4回にわたって「心は科学で解明できるか?」について考えてきた。

今回は最終回ということで総括してみたい。


キャバクラや合コンに行き、私が心理学を専門にしていると分かると、

女性達の興味はいまだに「私が今何を考えているか分かる?」といった質問に終始する。


そう聞かれると、私はいつも満面の笑みで「エッチなこと考えてるでしょ?」と答えることにしている。


心理学者に初学者的な質問を投げかけると、うんざりした顔をされる。

「それは心理学じゃない」とか「心理学は科学だ」とか言われる。


しかし、そのような素朴な疑問ほど重要なのだ。

初学者の素朴な疑問こそ、心理学の研究対象の萌芽である。


なぜなら、心理学はあくまで人間の心を解明する学問なのだから。

素朴な疑問に答えられない学問など、何の価値もない。


初学者でも心理学者でも共通しているのは、心という対象への興味だ。

人間の心は本当に面白い。


とらえどころがなく、蝶のようにふわふわと舞う。

それなのに、とても儚いのだ。

容易に壊れてしまうのである。


あのキャバクラ嬢たちの素朴な疑問に面白おかしく答えられたとき、

私は心理学を極めたと宣言しようと思う。

前回 は、心理学が破綻してしまう可能性から改めて心理学について考えた。
今回は、心を科学するという難しさについて考えてみたい。


『トム・ソーヤの冒険』で知られる作家マーク・トウェインは、
「ベッドは世界で最も危険な場所である。80%の人がそこで死ぬのだから」と語ったという。

もちろん、多くの人が冗談だと分かる内容だ。

「死の床に伏す」という言葉があるくらいで、
重病・重症の人がベッドを使うのでベッドで死ぬ人が多くなる。

だったら、腹上死が多くなれば、腹が世界で最も危険な場所になるのか。

このような事例は、科学において因果関係を特定するのが困難であることを考えさせられる。

統計学を習うと、相関関係と因果関係の違いについて学ぶ。
相関関係は因果関係を保証しないと。

例えば、「プラスイオンが増えると、犯罪や交通事故の発生率が上がる」
「給与の高い人は、走るのが遅い」
「常夜灯を付けたまま乳幼児を寝かせていると、その子は近視になる」

これらは、すべて典型的な偽相関である。
つまり、別の要因が関係していることを見失い、
ただちに因果関係を推定している。

他に例えば、
「バレーボールをすると身長が伸びる」という論は、
身長が高いからバレーボールをする人もいるということを見落とし、原因と結果を逆転させてしまっている。

科学において「なぜ?」を考えることは骨の折れる作業だ。
「なぜ」なら、ある現象に関する原因は複数あるため、
どの要因が原因となっているかを特定するためには、
その1つ1つの要因を比較検討しなければならないからだ。

こと人間を対象にした場合、科学的に因果関係を推定し、
一般化していくのは不可能かもしれない。

脳の中にあるニューロンは1000億あり、
シナプスの数は1000兆あるといわれている。
その組み合わせによって脳の自発活動が起こるが、
脳は常に書き換えを行うので、もう二度とおなじ状態に戻ることがない。

つまり、再現性がない。
ある研究機関は、「脳には再現性がないという事実には再現性がある」として科学研究をしているそうだ。

脳のレベルの話をしなくとも、人間を取り囲む環境を考えれば分かる。
全く同じ生育環境で育った人間など、1人としていない。
ノイズも多い。
ゆえに、全く同じ条件で比較できるサンプルなど存在しないのだ。

意思決定の問題を扱うとき、人間に理由を求めるのは難しい。
なぜなら、理由などない場合が多いからだ。

咄嗟にジャンケンをしかけて、相手がパーを出してきたとしよう。
そのとき、なぜパーを出したかを答えられる人は少ないだろう。

もちろん、後付でいくらでも理由を述べられるが、その瞬間の思考を忠実に再現しているとはいえない。

これらは、すべて脳の自発活動が原因だが、それらは毎回異なる。
つまり、意思決定には根拠などないのである。

と、これまでネガティブなことしか述べていないが、
再現性がないからこそ私は人間を扱う研究が楽しいと考えている。

実験のたびに、個人の反応を楽しむことができる。
心理学は私にとってオナニーでしかないが、そのおかずは多種多様で飽きることがないのである。
そんなこんなで、次回はこのシリーズの総括を行ってみたい。


[参考文献]

前回 は、「心が科学で解明できるのか」という問いを考えた。

その中で、心理学が破綻する可能性について論じた。


今回は先人の言葉を引きながら、改めて心理学について考えてみたい。



Gardner(1987)は、心理学がやがて脳科学・社会科学・認知科学に吸収されてしまい、

人格心理学と性格心理学だけが残るだろうと記している。


また、利根川(1995)は、脳科学の進展により脳のことが全て明らかになれば、

心理学をはじめとする多くの学問が必要なくなるとしている。


その発言は一種の極論であるとしても、心理学者はある程度の危機感を覚えなければならない。


心理学は科学であると主張する背景には、統計の乱用がある。

統計法による検定を使えば、科学として成立すると過信している者が多い。


心理学者の中には自分を科学者であると自負するあまり、大事な事を見落としている者もいる。

昔から心理学は物理学になりたかったようである。


しかし、統計を使えば科学になるのならば、占星術・六星占術・八卦・血液型性格診断なども

統計に基づいた概念であるため科学として認めなければならない。


どうやら心理学者はそれらと心理学を区別したいらしいが、捨象して成り立つ人の心は、

本当に心そのものを捉えているかに疑問を投げかけたい。


そもそもDescartes(1637)は、科学の手法として「分析」と「総合」をあげている。


「分析」とは、複雑な事象を分かりやすく単純な事象に分割し、その1つ1つを詳細に検討していくことである。

「総合」とは、1つ1つの単純な事象を元に戻すことで、もとの複雑な事象を理解するという過程である。


心理学では分析が盛んに行われ、心理学という学問は不必要なまでの細分化を招いてしまっている。

しかし、その細分化された領域を総合するという作業は未だに行われておらず、

人間全体を把握するには至っていない。


このままでは、やはり心理学は破綻し、脳科学や認知科学に吸収されるという主張ももっともなことだと思われる。


心理学の中にも「心は科学で解明できない」という立場が存在することはする。

それは、質的心理学という領域である。


質的心理学は仮説を立て実験し検証するという量的な研究を否定しているわけではないが、

それだけでは不十分であり、

現場(フィールド)を重視することで人間観や経験世界の現実をいかに捉えていくかを模索している。


やまだ(1997)は、質的研究が具体的な事例を重視し、それを文化・社会・時間的文脈の中で捉え、

人々自身の行為や物語を現実世界の現場の中で理解しようとする領域であるとしている。


つまり、科学が捨象してきた反復不可能な一回限りの具体的事実や特殊性に焦点を当て、

科学の限界を補っているのである。

まさに、心理学の現象学的アプローチといえるだろう。


しかし、質的心理学の研究は主に、人間の発達や文化に偏っている感がある。

心理学全体が質的研究に注意を注ぎ、見つめなおすことを迫られているのではないだろうか。


よって、心理学が心に科学という手法を用いていることに対し、その限界を知ることが必要であり、

今まさにその限界を見つめ直して方向転換を図るときではないかと考える。


科学に頼らない心理学独自の方法論を模索することは、心理学という学問領域を確立し、

一般の人々の素朴な疑問に答えられるだけの知見を提供してくれるに違いない。


心理学が研究者だけ分かる理論を捨て去り、一般の人々が分かるような理論の提供と、

社会的な還元を果たすことを望む。


次回は、心を科学する難しさについて考えてみよう。



[参考文献]


質的心理学―創造的に活用するコツ (ワードマップ)       現場(フィールド)心理学の発想/伊藤 哲司

                         

¥2,310                                  ¥2,520       

Amazon.co.jp                               Amazon.co.jp                           


心はプログラムできるか 人工生命で探る人類最後の謎 (サイエンス・アイ新書 31) (サイエンス・アイ新書 31)/有田 隆也

¥945

Amazon.co.jp


アンビエント・ファインダビリティ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅/ピーター モービル

¥1,995

Amazon.co.jp

前回 は、なぜ心理学の初学者・未学者が「心は科学で解明できない」と思っているかを考えた。

今回は、「心は科学で解明できるのか」という疑問に答えていきたい。



心について科学的手法を用いることが果たして適切といえるだろうか。


およそ科学が客観的な真理、すなわち人間の存在とは無関係に成り立つ真理を解明するものである以上、

人間なしに有り得ない人間の心というものを理解することは最初から不可能であり、

そのような論に意味があるといえるだろうか。


学問領域としての心理学における心の定義は、

心とある種の特徴をもつ抽象的な機械とを同等とみなし、

心はコンピュータであるとしている。


我々は人間の心が神秘的であり無限であると信じていたい傾向があるが、

wooldrididge(1968)は、コンピュータと脳の類似性から人間の心や意識も脳の物質と状態によって支配される

物理現象として捉えている。


しかし、それは我々の直感に反している。

我々人間がコンピュータではないとする直感は、我々の心に深く刻み込まれている。


Guderson(1970)は、人間の心が時として予測できない振る舞いをもたらすことがあるが、

コンピュータの振る舞いはプログラムによって規定されており完全に予測不可能である。

よって、人間の心とコンピュータは違うと指摘する。


コンピュータ上のプログラムはコンピュータの心を扱っており、人間の心を扱っているとはいえない。

なぜなら、それは我々の直感に反するからである。


また、柏端(2003)は、

計算主義の認知観が我々の日常的な心理概念に大きな変更を迫るように思われるとしている。


さらに、心理学は心に付随する行動や認知などの様々な心理現象の説明が不可欠であり、

それによって心を理解しようとするものだが、

それは心そのものを説明していることにならないのではないか。


確かに、計算主義や行動主義は、人間の理解をより促進したが、

心というものを置き去りにしてしまった感がある。


日常生活の中で自分の心を意識し、感じ、考える、そして心とは何だろうと問いかけ、

自分の心や行動について意味を問うことは、ごく自然な成り行きであるといえるだろう。


そのような素朴な疑問は、科学によって切り捨てられてきた傾向がある。


なぜなら、科学は具体的な一回限りの経験から抽象的なものを取り出すが、

その際法則化できないような邪魔なものを捨象するからだ。


その捨象されたものこそ、我々の直感である。


例えば、人間はコンピュータではないとか、夢についての意味を考えることとか、

口説き方のテクニック、占い、血液型性格診断などである。


いつの間にやら、一般の人々が考える心理学と学問領域の心理学には埋めがたい溝ができてしまったが、

そもそも一般の人が疑問に思ったことについて答えられない学問など価値があるといえるだろうか。


未だに社会的に還元できないような現象の説明に終始している学問に果たして未来はあるのだろうか。


一般の人々が抱く素朴な疑問と、科学という手法を使うことで捨象してきた部分に

もう1度目を向ける必要がある。


心理学を学ぶ者、心理学を研究する者が、そのことを自覚しなければ、

一般の人との溝はますます深まり、やがて心理学は破綻してしまうかもしれない。


次回は、心理学が破綻することを予言する人々の言葉を引きながら、改めて心理学について考えてみたい。


[参考文献]


心の科学と哲学―コネクショニズムの可能性

¥2,625

Amazon.co.jp


意識は科学で解き明かせるか―脳・意志・心に挑む物理学 (ブルーバックス)/天外 伺朗
¥861
Amazon.co.jp

Guderson, k. 1970 Philosophy and computer simulation. in O.P. Wood & Pitcher, G. (1970)


John, R. S. 1984 Minds, Brains, and Science. The British Broadcasting Corporation, London Inc.


Wooldridge,D.E. 1968 Mechanical Man. The Physical Basis of Intelligent Life. McGraw-Hill Book Company.

誰しも一度は、自分の心や他人の心について考えたことがあるだろう。


心理学を評して、「学ぶ前の人には親しみを、学び始めた人には当惑や混乱を与える学問である」

と語る人もいる。


このような事態を招くのは、心理学の未学者・初学者が「心は科学で解明できない」という見解を持っているが、

大学で行われている心理学は

心の科学・行動の科学といった「科学」を基盤に成立していることが一因だと考える。


つまり、一般の人が求めている心理学と学問領域での心理学では非常に深い溝があるということである。


では、なぜ心理学の未学者・初学者はそのような見解を持っているのだろうか。

それを明らかにするためには、心身問題に取組まなければならない。


心身問題とは、我々がもつ「自分が人間であり心を持っているという常識的見解と、

物理的世界に関する我々の全体的な科学的理解との折り合いをつけることの困難さ」のことである。


もともとデカルトは、主格二元論(心身二元論)において、主観(観察するもの)と客観(観察されるもの)を完全に分離することで近代科学を成立させている。


つまり心身問題とは、それらの分離された主観と客観とを統合しようとする試みに他ならない。

このような問題に対し、心理学では4つのアプローチが可能である。


1.実験至上主義的アプローチ

   そのような統合には意味がなく、客観性重視の捉え方


2.心理主義的アプローチ

   心は客観性で捉える事はできないとし、主観性や意味を重視するという捉え方


3.質的心理学アプローチ

   1と2の折衷案


4.すべてを脳に還元してしまうアプローチ

   心的現象はすべて脳の中で進行する様々な過程を原因として生じるので、主観も客観も存在しないとする

   捉え方(心脳同一説)。


ここでは、1と2を取り上げる。


1つ目のアプローチは、心を物理的実体として捉え、機能主義を通じた物理系として理解するというものである。

つまり、心は記号処理操作・計算を駆使し、その機能を遂行するという計算主義ということもできる。


2つ目のアプローチは、我々の日常的な心の概念や心における直観に合っており、

文化・生活様式・伝統・社会に深く根ざした心の概念であるといえよう。


1つ目のアプローチを大学で論ぜられるという意味で大学心理学と呼ぶ、

2つ目のアプローチを日常生活における心が主題であるという意味で

日常心理学(素朴心理学)と呼ぶ人もいる。


以上のような議論を踏まえると、心理学の未学者・初学者は2つ目のアプローチを取り、

心理学の研究者は1つ目のアプローチを取っていることが分かる。


言い換えれば、心理学の未学者・初学者と研究者との興味には乖離があるということである。


科学は反復可能な具体的で一回限りの経験から、

法則化や反復が可能な抽象的なものを取り出すことに邁進する。


ゆえに、研究者の興味は、そこに集中する。


また、一方は科学で扱いにくいものを想定し、

一方は科学で扱いやすいものを想定しているため、もともと想定している題材が乖離しているともいえる。


以上のように、心理学の初学者・未学者は人間の心において科学で扱えないものを想定しているため、

「心は科学で解明することができない」という見解を持っているのではないだろうか。


ここで心理学者における一つの疑問が生じる。

果たして、心は科学的手法で解明できるのかという疑問だ。


それは、次回に論じることにしよう。



[参考文献]


心の科学のフロンティア―心はコンピュータ/西川 泰夫

¥3,150

Amazon.co.jp


心理学がわかる。 (アエラムック (89))            方法序説 (岩波文庫)/デカルト
                     
¥1,365                              ¥483
Amazon.co.jp                           Amazon.co.jp

Mind Hacks―実験で知る脳と心のシステム/トム スタッフォード

¥2,940

Amazon.co.jp


Mind パフォーマンス Hacks ―脳と心のユーザーマニュアル―/Ron Hale-Evans

¥2,940

Amazon.co.jp