続日本紀の763年(天平宝字7年)の第2回目,本ブログは講談社学術文庫を参考にしております。
763年の第2回は,飢饉・疫病の流行に関して取り上げましょう。
763年の記述を見ると,日本各地で飢饉が発生していたことがわかります。
前年の収穫が思わしくなかったせいか,春を待たずに飢饉が発生しています。
飢饉の記録を抜き出すと以下の通りです。
【 2月29日】 出羽国で飢饉
【 4月 1日】 信濃国で飢饉
【 4月13日】 陸奥国で飢饉
【 5月16日】 河内国で飢鐘
【 6月 7日】 尾張国で飢饉
【 6月15日】 越前国で飢饉
【 6月21日】 能登国で飢饉
【 6月25日】 大和国で飢饉
【 6月27日】 美濃国で飢饉。摂津・山背二国では疫病がはやった。それぞれ物を恵み与えた。
【 7月26日】 備前・阿波で飢鐘
【 8月 2日】 近江・備中・備後で飢饉
【 8月14日】 丹波・伊予で飢饉
【 8月18日】 山陽道・南海道などの諸国で日照り
【 9月21日】 尾張・美濃・但馬・伯耆・出雲・石見などの六国において,今年の穀物が稔らなかった。
【10月26日】 淡路国で飢饉
【12月21日】 摂津・播磨・備前で飢饅
4月には,米不足が深刻化し京都の米価が騰貴したことから,大和朝廷は左右京の市に米穀を供給し米価を安定させる物価安定策を取っています。
この当時から,米価安定は内政の一丁目一番地だったことが伺え,この政策目標は昭和まで堅持されています。
年初の方は,東北や北陸長野などで飢饉が発生していたようですが,夏場近くになると中部・近畿・中国・四国でも日照りにより農作物が収穫不能となり,日本全国で飢饉が頻発していたことがわかります。
前回の記事(続日本紀@763年 Part1)において,渤海の使者が中国大陸で農作物不作により人民が共食いしているといったことをレポートしている様子が描かれています。
また,続日本紀@759年 Part3 の9月4日の条に,帰化を希望し新羅より渡来してくる人々の記述があります。
背景を調べると,どうも740年代後半から760年にかけて朝鮮半島では天候異変により飢饉・疫病が発生していたようで,朝鮮半島で食い詰めた人々が日本に向かったということのようです。
日本においても,大雨で堤防決壊が頻発したり、日照りがあったりと,天候が安定していない様子が続日本紀に記述されております。
740年代~760年代は,何らかの気候異変が東アジア一帯を襲い,各地で飢餓を引き起こし,それが中国では安史の乱などの政情不安定に繋がったと考えることができるでしょう。
次に疫病の記述を紹介しましょう。
【 4月10日】 壱岐嶋で疫病が流行
【 5月11日】 伊賀国で疫病が流行
【 6月27日】 摂津・山背で疫病が流行
畿内諸国など政権の中心地や,壱岐といった海外との玄関口で疫病が流行していることがわかります。
大和朝廷は,疫病の流行についても,速やかに情報を入れるよう各地に指示を出していた様子が伺われます。
さて,全国に広がる飢饉や疫病の流行に対し,時の政権はどのような策をとったのでしょうか,関連記述を抜粋しましょう。
【1月15日】
天皇は次のように詔した。
聞くところによると,去る天平宝字五年は五穀が稔らず,飢え死にする者が多かったという。そこで五年以上前の公私の出挙の負債について,公の物を返済できない貧窮者には元利とも全免し,私出挙については利息を免除し,元本のみを回収するようにせよ。また造宮に使役される左右京・畿内の五ヵ国および近江国の兵士らは,天平宝字六年の田租はそれぞれ免除せよ。
【3月24日】
天下の諸国に命じて、不動倉(非常用に穀物を蓄えた官倉)の鉤匙を進上させた。国司の交代が頻繁で煩わしいためである。国司が随時に倉の修繕をしたり、湿気に依る損害が出るような場合には、臨時に請求して「かぎ」を受取るようにさせよ。
【8月1日】
天皇は次のように勅した。
聞くところによると,去年は長雨が降り,今年は日照りが続き,五穀が稔らず,米価が騰貴したという。これにより人民はすでに飢饉に苦しんでいる。それだけではなく,疫病が流行して,死亡者が数多いという。朕はこれを思うたびに心に深く悲しみ哀れに思う。 左右京・五畿内・七道諸国の今年の田租を免除するようにせよ。
【9月1日】
天皇は次のように勅した。
最近,各地で疫病の死者が多数にのぼり,洪水や旱害が思いがけない時に起こっている。また神火がしばしば発生し,いたずらに官物を損耗している。これは国司・郡司が国神(地方の神々)にうやうやしく仕えていないための天罰である。また十日も日照りが続いて,水のない苦しみを味わったかと思うと,数日にわたって長雨が降り,土地を失って流亡の嘆きを抱く者もいる。これは国司・郡司の民を使役する時期が適当でなく,堤・堰を修造しなかったための過失である。今後,もしこの類のことがあれば,目以上の国司を悉く交代させよ,いつまでも任地に留まって,人民を苦しめ煩わせてはならぬ。さらに良い人物をえらんで,速やかに登用するようにせよ。どうしてもまずい者は役人をやめさせて故郷に帰らせ,賢い者を官人にしたならば,皆がその職務をつくし,人民の憂いはなくなるであろう。
飢饉や疫病が流行した地方に救援物資や医薬品・医者を派遣するのが朝廷の救済策の基本です。
その上で,畿内の直轄地を中心に,田租の免除・出挙の利稲の免除などがなされ,さらには大赦を行い天皇自ら天に自身の不徳に対する許しを請う,ということが行われます。
このような記述は続日本紀を通じて頻繁に表れますので,紹介は割愛します。
この年の続日本紀の記述で注目すべきは「不動倉」の管理と「神火」の記述です。
3月24日の条では,国司の交代が頻繁で事務が煩わしいので備蓄倉庫の鍵を朝廷に預けよ,との記載が見受けられますが,この当時の国司の任期は4年でありそうそう頻繁に入れ替えがあるわけではないこと,国司の請求に従い鍵を諸国に送らねばならない手間が増えることを考えると,この記述をそのまま鵜呑みにすることはできません。
9月1日の条にみえる「神火」とは,神の祟りと考えるより他にない原因不明の火災,つまりは「不審火」です。
漏電火災でもあるまいし,穀物倉庫がなんの理由もなく消失することはありえないので誰かが放火したとしか考えられません。
では,誰が火をつけたのか?
3月24日の条と合わせて考えると,大和朝廷は国司や郡司が備蓄倉庫の稲を横領しているのではないか,そして横領がバレるのを恐れた国司や郡司が自ら備蓄倉庫に火をつけて証拠隠滅をしているのではないかと疑っているからこそ,施錠管理を現地に任せられないと考え鍵を取り上げたのだと思われます。
続日本紀の記述では,神火の原因について,国司・郡司の国神への不信仰による天罰と表現していますが,その対策として国神への信仰心の喚起ではなく,国司・郡司の罷免で対処する方針が示されているところを見ると,神火の原因は国司・郡司の不正・管理不行届にあると合理的に考えていたのではないか,と思われます。
このあたりに,国定の歴史書における表現の妙が伺われますね。
今年は,東アジア(特に中国)で,夏場の日照不足や大雨,蝗害などの天候不順による食糧危機が懸念されています。
中国では,共産党より各省に備蓄穀物の調査が求められ,一部では現地調査がなされる事となっていました。
そこで,こんなニュースが流れました。
https://www.epochtimes.jp/jp/2013/06/html/d92736.html
人間の業は,いくら時代を経ても場所を隔てても,それほど変わらないのかもしれません。
(まぁ,現代日本ではこの手の話はあまり聞きませんが…)。