前回 は、「心が科学で解明できるのか」という問いを考えた。

その中で、心理学が破綻する可能性について論じた。


今回は先人の言葉を引きながら、改めて心理学について考えてみたい。



Gardner(1987)は、心理学がやがて脳科学・社会科学・認知科学に吸収されてしまい、

人格心理学と性格心理学だけが残るだろうと記している。


また、利根川(1995)は、脳科学の進展により脳のことが全て明らかになれば、

心理学をはじめとする多くの学問が必要なくなるとしている。


その発言は一種の極論であるとしても、心理学者はある程度の危機感を覚えなければならない。


心理学は科学であると主張する背景には、統計の乱用がある。

統計法による検定を使えば、科学として成立すると過信している者が多い。


心理学者の中には自分を科学者であると自負するあまり、大事な事を見落としている者もいる。

昔から心理学は物理学になりたかったようである。


しかし、統計を使えば科学になるのならば、占星術・六星占術・八卦・血液型性格診断なども

統計に基づいた概念であるため科学として認めなければならない。


どうやら心理学者はそれらと心理学を区別したいらしいが、捨象して成り立つ人の心は、

本当に心そのものを捉えているかに疑問を投げかけたい。


そもそもDescartes(1637)は、科学の手法として「分析」と「総合」をあげている。


「分析」とは、複雑な事象を分かりやすく単純な事象に分割し、その1つ1つを詳細に検討していくことである。

「総合」とは、1つ1つの単純な事象を元に戻すことで、もとの複雑な事象を理解するという過程である。


心理学では分析が盛んに行われ、心理学という学問は不必要なまでの細分化を招いてしまっている。

しかし、その細分化された領域を総合するという作業は未だに行われておらず、

人間全体を把握するには至っていない。


このままでは、やはり心理学は破綻し、脳科学や認知科学に吸収されるという主張ももっともなことだと思われる。


心理学の中にも「心は科学で解明できない」という立場が存在することはする。

それは、質的心理学という領域である。


質的心理学は仮説を立て実験し検証するという量的な研究を否定しているわけではないが、

それだけでは不十分であり、

現場(フィールド)を重視することで人間観や経験世界の現実をいかに捉えていくかを模索している。


やまだ(1997)は、質的研究が具体的な事例を重視し、それを文化・社会・時間的文脈の中で捉え、

人々自身の行為や物語を現実世界の現場の中で理解しようとする領域であるとしている。


つまり、科学が捨象してきた反復不可能な一回限りの具体的事実や特殊性に焦点を当て、

科学の限界を補っているのである。

まさに、心理学の現象学的アプローチといえるだろう。


しかし、質的心理学の研究は主に、人間の発達や文化に偏っている感がある。

心理学全体が質的研究に注意を注ぎ、見つめなおすことを迫られているのではないだろうか。


よって、心理学が心に科学という手法を用いていることに対し、その限界を知ることが必要であり、

今まさにその限界を見つめ直して方向転換を図るときではないかと考える。


科学に頼らない心理学独自の方法論を模索することは、心理学という学問領域を確立し、

一般の人々の素朴な疑問に答えられるだけの知見を提供してくれるに違いない。


心理学が研究者だけ分かる理論を捨て去り、一般の人々が分かるような理論の提供と、

社会的な還元を果たすことを望む。


次回は、心を科学する難しさについて考えてみよう。



[参考文献]


質的心理学―創造的に活用するコツ (ワードマップ)       現場(フィールド)心理学の発想/伊藤 哲司

                         

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