【8月25日】

 淳仁天皇は,藤原仲麻呂を右大臣に任命します。

 

 前にも述べましたが,淳仁天皇は藤原仲麻呂により皇太子に推挙され,仲麻呂の息子の嫁さんをもらい,仲麻呂の家に住んでいたということで,もはや藤原仲麻呂の傀儡といってもいいでしょう。だから,藤原仲麻呂の右大臣任命も,藤原家礼賛の詔勅も,ほぼお手盛りの評価でしょう。

 

 詔勅の中身を抜粋すると,

 

 藤原氏は祖先の近江大津宮(天智朝)の内大臣(鎌足)より以来,代々明徳を以て皇室を助け,天皇は十帝を以て,年数はほぼ百年に及び,この間朝廷に大事なく海内は平穏であった。このことからすれば,過去においても仲麻呂に匹敵する者はなく,ひろく恵みを施す美徳もこれに過ぎるものはない。今より後,藤原の姓に恵美の二字を加えよ。また暴逆の徒を鎮圧し,強敵に勝ち,兵乱を押し静めた故に,名づけて押勝と言おう。

 

 ということで,恵美押勝は,淳仁天皇が藤原仲麻呂を称賛して命名した尊称なんです。

 「暴逆の徒の鎮圧」は前年に起きた橘奈良麻呂の乱をさします。

 

 尊称拝命のほか,淳仁天皇より,封戸3000戸と100町の田畑を下賜され,さらに貨幣鋳造権,出挙の実施権を与えられます。

 

 今で言えば,日本銀行と財務省の特権を付与されたようなもので,絶大な権限を藤原仲麻呂は持つに至ります。

 

 同日,朝廷の組織改編(名称変更)が行われています。

 周礼など古代中国の政治体制・思想をもとに,役職名・機関名が改められていきますが,全部は紹介しません。

 

 中でも面白いなと思ったのは・・・

 

 式部省は,文官の考課と禄賜を統括する,つまり今で言えば人事部のような役割だから「文部省」に改称するとあります。今の文部省とはその役割が大きく異なっていますね。

 

 次はなかなか秀逸な表現なので抜粋します。

 大蔵省は財物を出納することについて節制が必要である。故に節部省と改める。

 

 なかなかウィットが効いてますね(笑)

 

 

 

【9月8日】

 新旧国司の引き継ぎについて,その期限を120日と定める詔勅が出されています。

 

 どうも,この当時,国司の引き継ぎがうまく行われず,いつまでたっても前任国司が赴任地から離れようとしない(あるいは新任国司が赴任地に赴かない)といった事象が多々あったようです。

 

 とりわけ官倉に納入すべき租税を未納のまま補填せず,延び延びにして引き継ぎを行なわないものは,実態から言えば犯罪人である。事情を知りながら見すごしにして期限内に交代書類の受領をしなかった後任国司は,法に従えば同罪である。

 

 これ以前に,官倉の出納簿をきちんとつけて担当者の印を押せ,とか,官有の財物を私的に処分した横領について断罪する,といったことが記録されていることをみると,かなりの割合で国司の放漫経営により地方財政は破綻しており,国司交代の際には帳簿と棚卸し結果に開きがあるため引き継ぎが困難になっていたのではないかということが窺えます。

 

 

 

【9月18日】

 小野朝臣田守が渤海より帰国します。答礼使でしょうか,渤海から将軍も随行しています。

 

 当時の東アジアの政治情勢を概観しておきますと,唐では755年に勃発した安史の乱の真っ最中です。唐の玄宗皇帝が楊貴妃に入れあげ,楊氏と対立した節度使の安禄山が楊氏一族排除を掲げ挙兵しました。この乱は763年まで続きます。

 

 渤海国はいまいち高校世界史でも影が薄いので若干補足すると,現在の北朝鮮から中国東北部・ロシア沿海州の国境を超えた一帯の地域に建国された高句麗ツングース族の国で,698年に建国されました。

 

 朝鮮南部には新羅があり,国境を接する渤海と新羅は対立関係にありました。

 「敵の敵は味方」というのは外交関係の常であり,渤海は日本と友好関係を結び新羅に圧力をかけようとします。新羅は新羅で,渤海に対抗するため唐と関係を改善しつつ,日本が渤海に近づきすぎないように日本にも使節を派遣します。

 

 8世紀前半には,唐と関係改善を果たした新羅が日本に対等外交を求め対立し始め,藤原四兄弟の執政期には新羅征伐が話し合われますが,天然痘流行でこの話は頓挫します。当時の日本は小中華思想とでも言うべき外交方針を取っており,新羅・渤海国の王を臣下とみなし,両国の使節に対し度々上表文を持ってくるよう詰め寄っています。彼らは,自身の国益を考え,日本に対しては服属するフリをしたのでしょう,それを見た日本の官僚は史書に両国を服属国のように記載します。

 

 現代の朝鮮外交でも,似たようなことをやっていますね,朴槿恵が西側陣営にいながら中国の経済力が高まると磁石のように吸い寄せられ二股外交をする,というのはその典型だと思います。ある意味リアリストなのかもしれませんが,これだけ情報が瞬時に伝わる世界で,果たして通用するのでしょうか,股裂きになりませんかね。

 

 奈良時代の日本外交は,新羅国との対立が深刻化していくとともに,渤海との関係を深めていくという道をたどります。

 

 歴史を見る上で大事なことは,特に日本史を学ぶ上で重要ですが,国単位でクローズした形で歴史を見ないということだと思います。例えば内政においても太宰府の防備強化は朝鮮・中国との緊張関係に応じて増強・弛緩を繰り返しますし,朝鮮・日本の外交関係は日本国内の政治情勢のみならず朝鮮半島が置かれた政治情勢をみないと当然ながら理解できません。