続日本紀の763年(天平宝字7年)の第1回目,本ブログは講談社学術文庫を参考にしております。

 今回から構成を変えて,テーマごとに記事を書いていくことにします。

 

 763年の第1回は,内政・外交政策に関わるものを取り上げましょう。

 

 

 

 

 まずは,朝鮮半島との外交を見てみましょう。

 

【1月1日】

 天皇は大極殿に出御して朝賀を受けた。文武の百官および高麗(渤海)の蕃客(渤海を見下した言い方)はそれぞれ儀式に従い拝賀を行なった。

 

【1月3日】

 高麗の使いの王新福が土地の産物を貢上した。

 

【1月17日】

 帝(淳仁)は,閤門に出御して,五位以上の官人と渤海の蕃客,および文武百官の主典以上を朝堂において饗応した。唐・吐羅(耽羅即ち済州島か)・林邑(南部ベトナム)・東国・隼人などの楽を演じ,内教坊(朝廷で女楽や踏歌を教習した所)の踏歌(あられ走りといわれる踊り)を奏させ,官人と客人の主典以上の者が,これについで踊った。踏歌に供奉した百官と渤海の客人に,地位に応じて真綿を賜わった。

 

【1月17日】

 渤海の大使の王新福は次のように言上した。

 李家(唐の王朝。李は姓)の太上皇(玄宗)と少帝(粛宗)は二人とも崩御しました(玄宗七十八歳・粛宗五十二歳)。その後,広平王が政治をとっていますが,穀物が稔らず,人民は共食いの有様です。史家の朝儀(史思明の子の朝儀。父を殺して皇帝となった)は聖武皇帝と称し,なさけ深く思いやりがあり,多くの人物が心を寄せています。軍隊の勢力は大へん強く,あえて敵するものがありません。鄙州や襄陽は既に史家に属し,李家はただ蘇州のみを保っています。このため唐への朝貢の道が現在では極めて通じにくくなっています。

 

 

 前年までは,宮殿(保良宮)が未完成だったため朝賀は中止されていましたが,この年から再開されています。

 

 続日本紀の記載から,大和朝廷は,渤海を高麗の正統な後継者(つまりは朝鮮半島の正統な支配者)として扱っていること,そしてその朝鮮半島の支配者は日本の冊封に入らねばならないといった“中華思想”を大和朝廷が持っていたことがわかるかと思います。

 まさに「日出ずる処」と自身を規定している大和朝廷の意志が表れているところです。

 

 

 新年の祝賀の宴では,中国本土や朝鮮,ベトナム,日本の周辺域(九州南部・東北)の歌舞が披露されていたようですが,奈良時代というのはグローバルな交流が広がっていた時代でもあります。本年の後段に出てくる鑑真しかり,大仏開眼供養では多くの仏教僧が中国・朝鮮・インドから迎えられています(そもそも開眼供養した僧侶はインド僧でした)。

 

 「あられ走り」は,両腕を広げてキーンといって走り回るあれではありません(笑)。

 あられ走りは,踏歌の別名で,足を踏み鳴らしながら踊るところから踏歌と言われましたが,もともと中国の芸能です。

 毎年正月1月14日~16日にかけて宮中で披露されていました(踏歌節会)。 

 演舞の最後に「万年(よろずとせ)あられ」と言いながら足早に退場することから,「あられ走り」とも言われました。

 「あられ走り」は中世に途絶えてしまい,現在では住吉神社や熱田神宮などの踏歌神事に面影が残されている程度となっています。

 

 以上のように,日本の宮中祭祀といえども,海外文化の影響を色濃く受けているものがあるといったことは留意する必要があるでしょう。

 

 

 渤海は,中国本土の政治情勢という重要情報を日本に伝えています。

 この時代,日本の将来を背負って立つ官僚や学僧を遣唐使として唐に派遣しており,安史の乱によって大使の藤原清河が帰国できない状況に陥ってました。(詳しくは,本ブログの 759年 Part1 や 761年 Part3 あたりをご覧ください)

 

 史思明は,安禄山の部下で,突厥(トルコ系民族)とソグド人のハーフ(混血)です。「安史の乱」とは安碌山と史思明が唐王朝に起こした反乱のことでした。史思明は,軍人でありながら6ヶ国語に精通する高い教養を兼ね備えた人物であったようです。

 安碌山が次男の安慶緒に暗殺されると,史思明はこれに反発し,逆に安慶緒を攻め滅ぼし,自身が大燕皇帝を名乗ります。

 続日本紀の記述にもある通り,史思明は末子を後継者に指名しようとし,これに激怒した長男の史朝義が父の史思明を暗殺,皇帝位を継承します。

 といっても,唐王朝の李家はまだ勢力を縮小しながらも,蘇州の支配を維持していました,これも続日本紀の記載の通り。

 

 

 以上は渤海との交流関係でしたが,朝鮮半島のもう一方の大国,新羅との関係はどうだったかというと・・・・・・

 

 

 

【2月10日】

 新羅国が級喰(第九官位)の金体信以下二百十一人を遣わして朝貢した。朝廷は左少弁・従五位下の大原真人今城,讃岐介・外従五位下の池原公禾守らを遣わして,さきに金貞巻に約束した趣旨をたずねさせた。金体信は「私は国王の命令を承って,ただ調を貢上するのにすぎません。それ以外のことは全く存じません」と答えた。そこで今城は次のように告げた。

 乾政官(太政官)は次のように処分した。「今回の新羅の使人は京都(平城京)に召し入れて,常の通りに待遇しよう。しかし使人らは,金貞巻に約定した旨について,全く申し及ぶことなく,ただ恒例の貢物を携えて日本の朝廷に参上したのみで,その他のことは知りません,と言うばかりである。これは使者に命ぜられた人が言うべきことではない。今後は新羅の王子か,政治を執り行なっている高官たちを入朝させよ」と。よろしく今回の処分の実状を汝の国王に告げるようにせよ。

 

 

 ということで,相変わらず新羅は日本に対し,王子・高官級の使者の派遣を拒み続け,日本も朝貢の使者を冷遇しつつ裏で戦争準備をすすめるといった状況が継続しています。

 続日本紀の記述を見ると,藤原家は新羅が嫌いなんでしょうね,先祖代々ずっと新羅への敵意を持ち続けています。

 

 

 では,お次は内政問題を取り上げましょう。

 

 前年までのおさらいをすると,恵美押勝(藤原仲麻呂)がこれまでの宮家と別の家系から天皇を擁立(淳仁天皇)し,我が世の春を送っていました。これに反感を抱いていた孝謙上皇との対立が徐々に激化していきます。

 

 

【9月4日】

 使者を山階寺(興福寺)に遣わして、天皇の詔を次のように宣した。

 「少僧都の慈訓法師は,僧綱として政務を行なうのに,道理に合わぬことをしており,その職にふさわしいものでない。よろしくその任を停止し,衆僧の意見によって,道鏡法師を少僧都に任命するようにせよ」と。

 

【12月29日】

 礼部(治部)少輔・従五位下の中臣朝臣伊加麻呂,造東大寺判官・正六位上の葛井連根道・中臣伊加麻呂の息子の真助ら三人が酒を飲み,話がときの忌諱(憚りごと。孝謙上皇と道鏡の関係のことか)に触れたという罪で,伊加麻呂は大隅守に左遷され,根道は隠岐に,中臣真助は土佐にそれぞれ流された。密告した酒波長歳は従八位を授けられ,近江史生に任じられた。中臣真麻伎には従七位下を授け,但馬員外の史生に任じた。

 

 

 ここに,この時代のもうひとりの権力者が登場します,弓削道鏡ですね。

 

 道鏡は弓削氏の出自で,弓削氏は弓の製造を担っていた氏族であり,もとをたどると物部氏につながると言われています。

 道鏡は,700年河内国に生まれ,若くして法相宗の高僧・義淵に弟子入りし,良弁からサンスクリット語を学び,禅に精通していました。

 

 また,政治的な野心も強く,761年保良宮造営のとき,病に臥せった孝謙上皇を献身的に看病し,これにより上皇の寵愛を受け政治力をつけていきました。これに淳仁天皇が度々苦言を呈したことで,孝謙上皇と淳仁天皇の関係はのっぴきならないものとなります。

 

 この時の孝謙上皇は,母親が死去し宮中での発言権が弱まり,先代より受け継いだ平城京から藤原仲麻呂の根拠地である保良宮に遷都され,自身の体調不安もあり,政治的にも精神的にも相当追い込まれていたと思います。

  淳仁天皇が,孝謙上皇の立場に理解を示し,適切に処遇すればおそらくこの後に起こる対立は回避できたと思いますが,淳仁天皇(とその背後にいる藤原仲麻呂)は上皇を追い落とすチャンスとばかりに更に追い込みをかける道を選びました。

 

 明らかな対立関係にある政敵を追い詰めすぎると,その先に待つのは雌雄を決する戦いのみです。上皇に弓引くことになる,その覚悟が淳仁天皇側にあったのか・・・。

 このような政治力学や人間模様は,現代政治や組織内政治でも再現されうるものと思います。

 

 

 最後に,不謹慎な話を1つ。

 

 孝謙上皇と道鏡のただならぬ関係は,続日本紀の記述の通り,公然の秘密となっていましたが,それに尾ひれがついて後代に「道鏡巨根伝説」として流布します。

 

 江戸時代には,「道鏡は  座るとひざが  三つでき」 といった川柳が読まれる始末。

 好色の坊主の話は,少なからず道鏡のこの逸話の影響が見られます。