年が変わり,759年(天平宝字3年),淳仁天皇の治世2年目です。

 

【1月1日】

 新年恒例の朝賀があり,この年は前年末に来朝していた“蕃客”の渤海国大使も参賀に訪れました。

 ようは,朝賀の儀式は,家臣が上司である天皇に新年のご挨拶をする,という君臣の序列を確かめるものなので,今回の渤海のように,年によっては新羅やら,蝦夷・隼人等も朝廷に顔を出しています。

 

 渤海国の使いが,上表文でもって聖武天皇逝去に対するお悔やみを述べていますが,淳仁天皇は「もう亡くなってから随分経つからお悔やみに対する答礼は行わない」と述べています。

 

 また,大使の揚承慶に正三位を,副使の揚泰師に従三位を,それぞれ授けています。

 

 渤海大使を蕃客扱いしたり,答礼をしなかったり,位階を授けたりと,当時の大和朝廷が渤海を家来と見ていたことが現れていますね。

 当然,渤海としては,新羅との関係を見据えて,日本と友好関係を結びたいとの思惑があっての訪朝なのです。

 

 

 

【1月27日】

 大保の藤原恵美朝臣押勝が,高麗の使人を田村第(押勝の邸宅)に招き,宴会した。・・・ また当代の文人たちが,詩を賦して使人に送り,副使の揚泰師も詩を作って唱和した。 

 

 渤海は唐文化の強い影響を受け,当時の日本と同様,盛んに留学生を送り込んでいました。

 日本との交流においても,漢詩を作って相互に披露するということをやっていました。これは,単純に趣味でやっているわけではなく,お互いの文化レベルがどの程度なのかという力比べなのです。

 渤海との切磋琢磨を通じて,日本も文化レベルの向上に努めていきます。

 

 ただし,この時代の文化水準のバロメーターは,どれだけ唐の最先端文化を取り入れているか,ということになります。

 日本書紀の記述を見ても,天皇が中国の故実に言及しては自説を開陳する,といったシーンが盛んに現れます。

 また,律令制,官僚制度・組織や都の作り(都城制)なども,唐にならったものになっています。

 

 

 

【2月1日】

 渤海大使は,日本の使者(高元度)によって本国に送り届けられることとなりました。

 安史の乱もあってのことでしょう,この使者は渤海で大使を降ろした後,そのまま唐に向かい,既に遣唐使として現地に渡っていた藤原清河を迎えにいきます。

 そのための支援をお願いする親書を渤海王宛に送っています。

 

 日本も新羅との関係が悪化していたため,新羅を通って唐に入るルートは危険なことから,渤海側から回って長安に渡ろうと考えたわけです。

 

 これは,現代でいえば,クーデターや戦争が勃発した際の邦人救出作戦,といったところでしょう。

 

 

 

【3月24日】

 大宰府より,以下の4つの懸念事項について,朝廷に上申がありました。

 

① 船が足りない

 博多や壱岐・対馬には百艘の船を配備することになっているが,使用できる船がない。

 

② 守る人が足りない

 東国からの防人派遣が停止されて以来,兵士の人員不足が深刻化している。

 

③ 運営方針が府内で割れている

 現在,兵士は武芸修練に専従させているが,大宰大弐の吉備真備からは「50日間の武芸訓練,10日間の築城,それ以外は農作業をさせよ」との意見があり,方針がまとまらない。

 

④ 管内人民が窮乏している

 西海道の兵士は庸・調が既に免除されているが,現在は多くの住人が窮乏に陥っており兵士を出すことが困難となっているため,さらなる租税・労役の負担軽減が必要。

 

 

 防人については,663年白村江の戦いで日本が負けた後,唐や新羅が攻めてくるのではないかと考え,九州防備の強化策として設置されたのが始まりです。「防人」を「さきもり」と読むのは,「岬守(みさきもり)」の意かと思います。

 

 防人制度も,唐の律令制を参考に作られています。唐も遊牧民族からの防備のために,国境地帯に兵士を派遣して守らせていました。

 

 この制度を府兵制といいますが,この制度が始まった北魏では徴兵されたのは遊牧民でした(もともと北魏は鮮卑の国です)。しかし,唐代に移り,領土が中国全土になると,派遣されるのは中原で畑を耕していた農民たちです。3年間(延長付き)も,自分の農地から離れなければならず,しかも手弁当で徴兵に応じなければならないという負担は日本の防人以上に大きく,これが嫌で逃亡する農民が続出しました。

 

 農民を地元から長期間切り離す防人の制度は,本家中国ではたちいかなくなっていました。そこで,次に考えられたのが,辺境地に「鎮」という軍団をおき,その地の有力者を対象に据え,地方を抑えてもらおうとしました。鎮は,いまでも景徳鎮などの地名にその名残がありますね。このトップのことを節度使といい,節度使には軍団の編成とその地方の徴税権も与えられたことから,大きな権力を握る事となりました。安禄山もこの節度使の一人です。

 

 日本でも,東国の農民を九州各地に派遣しましたが,帰り道の食料を給付しなかったため,途中で野垂れ死にする農民が続出し,朝廷は帰路途中の国司に食料を支給するよう命じるなどしています。これも焼け石に水で,結局,757年には東国からの徴兵を停止し,九州内からの徴兵に改められました。

 

 この見直しで,国防負担が九州地方に集中することになりました。759年のこの記載は,防人制度の変更後1クール経過して,もう既に大宰府が国防負担に耐えきれなくなったことを示しています。

 

 以上の,陳情に当時の政府はどう回答したでしょうか?抜粋してみましょう。

 

① 船が足りない

 船については公用の食料を支給し,人民の雑徭によって造ることにする。

 

② 守る人が足りない

 東国の防人については,衆議により許されない。

 

③ 運営方針が府内で割れている

 管内の防人を十日間労役につかせることは,真備の建議によれ。

 

④ 管内人民が窮乏している

 租税や労役の減免については,政治が理にかなって行なわれたならば,人民は自ら富強となるであろう。官人らはよろしくその職務を勤めて,朝廷の委任に副うようにせよ。

 

 これらを見るに,あまり中央政府は太宰府の陳情に真面目に取り合っていないようです。安史の乱を受けて太宰府の防備を固めるよう指示を出していたはずですが,ロジ周りは現場に丸投げですね。このあたりの,兵站軽視・基盤整備への熱意のなさは中央政府の悪癖だと思います。