柳原陽一郎 JIROKICHI SESSION with Medicine Men/高円寺JIROKICHI(09/10/22)


Medicine Men=加藤一誠(g)開 輝之(b)沼倉 寿(ds)


1.アラバマソング
2.BAD LOVE~恋の病
3.そしてペンギンは語る
4.はじまりのうた
5.キング・オブ・ロケンロール
6.愛のSOLEA
7.流れてゆこう
8.まわれ糸車


9. ジェラス・ガイ
10.哀しきモンスター
11.ふたりは遊牧民
12.なんにもいいことないけれど
13.徘徊ロックNo.5
14.人魚の時間
15.奇跡の人
16.みんなガケップチ


17.決めないの知らないの


18.ホーベン


一月半締め切りが続き、ライブレポが溜まってしまった。
忙しさに更新が滞っていたら、とうとうヤナネットにまで先を越されてしまった。
一ヶ月以上遅れると、さすがに気力も記憶も薄れてきてしまうが、メモを頼りにレポを上げてしまいたい。
年内は比較的時間が取れるので、これからは毎日更新したい(とブログには書いておこう)。
今までと同じように、世間の雑事を面白おかしく採り上げ、記していくことにしたい。


さて、この日は毎度おなじみの、「来た者順」の高円寺JIROKICHI方式である。
この日は少し早めに並んだおかげで、よい席に着くことができた。
ただ、この日はいつもほど「立見でギッシリ」という混みようではなかった。
バースディでも日祝日でもないため、「無理してまでも」という意識が働かなかったためであろうか。
そして、これもまたおなじみのピアノの調律ショーが開演まで繰り広げられる。
おかげで、今回も澄んだピアノの響きを耳にすることができたが、どの程度の頻度で調律を行っているのかいつも気になるところではある。
いずれにしても、最近のJIROKICHIライブには外れがないので、この日も楽しみに開演を待った。


やがて開演となり、まずは柳原陽一郎一人での登場となる。
「アラバマソング」「恋の病」「そしてペンギンは語る」までが、ピアノ一本で弾き語られる。
声量は結構あり、テンポはかなりスローで演奏される。
この日に限ったことではないが、ピアノ一本の演奏はタメを自在にできる分、インテンポに戻りきらない(と感じる)ことがままある。
最初の2曲は、JIROKICHIを意識したのか、ジャズ的というかピアノバラード的というか、とにかくJIROKICHI風であった。
ただ、本当はここまでスローに弾くなら(特に「アラバマソング」)、本当はベースやドラムも入って音が厚くなった方がより聴かせられるのではないかとも感じた。
「若い演奏者には荷が重い」と気配りが働いたのかもしれないが、「旅をさせろ」である。
無理難題を若い者に押し付けるのも、ベテランの一つの役回りであろう(と無責任なことを外野は記す)。


この少し前に京都でライブがあり、その後動物園でバクやフンボルトペンギンを見たらしかった。
「そしてペンギンは語る」は、次回のアルバムに入れるか迷っていたそうだが、この哲学者の様な風貌を見て入れることを決意したようである。
ウェアハウスのベーシスト大坪寛彦の作曲だったはずだが、自然でゆったりとした三拍子のリズムとメロディーが、柳原陽一郎の現在の声質によく調和している。
未収録の曲の中では、音源化が待たれる曲目の筆頭に上げられるかもしれない。
「全曲ライブ」が落ち着いてからのレコーディングが予想されるが、来年の楽しみが一つ増えた。
なお、柳原陽一郎のブログには、動物園の後梅田に行き、その後の行動が伏せられて思わせぶりな書き方になっている。
だが、ANATAKIKOU(倉橋ヨエコと昔よく共演していた関西のバンド)のHPをたまたま見たところ、梅田での行動が書かれていた。
特にミュージシャンとして驚くような行動ではなく、ライブハウスに足を運んでいたようであった。
18切符の期間であればこちらも何とか行きたかった「シグネーチャーホンダとカミオカンデ」の出演日のようだったのだが、ベテランプロの目からどのように映ったのか気になるところではある。


話をJIROKICHIライブに戻すと、この3曲の後MedicinMenの登場となり、バンドでの演奏となる。
前回は3人とも帽子を被っての演奏であったが、この日の帽子はドラマーのみであった(確か)。
加藤一誠は初回から今まで帽子を被らなかったことはなかったが、この日は忘れたのかどうしたのか、いつものトレードマークがなかった。


「腕鳴らし」で、「はじまりのうた」が演奏される。
「メジャーセブンス」「マイナーナインス」などが、歌詞の方に出てくるメタ構造を持っており(「ドレミの歌」のようなものか)、無難に弾かれる。
「キングオブロケンロール」は、「徘徊ロックNo.5」と同じくらいに加藤一誠は自然に弾きこなしてきている。
ただ、今回の加藤一誠のギターはエレキであり、上手いは上手いがいつもほどは際立ちにくいところはあった。
もっとも、こちらの耳も肥えて慣れてしまったのかもしれないが。
「愛のSOLEA」は、前回と同じく開輝之がコントラバスを(おそらくこの曲のためだけに)持参し、演奏した。
前回も書いたが、昔、倉橋ヨエコのバックでよく演奏していた「メガネレンジ」の「ジャンボリー何とか」というベーシストと見た目がよく似ている(同一人物?)。
この曲のこのバージョンは、加藤一誠の「何より素敵なことがある」のコーラスが被ってくるところが一番好きである。


ここでMCが入り、今、全曲ライナーノーツを作成していて、なかなか大変らしい。
昔、『宝島』という雑誌で「柳原の死に曲特集」などが載ったそうだが、「作らなきゃよかった」と思う曲もあり、本当に嫌なのは出さないが、発売されたものの中にも該当する曲があるとのことである。
「僕はヘリコプター」という曲は、独立問題で「飛んでいきたい」という思いだけで作った曲とのことである。(おそらく詳細はライナーノーツに記載されるであろう)。


「流れていこう」から二曲は、柳原陽一郎はギターに持ち替えての演奏となる。
やはり、ステージ全体のコントラストを考えたとき、「ピアノマン」オンリーのステージより幅が広がる。
ピアノは沈黙し思考する印象、ギターは目的に向かい足を動かす印象が、演奏面から感じられる。
ギター曲を何曲かピアノに移植する作業を少し前よく行っていたが、ギターの演奏のよさをどこかで再認識したのかもしれない。
「まわれ糸車」は、欲を言えば加藤一誠のアコースティックギターの音が欲しかった。
今回のこの曲では、柳原陽一郎がアコースティックギターを弾いていたので、音的にはスティール弦の高音は入っては来る。
だが、加藤一誠のギターの技術の高さは、スティール弦の速弾きの音のクリアさ、演奏の滑らかさに強く現れていると感じる。
最近の柳原陽一郎の曲は「等身大の人間の視点」からの歌詞が多いが、この曲は珍しく、メッセージのみを前面に出さず一歩引き、糸車などのものにことよせて表現している。
その分、視覚的な映像が生き生きと情景として浮かび上がり、上品な世界に仕上がっている。


後半、ジョンレノンの「ジェラス・ガイ」と最近の曲「哀しきモンスター」が、やはりソロで演奏される。
ヤナネットでは曲順が入れ替わっているが、「ジェラス・ガイ」が先で間違いない。
その後、自分の好きなビートルズの曲を何曲か紹介し、アンケートにも自分の好きなビートルズの曲を記すように促す。
「哀しきモンスター」は、マイナー調の暗めの歌詞が付く。
「命令形のママ」「否定形のパパ」など、ハッとさせるキーワードが使われているが、最後に「You're Monster」と歌われたことには多少違和感があった。
自分を「モンスター」と意識した孤独な少女(または少年)の、一人称の心の叫びの歌だと思っていたからである。
いずれ、音源化され歌詞カードも活字化されたならば、もう少し曲の意図を把握できるかもしれない。


ここで再びMedicine Menの登場だが、まずは加藤一誠のマンドリンとのセッションとなり、これは非常によかった。
前半で、「作らなければよかった」という曲がある旨のMCがあったが、逆に「この曲を作って本当によかった」「転換点になった」曲もまたあるという旨のMCがある。
「ジャバラの夜」「ブルースを捧ぐ」、そして「ふたりは遊牧民」などは、このグループに属するとのことである。
蛇足で憶測だが、「どんぶらこ」「人生はロデオ」「涙があふれてる」あたりも、実はそれに近い想いを持っているのではないだろうか(「牛小屋」は別格にして)。
この日の演奏だが、マンドリンを力でトレモロ弾きをするのではなく、浮遊感を残した軽やかな透明感とでも言うべき風が、加藤一誠の楽器から流れてきていた。
大自然の荒涼とした部分ではなく、生き物のように生動している部分が、この高音楽器一つでよく表現されていたように思う。


「何にもいいことないけれど」は聴き慣れないジャズバージョンであり、初めて聴く曲だと途中までは思っていた。
だが、「我が家が真っ赤に燃えたとき、お前はツバメと踊ってた」の部分の歌詞は明らかに聴き覚えがあり、ここまで変わったのかと驚かされる。
記憶の中でこの曲は「ヒノモト音頭」的な曲調だった印象があるのだが、全くの記憶違いなのではないかと思わされる。
柳原陽一郎の近年の作品はどちらかといえば歌詞に比重が置かれ、旋律そのものよりもアレンジと歌い方に工夫が感じられるのだが、このバージョンはインストゥルメンタルでも十分通用する。
繊細なムード歌謡が、柳原陽一郎の中高音のゆったりとした美声で歌われている風情で、やはり音楽そのものを楽しむにはよいメロディは効果的である。


そして、目を瞑っても弾けるくらいにおそらく弾き込んだ「徘徊ロックNo.5」が予想どおり演奏される。
主題、及び「ララーラーラララ」の部分での加藤一誠の高音コーラスがよい具合に重なり、近年の定番メンバーの中ではおそらく一番清涼感のあるハモリを聴かせてくれる。
一番驚いたのは、後奏が終わりきらないうちに柳原陽一郎がギターを肩から下ろし、ピアノの前に移動したところである(このまま帰ってしまうと、双葉双一の「インザナイトマイフェスティバル」である)
メドレー形式で、曲と曲の間に空間を入れず、ピアノの和音の八分音符の刻みが心地よく掻き鳴らされ、「人魚の時間」へと続く。
この日の一番の山場は、おそらくここにあったことであろう。
この時代に作られた曲は、比較的無駄の少ない構成になっていて、よく言えば聴き心地がよい、悪く言えば印象が流れて姉妹勝ちなところがあり、「人魚の時間」は「良質な小品」的なイメージがある。
だが、このように組み合わせて弾くことにより、二曲のコントラストもよい効果を生み出し、曲のよさを三割多く引き出すことに成功している。


五月のライブで本当に久々に聴いた「奇蹟の人」が、同じメンバーで再演される。
あまりにも調子よく演奏されたため、喉を痛めんばかりのシャウトが多少心配になった。
「みんなガケップチ」は、ユーモラスなタイトルに一見思えるが、しっとりした曲である。
「優しい人は、みんなガケップチ」という世界観は、「泣いているのは君だけじゃないよ」から続く、報われない社会の中の弱者に対する労わりの視点(安っぽい言葉なので別な言葉にしたいのだが)が継続していることが思わされる。


アンコールに応えて、バンドバージョンで「決めないの知らないの」が演奏される。
確かこの曲だったと思うが、「昨日の夢はバクに食わせて」という部分があり、「ばいばいばく」は演らなかったものの、先ほどのMCとの関連が見られる。
相変わらず、加藤一誠のギターソロは見事である。
関係ないが、「かとういっせい」と最後に「せい」の音が入るためか、「加藤一誠、盛大な拍手を」と「せい」の音が連続するこの台詞をよく聞いた気がする。


再度のアンコールで、歌う予定のなかった「ホーベン」が演奏されたが、この曲ができたエピソードのMCが長く、興味深かった。
アルバム「長いお別れ」を出したすぐ後、マネージャーが「トンズラ」してしまったらしい(しかも、どうも一度でもないようだ)。
その後、自宅に篭って楽器を弾いたり曲を作ったりしていたようだが、やはり現場で様々なミュージシャンと接して刺激を受けていかないといけないと感じて、動き出したときに作った曲とのことである(文言は正確ではないが、大体こんな内容だった)。
そして、ヤナネットを始め、「ウタノワ」を作りと、現在につながっているのだが、このことも全曲ライナーノーツに記されることであろう。
正直、喉は「奇蹟の人」あたりで力を入れすぎてしまったのか、いっぱいいっぱいであり、次の日の朗読の心配をしてしまうほどであった。
だが、MCで曲のありがたみが3割増になっていたので、心して聴き、ステージは終演となった。


この日のライブは、決して奇を衒った選曲をしていたり冒険的な編曲をしていたわけではない。
「ふたりは遊牧民」のマンドリンが見事だったことと、「徘徊ロックNo.5~人魚の時間」のメドレーでの楽器の切替が大きな見せ場であったこととが、特徴として挙げられるぐらいである。
だが、「作るんじゃなかったという曲」「作ってよかった曲」「マネージャーの失踪」など、過去を振り返り当時の思いを正直に語る節々のコメントは興味深く、印象的であった。
若い演奏家との共演が、おそらく自分の若き日の音作りや精神に通ずるものがあり、そうした記憶を引き出してきたのではないだろうか。
ギターとベースの大御所との共演シリーズを来年の1月に控えた今、若くて多くの可能性を秘めた演奏家とも共演し心の整理をしたかったのかもしれない。


なお、終演後、この日のドラマーと思われる男性が出口付近の階段で膝を抱えて灰になり、固まっていた。
顔を見たわけではないが、ライブの終演後すぐに酔いつぶれている観客などいないので、おそらく全力を出し切った演奏者の燃え尽きた姿であったのだろう。
膝を抱えてうずくまるその前に、何故か小皿が置かれていて、お供え物として2円が乗っていた。
この日の演奏に敬意を称して、奮発して5円か10円を供えようかとも考えたが、人物の確定ができなかったので一応見送った。
次回、同じようなシチュエーションが存在すれば、そのときには奮発したいと考えている。