柳原陽一郎ほとんど全曲マンスリーライブ「ろけっと~ドライブ・スルー・アメリカ」の頃/下北沢440



1.とんかち

2.はこにわ

3.だるまだまるな

4.ふしぎな夜のうた

5.あの娘は雨女

6.猫をならべて

7.寒い星


8.ブルーアイズ

9.レインボーコネクション

10.オンリーイエスタディ

11.リーズントゥビリーブ

12.ミージャパニーズボーイ

13.アラバマソング

14.ミスターソウル

15.ロックンロールレディオ

16.アメリカンボーイ


17.ハレルヤ

18.みんなおぼえてる

19.エブリィタイムウィセイグッバイ


20.だるまだまるな



とりあえず、以上がセットリストである。

詳細は、なるべくヤナネットよりは早めに上げたい。



以下、簡単に印象、感想などを記したい。


・前回は、古い曲だが定番曲が多かった。今回は、下手をすると10年以上聴けないようなレア曲が並んだ。「オンリーイエスタディ」は、以前の「カバー&セルフカバー」ライブでも演奏していないので、一人になってから初演ではないだろうか。「ミージャパニーズボーイ」は、このときに続いて2回目の演奏であった。

・前半は「ろけっと」「そのろく」から、後半は「ドライブ・スルー・アメリカ」からの、2部構成。「ふしぎな夜のうた」と「ハレルヤ」はソロで演奏し、「エブリィタイムウィセイグッバイ」は楽器を持たず、本人は歌のみに専念した。

・前回、「オリジナルどおりにはならないであろう」との柳原陽一郎の予言があったが、アレンジなどは意外と原曲の再現に近い気もした。もちろん、演奏はギター、マンドリン、ドブロ(?)など、どれも工夫に満ちて、素晴らしい演奏であった。

・鬼怒無月の高音コーラスでの「だるまだまるな」が、予想外によかった。ハモリが生きる回は今回までではあるが、今後、楽器だけでなくコーラス面でも前面に出てほしいとは感じた。

・「とんかち」「寒い星」で、例のノイズミュージック用か何かの楽器を用いていた。その部分の評価は分かれるかもしれないが、ベースやギターのバックが入った編曲自体は、やはりいよい。「とんかち」は太宰治の「トカトントン」、「寒い星」もブラッドベリか誰かの海外SF小説の一篇とも感じられる映像が、音楽の力で再現された。

・後半は鬼怒無月(「俺がギターを選んだのではない、ギターが俺を選んだのだ」)のギターが全開で、バックにどうしても耳が行く。だが、「レインボーコネクション」など、声質と歌詞が原曲に調和している曲は、バックもかすんでしまうほどの力が感じられた。

・この日の割当が全曲終わっているのを分かった上で、「(さらに)アンコールをしてもよい」との許可が本人の口から出る。昭和天皇崩御のときに作った「だるまだまるな」が、再度演奏される。

・「ヤナソロジー」がこの日に間に合い、会場で購入することができた。内容は、たま時代のエピソ-ドも含め、なかなか興味深い。





追記

・1月分ライブレポは「新春ロングトーン」のみほぼ書きあがっている。あとは、まだ予定が立たず。

・2月購入&予約済ライブはこの日の「全曲ライブ」の他に、10、20日にマンダラ2、17日にサンジャック、25日に座・高円寺であるが、17日以外は完売らしい。17日は日比谷カタンがキャンセルになり、山田庵巳の弟子である青葉市子が代わりに入った。

・twitterで短めの雑記を別に記すことにしたが、速報性についてもこちらの方が優れているかもしれない。なるべく140字以内で収めるように努力している。http://twitter.com/sprawlworld




Big Pink Tour 2010 vol.1「パスカルズ 新春・Two デイズ」/吉祥寺S.P.C.(10/01/28)


ロケット・マツ、あかね、金井太郎、知久寿焼、原さとし、松井亜由美、クリスチィヌ、うつお、大竹サラ、三木黄太、坂本弘道、永畑風人、石川浩司、横澤龍太郎  guest:原マスミ


1.さんぽ
2.かもめ
3.スカラタン・ロジコ
4.Taking Dog Fields
5.マスト
6.井戸の底の星
7.公園の古い木
8.Becalmed


9.悲しい夢(前奏のみ)
10.夜の幸
11.僕の錬金時間
12.海のふた
13.貝の耳
14.ブレーメン
15.アイス!アイス!アイス!
16.ポカポカ
17.プネウマ
18.ファンファーレ・ブーメラン
19.てぶくろ
20.走れ廻れ


21.Home Coming Song
22.326


この日と次の日のパスカルズの連日公演であったが、初日の原マスミとの共演の回に足を運ぶことにする。
本当は、暮れに山田庵巳を聴いたら結構満足してしまったので、このライブも控えようかと考えていた。
だが、パスカルズのバックで原マスミを聴ける機会が次いつあるか分からないので、せっかくなので前売りも買うことにした。
パスカルズは2回ぐらい観たことがあるが、実は有料のライブにはまだ足を運んでいない。
吉祥寺音楽祭などの青空の下での演奏は、本当にパスカルズに合っていたとは思うが、椅子の並んだライブハウスでどう感じるのかは分からないところがあった。
なお、入場は店頭売りも通し券と2種類あり、店頭でない販売分もあるので3~4種類の番号が同時入場であった。
少し前の原マスミバンドライブのときは同じ番号でもよい席に座れたが、さすがにこの日は座りきれないぐらいの入りであった。
遅れて入場していたら、それこそ階段部分など全く見えないところぐらいしか聴き場所を確保できなかったであろう。


この日の原マスミの共演者には、音楽的につながりの深い人物が多い。
知久寿焼については、いまさら何も記すまでもない。
坂本弘道とは「ギタリスト原マスミ」としてトリオに参加しており、横澤龍太郎は原マスミ最初のシングルでドラムを叩いている。
期待をしながら、開演を待つことにした。


第1部は、純粋なパスカルズステージであった。
原マスミも出ておらず、インスト曲が中心であったので、以下簡単な感想のみ挙げておく。
・「さんぽ」「Taking Dog Fields」「Becalmed」は、パスカルズらしい曲で最初と真ん中と最後に持ってきたのは意図を感じさせる。ユニゾンの多い聴き手を和ませる緩やかさは、パスカルズの最大の特徴である。本番中にガムテープを借りて楽器を補修するところなども、ゆるゆるである。最後の曲では、坂本弘道のチェロから火花が飛び散った。
・「マスト」「公園の古い木」は、パスカルズの至宝、あかねが歌う。個人的には「森」が聴きたかったが、どちらも未聴曲だったのでこれはこれでよかった。「マスト」は航海のマストであることは想像がついたが、「忘れないハッピーバースディ」という最後の部分の「ハッピーバースディ」は最後の方で繰り返されるが、ここの結びつきは一聴では分からなかった。「公園の古い木」は、夕暮れの叙情が包む。「こうして君とまた逢えたから、寂しくなんかないよと歌う」のリフレインが印象的である。
・「井戸の底の星」は、以前共演した関島岳郎の作曲で、第2部にも1曲関島曲が演奏された。


そして、第2部でいよいよ原マスミの登場となる。
まず一人で登場し、長い前奏と後奏で歌部分は短い「悲しい夢」が奏でられる。
と、本来書くはずであったのだが、長い前奏が終わったところで終わってしまった。
後のMCによれば、パスカルズの演奏に感化されてのインスト曲のようだが、ほとんどインスト曲のようなものなので全部演奏してもよかったのではないだろうか。
続いて、坂本弘道と2人で「夜の幸」が演奏された。
坂本弘道とは、パスカルズの中でおそらく今一番共演機会が多い(知久寿焼は客席によくいるが)。
ギターを代表とする撥弦楽器は儚いところがあり、奏でた音から次々に減衰していく。
それは、「夜の幸」で言えば「夢から覚めたそのときに」消えてしまう、遊ぶ妖精たちのようであり、そうした意味でギター一本の演奏はそれはそれでこの世界に合致している。
だが、バンドでキーボードが入ったり、こうした擦弦楽器であるチェロが入ると、そのキャンバスに点ではなく連続性のある線が描かれる。
それは、妖精たちの背景にある風景であったり、妖精たちの飛び回る軌跡であったり、音の連続性がその作品世界を補完し充実させる。
坂本弘道のチェロは、ここではイラストレーションをアニメーションに変質させる装置として働く。
もちろん、この曲では電動のこぎりの火花を飛び散らせてはいない。


曲が終わり、パスカルズの大家族が再度登場する。
「僕の錬金時間(ゴールデンタイム)」は、ファンにとってこの日一番嬉しい演奏であった。
セカンドアルバム「夢の四倍」は、80年代のニューウェーブ音楽を代表する一枚である。
それは、原マスミの作品・演奏あってのものであることはもちろんだが、川島バナナ(BANANA)の相当当時思い切ったアレンジに起因するところも大きい。
その川島バナナ編のアレンジで(おそらくパスカルズ編成に調整しているとは思うが)、「僕の錬金時間」がこの日演奏されたのである。
スウィング調のバンドバージョンもそれはそれでよいのだが、どちらかといえばダンスホールの人工灯に照らされた世界に感じられる。
川島バナナ編はストリングス主体の落ち着いた音が基調として流れていて、月明かりの差す寝屋で静かな祈りを捧げている情景が浮かび上がってくる。
このバージョンが聴ける日が来るとは期待していなかったので、大いなる感謝を捧げたい。
あえて注文をつけるとすれば、リコーダーの音量を抑えるかヴァイオリンで代用した方が、原曲の静けさはより感じられたとは感じた。
坂本弘道ののこぎり(電動ではなく弓で弾く方)の音は、なかなか効果的であった。


ここでのMCで、30年前に石川浩司が原マスミを聴いていたことなどが紹介される。
「海のふた」は、前奏の旋律の音がリコーダーであった。
また、エンディング前の長い間奏部分は(3拍子部分)、パスカルズオリジナルであった。
作り自体は原曲に近いが、オリジナル間奏部分などはやはり共演の醍醐味を感じさせる。
「貝の耳」は、タイトルの文字だけ見ると「血と皿」を何となく思い出させる。
音楽的には、原マスミ曲で言えば、「夢の駅(作曲は別人だが)」の雰囲気に近い。
普段はうつおが歌うらしいが、1番は原マスミのみによって歌われた。
印象に残ったのは、普段歌うこともない他人の曲であったのに、歌詞も見ずに全て歌い切っていたことである。
原マスミは、紙の上の歌をなぞり歌うのでもなく歌詞をただ読むのでもない。
おそらく、一度自分の体で言葉と音楽の世界を消化した上で、自分の色彩で世界を再構築しているのではないだろうか。
朗読の世界でも歌の世界でも、一つの世界を創りそれを聴衆に伝えているように感じられるのは、言葉を体に取り込むところからの作業であったのであろう。
「ブレーメン」は、生楽器とコーラスの数が多い編成であるので、普段以上に奥行きが感じられ素晴らしい演奏であった。
演奏を聴くのではなく、演奏の輪の中に入り込んで浸るような感覚であった。
「小さな鳴りの楽器の大編成」は、もしかしたらこうした効果を狙っていたのかもしれない。
「アイス!アイス!アイス!」は、一番パスカルズらしい軽やかさと賑やかさが感じられる編曲であった。
知久寿焼が上声のコーラスでハモり、石川浩司も叫びを挟んでいた。
原曲に近い編曲が多い中、この曲は少しバンドバージョンとは距離を持たせてあった。


ここで、一旦原マスミの退場となる。
一応、残りの曲も簡単に記しておく。
・「ポカポカ」は知久寿焼作曲のインスト曲であるが、この曲にタイトルがあったことを知らなかった。
・「プネウマ」は、現代音楽に近いところもあるが、
・「ファンファーレ・ブーメラン」は、途中部分は何でもありで、最後は主題のファンファーレがブーメランのように返ってきて収束してしまうという強引な曲である。第2部では一番パスカルズのよさが出ている曲である。
・怪我から治ったばかりのロケットマツがここで着地に失敗して、すわ大惨事かと観客が立ち上がり心配する。怪我が原因で友川カズキのバックがキャンセルになったりもしたので、そのようなことがないよう祈りたい。
・「てぶくろ」は、関島岳郎の作曲で、歌詞を付けて歌ってもよい感じのかわいらしい曲である。ちなみに、翌日のライブでは飛び入りで舞台に上げられたらしい。
・「走れ廻れ」は、静かな曲であり、夕暮れを感じさせる前奏から始まる。メンバー紹介が担当の知久寿焼によって行われ、本編のステージはひとまず終了となる。


そして、アンコールに応えて、「Home Coming Song」の演奏となるが、演奏途中で予想どおり原マスミの再度の登場となる。
他のメンバーと異なり、基本的に楽器ではなくボーカリストとしての参加なので、自分の担当の部分では「カメラ」の呪文の部分を何度も唱えていた。
最後は、いつもは知久寿焼が歌う326を、原マスミのボーカルで演奏して、この和やかな一連の演奏にピリオドが打たれた。
知久寿焼と原マスミの歌声には、もちろん共通点が山のようにあるのだが、当然異なる部分も限りなくある。
まず、知久寿焼の歌う「326」の印象は、同じ夕暮れ時のしんみりした風景でも、輪郭のはっきりしたクリアな世界が感じられる。
知久寿焼の(現在の)高音は、力強く声を出し切り、安定した伸びを聴かせる(「ねこばば」当時の声はそうではなかったが)。
そのため、安心した気持ちで「歯医者の帰り道」を見慣れた道として歩くことができる。
だが、原マスミの高音は、輪郭すらも感じさせないローランサンかいわさきちひろのような、儚げな色調である。
その効果により、「歯医者の帰り道」が見知った風景であったとしても、そうは感じさせない。
そこから、今まで見たことも聞いたこともない空間に取り残されたかのような不安が内包された、中間色の心に聴き手の内面は染まっていくのである。
何か、子どものときの、無性に泣きたくてたまらないときのような心が、幾年もの年月をやすやすと飛び越えて、我々の中にフラッシュバックされるのである。
そして、夢から覚めたとき、そこは吉祥寺の音楽が流れる空間であることに気付く。
だが、その後も遠い昔の記憶の映像が、たった今この場所で再現されたかのような余韻が残り続け、日常の雑事で厚く重ねられてきた心の仮面を剥ぎ取るのである。


終演後は、やはり結構な時間にはなってしまっていた。
だが、普段のバンドメンバーと異なるバックで、なおかつ原マスミの世界に対する敬意を十二分に感じさせる演奏を堪能することができた。
今後、この組み合わせで共演があるのかは分からないが、バイオリンやチェロなどのストリングス系の生楽器バンドとの共演は決して多くないので再演されることを期待したい。
原マスミの中の「静かな夜の世界」を引き出すことができるのは、実は他のどの組み合わせでもなくてパスカルズが筆頭かも知れない(近藤達郎もなかなかよいのだが)からでもある。




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原マスミ バンドライブ/吉祥寺S.P.C.(10/01/16)
原マスミ[vo,g],近藤達郎[key,acc],堀越信泰[g],楠均[drs],内田ken太郎[b]


1.人間の秘密
2.フトンメイキン
3.STEREO
4.光の日にち
5.僕の錬金時間
6.千年にひとり
7.イナフ
8.海のふた
9.夜の幸


10.月化
11.も・いちど
12.理由なき普通
13.血と皿
14.悲しいのはいやだ
15.ずっと君が好きだった
16.教室
17.アイス!アイス!アイス!
18.ブレーメン


19.約束の満月


この前の週の土曜日からこの土曜日まで、4本目のライブである。
本当は、この辺りの日々はこんなにライブばかり行っている場合ではなかったのだが、どれもこれも捨てられないライブで、日が過ぎてみれば「行っておいてよかった」と感じるものばかりであった。
恒例の大晦日のライブも日が経っていなかったし、印象に残るライブがかなり続いたところでのこの日の「バンドライブ」だったのだが、個人的にはやはり最優先の催しである。
実は、前の日に前売り券を無理して会場で買ったが、それだけで当日並ぶよりはかなり早い番号で入場できた。
チケットぴあと同時入場だが、やはり会場売りのほうが不便な分だけ前の方で観られる。


さて、いよいよ開演であるが、「人間の秘密」から始まり、この日も堀越信泰が積極的に曲順について準備していたことが伺われる。
本当は、原マスミ自身は「歌いやすい」順番を持っているはずで、「この曲の後にはこの曲が」といった全体像としての世界を、長年体に染み付かせているように思える。
だが、その極地が数年前の「Aプロ」「Bプロ」順番のリストで、「前々回と同じ曲順だった」という構成である。
もちろん、それでも一生足を運ぶことは間違いないのだが、それだと「一生聴けない曲」が生じるわけで、「次は聴けるかもしれない」という期待があったほうが楽しみは多い。
冒頭らしくない曲が最近多い傾向があるので、次回は「空」あたりから始まるのだろうか。
ギターソロのところに、多少この日に向けての工夫が施されていたように感じた(気のせいかもしれないが)。
「フトンメイキン」もまた、アルバムの編曲にギターの音だけ部分的に足し算されたように聴こえた(冒頭のドラムの後のあたりに特に)。
次に演奏された「STEREO」も含め、シュールレアリスムスの絵画のような、リアルでありながら日常性からはかなり乖離のある空間がそこに生じる。
これらの曲を聴いて感じるのは(もちろん他の曲もそうなのだが、この辺りの曲では顕著である)、原マスミは「歌を単に歌っている」のではなく、「その空気・空間に自分の世界を紡ぎ、聴衆をその空間に招きいれている」のである、ということである。
世間一般によくある「個人的経験」や「感情の揺れ動き」などの歌というものを、聴衆は「外側から」聴き判断することが出来る。
それは、閉じられた個人的な世界であっても、日常性の衣をまとっているので、聴き手の想像力さえ働かせてしまえばその世界にアクセスするのは難しくないからである。
だが、原マスミの世界はそうではない。
日常の中でまず出てこない言葉や世界が絶え間なく流れ続け、聴き手は外側から観察することができず、内側に入りひたすらその世界に浸るしかない。
バックの演奏が見事であると感じることはあっても、基本となるのはそういった点である。
青いgodinギターを手に取り「光の日にち」に来て、透明感溢れる月の光が冷ややかに照らす。
前の曲が「闇の中の幻想」であるとすれば、「光の日にち」は「夜の月光下での幻想」に感じる。
「夏服のまま」止まっている対象への追憶とも取れるし、その世界へと近付いていこうという場面とも取れる。
いずれにしても、「フトンメイキン」「STEREO」より何割か現実世界に近い幻想であり、その分感傷性も感じられる。

「僕の錬金時間」になり、いつものようにスゥイングのリズムの編曲で演奏される。
「夢の四倍」収録のアルバムバージョンと比較して、何かご機嫌な、楽しそうな世界が感じられる。
アルバムバージョンが夜の月明かりなどの天然光に包まれているのに対し、こちらはダンスホールの人工的な鮮やかな照明に照らされた世界だろうか。
「ピーヒャラピーヒャラ」などの擬音語も間奏部分で歌われて、そこにはないはずの管弦楽器のフル編成が音を奏でているかのような錯覚に陥る。
そこで、毎回必ず演奏される「千年にひとり」に移るが、曲の温度差が少なくこの「僕の錬金時間」→「千年にひとり」の順番はよかったと感じた。
だが、ここで異変があった。
歌い出しを、2回ほど入り損ねたのである。
もちろん、この会場に誰一人それを咎める人間はいない(完璧を求めるなら、「くじら」のライブに行った方がよい、あれは凄い)。
だが、「教室」あたりで途中の歌詞が出てこないのであればともかく(これはよくある)、「千年にひとり」でそれがあると「体調が悪いのではないか」と心配してしまう(この日は実はそうだった)。
「こんなことないんですよ、完璧マンといつも呼ばれていて」などと、本人の弁明が入る(普段は「目立ったミスもなく」と言うことが多い。

最新曲「イナフ」が続き、「海のふた」へと進行する。
「海のふた」が、まさかの第1部に置かれたのには驚かされた(とは言え、前回も第1部だったようだが)。
第1部自体を一つのステージに仕立てて、最後の山をここに持ってこようという意図だったのであろうか。
意図はどうであれ、「海のふた」自体は多くの要素が込められたそれまでの原マスミ世界の集大成的な大曲・名曲であるので、ステージのその部分に一つの山は生まれる。
「夜の幸」で、第1部は終了する。
初期の原マスミ絵画(絵の具ではなくパステルタッチの色鉛筆時代)の妖精が、この曲に合わせて飛び回っているように思える。
時間からも義務からも自由で、いつまでもそこにそのままでいるかのような、そんな存在に思える。
弾き語りはハーモニクスで終わるが、バンドバージョンはいきなりスイッチが切られたかのようにスッと消える。
「夢から覚めたそのとき」を象徴しているようで、個人的にはこちらの方がどちらかと言えば好きである。


休憩を挟み、「月化」で第2部が始まる。
原マスミには「月」が出てくる歌が多いが、音源化されていないこの曲も同じようなトーンで絵本のような静かな幻想性が感じられる。
「世界中が電気を消して」「世界中が眠っているよ」と、夜を誘引するような歌詞が洗練された上品な旋律に交じり、聴き心地がよい。
「今夜、地球は月になってしまうんだよ」まで行くと、聴いている方もいろいろな空想を働かせてしまうが、長い間バンドライブの冒頭に置かれることが多かったのも頷ける。
「も・いちど」は、アコーディオンの軽快な音とフレットレスベースの下から上がってくる音が印象的である。
歌詞が先か曲が先かという問題はどのソングライターにもあるが、この曲は完全に曲が元々あってそれに詩をつけていたはずである。
普段は近藤達郎のアコーディオンが続くこともあり、「千年にひとり」の後に続けて置かれることが多い。
この日はこのセットにも手が入り、1部と2部とに分かれて演奏された。


「理由なき普通」は、バンドライブでは2回目であるが、初期の頃もあまり歌っていた記録がないようなのでほとんど新曲のように感じられる。
「山は一度も旅行をしたことがない」「トンビがトンビの子どもを産んだよ」と、普通の世界がひたすら歌われる人を喰った歌詞である。
原マスミのMCにも近い内容なので(「月面から目薬」あたりもそれを感じる)、この曲については照れもなく歌えるのかもしれないが、「猫よ」あたりまで引き出される日が来てほしいものである。
「血と皿」は、バンドでは初めて聴く。
今までは、近藤達郎のアコーディオンと2人で弾くところまでであった(一応バンドライブの1コーナーとしても演奏はされた)。
全音符のベースが冒頭から入り、どの楽器もスローな演奏を基調として原マスミの一二を争う歌詞の背景として描かれる。
弾き語りが挿絵のある本を読んでいる印象なのに対し、バンドバージョンは芸術性の高いアニメーション映像を観ているような印象を受けた。
どちらももちろんよいのだが、ギターの澄んだ音も美しくレコーディングする機会があればこちらの演奏になると思われる。
大変に人気のある曲なので、おそらく今後も定期的に聴けることになると予想される。
とにかく、この日は「理由なき普通」「血と皿」が貴重な曲で、これを聴けただけでもたとえ無理をしてでも足を運ぶ意味はあった。


「悲しいのはいやだ」あたりからは、いつもの定番曲が続く。
前に第1部の冒頭で演奏された、アカペラコーラスから始まるバージョンではなかった。
「ノー、ノー」の呟きの後、大きく「ノーー!」が入るのがバンド版の大きな魅力で、最後のリフレインに戻るときの効果を何倍にもしている。
「ずっと君が好きだった」は、冒頭の前奏が少しいつもより(アクシデントにより)長めになった。
ベースラインが、普段より凝っていた気がしたのは気のせいだろうか。
「教室」では、少し喉が本調子ではないのではないかと感じさせた。
近藤達郎の乾いたピアノの和音は、どことなく義務教育の空間のピアノの響きを感じさせる。
青いgodinギターを抱えて、「アイス!アイス!アイス!」が演奏される。
堀越信泰の奏でる浮遊感あるボトルネック奏法のギターの音は、山の頂上のさらに上空に流れる雲の連なりにも感じられる。
「ブレーメン」で、本編は終了となる。


アンコールで再登場した後、今朝風邪を引いたらしいことを告げていた。
昔、「とんぼ(とんぼちゃん)」の市川善光(よんぼ)は、風邪で体調が悪い中ツアーで歌い続け、喉を痛めてしまった。
現在の歌を聴いたことがないのだが、ELTの持田香織も同じらしい。
そういった意味では原マスミの喉も心配ではあるのだが、頻繁にライブがあるわけではないのでパスカルズとの共演までにはよく休めて回復させてほしいと感じた。
「約束の満月」は、研ぎ澄まされたピアノとフレットレスベースの響き合いが絶妙で、完成されたアレンジである。
決して喉は楽でないはずだが、この湖面に浮かび上がった月の光に照らされるように、歌詞の世界は音楽に溶け込み、終了した。
観客もおそらくSPCスタッフも、原マスミの体調を気遣ってか、この日のアンコールは1曲で終わった。
だが、この日は熱演であり、原マスミ世界の表現自体はいささかも損なわれることはなかった。


終演後、出口で数日前に見事なピアノソロを聴かせてくれたロケットマツが、自らバンマスを務める「パスカルズ」のチラシを寒い中配っていた。
原マスミ、パスカルズともに、ベストのコンディションで最高のステージになることを祈らずにはいられなかった。



ニヒル牛おっさん7/阿佐ヶ谷ロフトA(10/01/14)
出演:大海赫(紙芝居)・ライオンメリィ・ロケットマツ・滝本晃司・大谷氏・石川浩司・知久寿焼


(石川浩司)
1.家族
2.ゴリラの面
3.ガウディさん
4.学校に間に合わない
5.オンリーユー
(大海赫・紙芝居)
1.メキメキえんぴつ
2.ゴニボ・ゴルボのあたらしい家
3.ばけねこのおよめさん
(大谷氏)
1.誰も知らないヒット曲
2.俺は潜水夫
3.誰もいない公園
4.キチガイスラッガー
5.境鉱泉
(ライオンメリー)
1.砂漠の魔法使い
2.カバンがない
(ロケットマツ)
1.ニワトリ
2.96 Tears
3.(調査中)
(滝本晃司)
1.楽し楽しい時間
2.落下
3.レインコート
4.ハダシの足音
5.空の下
(全員)
0.スーパーホルモン鉄道のテーマ
1.意味なし笛
2.特殊な訓練のブルース
3.誰も起きてこないよ
4.雨の日のサーカス
(アンコール)
5.デキソコナイの行進


今回の目的は、実は紙芝居であった。
大海赫著『ビビを見た!』は、小学校の図書室に開架されていたが、そのようなレベルの児童書ではなかった(そのうちブログでも紹介したい)。
この本と原マスミの2ndアルバム「夢の四倍」が、おそらく人生でもっとも影響が大きかった作品で、足を運べる企画にはだいたい参加するようにしている。
今回の企画も、「滝本晃司もついでに聴けるのは都合がよい」程度に考えていた。
他の出演者も魅力的ではあるが、紙芝居がなければおそらく前売りを予約することはなかったと思う。
それが、千倉やS.P.C.で一時的に復活したたま(しかもベース付き)の再演が観られ、「お得」と言うレベルではない思いを抱くに至った。
ここまでは期待していなかった。


入場は店売りの分が先で、メール予約は後からの入場であった。
新宿LOFTと同様、バーカウンターだけが喫煙ゾーンで、イベントスペースは禁煙であった。
初めて入る箱ではあるが、椅子もよい場所を確保でき、なかなか快適である。
入場時にLOFT系の冊子を貰ったが、表紙がテルスターだった。
以前、サードクラスの「愛くらら」発売記念のライブで観たが(そのときは知久寿焼、ワタナベイビー、TOMOVSKY3人の「さよなら人類」も聴けた)、興味深い曲も何曲かあった。
テルスターのホームページ(http://www.badnews.co.jp/telstar/ )が少し前に刷新されたが、ドラムの山田タケシのブログが一番面白い。
他のメンバーと一線を画す雰囲気から一つの対象を極度に掘り下げる芸風を予想していたが、ここまでは期待していなかった。
バンドのドラム奏者ということをすっかり忘れさせる、お勧めのブログである。
会場では戸川純的と言うか大正浪漫的と言うか、ある方向性を持ったBGMが開演までリピートで流れ続ける。


やがて開演となり、第1部は、石川浩司のステージとなった。
司会の女性(nico)とともに、今回の企画「おっさん7」の名前の由来が説明される。
ニヒル牛の展示イベントが先にあり、それに託けたライブイベントであったようである。
第1部が石川浩司ステージであったのは、大海先生が聴いていけるようにという配慮があったのであろうか。
1曲目の「家族」から、ライオンメリーのキーボードにロケットマツのピアニカが入る。
ベースを弾く滝本晃司が見られるのは、なかなか珍しい。
おそらく、これが目当てで来場した客も多かったであろうと想像される。
「ゴリラの面」で、上半身裸の大谷氏と、女性司会者とが踊りながら入ってくる。
穿かれていた特製ブルマは、この日のために用意されたものらしい。
「おい大谷、そのズボン前と後ろが逆さまだぜ」と、曲中で歌に合わせて指摘され、舞台上で穿きなおすアクシデントもあった。
ここで、「7人目のおっさんを探してきた」とのことで、知久寿焼の登場となる。
数日前の「新春ロングトーン」でも出演者に名を連ねていないのに引っ張り出されたが、この日も、である。
千倉でも吉祥寺でも実現しなかった、ベース付きのたま復活である。
ロケットマツとライオンメリーが壇上にいるので、ほとんど「たまの最期」最終日の雰囲気であった(ワタナベイビーがいると完成)。
「ガウディさん」「学校に間に合わない」の2曲が、この編成で演奏される。
「ガウディさん」は、石川曲の中では他の楽器やコーラスが入ったほうがよくなる曲である(「一人闇鍋」などは音が増えても変わらない気がする)。
千倉での三味線青年との演奏も味があったが、オリジナルのコーラスはやはり格別である。
この日、知久曲は演奏されなかったが、やはり知久寿焼はコーラスにおいて特筆すべき力量が見られ、これが聴けたのは大きい。
「学校に間に合わない」は、知久寿焼が驚くほど自在で多彩なバッキングギターの音を重ねる。
そのため、石川浩司の布団叩きのようなドラムの音が入るまでの部分も、決して飽きさせずに音楽が流れ続ける。
途中、石川浩司は滝本晃司や知久寿焼のあたりを歩き回り、頭などを触っていく。
中間部の「一生懸命探し回って出てきたもの」は、予想どおり「おっさんばかり」であった。
「髪を伸ばしたり」「禿げ散らかしたり」で「なんて自由なんだ」と、肯定的に「おっさん」を総括していた。
曲後、「らんちう」の冒頭の部分が演奏され、「あんまりの」と歌いだしたところで終了。
そのまま聴き続けたかったところであるが、準備の問題もあるだろうからまあ仕方ない。
だが、このメンバーなら「おやすみいのしし」あたりを演ってほしかったところはある。
あっという間の名残惜しいステージが終わり、二人は退場する。
カバー曲にオリジナルの詩を当てた「オンリーユー」で、終了となる。
「そのままでいい」という、ありのままの自己や他者を肯定する精神が、おそらくファンからこの歌の支持を得ている理由であろう。
遅れて来た観客には気の毒だが、第1部にこの日の一つのピークはあった。
開場時に入れ違いに知久寿焼が会場から出てきたのは、このステージを予感させるものではあったが、何の期待もせずに来ていたら、福引で一等賞が当たったぐらいの驚きあるステージではあった。


さて、今回のお目当ての第2部、紙芝居ステージである。
最初に、自分はもう既に「おっさん」という齢ではないという話や、昔の紙芝居屋の話が入り、最初の演目「メキメキえんぴつ」になる。
3本とも、ロケットマツと石川浩司の効果音が入る。
多少大きめの音で鳴らされたところはあったが、継続的なものでなかったので効果的ではあったが邪魔なものでは決してなかった。
また、完全な即興というよりは、ある程度場面ごとに準備された音楽であるようにも思えた。
「メキメキえんぴつ」は、同名の書籍もあり、「おおきくなったらなにになる?」なども同書に収録されている(これも紙芝居かされている)。
どちらも分かりやすい話で、自らの行動が導いた結果の不可逆性がテーマとなっているが、絵もユーモラスなこともあり、観客の受けは非常によかった。
成績がメキメキ伸びていった、という一点のみにおいては、ある意味ハッピーエンドなのかもしれないが、誰も望まぬ結末であろう。
「ゴニボ・ゴルボのあたらしい家」は、実は観るのがこれで3回目である。
だが、3回目にしてようやく「ゴニボ・ゴルボ」という言葉の意味、由来が理解できた。
由来は種明かしになってしまうので省くが、意味は「悪魔」である。
カラスの格好をしてやってきて、家を10階建てにしてくれるが、こちらも不可逆性が働く作品で「元には戻せない」。
ただ、「メキメキえんぴつ」と大きく異なるのが、「悪魔」と交渉し取引し、ベターな結末に修正しようとしている点である。
大海赫紙芝居の中で、この作品が一番象徴的で難解である(本来の大海作品の読後感に一番近いのは、この作品であろう)。
ただ、「悪魔」がゲームに熱中する様の描写などは面白く、紙芝居として観るには飽きない。
姉妹で喧嘩しているときにやってきた「悪魔」、交渉の末10階建てになった家などを考慮すると、もしかすると次の仮説が成り立つかもしれない。
「家」とは、人間の身体(周辺の財産なども延長線上に含む)ではないだろうか。
「悪魔」との交渉により人間は身体を増大させていく、いや、増大させざるを得ない事情から「悪魔」と交渉しているのかもしれない。
「悪魔」は自らの領域を拡大すべく、常に言葉巧みに人間の欲に働きかけていく。
人間はそれを利用しようとするが、差し引きすると「悪魔」側に若干利があるように帰結している。
そんな警告が、「ゴニボ・ゴルボのあたらしい家」には込められているのではなかろうか。
「ばけねこのおよめさん」は、一番「評判のよい」紙芝居らしい(以前の言)。
この作品が一番毒も警告も少なく、虹に化けたばけねこの姿など、子どもでも純粋に楽しめる絵でもある。。
「メキメキえんぴつ」は不可逆性を克服できず、「ゴニボ・ゴルボのあたらしい家」は交渉により比較的ましな過程を経由しているが、先に何が待っているか分からない不気味さを残している。
だが、「ばけねこのおよめさん」の主人公のトコちゃんは、知恵・機転によりばけねこに勝利する。
トコちゃんには欲のない無邪気さがあり、相手の言いなりにはならない行動力も持ち、そして騙されたばけねこも一生幸せに送るように仕向けている。
大海紙芝居作品の中では異色に見えるところもある「ばけねこのおよめさん」だが、ここにモデルとなる生き方の一つを示したいたのかもしれない。
『ビビを見た!』『白いレクイエム』などに感じられる、作品全体を通して流れる異世界的な幻想性(「死」と隣り合わせの「美」も感じられる)は存在しないが、メッセージとなる骨格についてはしっかり残り、紙芝居化されている。
3演目終了後、復刊ドットコム(絶版本の多数がここから復刊された)でブログを始めるという告知がされる。
「楽しみである」と書くこと自体おこがましく感じるが、やはり期待してしまう。

http://blog.fukkan.com/akasiooumi/


他の出演者と異なり、大海先生はここで奥様、復刊ドットコム関係者とともに会場を後にする。
少しだけ先生にご挨拶をしたが、この日は茨城へのバスには乗らず、荻窪のホテル(柴草玲の歌の所ではない)で宿泊していくらしかった。
デンマークの童話作家アンデルセンは、最晩年に会心の作品を書き上げ、「これぞ自分の最後の作品に相応しいものである」としたらしい(確か障碍のある子が周りの人々を幸せにしていく話だったと記憶している)。
その後、あまりに歯が痛くなり「はいた(歯痛)おばさん」という作品を書き上げたため(個人的にはこの作品も気に入っているが)、最後から二番目の作品にはなったのではあるが、最晩年にこうした作品を書けるのは幸福なことである。
大海先生もまだまだ執筆の意欲が衰えないようであり、もしかすると『ビビを見た!』を超える作品が生まれるのではないかとも期待している。


名残惜しいが客席に戻ると、第3部の大谷氏の演奏が始まっていた。
ちなみに、阿佐ヶ谷ロフトAのバーカウンターのエリアにはモニターとスピーカーがあるので、どのような演奏があったのかは分かる作りになっている。
大谷氏は、「大谷氏」が活動の名義らしいので、このレポでもそれに合わせる(昔はフルネームで活動していたはずだが)。
個人的には初聴であるが、20世紀が終わる年越しライブ(実質最後の原マスミとたまとの共演)のときに、大谷氏も参加していたらしい。
そのときの観た人間の印象としては「地方の農協の真面目そうな中堅職員」といったもののようだったが、今回も同じような印象である。
課長が部長になったぐらいの変化は、もしかしたらあったのかもしれないが。
石川浩司とはホルモン鉄道というユニットで一緒に活動をしているので、このステージも多くは二人の共演であった。
この日のMCをまとめて記すと、雪で新潟新幹線が止まり、反対方向の滋賀に出て東海道新幹線で来て、大変な時間がかかったらしい。
そこで、煙草が長時間吸えずいらいらした話や、来てから曲を決めて合わせる予定だったのが到着が直前になってしまった話、他のメンバーと異なり自分だけ楽器でなく踊りなどでの絡みになっている話などがあった。
「誰も知らないヒット曲」は、自分で作ったカラオケでの演奏(曲も歌謡曲的)で、後ろに4人突っ立ているだけの男性が並ぶ。
コーラスをしない、クールファイブのバックみたいなものである。
前にも記したが、クールファイブはもともとバンドマンであったのが、デビューの際に楽器を持たなくなったのであの形であるらしい。
後ろの5人が不要にずっと思われていたのだが、それを知って納得した覚えがある。
「俺は潜水夫」は、「俺は~じゃねえ」という部分が繰り返される比較的短い曲である。
「誰もいない公園」は、「千の風に乗って」を意識して作ったとのことだが、「~で~ないで下さい」の形式を繰り返しているだけのことである。
「公園の子どもに夢を与えないで下さい」などの歌詞が、同じメロディで延々と繰り返される。
この日、ほとんど合わせをする時間がなかった大谷氏と一番すぐ合わせられる力量があるとのことで、ライオンメリーがキーボードで加わる。
「キチガイスラッガー」は、アメリカベースボールマンに扮した石川浩司がカラバット(プラバット)を振りながら太鼓を叩く。
歌詞世界の無意味さ極度の誇張は、石川浩司の曲にも聴こえる(情報はないが、共作なのかもしれない)。
最後は、シンバルにカラバットが刺さり終了する。
「境鉱泉」は、この部では一番まともな曲で、滝本晃司のベースとロケットマツのキーボードの音も入った。
鄙びた温泉宿の映像が浮かんできて、静かな旅情を誘う。
「君が影と横になれる場所がある」といったような表現があったと思うが、富山の風景に密着した世界を描いていけばいわゆる色物的でない引き出しも実は結構持っているのではないかと感じさせた。
関係ないが、「さかいこうせん」というタイトルだけ耳にしたときには漢字が分からず、「蟹工船」「スペシウム光線」などの「こうせん」でイメージを膨らませていた。


第4部は、バックの二人の登場で、まずはライオンメリーのソロ演奏である。
「すぐ終わりますよ」という台詞や、最近ソロでの活動をあまり行っていないことを自虐的に語るMCが特徴的であった。
MCだけなら、「ひくつ系音楽会」にも出られそうな感はある。
曲自体は、2曲ともなかなか乗りもよく面白い作りであった。
ロケットマツと異なり、本人が歌った。
ボーカリストとしての通りのよい声では決してないが、丁寧に音符に載せて音楽の雰囲気を壊さないところは、一流どころのバックを長年務めているのを感じさせる。
歌詞も、決して面白おかしい奇抜な歌詞を書くわけではないが(そもそも1部や3部より奇抜なはずがない)、言葉の響きが舶来ものの音楽の響きに近く感じる。
何度も繰り返される「カバンがない」の響きも、「cow bang! a night!(これは適当に英単語を並べただけなので意味すら通っていないが)」といったような所在不明の英語の歌詞にも聴こえる(「泣いてない」は「night and night」あたりの響きに近い)。
ライオンメリーもこれまでの雰囲気とガラリと空気を変えた点でよかったのであるが、ロケットマツはさらに素晴らしかった。
正直、そこまで期待していなかったのだが、この日演奏された3曲全て(特に曲名が分からない3曲目のソロ演奏)演奏家としての技術の高さを発揮させていた。
「ニワトリ」では、上半身裸の石川浩司と大谷氏が踊りながら入ってくる。
短調でありながら、静かな躍動感が感じられ、「ニワトリ」が首を動かしながら歩行するイメージが浮かぶ曲である。
ウルトラQの曲をゆったりさせたら、多少近い雰囲気かもしれない。
曲が終わり無音になったとき、ロケットマツも一緒にしばらく静かに踊り、そのまま2曲目の「96 Tears」へと流れていく。
三拍子の曲で、石川浩司と大谷氏が演奏に加わる。
ただ、曲調自体は物憂げなノクターンに近い響きで、雨に似合いそうな音楽である。
そして、3曲目(残念ながら、曲名が分からない)はこの日一番の演奏であった。
静かでありながら雄大な自然、湖であったり大空であったり何とも言えない大きなものがパッと眼前に浮かぶ。
ただ、そこには眩い光が射し込んでいて、最初から最後までを通してその光は照らし続けている。
前の2曲のほうがよりクラシック的であり、3曲目は多少イージーリスニング的ではあるのかもしれない。
だが、描こうとする世界があり、それを音楽という聴覚のみの手段で見事に描写(作曲面も演奏面も)していることについては、もっと評価されるべきであろう。
朝の光が射し込む食卓で、焼きたてのパンと挽きたての珈琲の香りを楽しみながら、BGMで流れていてほしい1曲でもある。
もっとも、そんな時間的・精神的余裕を自分が持ち合わせているのかは分からないが。
ロケットマツは、パスカルズのバンマスや、他のミュージシャンのバックでの演奏の印象が強い(友川カズキなどのバックのときは永畑雅人名義であるが)。
パスカルズで大人数のミュージシャンがメンバーに加わっているのも、ロケットマツの人格や目指す志向への共感が最大の要因であると、自分はこの日まで誤解していたところがある。
だが、この日、遅ればせながら次のことを実感した。
ロケットマツは、たった一人でもう既に、一流のミュージシャンである、と。
ロケットマツの精神への共感もあろうが、やはり構築する音楽への敬意と賛同、それらがパスカルズのメンバー全てにおそらくあると思われる。
たま復活も、この日の大きな出来事ではある。
だが、音楽的にはこのステージが、一番強く印象に残った。


第5部は、ソロコーナーではトリとなる滝本晃司のステージである。
この部は、ベースではなく知久寿焼のギターを借りて演奏した
そのため、曲目的には千倉での演奏のときや「オレとナオヤのロングトーンvol.1」のときと共通していながら、雰囲気が異なった。
ギターの音から重厚さを差し引いた感があったので、この日は柔らかな淡い色彩の背景にくっきりとした肖像画が描かれたような印象であった(普段は背景も対象もくっきりしている)。
「楽し楽しい時間」「落下」と、まずはソロで2曲演奏される。
第1部と異なり突拍子もないことは歌っていないはずなのだが、歌詞の細かい部分の中で妙に記憶に刻印されるフレーズが何箇所も出てくる。
「落下」で歌の部分からギターのアルペジオのみの部分に切り替わり、全く別の世界の和音が顔を出してくるところが好きである。
黒い帽子を被ってはいたが、髪は一年ぐらい伸ばしていて、自分が天パーであることにこの歳で気付いたということを話していた。
他に、ベースについても話していて、年に2回ぐらいしか使う機会がないので取り出したらカビが生えていたこと、昔のたまのCDを流しながらそれに合わせて練習したことなども話していた。
当時自分がどのように演奏していたのかが再認識でき、なかなか有意義な経験であったらしい。
そして、いよいよたま復活の曲である。
「レインコート」は、急遽知久寿焼の参加が決まり、リハーサル後に近所の自宅に自転車でマンドリンを取りに帰って演奏されることになった曲である。
滝本晃司曲には、やはり知久寿焼のコーラスが声質の倍音成分の違いからか効果的に重なり、「たま復活」をどの組み合わせよりも実感させる。
難易度の高い速いパッセージの続くマンドリンも、雨の日の速い雨粒の流れをイメージさせる。
「最近ここまで緊張感のある演奏をしたことがない」とのことで、最後の最後の部分でさすがに音が正確に出し切れなくなったところはあった。
「ハダシの足音」が、この部最高の山場である。
もしかすると、この日の一番のピークも「雨の日のサーカス」や「デキソコナイの行進」ではなく、ここにあったかもしれない。
この編成での演奏は、牧歌的なチャカポコ感、世界が広がっていく伸びやかなメロディ、掛け合いとハーモニーのある立体感のあるコーラスなどがあり、たまが復活するたびに一番「らしさ」を感じさせる曲である。
再度の名残惜しい2人の退場の後、一人になり「空の下」が演奏されて第5部が終わる。
石川浩司から始まり滝本晃司まで連なるグラデーションは、ちょうどこの企画の人数を考えると「虹のグラデーション」にも感じられる(昔の国語の教科書に「虹は7色か6色か」について書かれていたのも思い出した)。
賑やかな暖色から物静かで落ち着いた寒色まで、音楽も(途中の盛り上がりはあるものの)このグラデーションどおりに移行していった。
その全体像を形にすると一つの虹(ばけねこが化けた虹ではない)のようになるのであろうが、もう一つステージは残されていた。


第6部は、全員ステージであるが、実質石川浩司と大谷氏(「スーパーホルモン鉄道」?)の曲目中心であり、虹のグラデーションの振り出しに戻ったようだった(副虹がかかったとでも記しておこう)。
この2人は、入場時に「シュッシュッポッポ」と何か歌を歌いながらステージに上がった。
どうも、これが「スーパーホルモン鉄道のテーマ」らしいのだが、リストに入れてよいものか迷う。
一応、ナンバリングから外して追記することにする。
「意味なし笛」は、歌いやすい小学唱歌のような曲調である(一つの音符に一つの音のみを忠実に入れる唱歌形式)。
「意味なし笛が鳴り響く」「私の笛には意味がない」などの歌詞が、軽快な旋律に乗り歌われる。
「意味なし笛」には「自分自身」または「自分の声帯」を投影しようとした意図があったのかもしれないが、そのように意図すること自体が既に「意味なし」でなくなってしまうというパラドックスがあり、なんだかよく分からない。
演奏面は、このステージで何度か登場している、トロンボーンのように引っ張って音を調節するおもちゃの笛が活躍した。
「特殊な訓練のブルース」は、文字どおり「特殊な訓練」を受けてきた人間をブルースで歌ったものである。
そう言えば、柳原陽一郎もこういった「~のブルース」を即興でよく歌う。
時の総理大臣など、時事的な内容が多いが、個人的にはノーベル賞を受賞したときの「田中さんのブルース」が一番興味深かった。
ブルースという形式を深く知り深く語れる身分ではないが、音楽における権利関係や形式論などから一番自由なジャンルであるような気がしている。
ほとんどの部分でギターコードも2つか3つだけで(きちんとしたものは違うのだろうが)、歌うというよりは伝えたいことを字数制約なく、音符ではなく小節の中に押し込める。
「歌い散らかす」にはもってこいの形式であると、そういった意識もきっとあるのであろう。
ここで再度、地区寿焼がステージに上がり、これでミュージシャン全員が勢揃いする。
楽器のセッティングに少々難航するが、会場スタッフはピクリともしない。

「誰も起きてこないよ」は、石川浩司の曲でたまの初期と解散直前(「たまの正月」あたり)とで演奏されていた曲である。
サビの部分が最後にだけやってくる「夏の前日」と確か同じ形式で(もちろんあんなにメロディアスでない)、「夜の牛たちのダンスを見たかい」と同じようなマイナーコードでだんだんと声を張り上げる系の曲である。
この曲に関しては今はなき幡ヶ谷の「たまははき」で、知久寿焼がアンコールで歌ったことがある(石川浩司の物まね付きで)。
そのときは大分誇張気味に歌っていたが、第6部も終わり頃に置かれている曲だけあって比較的真面目に作られた世界である(あまり歌詞を覚えていないので、そちらの細かい論評はできない)。
石川浩司の「最後は大谷のしっとりした曲で締めよう」という言葉の後、「雨の日のサーカス」で本編が終了する。
大谷氏は、話し方こそ富山かどこかの響きが感じられるが、歌い方は言葉の粒が整った歌詞を大切にするように聴こえる。
石川曲と区別がつかない曲目が多い中、この曲だけは滝本晃司寄りのメロディアスさが感じられ、サーカスという非日常を雨の中に描いた情景もはっきり浮かび上がってきた。
大谷氏は予備知識があまりなかった分期待をしていなかったのだが、この曲だけは誰が聴いても名曲と言えるであろう。


アンコールの前に、メンバーそれぞれのライブ告知が行われる。
現在の活動状況の違いが分かり、興味深い。
だが、どのメンバーも別のメンバーとの共演がすぐに予定されており、今更記すまでもないつながりの深さが再認識される。
「さあ、そろそろ行こうか」との合図で、知久寿焼は打ち上げにでも行くのかと、勘違いをしたようだった。
「デキソコナイの行進」は、吉祥寺の復活ライブでも最後に演奏された。
少なくとも、石川浩司主体で動いたライブでは(おそらく)一番思い入れのある曲であり、この位置に置かれる曲と予想される。
もっとも、他のメンバー主体で動くことなど、まあありえないが。
旗を付け忘れた棒を持って、てんでんバラバラに歩いていく様を「よし」とする姿勢は、予定調和の世界や全体主義的規律を嫌う思想と表裏一体である。
「みんなちがってみんないい」の精神にも近く、解散した後の「たま」自体を象徴しているとも言える。
「ハダシの足音」と異なり、掛け合いやコーラスはなく、オクターブユニゾンで最初から最後までほとんど通される。
「たま」という学校の校歌のようでもあり、この催し自体がその学校の学芸会のようでもあった。
校歌が終わると、長くて楽しかった学芸会もお開きになり、それぞれの帰路に着いた。


最初にも記したが、今回の催しの一番目的は大海赫先生にご挨拶することであり、紙芝居を観ることであった。
それなのに、千倉まで高速バスに乗ったり、ぴあの熾烈なチケット争奪をしたりすることも不要で、「たま復活ライブ」に遭遇することになった。
これは、名古屋の喫茶店に行きモーニングの珈琲を注文したら、山本屋の味噌煮込み饂飩が付いてきたようなものである(いや、ありがたみはそれ以上である)。
何か大義名分がないと、なかなかここまでの企画を用意するのは困難であろう。
それを思うと、やはりこの日は貴重な夜であったと記さねばなるまい。


大海先生、今後もお元気でよい童話を書き続けてください。



オレとナオヤの新春ロングトーン/国立地球屋(10/01/11)


1.チキンライス
2.臆病者の風邪
3.毎日の今日
4.空色のフォーク
5.君の街まで
6.Beautiful Day
7.アイライクストライク
8.月夜のカルテット
9.ロングトーン
10.星の地図


11.もう少し歌うから
12.田園交響曲
13.岬の上
14.瞬き分の夜
15.束の間の二日間
16.タワーホテル
17.レベル5
18.旅に出なさい
19.ハッピーエンド
20.誰のためのお客さん さて君は?


21.ウルスリ
22.電車かもしれない(知久寿焼)
23.オーシャンデリゼ
24.走るのってすてき


「オレとナオヤのロングトーン」は、今回が第2回目である。
ただ、ゲストの表記がなかったためか「vol.2」の表示はなかった。
ちなみに、「vol.1」のときは滝本晃司がゲストで、三者三様の話芸が堪能できた。
国立地球屋で3ステージにすると終電が危なくなるので、これはこれで仕方なかったのかもしれない。


さて、到着時に開場時刻にはなっていたが、せっかくの国立なので、カフェ「れら」に先に足を運ぶ。
地球屋の店を通り抜け左折するとすぐあるので、1分もかからない距離である。
前回は品切れだった鶏肉の入ったスープカリーが、今回は注文できた。
また、豆の薬膳カリーは今回テイクアウトしてみた。
家でなかなか作ることのできない味なので、好みのトッピングを入れて自宅で食することができるのは嬉しい。
ドリンクであるが、珈琲はさほど変ではないが(産地は東ティモール)、ヨーグルトはかなり特徴がある。
自家製の発酵でこしらえているので、驚くほど濃厚である(クリームチーズのドリンクのようでもあった)。
名残惜しいが、開演も近かったのでゆっくりはせずに、食後、店の低い出入口を抜け(背が高いと頭を確実にぶつける)、地球屋に向かった。


客入りは、祝日のためか悪くない。
ホットの紅茶であろうか、品のよい欧風のお洒落なカップとソーサーとが目に入り、次回は注文したいものだと思った。
前に来たときはメニューにあった(壁に貼ってあった)カレーが(当時はナンも選べた)、いつの間にか消えておでんになっていた。
その時節ごとに需要のある献立を用意する方針なのかもしれないが、「れら」に足を運ぶ時間がなかったら注文する予定だったので、少し驚かされた。


やがて開演時刻となり、前半の沢田ナオヤのステージとなる。
髪は大分短くなり(とは言え、長いときのはかまだ卓程度か)、服も白いシャツの上に、下の方だけボタンが付いている開き部分が大きなベストを着て、爽やかな風情である(髭も少なめになっていた)。
暮れのムジカジャポニカで客として腰を下ろしていたときにはまだ「怪しい」風貌であったようだが、これなら深夜に自転車に乗っても、変なものを持っていないか警察に呼び止められることもないだろう(本人の過去ブログ参照)。
「明けましておめでとうございます」との挨拶から、耳慣れた前奏が始まる。
沢田ナオヤの代表曲である「チキンライス」が、何の惜しげもなく新年一本目で披露される。
自分は、沢田ナオヤがどの順に曲を紡いでいったのか、その歴史を知らない。
だから、こうして何かを述べること全てが憶測になる。
だが、それでも述べてみると、「チキンライス」は現在の沢田ナオヤを作る転換点になった曲だと思わずにはいられない。
前にも似たようなことを記したが、「Silhoutte」の曲は歌詞カードを見ると抽象的で観念的にも取れる内容が多いように思えた。
だが、高柿たくろうの作詞か共作かは分からないが(2枚のアルバムでクレジットが異なる)、「チキンライス」だけは日常の場面が写実化され感覚主体で描写されている。
本来、沢田ナオヤは生真面目な性格であると考えられ、自分の顔を歌詞世界の中に含ませることを避け、濾過した純粋な世界を提示させようとしていたように見える。
だが、「チキンライスの香り」「単純に」「いい感じ」といった言葉からは、神の視点からではなく等身大の人間の視点で、純粋に五感からもたらされる
その分、身近な風景を聴き手は容易に想像でき、手の届く場所にある安心感や幸福感などのようなものに結びつけることができる。
他の人間と共作を行っても沢田ナオヤの精神そのものは決してスポイルされることがなく、逆に、新しい角度からの光を入れる窓が一つ増やされることに結びついている。


「おおきにー」と、歌とギャップのある空回りした明るい挨拶が曲後に、間髪入れずに入ってくる。
MCを全く入れずに歌だけ歌うと、全く別のタイプの歌い手になっていたかもしれないが、素朴な飾らぬ人柄もまた沢田ナオヤの魅力の一つである。


スリーフィンガーが印象的な「臆病者の風邪」が、次に続く。
声の出し方が、知久寿焼的であるとやはり感じる。
立ち上がりの発声のところの響きと、その後の声の伸びとのギャップが、一つの特徴となっている。
「寒くなってきたので、皆様が風邪を引いていないか心配になって」と演奏した理由を述べる。
また、「オレとナオヤのロングトーン」が2回目を迎えるに当たって、「おっと驚くようなムーブメントを起こしたい」と意欲を表明していた。


「毎日の今日」は、アルファベットでないカタカナ発音の横文字の歌詞が、日常性をより感じさせる。
この日も、口笛が調律された繊細な楽器のように美しく鳴り、曲に品のよさが添えられる。
歌詞的には、やはり「チキンライス」のような日常の中の感じた想いが、抽象的でなく実感を感じられるようなスタンスで表現されている。
「チキンライス」が好きなら、この曲もお薦めである。


「空色のフォーク」は、ギターの和音がかなりお洒落で、メジャーセブンやナインスレベルの和音が、前奏などはそれこそ1拍ごとに入れかわり立ちかわり切り替わる。
反面、凝った伴奏のため歌詞に耳をあまり向けなかったが、この曲を一曲仕上げるだけの労力は半端でないことが予想され、聴き入ってしまう。


「クッと変わる瞬間見てくださいね」「クッと行くんで、よろしくお願いします」と、「君の街まで」が始まる。
斉藤和義でも近いテーマの歌はあったはずだが、「走る電車と競争だ」など、やはり沢田ナオヤ独自の明るさが感じられる。
後半は手拍子だけのアカペラで、沢田ナオヤは会場中を歩き回り、最後列の双葉双一に抱きついたり舞台後ろのハイハットを叩いて音を出したり、賑やかに曲を終わらせる。


「Beautiful Day」は、ピックでの速弾きがいつも見事であるが、この日はいつもよりさらに流暢に音の粒が流れていたように感じた。
全体的にこの日は、自信のある曲中心の選曲なのか、演奏のレベルは高かったように思う。
「まだまだ間に合うトゥディ、トゥディ」あたりの、五線譜の枠からはみ出した歌い方をした部分に、やはり知久寿焼的な響きを感じる。
その部分だけ、音でなく言葉の部分が浮彫になり、音楽とは違ったところで言葉にアクセント記号が付せられる。


「アイライクストライク(曲名を教えていただきありがとうございました)」は、多分初めて聴く曲で、未音源化曲である。
シャッフル気味のストロークでの、3拍子曲であった。
この曲も、「チキンライス」「毎日の今日」に近い、日常の温度の世界であったように記憶している。


「月夜のカルテット」は、個人的に好きな曲である。
こちらは3拍子らしい3拍子で、「君の街まで」の後は夜の曲、と言っていたように、夜の幻想的な映像が浮かぶ音楽である。


「ロングトーン」は、この日のテーマ曲で、前回と同様にリバーブをかけまくっての演奏であった。
よい雰囲気で曲は終わるが、やはりMCはいつもの調子で、思いついたことをグダグダ感たっぷりで次々に並べる。
「本質を見極めていきましょう」などと、言っていることはまともだが、文脈もなく唐突に出てくるところが沢田ナオヤである。
だが、曲を聴くと、その言葉も納得させられてしまうところがある。


最後の曲とのことで、「星の地図」が演奏される。
you tubeでもこの曲の生演奏は観ることができるが、やはり同じ空間で聴くと思いが込められた心的映像を共有することができる。
歌詞カードだけ見ると随分と抽象的で観念的に感じるファーストアルバム「Silhoutte」の曲群であるが(「チキンライス」「Beautiful Day」を除く)、この日の生演奏を聴くとそうは感じられなかった。
「星の地図」だけでなく「臆病者の風邪」にも感じたが(「空色のフォーク」はギターばかり聴いてしまったが)、沢田ナオヤの体からこの歌詞が発せられると、上滑りしない生活の言葉の一つのようにも不思議と感じられる。
例えば「星空をなぞってく聖者の足音に、染み付いた残骸をただ見守るだけ」などという部分などは、聴いていて鳥肌が立つような感覚を覚える。
日常生活に結びついたリアリティなど微塵もないはずなのに、自分が子どもの視点で星座を眺めて宇宙の神秘に震えるような感覚を味わうのである。


これは、なぜなのであろうか。
おそらく、沢田ナオヤの精神が健全なのである。
打算や計算なしに、心の中の前向きな想いを一つ一つの言葉で紡いでいるのである。
そのために、一般的には「作り物」といった印象を受けそうな言葉の羅列が、真の想いの表明と感じられるのであろう。
沢田ナオヤのリアリティは、言葉からではなく精神から溢れる人格に由来すると言っても過言ではないのである。


夜の余韻と宇宙の神秘を残し、沢田ナオヤはこの曲でステージを降りた。


後半になり、双葉双一が登場する。
上と下に色合いなどの連続性が感じられる服で、黒系でないのは珍しい(グレー系)。
髪も整った感じの長髪で、ジャンルも性別も異なるが、涼しげな目元と表情をあまり変えない雰囲気が、どことなく荒川静香に似ているようにも感じられた。
本人のブログでもこの日の写真は公開されているが、あまりクリアでないのが残念である。
先ほど抱きついてきたことを思い出してきたのか、
「どうなんでしょう、あの男は、頭がおかしいんです」
「普通でよかったです、本当に」
と、突っ込みどころのあるコメントが入る。


最初に歌われていたのが、「もう少し歌うから」であり、先ほどの「チキンライス」同様に意外な感じがした。
この曲はアンコール一曲目などに向いた歌詞で、最初から歌われるとは予想していなかったからである。
沢田ナオヤステージが終わっても、「もう少し歌うから」というメッセージだったのだろうか。
「田園交響曲」と、未音源化曲が続く。
今回のライブの位置付けが、もしかしたら次回のアルバムの布石となるものなのかもしれないと予感させられた。
個人的には、「もう少し歌うから」はどんなコンセプトでも終わりのほうに持ってくれば合うと思う。
もし「田園交響曲」を入れるのであれば、「さようならプロスティテュート」や「追走曲」あたりも持ってきて、昔の週末NHK教育でよく放送していた古い外国映画のような色調を基調とするのが引き立つと思う。


「明けましておめでとうございます、今年もよろしくお願いいたします」の挨拶の後、今年の目標が「イチローが10年連続200本安打を達成することです」ということであると表明された。


続いて、最新アルバム収録の「岬の上」が演奏される。
なぜかは分からないが、この曲の演奏頻度は高い。
最初の2曲ではそこまで感じなかったが、ライブのないときに歌い込んだのであろうか、声量があると感じられた。
ただ、この日全般に言えることだが、ハーモニカもまたたっぷりの音量(PAの仕様かもしれないが)であった。
力強さは感じられるものの、双葉双一ほど美しいハーモニカを演奏する歌い手はいないので(倉井夏樹のような職人は別として)、少々もったいない。
ボブディラン(ホフディランではない)や友川かずきなどに傾倒しているところが、最近のtwitterの呟きには見られる。
そのスタイルを、自分の演奏スタイルにも取り入れようとしたのではないだろうか。
だが、双葉双一には先の二人にはない魅力がある。
文学の本質を女々しさとする考えもあるが(本居宣長だっただろうか)、その考えに従えば双葉双一は一級の文学に通じるものがある。
もちろん、友川かずきは友川かずきで一つの世界を築いている。
だが、ボブディランも友川かずきも、世界に一人だけいれば十分である。
同じように、双葉双一も世界に一人だけいれば十分だし、いなくなってもらっては困る。
まあ、話を元に戻すと、歌い込み自分のものにしていこうとする表れが感じられ、この後の3曲の演奏を予感させるところはあった。


「何かちっとも楽しくないです。だれか、覚醒剤買ってきてください」と冗談が出たので、また「覚醒の歌」かと思ったら違っていた。
「瞬き分の夜」が演奏されるが、ここからの数曲は今までとはまるで違う演奏であった。
一言で述べると、「五線譜の枠組みからの自由の獲得」と言ったところであろうか。
こう書くと音程を外しているのではないかと誤解を受けるかもしれないが、そうではない。
歌う歌詞世界を、自分の間合いで自分の呼吸で排出しているということである。
今までは、五線譜の音符の上に文字を置いて、それをなぞった歌い方をしていたところはあった。
だが、少なくともこの曲から3曲に関しては、自分の歌い方をある程度確立したと言えよう(またこれから変遷があるかもしれないが)。


「束の間の二日間」もまた、特筆すべき素晴らしい演奏であった。
この曲の世界そのものについては、以前から褒めすぎているので今回は掘り下げない。
この曲の歌い方も、普段よりも言葉の間合いを大切にした発語がなされていた。
ギターについても、最初は高音の響きのみを聴かせるような、まるで上品なアルペジオのような演奏がされていた。
だんだんと曲が進行するにつれて低音の重みを加えていったが、その移行のグラデーションが均一で仕上がりの高さが感じられ、嬉しい。
曲を終止させずに、メドレーで演奏された「タワーホテル」もまた圧巻であった。
普段は「ララーラーラララー、タワーホテルで待ってて」以外の部分は語りで、これはこれで歌詞世界がクリアに浮彫にされるメリットがある。
だが、この日はこの語りの部分までも伸ばしたり抑揚をつけたりする際に、音符が当てられて、最初から最後まで「熱唱」していた。
語り形式と比較して、言葉がやや流れやすくなる難点はあるが、言葉の力点は多少付けやすくなるメリットはある。


ここで、新曲の「レベル5」が演奏され、翌日(だったと思う)に早々にブログに全歌詞が上げられていた。
和音で言えばCの後にEが来るような展開で、新曲3曲の中では一番曲的には耳に馴染みやすい。
歌詞は全歌詞が上がっているところもあり、それぞれの読み手の判断に任せたいところだが、この曲はバランスがよく「この曲は今年来る気がする」と自画自賛していた。


逆に、ボツにするかどうか迷っている(ブログで撤回済み)と述べていたのが「旅に出なさい」であり、意外であった。
この曲は、今後の双葉双一の方向性を決定するような境地を持ちながら、持ち前の美意識を貫いているところが見られるからである。
今回、3番の歌詞がガラリと変わった。
正直、1番と2番の完成度の高さに比較して、3番は修正の余地は多いと思っていた(「世界三大祭」の文言は素晴らしいが)。
「目ざといホームレス」が「募金箱」に替えられ、善意が目の前の対象から目に見えないところにいる対象に切り替わったのは本当によかった。
前にも触れたが、デグジュペリの「大切なものは目には見えない」的な精神が、この歌のテーマであるように感じられるからである。
目に付きやすい美ではなく、内面から染み出てくる真実の美しさ、これらを大切にする精神が「旅に出なさい」には感じられる。
新曲3曲の中では一番個人的には好きであり、知久寿焼の賛辞も終演後この曲に向けられていたのもよく理解できる。
「何か違いますね」「曲はいいんだけどなあ」とは呟いていたが、この3番で歌詞的には完結したと言えるであろう。
「飽きてきた」と演奏中呟いたのも、実は理由が考えられる。
この「旅に出なさい」には、」さびのメロディがないのである。
「旅に出る」ということがテーマなのであれば、本当は4番をばらして、歌って気持ちのよいリフレインを1番から3番の後ろの部分に付ければ、「タワーホテル」や「レベル5」のような印象にはなる。
だが、4番の位置付けが「結論」的なものなのか、リフレインで背景に流れ続けるものなのかで、それを行ってよいかどうかは変わってくる。
よいメロディとリフレインに成功すればもう一工夫される可能性もあるかもしれないが、この曲はこのままでもよいのではないかとも感じる。


「ハッピーエンド」は、このレポがなかなか上がらない間に「カミングアウト」と改題された。
ここまでの3曲は、最新アルバムが出た後に作られ発表された曲で、創作意欲がまだまだ衰えないところは素晴らしい。
歌詞が本人のブログで公開されているので、あえて内容に付いては言及しないが、新作アルバムでは曲の置き位置に困る異質さがある(「ピクニック」もどうするのであろう)。
プロットのある文学的作品を並べるアルバムがあれば、よいアクセントになりそうな曲ではある。
なお、和音展開が似ているので、「ロングトーン、ロングロングトーン」と終わりのほうでは歌詞を当てて歌っていた。


「誰のためのお客さん さて君は?」で本編は終了するが、この後長いアンコールが待っていた。
なお、この曲のテーマは「招かざる客」ではないかという考え方があるが、最近それがなるほどと感じられる。


アンコール1曲目の「ウルスリ」には、他の双葉双一作品よりも「神の視点」が強く感じられる。
「神」と言うと語弊があるが、高みからの視点と言うか、感情を排した世界と言うか、神々しさが連ねられた言葉の中に含まれている。
舞台の上の双葉双一は、この曲に関しては壇上の宣教師か催眠術師のような存在として目に映る。
前奏や途中で出てくる印象的なギターのフレーズも、独立した背景としての役割を果たしている。
また、四分音符と十六分音符4つの連続ストロークが強調点で用いられる(youtubeの「インザナイトマイフェスティバル」と同じ方法)。
この曲も「異質」であったはずだが、「タワーホテル」や「インザナイトマイフェスティバル」以上に双葉双一的な世界なのであるのかもしれない。


ここで、観客として来場していた知久寿焼を舞台に引っ張り上げ、一曲歌ってもらうことになった。
「電車かもしれない」のリクエストが会場から上がり、双葉双一のギターとハーモニカまで借りて演奏する。
普段は親指にフィンガーピックをつけて演奏するが、この日は指で直に演奏していた。
多少引っ掛け気味での演奏を行っていたが、一般人だとフィンガーピックをつけているものを外すと、スカッと空振りをしてしまうものだがさすがプロであった。
原マスミもそうだが、やはり共演者がいると「ありがたみ」がつくづく実感されると感じた。
正直、「毎度おなじみ」のセットリストのソロライブは、「またこの曲か」という思いがないでもない。
だが、共演者の力量に関わらず、比べる対象がいると純粋に上手だと感じるし、歌詞も声も心地よく思える。
この日ライブが入っていなかったので、観客として来場するとは予想していたが、一曲聴けるとは思っていなかった。


双葉双一がすっかり出来上がっている沢田ナオヤ(「頭のおかしい人」と紹介)を呼び出し、今からナオヤ君が「ラブドッキュン」をやります、と紹介するが、もちろんそんなはずはない(ちなみに、相対性理論は「LOVEずっきゅん」である)
「一曲やりたい曲があった」とのことで、曲名も告げずにギターのストロークを始める。
途中で、さすがに「オーシャンデリゼ」であることが分かる。
これは、本当によかった。
一人一人の人間にそれぞれ何か才能があるとしたら、沢田ナオヤの一番の才能は「他人を幸福にする」才能であろう。
繊細な言葉と特徴のあるよい声、職人のように地道なギター、そして空回りするMCと、一見バラバラでつながりがなく見えるものが、「他人を幸福にする」という一点に沢田ナオヤの場合収束している。
原曲もよいのだが、沢田ナオヤが歌うと、心の中にあるウキウキ感と言うか溢れんばかりの思いが、聴き手の心の中にも注入されて、外の景色が違って見えるだけの力がある。
エンドレスでずっと聴いていたい気分にもなり、本当にこれはよかった。


曲後、双葉双一は「ナオヤ君、ギターの音がよかったよ」と、ギターの音だけを褒める(ちなみにそのとき弾いたのは双葉双一のギターである)。
再度双葉双一に担当が戻り、「走るのってすてき」で長い長いアンコールが本当に終了する。
昨年の「陰気な二人旅」ツアーでは、どこかの会場で知久寿焼とアンコールで共演されていたはずなので、一緒に歌うのもありだったかもしれない。
とは言え、やはりこの日の観客に過ぎなかったわけなので、あまりお願いしすぎるのも躊躇われたのであろう。


こうして、第2回目の「オレとナオヤのロングトーン」は終了した。
その日まで、レベルの高い演奏(鬼怒無月とか山田庵巳とか)ばかり聴いていたので物足りなく思うかと心配していたが、杞憂に終わった。
やはり、表現したいものと、そのための(借り物ではない)手段があれば、聴き手には伝わるものなのだと再認識した。
双葉双一の「美しい」ハーモニカの演奏も聴きたかったところだが、おおむね満足の新春ステージであった。


この日は祝日で22:30を過ぎ、中央線は各駅停車だけとなる。
急いで帰路に着くが、それでも終電ギリギリの時間で家に到着した。
だが、充実したステージが堪能でき、祝日のガラガラの終電車の中でも「電車かもしれない」や「オーシャンデリゼ」の余韻が鳴り響いていた。


柳原陽一郎ほとんど全曲マンスリーライブ「インディーズ~犬の約束」の頃/下北沢440


柳原陽一郎 20th Anniversary Live ほとんど全曲マンスリーライブ「インディーズ~犬の約束」の頃/下北沢440(10/01/09)


鬼怒無月(g)、水谷浩章(b)、外山明(d)


1.牛小屋
2.満月ブギ
3.パラシュート
4.さよなら人類~マンモウ開拓団
5.ぼくはヘリコプター
6.とこやはどこや
7.ジャバラの夜
8.どんぶらこ


9.自転車
10.れいこおばさんの空中遊泳
11.夜のどん帳
12.オリオンビールの唄
13.お経
14.マリンバ
15.オゾンのダンス
16.満月小唄


17.たかえさん
18.ばいばいばく


最終回の1年前ぐらいの「師走のレイトショー」で、柳原陽一郎全曲ライブの話が初めて出たように記憶している。
そのときは「師走のレイトショー」があったので、夕方から夜明けまでぶち抜きライブをすれば可能なのではないかと、歌い手のことを考えずに勝手に予想していた。
だが、その後も着々と新曲が生み出され、「師走のレイトショー」もなくなってしまい、柳原陽一郎「全曲ライブ」は難しいであろうと思われた。
それが、昨年の440のステージで、音源化された曲をほぼ全曲演奏する旨の告知がなされた。
「この440で本当に観客が入りきるのか、果たしてチケットは取れるのか」と、本気で心配になった。
幸いにして、チケット発売日に仕事が入っていなかったため、無事チケットは購入できた。
だが、この初日のチケットは発売当日にすぐ売り切れ、二日目のチケットも数日で前売り完売となった。
当日券が出るのかどうかも危惧された催しではあったが、立見ではあるが並んでいた全員が当日券で入場できたようであった。
レア曲が確定している第2回も、迷っていれば当日券待ちで並ぶ価値はあると思われる。


当初心配していたのが、鬼怒無月と水谷浩章と、二人の巨匠がバックに入ってどちらの方向に行くのだろうか、という点である。
ディスクユニオンのプログレ館に行くとズラリとアルバムが並ぶ鬼怒無月と、国内外で活躍し音大で教鞭まで取っている水谷浩章。
この二人が自在に演奏したら、船が山に登るか、はたまた宇宙へ上るか予想も付かなかったが、結果としてそれは杞憂に終わった。
演奏的には、鬼怒無月のギターが前面に出て、水谷浩章は音楽の土台を支えることに徹していた。
「ふたたび」の曲目こそ、編曲は水谷浩章主体の音楽ではあったが、自らのベースが輪郭線の外側にまで突き出ることはなかった。
鬼怒無月のギターは、「満月ブギ」はWarehouseのアルバム版に近いが、アコースティックステージではたまの原曲に近い演奏で、その分感動は大きかった。
5ヶ月間で多くの曲目をこなすこの企画には、やはり技術と即興性に長けたバックが必要で、この人選になったのであろう。
なお、外山明は相変わらずの調子で、即興性の高い演奏を貫いていた。


さて、第1部であるが、最初の曲からバックが全員出てきた。
いつもより、幾分か気合の入ったスタートであった。
だが、案の定「気合」とは正反対の曲からスタートする。
「牛小屋」は、「こういう仕事をするきっかけになった曲」とのことである。
ボーカルマイクも、バックの音量もそこそこ抑えめな音響であった。
個人的にはそのぐらいの音量の方が好みなのだが、440の最大の問題点は、下から(241から)ドラムの爆音が床下に上がってくるところである。
下手をすると、静かなバラードでも下からドコドコと地響きが湧いてくることがある。
床に防音の板一枚ぐらい敷けないものかとは思うが、稼動中のライブハウスではそれも難しいかもしれない。


もう一曲続けて、「満月ブギ」が演奏される。
アレンジはWarehouseとの共演バージョンに近い。
「緩」→「急」→「緩」と展開していく構成だが、アルバム「でんご」に入っているバージョンは、「急」の部分で派手に盛り上がっている。
だが、この日は「緩」「急」「緩」の「急」で弾けずに、ムード歌謡的な華やぎだけを示した。
なかなかよい仕上がりで、柳原陽一郎のもともと作りたかった世界も、もしかしたらこの音楽に近かったのかもしれないと感じた。
なお、高円寺「ボン」という喫茶店が当時の作詞の場で、「夜のどん帳」「キララは~」「ビーズの響き」などと同様、この曲もこの喫茶店で生まれたとのことである。
詳細は、いずれ出版されるであろう「全曲ライナーノーツ」に記されることであろうと予想される。


そのころ、宮沢賢治の影響を受け、星や月の歌ばかり作り、歌っていたとのことである。
その頃を、「星・月時代」と銘打ち、再度2曲連続で演奏される。


まずは、「パラシュート」で、第2回でないのかと不思議に思ったが、未収録で完成していたのか、第2回の曲が多いのか、この日の披露となった。
phonoliteとの共演で結構高品質の演奏を聴いてしまってはいたが、この編成はこの編成でよかった。

「さよなら人類」は、「星・月時代」の集大成の曲とのことである。
「ついたー(「twitter」ではない)」こそなかったが、驚くべき「間奏」が待っていた。
おそらく、この日一番のサプライズであったであろう。
「レミファ、レミファ、レミファドシー」という、「白い恋人たち」に近い部分のある旋律でありながら、全くそれを感じさせない音の動きが、まず鬼怒無月のギターによって奏でられる。
「我らはマンモウ開拓団」と歌う部分のスネアの響きが、何とも勇ましく力強い。
おそらく、この曲をほぼフルコーラスで歌うのはソロになって初めてであるはずで、豪華なバックのせいか歌詞までが壮大であるかのような錯覚に陥る。
奇妙な盛り上がりを見せたまま、何とか「さよなら人類」に戻り、「サル~」の部分に辿り着く。
最後は、「ラララララー」のコーラスを聴衆に要求し(この日は結構これが多かった)、壮大な曲になってしまったこの日のこの曲の演奏を終えた。
なお、「マンモウ開拓団」は、アマチュア時代、ファンクラブの人のために作ったカセットに収録したものとのこと。
また、「さよなら人類」で「レコード大賞ロック新人賞」を受賞したときのトロフィは、未だになかなか捨てられない、とのことであった。
せっかく貰ったトロフィを捨てるのももったいない話だが、当時のレコード大賞には「ロック」と「歌謡曲」という概念しかなかったことがこの逸話の要であろう。


そして、「この曲はなかったことにしたい」という曲が続く。
必然的に、そうした曲は演奏機会が少ないので、観客は大喜びの曲になってしまうのだが。
「ぼくはヘリコプター」は、前回のライブのときに、ここに該当する曲であることは既に告げていた。
確か、事務所の独立問題で、早くここから飛んでいきたいという想いだけで出来上がった曲とのコメントがそのときにあった。
だが、この日の演奏はさすがにバックの力量があり、軽やかにギターやリズムが入ってくる。
「ぼくはヘリコプター」と歌うのに合わせ、バックのかけあいが入る。
このような曲は、やはり声が被ってくる方がよい。
「とこやはどこや」もまた、似たような色調であるが、エピソードが面白かった。
詩人的な要素の強いミュージシャンである友部正人が、「やなちゃんのいい曲は『とこやはどこや』しかないね」と述べたとのことである。
そのお気に入り具合が嘘ではなかったことがすぐに証明され、詩か何かを特集した友部正人の本が出版されたときに、「今日本で一番よい詩を書くのはたまである」などということで「とこやはどこや」が採り上げられたらしい。
他にも自信作はあるはずなのに、なぜ「とこやはどこや」なのか、という疑問は当然生じるはずだが、実は友部正人のその想いは分からないでもない。
ミュージシャンという人種は多かれ少なかれ、「職人」という響きに対する敬意と羨望を持っているはずである。
自身の職業にも「職人」というラベルは存在するし、違う業種であっても社会の雑事とは一線を画し、一つの道を究めるということに対し、大いなる共感があることであろう。
「とこやで老後を送りたい」という歌詞の中には、この生涯を「職人」として貫き、国家の保護からも子孫の保護からも自由で、誇り高き自適の生活を志向していることが読み取れる。
友部正人は原マスミとの対談で(ムギマル2のチラシ)、「自分から音楽を取ったら何も残らない」といったニュアンスのことを述べていたようだが、これは職人意識の裏返しとも読めなくもない。
この日の演奏は、やはり前曲同様にかけあいのコーラスが入る。
「なかったことにしたい」曲にしては、盛り上がりを見せた。


「ジャバラの夜」は、「一人でやっても受けなかったけれど、バンドでやると受けがよかった」とのことで、バンド活動を行う契機となった曲である(「たまのための曲」という言い方をしていた)。
できればアコーディオンで演奏してほしかったところだが、この日はギターでの演奏であった。
「ジャバラジャバラバ、ジャバラババー」のコーラスは、いつものように観客に要求する。
思えば、この440の会場、この「ジャバラの夜」が、こうした「観客参加型」の演奏のきっかけだった気がする。
観客の手拍子もなく、合いの手もない、そんないつものライブと異なり、「ジャバラ復活」と銘打った440のライブで「カモーン」が入った(もう一曲ぐらい「カモーン」が入った気もするが)。
メジャーになってからは「ふたたび」まで復活しなかった曲ではあるが、おおらかで牧歌的な雰囲気が素晴らしく、都会の喧騒などを忘れさせてくれる力がある。
この曲あたりは水谷浩章がよく共演していた頃に演奏されたので、その頃と同じベースラインが鳴っていた。
あと、間奏部分で「夢で逢いましょう」が入っていた。
個人的には、「ねこばば」バージョンがこの曲の真意を一番よく伝えていると思うが、どのバージョンでも共通の「別世界感」は伝わってくる。


第1部最後は、「どんぶらこ」で締まる。
「ふたたび」の中で、一番編曲的に優れていたのはこの曲だと思う。
師走のレイトショーで明け方近くに聴いていた頃には眠気を誘ったが、phonoliteがバックのときは歌詞と無関係に盛り上がり、最後にストンと元の体温に戻すところが圧巻であった。
管楽器や擦弦楽器があった方がクレッシェンドの効果は出しやすいが、この曲の生命線の例のベースの動きは健在で、間奏のベースソロも含め、よい雰囲気であった。
記憶は定かでないが、この日のメモを読み返すと「20歳 原曲」と記載があり、たま結成前時代の曲であるらしい。
その頃、柳原陽一郎は高円寺の居間でマイケルジャクソンの「スリラー」のビデオを観て、「違う方向にしかいけない自分が嬉しい」と感じていたという。


第1部は、数年前のアレンジやステージを思い起こさせる演奏が多く、その頃一番通い詰めた自分にとっては懐かしかった。
正直なところ、水谷浩章との共演前は、誕生日とレイトショー以外はあまり観に行っていなかったのだが、勢いから音楽的な洗練にシフトしてきたこの頃からはほとんどのライブに足を運ぶようになった。
コーラスだけは女声か高音の男声が入ると嬉しかったが、まずは満足と言えよう(「マンモウ開拓団」も聴けたし)。


第2部であるが、1曲だけキーボード一本での演奏曲があった。
「自転車」がそれで、「この曲だけは、さすがにバックをお願いできなかった」とのことであった。
何でも、93年頃大スランプに陥り、詩が書けなくなってしまった頃の作品らしい。
曲だけは先にできていたが詩ができず、ウォークマンを聴きながらブツブツ言っていたら、周りの人が少なくなっていたという思い出もあるようだ。
だが、はたして「自転車」は「そんな」曲であろうか。
第一線の名曲とは言えないにしても、十分に場を和ませる力を持った、愛すべき曲とまでは言えよう。
晴れた春の昼下がり、一人ペダルを踏みながら「森へ行こうよ今夜、自転車に乗って~」と、思わず口ずさんだ経験のあるファンは決して少なくないはずである。
この曲を、本人がここまで「なかったことにしたい」曲と考えているとは、夢にも思わなかった。
思うに、曲の好き嫌いは純粋に曲自体の良し悪しのみによるのではなく、その曲に密接に結びつく当時の記憶という要素が大きかったのではないだろうか。
「僕はヘリコプター」「自転車」「寒い星」などは、たまの黎明期ではなく、本当に創り出したかった作品を一通り生み出した後に、頑張って曲をひねり出した時期に当たるはずである。
バンドが一番楽しかった時期を過ぎ、アウトプットだけでインプットのない疲労と空虚さが、その当時の内面であったと予想される。
この日の演奏も「仕方なく歌っているんだ」感は出していたが、軽快な前奏と後奏、「A→B→C→A」のそれぞれ聴きやすくまとまった部分の構成と展開などは、埋れさせてしまうにはあまりに惜しい。
これに鬼怒無月の生ギターの高音が被ったら、さらによかったであろうと予想される。
曲に結びついた記憶から独立して、曲自体を客観視できるようになったとき、おそらく「自転車」も再演されるのではないだろうか。


次の「れいこおばさんの空中遊泳」からは、先ほどのバック3人が再登場する。
ここからしばらく、鬼怒無月のギターがアコースティックに替わり、編曲もたま時代のないように近くなる。
「れいこおばさんの空中遊泳」「夜のどん帳」と2曲連続で演奏されるが、オールドたまファンはこのあたりが一番満足した時間だったのではないだろうか。
「れいこおばさんの空中遊泳」は相当久しぶりの演奏だったはずで、最近聴いた記憶がない。
なお、この曲は「屈斜路湖の水でも飲めばいい」などの歌詞の意味について、初めて雑誌で取材を受けた曲らしい。
「夜のどん帳」も、以前下北沢440での第1回リクエストライブの最期の曲で聴いたが、やはり前奏や間奏に旋律楽器が入り、あの裏メロディが歌声の背景としてギターで奏でられると、感動は大きい。
個人的には、この日一番素晴らしいと感じたのは「夜のどん帳」であった。
なお、「夜のどん帳」はフォーブスを意識して例の喫茶店「ボン」で作ったが、シングル発表するときに「リヤカーマン」にA面を持っていかれた思い出があるようだ。


ここで、人気の高い曲として「オリオンビールの唄」が演奏される。
編曲は「ふたたび」の水谷浩章の、例の「微妙な」和音が支配する。
だが、鬼怒無月のアコースティックギターが、知久寿焼のマンドリンの音域と音色とを再現しており、曇りガラスを通したような「ふたたび」バージョンよりも透明感のある澄んだ夜の空気を感じさせた。
「ララーラーラ」の部分は、やはり、聴衆のコーラスを要求していた。
ちなみに、「ふたたび」のライナーノーツによると、この曲は高校時代に原曲ができていて、音楽の時間に水谷浩章とお互いの作品の批評をし合い、当時の水谷浩章からも高評価を受けていたようである。
だが、その頃のタイトルが「6人のママと8人のパパ」だということは、この日の演奏まで知らなかった。
関係ないが、『おとうさんがいっぱい(三田村信行著)』や『ママが六人?(大海赫著)』あたりの作品が思い出されてしまう。
「ドン、ウォーリー、ママ、ベイビー」あたりに原題の名残があると言えようか。


ここで「珍曲3曲」と紹介され、期待で胸が高まる。
まずは、「お経」から始まり、いかにも男性ファン受けしそうな特徴のある前奏から始まる。
ブルースともジャズとも付かないが、純正とは程遠い和音2つの組み合わせが、2フレットずつ下降していく。
やはり、この曲はベースがあるとよく締まり、この日の演奏は聴き応えがあった。
鬼怒無月がギターの弦をスクラッチして音を出していたのは、確かこの曲だったと思う。
大変満足いく演奏ではあるのだが、「ねこばば」バージョンの「お経」も一度、聴いてみたいところではある。
特に、「10トンのお豆降ってくる」「も一度歌おう(踊ろう?)じゃないかいな、影絵の街を見ようじゃない」あたりのカットされた部分の語感や映像に、無性にひきつけられることがよくある。
「あなたの鎖骨が恋しくて」と即興で少し歌った後、「マリンバ」が歌われる。
高良久美子が入ったときも、加藤一誠が入ったときも、この曲の演奏はレベルが高かったが、この日もさすがの演奏であった。
ただ一点、曲の終わりのほうで弾いてもいないピアノの音が鳴り出して明らかに聴こえたのは、確かこの曲だったと思う(「珍曲3曲」はどれも、ギターマン柳原陽一郎として演奏されていた)。
「君の骨でマリンバ」という「君」が鳴らした、怪奇の現象であったのだろうか。
「オゾンのダンス」は、初期のもう一つの代表曲である。
比較的忠実に、ギターソロが再現される。
「見えたよあの子の」の後は誰が担当するのだと思っていたら、この日比較的土台を支えるのに徹していた水谷浩章が低めの声で呟いた。
ギターばかりが前面に出たこの日の演奏で、唯一目立ったところだったかもしれない。


第2部最後は、「満月小唄」が案の定その位置に置かれた。
師走のレイトショーで長年最後の曲だったので、やはりこの位置に相応しい。
大変な熱演であったが、最後の盛り上がりは、やはり多くの声が被ってほしかった。
谷山浩子と石井AQの声が被ったときに演奏は決して負けていないのだが、「マーマーマー」の部分は水谷浩章だけが辛うじて声を重ね、他の二人は全力で別世界に入るような演奏に専念していた。
まあ、ともあれ、贅沢ばかり言っていてはきりがないわけで、充実したステージに満足の拍手を送りながら、「さて演奏されていない曲は」と頭の中では記憶をグルグル匙でかき回す時間がしばしあった。


アンコールになり、もう一度3人のバックも登場する。
とりあえず思い出せた「たかえさん」は、「ふたたび」のサンババージョンで演奏された。
サンバでないバージョンは、久しく演奏されていない。
水谷浩章+高良久美子+名越ゆきおの、自分の中では最高の組み合わせのときに、この440で演奏されたのが最後だったと思う。
今回の全曲マンスリーではどちらで演奏されるべきか難しいところだが(オールドファンにはノーマルバージョンの方が支持率が高いだろう)、アンコールを「ジャバラの夜」にしなかったところで、このバージョンでの演奏がおそらく決まっていたと考えるべきだったのだろう。
昔、師走のレイトショーで、「kuukuuで初演され、そのときは5番まであった」と知って驚いたのだが、5番までバージョンもいずれ聴きたいものである。
この日の演奏は、また例によって「ラーラーラーラー」が観客全員でコーラスされる(この日何曲目であろうか)。


ここで、興味深いエピソードが語られる。
昔、初期のたまは誰もしゃべらないで淡々と演奏をしていたらしい。
だが、九州の佐賀で演奏をしたときに、「どこの施設の子?」と尋ねられて、「やっぱりしゃべらなくてはいけない」とMCを入れるようになったとのことである。
「そういう柄でない」と自分で認めつつも、そのために自らスポークスマン的役割を買って出たのである。


キーボードに一人座り、もう一曲アンコールがあることを示すが、すぐには思い出せなかった。
曲が始まり、「ばいばいばく」が演奏され、この日のステージは終了となる。
スタンプを毎回押して貯めるヤナマイル(マイレイジのライブ版)の特典は、現在検討中とのことである。
ヨネスケみたいに自宅におしかけて、晩ご飯を食べに行くというのはどうかという発案もあった。


第2部からは、鬼怒無月のギターがアコースティックになったこともあり(終わりのほうはまた戻ったが)、多くの観客の満足度は高かったと思われる。
水谷浩章編の「ふたたび」は、古いファンには評価が分かれるところである(個人的には好きだが)。
だが、「れいこおばさんの空中遊泳」や「夜のどん帳」などのあたりをピークとした「当時の編曲」の演奏は、誰にも文句を言わせない感動があり、このあたりを聴けただけでも十二分に元は取れたライブだったのではないだろうか。
この日柳原陽一郎は、比較的崩して歌うところがあった。
だが、バックに自由な人が多かったので、普通に歌うだけでも十分新鮮な効果は聴かせられたのではないかとも思う。
水谷浩章は、この自由な演奏の中で責任を持って「崩さずに」屋台骨を支え続けた感がある。
次回は、それぞれに自由な部分を割り振って、思う存分水谷浩章アドリブソロを聴ける環境が生まれると嬉しいと思う。


ともあれ、第2回は95年以降の作品で、「ドライブスルーアメリカ」は丸々一枚演奏される。
「とんかち」「寒い星」などは楽しみだが、バックが真価を発揮できる曲は、おそらくこの一枚であろう。
次回も期待したい。

原マスミ2009年最後の弾き語り/南青山マンダラ(09/12/31)


1.夜の幸
2.ピアノ
3.仕度
4.人間の秘密
5.血と皿
6.羽衣
7.カタログ
8.僕の錬金時間
9.ウイミン
10.オヤスミ
11.カメラ


12.ブレーメン
13.イナフ
14.夜明けの歌
15.海のふた
16.蛍の光
17.教室


18.さよなら


19.冬の星座


この2日前の山田庵巳を聴いて、結構満足してしまったが、年中行事というか儀式みたいなものであるので今年も(これを書いたのは年明けだが)外苑前に足を運ぶ。
ライヴ前や時間によっては終演後、何度も憩いの時を贈ってくれた交差点のハーゲンダッツの店は、いつの間にか別な雑貨屋が入っていた。
アイスクリームの種類もメニューも他の店舗よりも充実していて、よい店であったが残念である。
風がとても冷たく強く、ビルの垂れ幕がバタバタと力強い音を立てていた日中であった。


さて、この日はあまり列も長くなく、比較的よい席に座れる。
ライヴが極度に少なかった頃は当日券で入っただけでほぼ満席状態だったこともあったが、今年の後半は月に何本かライヴが分散されたので、極端な満席ではなかった。
舞台の上には、ウクレレと久しぶりのベース、エフェクターも置かれていて「カメラ」の演奏が確定する。
青いgodinは留守中で、きっと楽屋でレア曲の練習をしているのであろうと、前向きな予想をしていた。
昔はよく来たので当時はありがたみをあまり感じていなかったが、やはり南青山マンダラの雰囲気はよい。
ディナーショーで毎年使うTOMOVSKYもライブ日記で以前書いていたが、あの制服の存在、あれはなかなか大きい。
そのあたりが、S.P.C.との大きな印象の違いになっているところはある。


1部の衣装は、白い襟付きシャツの左の襟から前に細い布が前方に伸びているものであった(言葉では説明しづらい、前に見たことがある気がする服)。
なかなかお洒落で、よい衣装であった、
ギターを持ってきて登場し、「夜の幸」でスタートする。
新旧どちらにも転ぶ可能性のある1曲目であるが、次の「ピアノ」で第1部の方向性がかなり明確になる。
神楽坂での友部正人との共演で、「ピアノ」を演奏したこともおそらく遠因にはなっていると思われる。
ファーストアルバムで「ピアノ」と「心配」はたまに演奏するが、その2曲を何も知らずに友部正人が選んできたことについて、おそらく驚いたのであろう、言及していた。
「ピアノ」は、「星が動いて、土製の輪っかが回りだすと」で始まる歌詞で、全体が美しく統一されている。
一般的に、どんな歌にも「この部分だけはどうも」という引っかかる表現があるものだが、この「ピアノ」に関してはそうした表現が全くない。
「電気を発明した人と、僕と君が同じこの星に生まれてきたことに、ありがとうをしてから、眠る」という一節なども、聴くたびに新鮮である。
日常で当たり前のように普段考えていることが、実は奇跡のように素晴らしい感謝をすべきことであるかもしれないという、そういった視点を持たせてくれることに、また逆に感謝したくなる想いがある。
今のところ、バンドでは演奏せず、弾き語りのみの曲であるので、こうして年末に演奏を聴けると一年がよい終わりに感じられる。


この日一番のレア曲は、次の「仕度」で、これだけでも足を運んだ甲斐があった。
「仕度」は、近年では稲生座の2daysの初日(自分が行かなかった方)と教室ライブの昼の部で2回ほど(片方は聴けた)、本人のヴォーカルで演奏されている。
他にも演奏したことがあったのかもしれないが、多くは自分が歌唱に回らずギターに徹する3人編成のときに演奏され、それは目黒美術館で一度聴いている
だが、やはり本人のヴォーカルが、この閉塞的で「縁起の悪い」世界に一番調和しており、素晴らしく感じる。
伴奏としてこの曲を演奏することが多く、客観的に曲を聴けるようになったことがこの日の演奏に繋がったようである。
18歳で上京し、20歳ぐらいでこしらえた歌らしい(とは言え、内房線で3時間ちょっとで上京できる距離であったとは思うが)。
瑞々しい感性で、おそらく感じたであろう孤独感や社会に対する閉塞感(陳腐な表現視点で申し訳ないが)、そうしたものを結晶化させたのが「仕度」である。
一般的には、このくらいの年齢でそうした世界を言葉にしようとすると、創り手の感情というフィルターを通しがちになるので、「虚しい」「寂しい」などという心情後が多用されがちになるもである。
ところが、「仕度」はそうした点ではドライであり、感性だけは繊細なまま、あくまでも一歩引いたところから淡々と描写している。
「潜水病にうなされた街」「街のほうが僕を出て行けないから、僕のほうが街を出て行くんだよ」と、自分自身の内面を伏せたまま、寒色だけで描かれた暗い映像を描き出す。
「歌を作ることと絵を描くことが違うことだと思っていたけれど、実は同じだった」といった内容のことを、目黒美術館の企画かどこかで発言していたが、「仕度」を聴くと歌詞を描く前にしっかりとした絵画の構図が完成されていることが分かる。
この日の演奏であるが、ギターはさすがに弾きなれているだけあって、レア曲とは思えない安定度ではある。
普段は別な楽器がもう一台入った演奏だが、ギター一本で十分「仕度」の世界は完成していた。
2月の知久寿焼との共演、そして今後のソロライブでの積極的な演奏を期待したい。


「人間の秘密」「血と皿」と、未音源化の定番曲が続く。
実はこの日の出発前、公式ホームページで初期のセットリストを見ながら、「この頃のセットリストのライブを観てみたい」と想っていたところであった。
だが、この日の第1部のセットリストはその頃のものに近く、楽しむことができた。
この2曲についてはいつも書いているので語りつくした感はあるが、一年の終わりに「血と皿」を聴くと現実の煩悩がどこかもっと危ないところに持っていかれるようで、よい。
「羽衣」も、久しぶりに聴いた気がする。
この曲は他人に書いたもののセルフカバーだが、個人的にはギターの伴奏が好きである。
2弦の5フレのミと1弦開放弦のミと、伴奏の中でぶつかり共鳴しあうところが印象的である(クラシックギターのカンパネラ奏法のようなもの)。
歌詞の真の意図は、まだよく分からない。
「チョゴリ」「ボンベイ(現在の「ムンバイ」、ホテル爆発事件があった都市)」など、多国籍的なキーワードが散りばめられている。
「歯医者のない街へ」で終わるところも、謎である。
実は「敗者のない街」のことで、強者も弱者もいない自由な場所で、子どもを産み新しい生活を始めていこうという決意の歌なのだろうか、とも考えてみたこともある。
「カタログ」~「僕の錬金時間(ゴールデンタイム)」は、昔kuukuuでクリスマスライブがあったときの定番であった。
各席の一人一人に小さな蝋燭が灯され、この前に「ホワイトクリスマス」付きでメドレーが演奏されるのが、とてもよい雰囲気であった。
その蝋燭は、「空」で「いつか返す日が来る」と歌われている間に次々に消えていき、蝋燭のように自分たちが儚い命を持ち、それがこの瞬間に揃って灯されている、ということの象徴かのように思わされたものだった。
前売りを取るのが本当に大変なライブであったが、当時は自分にとって一番の「儀式」であり、この「儀式」はずっと続くものだと考えていた。
kuukuuの閉店は、個人的には「たまの解散」よりもショックな出来事であった。
「僕の錬金時間」は、実際にはアルバム「夢の四倍」の中の最後から2番目の曲だが、昔FMラジオでこのアルバムが紹介されたときにこの曲で終わり、それが一つの物語の最後の頁としてとても自然だったので、終曲のイメージが強い。
「僕のゴールデンタイムに花を、花を飾ろう」という言葉は、聴く人間にとっての一人称として捉えられ、生活に彩りを持たせる心を取り戻させてくれる。


ウクレレに手をかけ、「今日はどちらであろう」と考えていたら、「ウイミン」であった。
ちなみに、前回のマンダラで「悲しいのはいやだ」と間奏が同じだと発言していたので、この日に「悲しいのはいやだ」を演奏しないことも確定する。
一度弾きかけて、テンポを変えたのは、もう一方の曲を演奏しようとしていたのかもしれない。
そして、お待ちかねのベースステージとなる。
いつもと同じように、ベートーベンの第9で有名な「喜びの歌」のソロが12小節ほど(数えてはいないが)入って、「オヤスミ」の前奏に移る。
「喜びの歌」が入るのはこの時期に相応しいとも言えるし、「オヤスミ」の救いのない歌詞を考えるとシニカルであるとも思えるが、ともあれベースソロの弾き語りとして後代のモデルになりうべき演奏である。
不幸に会う者、報われない者、そういった者に視線は向けられた歌ではある。
だが、傍観者にすらなれない立場から対象を瞰視し、無言の同情の光を当てているように思える。
「カメラ」は、エフェクターを使い、いつもの一人多重演奏である。
若き日のベース弾き語り時代から、この奏法を行っていたのかは分からない。
だが、CDバージョンのエスニックなドラムアレンジの印象を損ねることなく、ベース一つでこの多層な音の広がりを表現している。
決して楽な演奏ではないが(また、荷物も増えて大変らしいが)、この曲も定期的に演奏してほしい曲である。


第1部は、「仕度」以外は決して演奏しない曲ではないが、総じて初期の幻想感の高い献立で、価値の高い時間であった。
過去を切り捨て、「成長」「変化」を強調するミュージシャンも少なくない中、原点を残したまま奥行きと広がりを常に与えてくれるスタイルは、昔のファンにも最近のファンにも嬉しい。


第2部になり、白いシャツを脱ぎ、黒い服での演奏になった。


第2部は、カバー曲1曲を抜かしては、完全な定番曲であり、演奏面での安定感はやはり第1部以上であった。
「ブレーメン」「イナフ」と、直近の曲2曲が続く。
1月に個展があり、絵を描いてばかりの生活らしい。
「イナフ」は、もしかしたら、そうした絵を描くこと中心の生活の中、「散らかったまま」の部屋でいることに対する自己許容のメッセージが自分自身に投げかけられていたのではないだろうか。


「夜明けの歌」は、古い歌謡曲のカバーだったと思われる。
いわゆる「アイドル歌手」という記号が発生する以前の歌謡曲を、よく原マスミはカバーする。
「アイドル歌手」という記号が発生した後、歌は作り手の世界を離れて、クライエントの需要に応えるものになっていったが、それ以前の歌には創り手の烙印が確かに刻み込まれていた。
個人的には、原マスミ自らの烙印が刻み込まれた歌の方を愛するが、純粋に歌い手としての原マスミに照明を当てるとき、カバー曲の演奏はよりその輪郭を明確にしてくれる。


「海のふた」の演奏は、もう完成品である。
おそらく、どこかの企画で1曲だけ演奏することになれば、この「海のふた」を演奏するであろう。
讀賣新聞で『海のふた』が連載されたとき、この曲のCD化も近いと思われていた。
だが、ライブ演奏以外でこの曲は音源化されていない。
「君のいないこの世界」というテーマは、他の曲にも何曲か読み取ることはできるが、「夢なら簡単」はより喪失感の近くに座標し、「光の日にち」はより離れた追憶の心情が強い。
だが、「海のふた」は「君」に対する強い想いを持ちつつ、追憶の映像をリアルにフラッシュバックさせている点で、大河的な壮大な世界になっている。
音楽的な展開も、長い間奏部が効果的で、バンドバージョンもソロバージョンも、同じ読後感が味わえる一編である。
音源化が待たれる(できれば、バンドバージョンと弾き語りバージョンと両方収録希望)作品である。


「蛍の光」で、いよいよ年の暮れる瞬間が迫っていく。
以前は、この曲でライブを終えることも多かったが、最近は年末中心の演奏なので、年の終わり感がより強まっている。
「今夜、この夜に、君といる喜び」を感じ、定番のラスト曲「教室」に移る。
神楽坂では省かれてしまった間奏が、この日は少し聴けた。
だが、本当はもっと長い間奏だった気がしたが、まあライブは生ものであるので、聴くごとに異なる表情を見せているのであろう。
「ロッケンロール」の声で、一旦終了。


原マスミライブは、2回ぐらいまではアンコールがデフォルトなので(Jungle Smileのようにアンコールをしないユニットもあったようだが)、当然のようにアンコールの拍手が鳴りあっという間に演奏に戻ってくる。
いつもであれば、「アイス!アイス!アイス!」あたりであるが、この日は「この時節的」な曲が、おそらく意識的に続く。
「さよなら」は、「あまり上手くできない」とのことで、新し目の曲の中ではさほど演奏されない曲である。
矢川澄子が亡くなったあたりから「ブレーメン」ができたくらいまでは、ライブのラストの方でよく演奏されたが、いつの間にか演奏機会が減っていった。
そうは言っても、ギターも歌も、何の問題もなく演奏が流れていく。
あえて言えば、kuukuuなどで演奏されたときのようにコーラスが入るとよいな、とは感じた。
「いつか老人の僕は思い出すだろう」の「いつか」、この言葉がもしかしたら重く感じられてこの歌の選択を躊躇わせたのかもしれない。
この日のこの曲の選択は、やはり友部正人との共演の際に「素晴らしいさよなら」を歌ったことが大きかったと思われる。
似た主題で、「さよなら」という言葉の意味をもう一度振り返ってみようと思われたのではないだろうか。


ここで、今後の予定の告知が入る。
1月はパスカルズ、2月は知久寿焼、3月は遠藤賢司との共演が控えているようである。
特に、2月の知久寿焼との共演は楽しみで、「座・高円寺2(ライブ中は「座・和民」と紹介するが、そんなはずはない)」のようである。
矢川澄子作品の紹介もあるようなので、もしかすると職人芸の朗読も披露されるかもしれない。
もちろん、バンドライブと個展も1月にあり、大忙しである。


再度のアンコールは、「冬の星座」で終了する。
内田ken太郎の歯切れよいベースの響きでいつも聴いているが、ソロもこの時季に聴くには相応しく、よい。
ここでこの日の催しはお開きになり、師走の最後の帰宅の徒に付いた。


帰りも、風は冷たかったが、先程ほどの強さは収まっていた。
帰宅後、温かい山菜蕎麦をこしらえて暖を取り、この日の余韻に浸りながら、よきライブを堪能できた一年に別れを告げた。



nagomix night shiwasumix 2009/DRESS AKIBA HALL(09/12/29)


日向さおり(live&MC)/エバラ健太/YOCCO/星野達朗と魔法の絵本たち(山田庵巳)/小林未郁/タカハシアキラ(FIREBALL ROBERTS)/


来年の2月のビストロサンジャックで、双葉双一と日比谷カタンと山田庵巳との共演がある。
双葉双一と日比谷カタンが出演するので間違いなく観に行く予定ではあったが、山田庵巳は知らなかったのでいろいろ調べてみた。
すると、ギターといい歌といい素晴らしく、2月のライブまで待てなかったので年内に一度聴いておこうと、急遽秋葉原のライブハウスに向かった。


この日の企画「nagomix night shiwasumix 2009」は、前売り1500円、当日1800円(他にドリンク500円)で、6組の出演者が30分ぐらい演奏するイベントであった。
格安であるので、当然そこまでのクオリティの高さを全員に求めていなかったし、場合によっては山田庵巳だけ聴いて帰っても構わないと考えていた。
ところが、この値段ではありえないクオリティの高い演奏が全出演者続き(聴いたのは2人目からだが)、驚かされっぱなしであった。
以下、山田庵巳以外の出演者について、ざっと概評を記す。


エバラ健太
「エイミー」「ピルグリム」「」「She is precious.」「なごり雨」
最初の日向さおりは行ったら終わっていたので、ここから聴いたが、大変得をした思いをした。
ギター一本の弾き語りであったが、自らずっとギター少年だったと話すように、安定して素晴らしい演奏と歌声を聴かせてくれた。
活動を本格化させたのは今年の夏であるが、アンジェラアキに曲を提供したり(「RAIN」)、前座で演奏したりと、立派にメジャーの予備軍である。
マネージャーもいて、来年には四国のFMで1ヶ月曲も流れるらしく、どこかでブレークしてもおかしくない雰囲気であった。
MCも清々しく、模範的で、逆にそれが物足りなくも感じたところではある。
個人的には、1曲目のバラード「エイミー」がよかった。
普段、近いタイプの音楽をさほど聴くわけでないが、あえて近いタイプを探すと「KENGO」あたりの印象に近い(仙台に活動を移したらしいが)。
3年ぐらい前に、津田沼と錦糸町でストリートで弾いているのをよく聴いたが、生活の中、帰宅途中で聴くとひと時の幸福に浸れる感がある。
iPodに入れて街のBGMとして聴きたい曲でなく、その場で演奏者の情熱なども含め感じながら聴くと、とても健全な精神を回復できる気がする。
「山田庵巳を聴きに来たが、この人も上手だな」と、そのときは思っていたが、その後も驚きが続くとは思わなかった。


YOCCO
「優しい光」「smile starter」「silent moon」「CALL」「ami」「赤いバッグ」 
kimottoというヴォーカルの女性と、野崎心平というギター弾きのユニット。
普通に、タワーカウントダウン辺りでランキングしていてもおかしくない、売れ線の曲調である。
エバラ健太の後でギターも大変だろう、と思っていたら、こちらも半端なく上手い。
一つ一つの音の出し方が丁寧なだけではなく表情があり、間奏などでのソロもブルースなど多彩な下地があるように感じた。
野崎心平のコーラスもYOCCOの大事な音楽的特色を彩っていて、「silent moon」のサビで魅せた難しい開きでの声のハモリが曲のクオリティを高めていた(声質もよかった)。
kimottoのヴォーカルはバランスがよく、それが長所にも弱点にもなっている。
ELTあたりに近い聴き心地が悪くない旋律ならば、もう少しバランスが悪くても突き抜けたタイプの声質の方が印象には残りやすく、別の差別化が必要になる。
ガールポップ全盛の時代で言えば、久宝留理子あたりの声質ぐらいか(もうよく記憶していないが)。
ただ、「ami」という11年飼っていたネコが亡くなって作った歌は、聴いていて心に染み入るものがあった。
2番の冒頭あたりだったと思うが、「君は私に合って幸せだったのかな」などと回想する部分などは、同じような思いをした聴き手には涙なしには聴けないところであろう。
本人も、他のどの曲よりも心を込めて、それこそ天国の「ami(ネコの名前)」に語りかけるかのように歌っていたので、作り物でないその思いがよく伝わってきた。
「みんなのうた」あたりで採り上げられたらきっと評判になるであろう曲だが、この曲だけは本当に心に残った。
やはり、エバラ健太同様にMCも模範的で、そこは(怒られてしまうが)物足りなかったところであるが、純粋に応援していきたいと感じさせるユニットであった。


山田庵巳は、この日の目当てなので、後で詳しく記す。


小林未郁
「記憶ノ海」「群花」「毒」「はんぶんこ」「中庭の獏」
キーボード一本で弾き語るスタイルで、暗いどん底の世界を力強く歌い上げる。
こう書くと倉橋ヨエコあたりに近く感じるかもしれないが、倉橋ヨエコほど歌詞の世界が自虐的ではない。
どちらかといえば(きちんと聴いたわけではないが)、鬼束ちひろの「~この腐敗した」的な暗さの方がやや近いと言えるであろうか。
「机が隣でごめんなさい」「電車に揺られてごめんなさい」といった倉橋ヨエコの自虐性は、自分の存在自体を飛んでしまうような軽い存在と見なしているところが感じられる。
それに対し、本人が「代表曲」と紹介した「毒」は、「毒を少しずつ飲ませて、自分が一生面倒を見てあげる」といったような歌詞であったと思う(一度聴いただけなので記憶違いかもしれないが)。
自省の視点ではなく、もう少し他者との関わりの中で世界を構築しているように感じられた。
ただ、MCは非常によかった。
見た目の可愛らしさと対照的に、マイケルジャクソンや選挙、芸能界薬物事件などの今年の出来事に対し、シニカルに批評していたのが興味深かった。
演奏技術はなくはないが、それを最前線に出すタイプではなかった。
精力的にライブをこなし、アルバムも多く出しているようで、もしかすると知名度的にはかなり高かったのかもしれない。


タカハシアキラ(FIREBALL ROBERTS)
「 」「 」「ダメな男の歌」「 」「 」
タカハシアキラで参加するはずのようだったが、バンドのメンバー2人を追加し、FIREBALL ROBERTS(1人足りないので3/4バージョン)での演奏となった。
秋葉原dress自体、ユニットは可だがバンド不可の会場であったため、ドラムの代わりに四角い木の椅子の前面を叩く打楽器(名称を知らないがたまにストリートで見かける)とベースも極力音量を絞ったものだった。
本当に急遽バンド編成になったのかもしれないと思わせる服装で、タカハシアキラは凝った作りのお洒落な服装であったが、他の2人はジャージやトレーナーなど普段着っぽかった。
さて、演奏であるが、やはりトリを務めるのに相応しい演奏であった。
相当歌い込んだであろうヴォーカルは、寸分の狂いもなく英語の歌詞を歌いこなす。
山崎まさよしやスキマスイッチあたりに、声質は近いか。
曲調は、自分の知っているところだとrough laughあたりが、あえて言えば多少近いか。
売れ線のメロディに日本語の歌詞を付ければ、立派にメジャー系の音楽である(それは望まぬかも知れぬが)。
正直、伴奏はギター1本でも十分であったと思われるが、コーラスが2本付いたのは大きかった。
ギターはサウンドホールの小さなアコースティックギターだが、ノイズを出さずに力強く演奏していた。
もっとも、この日は上手いギターだけを聴き続けてしまったので、このぐらいでは驚かなくなってしまったが、歌唱もギターも一流品として通用しそうな雰囲気であった。
普段はMCを入れないそうだが、この日のテーマ「今年を振り返る」で、一番驚いたのが「この日のメンバー」というのは確かに頷ける。
おそらく、FIREBALL ROBERTSは、普段優越感を持って対バンとライブを行っているはずで、卓越したヴォーカルと演奏で格の違いを見せ付けているはずである。
だが、この日はどこの一流バンドが集まったのだ、と思うほど全体のレベルが高く、「バンドのメンバーを連れてきて本当によかった」というのは」本心であろう。
「スーザン・ボイルではないけれど、こういうレベルがゴロゴロしている」と感じながらの演奏は、大変緊張感のある締まったステージであった。
英語の歌詞なので純粋に音楽のみの評価となるが、満足いく内容であった。


なお、トップバッターの日向さおりは、着いたときには終わっていて聴いていない。
だが、全編を通して司会(MC)を行い、全演奏者の演奏を立ちながら聴き、インタビューを行っていた。
この日、一番働いていたであろう功労者である。


この日のレベルを勝手に格付けすると、エバラ健太とFIREBALL ROBERTSはメジャー系で十分通用し、YOCCOも半メジャーぐらい、小林未郁も元メジャー系で好きにやっているといった風である。
それに対し、山田庵巳は、独自の世界が強すぎ、陽の当たるメジャーの世界とは程遠い。
だが、山田庵巳の表現世界の吸引力は他の出演者の追随を全く許さないレベルで、似た例示が全く出てこないオリジナリティを持っていた。


まず、ギターは8弦のクラシックギターを使い、足台まで用いる。
ちなみに、多弦ギターにはいろいろ種類があるが、双葉双一も弾いた12弦ギターは基本的には複弦で6×2の構成で、弾き方自体は普通に儀多と同じである。
11弦ギターはバロック(ルネサンスだったか?)リュートなどの曲を弾くときに用いられ、4度でなく3度の開きで調弦する楽器だった気がする(未確認)。
10弦ギターは「禁じられた遊び」で御馴染みのナルシソ・イエペス開発の楽器である。
ギターは調性により倍音が豊かになったり乏しくなったり安定しないため、倍音を安定して共鳴させるための低音弦が下に4本付いている(弾くこともあるが)。
ただ、消音が面倒くさく、荘村清志という「イエペスの弟子」のギタリストも10弦を手放し、6弦で演奏を行っている。
現在、10弦弾きは斉藤明子などがいたはずだが、あまり思い浮かばない。
さて、8弦ギターであるが、見たところ低音弦が2本下に広がっている。
共鳴を考えなければ、最低音の8弦の開放は通常の1オクターブ下まで出るはずだが、チューニングは確認できなかった。
2月のサンジャックのライブで、できる限り確認しておきたい。
なお、ギター製作家はラミレス3世のようだが、ラミレスは中音から高音にかけて糖度を増して甘い音色を奏でる。
自分もコンクールのときに師匠から拝借してよく弾いたが、浪漫派やスペインものなど、メロディアスな曲にはよく合う。
逆に、無機質な現代曲には、別の楽器が合っていたように思う。
山田庵巳のラミレスも、例に漏れず甘い音色を奏でていた。


意外に思ったのは、親指にハンドメイドと思われるサムピックを付けていたところである。
知久寿焼は今でもサムピックを愛用しているが、普通、クラシックギタリストはサムピックを付けない。
自分もフォークギター用に試したことがあるが、サムピックを外してクラシックギターを弾くと親指が空振りするようになったので、あっという間にやめてしまった。
ちなみに、フィンガーピックは買ってはみたもののどう使ってどのような効果があるのか、皆目見当が付かなかったので、練習すらしていない。
ただ、山田庵巳はフラメンコやボサノバギターのバックボーンもあるらしい。
ボサノバはともかく、フラメンコは音質よりインテンポが何より最優先で、爪が飛んだらプリンの容器を爪型に切って代用すると聞いたことがある。
山田庵巳のサムピックも、親指のサイド側でなく縦方向に伸びがあるように削り直したものっぽく、ストロークやアタックの強さを確保しつつ(もしかすると爪を伸ばせない副業があるのかもしれない)、通常の演奏も破綻しないようにしている可能性がある。


山田庵巳の風貌は、つばの付いた帽子(いわゆるcap)を少し右斜めに被り、左目がたまに見える。
想像より痩せていて、背も高く、細い足の膝から下が見える少し丈の短いズボンを穿き、長めの上着を羽織っての演奏であった。
「双葉双一が連れてくる共演者はみんな足が細く、ギターが上手い」という共通項があるが、日比谷カタンや山田庵巳にもそれが当てはまるようだった。
顔は、頬骨が出るくらいに痩せており、昔バイトをしていたときに現物と会った小沢健二を思い出した(顔が似ているのではなく、印象が近かったのである)。
カラオケの本人画面で見る印象とは違い、体も顔も極度に細く背も高く、同僚に教えてもらわなければ気が付かなかったかもしれない。
どうでもよいが、そのとき小沢健二に話しかけられ、言葉を返したのが、ミーハーな個人的な自慢である。
さすがに嬉しく、それから数ヶ月、嬉々として方々に話しまくったものである。
懐かしい。


今回、出演者リストは「星野達朗と魔法の絵本たち」という1人ユニット名で参加していたが、山田庵巳だけの出演である。
ちなみに、「星野達郎」という名前は、視聴したことがないが武田鉄也が昔ドラマで演じた役の名前(101回目のプロポーズ?)らしい。
ただ、「魔法の絵本たち」という部分は多少納得できるところがあり、山田庵巳の紡ぐ世界はまるで魅力的な絵本のページをめくるかのように感じられるところがあった。
「山田さん自体がNHKのお話で出てくる影絵のよう」という、終演後の日向さおりのコメントがあったが、まさに素顔を見せない影絵の風情が確かに感じられた。


ギター部分が全部オリジナルと仮定すると(もしかすると伴奏となる元曲が存在するのかもしれないが分からなかった)、ディアンスやヨークなどの現代作曲家よりも、アルベニスやテデスコ、ファリャなどの近代曲の影響を受けているかのように感じた。
不協和音を伴奏の中にぶつけてくることはなく(別名「ギタリストの麻薬」と称される1弦開放と2弦4ポジの半音の音のぶつけなど)、あくまでも音楽を引き立てていく役割としてのギターの存在を大事にしていた。
シャンソンを思わせる美しい旋律の中、盛り上がりをワンテンポ抑えたようなデリケートな曲などは、ギタリスト山田庵巳ではなく作曲家山田庵巳の顔が出てきたものであろう。


以下、確認中のものも含め、この日の山田庵巳のセットリストである(相違があればご指摘願います)。
「模範的な黒」
「命の傍らに」
「機械仕掛の宇宙」
「春夏秋冬」
「光速バナナにとびのって」
「パブリカーナ」
実際は、曲が連続して弾かれ、曲目を紹介したのも最後の「パブリカーナ」だけであった。


「模範的な黒」で、いきなり驚かされる。
8弦ギターの低音が安定したギター技術の土台を支え、洗練された高音のヴォーカルが伸びる。
ちなみに、
http://eyevio.jp/movie/213939
の「最初~3分」ぐらいの1曲目が「模範的な黒」で、「5分30秒~最後」の3曲目が「命の傍らに」である。
「星野達朗と魔法の絵本たちの、…山田です」と挨拶し、ここで一度だけ軽く調弦を行った。
「命の傍らに」は、「青き若草の大地は夢見て」で始まる美しい曲である。
バッハかダウランド的な古典的なギターの和音と、不釣合いなまでの透明感のある声が、秋葉原の小さな空間に雄大な別世界を創り出していた。
この2曲は、比較的オープニングの定番曲のようだが、歌も演奏も何もかも安定しており、山田庵巳の世界に容易に沈潜することができる。

「機械仕掛の宇宙」が、圧巻であった。
この日の持ち時間30分のほぼ半分は、この曲に費やされていた。
テーマは、小さな太陽を練馬区の魔法使いたちが創ったことから始まる一編の物語である。
組曲のように、様々な形の部位から一つの身体を創り上げている。
「誰にも内緒だよ」で始まる部分から内緒の呪文を唱えるあたりは、呪文の響きも相成って3拍子の品のいいシャンソンに聴こえる。
この部分が一番印象的なハイライト場面であり、有名な曲で言えば「チムチムチェリー」あたり、あと、沢田ナオヤの「月夜のカルテット」あたりの曲調を物語化した風情である。
曲中、何度も「朗読」部分が出現するが、原マスミなど朗読職人のようなゆったりした間合いを取る系ではない。
小沢健二の「愛し愛され生きるのさ」の間奏部の語りのような、そう、朗読と言うより語りに近い早口で、それでも聴き取りやすい滑舌での口上が心地よくギターの音色に彩りを添える。
壮大なスケールとローカルな狭い世界が融合された、不思議な物語の最後の頁が捲られた後、絶賛の拍手を贈ることや余韻に浸ることも許さず、間合いも入れずMCが入る。

「新型インフル政権」と、今回の催し全体の共通テーマが、ここでこのタイミングで口からこぼれ出た。
このMCの挟むタイミングは、牧伸二のウクレレ漫談にも近い。
歌と語りが連続し、楽器の音も絶やすことなく連続して流れていくので、観客は拍手することもできず、ただ耳を傾けるだけである。
「春夏秋冬」は、徳永英明的な伸ばす音で歌い込める曲で、しっとりとした湿度と陽光の眩しさが感じられた。
当然、泉谷しげるの「春夏秋冬」のような「季節のない」的な歌詞世界とは無縁で、同じ四季を扱った曲だと白鳥英美子の「フォーシーズン」の方が「巡り往く季節」を表現していて近い。
おそらく、どこかのワンコーラスだけを歌ったものと思われ、あっという間に終わったが、美しい曲で長く聴き入りたい曲であった。
ここで、また、「申し訳ありません」のMCが入る。
「さっきまであれだけ盛り上がっていたのに、山田のせいで」「戦犯もの」「あと2曲の辛抱でございます」と、「ひくつ系」を発揮した言葉が並べられる。
会場は決して盛り下がっている訳でなく、世界に浸りしんみりしているだけなのであるが、あえてこのような卑下する言葉しか並べないところに、表現者としての誇りとプライドが逆説的に感じられた。

「光速バナナにとびのって」は、唯一ポップス的な曲調である。
サムピックのダウンで低音を、八分音符で細かく刻む。
ステージ後のインタヴューでは、「バナナもおやつに入れちゃえよ」の部分の部分が採り上げられていたが、確かに印象に残る部分ではある。
「パプリカーナ」は、もしかしたら平仮名表記が正式かもしれない。
「2009年の山田は何もいいことがなかった、以上」と述べた後、前奏もなしにすぐ歌が始まる。
クラシックギターと相性のよいラテンの響きと歌詞、「パプリカーナ」という異国の歌姫も想像上の人物か投影されるモデルがいるのかも分からない。
演奏が終わり、「どうもすいませんでしたー」と一言呟き、退場した(you tubeで観たときは、「物を投げないで下さい」だった)。


メジャーの予備軍ばかりの実力ある面々の中で、ひときわ際立つ演奏と独自世界で、無理をしてきた甲斐があったとつくづく感じた。
短い時間の中で幅の広い曲群が演奏されたので、山田庵巳の音楽的な奥行きを堪能することはできた。
「割とまじめにやります」という、本人の飛行式(非公式)ページの記載があったが、you tubeを観て感じた「固有名詞の多用」はこの日は一切感じなかった。
何もかもがよく、毎週ライブがあれば、毎週通ってしまいたい気にすらなった(残念ながら次回は2/17のサンジャック)。


本人の公式ページは「閉鎖中」の表示が出ており、情報収集の頼りにはならない。
4/20でなくなってしまうYahoo!メルマガと、mixiのコミュニティがよい情報になる。

http://mixi.jp/view_community.pl?id=1781262

このコミュニティ参加者の別コミュニティ参加を見ると、一番つながりの深い「日比谷カタン」が筆頭にいるのは頷ける。
それ以外に、「篠原美也子」や「ミドリカワ書房」の名前が、メジャーどころが見当たらない中で入っているところに、妙に親近感を覚える(どちらも確かメジャーを外れたはず)。


さながら一人ミュージカル(または絵本)のような山田庵巳の世界に触れると、「ギターは小さなオーケストラ」とはるか昔にどこかで聞いた言葉が、重みを持って自分の心にリフレインされる。
終演後、アルバムでも売っていたら全種類買い揃えるつもりでいたが、音源は何一つ販売されていなかった。
「閉じられた空間の中での一期一会の世界の表現」をモットーとしているのかもしれないが、音源だけでも十二分に世界の片鱗は伝わる。
CDなどに焼かなくてもよいので、USBメモリーごと音源を入れて売ってくれれば、ぜひ購入したい。
なお、大貫妙子のトリヴュートアルバムで1曲参加しているらしい(「夏色の服」)。
これは探せば入手できそうなので、探してみたい。


それにしても、この日の演奏はレベルが高かった。
金銭的・時間的余裕があれば、駅前で帰宅経路上の駅なので、ふらりと入って音楽を楽しめるよい空間であった(西に行けば行くほど気合が要る)。
また、2/17のサンジャックは楽しみすぎて待ちきれない。
日比谷カタンのギター、山田庵巳の歌声、双葉双一の歌詞などは全て一級品であり、全部が全部聴きたい(双葉双一のMCや山田庵巳の間合いも素晴らしい)。
まだ売り切れていないのが不思議で仕方ないが、とりあえずチケットは予約したので、あとは長生きをするだけである。


2009年12月29日。
本腰を入れて、またギターが弾きたくなった夜であった。





一度考えを記そう記そうと思いながら、もう半年以上経ってしまった今年度の新番組がある。
今まで、ありそうでなかった四歳児を対象としたNHK教育の番組、「みいつけた!」である。
ちなみに、有名な長寿番組「おかあさんといっしょ」はその少し前の年齢層を対象としていて、「はみがきじょうずかな」「パジャマでおじゃま」なども「三歳です」という言葉が定型句として名前の後に示されている。
「いないいないばあ」あたりになると、幼児ではなく乳児対象番組になるのだろうか。


「みいつけた!」は、いろいろな意味で異質であり、冒険的な番組である。


伝統的なNHK教育の幼児向け番組は、まず良質な音楽が底流にあり、それを親しみ深いキャラクターなどと組み合わせて、お茶の間に一つの空間を与える。
それは、日常空間とは切り離された世界で、民放からも商業主義からも独立した一種の無菌室のような独自性を持っている。
その世界が社会の側に輸出されることはあるが、社会の側からその世界に流入してくることはほぼない。
安全で守られた世界ではあるが、その延長線上に雑多なこの社会は繋がっていない。


「みいつけた!」には、民放の幼児番組に近い空気がある。
もっとも、民放になると(「ウゴウゴルーガ」など)現実世界のタレントが固有名詞のままむき出しになるが、そこまでは行かない。
だが、「ポンキッキーズ」の「コニーちゃん」や「ガチャピン」などのように、二次元や三次元でキャラクター化された登場人物が社会とのギリギリの緩衝材としての役割を果たす。
実際の大人や社会に自分を投影することが難しくても、デフォルメされた(リアルすぎては絶対にいけない)キャラクターになら、自分との公約数を見つけ出し、伝え手のメッセージを受け取りうる可能性がある。
NHK教育であれば、「もっさん」が出ていた頃の「わたしのきもち」などはかなり成功していたと思うが、現在は多少垣根の高さが上がってしまったようにも感じる。
だが、NHK教育の伝統的番組は無菌室に近く、社会に出るたくましさを育成するというよりは、社会とは一つ距離を置き、より根本的な能力の育成に力点を置いている。


それと異なり、「みいつけた!」は無菌室を飛び出している。
四歳児ともなれば、絵本の中の精神だけでは通用しない場面が多分に出てきて、大人側から気が付くかは別として、内面に葛藤が生じる。
そこで、あえて絵本的な世界にノイズを入れ、社会を部分的に把握しただけで接していくことに対する耐性を身に付けさせているのかもしれない。
「オフロスキー」という登場人物(「わたしのきもち」で以前出ていた「ウエダ君」のようである)の言葉や行動を、おそらく四歳児は全てを把握しきることはできない。
「毎日出てくる人物・キャラクター」という安心感だけを頼りに、部分的に含まれている「理解できないもの」を必死に受容しようとする。
それは、自分の外部に存在する他者に対して、心理的にアクセスしていくことの第一歩である。


話は飛ぶが、昔、児童文学学生連絡会というネットワークがあった。
設立、そしてその後の活動と消滅までの数年間の全てを書くと長くなるので省くが、その中の他大学のメンバーの一人が書いた文章で今でも記憶に残っているものがある。
細かい文言は記憶していないが、子どもの頃から「ぼくは王さま」シリーズなど児童文学はたくさん読んだこと、成長するにつれて全く読まなくなったこと、その理由が「内容がつまらなかった」から、といったことなどが書かれていたと思う。
他にもいろいろ述べていたことがあったと思うが、「児童文学はつまらない」という視点で出発している発想が身近にまるでなかったので、それからいろいろ考えることがあった。
その視点で多くの児童文学を読むと、確かに「子どもをなめた」視点や表現、構成などが多々見られた。
やはり、その最大の理由が「無菌室」的な「テーマの限定」、「ノイズの排除」「過大な理想論の展開」あたりであろうか。
「安心」「安全」な「規格品」は、決して創り手の精神の烙印が押される「作品」たりえない。
「子どもの心を忘れた」などというありきたりの言い訳ではなく、児童文学から離れていく子どもはもっと本質的な欺瞞を実は感じ取っているのである。


自分は「おかあさんといっしょ」を、かなり肯定的な視点で見ており、決して客観的な評価はできない。
だが、この「無菌室」的な特殊空間は、視聴者の立場がよりリアルな社会に志向している場合、決して受容されやすい対象ではない。
「おかあさんといっしょ」自体は、音楽も構成も労力をかけて高いクオリティを保っているが、「おかあさんといっしょ」的な類似品に対しては「つまらない」という意識を持ってもおかしくはない。
だが、もう少し社会の中で出会うのと近い形で接し感じ取れるのであれば、最初の入口のところでの抵抗は薄れるかもしれない。
そこに、「みいつけた!」の出発点はあったのではないだろうか。


個人的に視聴している曜日に偏りがあるため、重要な脱落があるかもしれないが、「みいつけた!」の内容は大体次のとおりである。
1)コッシーとスイ/「サボさん」という長身の緑色の着ぐるみのキャラクター(サボテンがモデル)と、対照的な小さな女の子「スイちゃん(ネーミングの由来はおそらく「椅子」の逆読み)」と、やはり小さな水色の椅子「コッシー(「腰を下ろす」の「腰」が由来か)」の3人のやりとり。冒頭のコーナーの他に全体の進行の基調となっている。
2)よんだ?/前掲の「オフロスキー」の登場。猫足バスに身を沈める(水は入っていない)オフロスキーが「呼んだ?」とカメラ目線で振り向き、テーマのある身近な話題で画面の向こうに話しかける。。
3)なんかいっす/「イッス、イッス、なんかイッス」という部分で始まる歌に合わせた踊り。男女3人のバレエ(体操?)の格好をした大人と同人数の子どもが椅子を使いながら踊るバージョンが印象的だが、いくつかバリエーションがある。歌詞は駄洒落で「椅子」にちなんだ語が何度も出てくる。
4)いすのまちのコッシー/「コッシー」他、顔が書いてある椅子のキャラクター同士で繰り広げられるミニアニメ。篠原ともえが語りと声で一役担当している。
5)ダンボールめいろ/二人組みの二組の子どもが、どちらが速く真ん中の旗のところに辿り着けるかの競争。
6)サボさんの自然のしらべ/バイオリンを弾きながら歌うサボさんが登場し、いろいろな生き物を紹介する。
他に、調べた限りでは「おててえほん」「みんなのみいつけた!」「イスダンス」「できる?」「クルットさんのモノができるまで」「スイちゃんのすわってみたよ」「チョコンのちょっとすごいッス」「コッシーをさがせ」「ガンバリマスオくん」などがあるようである。


この番組で特に評判が高いのは「エンディングテーマ」で、トータス松本が作詞作曲を行い、歌っている。
曜日によって実写映像だったり、椅子のアニメーション映像だったりするが(アニメのときはトータス松本的な眉毛の太い椅子が歌を歌う)、必ず同じ歌で終了している。
この歌は、椅子とは特に関係がなく、無限の可能性がある子どもを「卵」に象徴化して、前に向かって努力していくことを応援する曲目であり、放送開始と同時に大きな反響があった。
この番組「みいつけた!」が、それなりの視聴率で積極的に受け入れられているのも、エンディングでこの音楽が流れていることの要素は大きい。
卵の中を「無菌室」だとすると、「無菌室」を飛び出して小さな冒険を繰り返していくことへの積極的な勧奨があり、この番組の精神に結果的に合致している。


逆に、よく分からないのは、「椅子」が様々なコーナーに結び付けられている点で、その象徴的な意味合いを自分は、未だ見極められていない。
松谷みよ子著『二人のイーダ』や大海赫著『クロイヌ家具店』など、以前から「椅子」に生命を吹き込み物語の世界で躍動させることは少なくなかった。
とりあえず、身近にある生活上の製品に対して、家族や友人のように扱うように、という意図でもあったのだろうと考えることにしている。


「みいつけた!」は、現在のところ、とてもうまくいっている。
だが、その成功は危うい調和の上に成り立っていて、5~10年後にも安定して続く長寿番組になっているかは分からないところがある。
まず、「スイちゃん」の存在である。
この番組の対象年齢に相応しい風貌でありながら(実際、相当若いと思われる)、天賦の才と力量があり、全てを自然に見せることに成功している。
この演技技術の高さが、「子どもに無理に演技をさせている」という不自然な作り物感を完全に払拭している。
逆に、この「水準の高さ」が、長寿番組のネックになる可能性がある。
「いないいないばあ」は、「ワンワン」という犬の着ぐるみと(中身は「探検ぼくらの街」の「チョーさん」)、「ウーたん」という小さな人形キャラクター、そしてもう一人現在は「ことみ」という小学生の女性が出演し進行させている。
「ことみ」の前身の「ふうか」のときはよく番組を視聴したが、小学校2年生時から数年間、大人顔負けの存在感で番組を仕切っていた。
子どもなのは見た目だけで、「ぐるぐるどかん」では幼児に対しての配慮を行いながら、歌に踊りに番組の進行を完全に進めていた。
特に、踊りは圧巻で、「ねばねば」という納豆をテーマにした踊りのときには、一流の振付師の踊りをさらに小さな頃から英才教育で受けていたであろう技術を多分に見せていた。
だが、「いないいないばあ」は、進行役の女の子が年長になってしまうと「卒業」し、「ふうか」自体も前身の代替わりで抜擢された役回りであった。
「スイちゃん」も、おそらく成長し、四歳児との乖離が出来てしまうと、番組の性質上降板の可能性がある。
「サボさん」「コッシー」はそのままとしても、「2代目スイちゃん」が出てきたときに、全てが上手くいっている現在ほどの質の高い調和は期待するのが難しい。
もっとも、「コッシー」は大変かわいく、続いてほしいキャラクターではある。


と、ここまで書いているうちに、「みいつけた!」の世界が「無菌室の外」なのか、「無菌室と現実世界との緩衝地帯」なのか、自分で分からなくなってきた。
どちらにしても、「無菌室からの脱却」という点では相違はないのだが、自分なりにもう少し様子を見てから続きを記したい。
尻切れトンボになり取りとめもなく、申し訳ない文章であるが、この記事は年明けまで頭を冷やしてから続きを記したい。


とは言え、社会性を持った子どもにも、「無菌室」を嫌う大人にも、「みいつけた!」は楽しめる番組である。
今回の記事など気にせずに、機会があれば視聴する価値のある番組なので見てほしい。



仕事帰りに、カルディに寄って珈琲を飲んで帰宅する習慣が付いてしまい、いろいろ買い込んだカレーなどの材料がたまってきた。
誰の役にも立たぬが、忘れないように書きとめておくことにする。


材料
1)グリーンカレーのルー、カルディで箱入りで170円前後。液体とペーストが混ざった状態で、そのまま使えて便利。
2)ひよこ豆。カルディで袋に入って350円。乾豆はとても膨らむので、少なめに入れておかないと豆だらけになる。
3)鳥モモ肉2枚。近所の寺尾ストアで購入。値段は忘れたが多分東京の相場の半額ぐらい。皮は剥がし調理用ハサミでチョキチョキ切り刻む。
4)冷凍庫に残っていた鳥挽肉全部。大して残っていなかったので、在庫処理にカレーはもってこいである。
5)長ナス2本。うち1本はイトーヨーカドーの見切り品、30円。もう1本は倍ぐらい。大きめにパツンパツンと横切り。
6)ニンジン2本。寺尾ストアで70円で6~7本入っていた。スープカレーのつもりで、2等分しただけ。
7)シメジ1袋。寺尾ストアで40~50円ぐらい。下だけ切って、ばらしてホイ。
8)マイタケ1袋。寺尾ストアで50円前後。余っていたので手で適当にちぎり入れてみた。
9)ココナツミルクパウダー少々。カルディで110円。お好みでいくらでも。
10)レモングラス3本。冷蔵庫に常備してあるレモングラスの葉を、3枚一緒に煮込む。肉の臭味が飛ぶ。
11)塩コショウ適当に少々。肉を炒めるときに使った。肉の脂分もあるので、炒めるのに油は使わなかった。


手順
1)圧力鍋の蓋を取り、鳥モモ肉と鳥挽肉を全部入れる。フライパンのつもりで塩コショウをかけて表面だけ炒めて、すぐ火を止める。
2)好みに応じて、ひよこ豆を同じ鍋にポンポン入れる。水を漬かる位まで入れ、蓋をして火をかける。
3)蓋がクルクル回ったら弱火。ネット将棋2局終わったら、勝っても負けてもとりあえず火を止める。火をかけすぎると豆はよいが、肉はコンビーフのようにほぐれほぐれになる。
4)火を止めてもう1局将棋を指したら蓋を開ける。そこで豆と肉とを幾らかツマミ食いする。ここで今後の水と火の加減が決定する。
5)ナスはフライパンで焼いておく。油は増やしたくなかったのでそのままフライパンで熱した。ついでにマイタケとシメジも軽く熱した。
6)水を少し加え、ナスとニンジンとシメジとマイタケを全部鍋にドカンと入れる。もう一度圧力鍋の蓋をして、蓋が回ったら弱火にし、ネット将棋は1局程度。昔先に肉と一緒に熱したら、野菜はあっという間に崩れた。
7)将棋に負けたら火を止め、別な鍋を取り出す(圧力鍋は洗って次の炊飯に備えるため)。崩れそうな肉野菜はそのまま鍋に、大量にある水分と豆はフライパンへそれぞれお引越し。
8)フライパンをやや強火で熱し、水分をこれでもかと飛ばす。豆に焦げ目を付けたければ最後に強火で止め、そのまましばらく放置。
9)肉野菜組に豆組を合流させ、グリーンカレーのルーを2箱分全部入れる。新しい鍋に新しい中火を入れる。本当は前の鍋で入れたかったが、入れ忘れたレモングラスをここで入れた。
10)ココナツミルクのパウダーを、その日の精神状態に合わせて投入する。1袋であれば、錯乱して全部入れてもそこまでひどいことにはならないと思う。本当はカルディのルーにはこの成分は含まれているので、入れなくても構わない。
11)その日に少し試食したら、後は野菜などにカレー成分が浸透するのを待つ。煮凝りができるので、朝と夜と火を通した方がよい。


雑記
1)ちなみに、この日は16穀米で、やはり圧力鍋で炊いた。普段から玄米食で土鍋で炊飯しているのだが、昔「たまははき」で出て美味しかった「秋刀魚ご飯」を圧力鍋で炊いたら大変良く、以降炊飯白米も玄米も圧力をかけている。
2)寺尾ストアは、近所の本店と西船橋店とあり、「千葉で一番安い」スーパーと「アド街ック天国」で紹介されていた。開店前からパチンコ屋のように行列ができ、夜に行っても野菜や魚はほとんど残っていない。
3)普段は、見切り品で買ったナッツ類をよく入れる。生胡桃やカシューナッツなどはタイカレーに限らずよかったが、千葉県民らしく生落花生も次の旬のときに入れてみたい。
4)グリーンカレーはパウダーから調理するものも売られているが、やはり箱に入ったものをそのまま入れるのは楽である。タイ王国から直輸入なので本場の味でもある。
5)2箱で4人分だが、全てカレーライスで食する必要はない。水分が多少飛び、挽肉を多めにすれば、パスタにも合う。また、うどんやラーメンをグリーンカレー味にしたこともある。お好み次第。
6)本当は、フライパンで水分を飛ばさなくてもよいのかもしれない。ただ、飛ばしても具材から水分がどんどん出るし、カレー自体の味質が変わってしまいそうでそうしている。いろいろ出汁が出ていそうで、水分を捨てるのはもったいないので行っていない。


グリーンカレーは、最近は阿佐ヶ谷のピッキーヌぐらいでしか食していない(2回注文して味がまるで違った)。
国分寺のTARAなど、ランチタイムに安い店は健在だろうが、スタンダードな美味しさよりも個人的な嗜好を料理の場合は追求してしまう。
帰宅後、よく撮れれば写真なども上げてみたい。


このようなレシピで、店舗のカレーの味を論評する資格はないかもしれないが、自分なりに美味しいと感じた店は今後も書き記していきたい。