続日本紀の763年(天平宝字7年)の第3回目,宗教観・倫理観を取り上げます。

 本ブログは講談社学術文庫を参考にしており,具体的な記載は中巻P296からです。

 

 

 

 5月6日,鑑真和上がなくなりました。

 続日本紀では鑑真の事績を紹介し,仏法普及の業績をたたえています。

 

 日本に渡る際に何度も漂流し失明したこと,大和朝廷が唐招提寺を鑑真和上に施入したことなどは有名ですが,続日本紀には鑑真和上についてこんな記述もあります。 

 

 

【5月6日】

 和上の鑑真が逝去した。和上は唐の揚州竜興寺の高僧であった。・・・また天皇は,いろいろな薬物についても,真偽を見分けさせたが,和上は一々鼻でかいで区別し,一つも誤らなかった。・・・ 皇太后(光明)が病気になったときも,鑑真の進上した医薬が効果があった。・・・ 和上はあらかじめ自己の没日をさとっており、死期が迫ると端座してやすらかに逝去した。時に年七十七歳であった。

 

 鑑真和上は,どうやら医薬の知識に優れていたようですね。

 

 奈良時代の仏像の特徴として「薬師如来像」が多いことが挙げられます。

 奈良時代はグローバルな人々の移動に伴い,天然痘などの伝染病が大流行しました

 

 医薬の知識を司る薬師如来がもてはやされる素地があったと言えるでしょう。

 鑑真和上の業績の中で「医薬の知識」が取り上げられたのもそういった背景があったのでしょう。

 

 

 

 さて,次は雨乞いの儀式について。

 

【5月28日】

 幣帛を畿内四ヵ国の諸社に奉った。そのうち丹生河上神(大和国吉野郡丹生川上神社。雨乞いの神)には,幣帛の他に黒毛の馬を加えて奉った。日照りのためである。

 

 丹生川上神社は,上社・中社・下社で構成され(それぞれ別の社格),創建は天武天皇の白鳳四年(675年)頃と伝えられます。

 

( 奈良県観光公式サイトより画像拝借・写真は上社) 

 

 丹生川上神社の御祭神は高龗大神(たかおかみのおおかみ)とも罔象女神(みずはのめのかみ)とも言われ,水・雨を掌る竜神とされています。

 

 丹生川上神社で行われる雨乞いの儀式では,祈雨祈願では黒馬が,止雨祈願では白馬が奉献されていました。

 763年は日照りがひどかったので,祈雨祈願のために黒馬が奉献されていますね。

 

 

 では,なぜ祈雨祈願や止雨祈願で馬を奉納したのでしょうか?

 

 家畜を河に沈め降雨祈願をする風習は,実は日本にだけ見られるものではなくユーラシア大陸に広く見られます

 中国の南方,揚子江流域では牛を沈め,北方の黄河流域では牛がいないので馬を沈める,という風習が見られます。

 そもそも「沈」という漢字の旁は牛を表しますから,元来は牛を沈めたのでしょう。

 

 中国では,水の神様を「河伯」といい,大河の水中の中に存在すると考えられていました。

 この河伯へのお供え物として牛馬が用いられたのです。

 これが古代日本にも伝わり,丹生川上神社や貴船神社などで行われる雨乞い神事となったと考えられています。

 

 ついでにいうと,この河伯は日本に伝わった当初は「水神」として扱われていましたが,後にこれが零落し「河童」になりました

 河童の伝承の中には,川岸に水浴びに連れて行った家畜の牛馬を河童が川に引きずり込もうとする,という類のものが見られます。

 いわゆる「河童の駒引」ですが,それは「河伯への牛馬供犠」がモチーフとなったものと考えられます。

 

 

 もうひとつ余談をしておくと,763年の条では朝廷が生きた馬を奉納(つまり生贄)していましたが,庶民が家畜を供犠に捧げるのは難しく,代わりに板に馬の絵を書いて奉納していたようです。

 これが現代に「絵馬」として伝わっています

 もとは雨乞いの儀式なんですが,その元来の意義は忘れ去られ,いまでは恋愛成就や合格祈願などに使われています。

 

 文化というのは時代によって当然に移り変わっていくものです。この「絵馬」に見られるように,その時々で人々が神々に祈る「一大事」は変わっていきますから,それに合わせ絵馬に寄せられる期待も変わっていくのは当然でしょう。

 ただ,絵馬の文化的意義を見つめ直し,その「絵馬」に込められたご先祖の思いを想像することは日本人(ひいては人間)の本質を見つめる上で非常に大事なことと感じます。

 

 当時の時代感覚をもつ人々は,雨乞いに馬を捧げることを「常識」と思っていたからそれほど詳しい解説などは書かれていません。

 だから現代の私達が歴史書を読む際には,記述の一つ一つの事柄を深堀りし,当時の当たり前をなるべく理解する事が必要です。

 

 

 

 次は,渤海に使節を送り届けた板振鎌束のお話です。

 

【10月6日】

 左兵衛で正七位下の板振鎌束は,渤海から帰国するとき,人を海中に投げこんだ。これによって取り調べをうけ,獄に下された。八年の乱(恵美押勝の乱)で獄囚が充満したため,獄から近江に移して居住させた。

 ・・・ 任務を果して渤海から帰るとき,わが国の留学生の高内弓とその妻の高氏および男広成・緑児一人,乳母一人,さらに入唐学問僧の戒融と優婆塞一人がそれぞれ渤海を経由して,鎌束らに随行して帰国しようとしていた。海中で暴風にあって方向を失い,舵取と水手も波にさらわれて沈んでしまった。このとき鎌束は「異国の女性が今この船に乗っている。またこの優婆塞は,常人と異なり,一食に米を数粒しか食べないのに,何日たっても飢えることがない。風に漂流するこの災難は,きっとこれらの異人が原因であるに違いない」と主張し,水手に命じて内弓の妻と緑児・乳母・優婆塞の四人を捕らえてさし上げ,海中に投げこませた。その後も風の勢いはなお猛烈で漂流すること十余日の後,隠岐島に着いた。

 

 

 緑児は,3歳位までの幼児を意味します。

 同じ読み(みどりご)で,嬰児とも書き,これは現在では(えいじ)とよみますね。「みどり」は,木々の若芽が芽吹く,そのような若々しいイメージのものを指しています。

 現代では「赤子」「赤ちゃん」と,血色の良さを想起させる「赤」が若々しさを指す語として用いられているのも面白いですね。

 

 

 優婆塞は「うばそく」と読み,これは仏教において「在家の男性信者」を指します。

 

 原始仏教には信者を4つのカテゴリーに分けています。

 それぞれ,出家の男性信者を比丘(びく),出家の女性信者を比丘尼(びくに),在家の男性信者を優婆塞(うばそく),在家の女性信者を優婆夷(うばい)といいます。

 

 

 さて,航海中に嵐にあった場合,人身供犠をして海の神を沈めるという風習は,昔から各国に見られます

 古代日本においても,ヤマトタケルの神話に名残が見られます。

 

 ヤマトタケルが東征で走水海(三浦半島~房総半島)を渡る際に,嵐で船が前に進めなくなりました。

 その時,妻の一人,オトタチバナヒメがすっと立ち上がり,「自身が海に身を投げて荒ぶる神を沈めましょう」と提案します。

 そこで,海にゴザを広げそこに乗ると海が静まり,船は前に進むことができました。

 それから7日後,オトタチバナヒメが身につけていた櫛が海岸に流れ着き,それを見たヤマトタケルが悲嘆に暮れ,お墓を作って櫛を収めました。

 


 以上は,航海中の人身供犠のお話としては「きれい」な部類に入りますが,魏志倭人伝にある人身供犠はもっとおどろおどろしいもので,こちらが実際の習俗を表していると考えられます。

 

 抜粋すると…

 

 其の行来・渡海,中国に詣るには,恒に一人をして頭を梳らず,蟣蝨を去らず,衣服垢汚,肉を食わず,婦人を近づけず,喪人の如くせしむ。之を名づけて持衰と為す。若し行く者吉善なれば,共にその生口と財物とを顧し,若し疾病あるか,暴害に遭えば,便ち之を殺さんと欲す。其れ持衰謹まずと謂うなり。

 

 現代語訳をすれば,

 

『倭人が航海し,中国に来る場合,一人の人間を選び,頭を櫛で梳かさせず,ノミやシラミを取ることを許さず,肉を食べさせず,女性を近づけず,喪に服す人のようにさせる。これを持衰といった。もし航海がうまく行けば,持衰に奴隷や財物を与え,もし船中に病気が流行ったり,暴風雨にあった場合には持衰を殺そうとする。持衰が潔斎しなかったからである(というのだ)。』
 

 となるでしょう。

 遣唐使船にも必ず持衰を載せていたようです。

 

 遠洋航海する際,当時の日本人は必ず人身御供用の人間を用意して出掛けていきました

 人身御供用の人間は,そのために「生かされている」存在で,神に捧げる贄だから潔斎しなければならないはずです。

 ケガレを避け,身を正常に保つにあたって,生贄に「肉を食べさせない」「女性を近づけない」というのは神道においても見られますが,「髪の毛をくしけずらない」「ノミ・シラミを取らせない」というのはどうも理解できません。

 これが魏志倭人伝が書かれた当時の日本の習俗ということであるなら,生贄となる人間には「喪中の人間と同じように振る舞わせる」というより,動物(それも草食獣)と同じような野生に近い状態に保つことが求められているのではないか,と私には思われます。

 

 

 さて,渤海から帰国途上で嵐にあった板振鎌束一行は,ヤマトタケルの神話や魏志倭人伝と同様,渤海から同行してきた女性4人と優婆塞を海中に放り込み,荒ぶる海神を鎮めようとしました。

 

 これを聞いた大和朝廷は,板振鎌束を牢屋にぶち込みます

 なぜ航海中の人身供犠が罪に問われたのかが問題になりますが,二通りの考え方があると思われます。

 

 まずひとつは,魏志倭人伝の時代と異なり,奈良時代に至ると少なくとも航海中の人身供犠が迷信とみなされるようになっていた可能性が挙げられます。

 ただ,この解釈は遣唐使船に持衰を乗せていたことを考えると,非常に苦しいと思われます。

 だから,もう一つの解釈としては,「きちんとした持衰」を人身供犠に用いなければならず,ただ単に同乗していた女性や仏僧では人身供犠の役に立たない,つまりそれは殺人と変わらない,とされたのではないでしょうか。

 

 

 ここからは推測ですが,763年当時も持衰の習俗は以前残っており,持衰用に育てられる人々が存在したのではないかと思われます。

 つまりは,魏志倭人伝の記載からは,喪人のように扱われているのは船に乗っている最中だけのように見えますが,そうではなく,生贄用に育てられる人々がいて,そういった特殊な人々を船に乗せるのでなければ海神に人間をささげてはならない,という観念があったのではないかと思うのです。

 

 神々に捧げる「生贄」は,一定期間特定のルール下で育てたものである必要がある,との観念があるのではないかと思われます。

 なぜなら,「生贄」の「生」を(いけ)と読ませている言葉は,一定期間生かしておく,という意味が込められているからです。

 例えば生簀(いけす)もそうですし,「生ける屍」とかの「生ける」は主体的に生きているというより,外部から生かされているといったことを指す時の用語法です。

 

 

 生贄の儀式というと,アンデスやアフリカの未開部族のものと思いがちですが,古代に遡れば世界中どこでもありました。

 日本においても,土木工事における人柱伝説などにその習俗の名残が感じられます。

 歴史書を読む際には,現代の倫理観・価値観で過去の出来事を判断するのではなく,そこに記された出来事から当時の価値観や倫理観を浮き上がらせることが求められます

 

 

 続日本紀の763年(天平宝字7年)の第2回目,本ブログは講談社学術文庫を参考にしております。

 763年の第2回は,飢饉・疫病の流行に関して取り上げましょう。

 

 

 

 

 763年の記述を見ると,日本各地で飢饉が発生していたことがわかります。

 前年の収穫が思わしくなかったせいか,春を待たずに飢饉が発生しています。

 飢饉の記録を抜き出すと以下の通りです。

 

【 2月29日】 出羽国で飢饉

【 4月 1日】 信濃国で飢饉

【 4月13日】 陸奥国で飢饉

【 5月16日】 河内国で飢鐘

【 6月 7日】 尾張国で飢饉

【 6月15日】 越前国で飢饉

【 6月21日】 能登国で飢饉

【 6月25日】 大和国で飢饉

【 6月27日】 美濃国で飢饉。摂津・山背二国では疫病がはやった。それぞれ物を恵み与えた。

【 7月26日】 備前・阿波で飢鐘

【 8月 2日】 近江・備中・備後で飢饉

【 8月14日】 丹波・伊予で飢饉

【 8月18日】 山陽道・南海道などの諸国で日照り

【 9月21日】 尾張・美濃・但馬・伯耆・出雲・石見などの六国において,今年の穀物が稔らなかった。

【10月26日】 淡路国で飢饉

【12月21日】 摂津・播磨・備前で飢饅

 

 

 4月には,米不足が深刻化し京都の米価が騰貴したことから,大和朝廷は左右京の市に米穀を供給し米価を安定させる物価安定策を取っています。

 この当時から,米価安定は内政の一丁目一番地だったことが伺え,この政策目標は昭和まで堅持されています。

 

 年初の方は,東北や北陸長野などで飢饉が発生していたようですが,夏場近くになると中部・近畿・中国・四国でも日照りにより農作物が収穫不能となり,日本全国で飢饉が頻発していたことがわかります。

 

 前回の記事(続日本紀@763年 Part1)において,渤海の使者が中国大陸で農作物不作により人民が共食いしているといったことをレポートしている様子が描かれています。

 また,続日本紀@759年 Part3 の9月4日の条に,帰化を希望し新羅より渡来してくる人々の記述があります。

 背景を調べると,どうも740年代後半から760年にかけて朝鮮半島では天候異変により飢饉・疫病が発生していたようで,朝鮮半島で食い詰めた人々が日本に向かったということのようです。

 

 日本においても,大雨で堤防決壊が頻発したり、日照りがあったりと,天候が安定していない様子が続日本紀に記述されております。

 740年代~760年代は,何らかの気候異変が東アジア一帯を襲い,各地で飢餓を引き起こし,それが中国では安史の乱などの政情不安定に繋がったと考えることができるでしょう。

 

 

 

 次に疫病の記述を紹介しましょう。

 

【 4月10日】 壱岐嶋で疫病が流行

【 5月11日】 伊賀国で疫病が流行

【 6月27日】 摂津・山背で疫病が流行

 

 畿内諸国など政権の中心地や,壱岐といった海外との玄関口で疫病が流行していることがわかります。

 大和朝廷は,疫病の流行についても,速やかに情報を入れるよう各地に指示を出していた様子が伺われます。

 

 

 

 さて,全国に広がる飢饉や疫病の流行に対し,時の政権はどのような策をとったのでしょうか,関連記述を抜粋しましょう。

 

【1月15日】

 天皇は次のように詔した。

 聞くところによると,去る天平宝字五年は五穀が稔らず,飢え死にする者が多かったという。そこで五年以上前の公私の出挙の負債について,公の物を返済できない貧窮者には元利とも全免し,私出挙については利息を免除し,元本のみを回収するようにせよ。また造宮に使役される左右京・畿内の五ヵ国および近江国の兵士らは,天平宝字六年の田租はそれぞれ免除せよ。

 

【3月24日】

 天下の諸国に命じて、不動倉(非常用に穀物を蓄えた官倉)の鉤匙を進上させた。国司の交代が頻繁で煩わしいためである。国司が随時に倉の修繕をしたり、湿気に依る損害が出るような場合には、臨時に請求して「かぎ」を受取るようにさせよ。
 

【8月1日】

 天皇は次のように勅した。

 聞くところによると,去年は長雨が降り,今年は日照りが続き,五穀が稔らず,米価が騰貴したという。これにより人民はすでに飢饉に苦しんでいる。それだけではなく,疫病が流行して,死亡者が数多いという。朕はこれを思うたびに心に深く悲しみ哀れに思う。 左右京・五畿内・七道諸国の今年の田租を免除するようにせよ。

 

【9月1日】

 天皇は次のように勅した。

 最近,各地で疫病の死者が多数にのぼり,洪水や旱害が思いがけない時に起こっている。また神火がしばしば発生し,いたずらに官物を損耗している。これは国司・郡司が国神(地方の神々)にうやうやしく仕えていないための天罰である。また十日も日照りが続いて,水のない苦しみを味わったかと思うと,数日にわたって長雨が降り,土地を失って流亡の嘆きを抱く者もいる。これは国司・郡司の民を使役する時期が適当でなく,堤・堰を修造しなかったための過失である。今後,もしこの類のことがあれば,目以上の国司を悉く交代させよ,いつまでも任地に留まって,人民を苦しめ煩わせてはならぬ。さらに良い人物をえらんで,速やかに登用するようにせよ。どうしてもまずい者は役人をやめさせて故郷に帰らせ,賢い者を官人にしたならば,皆がその職務をつくし,人民の憂いはなくなるであろう。


 

 飢饉や疫病が流行した地方に救援物資や医薬品・医者を派遣するのが朝廷の救済策の基本です。

 その上で,畿内の直轄地を中心に,田租の免除・出挙の利稲の免除などがなされ,さらには大赦を行い天皇自ら天に自身の不徳に対する許しを請う,ということが行われます。

 

 このような記述は続日本紀を通じて頻繁に表れますので,紹介は割愛します。

 

 この年の続日本紀の記述で注目すべきは「不動倉」の管理と「神火」の記述です。

 

 3月24日の条では,国司の交代が頻繁で事務が煩わしいので備蓄倉庫の鍵を朝廷に預けよ,との記載が見受けられますが,この当時の国司の任期は4年でありそうそう頻繁に入れ替えがあるわけではないこと,国司の請求に従い鍵を諸国に送らねばならない手間が増えることを考えると,この記述をそのまま鵜呑みにすることはできません。

 

 9月1日の条にみえる「神火」とは,神の祟りと考えるより他にない原因不明の火災,つまりは「不審火」です。

 漏電火災でもあるまいし,穀物倉庫がなんの理由もなく消失することはありえないので誰かが放火したとしか考えられません。

 

 では,誰が火をつけたのか?

 

 3月24日の条と合わせて考えると,大和朝廷は国司や郡司が備蓄倉庫の稲を横領しているのではないか,そして横領がバレるのを恐れた国司や郡司が自ら備蓄倉庫に火をつけて証拠隠滅をしているのではないかと疑っているからこそ,施錠管理を現地に任せられないと考え鍵を取り上げたのだと思われます。

 

 続日本紀の記述では,神火の原因について,国司・郡司の国神への不信仰による天罰と表現していますが,その対策として国神への信仰心の喚起ではなく,国司・郡司の罷免で対処する方針が示されているところを見ると,神火の原因は国司・郡司の不正・管理不行届にあると合理的に考えていたのではないか,と思われます。

 このあたりに,国定の歴史書における表現の妙が伺われますね。

 

 

 今年は,東アジア(特に中国)で,夏場の日照不足や大雨,蝗害などの天候不順による食糧危機が懸念されています。

 中国では,共産党より各省に備蓄穀物の調査が求められ,一部では現地調査がなされる事となっていました。

 

 そこで,こんなニュースが流れました。

 

 https://www.epochtimes.jp/jp/2013/06/html/d92736.html

 

 

 人間の業は,いくら時代を経ても場所を隔てても,それほど変わらないのかもしれません

 (まぁ,現代日本ではこの手の話はあまり聞きませんが…)。

 

 続日本紀の763年(天平宝字7年)の第1回目,本ブログは講談社学術文庫を参考にしております。

 今回から構成を変えて,テーマごとに記事を書いていくことにします。

 

 763年の第1回は,内政・外交政策に関わるものを取り上げましょう。

 

 

 

 

 まずは,朝鮮半島との外交を見てみましょう。

 

【1月1日】

 天皇は大極殿に出御して朝賀を受けた。文武の百官および高麗(渤海)の蕃客(渤海を見下した言い方)はそれぞれ儀式に従い拝賀を行なった。

 

【1月3日】

 高麗の使いの王新福が土地の産物を貢上した。

 

【1月17日】

 帝(淳仁)は,閤門に出御して,五位以上の官人と渤海の蕃客,および文武百官の主典以上を朝堂において饗応した。唐・吐羅(耽羅即ち済州島か)・林邑(南部ベトナム)・東国・隼人などの楽を演じ,内教坊(朝廷で女楽や踏歌を教習した所)の踏歌(あられ走りといわれる踊り)を奏させ,官人と客人の主典以上の者が,これについで踊った。踏歌に供奉した百官と渤海の客人に,地位に応じて真綿を賜わった。

 

【1月17日】

 渤海の大使の王新福は次のように言上した。

 李家(唐の王朝。李は姓)の太上皇(玄宗)と少帝(粛宗)は二人とも崩御しました(玄宗七十八歳・粛宗五十二歳)。その後,広平王が政治をとっていますが,穀物が稔らず,人民は共食いの有様です。史家の朝儀(史思明の子の朝儀。父を殺して皇帝となった)は聖武皇帝と称し,なさけ深く思いやりがあり,多くの人物が心を寄せています。軍隊の勢力は大へん強く,あえて敵するものがありません。鄙州や襄陽は既に史家に属し,李家はただ蘇州のみを保っています。このため唐への朝貢の道が現在では極めて通じにくくなっています。

 

 

 前年までは,宮殿(保良宮)が未完成だったため朝賀は中止されていましたが,この年から再開されています。

 

 続日本紀の記載から,大和朝廷は,渤海を高麗の正統な後継者(つまりは朝鮮半島の正統な支配者)として扱っていること,そしてその朝鮮半島の支配者は日本の冊封に入らねばならないといった“中華思想”を大和朝廷が持っていたことがわかるかと思います。

 まさに「日出ずる処」と自身を規定している大和朝廷の意志が表れているところです。

 

 

 新年の祝賀の宴では,中国本土や朝鮮,ベトナム,日本の周辺域(九州南部・東北)の歌舞が披露されていたようですが,奈良時代というのはグローバルな交流が広がっていた時代でもあります。本年の後段に出てくる鑑真しかり,大仏開眼供養では多くの仏教僧が中国・朝鮮・インドから迎えられています(そもそも開眼供養した僧侶はインド僧でした)。

 

 「あられ走り」は,両腕を広げてキーンといって走り回るあれではありません(笑)。

 あられ走りは,踏歌の別名で,足を踏み鳴らしながら踊るところから踏歌と言われましたが,もともと中国の芸能です。

 毎年正月1月14日~16日にかけて宮中で披露されていました(踏歌節会)。 

 演舞の最後に「万年(よろずとせ)あられ」と言いながら足早に退場することから,「あられ走り」とも言われました。

 「あられ走り」は中世に途絶えてしまい,現在では住吉神社や熱田神宮などの踏歌神事に面影が残されている程度となっています。

 

 以上のように,日本の宮中祭祀といえども,海外文化の影響を色濃く受けているものがあるといったことは留意する必要があるでしょう。

 

 

 渤海は,中国本土の政治情勢という重要情報を日本に伝えています。

 この時代,日本の将来を背負って立つ官僚や学僧を遣唐使として唐に派遣しており,安史の乱によって大使の藤原清河が帰国できない状況に陥ってました。(詳しくは,本ブログの 759年 Part1 や 761年 Part3 あたりをご覧ください)

 

 史思明は,安禄山の部下で,突厥(トルコ系民族)とソグド人のハーフ(混血)です。「安史の乱」とは安碌山と史思明が唐王朝に起こした反乱のことでした。史思明は,軍人でありながら6ヶ国語に精通する高い教養を兼ね備えた人物であったようです。

 安碌山が次男の安慶緒に暗殺されると,史思明はこれに反発し,逆に安慶緒を攻め滅ぼし,自身が大燕皇帝を名乗ります。

 続日本紀の記述にもある通り,史思明は末子を後継者に指名しようとし,これに激怒した長男の史朝義が父の史思明を暗殺,皇帝位を継承します。

 といっても,唐王朝の李家はまだ勢力を縮小しながらも,蘇州の支配を維持していました,これも続日本紀の記載の通り。

 

 

 以上は渤海との交流関係でしたが,朝鮮半島のもう一方の大国,新羅との関係はどうだったかというと・・・・・・

 

 

 

【2月10日】

 新羅国が級喰(第九官位)の金体信以下二百十一人を遣わして朝貢した。朝廷は左少弁・従五位下の大原真人今城,讃岐介・外従五位下の池原公禾守らを遣わして,さきに金貞巻に約束した趣旨をたずねさせた。金体信は「私は国王の命令を承って,ただ調を貢上するのにすぎません。それ以外のことは全く存じません」と答えた。そこで今城は次のように告げた。

 乾政官(太政官)は次のように処分した。「今回の新羅の使人は京都(平城京)に召し入れて,常の通りに待遇しよう。しかし使人らは,金貞巻に約定した旨について,全く申し及ぶことなく,ただ恒例の貢物を携えて日本の朝廷に参上したのみで,その他のことは知りません,と言うばかりである。これは使者に命ぜられた人が言うべきことではない。今後は新羅の王子か,政治を執り行なっている高官たちを入朝させよ」と。よろしく今回の処分の実状を汝の国王に告げるようにせよ。

 

 

 ということで,相変わらず新羅は日本に対し,王子・高官級の使者の派遣を拒み続け,日本も朝貢の使者を冷遇しつつ裏で戦争準備をすすめるといった状況が継続しています。

 続日本紀の記述を見ると,藤原家は新羅が嫌いなんでしょうね,先祖代々ずっと新羅への敵意を持ち続けています。

 

 

 では,お次は内政問題を取り上げましょう。

 

 前年までのおさらいをすると,恵美押勝(藤原仲麻呂)がこれまでの宮家と別の家系から天皇を擁立(淳仁天皇)し,我が世の春を送っていました。これに反感を抱いていた孝謙上皇との対立が徐々に激化していきます。

 

 

【9月4日】

 使者を山階寺(興福寺)に遣わして、天皇の詔を次のように宣した。

 「少僧都の慈訓法師は,僧綱として政務を行なうのに,道理に合わぬことをしており,その職にふさわしいものでない。よろしくその任を停止し,衆僧の意見によって,道鏡法師を少僧都に任命するようにせよ」と。

 

【12月29日】

 礼部(治部)少輔・従五位下の中臣朝臣伊加麻呂,造東大寺判官・正六位上の葛井連根道・中臣伊加麻呂の息子の真助ら三人が酒を飲み,話がときの忌諱(憚りごと。孝謙上皇と道鏡の関係のことか)に触れたという罪で,伊加麻呂は大隅守に左遷され,根道は隠岐に,中臣真助は土佐にそれぞれ流された。密告した酒波長歳は従八位を授けられ,近江史生に任じられた。中臣真麻伎には従七位下を授け,但馬員外の史生に任じた。

 

 

 ここに,この時代のもうひとりの権力者が登場します,弓削道鏡ですね。

 

 道鏡は弓削氏の出自で,弓削氏は弓の製造を担っていた氏族であり,もとをたどると物部氏につながると言われています。

 道鏡は,700年河内国に生まれ,若くして法相宗の高僧・義淵に弟子入りし,良弁からサンスクリット語を学び,禅に精通していました。

 

 また,政治的な野心も強く,761年保良宮造営のとき,病に臥せった孝謙上皇を献身的に看病し,これにより上皇の寵愛を受け政治力をつけていきました。これに淳仁天皇が度々苦言を呈したことで,孝謙上皇と淳仁天皇の関係はのっぴきならないものとなります。

 

 この時の孝謙上皇は,母親が死去し宮中での発言権が弱まり,先代より受け継いだ平城京から藤原仲麻呂の根拠地である保良宮に遷都され,自身の体調不安もあり,政治的にも精神的にも相当追い込まれていたと思います。

  淳仁天皇が,孝謙上皇の立場に理解を示し,適切に処遇すればおそらくこの後に起こる対立は回避できたと思いますが,淳仁天皇(とその背後にいる藤原仲麻呂)は上皇を追い落とすチャンスとばかりに更に追い込みをかける道を選びました。

 

 明らかな対立関係にある政敵を追い詰めすぎると,その先に待つのは雌雄を決する戦いのみです。上皇に弓引くことになる,その覚悟が淳仁天皇側にあったのか・・・。

 このような政治力学や人間模様は,現代政治や組織内政治でも再現されうるものと思います。

 

 

 最後に,不謹慎な話を1つ。

 

 孝謙上皇と道鏡のただならぬ関係は,続日本紀の記述の通り,公然の秘密となっていましたが,それに尾ひれがついて後代に「道鏡巨根伝説」として流布します。

 

 江戸時代には,「道鏡は  座るとひざが  三つでき」 といった川柳が読まれる始末。

 好色の坊主の話は,少なからず道鏡のこの逸話の影響が見られます。

 いやー,しばらく更新が止まっておりました,すんません。

 

 ツイッターの方で,ぶつぶつ呟いていましたが・・・・・・

 

 10月から職場が変わりまして,それがうちの会社で1,2を争うブラック職場なんですよ。

 (とはいっても,残業代が出ないとか,そういう法的な問題はないのですが)

 

 至近の私のタイムスケジュールを説明しますとこんな感じです。

 

 6:00  起床

 6:40  家を出る

 7:00  電車に乗る

 7:40  会社到着

     (決済書類の処理,メール読み込み)

 8:30  朝礼・ミーティング

     (大抵会議が2本,空きを見て自分の仕事)

12:00  昼飯食いつつメール処理

13:00  午後の部スタート

     (会議が2~3本,空きを見て自分の仕事)

17:00  ようやく自席に戻る

     (部下の報告・相談を受ける)

19:00  ここからが本当の業務スタート

23:00  退社

23:30  帰宅

24:00  就寝

 

 

 たいてい平日に終わらないので,読みきれなかったメールやら資料やらは土日に出社して片付けている状況なので,完全オフは2・3週間に1日取れるかどうか,といった感じですねー。

 

 ということで,ブログを書く時間がない,という以前に,本を読む時間すら取れていない状況です。

 

 何が言いたいかというと,更新速度が落ちてしまうこと,レスポンスが落ちてしまうことについてご了承いただきたく。

 今回から新シリーズを始めます。

 

 「タロットの歴史」が終了したので,ヨーロッパ系の本を継続的に取り上げようかとも思ったのですが,最近のニュースから『中国の現代史』の方がニーズがあるだろうとおもったので,路線転換です。

 といっても,紹介したい本が出てくればヨーロッパ関連も同時並行で取り上げようかと思います。

 

 

 で,紹介する本は『マオ~誰も知らなかった毛沢東』です。

 

 

 この本を選んだのには以下の理由があります。

 

(1) 毛沢東の思想が,現代の中華人民共和国,中国共産党の性格を規定している

(2) 習近平国家主席の政治路線に,毛沢東思想が強い影響を与えていると思われる

(3) 毛沢東の起こした『大躍進運動・文化大革命』といった20世紀の悲劇を知る必要がある

 

 

 

 初めにお断りしておきます。

 

 私は,社会主義・共産主義に対して否定的な見解を持っていますし,私が今シリーズで紹介する『マオ ~ 誰も知らなかった毛沢東』や,関連事項で時折引用する他書籍や中国ニュースも,そういった観点からご紹介することになります。

 

 もちろん,社会主義や共産主義を擁護し,「労働者を搾取する資本主義に反対!」という思想をお持ちの方もいるでしょうし,そのような『理想』はそれなりに傾聴に値すると思いますが,それが20世紀にどのように展開されてきたかという点では全く擁護できないというのが私の立場です。

 

 

 だから,「毛沢東万歳!中共最高!」って考え方の人は胸くそ悪くなると思いますので,閲覧をお控えいただくか「こういう考え方もあるのね」程度でご覧いただければと思います。

 当然,理知的な議論は歓迎ですので,コメントいただければと思いますが,議論する際にはマナー・ルールを守ってくださいね,ということです(まぁ,当ブログにコメントを書く人はいませんが,念の為)。

 

 

 初回は,本の中身に入る前に関連年表を紹介しておきましょう。

 中国近現代史はアヘン戦争から始まりますので,本ブログでもアヘン戦争から年表を起こしていきましょう。

 

 

【中国近現代史年表】

1840年  アヘン戦争勃発

1842年  南京条約締結

1851年  太平天国の乱(~64年)

1856年  アロー戦争勃発

1859年  イギリスなどと天津条約締結

1860年  北京条約締結

1860年  洋務運動開始(~94年)

1871年  日清修好条規調印

1884年  清仏戦争(~85年)

1885年  天津条約締結(清仏)

1894年  朝鮮で甲午農民戦争勃発

1894年  日清戦争(~95年)

1895年  下関条約調印,朝鮮独立,三国干渉

1898年  戊戌の変法開始

   → 西太后が弾圧(戊戌の政変)

1899年  義和団事件勃発(~01年)

1901年  北京議定書締結

1905年  孫文,東京で中国同盟会を結成

1905年  科挙の廃止

1908年  光緒帝・西太后死去

   → 宣統帝溥儀が即位

1911年  辛亥革命勃発,宣統帝退位

1912年  中華民国成立,孫文が臨時総統に

1913年  袁世凱,中華民国の大総統に

1914年  第一次世界大戦勃発

1915年  日本,中華民国に二十一カ条要求

1915年  袁世凱,皇帝即位

1919年  五・四運動勃発

1919年  孫文,中国国民党を結成

1921年  中国共産党結成

1924年  共産党員の国民党入党

        (第一次国共合作)

1924年  北伐宣言

1927年  蒋介石の共産党弾圧

1927年  南京に国民政府を樹立

1928年  関東軍,張作霖爆殺

1928年  国民革命軍,北京占領(北伐完了)

1931年  柳条湖事件,満州事変

1931年  毛沢東,中華ソビエト共和国樹立

1932年  国際連盟,リットン調査団を派遣

1932年  満州国建国宣言

1933年  満州国建国を認める塘沽協定締結

1934年  中国共産党,長征開始(~36年)

1936年  西安事件

1937年  盧溝橋事件,日中戦争,南京占領

1941年  太平洋戦争(~45年)

1945年  日本,ポツダム宣言受諾,終戦

1946年  国共内戦,5・4指示による土地改革

1948年  大韓民国,北朝鮮が独立

1949年  毛沢東,中華人民共和国建国

1949年  蒋介石,台湾に逃亡

1950年  朝鮮戦争(~53年)

1953年  第一次五カ年計画(農工業が成長)

1954年  通貨(人民元)の統一完了

1958年  第二次五カ年計画(大躍進運動)

1966年  文化大革命(~76年)

1972年  日中国交正常化

1978年  鄧小平,改革開放政策に着手

1989年  天安門事件

1990年~ 「韜光養晦」方針で経済発展

1997年  香港が中国に返還

1999年  マカオが中国に返還

2008年  北京オリンピック開催

2010年  中国のGDPが世界第2位に

2013年  習近平,「一帯一路」構想発表

2017年  習近平,「中国の夢」を語る

2019年  武漢で新型コロナウイルス検出

2020年  新型コロナウイルスが世界中に拡散