オレとナオヤの新春ロングトーン/国立地球屋(10/01/11)
1.チキンライス
2.臆病者の風邪
3.毎日の今日
4.空色のフォーク
5.君の街まで
6.Beautiful Day
7.アイライクストライク
8.月夜のカルテット
9.ロングトーン
10.星の地図
11.もう少し歌うから
12.田園交響曲
13.岬の上
14.瞬き分の夜
15.束の間の二日間
16.タワーホテル
17.レベル5
18.旅に出なさい
19.ハッピーエンド
20.誰のためのお客さん さて君は?
21.ウルスリ
22.電車かもしれない(知久寿焼)
23.オーシャンデリゼ
24.走るのってすてき
「オレとナオヤのロングトーン」は、今回が第2回目である。
ただ、ゲストの表記がなかったためか「vol.2」の表示はなかった。
ちなみに、「vol.1」のときは滝本晃司がゲストで、三者三様の話芸が堪能できた。
国立地球屋で3ステージにすると終電が危なくなるので、これはこれで仕方なかったのかもしれない。
さて、到着時に開場時刻にはなっていたが、せっかくの国立なので、カフェ「れら」に先に足を運ぶ。
地球屋の店を通り抜け左折するとすぐあるので、1分もかからない距離である。
前回は品切れだった鶏肉の入ったスープカリーが、今回は注文できた。
また、豆の薬膳カリーは今回テイクアウトしてみた。
家でなかなか作ることのできない味なので、好みのトッピングを入れて自宅で食することができるのは嬉しい。
ドリンクであるが、珈琲はさほど変ではないが(産地は東ティモール)、ヨーグルトはかなり特徴がある。
自家製の発酵でこしらえているので、驚くほど濃厚である(クリームチーズのドリンクのようでもあった)。
名残惜しいが、開演も近かったのでゆっくりはせずに、食後、店の低い出入口を抜け(背が高いと頭を確実にぶつける)、地球屋に向かった。
客入りは、祝日のためか悪くない。
ホットの紅茶であろうか、品のよい欧風のお洒落なカップとソーサーとが目に入り、次回は注文したいものだと思った。
前に来たときはメニューにあった(壁に貼ってあった)カレーが(当時はナンも選べた)、いつの間にか消えておでんになっていた。
その時節ごとに需要のある献立を用意する方針なのかもしれないが、「れら」に足を運ぶ時間がなかったら注文する予定だったので、少し驚かされた。
やがて開演時刻となり、前半の沢田ナオヤのステージとなる。
髪は大分短くなり(とは言え、長いときのはかまだ卓程度か)、服も白いシャツの上に、下の方だけボタンが付いている開き部分が大きなベストを着て、爽やかな風情である(髭も少なめになっていた)。
暮れのムジカジャポニカで客として腰を下ろしていたときにはまだ「怪しい」風貌であったようだが、これなら深夜に自転車に乗っても、変なものを持っていないか警察に呼び止められることもないだろう(本人の過去ブログ参照)。
「明けましておめでとうございます」との挨拶から、耳慣れた前奏が始まる。
沢田ナオヤの代表曲である「チキンライス」が、何の惜しげもなく新年一本目で披露される。
自分は、沢田ナオヤがどの順に曲を紡いでいったのか、その歴史を知らない。
だから、こうして何かを述べること全てが憶測になる。
だが、それでも述べてみると、「チキンライス」は現在の沢田ナオヤを作る転換点になった曲だと思わずにはいられない。
前にも似たようなことを記したが、「Silhoutte」の曲は歌詞カードを見ると抽象的で観念的にも取れる内容が多いように思えた。
だが、高柿たくろうの作詞か共作かは分からないが(2枚のアルバムでクレジットが異なる)、「チキンライス」だけは日常の場面が写実化され感覚主体で描写されている。
本来、沢田ナオヤは生真面目な性格であると考えられ、自分の顔を歌詞世界の中に含ませることを避け、濾過した純粋な世界を提示させようとしていたように見える。
だが、「チキンライスの香り」「単純に」「いい感じ」といった言葉からは、神の視点からではなく等身大の人間の視点で、純粋に五感からもたらされる
その分、身近な風景を聴き手は容易に想像でき、手の届く場所にある安心感や幸福感などのようなものに結びつけることができる。
他の人間と共作を行っても沢田ナオヤの精神そのものは決してスポイルされることがなく、逆に、新しい角度からの光を入れる窓が一つ増やされることに結びついている。
「おおきにー」と、歌とギャップのある空回りした明るい挨拶が曲後に、間髪入れずに入ってくる。
MCを全く入れずに歌だけ歌うと、全く別のタイプの歌い手になっていたかもしれないが、素朴な飾らぬ人柄もまた沢田ナオヤの魅力の一つである。
スリーフィンガーが印象的な「臆病者の風邪」が、次に続く。
声の出し方が、知久寿焼的であるとやはり感じる。
立ち上がりの発声のところの響きと、その後の声の伸びとのギャップが、一つの特徴となっている。
「寒くなってきたので、皆様が風邪を引いていないか心配になって」と演奏した理由を述べる。
また、「オレとナオヤのロングトーン」が2回目を迎えるに当たって、「おっと驚くようなムーブメントを起こしたい」と意欲を表明していた。
「毎日の今日」は、アルファベットでないカタカナ発音の横文字の歌詞が、日常性をより感じさせる。
この日も、口笛が調律された繊細な楽器のように美しく鳴り、曲に品のよさが添えられる。
歌詞的には、やはり「チキンライス」のような日常の中の感じた想いが、抽象的でなく実感を感じられるようなスタンスで表現されている。
「チキンライス」が好きなら、この曲もお薦めである。
「空色のフォーク」は、ギターの和音がかなりお洒落で、メジャーセブンやナインスレベルの和音が、前奏などはそれこそ1拍ごとに入れかわり立ちかわり切り替わる。
反面、凝った伴奏のため歌詞に耳をあまり向けなかったが、この曲を一曲仕上げるだけの労力は半端でないことが予想され、聴き入ってしまう。
「クッと変わる瞬間見てくださいね」「クッと行くんで、よろしくお願いします」と、「君の街まで」が始まる。
斉藤和義でも近いテーマの歌はあったはずだが、「走る電車と競争だ」など、やはり沢田ナオヤ独自の明るさが感じられる。
後半は手拍子だけのアカペラで、沢田ナオヤは会場中を歩き回り、最後列の双葉双一に抱きついたり舞台後ろのハイハットを叩いて音を出したり、賑やかに曲を終わらせる。
「Beautiful Day」は、ピックでの速弾きがいつも見事であるが、この日はいつもよりさらに流暢に音の粒が流れていたように感じた。
全体的にこの日は、自信のある曲中心の選曲なのか、演奏のレベルは高かったように思う。
「まだまだ間に合うトゥディ、トゥディ」あたりの、五線譜の枠からはみ出した歌い方をした部分に、やはり知久寿焼的な響きを感じる。
その部分だけ、音でなく言葉の部分が浮彫になり、音楽とは違ったところで言葉にアクセント記号が付せられる。
「アイライクストライク(曲名を教えていただきありがとうございました)」は、多分初めて聴く曲で、未音源化曲である。
シャッフル気味のストロークでの、3拍子曲であった。
この曲も、「チキンライス」「毎日の今日」に近い、日常の温度の世界であったように記憶している。
「月夜のカルテット」は、個人的に好きな曲である。
こちらは3拍子らしい3拍子で、「君の街まで」の後は夜の曲、と言っていたように、夜の幻想的な映像が浮かぶ音楽である。
「ロングトーン」は、この日のテーマ曲で、前回と同様にリバーブをかけまくっての演奏であった。
よい雰囲気で曲は終わるが、やはりMCはいつもの調子で、思いついたことをグダグダ感たっぷりで次々に並べる。
「本質を見極めていきましょう」などと、言っていることはまともだが、文脈もなく唐突に出てくるところが沢田ナオヤである。
だが、曲を聴くと、その言葉も納得させられてしまうところがある。
最後の曲とのことで、「星の地図」が演奏される。
you tubeでもこの曲の生演奏は観ることができるが、やはり同じ空間で聴くと思いが込められた心的映像を共有することができる。
歌詞カードだけ見ると随分と抽象的で観念的に感じるファーストアルバム「Silhoutte」の曲群であるが(「チキンライス」「Beautiful Day」を除く)、この日の生演奏を聴くとそうは感じられなかった。
「星の地図」だけでなく「臆病者の風邪」にも感じたが(「空色のフォーク」はギターばかり聴いてしまったが)、沢田ナオヤの体からこの歌詞が発せられると、上滑りしない生活の言葉の一つのようにも不思議と感じられる。
例えば「星空をなぞってく聖者の足音に、染み付いた残骸をただ見守るだけ」などという部分などは、聴いていて鳥肌が立つような感覚を覚える。
日常生活に結びついたリアリティなど微塵もないはずなのに、自分が子どもの視点で星座を眺めて宇宙の神秘に震えるような感覚を味わうのである。
これは、なぜなのであろうか。
おそらく、沢田ナオヤの精神が健全なのである。
打算や計算なしに、心の中の前向きな想いを一つ一つの言葉で紡いでいるのである。
そのために、一般的には「作り物」といった印象を受けそうな言葉の羅列が、真の想いの表明と感じられるのであろう。
沢田ナオヤのリアリティは、言葉からではなく精神から溢れる人格に由来すると言っても過言ではないのである。
夜の余韻と宇宙の神秘を残し、沢田ナオヤはこの曲でステージを降りた。
後半になり、双葉双一が登場する。
上と下に色合いなどの連続性が感じられる服で、黒系でないのは珍しい(グレー系)。
髪も整った感じの長髪で、ジャンルも性別も異なるが、涼しげな目元と表情をあまり変えない雰囲気が、どことなく荒川静香に似ているようにも感じられた。
本人のブログでもこの日の写真は公開されているが、あまりクリアでないのが残念である。
先ほど抱きついてきたことを思い出してきたのか、
「どうなんでしょう、あの男は、頭がおかしいんです」
「普通でよかったです、本当に」
と、突っ込みどころのあるコメントが入る。
最初に歌われていたのが、「もう少し歌うから」であり、先ほどの「チキンライス」同様に意外な感じがした。
この曲はアンコール一曲目などに向いた歌詞で、最初から歌われるとは予想していなかったからである。
沢田ナオヤステージが終わっても、「もう少し歌うから」というメッセージだったのだろうか。
「田園交響曲」と、未音源化曲が続く。
今回のライブの位置付けが、もしかしたら次回のアルバムの布石となるものなのかもしれないと予感させられた。
個人的には、「もう少し歌うから」はどんなコンセプトでも終わりのほうに持ってくれば合うと思う。
もし「田園交響曲」を入れるのであれば、「さようならプロスティテュート」や「追走曲」あたりも持ってきて、昔の週末NHK教育でよく放送していた古い外国映画のような色調を基調とするのが引き立つと思う。
「明けましておめでとうございます、今年もよろしくお願いいたします」の挨拶の後、今年の目標が「イチローが10年連続200本安打を達成することです」ということであると表明された。
続いて、最新アルバム収録の「岬の上」が演奏される。
なぜかは分からないが、この曲の演奏頻度は高い。
最初の2曲ではそこまで感じなかったが、ライブのないときに歌い込んだのであろうか、声量があると感じられた。
ただ、この日全般に言えることだが、ハーモニカもまたたっぷりの音量(PAの仕様かもしれないが)であった。
力強さは感じられるものの、双葉双一ほど美しいハーモニカを演奏する歌い手はいないので(倉井夏樹のような職人は別として)、少々もったいない。
ボブディラン(ホフディランではない)や友川かずきなどに傾倒しているところが、最近のtwitterの呟きには見られる。
そのスタイルを、自分の演奏スタイルにも取り入れようとしたのではないだろうか。
だが、双葉双一には先の二人にはない魅力がある。
文学の本質を女々しさとする考えもあるが(本居宣長だっただろうか)、その考えに従えば双葉双一は一級の文学に通じるものがある。
もちろん、友川かずきは友川かずきで一つの世界を築いている。
だが、ボブディランも友川かずきも、世界に一人だけいれば十分である。
同じように、双葉双一も世界に一人だけいれば十分だし、いなくなってもらっては困る。
まあ、話を元に戻すと、歌い込み自分のものにしていこうとする表れが感じられ、この後の3曲の演奏を予感させるところはあった。
「何かちっとも楽しくないです。だれか、覚醒剤買ってきてください」と冗談が出たので、また「覚醒の歌」かと思ったら違っていた。
「瞬き分の夜」が演奏されるが、ここからの数曲は今までとはまるで違う演奏であった。
一言で述べると、「五線譜の枠組みからの自由の獲得」と言ったところであろうか。
こう書くと音程を外しているのではないかと誤解を受けるかもしれないが、そうではない。
歌う歌詞世界を、自分の間合いで自分の呼吸で排出しているということである。
今までは、五線譜の音符の上に文字を置いて、それをなぞった歌い方をしていたところはあった。
だが、少なくともこの曲から3曲に関しては、自分の歌い方をある程度確立したと言えよう(またこれから変遷があるかもしれないが)。
「束の間の二日間」もまた、特筆すべき素晴らしい演奏であった。
この曲の世界そのものについては、以前から褒めすぎているので今回は掘り下げない。
この曲の歌い方も、普段よりも言葉の間合いを大切にした発語がなされていた。
ギターについても、最初は高音の響きのみを聴かせるような、まるで上品なアルペジオのような演奏がされていた。
だんだんと曲が進行するにつれて低音の重みを加えていったが、その移行のグラデーションが均一で仕上がりの高さが感じられ、嬉しい。
曲を終止させずに、メドレーで演奏された「タワーホテル」もまた圧巻であった。
普段は「ララーラーラララー、タワーホテルで待ってて」以外の部分は語りで、これはこれで歌詞世界がクリアに浮彫にされるメリットがある。
だが、この日はこの語りの部分までも伸ばしたり抑揚をつけたりする際に、音符が当てられて、最初から最後まで「熱唱」していた。
語り形式と比較して、言葉がやや流れやすくなる難点はあるが、言葉の力点は多少付けやすくなるメリットはある。
ここで、新曲の「レベル5」が演奏され、翌日(だったと思う)に早々にブログに全歌詞が上げられていた。
和音で言えばCの後にEが来るような展開で、新曲3曲の中では一番曲的には耳に馴染みやすい。
歌詞は全歌詞が上がっているところもあり、それぞれの読み手の判断に任せたいところだが、この曲はバランスがよく「この曲は今年来る気がする」と自画自賛していた。
逆に、ボツにするかどうか迷っている(ブログで撤回済み)と述べていたのが「旅に出なさい」であり、意外であった。
この曲は、今後の双葉双一の方向性を決定するような境地を持ちながら、持ち前の美意識を貫いているところが見られるからである。
今回、3番の歌詞がガラリと変わった。
正直、1番と2番の完成度の高さに比較して、3番は修正の余地は多いと思っていた(「世界三大祭」の文言は素晴らしいが)。
「目ざといホームレス」が「募金箱」に替えられ、善意が目の前の対象から目に見えないところにいる対象に切り替わったのは本当によかった。
前にも触れたが、デグジュペリの「大切なものは目には見えない」的な精神が、この歌のテーマであるように感じられるからである。
目に付きやすい美ではなく、内面から染み出てくる真実の美しさ、これらを大切にする精神が「旅に出なさい」には感じられる。
新曲3曲の中では一番個人的には好きであり、知久寿焼の賛辞も終演後この曲に向けられていたのもよく理解できる。
「何か違いますね」「曲はいいんだけどなあ」とは呟いていたが、この3番で歌詞的には完結したと言えるであろう。
「飽きてきた」と演奏中呟いたのも、実は理由が考えられる。
この「旅に出なさい」には、」さびのメロディがないのである。
「旅に出る」ということがテーマなのであれば、本当は4番をばらして、歌って気持ちのよいリフレインを1番から3番の後ろの部分に付ければ、「タワーホテル」や「レベル5」のような印象にはなる。
だが、4番の位置付けが「結論」的なものなのか、リフレインで背景に流れ続けるものなのかで、それを行ってよいかどうかは変わってくる。
よいメロディとリフレインに成功すればもう一工夫される可能性もあるかもしれないが、この曲はこのままでもよいのではないかとも感じる。
「ハッピーエンド」は、このレポがなかなか上がらない間に「カミングアウト」と改題された。
ここまでの3曲は、最新アルバムが出た後に作られ発表された曲で、創作意欲がまだまだ衰えないところは素晴らしい。
歌詞が本人のブログで公開されているので、あえて内容に付いては言及しないが、新作アルバムでは曲の置き位置に困る異質さがある(「ピクニック」もどうするのであろう)。
プロットのある文学的作品を並べるアルバムがあれば、よいアクセントになりそうな曲ではある。
なお、和音展開が似ているので、「ロングトーン、ロングロングトーン」と終わりのほうでは歌詞を当てて歌っていた。
「誰のためのお客さん さて君は?」で本編は終了するが、この後長いアンコールが待っていた。
なお、この曲のテーマは「招かざる客」ではないかという考え方があるが、最近それがなるほどと感じられる。
アンコール1曲目の「ウルスリ」には、他の双葉双一作品よりも「神の視点」が強く感じられる。
「神」と言うと語弊があるが、高みからの視点と言うか、感情を排した世界と言うか、神々しさが連ねられた言葉の中に含まれている。
舞台の上の双葉双一は、この曲に関しては壇上の宣教師か催眠術師のような存在として目に映る。
前奏や途中で出てくる印象的なギターのフレーズも、独立した背景としての役割を果たしている。
また、四分音符と十六分音符4つの連続ストロークが強調点で用いられる(youtubeの「インザナイトマイフェスティバル」と同じ方法)。
この曲も「異質」であったはずだが、「タワーホテル」や「インザナイトマイフェスティバル」以上に双葉双一的な世界なのであるのかもしれない。
ここで、観客として来場していた知久寿焼を舞台に引っ張り上げ、一曲歌ってもらうことになった。
「電車かもしれない」のリクエストが会場から上がり、双葉双一のギターとハーモニカまで借りて演奏する。
普段は親指にフィンガーピックをつけて演奏するが、この日は指で直に演奏していた。
多少引っ掛け気味での演奏を行っていたが、一般人だとフィンガーピックをつけているものを外すと、スカッと空振りをしてしまうものだがさすがプロであった。
原マスミもそうだが、やはり共演者がいると「ありがたみ」がつくづく実感されると感じた。
正直、「毎度おなじみ」のセットリストのソロライブは、「またこの曲か」という思いがないでもない。
だが、共演者の力量に関わらず、比べる対象がいると純粋に上手だと感じるし、歌詞も声も心地よく思える。
この日ライブが入っていなかったので、観客として来場するとは予想していたが、一曲聴けるとは思っていなかった。
双葉双一がすっかり出来上がっている沢田ナオヤ(「頭のおかしい人」と紹介)を呼び出し、今からナオヤ君が「ラブドッキュン」をやります、と紹介するが、もちろんそんなはずはない(ちなみに、相対性理論は「LOVEずっきゅん」である)
「一曲やりたい曲があった」とのことで、曲名も告げずにギターのストロークを始める。
途中で、さすがに「オーシャンデリゼ」であることが分かる。
これは、本当によかった。
一人一人の人間にそれぞれ何か才能があるとしたら、沢田ナオヤの一番の才能は「他人を幸福にする」才能であろう。
繊細な言葉と特徴のあるよい声、職人のように地道なギター、そして空回りするMCと、一見バラバラでつながりがなく見えるものが、「他人を幸福にする」という一点に沢田ナオヤの場合収束している。
原曲もよいのだが、沢田ナオヤが歌うと、心の中にあるウキウキ感と言うか溢れんばかりの思いが、聴き手の心の中にも注入されて、外の景色が違って見えるだけの力がある。
エンドレスでずっと聴いていたい気分にもなり、本当にこれはよかった。
曲後、双葉双一は「ナオヤ君、ギターの音がよかったよ」と、ギターの音だけを褒める(ちなみにそのとき弾いたのは双葉双一のギターである)。
再度双葉双一に担当が戻り、「走るのってすてき」で長い長いアンコールが本当に終了する。
昨年の「陰気な二人旅」ツアーでは、どこかの会場で知久寿焼とアンコールで共演されていたはずなので、一緒に歌うのもありだったかもしれない。
とは言え、やはりこの日の観客に過ぎなかったわけなので、あまりお願いしすぎるのも躊躇われたのであろう。
こうして、第2回目の「オレとナオヤのロングトーン」は終了した。
その日まで、レベルの高い演奏(鬼怒無月とか山田庵巳とか)ばかり聴いていたので物足りなく思うかと心配していたが、杞憂に終わった。
やはり、表現したいものと、そのための(借り物ではない)手段があれば、聴き手には伝わるものなのだと再認識した。
双葉双一の「美しい」ハーモニカの演奏も聴きたかったところだが、おおむね満足の新春ステージであった。
この日は祝日で22:30を過ぎ、中央線は各駅停車だけとなる。
急いで帰路に着くが、それでも終電ギリギリの時間で家に到着した。
だが、充実したステージが堪能でき、祝日のガラガラの終電車の中でも「電車かもしれない」や「オーシャンデリゼ」の余韻が鳴り響いていた。