前回 は、なぜ心理学の初学者・未学者が「心は科学で解明できない」と思っているかを考えた。
今回は、「心は科学で解明できるのか」という疑問に答えていきたい。
心について科学的手法を用いることが果たして適切といえるだろうか。
およそ科学が客観的な真理、すなわち人間の存在とは無関係に成り立つ真理を解明するものである以上、
人間なしに有り得ない人間の心というものを理解することは最初から不可能であり、
そのような論に意味があるといえるだろうか。
学問領域としての心理学における心の定義は、
心とある種の特徴をもつ抽象的な機械とを同等とみなし、
心はコンピュータであるとしている。
我々は人間の心が神秘的であり無限であると信じていたい傾向があるが、
wooldrididge(1968)は、コンピュータと脳の類似性から人間の心や意識も脳の物質と状態によって支配される
物理現象として捉えている。
しかし、それは我々の直感に反している。
我々人間がコンピュータではないとする直感は、我々の心に深く刻み込まれている。
Guderson(1970)は、人間の心が時として予測できない振る舞いをもたらすことがあるが、
コンピュータの振る舞いはプログラムによって規定されており完全に予測不可能である。
よって、人間の心とコンピュータは違うと指摘する。
コンピュータ上のプログラムはコンピュータの心を扱っており、人間の心を扱っているとはいえない。
なぜなら、それは我々の直感に反するからである。
また、柏端(2003)は、
計算主義の認知観が我々の日常的な心理概念に大きな変更を迫るように思われるとしている。
さらに、心理学は心に付随する行動や認知などの様々な心理現象の説明が不可欠であり、
それによって心を理解しようとするものだが、
それは心そのものを説明していることにならないのではないか。
確かに、計算主義や行動主義は、人間の理解をより促進したが、
心というものを置き去りにしてしまった感がある。
日常生活の中で自分の心を意識し、感じ、考える、そして心とは何だろうと問いかけ、
自分の心や行動について意味を問うことは、ごく自然な成り行きであるといえるだろう。
そのような素朴な疑問は、科学によって切り捨てられてきた傾向がある。
なぜなら、科学は具体的な一回限りの経験から抽象的なものを取り出すが、
その際法則化できないような邪魔なものを捨象するからだ。
その捨象されたものこそ、我々の直感である。
例えば、人間はコンピュータではないとか、夢についての意味を考えることとか、
口説き方のテクニック、占い、血液型性格診断などである。
いつの間にやら、一般の人々が考える心理学と学問領域の心理学には埋めがたい溝ができてしまったが、
そもそも一般の人が疑問に思ったことについて答えられない学問など価値があるといえるだろうか。
未だに社会的に還元できないような現象の説明に終始している学問に果たして未来はあるのだろうか。
一般の人々が抱く素朴な疑問と、科学という手法を使うことで捨象してきた部分に
もう1度目を向ける必要がある。
心理学を学ぶ者、心理学を研究する者が、そのことを自覚しなければ、
一般の人との溝はますます深まり、やがて心理学は破綻してしまうかもしれない。
次回は、心理学が破綻することを予言する人々の言葉を引きながら、改めて心理学について考えてみたい。
[参考文献]
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- 意識は科学で解き明かせるか―脳・意志・心に挑む物理学 (ブルーバックス)/天外 伺朗
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Guderson, k. 1970 Philosophy and computer simulation. in O.P. Wood & Pitcher, G. (1970)
John, R. S. 1984 Minds, Brains, and Science. The British Broadcasting Corporation, London Inc.
Wooldridge,D.E. 1968 Mechanical Man. The Physical Basis of Intelligent Life. McGraw-Hill Book Company.