本日は,続日本紀の761年(天平宝字5年)の第3回目,7月19日の条から始めましょう。
本ブログは講談社学術文庫を参考にしており,具体的な記載は中巻P269からです。
【7月19日】
遠江国の荒玉河(馬込川)の堤が三百余丈にわたって決潰した。延べ三十万三千七百余人を使役し,食料を支給して修築させた。
この当時の土木技術の水準はどうだったのでしょうか?
奈良時代の土木工事といえば,真っ先に行基の狭山池築造が思い浮かびます。
前回の記事でもご紹介しましたが,朝廷は743年に墾田永年私財法を制定しており,このあたりから新たな開墾地が広がりつつあったのだと思います。
そうすると大きな課題として灌漑用水の確保が挙げられます。
洪水防止もあるのでしょうが,灌漑用水の確保のためにも,溜池や水路の造営が求められていたのでしょう。
今振り返ると,前回記事の【5月23日】は,この堤防決壊に関して「大和朝廷も水利設備のパトロールはしていましたよ」っていうエクスキューズなんでしょうね。
【8月1日】
美作介で従五位下の県犬養宿禰沙弥麻呂は,長官の許可を受けることなく,ほしいままな政治を行ない,ひとり国司の館にあって公文書に公印を押し,その上また時価によらないで,人民の物資を強引に買い取っていた。美作守で正四位上の紀朝臣飯麻呂によって告発され官職を失った。
奈良時代の公務員はめちゃくちゃやりおる,という事例ですね。
現代でいえば,公文書偽造・公印不正使用という立派な犯罪です。
この当時から,役人の文書管理に関する問題は起きていたということです。
面白いのは,現在同じような不正をしようとすれば納入業者と結託して,役所が市場価格より高値で物品を購買し,そのキックバックを納入業者に渡す,というような形態になろうかと思いますが,この当時は市場価格より安値で無理やり買い叩く,という手法が取られていたんですね。
これは,「押し買い」という犯罪類型で,後代の法令にて度々禁止されています。
【8月12日】
藤原河清を迎える使いの高元度らが唐国から帰国した。はじめ元度が使命を奉じて出かけた時,渤海の道を通り,賀正使の揚方慶らに随って唐国に行った。使命を果して帰国しようとした時,唐国は兵器の見本として甲冑一具・伐刀一口・槍一竿・矢二隻を元度に分け授けた。
「河清(かせい)」は中国名で,藤原清河のことです。
彼は,第12次遣唐使の大使に任じられ,752年に入唐しています。
藤原清河が帰国するにあたり,当時の唐では安史の乱で道中危険が予想されていたため,大和朝廷は高元度という使者を渤海経由で派遣します。
基本的に,藤原政権は新羅と仲が悪く,唐に渡るにしても新羅経由では行けなかったのです。
この辺の経緯は,「続日本紀@759年 Part1」 「続日本紀@758年 Part7」 あたりを参照してください。
結局,「唐国内ではまだ安史の乱を完全に鎮圧できていないため,高元度は南路で帰られよ」との皇帝の命令により,藤原清河を残し高元度のみが帰朝したのでした。
朝鮮半島との関係,唐の情勢については,続日本紀の記載がある度に記事を書いてますが,それなりに記事が溜まってきたら「外交」「経済」などのテーマ別に再編集したほうがよさそうですね。