続日本紀の763年(天平宝字7年)の第3回目,宗教観・倫理観を取り上げます。

 本ブログは講談社学術文庫を参考にしており,具体的な記載は中巻P296からです。

 

 

 

 5月6日,鑑真和上がなくなりました。

 続日本紀では鑑真の事績を紹介し,仏法普及の業績をたたえています。

 

 日本に渡る際に何度も漂流し失明したこと,大和朝廷が唐招提寺を鑑真和上に施入したことなどは有名ですが,続日本紀には鑑真和上についてこんな記述もあります。 

 

 

【5月6日】

 和上の鑑真が逝去した。和上は唐の揚州竜興寺の高僧であった。・・・また天皇は,いろいろな薬物についても,真偽を見分けさせたが,和上は一々鼻でかいで区別し,一つも誤らなかった。・・・ 皇太后(光明)が病気になったときも,鑑真の進上した医薬が効果があった。・・・ 和上はあらかじめ自己の没日をさとっており、死期が迫ると端座してやすらかに逝去した。時に年七十七歳であった。

 

 鑑真和上は,どうやら医薬の知識に優れていたようですね。

 

 奈良時代の仏像の特徴として「薬師如来像」が多いことが挙げられます。

 奈良時代はグローバルな人々の移動に伴い,天然痘などの伝染病が大流行しました

 

 医薬の知識を司る薬師如来がもてはやされる素地があったと言えるでしょう。

 鑑真和上の業績の中で「医薬の知識」が取り上げられたのもそういった背景があったのでしょう。

 

 

 

 さて,次は雨乞いの儀式について。

 

【5月28日】

 幣帛を畿内四ヵ国の諸社に奉った。そのうち丹生河上神(大和国吉野郡丹生川上神社。雨乞いの神)には,幣帛の他に黒毛の馬を加えて奉った。日照りのためである。

 

 丹生川上神社は,上社・中社・下社で構成され(それぞれ別の社格),創建は天武天皇の白鳳四年(675年)頃と伝えられます。

 

( 奈良県観光公式サイトより画像拝借・写真は上社) 

 

 丹生川上神社の御祭神は高龗大神(たかおかみのおおかみ)とも罔象女神(みずはのめのかみ)とも言われ,水・雨を掌る竜神とされています。

 

 丹生川上神社で行われる雨乞いの儀式では,祈雨祈願では黒馬が,止雨祈願では白馬が奉献されていました。

 763年は日照りがひどかったので,祈雨祈願のために黒馬が奉献されていますね。

 

 

 では,なぜ祈雨祈願や止雨祈願で馬を奉納したのでしょうか?

 

 家畜を河に沈め降雨祈願をする風習は,実は日本にだけ見られるものではなくユーラシア大陸に広く見られます

 中国の南方,揚子江流域では牛を沈め,北方の黄河流域では牛がいないので馬を沈める,という風習が見られます。

 そもそも「沈」という漢字の旁は牛を表しますから,元来は牛を沈めたのでしょう。

 

 中国では,水の神様を「河伯」といい,大河の水中の中に存在すると考えられていました。

 この河伯へのお供え物として牛馬が用いられたのです。

 これが古代日本にも伝わり,丹生川上神社や貴船神社などで行われる雨乞い神事となったと考えられています。

 

 ついでにいうと,この河伯は日本に伝わった当初は「水神」として扱われていましたが,後にこれが零落し「河童」になりました

 河童の伝承の中には,川岸に水浴びに連れて行った家畜の牛馬を河童が川に引きずり込もうとする,という類のものが見られます。

 いわゆる「河童の駒引」ですが,それは「河伯への牛馬供犠」がモチーフとなったものと考えられます。

 

 

 もうひとつ余談をしておくと,763年の条では朝廷が生きた馬を奉納(つまり生贄)していましたが,庶民が家畜を供犠に捧げるのは難しく,代わりに板に馬の絵を書いて奉納していたようです。

 これが現代に「絵馬」として伝わっています

 もとは雨乞いの儀式なんですが,その元来の意義は忘れ去られ,いまでは恋愛成就や合格祈願などに使われています。

 

 文化というのは時代によって当然に移り変わっていくものです。この「絵馬」に見られるように,その時々で人々が神々に祈る「一大事」は変わっていきますから,それに合わせ絵馬に寄せられる期待も変わっていくのは当然でしょう。

 ただ,絵馬の文化的意義を見つめ直し,その「絵馬」に込められたご先祖の思いを想像することは日本人(ひいては人間)の本質を見つめる上で非常に大事なことと感じます。

 

 当時の時代感覚をもつ人々は,雨乞いに馬を捧げることを「常識」と思っていたからそれほど詳しい解説などは書かれていません。

 だから現代の私達が歴史書を読む際には,記述の一つ一つの事柄を深堀りし,当時の当たり前をなるべく理解する事が必要です。

 

 

 

 次は,渤海に使節を送り届けた板振鎌束のお話です。

 

【10月6日】

 左兵衛で正七位下の板振鎌束は,渤海から帰国するとき,人を海中に投げこんだ。これによって取り調べをうけ,獄に下された。八年の乱(恵美押勝の乱)で獄囚が充満したため,獄から近江に移して居住させた。

 ・・・ 任務を果して渤海から帰るとき,わが国の留学生の高内弓とその妻の高氏および男広成・緑児一人,乳母一人,さらに入唐学問僧の戒融と優婆塞一人がそれぞれ渤海を経由して,鎌束らに随行して帰国しようとしていた。海中で暴風にあって方向を失い,舵取と水手も波にさらわれて沈んでしまった。このとき鎌束は「異国の女性が今この船に乗っている。またこの優婆塞は,常人と異なり,一食に米を数粒しか食べないのに,何日たっても飢えることがない。風に漂流するこの災難は,きっとこれらの異人が原因であるに違いない」と主張し,水手に命じて内弓の妻と緑児・乳母・優婆塞の四人を捕らえてさし上げ,海中に投げこませた。その後も風の勢いはなお猛烈で漂流すること十余日の後,隠岐島に着いた。

 

 

 緑児は,3歳位までの幼児を意味します。

 同じ読み(みどりご)で,嬰児とも書き,これは現在では(えいじ)とよみますね。「みどり」は,木々の若芽が芽吹く,そのような若々しいイメージのものを指しています。

 現代では「赤子」「赤ちゃん」と,血色の良さを想起させる「赤」が若々しさを指す語として用いられているのも面白いですね。

 

 

 優婆塞は「うばそく」と読み,これは仏教において「在家の男性信者」を指します。

 

 原始仏教には信者を4つのカテゴリーに分けています。

 それぞれ,出家の男性信者を比丘(びく),出家の女性信者を比丘尼(びくに),在家の男性信者を優婆塞(うばそく),在家の女性信者を優婆夷(うばい)といいます。

 

 

 さて,航海中に嵐にあった場合,人身供犠をして海の神を沈めるという風習は,昔から各国に見られます

 古代日本においても,ヤマトタケルの神話に名残が見られます。

 

 ヤマトタケルが東征で走水海(三浦半島~房総半島)を渡る際に,嵐で船が前に進めなくなりました。

 その時,妻の一人,オトタチバナヒメがすっと立ち上がり,「自身が海に身を投げて荒ぶる神を沈めましょう」と提案します。

 そこで,海にゴザを広げそこに乗ると海が静まり,船は前に進むことができました。

 それから7日後,オトタチバナヒメが身につけていた櫛が海岸に流れ着き,それを見たヤマトタケルが悲嘆に暮れ,お墓を作って櫛を収めました。

 


 以上は,航海中の人身供犠のお話としては「きれい」な部類に入りますが,魏志倭人伝にある人身供犠はもっとおどろおどろしいもので,こちらが実際の習俗を表していると考えられます。

 

 抜粋すると…

 

 其の行来・渡海,中国に詣るには,恒に一人をして頭を梳らず,蟣蝨を去らず,衣服垢汚,肉を食わず,婦人を近づけず,喪人の如くせしむ。之を名づけて持衰と為す。若し行く者吉善なれば,共にその生口と財物とを顧し,若し疾病あるか,暴害に遭えば,便ち之を殺さんと欲す。其れ持衰謹まずと謂うなり。

 

 現代語訳をすれば,

 

『倭人が航海し,中国に来る場合,一人の人間を選び,頭を櫛で梳かさせず,ノミやシラミを取ることを許さず,肉を食べさせず,女性を近づけず,喪に服す人のようにさせる。これを持衰といった。もし航海がうまく行けば,持衰に奴隷や財物を与え,もし船中に病気が流行ったり,暴風雨にあった場合には持衰を殺そうとする。持衰が潔斎しなかったからである(というのだ)。』
 

 となるでしょう。

 遣唐使船にも必ず持衰を載せていたようです。

 

 遠洋航海する際,当時の日本人は必ず人身御供用の人間を用意して出掛けていきました

 人身御供用の人間は,そのために「生かされている」存在で,神に捧げる贄だから潔斎しなければならないはずです。

 ケガレを避け,身を正常に保つにあたって,生贄に「肉を食べさせない」「女性を近づけない」というのは神道においても見られますが,「髪の毛をくしけずらない」「ノミ・シラミを取らせない」というのはどうも理解できません。

 これが魏志倭人伝が書かれた当時の日本の習俗ということであるなら,生贄となる人間には「喪中の人間と同じように振る舞わせる」というより,動物(それも草食獣)と同じような野生に近い状態に保つことが求められているのではないか,と私には思われます。

 

 

 さて,渤海から帰国途上で嵐にあった板振鎌束一行は,ヤマトタケルの神話や魏志倭人伝と同様,渤海から同行してきた女性4人と優婆塞を海中に放り込み,荒ぶる海神を鎮めようとしました。

 

 これを聞いた大和朝廷は,板振鎌束を牢屋にぶち込みます

 なぜ航海中の人身供犠が罪に問われたのかが問題になりますが,二通りの考え方があると思われます。

 

 まずひとつは,魏志倭人伝の時代と異なり,奈良時代に至ると少なくとも航海中の人身供犠が迷信とみなされるようになっていた可能性が挙げられます。

 ただ,この解釈は遣唐使船に持衰を乗せていたことを考えると,非常に苦しいと思われます。

 だから,もう一つの解釈としては,「きちんとした持衰」を人身供犠に用いなければならず,ただ単に同乗していた女性や仏僧では人身供犠の役に立たない,つまりそれは殺人と変わらない,とされたのではないでしょうか。

 

 

 ここからは推測ですが,763年当時も持衰の習俗は以前残っており,持衰用に育てられる人々が存在したのではないかと思われます。

 つまりは,魏志倭人伝の記載からは,喪人のように扱われているのは船に乗っている最中だけのように見えますが,そうではなく,生贄用に育てられる人々がいて,そういった特殊な人々を船に乗せるのでなければ海神に人間をささげてはならない,という観念があったのではないかと思うのです。

 

 神々に捧げる「生贄」は,一定期間特定のルール下で育てたものである必要がある,との観念があるのではないかと思われます。

 なぜなら,「生贄」の「生」を(いけ)と読ませている言葉は,一定期間生かしておく,という意味が込められているからです。

 例えば生簀(いけす)もそうですし,「生ける屍」とかの「生ける」は主体的に生きているというより,外部から生かされているといったことを指す時の用語法です。

 

 

 生贄の儀式というと,アンデスやアフリカの未開部族のものと思いがちですが,古代に遡れば世界中どこでもありました。

 日本においても,土木工事における人柱伝説などにその習俗の名残が感じられます。

 歴史書を読む際には,現代の倫理観・価値観で過去の出来事を判断するのではなく,そこに記された出来事から当時の価値観や倫理観を浮き上がらせることが求められます