルマタン・デテの二人がまず登場する。演目の前に 3曲演奏される。
・1曲目はアコーディオンのスパン子のボーカルであった。やはり、3拍子はアコーディオンとよく合う。少し大きめのアコーディオンであり、よい音、多層な響きがする。
・2曲目と3曲目は、おそらく本日の企画者であろう南谷朝子が歌った。元来が役者畑の人のようで、スパン子より歌詞は聴き取りやすい。フランス語の曲と少年の一人称の想いを歌った歌とが演奏された。南谷朝子の歌・話し方は、記号的な少年の世界を表現するのに適切な素材感があった。
・歌をもう少し聴いていたいところであったが、メイン語り部の柳原陽一郎が緑色のお洒落な帽子(24日昼は緑)を被って登場する。リアカーとオートバイの台詞の部分を、二人が担当する。
・朗読が始まった後も、南谷朝子とスパン子の音楽が節々に入る。ミュージカル形式であるが、曲の出来も演奏面も含め、音楽的な完成度は高い。いわゆる「この芝居のためだけに作られた曲」なので、あまりよい仕上がりなのも「もったいない」という気がしてしまうが、芝居の品質を確実に高めてはいた。
・途中、柳原陽一郎も歌う部分があり、この部分を考えての人選であったと思える。朗読ができる人間に歌わせるのではなく、歌える人間に朗読をさせるという、音楽重視の
・一箇所、他の部分とは異質な音が聴こえてくる。「ノイズ音楽に興味があるが、柳原陽一郎の名前で出してよいものか」とJIROKICHIで語っていたが、ここの部分は柳原陽一郎が作曲に関わっていたのかもしれない。なお、自分は「ノイズ音楽」というジャンルを寡聞にして知らない。昔、「いやな音博物館」というカセットテープを購入したことがあり、「黒板に爪」「ガラスに釘」「発泡スチロール」などの音が提示されていたが、そういった「ノイズ」とはどうも違うようである。
・内容は、リアカーとオートバイが大好きなおじいさんを助ける話、というのが大筋である。「ありがとう」と言われることによって「ピカピカになる」という、精神論的な発想は絵本としては面白い。
・本編終了後、「好きな言葉教えて」というテーマで、観客などに聞いて回りながら歌う企画で終了する。ちなみに、柳原陽一郎の好きな言葉は「お通しは無料(ただ)です」とのことである。
・時間は賞味一時間ぐらいであった。子どもが観ることを考えると、このぐらいの時間が限界かもしれないが、安くて長時間のライブに慣れすぎてしまった身としては、もう一つぐらいのコーナーが欲しいとも感じた。だが、おおむね充実した内容であったため時間が短く感じたということもあり、よい企画だったといえるのではないだろうか。
・終演後、柳原陽一郎が持参した電子音が出る楽器を、来援した子どもが弾かせてもらっていた。観客との距離の短さが、このような小さな会場の魅力であると言える。
・帰りに、柳原陽一郎が被っていたのと同じ帽子を発見する。記憶に誤りがなければ、50,400円であった。確かによい帽子だが、ミニノートのPCぐらいなら買えてしまう料金であった。


会場を後にし、神楽坂の駅に向かう。
「ワイト島の奇蹟」を神楽坂で観たとき、帰りに水炊屋を見つけ、次回はここにも入りたいものだと考えていた。
だが、残念ながら一年も経たぬ間に、その店は移転か何かで神楽坂の景色の一つでは既になくなっていた。
時間もあったことなので、前々から足を運びたいと考えていた店に出向くよい機会だと考え、地下鉄東西線に乗って西向した。


そして、到着したのは吉祥寺駅である。
目指すは、夢のハンモックカフェである。
南口から線路沿いに逆行し、大きな道に出た後垂直に曲がり、南に進む。
そのまま真っ直ぐ進むとマンダラ2に出る通りであるが、この通りは客引き(もちろん目当てのハンモックカフェの客引きではない)も多いのであまり通らず、この店があるとは気が付かなかった。

「吉祥寺 ハンモックカフェ マヒカマノ(http://mahikamano.com/ )」

回転率の非常に悪い店で、並んで待つことになるが、直近の待ち客は外のハンモックの上で待てる(外にハンモックが二つあり)。
順番がが来たら「時間がなくなったので」とお金を払わず外のハンモックだけ楽しむこともできるのかもしれないが、やはり店内のハンモックに腰掛け、飲食する方が浪漫がある。


まず、店内は禁煙(これはありがたい)、なおかつ撮影不可(この店の店内写真を伝えられないのは残念である)である。
また、お子様も現在は不可で(過去にいろいろあったらしい)、原則的に子連れでない客のみとなっている(ただ、この日はすぐ横に「原則外」の客がいた)。
普通の店であれば椅子が並んでいるところを、ひたすらハンモックが吊り下がっている。
ハンモックもいくつか種類があるようで、この店のハンモックは椅子型のハンモックである(それはそうである)。
だが、布製ではなく網製のハンモックはよく伸びるので、靴を脱いだ状態で足をかけて乗せると、ほぼ横になっているのと同じ状態になる。
ちなみに、布製のハンモックは顔を深く後ろに沈めると、外の人の動きがあまり見えず、籠り症の人間にはかなり落ち着くものと思われる。
4種の豆のカレーを注文するが、辛さは当然期待していない。
トマトベースで、豆自体にも甘みがあるものが多く、カレーというよりビーンズ系の煮込み料理と思えば悪くはない。
今まで、人間の体は布団やベッドの上で横たわるのが、一番負担の少ない体勢であると考えていた。
テンピュール素材はその究極の形で、他の形は負担がかかる一方だと誤解していた。
頭のてっぺんから足の先まで網素材のハンモックに体を沈めると、体の背面だけではなく両サイドも含めて体重が分散される。
また姿勢に関わらず細かい網に力が均等に分配されるので、少し宙に身を置くことに慣れた後は、苦のない空中浮遊状態と錯覚しかねない非現実感が味わえる。
食した後は多少心地よい感覚が、眠夢の世界へと誘う。
意識が現実に戻ってきたときには、自分がどこに存在するか確認することが困難な離脱感を味わうことになる。
一応、90分ほどで退店したが、すっかり体が軽くなって足取りが軽かった。
「てもみん」などに20分いて肩を揉んでもらうより、安く長時間いられ、なおかつ体だけでなく心の面でもリラックスすることができて、非常にお得感がある。
なお、この店はハンモックのショールーム的な役割も担っているらしい。
帰りにすっかり気に入ったので、さぞかし高かろうと思い、価格を問うた。
ハンモックの料金も工事の料金も予想ほど高くなく(先ほどの柳原陽一郎の帽子一つでおつりが来る)、マンションの一室に設置しようかと本気で考えた昼下がりであった。


ハンモックに一時間以上身を置き、確信したことが一つある。
ハンモックは、確実に人生に充実を与えるということである。
全身を覆う網状のハンモックの包む非現実的な空間は、人間の生まれる前の世界とも死後の世界とも共通する感覚がある。
この空間に包まれることにより、主体的に味わうしかないこの現実世界を、天空から下界を見下ろすかのように客観的に見つめ直すことができるはずである。
社会に幻滅したときや人生に疲れたとき、100錠の丸薬や100人の医師よりも、一幅のハンモックが力になるはずである。
そんなときは、吉祥寺に出向き、天使の羽のようなハンモックに身を任せるのがよい、そう感じた。


本来ならここで帰宅し、アド街ック天国の吉祥寺の特集を見る予定だったが、もう一見カフェを梯子することになった。
「mellow cafe(http://mellowcafe.tamaliver.jp/ )」という井の頭公園に入っていく細道のちょうど公園に差し掛かるかのところにあるカフェである。
一応、猫カフェのようなのだが、少々他の猫カフェとは異なる雰囲気があった(他の店など行ったことはないのだが)。
まず、靴を脱いでフローリングの席に腰を下ろすが、猫の毛一つ、埃一つ落ちていない。
静かなBGMが流れているだけで、店内もほとんど騒々しく話す客はおらず、その中を6匹の猫たちがごく普通の日常を送り、それをじっと眺めて時間だけが流れていく。
もちろん、猫カフェらしく、籠におとなしくしている猫を撫でたり、膝の上に猫を乗せ読書をしたりする客もいる。
だが、あくまでもここは猫が中心で、「ここにいるときは手を触れてはいけない」ゾーンやポイントがあり、そこでは猫は猫以外には邪魔されず寛いでいる。


他人の志向や嗜好は尊重したいが、個人的には「経済行為により生命を所有する」行為には少なからぬ抵抗がある。
もちろん、それにより双方幸福であるならばそれを否定する言われはないのだが、自分自身が率先して行うことは未だできない。
そういった意味でも、記号的な意味での「猫カフェ」には大いなる抵抗があったのだが、この店はよい店であると感じた。
まず、猫自体が飼い猫として迫害を受け、トラウマを抱えていて、それを保護し慣れてきたところでこの店で「働いて」いるところである。
店の中には6匹の猫のリストが、写真付きでメニューのように置かれている。
どの猫も決して幸福な境遇ではなかったが、この店に来てからはスタッフの深い愛情に囲まれ、幸福なひと時を送っているように見える。
餌も、市販品を購入し与えるのではなく、手作りの餌を毎日与えているようである(店のブログに詳しい)。
閉店までのひと時、自分は指一本猫に触れることがなかったが、この空間の雰囲気は十二分に堪能することができた。


また、この店のメニュー(人間向けのほう)も、「オーガニックカフェ」と名乗るだけあり、素晴らしい。
シナモントーストなども本格的な仕様であり、出来上がりに時間がかかることも含めて伝統的な喫茶店的である(どうせこのような店で急いで食べて急いで帰る客はいない)
柚子茶(柚子レモネードだったかもしれない、ホット)も「オーガニック」だけあって、手加減なしにすっぱい。
チェーンの喫茶店では絶対にお目にかかれない味で、常習的に足を運び涙しながら味わいたい飲み物である。
残念なのは、(今は分からないが)店長だかが体調が優れないため、フードメニューのほとんどが休止状態になっていたことである。



sprawl world

sprawl world

sprawl world


味もよく、良心的で、スタッフもこの店の主人公に対する愛情を深く持っていることが感じられる素晴らしい店であるが、先ほどのハンモックカフェ同様、客の回転率がこれまたおそろしく悪い。
長く続き、猫たちも幸福な時を少しでも長く送ってほしいと思うが、経営的にも良心的なのが気になるところではある。
掛川花鳥園のように、(時間を決めてでも)餌を与える作業を客に販売し、コストを分担した上で客に深く関わる機会を、何らかの形で与えていくことも場合によっては必要になってくるのかもしれない。
この店がなくなってしまうのだけは、非常に惜しく避けてほしい。
スタッフの善意だけではなく、良心的な店を支える何か大きな仕組みや動きがあれば、と感じずにはいられなかった。


何から何までゆったりした時間を方々で過ごし、当社比2倍ぐらいゆったりした人間に成長して帰路に付いた。
どちらの店も、吉祥寺で時間があるときにはまた足を運びたいものであると感じた。



なお、この記事を上げる頃、11月が終わろうとしているが、2ヶ月遅れの日付でライブレポを上げるには抵抗があるため、11月の日付で12月の初めぐらいにライブレポを上げてしまおうと考えている。

ご了承願いたい。

柳原陽一郎 JIROKICHI SESSION with Medicine Men/高円寺JIROKICHI(09/10/22)


Medicine Men=加藤一誠(g)開 輝之(b)沼倉 寿(ds)


1.アラバマソング
2.BAD LOVE~恋の病
3.そしてペンギンは語る
4.はじまりのうた
5.キング・オブ・ロケンロール
6.愛のSOLEA
7.流れてゆこう
8.まわれ糸車


9. ジェラス・ガイ
10.哀しきモンスター
11.ふたりは遊牧民
12.なんにもいいことないけれど
13.徘徊ロックNo.5
14.人魚の時間
15.奇跡の人
16.みんなガケップチ


17.決めないの知らないの


18.ホーベン


一月半締め切りが続き、ライブレポが溜まってしまった。
忙しさに更新が滞っていたら、とうとうヤナネットにまで先を越されてしまった。
一ヶ月以上遅れると、さすがに気力も記憶も薄れてきてしまうが、メモを頼りにレポを上げてしまいたい。
年内は比較的時間が取れるので、これからは毎日更新したい(とブログには書いておこう)。
今までと同じように、世間の雑事を面白おかしく採り上げ、記していくことにしたい。


さて、この日は毎度おなじみの、「来た者順」の高円寺JIROKICHI方式である。
この日は少し早めに並んだおかげで、よい席に着くことができた。
ただ、この日はいつもほど「立見でギッシリ」という混みようではなかった。
バースディでも日祝日でもないため、「無理してまでも」という意識が働かなかったためであろうか。
そして、これもまたおなじみのピアノの調律ショーが開演まで繰り広げられる。
おかげで、今回も澄んだピアノの響きを耳にすることができたが、どの程度の頻度で調律を行っているのかいつも気になるところではある。
いずれにしても、最近のJIROKICHIライブには外れがないので、この日も楽しみに開演を待った。


やがて開演となり、まずは柳原陽一郎一人での登場となる。
「アラバマソング」「恋の病」「そしてペンギンは語る」までが、ピアノ一本で弾き語られる。
声量は結構あり、テンポはかなりスローで演奏される。
この日に限ったことではないが、ピアノ一本の演奏はタメを自在にできる分、インテンポに戻りきらない(と感じる)ことがままある。
最初の2曲は、JIROKICHIを意識したのか、ジャズ的というかピアノバラード的というか、とにかくJIROKICHI風であった。
ただ、本当はここまでスローに弾くなら(特に「アラバマソング」)、本当はベースやドラムも入って音が厚くなった方がより聴かせられるのではないかとも感じた。
「若い演奏者には荷が重い」と気配りが働いたのかもしれないが、「旅をさせろ」である。
無理難題を若い者に押し付けるのも、ベテランの一つの役回りであろう(と無責任なことを外野は記す)。


この少し前に京都でライブがあり、その後動物園でバクやフンボルトペンギンを見たらしかった。
「そしてペンギンは語る」は、次回のアルバムに入れるか迷っていたそうだが、この哲学者の様な風貌を見て入れることを決意したようである。
ウェアハウスのベーシスト大坪寛彦の作曲だったはずだが、自然でゆったりとした三拍子のリズムとメロディーが、柳原陽一郎の現在の声質によく調和している。
未収録の曲の中では、音源化が待たれる曲目の筆頭に上げられるかもしれない。
「全曲ライブ」が落ち着いてからのレコーディングが予想されるが、来年の楽しみが一つ増えた。
なお、柳原陽一郎のブログには、動物園の後梅田に行き、その後の行動が伏せられて思わせぶりな書き方になっている。
だが、ANATAKIKOU(倉橋ヨエコと昔よく共演していた関西のバンド)のHPをたまたま見たところ、梅田での行動が書かれていた。
特にミュージシャンとして驚くような行動ではなく、ライブハウスに足を運んでいたようであった。
18切符の期間であればこちらも何とか行きたかった「シグネーチャーホンダとカミオカンデ」の出演日のようだったのだが、ベテランプロの目からどのように映ったのか気になるところではある。


話をJIROKICHIライブに戻すと、この3曲の後MedicinMenの登場となり、バンドでの演奏となる。
前回は3人とも帽子を被っての演奏であったが、この日の帽子はドラマーのみであった(確か)。
加藤一誠は初回から今まで帽子を被らなかったことはなかったが、この日は忘れたのかどうしたのか、いつものトレードマークがなかった。


「腕鳴らし」で、「はじまりのうた」が演奏される。
「メジャーセブンス」「マイナーナインス」などが、歌詞の方に出てくるメタ構造を持っており(「ドレミの歌」のようなものか)、無難に弾かれる。
「キングオブロケンロール」は、「徘徊ロックNo.5」と同じくらいに加藤一誠は自然に弾きこなしてきている。
ただ、今回の加藤一誠のギターはエレキであり、上手いは上手いがいつもほどは際立ちにくいところはあった。
もっとも、こちらの耳も肥えて慣れてしまったのかもしれないが。
「愛のSOLEA」は、前回と同じく開輝之がコントラバスを(おそらくこの曲のためだけに)持参し、演奏した。
前回も書いたが、昔、倉橋ヨエコのバックでよく演奏していた「メガネレンジ」の「ジャンボリー何とか」というベーシストと見た目がよく似ている(同一人物?)。
この曲のこのバージョンは、加藤一誠の「何より素敵なことがある」のコーラスが被ってくるところが一番好きである。


ここでMCが入り、今、全曲ライナーノーツを作成していて、なかなか大変らしい。
昔、『宝島』という雑誌で「柳原の死に曲特集」などが載ったそうだが、「作らなきゃよかった」と思う曲もあり、本当に嫌なのは出さないが、発売されたものの中にも該当する曲があるとのことである。
「僕はヘリコプター」という曲は、独立問題で「飛んでいきたい」という思いだけで作った曲とのことである。(おそらく詳細はライナーノーツに記載されるであろう)。


「流れていこう」から二曲は、柳原陽一郎はギターに持ち替えての演奏となる。
やはり、ステージ全体のコントラストを考えたとき、「ピアノマン」オンリーのステージより幅が広がる。
ピアノは沈黙し思考する印象、ギターは目的に向かい足を動かす印象が、演奏面から感じられる。
ギター曲を何曲かピアノに移植する作業を少し前よく行っていたが、ギターの演奏のよさをどこかで再認識したのかもしれない。
「まわれ糸車」は、欲を言えば加藤一誠のアコースティックギターの音が欲しかった。
今回のこの曲では、柳原陽一郎がアコースティックギターを弾いていたので、音的にはスティール弦の高音は入っては来る。
だが、加藤一誠のギターの技術の高さは、スティール弦の速弾きの音のクリアさ、演奏の滑らかさに強く現れていると感じる。
最近の柳原陽一郎の曲は「等身大の人間の視点」からの歌詞が多いが、この曲は珍しく、メッセージのみを前面に出さず一歩引き、糸車などのものにことよせて表現している。
その分、視覚的な映像が生き生きと情景として浮かび上がり、上品な世界に仕上がっている。


後半、ジョンレノンの「ジェラス・ガイ」と最近の曲「哀しきモンスター」が、やはりソロで演奏される。
ヤナネットでは曲順が入れ替わっているが、「ジェラス・ガイ」が先で間違いない。
その後、自分の好きなビートルズの曲を何曲か紹介し、アンケートにも自分の好きなビートルズの曲を記すように促す。
「哀しきモンスター」は、マイナー調の暗めの歌詞が付く。
「命令形のママ」「否定形のパパ」など、ハッとさせるキーワードが使われているが、最後に「You're Monster」と歌われたことには多少違和感があった。
自分を「モンスター」と意識した孤独な少女(または少年)の、一人称の心の叫びの歌だと思っていたからである。
いずれ、音源化され歌詞カードも活字化されたならば、もう少し曲の意図を把握できるかもしれない。


ここで再びMedicine Menの登場だが、まずは加藤一誠のマンドリンとのセッションとなり、これは非常によかった。
前半で、「作らなければよかった」という曲がある旨のMCがあったが、逆に「この曲を作って本当によかった」「転換点になった」曲もまたあるという旨のMCがある。
「ジャバラの夜」「ブルースを捧ぐ」、そして「ふたりは遊牧民」などは、このグループに属するとのことである。
蛇足で憶測だが、「どんぶらこ」「人生はロデオ」「涙があふれてる」あたりも、実はそれに近い想いを持っているのではないだろうか(「牛小屋」は別格にして)。
この日の演奏だが、マンドリンを力でトレモロ弾きをするのではなく、浮遊感を残した軽やかな透明感とでも言うべき風が、加藤一誠の楽器から流れてきていた。
大自然の荒涼とした部分ではなく、生き物のように生動している部分が、この高音楽器一つでよく表現されていたように思う。


「何にもいいことないけれど」は聴き慣れないジャズバージョンであり、初めて聴く曲だと途中までは思っていた。
だが、「我が家が真っ赤に燃えたとき、お前はツバメと踊ってた」の部分の歌詞は明らかに聴き覚えがあり、ここまで変わったのかと驚かされる。
記憶の中でこの曲は「ヒノモト音頭」的な曲調だった印象があるのだが、全くの記憶違いなのではないかと思わされる。
柳原陽一郎の近年の作品はどちらかといえば歌詞に比重が置かれ、旋律そのものよりもアレンジと歌い方に工夫が感じられるのだが、このバージョンはインストゥルメンタルでも十分通用する。
繊細なムード歌謡が、柳原陽一郎の中高音のゆったりとした美声で歌われている風情で、やはり音楽そのものを楽しむにはよいメロディは効果的である。


そして、目を瞑っても弾けるくらいにおそらく弾き込んだ「徘徊ロックNo.5」が予想どおり演奏される。
主題、及び「ララーラーラララ」の部分での加藤一誠の高音コーラスがよい具合に重なり、近年の定番メンバーの中ではおそらく一番清涼感のあるハモリを聴かせてくれる。
一番驚いたのは、後奏が終わりきらないうちに柳原陽一郎がギターを肩から下ろし、ピアノの前に移動したところである(このまま帰ってしまうと、双葉双一の「インザナイトマイフェスティバル」である)
メドレー形式で、曲と曲の間に空間を入れず、ピアノの和音の八分音符の刻みが心地よく掻き鳴らされ、「人魚の時間」へと続く。
この日の一番の山場は、おそらくここにあったことであろう。
この時代に作られた曲は、比較的無駄の少ない構成になっていて、よく言えば聴き心地がよい、悪く言えば印象が流れて姉妹勝ちなところがあり、「人魚の時間」は「良質な小品」的なイメージがある。
だが、このように組み合わせて弾くことにより、二曲のコントラストもよい効果を生み出し、曲のよさを三割多く引き出すことに成功している。


五月のライブで本当に久々に聴いた「奇蹟の人」が、同じメンバーで再演される。
あまりにも調子よく演奏されたため、喉を痛めんばかりのシャウトが多少心配になった。
「みんなガケップチ」は、ユーモラスなタイトルに一見思えるが、しっとりした曲である。
「優しい人は、みんなガケップチ」という世界観は、「泣いているのは君だけじゃないよ」から続く、報われない社会の中の弱者に対する労わりの視点(安っぽい言葉なので別な言葉にしたいのだが)が継続していることが思わされる。


アンコールに応えて、バンドバージョンで「決めないの知らないの」が演奏される。
確かこの曲だったと思うが、「昨日の夢はバクに食わせて」という部分があり、「ばいばいばく」は演らなかったものの、先ほどのMCとの関連が見られる。
相変わらず、加藤一誠のギターソロは見事である。
関係ないが、「かとういっせい」と最後に「せい」の音が入るためか、「加藤一誠、盛大な拍手を」と「せい」の音が連続するこの台詞をよく聞いた気がする。


再度のアンコールで、歌う予定のなかった「ホーベン」が演奏されたが、この曲ができたエピソードのMCが長く、興味深かった。
アルバム「長いお別れ」を出したすぐ後、マネージャーが「トンズラ」してしまったらしい(しかも、どうも一度でもないようだ)。
その後、自宅に篭って楽器を弾いたり曲を作ったりしていたようだが、やはり現場で様々なミュージシャンと接して刺激を受けていかないといけないと感じて、動き出したときに作った曲とのことである(文言は正確ではないが、大体こんな内容だった)。
そして、ヤナネットを始め、「ウタノワ」を作りと、現在につながっているのだが、このことも全曲ライナーノーツに記されることであろう。
正直、喉は「奇蹟の人」あたりで力を入れすぎてしまったのか、いっぱいいっぱいであり、次の日の朗読の心配をしてしまうほどであった。
だが、MCで曲のありがたみが3割増になっていたので、心して聴き、ステージは終演となった。


この日のライブは、決して奇を衒った選曲をしていたり冒険的な編曲をしていたわけではない。
「ふたりは遊牧民」のマンドリンが見事だったことと、「徘徊ロックNo.5~人魚の時間」のメドレーでの楽器の切替が大きな見せ場であったこととが、特徴として挙げられるぐらいである。
だが、「作るんじゃなかったという曲」「作ってよかった曲」「マネージャーの失踪」など、過去を振り返り当時の思いを正直に語る節々のコメントは興味深く、印象的であった。
若い演奏家との共演が、おそらく自分の若き日の音作りや精神に通ずるものがあり、そうした記憶を引き出してきたのではないだろうか。
ギターとベースの大御所との共演シリーズを来年の1月に控えた今、若くて多くの可能性を秘めた演奏家とも共演し心の整理をしたかったのかもしれない。


なお、終演後、この日のドラマーと思われる男性が出口付近の階段で膝を抱えて灰になり、固まっていた。
顔を見たわけではないが、ライブの終演後すぐに酔いつぶれている観客などいないので、おそらく全力を出し切った演奏者の燃え尽きた姿であったのだろう。
膝を抱えてうずくまるその前に、何故か小皿が置かれていて、お供え物として2円が乗っていた。
この日の演奏に敬意を称して、奮発して5円か10円を供えようかとも考えたが、人物の確定ができなかったので一応見送った。
次回、同じようなシチュエーションが存在すれば、そのときには奮発したいと考えている。

サードクラスDVD発売記念ワンマンライブ/新宿レッドクロス(09/10/12)


1.恩恵
2.現状維持
3.どたんばのパワー
4.ランニング


5.愛くらら
6.ある一日
7.この頃
8.のしかかる
9.めめしいときの歌
10.名場面
11.輪になる


12.コインシャワー
13.ローズタウン
14.今君は立ち上がる


15.基本
16.青と赤が混ざる
17.(確認中、「俺のことをどっかで見ただろう」という歌詞)
18.いやだな
19.恋かしら


20.光を見せて
21.あわせたいあわせたい
22.マッハ
23.やさしさの中のおせっかい
24.駒場北四丁目


25.心のでき
26.要求


27.脱皮
28.年上想い


かなり日が開いてしまい(一ヶ月以上経ってしまった)、不十分なところもあるが、ひとまず上げてしまうことにする。


サードクラスのステージを観るのは、石川浩司生誕前夜祭以来となる(ただし4人編成だった)。
この日は、DVD発売記念という副題が付いていたが、そのDVD収録のステージもレッドクロス(紅布)でのものであった。
DVDもかなりの曲数であるが、この日も28曲、厳密には二回のアンコールの前にバイオリンソロが一曲ずつ入ったので、それを入れると30曲もの演奏であった。
ちなみに、チケットは前売りの料金とドリンク代で3000円なので、一曲100円のお得なライブであった。
レッドクロスは初めて行くが、新線や新駅が増え、大変にアクセスがよくなった立地である。
平日のためか、開場近くになってもほとんど並ぶ客がいなかったため心配になったが、開演近くになるとよい具合に一杯になった。
開演前には、ワタナベイビーが数日前に購入したのではないかと思われるBOXアルバムの音楽が流れていた。
新しめのライブハウスのためか、音がよい。
広さの割に上部空間に余裕があり、中華風の紅布の装飾もよい感じであった。
この日の物販は、普段と異なるスタッフであった。
DVDを購入して、しばらく経ってからこの日の特典DVDを持ってきてくれた。


開演時間が過ぎるが、なかなか始まらない。
BGMが心地よいため気にはならないが、一度BGMが入場開始に思われる変化があったので、一度できた心の準備が流れてしまい、少々心配になったところはある。
案の定、開演前のはかまだ卓の体調が芳しくなかったようであるが、開演後はそれを感じさせない(というよりも普段よりよい)コンディションであった。
定刻より10分強遅れて、サードクラスメンバーの登場となる。
ムトゥアラーターはいつもどおりの飛行機の柄のシャツ(とてもよく似合う)で、クメムラヒトミ(新ホームページhttp://www.third-class.net では久米村ヒトミの表記だった)は髪を少し切ったかしたように見えた。


挨拶もそこそこに、「恩恵」からスタートする。
ワタナベイビーのベースが、かなり上手い。
相当の時間を練習に割けるのか、ホフディランのバックのベースが上手いためその影響が大きいためかは分からない。
だが、やはり4人編成よりは音楽的に充実しているように思える。
音量はかなりあったはずだが(特にベースの音量はかなり強かったはずである)、不思議と苦にならない(正直、クラブキューは同じくらいだとしんどい)。
開演前のBGM同様、音質がよかったためであると思われる。
以下、4曲目までは力で押す曲が続く。
この日は、曲群をいくつかのブロックに分けて、それぞれに統一感を持たせる意図があったようである。
一応、ここでは4曲目までを第1部とする。
関係ないが、「恩恵」は、「恩恵、恩恵」という部分が「OK、OK」と聴こえて、別な歌詞を勝手にイメージしてしまった。


「現状維持」は、音域ギリギリの低い音程でスタートして、タイトルのとおり「現状」が「維持」される様子を旋律でも表現しているように感じた。
はかまだ卓の声は、普段自分が聴きに行く歌い手と比べて、極端な高音を売りにしていない(またはできない)特徴がある。
商業音楽の中であまり聴かれない中音域の充実が、サードクラス自体の親しみやすさにも繋がっていると考えられる。
前奏、間奏のバイオリンの高音が不協和音になるすれすれでぶつかってくる感覚が心地よい。


「どたんばのパワー」も、最初の方に持ってくるにはずいぶんと元気のよい曲である。
必然的に、ステージの後半が湿度の高い曲中心になるが、少なくともこの日は「乾いた力強さ」から「有機的な内面」の世界へだんだんと浸透させていく構成であったと思える。
「どたんばのパワー」などのズンチャカ系のこうした曲群は、しっとりとした曲を聴かせるための効果的なアクセントとしてステージの中では作用する(もちろん作り手の中ではそれ以上の目的があるはずだが)。
ワタナベイビーが後ろから、手拍子を要求する役割を担っていた。
比較的新しい曲だが、「追い込まれたときに花が咲く、どたんばのパワー」という一節は、おそらく自分自身に向けて送ったメッセージであったのだろうと想像される。


「ランニング」は、冒頭のサビの旋律が印象に残る。
ボーカル、コーラスともに、キー音から音の取り難い乖離で音を伸ばしているので(おそらく7度とか)、外しているのかと思われかねない微妙なバランスがたぶん楽曲に惹きつけている要素になっているのだろう。
歌詞とのバランスにおいても比較的清涼感があり、ここまでの4曲全体の印象を柔らかなものに消化させていく効能が感じられた。


ここで、少しMCが入り、ステージが始まったら調子がよいとのことであった。
「少ししっとりした曲」とのことで、曲調が変わって第2群の曲目が演奏される(便宜上、以下第2部とする)。
この第2部の曲群に、個人的には一番魅力を感じる。
アルバムのライナーノーツに拠れば、「愛くらら」のタイトル自体には特に深い意味はないようである。
だが、不定形、流動的な「愛」という対象を、音楽の中に象徴化させるときに、このフワフワした構成や展開は成功していると思える。
「愛くらら」を聴いたことがない読者向けに別な曲で説明すると、サティのジムノペティNo.1の「Gメジャーセブン→Dメジャーセブン」の繰り返しをまず想像してほしい。
この中で、前奏でバイオリンの旋律が高音部で浮遊し、歌に入ると伸ばしの音主体の歌詞がまるで伴奏のように自己主張少なく聴こえてくる。
ボーカルも含めて全てが伴奏のような導入部が過ぎると、「今日もまた心配だ」のサビの部分から、小さな階段をゆっくりと上る繰り返しを思わせるような上昇系の旋律が続き、一応帰着点に辿り着く。
「くらら」という響きは、否が応でもスピリの『ハイジ』に出てくる「クララ」をイメージさせる(いわゆる「クララが立った」の「クララ」)。
個人的には、有島(たけお)の『クララの出家』あたりもイメージさせられるが、いずれにしても本人の意図に関わらず「くらら」といった響きには「澄み切った爽やかさ」を象徴させる要素が多分に存在する。
そういえば、「クララ」という喉の薬も昔あったように記憶しているが、どうも定かではない。
最後まで上品な曲調の中に、透明感も屈折感も感じられる微妙な調和が、この曲に関しては上手く働いていると感じられる。


「ある一日」も、サードクラスの持つ健全で穏やかな雰囲気が多分に感じられてよい。
女声2本のゆったりしたコーラスが曲の空気を柔らかくし、聴衆を包み込む。
寒い冬であろうと、心穏やかならざるときであろうと、「ある一日」が包み込んでいる空間だけは、春の和やかな暖かさが存在している。
確かに、OTODAMAで芝生の上、青空の下、この「ある一日」が演奏されているのを聴くと、さぞかしつきづきしい演奏であると感じられたであろう。
曲後のMCで、「この曲がピークで、後は下がる一方かもしれませんよ」といったようなことも述べていたが、そのようなことはない。
だが、サードクラスらしい空気の密度は、「ある一日」の演奏が頂点であったかもしれない。


デュエットの曲とのことで、「この頃」が続く。
「昔の歌謡曲が好き」とのことで、その雰囲気を出した曲調に演奏であった。
具体的には、はかまだ卓と大塚ヤヨイのオクターブユニゾンの歌唱が最初から最後まで続く(サビだけは8度の開きではなくハーモニーがあった気がする)。
自己主張の強い曲ではないはずなのだが、何故か印象に残り後を引き、次の曲の印象がほとんど残っていない(メモすればよかったのだが)。
歌詞でなく曲についてのサードクラスの魅力は、奇を衒った旋律を不用意に持ち出さず、誰もが口ずさみたくなるような自然なメロディーを、無理のない音程で組み立てているところである。
唱歌的な自然さの中に、上品な和音が組み込まれ、結果として印象を強く残すのに成功している(ような曲が多いと感じる)。
「メジャーセブンのある童謡」のような、ありそうで、実はほとんどなかったバランスが、意外と需要のある音楽につながっていると思われるのであるが、どうであろうか。
「オーラの泉終わっちゃいましたね」とのMCの後、「のしかかる」「めめしいときの歌」と続く。
「めめしいときの歌」は、さだまさしと吉田拓郎を足して割ったようなフォーク調の曲であり、しっとりした中に多少の力強さを感じる。


サードクラスのファーストアルバムは「ファーストクラス」という作品であるが、これはなかなかの傑作であり個人的には一番よく聴いている。
「犬との生活」や「シーパラダイス」など、深く掘り下げて解説したいところではあるが、いずれこのアルバムを紹介する機会があると思うので、そのときにとっておきたい。
ただ、この第2部で演奏された「ファーストクラス」収録曲の「名場面」と「輪になる」とは、ある意味で現在に続くサードクラスの原点となる記念碑的な作品である。


「名場面」は、ni(知久寿焼+滝本晃司)のバックでサードクラスが頑張ったときに、はかまだ卓の父親が唯一好きな曲とのことで紹介されていたことがある。
関係ないが、このときの「夕暮れどきのさびしさに」と「はだしの足音」の演奏は、なかなかよかった。
バイオリンやベースなど、音が多い分満足度も高かった覚えがある。
その後、千倉で聴いた「はだしの足音」も当然感動的ではあったが、知久寿焼のコーラスが滝本晃司の声の倍音を補っていく感覚については、南青山マンダラで既に実感していた。
サードクラスの音楽の一つの系統として「ズンドコ系」があるが、とりあえずここでは定義を「1拍目に手拍子が入る曲」としておく。
「名場面」も、一拍目に強いベースの音とバスドラムの音が入るアレンジであり、クラシックと古いポップスの土台が感じる音作りに添える強いアクセントとなっている。


「輪になる」は、「愛くらら」につながるような、フワフワした雰囲気を壊さぬように丁寧に作った佳作である。
「名場面」よりもビートを強調しない、流れる感じの聴きやすい曲である。
曲やアレンジなどは、個人的には一番好きであり、この曲が聴けたのは嬉しいし、そもそもこの曲を聴ける期待からこの日のライブに足を運んだということはある。
欲を言えば、最後の「ハーイハーイハーイ」の部分は、ワタナベイビーにハモってほしいと思う。
音源では本人の多重録音のため、ステージ上で同じ声質で重ねるのは正直難しい。
ただ、この曲を含めて男声でコーラスが入った方が効果的な曲が何曲かある。
異なる声質でぶつけてでも、最後の部分のハモリはやはり欲しい。


サードクラスのメンバーがいったん退場して、はかまだ卓のソロステージで3曲演奏される(以下、第3部とする)。
ソロステージを聴くのは、南青山マンダラでの「不思議なディナーショー」以来である。
「不思議なディナーショー」は、結果的にサードクラスからベースの篠田鉱平が脱退する表明が行われたステージとなり、篠田鉱平のソロやバックにサードクラスを従えての演奏が行われた。
Q熱の曲を演奏した篠田鉱平のソロステージは素晴らしかったのだが、はかまだ卓のソロステージは逆になかなかアングラ感のあるものだった。
校長の職を離れ公民館の管理人(だったと思う)になり悠々自適な生活をする実父の歌や、ゲルマニウムを勧めてくる知り合いのマッサージ店の店員の歌など、日記的な内容にそのまま伴奏を付けているような感じであった。
そのときは南青山のマンダラより、高円寺の無力無善寺あたりの方が似合うようなステージであったが、このレッドクロスのステージはなかなかよかった。
第3部1曲目極めて個人的な曲「コインシャワー」こそ、1コイン5分のコインシャワーの悲哀を描く、私小説的なアングラ感があったが、2曲目の「ローズタウン」はメロディアスで普通によい曲である。
サードクラスのメンバーからは却下されているようであるが、新しい商業施設に足を踏み入れた少年の視点で、新鮮な魅力を感じている様を描写しているところがよい。
覚えやすい曲調が、8ビートのリズムに乗ってながれて、地方のデパートで流しても何の違和感もないと思われる。
「吉田拓郎っぽくなっちゃった」とのことだが、「今君は立ち上がる」も演奏される。
途中で空調の風で楽譜が落ち、「ありがとう」という部分まで歌で表現される。
この曲はカポタストを付けたが、それ以外の曲はほとんどカポタストをつけていないことに気付かされる。
エレキギターでカポタストはあまり使わないのかもしれないが、サードクラスはどちらかといえばエレアコ的なギターの使われ方をするので、少し意外な気がした。


ここで、再びサードクラスのメンバーが登場し、さらにサポートギタリストとして「いなかやろう( http://www.inakayaro.com )」というバンドの土岐佳裕が数曲参加した。
いなかやろうというバンドはサードクラスとつながりが深く、篠田鉱平脱退後の最初の「不思議な~」シリーズのツアーでベーシストを一人供給した。
「いなかやろう」というバンド名から、3つぐらいの和音で力強い歌詞を歌うような男性バンドと勝手に想像していたが、MySpaceを見ると上品で繊細な音楽を奏でる近いタイプのバンドであるように感じた。。
サードクラスと同じ男女混成バンドで、キーボードとドラムが女性であるところも共通している。
このような和やかな雰囲気の男女混成の形態のバンドは、演奏や旋律以外の部分で独自の空気、世界を作り出しているように思える。
昔、PTON!というバンドがあり、個人的には好きでよく聴いたが、やはり混成(ボーカルとキーボードだけが女性)であった。
聴き手である自分も、その和やかな輪の中に加わっていきたいと感じさせる世界があり、今サードクラスを好きでよく聴くのも近いところがあるのであろうか。
なお、この部のコンセプトは演奏負担の大きい「ニューウェーブ」的な楽曲を、曲を理解し技量もある土岐佳裕に楽器を任せて、本人はハンドマイクで歌に専念する、といったものらしかった。


はかまだ卓はここでギターをハンドマイクに持ち替え、「基本」が演奏される。
ファーストアルバム「ファーストクラス」の第1曲目であったと記憶している。
このような位置づけの曲だからか思い入れもあるようで、ハンドマイクの分普段よりも熱唱で力が入る。
入りすぎたためか、高音部で声がかすれたりひっくり返ったりしていたところもあったが、こうした曲が聴けたこと自体は大変よかった。


「青と赤が混ざる」も、高音での歌唱が続く曲である。
最初から「この曲は危険だ」と感じていたのであろう、開始前のMCでは「コーラス聴かせますよ」とのことが伝えられ、2人の女声コーラスが基調になるように演奏されていた。
ボーカルの負担を考えなければなかなか面白い曲であるので、今後も演奏されることを期待したい。


ここではかまだ卓が黒いサングラスをかけ、大塚ヤヨイがはかまだ卓のギターを手にして「(曲名確認中、テーマは「自意識過剰」とのこと)」が演奏される。
奇妙ないでたちで舞台で踊りまわるはかまだ卓、膝を曲げてギターをノリノリで弾いている大塚ヤヨイの姿は楽しそうで、普段真面目でおとなしそうな印象の分ステージの盛り上がりを強く感じる。
この後、「いやだな」は大塚ヤヨイのハンドマイクになったが、ここまでがいわゆる「盛り上がり」といった点でのピークであった。
ちなみに、土岐佳裕の演奏はここまでであったが、この企画は成功であった(ボーカル音域のしんどさは別として)。


そして、前回のライブで演奏はされたはずだがDVDには入っていない「恋かしら」が、ワタナベイビーのボーカルで演奏される。
このレポでは、一応ここまでを第4部としておく。
ワタナベイビーの曲には、共演者が限定される曲目があり、例えばワイト島の奇蹟で演奏された「1ラウンドでノック・ミー・ダウン」などはたまのメンバーとの共演以外は演奏しない。
この「恋かしら」も、発表まで9年ぐらい温めていた曲目らしいが、完成後はサードクラスとの共演以外では(少なくとも自分は)聴いたことがない。
DVDに収録されなかったのは、権利の関係か別の機会での発表の予定があるのかは分からないが、「不思議な~」シリーズのCDでは音源化されている。
用いられている歌詞の一つ一つの言葉や組み立てられる世界が、現実の汚れから隔離された純度の高い空気を有しており、ワタナベイビーの本領発揮といったところである。


MCが入り、11月は「運気が落ちる」のでライブはお休みになるとのことであった。
いつも、ライブスケジュールは占いで決めているとのことであるが、一度今は亡きハイラインレコードでのインストアライブの占いコーナーは大変面白かった。
それはともあれ、最後の第5部は、馴染みの曲が並ぶ。
「不思議な~」シリーズや、ゲストでの共演しかサードクラスを聴いたことがなくても、この部だけは知っている曲目が多いと思われる。


「光を見せて」「あわせたいあわせたい」あたりは、第1部と近い雰囲気の曲である。
そして、演奏機会の多い「マッハ」がここで演奏される。
篠田鉱平の置土産であろう、印象的なベースラインがワタナベイビーによって奏でられる。
正直なところ以前、この曲がサードクラスの頂点になる曲で、これを超えることは2度とないと考えていた。
音楽を創っていく段階で大きな貢献をしていたと思われる篠田鉱平が抜け、はかまだ卓の人生最大の出来事によってこの曲が生まれた後、大曲・名曲を生み出す動機付けがあるとは思えなかったからである。
「マッハ」は、今でもこの曲を作ったときの作り手の想いを想像すると、感にどうしても浸ってしまうところはある。
だが、アルバム「愛くらら」の後、決して枯れてしまわず、少しずつ井戸から水が汲み上げられ結晶化され続けていることを、この日感じることができた。
「やさしさの中のおせっかい」などは、「この頃」などと同様、新しい試みを行いながらサードクラスらしさを失っていない名曲である。


「新しい母親」についての話、自分の帰る場所が狭くなっていく話などが、MCによって語られ、「駒場北四丁目」で本編終了となる。
「マッハ」が一つのイベントを象徴的に描き出した作品であるのに対し、「駒場北四丁目」は時系列的な経験の重層が曲の中に重みとして存在する。
そのため、「マッハ」だけ「駒場北四丁目」だけ聴くより、両方を聴いた方が相乗効果が生まれ、感動がやはり大きい。


アンコールにより、再登場。
チューニングのときに、ムトゥアラーターによるバイオリンソロが演奏される。
途中でベースやギターなど別な音が入ってくるのは、いつものことである。
「心のでき」は、間奏のメロディーも美しいバラードで、完成度が高い曲である。
私小説的でなく普遍的な内容の分、「誰が歌っても」通用する強みはあると思う。
「要求」は、「ワオーワオー」の部分が印象に残る。
前奏のバイオリンがブルーグラス風であるのに、間奏などは不協和音でぶつかってくる変化がある面白さがある。


再度のアンコールで、再々登場。
「剣の舞」のバイオリンソロ(これも途中で他の楽器が入ってくる)の後、2曲続けての演奏でアンコールも終了。
「脱皮」と「年上想い」の2曲だが、「年上想い」はブルーグラス(カントリー)風の編曲がされている。
サードクラスでは、確かこの曲と「アジアンマームカントリー」あたりだけが、このタイプの編曲であったと記憶している。
抽象的、象徴的なテーマを、「先輩」と語りかける構成にし、カントリー調の当たりの爽やかな音楽に結びつけることによって、似た世界のない独自の世界になっている。
アルバムの中では、「愛くらら」「マッハ」「駒場北四丁目」あたりと比べて孤立してしまっている感はあるが、はかまだ卓の積極的な意欲は感じられる。


いろいろなところに、いろいろな形のピークがある、とても充実したライブであった。
まだ、何点か書きたいことはあるが、日も経ってしまったし、次回書くこともなくなってしまうので、マンダラ2でのワンマンライブに残しておきたい。



原マスミバンドライブ/吉祥寺スターパインズカフェ(09/10/02)

原マスミ[vo,g],近藤達郎[key,acc],堀越信泰[g],楠均[drs],内田ken太郎[b]


1.悲しいのはいやだ
2.カタログ
3.千年にひとり
4.も・いちど
5.人間の秘密
6.海のふた
7.夕月
8.イナフ
9.空


10.トラキアの女
11.フトンメイキン
12.STEREO
13.月化
14.夜の幸
15.はてしないチルドレン
16.ずっと君が好きだった
17.ブレーメン
18.教室


19.アイス!アイス!アイス!


20.約束の満月


自分の中では、どのライブや用事よりも最優先の「原マスミバンドライブ」である。
それが、渋谷クアトロ時代は年に一回だけであったが、今では年三回聴ける。
今の編成から外れている三人が入る演奏もまた聴いてはみたいが、まああまり贅沢は言えない。


吉祥寺のS.P.C.(スターパインズカフェ)は、金曜と土曜の深夜にイベントを行うことが多く、開場開演が前倒しになる。
吉祥寺の18時開場は厳しいものがあるが、一応事前に早く仕事を上がる調整をしていた。
だが、やはり全てが上手くいく訳ではなく、開場に数分遅れて、整理番号に関係なく入場した。
この日は1階が禁煙で、2階が喫煙フロアであった。
昨日(高円寺U.F.O.クラブ)は煙で少々しんどかったので、喜んで1階への階段を降りる。
早い開場のため、やはりまだ混んではおらず、決して悪くない席に腰を沈めることができた。
舞台には、いつもの青いgodinギターがない(後で入院中と判明)。
以前、稲生座でも馴染みのgodinでない、どこかで拾ってきたガットの生ギターを持ってきたことがあった。
そのときは、「ひぇー、私を置いていくの」と、godinギターに言われたらしい。
今回置かれていた黒いギターは、以前ライブのときにたった一曲のために使われていた(もしかすると複数曲で活躍したときもあったかもしれないが、記憶がない)。
スティール弦のエレアコギターは、その一曲、「空」の演奏があることを予感させた。


やがて、開演となり。バックだけが登場し、驚きのアカペラコーラスを聴かせる。
「かなしいのはいやだ、むなしいのはいやだ」と歌った後で前奏が入り、原マスミの登場。
アカペラの後で、アカジャンを着ての登場であったが、若々しい。
「悲しいのはいやだ」がこの位置に来たのは、後で種明かしがあり、堀越信泰の提案があったとのことである。
堀越信泰のコーラス参加はこの日、普段より多かった気がした。
いつもはクールであるが、この日はよりライブの中心部にあえて関わろうという意志が見られた。
確か昔はなかった眼鏡をかけていたが、堀越信泰もいよいよ「RAWGUNS(ローガンズ、老眼ズとも呼ぶらしい)」に加入なのであろうか。
いつもであれば後半系の曲が、この日は前半でどんどん消化され、後半は何が待っているのであろうとワクワクする流れであった。
この日の原マスミの喉は調子がよく、近年最高の歌声であった。
もしかすると、今世紀で最高かもしれない。
そのためか、動きも普段よりも豊かで、渋谷クアトロ時代のステージを、どことなく思い起こさせた。


「カタログ」は、かなり気合の入った伴奏で、特に堀越信泰のギターと楠均のドラムは、このペースでは最後まで持たないのではないかという力の入りようであった。
そのため、「千年にひとり」のような、「必ず演る目を瞑っても弾ける」曲を挟むのは、必要なことなのかもしれない。
「も・いちど」は、編曲を楽しむには悪くない。
近藤達郎のアコーディオンのソロも聴きどころで、内田ken太郎のベースのスライド音も、この曲全体を支配している。
この曲は、一番アレンジの変遷があり面白いが、「drive to 2010」で「くじら」のステージで小峰公子が参加する(何故か近藤達郎も「くじら」に参戦)。
もしかすると、原マスミステージでも往年のコーラスを聴かせてくれるかもしれない。
「も・いちど」「耳の夢」「夜の幸」あたりが小峰公子の活躍曲であるが、「夢の四倍」あたりが演奏されると、個人的にはとても嬉しい(音が足りないか)。
もっとも、小峰公子後の曲も少なくないので、あえて依頼をかけない可能性もあるが。
だが、ステージの広さだけで3人カットしていたのであれば、今回のステージはまたとないチャンスではある(いっそ7人バックで)。
まあ、期待し過ぎずに待つことにしたい。
ここだけはいつもどおりのつながりで、「人間の秘密」に続く。
赤い照明に照らされて、現実の空間から遠い世界にいるように感じられる。
近藤達郎はアコーディオンを弾きにくそうにしていたが、聴いた分には何が問題なのか分からなかった。
個人的には、この曲と「悲しいのはいやだ」、「空」と3曲聴けば、原マスミの人生・死生観に触れられた満足感がある。


そして、まさかの「海のふた」である。
いつもであれば、本当に終わってしまいそうである。
「ブレーメン」か「教室」を弾いて、「アイス!アイス!アイス!」で一丁上がりである。
スティール弦は左手の負担は大きいかもしれないが、レスポンスが速い分、曲のテンポに乗った演奏という点では利があった(特に「おーいおーい」の辺り)。
もちろん、青いgodinギターのナイロン弦の響きは、一つの原マスミ音楽を作る大切な要素ではある。
だが、少なくともバンドの中で高音の倍音を響かせるスティールの弦は、決して邪魔ではなく世界に透明感を与えていた。
近藤達郎がこのギターをリペアしたとのことだが、今後も何度か出番があると嬉しい。
「夕月」は、バンドでは初演となる。
おそらく、近藤達郎の編曲であろうが、ベースの面白い演奏パターンだけが目立っていた。
「カメラ」や「オヤスミ」と同じように、ベースソロで弾き語りを行っても飽きないベースラインである。
関係ないが、「夕月」を聴くと、なんだか焼いたパンが無性に食べたくなる。
華やかさはないが、一幅の絵画のような愛すべき小品である。
以前、「フトンメイキン」が1番だけ弾き語りで演奏されたが、「弾き語り」と「バンド」曲の垣根がなくなりつつあるのかもしれない。
そのうち、「血と皿」がバンドで聴けたり、「夢の四倍」が弾き語りで聴けたりする日もやってくるのであろうか。
「イナフ」で、いよいよステージが終わりそうである。
原マスミ作詞作曲曲の中では一番新しい(「Janualy」も詞は原マスミ作であったが)が、そうした曲は後半のさらに後半部に演奏されることが多かった。


「空」は、圧巻であった(最初、「ブレーメン」の前奏を弾いてしまったが、すぐに弾き直した)。
自分の中で、「悲しいのはいやだ」「人間の秘密」と一括りにしてしまっているところはあるが、曲の内容は全く違う。
「人間の秘密」は「仮説の世界」であり、人間の行為一般をいったん抽象化させた上で、人間自体の持つ本質に象徴的に迫ろうとしている。
「体の中に悲しい動物が一匹住んでいる」などという仮説が示された後、その論証に続いていく。
「人間をそのような視点で見つめることが、実はできるのではないか」という、原マスミの独自のフィルターが、我々の視野を一つ広くする。
「悲しいのはいやだ」は、「悲しみ」の一点のみに焦点を集めているため、一聴で大まかなメッセージは伝わる。
だが、何度も聴けば聴くほど、この一点を掘り下げて吟味された表現で表していることによる発見があり、新鮮な驚きが与えられ続けられるところがある。
特に、歳を重ねるにつれ「悲しみ」を実体験として味わってきた聴衆にとっては、この歌に移入し自分の気持ちをありふれていない言葉で言い表してくれていることに対する感動と感謝の想いを抱くのではないだろうか。
「空」は、初回から強い衝撃があるという点では、「人間の秘密」の方に近い。
だが、「人間全体」に一般化された「人間の秘密」に対し、「空」は「個々の人間の人生と内面」に光を当てている分だけ、「自分の人生」に密接に結びつけて聴き手は感じ取ることができる。
「個」に目を向けた点は「悲しいのはいやだ」にも言えるが、「感情」の面だけでなく、リアリティを持った個体としての人間も「空」は実感させられる。
特に秀逸な部分は「なぜ僕は今、カバンを提げて、駅に立っているのか」のところで、老若男女を問わずこのような思いを抱く経験は誰もがあるであろう。
それを、このような形で示すことにより、「カバンを提げて駅に立っている自分」を、自分の内側からでなく外側から、まるで街の中の他人を見るような角度で自分自身をイメージすることが聴き手には可能となる。
「仮説」「感情表現」の前二曲と異なり、「空」には実は壮大な提言が示されている。
「向こう側が透けて見えるくらいに、全てを使い果たしてしまおう」という、「いつか返す日が来る」前の行動についてである。
人間はやはり、次第に臆病にも慎重にもなっていくものであり、長い羊羹も半分を超えると少しずつスライスして食するようになる。
だが、一つの長い演劇のようなものとして人生を捉えた場合、フィナーレまで含めて彩りを加えてこそ、作り物でも借り物でもない作品が生まれる。
これは、「おうちに帰るまでが遠足」と同じような精神であり、「借り物の余生」に抗う精神とも言える。
「人間の秘密」の赤い照明に対し、「空」は色の入らない無色のライトで照らされたまま、長い長い後奏が続く。
この長さの中で、聴き手は余韻に浸り、躍動するギターの鳴り響く中、「カバンを提げて駅に立つ自分」の幻像を浮かび続けているのである。
音楽的には、この曲の果たすスティール弦の音の役割は大きい。
この曲は、原マスミの他の代表曲と異なり、「闇の中で浮かび上がってくる鮮やかな幻想の世界」ではない。
誰もが感じる現実の生々しい場面を思い起こさせた上で、それを映像化し、骨格に肉付けをおこなっている。
表現の言葉が原マスミ世界のものであるだけで、本質はマルセル・マルソーのパントマイムや、チャーリーチャップリンの映画と変わることはない。
そこで、タメが少なく倍音の多いスティール弦の「ジャラーン」音は、この舞台の照明と同じく現実に目を向けさせるリアリティの光を、世界全体に与えているのである。
演奏が終わると同時に、長い長い人生がたった今幕を下ろした夢から目を覚ましたばかりの状態のような感覚に陥る。
たとえ、このライブがここで終わってしまったとしても、満足して岐路に着くことであったであろう。
だが、実際はこれで半分であり、予想も付かない第二部(特に最初の方)が待っていた。


「トラキアの女」で、後半は始まる。
昔のMCハマーの曲のような、印象的なベースラインの上を、機械的なシンセの音が被さり独特な世界を創る。
この辺りからのメモが見当たらないのだが、原マスミの衣装は確か白いシャツに着替えていたように記憶している(黒だったか?)。
2~3年に一度くらい聴けるが、比較的演奏機会の少ない曲である。
アルバム「夜の幸」を聴いたことがあれば、「サルのようだよ」の曲と書いた方が分かりやすいかもしれない。
前半は比較的現実世界の中でハッとさせられる視点を歌詞として表現しているように思えたが、この曲辺りは逆に現実世界を忘れさせ、別の空間に引き込む歌詞と編曲である。
そして、ハイハットを四拍叩き「フトンメイキン」へと続く。
今までのバンドライブで、このような後半の流れになったことはない。
この曲は「日本料理になってしまった」りして、幻想的な世界に一番吸い込まれる曲であると思うが、この曲は編曲もそれを増長させている。
前にも書いた記憶があるが、「芸術は爆発だ」の岡本太郎の昔のCMのように、近藤達郎が前衛的な生ピアノの間奏を奏でるのが曲に彩りを添える。
堀越信泰のギターソロも、ダリやマグリットの絵画のような超現実的な光の光源となり、音楽を照らし続ける。
そして、この幻想的な異世界の空気を壊すことなく、「STEREO」へと続く。
楠均の乾いたスネア(ティンパレスっぽい感じ、いわゆるサザエさんの最後の曲の派手なアタック音)が、土俗的であり、最後まで基調となった。
原マスミもこの曲に関しては体というチューブから中身を搾り取るように歌うので、迫真に迫るものがある(PAもこの曲は一番頑張っている)。
ここまでの三曲は、印象に残る楽器こそ異なるが、別世界に引き込む力のある曲ばかりであった。
このまま、80'ニューウェーブロックの世界で最後まで突き抜けたりはしないかと、ワクワクしながらこの辺りは聴いていた。
理想としては「カメラ」「夢の四倍」「飛龍頭」あたりのアルバム作品と何曲かレア曲が入れば、夢から覚めることなくステージが終わったかもしれないが、さすがにそこまで無理はできなかったのであろう。


「月化」は、以前なら二回に一回はライブの冒頭に演奏されていた曲である。
昼下がりのカフェでBGMにでも使われそうな上品な編曲の前奏から始まり、聴き心地も悪くないので自然とそこに置かれたのであろう。
上品な雰囲気を崩さないまま、「夜の幸」へと続く。
「夜の幸」のバンドバージョンは、弾き語りよりさらに鮮やかに妖精たちが戯れる姿が浮かんでくる。
「はてしないチルドレン」は、理由が分からないがこの編成でのバンド演奏の中では一番よい印象を持った。
言葉で説明できないが、この日の歌い方はいつもよりも突き抜けた感じがあり、ポーとメリーの映像が思い起こされる感がいつもよりも確かにあった。
「ずっと君が好きだった」は、クアトロ時代の直線的な編曲から少し柔らかなラグ的な編曲に変わってきたように思えた。
音源がないので正確には思い出せないが、言葉の行間にベースやギターの音が入り、特徴的な歌詞(主題部以外)の印象が残りやすくなった気がする。
この曲の後、この曲とは関係ないが、ある琴のアルバムで原マスミ画伯がジャケットを描いたとのMCが入った。
このMCで、昔、クアトロライブ以来、長年疑問に思っていたことが一つ解決した。
「ブレーメン」は、少々この曲を誤解しているのかもしれないと感じた。
「夢を見て、夢に敗れて」と繰り返す後半であるが、最後の最後は「夢を見て、夢を見て」の繰り返しである。
もしかすると、衰えや諦念の歌ではなく、やはり最後にはなんだかんだ言っても「夢を見てしまう」習性のある人間の本質がテーマだったのかもしれない。
ただ、途中までの歌詞については、やはりRAWGUNSのメンバーとしての重みを感じずにはいられない。
曲の旋律自体は、後期の作品群の中で一番メロディアスで聴きやすい曲ではあるが。
「教室」で、本編終了となる。
間奏が結果的に普段より長くなってしまったことの他には、特に目立ったミスもなく、いつもどおりの「ロクンロ-ル」の掛け声で終了。


アンコールで再登場し、定番曲の「アイス!アイス!アイス!」の演奏となる。
堀越信泰のボトルネックのギターの音が(「夜の幸」でも確か使っていた)入る分、浮遊感のような柔らかさが感じられる。
できれば、近藤達郎も「アイスを食べようよ」のコーラスに以前同様参加してほしいとは感じた(「教室」の「室町、大都市、廃墟」も)。
再度のアンコールで、しばらく弾いていなかったとのことで(実はそれほどでもないのだが)「約束の満月」が演奏され終了となる。
急遽演奏されたにしては、やはり完成された編曲と演奏のためか、上質な演奏であった。
PAがマイクの音にディレイを打ち合わせたように聴かせたのは、この曲にもともとこだわりを持っていたスタッフがいたと思われる。
原マスミライブの素晴らしさは、バンドメンバーや裏方スタッフの力量と情熱にも多く支えられているためであると感じられた。


今回のバンドライブは、冒頭でも述べたが、21世紀になってから歌と演奏面については最高の出来とも言えた。
曲目順の入替も効果的で、今後の可能性を感じさせるステージ編成でもあった。
開演も早かったため、比較的遅くない金曜日の列車に乗り(金曜の遅い時間の列車はダイヤ乱れが怖い)、岐路に着いた。
次回のバンドライブは、ロフトを挟んで1月とのことである。
柳原陽一郎のマンスリーライブと、バッティングしないことを祈りたい。