生活の柄 - 高田渡 | 蒼龍の棲む洞穴

生活の柄 - 高田渡



生活の柄
作詞 山之口貘
作曲 高田渡

歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれては 寝たのです
ところかまわず 寝たのです
歩き疲れては
草に埋もれて 寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが
眠れないのです

近頃は眠れない
陸をひいては 眠れない
夜空の下では 眠れない
ゆり起こされては 眠れない
歩き疲れては
草に埋もれて 寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが
眠れないのです

そんな僕の生活の柄が
夏向きなのでしょうか
寝たかと思うと 寝たかと思うと
またも冷気にからかわれて
秋は 秋は
浮浪者のままでは 眠れない
秋は 秋からは
浮浪者のままでは 眠れない

歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれては 寝たのです
ところかまわず 寝たのです



 たまたま高田渡を紹介してるブログを見ていたので、検索して動画を見つけました。なんだろう、美しいとは違う。格好いい、訳でもない。渋い、ってのも少し違う。侘び寂び、遠くなった。とにかく良い歌だと思った。歌詞の魅力でもあるし、高田渡というフォークシンガーの人柄でもある。

まるで投げつけるような武骨なリズム、木でも彫るような歌い方。損得のない、欲のない、不器用だけれども透き通った歌。聴けば聴くほど、こんな歌があったのかと思う。そしてこれこそ、この体験こそが音楽なのではないかと思う。

世間に背を向け、酒に溺れて、それでも歌い続けた高田渡という歌手と、後半生を困窮と流浪に過ごした山之口貘という詩人、二人の歌がこれでもかと、僕らに問い掛ける。斃死した二人の魂が、歌を通して僕らに問い掛けている。


僕はこの歌詞を見た時、別離の歌だと思った。しばらくして見た時、諦めの歌だと思った。その後は両方どちらでもある気がした。今は強がりの歌だと思っている。

この詩はその放浪時代に出来た詩なのだろうか、だとしたら自分自身の困窮生活を「ありのまま」に表現しているのだろう。要するに「歩き疲れたから草に埋もれて寝たけれど眠れない」と言っているだけだ。実際帰る場所がなければ何処で寝ても良いわけで、地球の地面全体が敷布団だと思ったら気が楽である。人間の本能から来るのだろうか、草に埋もれて夜空の下で眠る事は遠い昔の郷愁を感じさせる。だから、つらいとか、悲しいとかそういう気持ちではなく、むしろこの状態を楽しんでいるように思える。スケールが大きい詩である。

この歌詞の意味というのはこのブログの意見に集約されてる。しかし、なんというか歌詞から感じるもの、歌に感じる力にはただ放浪だけの意味、それ以上のものを感じるのだ。僕の感じたものに忠実に、従ってこれから先は蛇足であることを再確認したうえで書いてみたい。

まず流浪の歌であるなら、なぜ“眠れない”のか。青年がふと列島を一周しようとするような、そんな軽い思い立ちではない。生活の柄、と言うほどに体にしみつくほど旅をしている者の歌だ。人生を旅に費やした者が、秋になり温度が下がっただけで眠れなくなるものだろうか。

歌から感じるのは、ただ寒いから寝られないのではなく、心に兆したものを歌っている気がする。“浮浪者のままでは眠れない”とても心を捉える歌詞だ。胸に突き刺さる歌詞だ。哀切で、悲痛な歌詞だ。しかし例えば浮浪者でないとすれば、どうすれば眠れるようになると言うのだろう。

陳腐な一つの答えとして、どこかで“働く”という選択もあるかもしれない。放浪生活をやめ、屋根のある生活、暖かい生活をすれば寝られるようになるかもしれない。つまり、秋を人生における一つの比喩として、放浪生活に倦んだ者の歌と捉えれば、これまでの自分の生活との別れ“別離”を歌った歌と言えなくはない。

非生産者として、ただ旅ばかりしている者が眠れない夜に、ふいに吹く冷たい秋風にふと兆す弱気、自分の生活の柄を振り返る歌。しかし貘の人生のように、彼には旅を続けるという選択もある。歌詞は明示していないのだけれど、僕はなんとなく、彼は結局旅を続けるような気がしている。

ならばこの一時の迷い、旅と“別離”しようという、は彼の決意というよりは、毎日のように自問自答している問いを、再び確認しただけであったかも知れない。その答えは最初から決まっているのだ。彼には旅しかないのだ。ならばこの問いは自嘲であり、“諦め”であると思う。結局俺なんて、と。

しかし高田渡の力強い歌声は、そんな弱気な男を歌わない。どのみち、男が旅をすることでしか生きられないのならば、それがどうした、俺は俺でしかないのだと。何が悪くて、何が良いと言うのだ。そんな基準を俺は信じないと。だから旅をしているのだと。そうすることでしか生きられない男の、秋の冷気に弱気になりながら虚空に吼える姿。僕はいまのところ、歌詞と歌声からそんな男を想像している。つまり“強がり”の歌。それでも前に進む意思である。

たとえば進路や転職で悩む者にこの歌は訴えかけるのではないか。“それで良いのか?”“また妥協するのか?”“自分すらも信じられないのか?”と。戦い続ける者にはこう慰める。“お前だけではないのだ”と。


まぁこれは一つの、しかも偏った解釈でしかないです。“眠れない”不可能、“寝たのです”過去形と解釈すれば、放浪生活をやめて暖かい生活を始めた者の、流浪の旅を懐かしむ気持ち、“懐古”の歌とも言えます。僕はこの解釈は歌い回しとは合わないので違う気がするけれど。まぁ歌というのは受け取る人によってそれぞれの受け取り方をするものだと思います。

歌詞を通じて、この歌の良さと広がりを書いてみたくなったのでブログに載せました。いい歌ではあるけれど、意味が分かりにくい歌詞です。色んな人の、色んな解釈を読んでみたいですね。僕はこの歌が好きです。


関連:続・高田渡 高田渡とお店
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あとなんか聴いたことがあるなぁと思ったら、やっぱりハンバートハンバートでした。僕は彼らの歌は好きなんだけれど、高田渡の原曲を聴いてしまうと、正直、少し物足りないカバーだなと思いました。これはこれで良いんですけどね。原曲に訴求力があり過ぎるんでしょうな

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