TPP反対派、賛成派を笑う
めっきり寒くなってきた。冬だな。紛うことなき冬である。サンダルで外出する限界と利便性を秤にかけた上で、結局利便性をとる人間としては、甚だ厳しい気候になってきた。靴下をチマチマ履くのが苛つくのだ。イチイチ洗うのが面倒なのだ。サンダルさえ履いていればそれらの労苦から僕は解放される。ビバ・サンダル。僕は貴方のおかげで自由なんだ。寒さなんて取るに足りん。
さて。旬どころか、そろそろ生き腐れそうな有様のTPP論争ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。最近は情報に接する機会もめっきり減って、いわゆる世論がどういう様子なのかさっぱりです。ひと月前まではマスメディアでは賛成派、ネットでは否定派が多かったようですが。まぁ丸腰のところの、無手勝流というやつで敢えて論理武装せずに、印象論に基づく感想でも書き散らかしたいと思うのです。冬だもの。
どうですか、最近のマスコミは。僕の知る限り、マスコミという無知な欺瞞は、ことTPPに関して日本の農業行政に問題を矮小化して、善悪二元論を素直に信じる健気な仔豚でした。TPPの本質を見抜かず、情報を与えることで国民議論の契機を与えず、散発的に些末な情報を流すのみで、徒な政権批判で締めくくるという一連の行程は有権者の政治への関心を削ぐのに劇的な効果を上げた訳ですが、皆さん大丈夫ですか。大資本という見えざる他者に踊らされていやしませんか。
僕の問いかけは単純です。TPP賛成派にききたい。TPPって何?否定派にききたい。だからTPPって何?僕らの生活にどんな形で影響するんですか?物分りの悪いオイラにも分かるように教えて下さいよ。TPPの本質的意義とやらを。メリット・デメリットの前に。賛成・否定の前に。
自分の部屋でただ座ってるだけでも情報はディスプレイから流れ出ています。こんなのとか。
〇国民皆保険制度がなくなってしまうかも。
〇日本の食料自給率は39%から13%に下がる。
〇遺伝子組換え食品が蔓延する。
〇食の安全基準が緩くなる。
〇低賃金労働者が外国から入ってくる→日本人の給料はますます下がる。
〇デフレがますます加速する。
〇そして何よりも問題なこと……国民を守るために、国民の代表が決めた法律や制度が、アメリカ企業の都合によって、いくらでも変更してしまえるようになる。国民の主権が奪われちゃうよ。民主主義の崩壊だよ。
だらだら長いんでほぼ原文。賛成派の意見はもっと単純かな。なんか輸出がどうとかそういうやつ。で、TPPでよく参照されるのはISD条項・ラチェット規定、米韓FTAの毒素条項と呼ばれるもの。ISD条項とは、投資企業が相手国政府を国際仲裁機関に訴えることができる規定。ラチェット規定とは、自由化の後退禁止規定。米韓FTAの毒素条項については適当にググッてください。クドクド書くことはしない。Web2.0を生きてる僕らなら単語さえあれば因果関係というか、理屈は理解できる。
で、更にTPPには解釈の問題もある。農業を始めとした国内政治として捉えるか、国際政治の綱引きと捉えるか、経済学で考えるか、政治学で考えるか、政治家の資質を問うこともできるし、マスコミ叩きの名目にもなる。分野は農業・工業・知財・労働規制・金融・医療サービスに及んでる。
ハイ。もう一回ききますよ。TPPって何?誰のどういう意図に基づいた、国際的にどのような影響をもたらす取り決めで、日本が参加することでどのような影響があって、参加したとして国民生活にはどういう変化が生まれる取り決めなんですか。賛成・反対はTPPをどういう捉え方をした上で、どの条項の、どの分野における影響と比較して判断したんですか。
もっと書いても良いですか。それを貴方が議論することにどのような価値があるのですか?TPPという重層的・複合的な協定に、経済大国である日米が参加するという試みの含む影響というのは、こと経済に関しても専門家の意見が分かれているというのに、賛成反対に関しては多方面の専門家による膨大なアプローチの積み重ねによってなされるものであって、僕ら素人が世論を振りかざし、聞きかじったような浅はかな理解で容喙すべき問題ではない。
また仮に明快な結論があったとして、展望なき政治家に代表された展望なき国家に漂うゴミクズのような国民が正論を振りかざしたところで、何かが変わることなどありはしない。この国のヴィジョンを決定をするのは、選挙以外の期間は政治家であり、間接的であれ影響力があるのは官僚やマスコミくらいのもので、我々国民一人ひとりでないことは揺るぎのない事実。
僕たちにできることは、同じく国民であり有権者である人々に向けてメッセージを発すること、それのみであるのだから、TPPという多方面にまたがった厄介な問題の検討をする際に、あやふやな理解で賛成・反対の立場に立ち、綿密さを欠いた意見を吐き合うことが僕らに何のメリットをもたらすだろう。まさに方向性を欠いたエネルギーだ。
そもそもTPPに関しては分からないことが多すぎる。経済その他への影響にしろ、アメリカの意図(対中国?)・どの程度の熱意なのかにしろ、協議の余地があるのか(特例など)にしろ。僕は政治に関して有権者はもっと声を張り上げるべきだと考えているが、ことTPPに関しては“高度な政治判断”に委ねるべきだと思う。専門知識の集まる場所でしか判断できない事柄だ。素人が議論をしてもすれ違うばかりで実りがない。
もし、僕たちにできることがあるのだとすれば、それは展望の模索である。TPP賛成反対、結構なことだ。問題はそれによって日本はこれからどうあるべきなのかを議論するということ。TPPが絡むと問題が複雑になり結論が単純化するので、僕らにはそれすら難しいんだが、敢えてTPPで議論をしたいのならば政府が正式に意思決定をしたとき、同時に発信される彼らの展望の是非について議論することだと思う。TPPに賛成?反対?瑣末な問題だ。必要なのは僕らが日本をどうしてゆきたいか、その意思だ。
僕はTPP反対派の煽る不安とやらの抽象性を憎む。実感の欠いた彼らの言説そのものを憎む。亡国?結構じゃないか。この国はバブル以降沈みつつある。むしろとっとと縊り殺された方が分かりやすくてよい。失うもののないままにあやふやな言説を流布し、あわよくば世論を形成しようなどという安っぽい試みに参加して尊厳を失うくらいなら、全裸で街中に躍り出て弱気な女性でも強姦する方がまだマシだ。
健康保険がなくなろうが、自給率が下がろうが、給料が下がろうが、デフレが加速して政府が意思決定できなくなろうが。国土が焼け野原になり、4%の国民が亡くなった、先の敗戦から立ち上がった爺さんたちを忘れちゃいけない。どんな悲惨な境遇になろうが、僕らが誇り高い日本人であることに変わりはなく、未来を自らの手で切り拓く覚悟を忘れなければ恐れるものなどありはしないのだ。
そんなことよりも恐ろしいのは、分からないということを素直に認められないこと。その傲慢さに気付けないこと。TPPの枠組みと利点不利点を完璧に理解して判断できる人がいるんなら、皮肉でなく、ここのコメント欄を使って教えて欲しいと思う。無知の知じゃないが、結局分からないのならおとなしくしていることも必要なのだ。情報社会と言われてはいるが、TPPに関しては考える材料が圧倒的に少なく、また毒素条項やら怪しげな情報も飛び交い正常な判断などできよう筈もない。職業に関わる部分以外で話されるTPPの議論、それは賛成であれ反対であれ、大抵の場合その人の浅はかさを明らかにするだけで、生産的な結論など得られようはずがないのだ。
分からんのなら泰然としていればよろしい。世間が騒がしくとも、『それがどうした、バカヤロウ』徒弟をポカリと殴って、材木にカンナでも掛けてれば良い。皮膚感覚としてだけど、TPP加入非加入どちらにしても、結局大した変化は起こらない気がする。仮に起こったとしても、どんな窮状をも受け止められる健やかな魂さえあれば恐くはない。心に曇りなき時は心静かなり。なるようになれ。僕の言いたいのはそういうことでした。救いのない中にこそ救いがあると思うのです。意味分かりませんね。
まぁ要はTPP賛成反対どちらにしろ、やいやい騒いでるのはなんだか馬鹿っぽいのでそろそろやめようってことです。揚げ足とりなら誰にでもできる。生産的議論は誰にとっても難しい。代案のない人間に批判する資格はないのだから、責任や困難さを放棄して好き勝手に話すエネルギーがあるんなら、ひとまず壁でも殴って落ち着いてくれと言いたい。
今に始まったことではないけどね。こんな時代だからこそクレバーに生きましょう。ハイ、おしまい。書く内容が尽きた。
東京の窓から 石原慎太郎 菅沼光弘
これはよい動画。しかしこの言説も政治家と公安だから説得力を持つのであって、我々一般人が慎太郎や青山繁晴の名前を借りて主張すべきものではない。俄には信じられない話もあるものの、行き着くところは教育であったり、国の目指すべきものをしっかり持てとか、共感してしまうな
さて。旬どころか、そろそろ生き腐れそうな有様のTPP論争ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。最近は情報に接する機会もめっきり減って、いわゆる世論がどういう様子なのかさっぱりです。ひと月前まではマスメディアでは賛成派、ネットでは否定派が多かったようですが。まぁ丸腰のところの、無手勝流というやつで敢えて論理武装せずに、印象論に基づく感想でも書き散らかしたいと思うのです。冬だもの。
どうですか、最近のマスコミは。僕の知る限り、マスコミという無知な欺瞞は、ことTPPに関して日本の農業行政に問題を矮小化して、善悪二元論を素直に信じる健気な仔豚でした。TPPの本質を見抜かず、情報を与えることで国民議論の契機を与えず、散発的に些末な情報を流すのみで、徒な政権批判で締めくくるという一連の行程は有権者の政治への関心を削ぐのに劇的な効果を上げた訳ですが、皆さん大丈夫ですか。大資本という見えざる他者に踊らされていやしませんか。
僕の問いかけは単純です。TPP賛成派にききたい。TPPって何?否定派にききたい。だからTPPって何?僕らの生活にどんな形で影響するんですか?物分りの悪いオイラにも分かるように教えて下さいよ。TPPの本質的意義とやらを。メリット・デメリットの前に。賛成・否定の前に。
自分の部屋でただ座ってるだけでも情報はディスプレイから流れ出ています。こんなのとか。
〇国民皆保険制度がなくなってしまうかも。
〇日本の食料自給率は39%から13%に下がる。
〇遺伝子組換え食品が蔓延する。
〇食の安全基準が緩くなる。
〇低賃金労働者が外国から入ってくる→日本人の給料はますます下がる。
〇デフレがますます加速する。
〇そして何よりも問題なこと……国民を守るために、国民の代表が決めた法律や制度が、アメリカ企業の都合によって、いくらでも変更してしまえるようになる。国民の主権が奪われちゃうよ。民主主義の崩壊だよ。
だらだら長いんでほぼ原文。賛成派の意見はもっと単純かな。なんか輸出がどうとかそういうやつ。で、TPPでよく参照されるのはISD条項・ラチェット規定、米韓FTAの毒素条項と呼ばれるもの。ISD条項とは、投資企業が相手国政府を国際仲裁機関に訴えることができる規定。ラチェット規定とは、自由化の後退禁止規定。米韓FTAの毒素条項については適当にググッてください。クドクド書くことはしない。Web2.0を生きてる僕らなら単語さえあれば因果関係というか、理屈は理解できる。
で、更にTPPには解釈の問題もある。農業を始めとした国内政治として捉えるか、国際政治の綱引きと捉えるか、経済学で考えるか、政治学で考えるか、政治家の資質を問うこともできるし、マスコミ叩きの名目にもなる。分野は農業・工業・知財・労働規制・金融・医療サービスに及んでる。
ハイ。もう一回ききますよ。TPPって何?誰のどういう意図に基づいた、国際的にどのような影響をもたらす取り決めで、日本が参加することでどのような影響があって、参加したとして国民生活にはどういう変化が生まれる取り決めなんですか。賛成・反対はTPPをどういう捉え方をした上で、どの条項の、どの分野における影響と比較して判断したんですか。
もっと書いても良いですか。それを貴方が議論することにどのような価値があるのですか?TPPという重層的・複合的な協定に、経済大国である日米が参加するという試みの含む影響というのは、こと経済に関しても専門家の意見が分かれているというのに、賛成反対に関しては多方面の専門家による膨大なアプローチの積み重ねによってなされるものであって、僕ら素人が世論を振りかざし、聞きかじったような浅はかな理解で容喙すべき問題ではない。
また仮に明快な結論があったとして、展望なき政治家に代表された展望なき国家に漂うゴミクズのような国民が正論を振りかざしたところで、何かが変わることなどありはしない。この国のヴィジョンを決定をするのは、選挙以外の期間は政治家であり、間接的であれ影響力があるのは官僚やマスコミくらいのもので、我々国民一人ひとりでないことは揺るぎのない事実。
僕たちにできることは、同じく国民であり有権者である人々に向けてメッセージを発すること、それのみであるのだから、TPPという多方面にまたがった厄介な問題の検討をする際に、あやふやな理解で賛成・反対の立場に立ち、綿密さを欠いた意見を吐き合うことが僕らに何のメリットをもたらすだろう。まさに方向性を欠いたエネルギーだ。
そもそもTPPに関しては分からないことが多すぎる。経済その他への影響にしろ、アメリカの意図(対中国?)・どの程度の熱意なのかにしろ、協議の余地があるのか(特例など)にしろ。僕は政治に関して有権者はもっと声を張り上げるべきだと考えているが、ことTPPに関しては“高度な政治判断”に委ねるべきだと思う。専門知識の集まる場所でしか判断できない事柄だ。素人が議論をしてもすれ違うばかりで実りがない。
もし、僕たちにできることがあるのだとすれば、それは展望の模索である。TPP賛成反対、結構なことだ。問題はそれによって日本はこれからどうあるべきなのかを議論するということ。TPPが絡むと問題が複雑になり結論が単純化するので、僕らにはそれすら難しいんだが、敢えてTPPで議論をしたいのならば政府が正式に意思決定をしたとき、同時に発信される彼らの展望の是非について議論することだと思う。TPPに賛成?反対?瑣末な問題だ。必要なのは僕らが日本をどうしてゆきたいか、その意思だ。
僕はTPP反対派の煽る不安とやらの抽象性を憎む。実感の欠いた彼らの言説そのものを憎む。亡国?結構じゃないか。この国はバブル以降沈みつつある。むしろとっとと縊り殺された方が分かりやすくてよい。失うもののないままにあやふやな言説を流布し、あわよくば世論を形成しようなどという安っぽい試みに参加して尊厳を失うくらいなら、全裸で街中に躍り出て弱気な女性でも強姦する方がまだマシだ。
健康保険がなくなろうが、自給率が下がろうが、給料が下がろうが、デフレが加速して政府が意思決定できなくなろうが。国土が焼け野原になり、4%の国民が亡くなった、先の敗戦から立ち上がった爺さんたちを忘れちゃいけない。どんな悲惨な境遇になろうが、僕らが誇り高い日本人であることに変わりはなく、未来を自らの手で切り拓く覚悟を忘れなければ恐れるものなどありはしないのだ。
そんなことよりも恐ろしいのは、分からないということを素直に認められないこと。その傲慢さに気付けないこと。TPPの枠組みと利点不利点を完璧に理解して判断できる人がいるんなら、皮肉でなく、ここのコメント欄を使って教えて欲しいと思う。無知の知じゃないが、結局分からないのならおとなしくしていることも必要なのだ。情報社会と言われてはいるが、TPPに関しては考える材料が圧倒的に少なく、また毒素条項やら怪しげな情報も飛び交い正常な判断などできよう筈もない。職業に関わる部分以外で話されるTPPの議論、それは賛成であれ反対であれ、大抵の場合その人の浅はかさを明らかにするだけで、生産的な結論など得られようはずがないのだ。
分からんのなら泰然としていればよろしい。世間が騒がしくとも、『それがどうした、バカヤロウ』徒弟をポカリと殴って、材木にカンナでも掛けてれば良い。皮膚感覚としてだけど、TPP加入非加入どちらにしても、結局大した変化は起こらない気がする。仮に起こったとしても、どんな窮状をも受け止められる健やかな魂さえあれば恐くはない。心に曇りなき時は心静かなり。なるようになれ。僕の言いたいのはそういうことでした。救いのない中にこそ救いがあると思うのです。意味分かりませんね。
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今に始まったことではないけどね。こんな時代だからこそクレバーに生きましょう。ハイ、おしまい。書く内容が尽きた。
東京の窓から 石原慎太郎 菅沼光弘
これはよい動画。しかしこの言説も政治家と公安だから説得力を持つのであって、我々一般人が慎太郎や青山繁晴の名前を借りて主張すべきものではない。俄には信じられない話もあるものの、行き着くところは教育であったり、国の目指すべきものをしっかり持てとか、共感してしまうな
生活の柄 - 高田渡
生活の柄
作詞 山之口貘
作曲 高田渡
歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれては 寝たのです
ところかまわず 寝たのです
歩き疲れては
草に埋もれて 寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが
眠れないのです
近頃は眠れない
陸をひいては 眠れない
夜空の下では 眠れない
ゆり起こされては 眠れない
歩き疲れては
草に埋もれて 寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが
眠れないのです
そんな僕の生活の柄が
夏向きなのでしょうか
寝たかと思うと 寝たかと思うと
またも冷気にからかわれて
秋は 秋は
浮浪者のままでは 眠れない
秋は 秋からは
浮浪者のままでは 眠れない
歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれては 寝たのです
ところかまわず 寝たのです
たまたま高田渡を紹介してるブログを見ていたので、検索して動画を見つけました。なんだろう、美しいとは違う。格好いい、訳でもない。渋い、ってのも少し違う。侘び寂び、遠くなった。とにかく良い歌だと思った。歌詞の魅力でもあるし、高田渡というフォークシンガーの人柄でもある。
まるで投げつけるような武骨なリズム、木でも彫るような歌い方。損得のない、欲のない、不器用だけれども透き通った歌。聴けば聴くほど、こんな歌があったのかと思う。そしてこれこそ、この体験こそが音楽なのではないかと思う。
世間に背を向け、酒に溺れて、それでも歌い続けた高田渡という歌手と、後半生を困窮と流浪に過ごした山之口貘という詩人、二人の歌がこれでもかと、僕らに問い掛ける。斃死した二人の魂が、歌を通して僕らに問い掛けている。
僕はこの歌詞を見た時、別離の歌だと思った。しばらくして見た時、諦めの歌だと思った。その後は両方どちらでもある気がした。今は強がりの歌だと思っている。
この詩はその放浪時代に出来た詩なのだろうか、だとしたら自分自身の困窮生活を「ありのまま」に表現しているのだろう。要するに「歩き疲れたから草に埋もれて寝たけれど眠れない」と言っているだけだ。実際帰る場所がなければ何処で寝ても良いわけで、地球の地面全体が敷布団だと思ったら気が楽である。人間の本能から来るのだろうか、草に埋もれて夜空の下で眠る事は遠い昔の郷愁を感じさせる。だから、つらいとか、悲しいとかそういう気持ちではなく、むしろこの状態を楽しんでいるように思える。スケールが大きい詩である。
この歌詞の意味というのはこのブログの意見に集約されてる。しかし、なんというか歌詞から感じるもの、歌に感じる力にはただ放浪だけの意味、それ以上のものを感じるのだ。僕の感じたものに忠実に、従ってこれから先は蛇足であることを再確認したうえで書いてみたい。
まず流浪の歌であるなら、なぜ“眠れない”のか。青年がふと列島を一周しようとするような、そんな軽い思い立ちではない。生活の柄、と言うほどに体にしみつくほど旅をしている者の歌だ。人生を旅に費やした者が、秋になり温度が下がっただけで眠れなくなるものだろうか。
歌から感じるのは、ただ寒いから寝られないのではなく、心に兆したものを歌っている気がする。“浮浪者のままでは眠れない”とても心を捉える歌詞だ。胸に突き刺さる歌詞だ。哀切で、悲痛な歌詞だ。しかし例えば浮浪者でないとすれば、どうすれば眠れるようになると言うのだろう。
陳腐な一つの答えとして、どこかで“働く”という選択もあるかもしれない。放浪生活をやめ、屋根のある生活、暖かい生活をすれば寝られるようになるかもしれない。つまり、秋を人生における一つの比喩として、放浪生活に倦んだ者の歌と捉えれば、これまでの自分の生活との別れ“別離”を歌った歌と言えなくはない。
非生産者として、ただ旅ばかりしている者が眠れない夜に、ふいに吹く冷たい秋風にふと兆す弱気、自分の生活の柄を振り返る歌。しかし貘の人生のように、彼には旅を続けるという選択もある。歌詞は明示していないのだけれど、僕はなんとなく、彼は結局旅を続けるような気がしている。
ならばこの一時の迷い、旅と“別離”しようという、は彼の決意というよりは、毎日のように自問自答している問いを、再び確認しただけであったかも知れない。その答えは最初から決まっているのだ。彼には旅しかないのだ。ならばこの問いは自嘲であり、“諦め”であると思う。結局俺なんて、と。
しかし高田渡の力強い歌声は、そんな弱気な男を歌わない。どのみち、男が旅をすることでしか生きられないのならば、それがどうした、俺は俺でしかないのだと。何が悪くて、何が良いと言うのだ。そんな基準を俺は信じないと。だから旅をしているのだと。そうすることでしか生きられない男の、秋の冷気に弱気になりながら虚空に吼える姿。僕はいまのところ、歌詞と歌声からそんな男を想像している。つまり“強がり”の歌。それでも前に進む意思である。
たとえば進路や転職で悩む者にこの歌は訴えかけるのではないか。“それで良いのか?”“また妥協するのか?”“自分すらも信じられないのか?”と。戦い続ける者にはこう慰める。“お前だけではないのだ”と。
まぁこれは一つの、しかも偏った解釈でしかないです。“眠れない”不可能、“寝たのです”過去形と解釈すれば、放浪生活をやめて暖かい生活を始めた者の、流浪の旅を懐かしむ気持ち、“懐古”の歌とも言えます。僕はこの解釈は歌い回しとは合わないので違う気がするけれど。まぁ歌というのは受け取る人によってそれぞれの受け取り方をするものだと思います。
歌詞を通じて、この歌の良さと広がりを書いてみたくなったのでブログに載せました。いい歌ではあるけれど、意味が分かりにくい歌詞です。色んな人の、色んな解釈を読んでみたいですね。僕はこの歌が好きです。
関連:続・高田渡 高田渡とお店
おなじ話 / ハンバート ハンバート
あとなんか聴いたことがあるなぁと思ったら、やっぱりハンバートハンバートでした。僕は彼らの歌は好きなんだけれど、高田渡の原曲を聴いてしまうと、正直、少し物足りないカバーだなと思いました。これはこれで良いんですけどね。原曲に訴求力があり過ぎるんでしょうな
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映画にもなりました
フィリップ、きみを愛してる!
最近フィリップ~の主役演じていたのがジム・キャリーだったことを知った。そうだっけ?僕は人の顔をなかなか覚えられない方だから、映画館で観た時は気付かなかったし、当時の僕はジム・キャリーという有名俳優にも興味はなかったから、どちらにしても同じ事だったんだろう。まぁ観返すことにした。ゲオの宅配レンタルは延滞しなければ安いし便利なのだ。
予告編を見たら分かるように、この作品はゲイ映画だ。人の嗜好というのはそれぞれだから、“だったら良いや”って人の首根っこを掴んでまでゲイ映画を観せようとは思わないが、僕はゲイ映画のアプローチの仕方ってのが結構好きだ。同性愛そのものに興味はないと前置きした上で、同性愛も一つの愛のあり方(少なくともスクリーンの中では・実情は知らない)であるのは間違いのないことならば、ゲイ映画ってのは手垢のあまり付いてない、新しい形のラブストーリーと言って良いと思う。映画を観ていると時たまぶつかる同性愛映画の頻度、というのも同性愛の流行というよりは恋愛映画・家族映画の新しいジャンルとして認知されている証拠なんだと思っている。
僕はド直球の恋愛映画は大ッ嫌いだ。不愉快すぎて暴れたくなるくらいに厭だ。例えば『世界の中心で~』が陳腐なのはそれが異性間恋愛の形であって、しかも使い古された手法・脚本の上に成り立っているからで、製作者の“泣かせよう”という意思(興行収入的な目論見も介在しているだろう)が明確だから、自意識を凍結してまでそれに乗せられてわんわん泣くことは僕の美意識に反する。
けれども。もし、『世界の~』がゲイ映画であったとしたら。友人関係、世間からの鬱屈、カミングアウトと解放、至福の期間と死別への時間。同性愛映画というのはそれ自身、社会との葛藤であると共に、古典的恋愛観への懐疑である。いわゆる純愛を異性間で描くためには手垢の付いていない、新しい切り口を探さない限り観客の予想を裏切りカタルシスはもたらされないが、同性愛の場合はまだ馴染みがないから、ド直球であっても“新しい手法”になり得て、観客の心の壁を打ち破って恋愛・純愛脚本のエネルギーをそのままに伝えることができると思うんだな。異性愛の直球・純愛映画というのは制作が難しくなってきてるんじゃなかろうか。
邦画ではまだゲイ・ムービーは市民権を得ていないようだが、そういった意見もあるということで、まぁ公開されることがあれば、“あぁこの監督は恋愛映画の新境地を開こうとしてるんだな”と生温く見守ってあげて欲しい。個人的には『フィリップ~』みたいなゲイ・ラブコメ・ヒューマンドラマはどうも愛敬があって嫌いになれない。あ、映画について何も書いてないや。粗筋だけでも。
IQ169の天才詐欺師スティーヴンは、収容された刑務所で心やさしいフィリップに一目ぼれ。彼を幸せにするために詐欺を繰り返すが、再び投獄されてしまう。でも、たった一言「愛してる」と伝えたい一心で、スティーヴンは何度となく脱獄するが、自分も騙されていたと知ったフィリップは彼に会おうとしない。失意に暮れるスティーヴンは、人生を賭けた大勝負に出る…。
そういや恋人役演じていたのはオビ=ワンのユアン・マクレガーでした。あとこの監督『バッドサンタ』の脚本の人らしい。新作も明日公開ということで、もし観たい映画がないならどうぞ。この人音楽の使い方上手いよね。
明日公開の新作
エンディングは気に食わないけど大好きなクリスマス映画
まぁついでに。ラスト・ボーイスカウトって映画も観たんだ、今日。なんというか映画の始まりから終わりまでびっくりし通しだった。映画の頭から尻まで人が殴られたり、蹴られたり、刺されたり、爆発したりしていて、それ以外の時間は大体毒を吐いてる。アメリカ映画の、監督はイギリス人らしいけど、彼ら白人の暴力に対する執着に僕ら農耕民族は沈黙するしかない。
苛々する時、ちょっと人をぶん殴りたくなった時にオススメ。こんな映画は日本人には絶対に撮れない。ストーリー的にはちょっと無理があるところもあるが、もうそんな都合を押し流すくらいの暴力、暴力。アクション映画をあまり観ないからなのか、爽快すぎて漏らしそうだった。ブルース・ウィルスって格好よかったんだな。あ、あとこの映画にはブートキャンプのビリー隊長も出てるらしいので、暇な人は探してみてください。
まぁ映画としてもよくできてると思うので、血の気の多い人を中心にオススメです。僕は嫌いじゃないな。
フィリップ、きみを愛してる! [DVD]/ジム・キャリー,ユアン・マクレガー

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ラスト・ボーイスカウト [DVD]/ブルース・ウィリス,デイモン・ウェイアンズ,チェルシー・フィールド

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予告編を見たら分かるように、この作品はゲイ映画だ。人の嗜好というのはそれぞれだから、“だったら良いや”って人の首根っこを掴んでまでゲイ映画を観せようとは思わないが、僕はゲイ映画のアプローチの仕方ってのが結構好きだ。同性愛そのものに興味はないと前置きした上で、同性愛も一つの愛のあり方(少なくともスクリーンの中では・実情は知らない)であるのは間違いのないことならば、ゲイ映画ってのは手垢のあまり付いてない、新しい形のラブストーリーと言って良いと思う。映画を観ていると時たまぶつかる同性愛映画の頻度、というのも同性愛の流行というよりは恋愛映画・家族映画の新しいジャンルとして認知されている証拠なんだと思っている。
僕はド直球の恋愛映画は大ッ嫌いだ。不愉快すぎて暴れたくなるくらいに厭だ。例えば『世界の中心で~』が陳腐なのはそれが異性間恋愛の形であって、しかも使い古された手法・脚本の上に成り立っているからで、製作者の“泣かせよう”という意思(興行収入的な目論見も介在しているだろう)が明確だから、自意識を凍結してまでそれに乗せられてわんわん泣くことは僕の美意識に反する。
けれども。もし、『世界の~』がゲイ映画であったとしたら。友人関係、世間からの鬱屈、カミングアウトと解放、至福の期間と死別への時間。同性愛映画というのはそれ自身、社会との葛藤であると共に、古典的恋愛観への懐疑である。いわゆる純愛を異性間で描くためには手垢の付いていない、新しい切り口を探さない限り観客の予想を裏切りカタルシスはもたらされないが、同性愛の場合はまだ馴染みがないから、ド直球であっても“新しい手法”になり得て、観客の心の壁を打ち破って恋愛・純愛脚本のエネルギーをそのままに伝えることができると思うんだな。異性愛の直球・純愛映画というのは制作が難しくなってきてるんじゃなかろうか。
邦画ではまだゲイ・ムービーは市民権を得ていないようだが、そういった意見もあるということで、まぁ公開されることがあれば、“あぁこの監督は恋愛映画の新境地を開こうとしてるんだな”と生温く見守ってあげて欲しい。個人的には『フィリップ~』みたいなゲイ・ラブコメ・ヒューマンドラマはどうも愛敬があって嫌いになれない。あ、映画について何も書いてないや。粗筋だけでも。
IQ169の天才詐欺師スティーヴンは、収容された刑務所で心やさしいフィリップに一目ぼれ。彼を幸せにするために詐欺を繰り返すが、再び投獄されてしまう。でも、たった一言「愛してる」と伝えたい一心で、スティーヴンは何度となく脱獄するが、自分も騙されていたと知ったフィリップは彼に会おうとしない。失意に暮れるスティーヴンは、人生を賭けた大勝負に出る…。
そういや恋人役演じていたのはオビ=ワンのユアン・マクレガーでした。あとこの監督『バッドサンタ』の脚本の人らしい。新作も明日公開ということで、もし観たい映画がないならどうぞ。この人音楽の使い方上手いよね。
明日公開の新作
エンディングは気に食わないけど大好きなクリスマス映画
まぁついでに。ラスト・ボーイスカウトって映画も観たんだ、今日。なんというか映画の始まりから終わりまでびっくりし通しだった。映画の頭から尻まで人が殴られたり、蹴られたり、刺されたり、爆発したりしていて、それ以外の時間は大体毒を吐いてる。アメリカ映画の、監督はイギリス人らしいけど、彼ら白人の暴力に対する執着に僕ら農耕民族は沈黙するしかない。
苛々する時、ちょっと人をぶん殴りたくなった時にオススメ。こんな映画は日本人には絶対に撮れない。ストーリー的にはちょっと無理があるところもあるが、もうそんな都合を押し流すくらいの暴力、暴力。アクション映画をあまり観ないからなのか、爽快すぎて漏らしそうだった。ブルース・ウィルスって格好よかったんだな。あ、あとこの映画にはブートキャンプのビリー隊長も出てるらしいので、暇な人は探してみてください。
まぁ映画としてもよくできてると思うので、血の気の多い人を中心にオススメです。僕は嫌いじゃないな。
フィリップ、きみを愛してる! [DVD]/ジム・キャリー,ユアン・マクレガー

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ラスト・ボーイスカウト [DVD]/ブルース・ウィリス,デイモン・ウェイアンズ,チェルシー・フィールド

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今までのエントリ総まとめ、読んで欲しい記事たち(文化)
すっかり忘れていましたが、政治以外のエントリまとめも作っておきます。そもそもアクセスの大半はこっちですから。アクセスの多い記事と気合の入れて書いた記事をごっちゃにして、適当にコメントつけようかと。自己満?逆です。笑。
緩い題材(文化)
2011年07月28日 ピングドラムに輪る
これ三ヶ月も前なのか…。ピングドラムに感じた懐かしさ、一種のレトロ感みたいなものを自分なりに咀嚼してるエントリ。ピングドラムまだ観ています。このアニメは非アニメ的で、そこには同時代ならではの共感があると思う。
2011年03月30日 AKB48は歌手ではない
うちのアクセスNo.2。AKB48とそれを受け入れる世間への怒りと呪詛を込めたエントリ。笑。それにしてもモーニング娘は清々しいほどにアイドルしてますね。“どんな馬鹿馬鹿しいことでもマジメにやり抜ける人間は、どうにも嫌いになれない”。『マジで~』は僕の周囲でも反響があって驚いた。
2011年02月18日 第144回芥川賞選評を読んだので、感想文
たぶんNo.3。144回の芥川賞は時代と文学が歩調を合わせた一つの節目であったと思います。しょっちゅう引用してる“平成という豊饒で甘えた時代”は慎太郎の、“高度な洗練は、作品を陳腐化する場合がある”は村上龍の選評です。最近、女性も西村賢太を読むことにびっくりしました。
2010年09月14日 侘び・寂びってなんだろう
自分では斬新な解釈のつもりだったけれど、反響がまるでなくてがっかりしたエントリ。相変わらず論旨が徘徊しているので、ざっと読んでも意味が分かりにくいとは自分で分かっていても、愛着があるんだよなぁ。こんな題材で書いていきたかったんだよなぁ。
2010年09月01日 『弟』 ある兄弟の話
慎太郎・裕次郎兄弟のエピソードが常識離れしていて思わず書いてしまったエントリ。二人を世に出した昭和という時代のダイナミックさは、平成に生きる僕らに何か大切なものを提示してる気がします。そんな一種のノスタルジー。
2010年08月22日 純文学の〝純〟とはなんぞや
純文学と娯楽小説の違いをずっと考えていた時、国語的アプローチをしてみたら面白かったのでまとめたエントリ。あの頃に較べると“純”文学をなんとなくでも自然に理解できてる気がする。ただ説明する時にはこのエントリ的な表現をせざるを得ないかな。
2010年08月17日 Perfume
パフュームって不思議なグループで、アイドルなのか歌手なのかよく分からない。地声じゃないから歌が上手いか下手かもよく分からない。なぜかテクノだし、可愛いような気もそうでもない気もする。PVを観た時、ダンスだけは少なくとも上手いだなって所から、パフュームという女性グループの、魅力と謎が少しだけ分かった気がします。
2010年08月16日 その名はランス!
一言でエロゲーと言ってしまうと、ただただ性欲を満たすために作られた、法律的・道徳的に限りなくグレーで歪んだゲームという印象を与えてしまう。抜きゲーと呼ばれるエロゲーの主流に目を背ける訳ではないが、制限のない環境でこそ生まれる自由奔放なゲームについて、エロゲーという奥深い世界の一端をふと紹介したくなったので書いた。
2010年08月15日 緑川伸一日和
学生時代によく聴いていたミドリカワ書房について。なかなかCD買う機会がなく半ば忘れていたが、ふと動画を検索すると懐かしくて、いい曲が沢山みつかったから紹介したくなった。CDについてたPVの記憶もふと蘇って、それについても色々調べてみた、という。またそのうち書きたいな。
2010年07月22日 おなじ話 / ハンバート ハンバート
うちのブログアクセス数の約1/3を支える、文句なしのNo.1のエントリ。そんなに新しいことを書いた訳ではないのだけれど、ハンバートハンバートというデュオの魅力なのか、歌詞の神秘性であるのか、ブログで取り上げる人が多分少なかったこともあって、未だに多くの人に読んでもらえてるエントリ。アンテナは敏感にしておかないといけないなぁ…。
2010年05月22日 鑑賞する対象としての「美少女」、モーニング娘。の話
漫画喫茶で一気に書き上げたエントリ。懐かしいな、アイドル論一発目です。アメリカどうこうとか書いてるのが青いですが、思いつきを嬉々として書いてる昔の自分を思い返すと無闇に切なくなってくるのはなぜだろう。切り口としてはとても面白い。そう、自画自賛。
2010年02月02日 ブログ開設とイエローキッド
記念すべき一枚目のエントリ。もうすぐ二年です。本当にあっという間。ある意味でこのエントリだけが僕のブログだった書いても過言ではないと思う。荒んだ気持ちとユーモアが、なんとなく健気。当時を思い出すと一日千秋の思いです。意味知らないけど。
いつの間にか一年半が経った当ブログ。更新頻度の多い月もあれば、全く更新しなかった月もあり。省エネでやってきた訳ですが、いつの間にか結構な分量になっていて、なんだかしみじみしています。ブログに対する個人的な思い、そして思い出なんかをつらつら書くのも自己満足の足しにはなるんですが、後ろを振り返るにはまだ早い。エントリまとめをまたアップできるように、そして低いクオリティーで満足しないように。ナマケモノ魂に鞭打って頑張る所存です。
あと本について書いたエントリが意外に少ないことに気づきました。いずれ書こう書こうと思っていた文学評論ならぬ文学感想を、正面から逃げずに書いてみるかも知れません。絶対に面白い自信がありますし、共感して貰えたり、本を手に取るきっかけになれば尚いいですね。ふむ。もう秋も終わりです。残り少ない2011年を満喫しましょう。それでは。
罪の味 /ハンバート ハンバート


¥200
iTunes
※モバイル非対応
緩い題材(文化)
2011年07月28日 ピングドラムに輪る
これ三ヶ月も前なのか…。ピングドラムに感じた懐かしさ、一種のレトロ感みたいなものを自分なりに咀嚼してるエントリ。ピングドラムまだ観ています。このアニメは非アニメ的で、そこには同時代ならではの共感があると思う。
2011年03月30日 AKB48は歌手ではない
うちのアクセスNo.2。AKB48とそれを受け入れる世間への怒りと呪詛を込めたエントリ。笑。それにしてもモーニング娘は清々しいほどにアイドルしてますね。“どんな馬鹿馬鹿しいことでもマジメにやり抜ける人間は、どうにも嫌いになれない”。『マジで~』は僕の周囲でも反響があって驚いた。
2011年02月18日 第144回芥川賞選評を読んだので、感想文
たぶんNo.3。144回の芥川賞は時代と文学が歩調を合わせた一つの節目であったと思います。しょっちゅう引用してる“平成という豊饒で甘えた時代”は慎太郎の、“高度な洗練は、作品を陳腐化する場合がある”は村上龍の選評です。最近、女性も西村賢太を読むことにびっくりしました。
2010年09月14日 侘び・寂びってなんだろう
自分では斬新な解釈のつもりだったけれど、反響がまるでなくてがっかりしたエントリ。相変わらず論旨が徘徊しているので、ざっと読んでも意味が分かりにくいとは自分で分かっていても、愛着があるんだよなぁ。こんな題材で書いていきたかったんだよなぁ。
2010年09月01日 『弟』 ある兄弟の話
慎太郎・裕次郎兄弟のエピソードが常識離れしていて思わず書いてしまったエントリ。二人を世に出した昭和という時代のダイナミックさは、平成に生きる僕らに何か大切なものを提示してる気がします。そんな一種のノスタルジー。
2010年08月22日 純文学の〝純〟とはなんぞや
純文学と娯楽小説の違いをずっと考えていた時、国語的アプローチをしてみたら面白かったのでまとめたエントリ。あの頃に較べると“純”文学をなんとなくでも自然に理解できてる気がする。ただ説明する時にはこのエントリ的な表現をせざるを得ないかな。
2010年08月17日 Perfume
パフュームって不思議なグループで、アイドルなのか歌手なのかよく分からない。地声じゃないから歌が上手いか下手かもよく分からない。なぜかテクノだし、可愛いような気もそうでもない気もする。PVを観た時、ダンスだけは少なくとも上手いだなって所から、パフュームという女性グループの、魅力と謎が少しだけ分かった気がします。
2010年08月16日 その名はランス!
一言でエロゲーと言ってしまうと、ただただ性欲を満たすために作られた、法律的・道徳的に限りなくグレーで歪んだゲームという印象を与えてしまう。抜きゲーと呼ばれるエロゲーの主流に目を背ける訳ではないが、制限のない環境でこそ生まれる自由奔放なゲームについて、エロゲーという奥深い世界の一端をふと紹介したくなったので書いた。
2010年08月15日 緑川伸一日和
学生時代によく聴いていたミドリカワ書房について。なかなかCD買う機会がなく半ば忘れていたが、ふと動画を検索すると懐かしくて、いい曲が沢山みつかったから紹介したくなった。CDについてたPVの記憶もふと蘇って、それについても色々調べてみた、という。またそのうち書きたいな。
2010年07月22日 おなじ話 / ハンバート ハンバート
うちのブログアクセス数の約1/3を支える、文句なしのNo.1のエントリ。そんなに新しいことを書いた訳ではないのだけれど、ハンバートハンバートというデュオの魅力なのか、歌詞の神秘性であるのか、ブログで取り上げる人が多分少なかったこともあって、未だに多くの人に読んでもらえてるエントリ。アンテナは敏感にしておかないといけないなぁ…。
2010年05月22日 鑑賞する対象としての「美少女」、モーニング娘。の話
漫画喫茶で一気に書き上げたエントリ。懐かしいな、アイドル論一発目です。アメリカどうこうとか書いてるのが青いですが、思いつきを嬉々として書いてる昔の自分を思い返すと無闇に切なくなってくるのはなぜだろう。切り口としてはとても面白い。そう、自画自賛。
2010年02月02日 ブログ開設とイエローキッド
記念すべき一枚目のエントリ。もうすぐ二年です。本当にあっという間。ある意味でこのエントリだけが僕のブログだった書いても過言ではないと思う。荒んだ気持ちとユーモアが、なんとなく健気。当時を思い出すと一日千秋の思いです。意味知らないけど。
いつの間にか一年半が経った当ブログ。更新頻度の多い月もあれば、全く更新しなかった月もあり。省エネでやってきた訳ですが、いつの間にか結構な分量になっていて、なんだかしみじみしています。ブログに対する個人的な思い、そして思い出なんかをつらつら書くのも自己満足の足しにはなるんですが、後ろを振り返るにはまだ早い。エントリまとめをまたアップできるように、そして低いクオリティーで満足しないように。ナマケモノ魂に鞭打って頑張る所存です。
あと本について書いたエントリが意外に少ないことに気づきました。いずれ書こう書こうと思っていた文学評論ならぬ文学感想を、正面から逃げずに書いてみるかも知れません。絶対に面白い自信がありますし、共感して貰えたり、本を手に取るきっかけになれば尚いいですね。ふむ。もう秋も終わりです。残り少ない2011年を満喫しましょう。それでは。
罪の味 /ハンバート ハンバート

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鬱病・自律神経失調症は病気じゃねぇだろ
対話は無駄ではないと思う。価値観の違った二人で話をすること、それも本音で会話することは大体苦痛だ。こちらの意見を理解してくれないし、向こうの言っていることもよく分からない。小利巧な人なら適当に流しながら建前を話すべき局面なのだろう。その方が楽だし、対話・会話に結論がある訳でもなく、楽しさも期待できないのだから、そうするのがある意味正解なのかも知れない。というかそうなんだろう。でも僕はそれってつまらない事だと思う。だらしなくて不潔な選択だと感じる。
実際に対話してみれば、互いに理解
だめだ、膨らまないや。取り敢えず何か更新するのも難しいもんです。あ、今日気付いたんだけれど、僕は悩んでる人が好物らしい。何かにつけて色々悩んだり、突発的に臆病になったり、前に進めないことが日常化してるもんだから、壁にぶつかって悩んでる人の深刻さとか溜息の大きさなんかを自分と較べたくなってしまう悪癖がある。声をかけて何時間も話し込むんだが、まぁ大抵の場合、というかいつも“え、その程度なの?”“知ってる知ってる、俺もあったあったそんな時代がよ”くらいの感想しか抱いたことがない。僕の傲り昂ぶり狂った神経によるものであるのか、真に不幸なのかは知ったことではないのだけれど、相談に乗っている時の“俺はお前よりも悩んでる”ことの優越感といったら哀しいほどに心地いい。
特に大袈裟に悩んでますよ感を醸してる人に限って、悩みの根は彼・彼女が思っている以上に浅いから、僕はゲラゲラ笑ったり吹き出したりしながら相談に乗る。勿論彼らの悩みが、少なくとも彼らにとって、全生涯を賭けるほどの真剣さで蝕んでいることは分かってはいるが、僕の持論では本物の絶望というのは日常の中にこそ潜んでいて、ある局面・状況下で起きる悩み苦しみなんぞというものは解答もあれば選択肢も用意されている、しかも一過性の安い痛みでしかない。そんな虫刺され程度のものにあれこれ悩んで、言うに事欠いて人生の意味だの、自殺だの持ち出された日には笑ってやった方が未来の彼らにとっても本望なはずだ。一過性のやつに絶望的なほど悩む時は笑い飛ばされた方が気分が良いもんだ。
鬱だの自律神経失調症だの言って大袈裟に悲劇の姫君を気取る女性も最近増えた気がする。自慢じゃないが、僕も鬱のリズムに入って吐き気がするくらい人と会いたくない時があるし、なんか自律神経障害っぽい気分になることもある。だけど今まで見てきた同世代の人間の殆んどは、程度の差こそあれ、そういう局面というか側面を裏に持ち合わせていることを僕は知っている。社会も悪いんだろうし、教育も教師もカスばっかだし、親も大人も兄弟も友人もまともな神経を持った人間なんて一握りしかいないことは、この平成という“豊饒で甘えた時代”に青春を過ごした我々世代にとっては常識以上に既知で可視的なものなのだ。
人を見るのに必要な器官が眼窩に嵌っていて、その使い方を指示できる量の神経細胞を頭蓋に詰め込んでいるのなら、“どうして自分だけが”悩み苦しんでいる理由を容易に、明快に、たぶん五文字以内で表現できることに気付けない筈はない。ギリギリでも日常生活を営める程度の体の変調で済んでいる“軽度の”失調症・鬱病患者に申し上げたいのは、御託も理屈ももうお腹いっぱいだから、とにかく何でも良いので自分で決断して行動しろ、ということ。悩みの大本に挑戦するのが怖いのなら、なんでもいい、友人と飲むとか映画観に行くとか水族館行くとか、ささやかでも行動して自分に自信をつけることが精神安定剤なんかよりも遥かに効果的な処方箋だってことに早く気づいてくれってことです。
これはあくまで僕の仮定なんだが、自律神経失調は懺悔で、鬱は贖罪だと思う。自虐であることは共通していて、
<自失症>
自分の処理能力以上に課題を抱え込むことで極度のストレスを感じている状態が続いた際、吐き気・目眩・気力減退等、日常生活に支障をきたすような信号が体から発される。これらは現状の課題から逃れるための理由として有効に機能し、過度のストレスから解放されるための契機となり得る。無意識下でありながら半ば意図的に自分を追い込み、信号を発することで周囲に窮状への理解を求める場合もある。
<鬱>
困難な状况や課題にぶつかり打ち破れず逃げ出してしまった際、主に通過儀礼などで、周囲の冷眼視から身を守るため、過度に自らを責めたてることで精神の安定を敢えて崩し、逃避による罪悪感を相殺しようとする心の働き。またその傾向。
僕の経験ではこんな感じの人が多いし、自分の症状を分析して当てはまりそうなのはこんな感じ。重篤な人やこじらせてしまった人は一朝一夕に治らないだろうし、さながら重病人の様子だから一括りにはできないかもしれないが、僕からみればささやか過ぎる症状(というか体のサイン)で自失症の診断をされた人がいるのだから、投薬されてるからと言ってこれもまた一概に特別扱いする必要もないと感じる。新しい概念なのだから医者の診断基準も曖昧なんだろう。
自律神経失調症だとか鬱病だとか、単語を聞いただけで取り乱す常識人も多い。彼らの思考回路では鬱・自失症=病気という公式が何の疑問もなく成立していて、病人だからと言葉を選んだり特別扱いをすることで壁を作ってしまい、余計に症状というか身体・精神的変調を悪化させる結果を招いてしまう。
僕は双方とも身体・精神の自己防衛機能だと捉えている。それらは肉体を過度のストレスに曝すまいとする、僕達人間に備わっている自然な防衛本能に基づいたもので、本質的には悩み苦しむ彼・彼女に責任はない。自然な作用なのだ。ここで問題なのは、社会・組織・コミュニティーに所属している者にとって、出来ないでは済まされない問題(しかも他の人なら大体できてしまう課題)があった際、当事者がそれら自己防衛機能を盾に逃避してしまうと、構成員から糾弾されることがあり得る。特に結果を求められる世界の場合は。
人間関係、成果主義…場合によってはコミュニティーをやめざるを得なくなることが考えられるし、それによって彼・彼女はコミュニティーに所属していたら受益できただろう利益(給料やスキル、精神的成長や良質の人間関係)を失うことになり、自責の思いは募る一方、変調は悪化する。防衛本能は本質的悪ではあり得ないのに、結果として彼らはひどく不幸になる。何が悪かったんだろう?自問自答する彼らはたぶん答えに辿り着くことができない。彼ら自身に原因があることを受け入れ、失敗を恐れず行動する強さを持っているのなら、彼・彼女はそもそも防衛本能に頼る必要がなかったからだ。薄々は答えに気付きながらも、厳しい回答を受け入れることができない、くらいに繊細なんだ。
じゃ、どうすれば良いか。それはシンプルなこと。取り敢えずやってみることだ。様々な選択肢が去来するだろう、コミュニティーへの不満もあるだろう、自分への慚愧も当然あるだろう。前に進めない理由など星の数以上に存在する。でもそれらは一旦脇に置いておこう。疲れている時、悩んでる時、辛い時にまともな判断などできやしない。ただ“分からない”のなら取り敢えず前に進め。苦しみの波をやり過ごすまで、暫くの間耐えよう。同時に、自分の内なる声に耳を傾けよう。自分の苦しんでいる理由は何か?それは医者以上に貴方が一番知っているはず。理由が分かるまで迂闊な判断はしないことだ。自分で納得した時に初めて決断なさい。そうすれば結果はどうあれ後悔することはない。困難に向き合いなさい。ガムシャラに、破れかぶれでも、傷だらけになっても。
どうしても一歩が踏み出せない、そんな時もあるだろう。気分転換しなさい。いままでやらなかった事を始めなさい。興味のなかった本を読め。何も考えず友人の勧める映画を観ろ。銭湯でも行け。髪を切れ。自転車でどこまでも漕いで行け。学生時代の友人と飲みに行け。怖い上司に相談してみろ。靴下を買え。辛いことをひとまず忘れて、新しいことさえしていれば、不思議と人は自信を持てるもんだ。どんなベクトルであっても、自分で決断した行動によって自分の人生を作っていくこと、それが生きるということ。頑張るということ。どうしても駄目なら“まぁしょうがねぇな”妥協してしまえ。それも自分の判断なんだ。
盲滅法にでも目の前の厄介を殺し続けているうちに、ふと自分が前ほど悩んでいないことに気付く。周囲の人間よりも能力がある自信を持つようになる。それが成長だ。小利巧に理論を組み立てたとしても成長なんかできやしない。分からないのなら行動、行動、行動。その果てに初めて安楽がある。もう気付く筈だ、殆んどの人間が何かしらの苦しみや悩みを抱え、戦い続けていることに。貴方の悩みは特別じゃない。上司や先輩が貴方の尻を叩くのは、成長するために行動しかないことを、彼らなりの方法論で示唆しているのだ。
(従って見守る者としては、彼らに特別の配慮ではなくごく当たり前の“一人前の人間”として自分を重ね合わせた上で、必要だと判断すれば厳しい言葉を投げかける必要がある。残酷に感じるかも知れないし、誰しも嫌われる言葉は吐きたくないものだけれど、彼・彼女のためを思うのであれば、苦々しさをヌルく抑えてただ見ていることの罪悪を感じ取ってあげて欲しい。本音でぶつかることでしか互いの理解は得られないのではないかと思う。)
信じて欲しい。貴方が思っているほどこの世界は腐ってはいない。頑張ってさえいれば嫌でも評価されてしまう。評価されないのなら、その理由は貴方自身がよく分かっている筈。ひたむきでもどこかで冷静に、他人の意見のために左脳のスペースを空けておいて欲しい。最終的には自分が全てを決める。しかしその自分らしきものの9割以上が他人の意見によって形作られていることも忘れちゃいかんのだ。
しなやかに生きることは難しい。がんばり過ぎればいずれは折れるし、サボる者にはツケが回る。自分の置かれた状况を冷静に判断しながら、土臭く生きてゆくこと。これからの平成、もしくは平成後の日本を生きる僕達に必要なこと。それは村上春樹流に表現すれば“タフな”生き方なのかもしれない。
…とまぁ、母校の後輩とたまたま話す機会があったので話しきれなかったことをまとまりもなく、ダラダラ書いてみた。世代のカラーとは後々決まるものだから今から色眼鏡を掛けて見るべきではないのだろうけれど、ゆとり世代ど真ん中の彼女の話す言葉が僕には早くも新鮮で、ギャップを感じた瞬間だった。人には勿論性格的傾向があるけれど、それを頑張らない言い訳にはすべきじゃない。みんな何かしらの事情を乗り越えて頑張ってるのだから、頑張らない人は頑張らないだけの代償を払うことになる。そしてただ闇雲に頑張るという行為はそれだけで好ましく映るものだし、その経験は人生を支え続ける。伝わったかは知らない。
もう一つ分かったことは、僕は女の涙に糞ほどの価値も見出していないということ。笑。心が冷たいんだろうか、女の涙に動揺してみたいもんだとつくづく思った。このエントリは長いだけで意味分かんないので、気が向いたら構成し直してもっと伝わりやすいように書き直そうかなぁ?ふむ。おわり。
8人の女たち デラックス版 [DVD]/カトリーヌ・ドヌーヴ,エマニュエル・ベアール,イザベル・ユペール

¥3,990
Amazon.co.jp
☆☆☆☆
フランス映画の狂気とユーモア、その中毒性については北野武と関連していつかエントリで書きたいもんだ。
インビクタス / 負けざる者たち [DVD]/モーガン・フリーマン,マット・デイモン,レレティ・クマロ

¥1,500
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☆☆☆☆
なんて爽やかで、力強い映画なんだろう。冗談抜きでこの映画をつまらないと言える人を僕は想像できない。ラグビーとマンデラの映画。両方知らないなら必見。
ライアーライアー/ジム・キャリー

¥3,990
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☆☆☆
疲れた時ほどジム・キャリーを観たくなる。映画がどうでもよくなるくらいにジム・キャリーが好きになる映画。アイアンクロー。
実際に対話してみれば、互いに理解
だめだ、膨らまないや。取り敢えず何か更新するのも難しいもんです。あ、今日気付いたんだけれど、僕は悩んでる人が好物らしい。何かにつけて色々悩んだり、突発的に臆病になったり、前に進めないことが日常化してるもんだから、壁にぶつかって悩んでる人の深刻さとか溜息の大きさなんかを自分と較べたくなってしまう悪癖がある。声をかけて何時間も話し込むんだが、まぁ大抵の場合、というかいつも“え、その程度なの?”“知ってる知ってる、俺もあったあったそんな時代がよ”くらいの感想しか抱いたことがない。僕の傲り昂ぶり狂った神経によるものであるのか、真に不幸なのかは知ったことではないのだけれど、相談に乗っている時の“俺はお前よりも悩んでる”ことの優越感といったら哀しいほどに心地いい。
特に大袈裟に悩んでますよ感を醸してる人に限って、悩みの根は彼・彼女が思っている以上に浅いから、僕はゲラゲラ笑ったり吹き出したりしながら相談に乗る。勿論彼らの悩みが、少なくとも彼らにとって、全生涯を賭けるほどの真剣さで蝕んでいることは分かってはいるが、僕の持論では本物の絶望というのは日常の中にこそ潜んでいて、ある局面・状況下で起きる悩み苦しみなんぞというものは解答もあれば選択肢も用意されている、しかも一過性の安い痛みでしかない。そんな虫刺され程度のものにあれこれ悩んで、言うに事欠いて人生の意味だの、自殺だの持ち出された日には笑ってやった方が未来の彼らにとっても本望なはずだ。一過性のやつに絶望的なほど悩む時は笑い飛ばされた方が気分が良いもんだ。
鬱だの自律神経失調症だの言って大袈裟に悲劇の姫君を気取る女性も最近増えた気がする。自慢じゃないが、僕も鬱のリズムに入って吐き気がするくらい人と会いたくない時があるし、なんか自律神経障害っぽい気分になることもある。だけど今まで見てきた同世代の人間の殆んどは、程度の差こそあれ、そういう局面というか側面を裏に持ち合わせていることを僕は知っている。社会も悪いんだろうし、教育も教師もカスばっかだし、親も大人も兄弟も友人もまともな神経を持った人間なんて一握りしかいないことは、この平成という“豊饒で甘えた時代”に青春を過ごした我々世代にとっては常識以上に既知で可視的なものなのだ。
人を見るのに必要な器官が眼窩に嵌っていて、その使い方を指示できる量の神経細胞を頭蓋に詰め込んでいるのなら、“どうして自分だけが”悩み苦しんでいる理由を容易に、明快に、たぶん五文字以内で表現できることに気付けない筈はない。ギリギリでも日常生活を営める程度の体の変調で済んでいる“軽度の”失調症・鬱病患者に申し上げたいのは、御託も理屈ももうお腹いっぱいだから、とにかく何でも良いので自分で決断して行動しろ、ということ。悩みの大本に挑戦するのが怖いのなら、なんでもいい、友人と飲むとか映画観に行くとか水族館行くとか、ささやかでも行動して自分に自信をつけることが精神安定剤なんかよりも遥かに効果的な処方箋だってことに早く気づいてくれってことです。
これはあくまで僕の仮定なんだが、自律神経失調は懺悔で、鬱は贖罪だと思う。自虐であることは共通していて、
<自失症>
自分の処理能力以上に課題を抱え込むことで極度のストレスを感じている状態が続いた際、吐き気・目眩・気力減退等、日常生活に支障をきたすような信号が体から発される。これらは現状の課題から逃れるための理由として有効に機能し、過度のストレスから解放されるための契機となり得る。無意識下でありながら半ば意図的に自分を追い込み、信号を発することで周囲に窮状への理解を求める場合もある。
<鬱>
困難な状况や課題にぶつかり打ち破れず逃げ出してしまった際、主に通過儀礼などで、周囲の冷眼視から身を守るため、過度に自らを責めたてることで精神の安定を敢えて崩し、逃避による罪悪感を相殺しようとする心の働き。またその傾向。
僕の経験ではこんな感じの人が多いし、自分の症状を分析して当てはまりそうなのはこんな感じ。重篤な人やこじらせてしまった人は一朝一夕に治らないだろうし、さながら重病人の様子だから一括りにはできないかもしれないが、僕からみればささやか過ぎる症状(というか体のサイン)で自失症の診断をされた人がいるのだから、投薬されてるからと言ってこれもまた一概に特別扱いする必要もないと感じる。新しい概念なのだから医者の診断基準も曖昧なんだろう。
自律神経失調症だとか鬱病だとか、単語を聞いただけで取り乱す常識人も多い。彼らの思考回路では鬱・自失症=病気という公式が何の疑問もなく成立していて、病人だからと言葉を選んだり特別扱いをすることで壁を作ってしまい、余計に症状というか身体・精神的変調を悪化させる結果を招いてしまう。
僕は双方とも身体・精神の自己防衛機能だと捉えている。それらは肉体を過度のストレスに曝すまいとする、僕達人間に備わっている自然な防衛本能に基づいたもので、本質的には悩み苦しむ彼・彼女に責任はない。自然な作用なのだ。ここで問題なのは、社会・組織・コミュニティーに所属している者にとって、出来ないでは済まされない問題(しかも他の人なら大体できてしまう課題)があった際、当事者がそれら自己防衛機能を盾に逃避してしまうと、構成員から糾弾されることがあり得る。特に結果を求められる世界の場合は。
人間関係、成果主義…場合によってはコミュニティーをやめざるを得なくなることが考えられるし、それによって彼・彼女はコミュニティーに所属していたら受益できただろう利益(給料やスキル、精神的成長や良質の人間関係)を失うことになり、自責の思いは募る一方、変調は悪化する。防衛本能は本質的悪ではあり得ないのに、結果として彼らはひどく不幸になる。何が悪かったんだろう?自問自答する彼らはたぶん答えに辿り着くことができない。彼ら自身に原因があることを受け入れ、失敗を恐れず行動する強さを持っているのなら、彼・彼女はそもそも防衛本能に頼る必要がなかったからだ。薄々は答えに気付きながらも、厳しい回答を受け入れることができない、くらいに繊細なんだ。
じゃ、どうすれば良いか。それはシンプルなこと。取り敢えずやってみることだ。様々な選択肢が去来するだろう、コミュニティーへの不満もあるだろう、自分への慚愧も当然あるだろう。前に進めない理由など星の数以上に存在する。でもそれらは一旦脇に置いておこう。疲れている時、悩んでる時、辛い時にまともな判断などできやしない。ただ“分からない”のなら取り敢えず前に進め。苦しみの波をやり過ごすまで、暫くの間耐えよう。同時に、自分の内なる声に耳を傾けよう。自分の苦しんでいる理由は何か?それは医者以上に貴方が一番知っているはず。理由が分かるまで迂闊な判断はしないことだ。自分で納得した時に初めて決断なさい。そうすれば結果はどうあれ後悔することはない。困難に向き合いなさい。ガムシャラに、破れかぶれでも、傷だらけになっても。
どうしても一歩が踏み出せない、そんな時もあるだろう。気分転換しなさい。いままでやらなかった事を始めなさい。興味のなかった本を読め。何も考えず友人の勧める映画を観ろ。銭湯でも行け。髪を切れ。自転車でどこまでも漕いで行け。学生時代の友人と飲みに行け。怖い上司に相談してみろ。靴下を買え。辛いことをひとまず忘れて、新しいことさえしていれば、不思議と人は自信を持てるもんだ。どんなベクトルであっても、自分で決断した行動によって自分の人生を作っていくこと、それが生きるということ。頑張るということ。どうしても駄目なら“まぁしょうがねぇな”妥協してしまえ。それも自分の判断なんだ。
盲滅法にでも目の前の厄介を殺し続けているうちに、ふと自分が前ほど悩んでいないことに気付く。周囲の人間よりも能力がある自信を持つようになる。それが成長だ。小利巧に理論を組み立てたとしても成長なんかできやしない。分からないのなら行動、行動、行動。その果てに初めて安楽がある。もう気付く筈だ、殆んどの人間が何かしらの苦しみや悩みを抱え、戦い続けていることに。貴方の悩みは特別じゃない。上司や先輩が貴方の尻を叩くのは、成長するために行動しかないことを、彼らなりの方法論で示唆しているのだ。
(従って見守る者としては、彼らに特別の配慮ではなくごく当たり前の“一人前の人間”として自分を重ね合わせた上で、必要だと判断すれば厳しい言葉を投げかける必要がある。残酷に感じるかも知れないし、誰しも嫌われる言葉は吐きたくないものだけれど、彼・彼女のためを思うのであれば、苦々しさをヌルく抑えてただ見ていることの罪悪を感じ取ってあげて欲しい。本音でぶつかることでしか互いの理解は得られないのではないかと思う。)
信じて欲しい。貴方が思っているほどこの世界は腐ってはいない。頑張ってさえいれば嫌でも評価されてしまう。評価されないのなら、その理由は貴方自身がよく分かっている筈。ひたむきでもどこかで冷静に、他人の意見のために左脳のスペースを空けておいて欲しい。最終的には自分が全てを決める。しかしその自分らしきものの9割以上が他人の意見によって形作られていることも忘れちゃいかんのだ。
しなやかに生きることは難しい。がんばり過ぎればいずれは折れるし、サボる者にはツケが回る。自分の置かれた状况を冷静に判断しながら、土臭く生きてゆくこと。これからの平成、もしくは平成後の日本を生きる僕達に必要なこと。それは村上春樹流に表現すれば“タフな”生き方なのかもしれない。
…とまぁ、母校の後輩とたまたま話す機会があったので話しきれなかったことをまとまりもなく、ダラダラ書いてみた。世代のカラーとは後々決まるものだから今から色眼鏡を掛けて見るべきではないのだろうけれど、ゆとり世代ど真ん中の彼女の話す言葉が僕には早くも新鮮で、ギャップを感じた瞬間だった。人には勿論性格的傾向があるけれど、それを頑張らない言い訳にはすべきじゃない。みんな何かしらの事情を乗り越えて頑張ってるのだから、頑張らない人は頑張らないだけの代償を払うことになる。そしてただ闇雲に頑張るという行為はそれだけで好ましく映るものだし、その経験は人生を支え続ける。伝わったかは知らない。
もう一つ分かったことは、僕は女の涙に糞ほどの価値も見出していないということ。笑。心が冷たいんだろうか、女の涙に動揺してみたいもんだとつくづく思った。このエントリは長いだけで意味分かんないので、気が向いたら構成し直してもっと伝わりやすいように書き直そうかなぁ?ふむ。おわり。
8人の女たち デラックス版 [DVD]/カトリーヌ・ドヌーヴ,エマニュエル・ベアール,イザベル・ユペール

¥3,990
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☆☆☆☆
フランス映画の狂気とユーモア、その中毒性については北野武と関連していつかエントリで書きたいもんだ。
インビクタス / 負けざる者たち [DVD]/モーガン・フリーマン,マット・デイモン,レレティ・クマロ

¥1,500
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☆☆☆☆
なんて爽やかで、力強い映画なんだろう。冗談抜きでこの映画をつまらないと言える人を僕は想像できない。ラグビーとマンデラの映画。両方知らないなら必見。
ライアーライアー/ジム・キャリー

¥3,990
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☆☆☆
疲れた時ほどジム・キャリーを観たくなる。映画がどうでもよくなるくらいにジム・キャリーが好きになる映画。アイアンクロー。