ピングドラムに輪る
ズルいと思う。色々ズルい。そりゃそうだ、こんなの面白いに決まってる。この異物感、そして作りこまれ過ぎた作画、地デジをフル活用した色彩の鮮やかさ、見えない物語、このドキドキ感。毎日放送制作、TBS絶賛放送中のアニメ、“輪るピングドラム”を観たのだ。先週観れなかった第三話、高鳴る胸は金曜深夜を切望する。あー、畜生。このクソが。
今季一ともてはやされる一方で、意味不明とかくだらんとか賛否が明確に分かれている今作。批判してる人の意見はよく分かる。よーく分かる。三話になってもいまいち見えないストーリー、現ジャイアンの高校生?声優のちょっとアレなアテレコ。ちんぷんかんぷん、エゴでオナニー的な展開、あるよねご都合主義。この乙女感溢れる絵と展開ムリじゃね?分かります。ギャグなの?シリアスなの?分からん。何がしたいの?どこが面白いの?ええ、よく分かりません。でもね。
最初から二期24話分の枠が用意された、無駄に作画に力の入った、テンポよく流れてそのくせ肩の力の抜けた、神がかって怪しい演出…そのアニメが(寺山修司の天井桟敷を音楽面から支えた万有引力をアニメ業界に持ち込んだ、あのウテナの)幾原邦彦の14年振りの監督作品なんだぜ?ワクワクしないかな?ドキドキしないかな?僕はもう、訳もわからないまま期待感がオモローに変換されて、20数分が嘘のように過ぎ去ってくのが惜しくてしょうがない。
ネットの普及が視聴者をテレビ受像機の前に縛り付けなくなったこの時代に、僕はアナログに金曜深夜を心待ちにしている。もうテレビに高揚感を持たなくなって久しい。地デジ導入なんかハナから考えてなかったのに。この同時代感、この期待感。畜生、なんだこれは。
一見ピングドラムはいままでにない、斬新、まぁ新しいアニメの形なんだけれど、三話を観てふと思ったのはこのアニメの提示するものの古さだった。まぁそうだよね、俺もそうする的な共感、かつ矛盾のない説得力で動く登場人物たち、アニメなんだから位のキャラ造形の違和感のなさ。そういう同時代性を汲み取ろうとする努力ってのをここんとこのアニメ業界はしていた、ような気がする。あー、まぁいるよね的な登場人物であり、その感情の出し方、配置の仕方。なんか直感的に。
どうしても目に付くピングドラムのキャラクターの、いかにもアニメアニメした、は?いやいやいやいや的な、現実味のない性格・展開と、挟みまくる不用意なギャグ的な何か、そういったものに僕はなんだか無性に懐かしさ、古さを感じる。それは必ずしもウテナ的なものではなく(あんま観てないから知らんし)、90年代アニメ全般に漂っていた“無闇な明るさ=脳天気感”なんだと思う。そして僕はその感覚を激しく好きなんだと思う。
あえて書くのであれば、日曜の朝にやってた女の子向けの一連のアニメであったり、らんま1/2であったり、セーラームーンやあずきちゃんに漂っていた何か空気。よく表現できない、異物感のようなもの。アニメが始まった途端に持って行かれる自意識、あっという間に過ぎる時間、なぜだか喪失感。そんなよく分かんないもの、それはもしかすると媚びずに自分たちで勝手に楽しんでる作り手たちの影なのかもしれないが、何かそれに似た空気をピングドラムは多分に含んでいると思った。
それでいて、昔のアニメとは明らかに何か違う。“生存戦略”というキーワードの持つ悲しさ・悲劇的な響き、あえて脇役の物語る詩的なものたち、もちろん視覚的な表現も含めて。これから重いテーマに移るのか、騒がしいままに収斂してゆくのかは正直想像がつかないが、何かが起こりそうな、そんな不穏さが漂っている。分からないこと、その期待感ってのが作品を前に推し進めながら、製作者たちが確信犯的に仕組んだ地雷源のように謎な面白さの散りばめられた世界観に、僕は一話目からKOされた。
古いようでいて新しい。古くて新しい。新しく古い。アニメだけでなく、美術でも、文学でも、映画でも、例えば政策であっても、そんな在り方こそが本当の新しさなんじゃないだろうか?近未来素材だけで作られた大学研究室のエコカー以上に、僕達は街角のプリウスにどこまでも続く未来を可能性を感じる。なんだかそうなんだ。よくわかんないけれど。
変な新し感、それでいて奇妙な古さ、それら両輪が僕たちをどこまで連れていってくれるのか、そのワクワク感なのだと思う。アニメの可能性、陳腐な物言いだが、うっかり観てしまった以上これを見届けなければいけないような、意味不明の義務感が既に生まれてる。おかしな物言いだが、それは主観的な分析ではなく、客観的な事実である。だからこそ、こうして惑い、取り乱し、狂っている訳だ。
もはや問題は面白さではない、と思う。もちろん完成度でもない。僕がピングドラムを観て抱いた期待と興奮こそが全てなんだ。いままでこんなに面白いと思ったアニメがあっただろうかと思う。よく分からない。僕は確認しなけりゃいかんのだ。つまりはそういうことだ。ただの予感であり期待に終わるのか、24話をかけてやりきるのか。作り手たちの確信的な、それでいて無闇な自信に対する検討は、ただただ日常を退屈なものへと変換していく作業に飽きた者たちにとって、十分過ぎるほどの娯楽に成り得る。
見届けようと思う。馬鹿馬鹿しく覚悟を固めた無意識の自分を冷たく眺めながら、少なくとも暫くは退屈しなくて済みそうな気がするので、まぁ良いかと思う。殴り書いたはいいが、もう飽きたので寝よう。さよなら。
輪るピングドラム(Wikipedia) / 輪るピングドラム(公式)
少女革命ウテナ DVD-BOX 上巻

¥31,500
少女革命ウテナ DVD-BOX 下巻

¥26,775
【中古】afb【古本】シェルブリット 1/幾原邦彦 永野護

この組み合わせはヤバい
今季一ともてはやされる一方で、意味不明とかくだらんとか賛否が明確に分かれている今作。批判してる人の意見はよく分かる。よーく分かる。三話になってもいまいち見えないストーリー、現ジャイアンの高校生?声優のちょっとアレなアテレコ。ちんぷんかんぷん、エゴでオナニー的な展開、あるよねご都合主義。この乙女感溢れる絵と展開ムリじゃね?分かります。ギャグなの?シリアスなの?分からん。何がしたいの?どこが面白いの?ええ、よく分かりません。でもね。
最初から二期24話分の枠が用意された、無駄に作画に力の入った、テンポよく流れてそのくせ肩の力の抜けた、神がかって怪しい演出…そのアニメが(寺山修司の天井桟敷を音楽面から支えた万有引力をアニメ業界に持ち込んだ、あのウテナの)幾原邦彦の14年振りの監督作品なんだぜ?ワクワクしないかな?ドキドキしないかな?僕はもう、訳もわからないまま期待感がオモローに変換されて、20数分が嘘のように過ぎ去ってくのが惜しくてしょうがない。
ネットの普及が視聴者をテレビ受像機の前に縛り付けなくなったこの時代に、僕はアナログに金曜深夜を心待ちにしている。もうテレビに高揚感を持たなくなって久しい。地デジ導入なんかハナから考えてなかったのに。この同時代感、この期待感。畜生、なんだこれは。
一見ピングドラムはいままでにない、斬新、まぁ新しいアニメの形なんだけれど、三話を観てふと思ったのはこのアニメの提示するものの古さだった。まぁそうだよね、俺もそうする的な共感、かつ矛盾のない説得力で動く登場人物たち、アニメなんだから位のキャラ造形の違和感のなさ。そういう同時代性を汲み取ろうとする努力ってのをここんとこのアニメ業界はしていた、ような気がする。あー、まぁいるよね的な登場人物であり、その感情の出し方、配置の仕方。なんか直感的に。
どうしても目に付くピングドラムのキャラクターの、いかにもアニメアニメした、は?いやいやいやいや的な、現実味のない性格・展開と、挟みまくる不用意なギャグ的な何か、そういったものに僕はなんだか無性に懐かしさ、古さを感じる。それは必ずしもウテナ的なものではなく(あんま観てないから知らんし)、90年代アニメ全般に漂っていた“無闇な明るさ=脳天気感”なんだと思う。そして僕はその感覚を激しく好きなんだと思う。
あえて書くのであれば、日曜の朝にやってた女の子向けの一連のアニメであったり、らんま1/2であったり、セーラームーンやあずきちゃんに漂っていた何か空気。よく表現できない、異物感のようなもの。アニメが始まった途端に持って行かれる自意識、あっという間に過ぎる時間、なぜだか喪失感。そんなよく分かんないもの、それはもしかすると媚びずに自分たちで勝手に楽しんでる作り手たちの影なのかもしれないが、何かそれに似た空気をピングドラムは多分に含んでいると思った。
それでいて、昔のアニメとは明らかに何か違う。“生存戦略”というキーワードの持つ悲しさ・悲劇的な響き、あえて脇役の物語る詩的なものたち、もちろん視覚的な表現も含めて。これから重いテーマに移るのか、騒がしいままに収斂してゆくのかは正直想像がつかないが、何かが起こりそうな、そんな不穏さが漂っている。分からないこと、その期待感ってのが作品を前に推し進めながら、製作者たちが確信犯的に仕組んだ地雷源のように謎な面白さの散りばめられた世界観に、僕は一話目からKOされた。
古いようでいて新しい。古くて新しい。新しく古い。アニメだけでなく、美術でも、文学でも、映画でも、例えば政策であっても、そんな在り方こそが本当の新しさなんじゃないだろうか?近未来素材だけで作られた大学研究室のエコカー以上に、僕達は街角のプリウスにどこまでも続く未来を可能性を感じる。なんだかそうなんだ。よくわかんないけれど。
変な新し感、それでいて奇妙な古さ、それら両輪が僕たちをどこまで連れていってくれるのか、そのワクワク感なのだと思う。アニメの可能性、陳腐な物言いだが、うっかり観てしまった以上これを見届けなければいけないような、意味不明の義務感が既に生まれてる。おかしな物言いだが、それは主観的な分析ではなく、客観的な事実である。だからこそ、こうして惑い、取り乱し、狂っている訳だ。
もはや問題は面白さではない、と思う。もちろん完成度でもない。僕がピングドラムを観て抱いた期待と興奮こそが全てなんだ。いままでこんなに面白いと思ったアニメがあっただろうかと思う。よく分からない。僕は確認しなけりゃいかんのだ。つまりはそういうことだ。ただの予感であり期待に終わるのか、24話をかけてやりきるのか。作り手たちの確信的な、それでいて無闇な自信に対する検討は、ただただ日常を退屈なものへと変換していく作業に飽きた者たちにとって、十分過ぎるほどの娯楽に成り得る。
見届けようと思う。馬鹿馬鹿しく覚悟を固めた無意識の自分を冷たく眺めながら、少なくとも暫くは退屈しなくて済みそうな気がするので、まぁ良いかと思う。殴り書いたはいいが、もう飽きたので寝よう。さよなら。
輪るピングドラム(Wikipedia) / 輪るピングドラム(公式)
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この組み合わせはヤバい
爽やかなギターデュオなど
夏ですね。いつの間にか夏です。もう直に蝉も鳴き始めるんでしょう。憂鬱でもあり、心躍る季節でもあります。節電対策は万全ですか?僕は冷房切ってる時間を気持ち長めにとるようにしました。その程度です。最近ラジオ聴くようになったのですが、夏っぽいギターデュオがあったので紹介しておきます。
DEPAPEPE「ONE」よりLion。バーが溜まるのに時間掛かるんでもう一つ。
ゴンチチです。ギターデュオでしか表現できない爽やかさ、そんなものがあるような気がします。そして夏らしい。なんかギター二本で演奏する曲ってこのタイプの、“Image”っぽいBGMだと思いがちですが、こんなデュオもあります。灼熱の国メキシコから、Rodrigo y Gabriela。
ちなみに音楽ジャンルはなぜかロックだったりします。聴けば分かりますが、ギターデュオのくせに打楽器ソロがあったりする素敵な彼らです。“俺たちの音楽には打楽が必要だ。そしてここに叩くと音のなるモノがある。ならば叩こう”そんな心意気を感じますね。
タムタムみたいな音はギターの腹をガブリエーラが伴奏しながら乱打してる音です。破天荒ですね。バスドラムみたいな方は足踏みです。低音部とかリズムを担当する女性が魅力的に映るのはなぜでしょうか。リズムに乗って、もう2曲。
▲
Diablo Rojo
▲
Viking Man
煽りまくってるガブリエーラが素敵過ぎる。タグの都合で貼れないのが残念ですが、一見の価値ありです。しかしこうして聴くとドラムセット入れてるゴンチチは邪道ですね。お前らもギター叩けよ。笑。今年は猛暑らしいですが、音楽を聞きながら乗り切っていきましょう。あー楽しかった。
無理すぎるガブリエーラのギターレッスン もう俺と結婚してくれ
ONE(期間生産限定盤)(DVD付)/DEPAPEPE

¥3,500
Rodrigo Y Gabriela/Rodrigo Y Gabriela

¥1,362
Live in Japan (W/Dvd)/Rodrigo Y Gabriela

¥1,021
DEPAPEPE「ONE」よりLion。バーが溜まるのに時間掛かるんでもう一つ。
ゴンチチです。ギターデュオでしか表現できない爽やかさ、そんなものがあるような気がします。そして夏らしい。なんかギター二本で演奏する曲ってこのタイプの、“Image”っぽいBGMだと思いがちですが、こんなデュオもあります。灼熱の国メキシコから、Rodrigo y Gabriela。
ちなみに音楽ジャンルはなぜかロックだったりします。聴けば分かりますが、ギターデュオのくせに打楽器ソロがあったりする素敵な彼らです。“俺たちの音楽には打楽が必要だ。そしてここに叩くと音のなるモノがある。ならば叩こう”そんな心意気を感じますね。
タムタムみたいな音はギターの腹をガブリエーラが伴奏しながら乱打してる音です。破天荒ですね。バスドラムみたいな方は足踏みです。低音部とかリズムを担当する女性が魅力的に映るのはなぜでしょうか。リズムに乗って、もう2曲。
▲
Diablo Rojo
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Viking Man
煽りまくってるガブリエーラが素敵過ぎる。タグの都合で貼れないのが残念ですが、一見の価値ありです。しかしこうして聴くとドラムセット入れてるゴンチチは邪道ですね。お前らもギター叩けよ。笑。今年は猛暑らしいですが、音楽を聞きながら乗り切っていきましょう。あー楽しかった。
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雑記
ちょっと用事があったんで宮城県まで行ってきた。ついでに石巻と多賀城に足を伸ばして被災地の様子を見てきた。大雨洪水警報を出るくらいの豪雨。増水して黄濁した北上川。海沿い1キロくらいの民家、特に木造の平屋なんかは押し流されてしまって、跡形もない。ちょっとびっくりする位の大きさの船が街中に転がっている。干物の腐ったような磯臭さ、生ごみのような臭いがたちこめている。臭いの激しい場所には、蝿でも食べにきたのか、雀や名前のよく知らない白い鳥が沢山たかっていて、なんだかそれが恐ろしかった。
被災地から遠く離れた首都圏に住んでいると、東北地方の全域が壊滅したような印象を受ける。被災者も絶望に打ちひしがれてると勝手に思っていた。現地に入ってみれば分かるけれど、津波の被害を受けているのはごく一部で、それ以外の場所は瓦葺の屋根にブルーシートかぶせてる民家がたまにあるだけ。未曾有の災害が襲った地域とは思えない、普通の日常がそこにあった。
被災地は被災地で、もう三ヶ月も経ったこともあって委託された業者にしろ住民にしろ、当たり前に生活して工事現場のように淡々と瓦礫を撤去していた。そこに悲壮感なんて欠片もなかった。多賀城市なんて瓦礫と化したブックオフにほど近いパチンコ屋が営業再開して、席の半分は埋まってたのだし。まぁ考えてみれば当たり前のことで、被災地・被災者の特別さ、それに対する同情なんて迷惑なものを早く捨て去らないといけない。救国者のような過剰な自意識を抱えて新幹線に乗った自分を殺したくなった。
ただ被災地の日常感のおかげで、被災者の苦しみの質がなんとなく分かった気がしている。帰る家を無くしてプレハブの建家に住んでる人に対して軽々しく『がんばれ!』なんて言うべきどころか思うべきでもない。その前に一円でも多く募金した方がよほどいい。そうする気もないんなら取り敢えず黙ってた方が被災者は喜ぶんじゃないか。彼らは特別じゃないんだ。
町の横断幕にしろ自衛隊のワッペンにしろ、標語の『がんばれ』ほど浮いているものはなかった。瓦礫を運ぶ訳でもなく、仮設住宅に住む訳でもなく、今でも何食わぬ顔でエアコンをつけて温かい飯を食ってる僕らにとって、口を噤むことが一番の復興支援なんだと思う。誰に対してだかさっぱり分からない自粛ムードなんて馬鹿げたものを、一番冷ややかに見てるのは被災地域の人たちのように思えてならない。なにもできないんなら、黙って経済くらい回さないと。そう思う。
線路の砂利なんかが流されたせいで、仙台と石巻を結ぶJR仙石線は松島海岸から代行バスが出ている。東名-野蒜駅間で車両が津波にさらわれたあの仙石線だ。ぼんやり窓から外を見ていると、ドヤドヤ老人の集団が乗り込んできて、爺さん一人が僕の横に座った。聞けば神奈川から出てきたらしい。話している内容が清々しいほどに下劣で、釜石の被害がどれだけ酷かったかとか、東松島はそんなにでもないわねとか、石巻まで行かなくても悲惨な被災地の様子を見れそうだとか、なんだか嬉しそうなトーンで話している。
線路に取り残された車両とか、ボロボロになった家を見るたびに一々息を飲んだり、酷いわねとか言ったり、あーとかうわーとかこれ見よがしに言ってる。これは観光バスじゃなくて代行バスなんだから、地元民も乗っている、というか地元民がほとんどな訳だ。彼らには実際現地に住んでる人たちがそれを聞いて何を思うかなんて最初から気にしちゃいない。自分も物見遊山みたいなもんだから、居心地の悪いことといったらなかった。
東北県民は全体的におおらかな人が多いようで、爺さんの悲惨な被災地見るためにどこ行けば良いかなんて質問にも朗らかに答えてる。なんだか馬鹿馬鹿しくなって寝ることにしたが、相変わらず孫にも見せたいとかなんとか言ってた。何をするにしろ品性ってのは本当に大切だと思う。
実際松島の辺りは、散在している島のおかげで津波の力が集中せず、被害はそう大きくなかったらしい。待ち時間が結構あったのでぶらぶら見ていたが、日本三大がっかり名所と言うには霞んだ島々の緑とか木々がきれいというか神秘的で、非現実的な光景で見ていて飽きなかった。そもそも塩竈から松島海岸までの風景も自然と民家が共存しているような風情があって、前人未踏の神域みたいな森とか山が突然広がって、驚くくらいに美しかった。日本が緑滴る国とか言われてるのがなんとなく分かった気がした。日本の原風景ってのはあんな感じだったんだろうかと思った。
こんなタイミングでなく、純粋な観光旅行でもう一度東北を旅行してみたい。東北人は穏やかで人懐っこいし、美人も多い。魚も旨ければ野菜も果実も牛タンも美味しい極楽みたいな土地なので、一週間くらいかけてじっくりと旅をしてみたい。女性の訛りってのも良いもんです。漫喫の店員ですら凹凸のあるイントネーションで親切にパック教えてくれるもんだから、うっかり惚れてしまうところだった。馬鹿ですね。
用事のついでにみた被災地の様子は、東北どうこうということだけでなく、自然の恐ろしさを身近に感じた機会でもあった。路上に放置してあるグシャグシャになった自動車とか、ちぎれて途切れた線路とか、ねじ曲がってて地面についてる街灯とか、点かない信号とか。まるで自然がもとの形を取り戻すために暴力を振るったみたいで、人間から見れば悪意にしか思えないように激しいものだった。普段当たり前に暮らしているこの生活も、地球全体からみれば微妙なバランスによって成り立っている、自然から許されている程度のほんの一部の自由でしかないのかも知れないとか色々思った。
当たり前の現実としてその場にある被災地の様子、そこで淡々と作業することで生活を取り戻そうする人々の営みは力強くて、逆にこっちが勇気づけられるくらいだった。多賀城市のフェリー乗り場で出会った自衛隊の集団の格好良さ、死をごく普通の話題にしているおばさんたちの明るさ、そんな姿を見ていると安っぽい気持ちで東北へ向かった自分を恥じるしかない。なんだか本当に当たり前のことを教えてもらったような気がなんとなくしている。まぁなんだ、ありがとう、とか書いてみたり。あとは自分の出来ることから始めないといけないね。震災復興にかこつけて他人の心配する前に、自分が頑張らないと。まぁそんな感じで取り敢えず我が家の震災復興として片付けだけはしておいた。小さいなぁ。
被災地から遠く離れた首都圏に住んでいると、東北地方の全域が壊滅したような印象を受ける。被災者も絶望に打ちひしがれてると勝手に思っていた。現地に入ってみれば分かるけれど、津波の被害を受けているのはごく一部で、それ以外の場所は瓦葺の屋根にブルーシートかぶせてる民家がたまにあるだけ。未曾有の災害が襲った地域とは思えない、普通の日常がそこにあった。
被災地は被災地で、もう三ヶ月も経ったこともあって委託された業者にしろ住民にしろ、当たり前に生活して工事現場のように淡々と瓦礫を撤去していた。そこに悲壮感なんて欠片もなかった。多賀城市なんて瓦礫と化したブックオフにほど近いパチンコ屋が営業再開して、席の半分は埋まってたのだし。まぁ考えてみれば当たり前のことで、被災地・被災者の特別さ、それに対する同情なんて迷惑なものを早く捨て去らないといけない。救国者のような過剰な自意識を抱えて新幹線に乗った自分を殺したくなった。
ただ被災地の日常感のおかげで、被災者の苦しみの質がなんとなく分かった気がしている。帰る家を無くしてプレハブの建家に住んでる人に対して軽々しく『がんばれ!』なんて言うべきどころか思うべきでもない。その前に一円でも多く募金した方がよほどいい。そうする気もないんなら取り敢えず黙ってた方が被災者は喜ぶんじゃないか。彼らは特別じゃないんだ。
町の横断幕にしろ自衛隊のワッペンにしろ、標語の『がんばれ』ほど浮いているものはなかった。瓦礫を運ぶ訳でもなく、仮設住宅に住む訳でもなく、今でも何食わぬ顔でエアコンをつけて温かい飯を食ってる僕らにとって、口を噤むことが一番の復興支援なんだと思う。誰に対してだかさっぱり分からない自粛ムードなんて馬鹿げたものを、一番冷ややかに見てるのは被災地域の人たちのように思えてならない。なにもできないんなら、黙って経済くらい回さないと。そう思う。
線路の砂利なんかが流されたせいで、仙台と石巻を結ぶJR仙石線は松島海岸から代行バスが出ている。東名-野蒜駅間で車両が津波にさらわれたあの仙石線だ。ぼんやり窓から外を見ていると、ドヤドヤ老人の集団が乗り込んできて、爺さん一人が僕の横に座った。聞けば神奈川から出てきたらしい。話している内容が清々しいほどに下劣で、釜石の被害がどれだけ酷かったかとか、東松島はそんなにでもないわねとか、石巻まで行かなくても悲惨な被災地の様子を見れそうだとか、なんだか嬉しそうなトーンで話している。
線路に取り残された車両とか、ボロボロになった家を見るたびに一々息を飲んだり、酷いわねとか言ったり、あーとかうわーとかこれ見よがしに言ってる。これは観光バスじゃなくて代行バスなんだから、地元民も乗っている、というか地元民がほとんどな訳だ。彼らには実際現地に住んでる人たちがそれを聞いて何を思うかなんて最初から気にしちゃいない。自分も物見遊山みたいなもんだから、居心地の悪いことといったらなかった。
東北県民は全体的におおらかな人が多いようで、爺さんの悲惨な被災地見るためにどこ行けば良いかなんて質問にも朗らかに答えてる。なんだか馬鹿馬鹿しくなって寝ることにしたが、相変わらず孫にも見せたいとかなんとか言ってた。何をするにしろ品性ってのは本当に大切だと思う。
実際松島の辺りは、散在している島のおかげで津波の力が集中せず、被害はそう大きくなかったらしい。待ち時間が結構あったのでぶらぶら見ていたが、日本三大がっかり名所と言うには霞んだ島々の緑とか木々がきれいというか神秘的で、非現実的な光景で見ていて飽きなかった。そもそも塩竈から松島海岸までの風景も自然と民家が共存しているような風情があって、前人未踏の神域みたいな森とか山が突然広がって、驚くくらいに美しかった。日本が緑滴る国とか言われてるのがなんとなく分かった気がした。日本の原風景ってのはあんな感じだったんだろうかと思った。
こんなタイミングでなく、純粋な観光旅行でもう一度東北を旅行してみたい。東北人は穏やかで人懐っこいし、美人も多い。魚も旨ければ野菜も果実も牛タンも美味しい極楽みたいな土地なので、一週間くらいかけてじっくりと旅をしてみたい。女性の訛りってのも良いもんです。漫喫の店員ですら凹凸のあるイントネーションで親切にパック教えてくれるもんだから、うっかり惚れてしまうところだった。馬鹿ですね。
用事のついでにみた被災地の様子は、東北どうこうということだけでなく、自然の恐ろしさを身近に感じた機会でもあった。路上に放置してあるグシャグシャになった自動車とか、ちぎれて途切れた線路とか、ねじ曲がってて地面についてる街灯とか、点かない信号とか。まるで自然がもとの形を取り戻すために暴力を振るったみたいで、人間から見れば悪意にしか思えないように激しいものだった。普段当たり前に暮らしているこの生活も、地球全体からみれば微妙なバランスによって成り立っている、自然から許されている程度のほんの一部の自由でしかないのかも知れないとか色々思った。
当たり前の現実としてその場にある被災地の様子、そこで淡々と作業することで生活を取り戻そうする人々の営みは力強くて、逆にこっちが勇気づけられるくらいだった。多賀城市のフェリー乗り場で出会った自衛隊の集団の格好良さ、死をごく普通の話題にしているおばさんたちの明るさ、そんな姿を見ていると安っぽい気持ちで東北へ向かった自分を恥じるしかない。なんだか本当に当たり前のことを教えてもらったような気がなんとなくしている。まぁなんだ、ありがとう、とか書いてみたり。あとは自分の出来ることから始めないといけないね。震災復興にかこつけて他人の心配する前に、自分が頑張らないと。まぁそんな感じで取り敢えず我が家の震災復興として片付けだけはしておいた。小さいなぁ。
小沢一郎善人説による一考察 あるロマンチストによる
菅内閣への内閣不信任案は否決されたみたいですね。また小沢一郎が姿を現した途端に、政局をかき回したことへの義憤もあって正直ほっとしている。というか、民主党党執行部は造反者への厳しい態度をとっているし、首相は首相で不信任案が通れば解散という強気な態度を打ち出していたから、この時期での政権交代も当然あり得たわけで、だとすれば震災復興への道のりが見えない現段階が、更なる阿鼻叫喚の坩堝のような惨状に成り得たのだから、その最低な事態を回避できただけで雀躍りするほど嬉しい。
菅内閣不信任決議案が2日の衆議院本会議で否決された。賛成152票、反対293票。大差での否決となった。
ただ“こんな時期にまた闇将軍が政局を”という世間一般的な思考の中から別な見方が不意に閃いたものだから、少し反応を窺いたいと思った。キーワードは菅首相が“東日本大震災の対応の目処がついた段階”で退陣することを“自発的に”言ったこと。あとそれを受けたポッポ由紀夫が“迅速に”グループに不信任案否決を呼びかけたこと。
ポッポは悪人ではないのだろうけれど、その優柔不断・理想主義的態度から政治的無能という烙印を有権者から焼き付けられた政治家だと思ってる。果断・迅速・秩序だった思考というのは、鳩山政権を擁護してきた僕にとっても彼に似合うとは口が裂けても言えない言葉だ。
そのポッポが菅首相の震災対応が一段落した時期を落とし所に、“民主党は団結しないといけない”とグループに“迅速”呼びかけることで、小沢一郎の計算を狂わせた、これ以上ないドラマティックな場面を演出したことそれ自体、その時に僕が感じた感情そのものとは別に、なんとも不思議な感覚がする。
一つのごくごく微小な可能性として(陰謀論に傾きすぎているかも知れないが)、ポッポと菅が一定の合意を得ていたり、小沢一朗との秘密会談の時にその話をしていたことは、そう容易に否定できることでもないと思う。
そう考えてみると、菅首相の“震災対応に目処”という時期設定、それは闇将軍に追い詰められた居眠り居士が政治生命を守る窮余の策として打ち出した、悲しい妥協の産物だとなんとなくおもっていたが、よくよく考えてみればここ最近の有権者がごく日常的に考えていたベストな菅総理の退陣時期と一致することを思い出した。
ポッポの裏側に見え隠れする小沢一郎の意図として、本当にこの時期での総辞職(もしくは解散)が彼ら二人に対してのメリットに成り得るかと問われてみれば、有権者の“なんでこの時期に”というごく一般的な想念を踏まえて考えると相当疑問だ。何が言いたいのかまるで分からないと思うのではっきり書こう。小沢一郎の意図というのは、菅首相に世間の求める時期での退陣が党にとって必要だと教えること、つまり
“菅さんに自発的に退陣時期を言わせること”
にあったんじゃないか。そもそも菅内閣の支持率は震災前からレッドゾーンに突入していたし、震災以後は非常時ということで消極的に菅政権を見守っている状態に過ぎない。つまりポッポ小沢はもとより民主党全体にとって最悪なのは、小沢が自ら作った震災対応に追われるこの時期に総辞職(解散)という事態を除けば、菅首相がこのままズルズルと政権維持すると有権者に“思われる”ことなんじゃなかろうか。
民主党が辛うじて有権者から見捨てられていないのは、政権担当能力にどれほど問題があったとしても“改革者”として何かしらの期待がまだ完全には裏切られていないところにあると思う。それは一時期の自民党との対比で捉えられることでもあるが、今回の地震・原発問題に際して菅政権が有効に機能したと考える事は相当な肯定派でもなかなか難しいところで、せいぜい原発問題のいきつく前与党とのコントラストで映えるばかりで、政権担当能力という民主党の弱点をますます露呈することになったことも正直疑う余地はない。
既に失敗の焼印を押されつつある菅政権について、これを存続させることは民主党のイメージとして良い訳がなく、ましてや今後もこの政権が続くという誤解を有権者に植えつけることとなれば長期的な民主党の支持は絶望的な水準へと向かう。
菅さん自らが“菅政権は暫定的なものですよ”と訴えた背景には震災対応のまずさというよりも、意外に支持されなかった震災前の彼の政治に対する危機感が尾を引いているのではないだろうか。仮に不信任案が最初からなかったとしても、震災対応を言い訳にずるずる延命を図ることは、震災前後どちらの有権者意識から見ても違和感が残る。
その際に最善の選択肢として残るのは、混乱を避けるために暫定的に菅首相が政権を維持しつつも、よりよい首相候補を民主党内で探り、党内(と有権者)での一応の一致を見た上で、一段落した段階でバトンを渡す緩やかな退陣であると思う。むしろその選択をしない限り、民主党が与党としてキャスティングボードに残ることは難しいんじゃないか。
菅首相はそういう意味で物分りの良い人格者には見えないから、周囲からの突き上げがない限り辞任を覚悟することはないであろうし、まして明言することも考えにくい。そうすると混乱の中での総辞職、世論からの政局バッシングとともに新政権が発足することになり民主党は難しい立場に立たされる。
そうしたなんとなくの予測において、今回の不信任案を巡る一連の騒動を通じて小沢一朗の演じた役割は、党内外からの非常な憎悪を集めつつも結果論としては与党たる民主党の利益=日本へのいい意味での影響を及ぼすと思うのだ。それだけ菅さんから退陣の言質を引き出した功績は大きいのではないか。
谷垣総裁がぼやくように辞職を予定する内閣と戦う野党こそいい面の皮だが、現段階および震災の記憶の生々しい近い将来においての政権交代はまともな思考能力を備えた有権者であれば誰もが望まないことであるし、従って自民党はしばらく野党として機能するしかないのであるから、大人しく次政権成立を待つしかない。そして政局とは本来的にはゲーム要素を楽しむものではなく、国を動かす政治家の良識的な判断で動かされるものであるのだから、建前はともかく本音としては黙っていて欲しいと思う。
民主党がいま小沢一郎の除籍を検討しているらしい。混乱を引き起こした元兇として、かつての剛腕、求心力を失いつつある敗軍の将として、執行部からの処分は甘んじて受けねばならないだろう。だけれども今回の騒動での彼の役割-死に体になりつつある菅内閣(正確には首相)に喝を入れ引導を渡した-は僕達有権者の記憶には留めておきたい。
僕は当時の鳩山首相・菅首相共に支持してきて、いま解散総選挙があったとしても民主党に入れる気持ちには変わりがない。しかし彼らの資質を評価するというよりはむしろ、政党としての民主党、そこに所属している中堅若手議員の活気や能力を信頼してきた。現段階では菅さんを応援することに変化はないが、今後民主党に生まれる新内閣が党の活力をより引き出す可能性があるのなら、僕は躊躇いなくそれを支持しようと思う。
小沢一郎という古い政治家の投じた一石はそうした可能性を感じさせるものだった。金権権力欲に塗れた民主党の裏の顔が短期的には自らのために起こした運動だったのかもしれないが、彼なりの菅政権への危機感や民主党・この国の危機感打破に打った一手のような気もしている。今後支持率に悩むであろう、そして政治的資質に疑問符のつけられつつある首相を変える・変えないという重要な決断は、未来を予測できない我々同様一人間に過ぎない小沢一郎にとって、ただただ政争の具としてだけでない大きな意味を持っていたと思う。
そして現実的な分析として、菅首相が退陣を明言した瞬間に鳩山前首相と小沢一郎が自らの政治生命に傷をつけてまで勝負を捨てたこと、そのことに関しては松木謙公のような悲劇を産みつつも、民主党引いては政治家全般の良心を見た思いがしている。くどいようだが混乱を引き起こした責任をとるのは仕方がない。
ともかく。菅内閣への内閣不信任案決議否決が明らかにした政界の混乱や迷い、それはご良心的な有権者が抱えている問題と同一のもので、さらに彼らの持つ支持者たちへの責任・信頼・政治家としての使命感を強く感じさせるものだった。不謹慎であることを承知で、僕はそれを面白いと思ったし、まだ政治家という職業が世間や自分が思っているほどは腐敗していないということを確認した。
今後も菅政権が続いていくことには大きな苦難があるであろうし、退陣時期を巡り問題にはなっているものの、民主党政権の正当性自体はそう揺らいでいないのなら、仮に消去法的支持であったとしてもそれを糧に生き延びて欲しいと思う。そうして次のよりよい政権へと緩やかにバトンを渡すことを期待している。
菅内閣不信任決議案が2日の衆議院本会議で否決された。賛成152票、反対293票。大差での否決となった。小沢一郎民主党元代表は欠席。鳩山由紀夫前代表(前首相)は反対票を投じた。 菅直人総理にとって、今国会での最大の危機を乗り超えたことに ...
菅内閣への造反という意味での道義的責任を問われるのは当然だ。ただ黄門様も仰っているように親分に振り回された子分の苦渋、政治生命をなげうって当初の意志を貫徹しようしたことについて僕は共感する。松木謙公自体は前々から気に食わない政治家の代表だったのだけれど、今回の件で彼も政治家としての使命や重責と自分の信念とを摺りあわせて戦っていたことがなんとなく分かった。責任感、信念。同情ではない。彼の一私人としての人格・資質に敬意を払おう。
松木謙公議員の不信任案賛成で、彼の株は一気にあがったと思いませんか?
賛否両論の知恵袋
あと共産党が早々に棄権を表明したのはさすがだった。共産党は与党には成り得ないが、有権者意識に一番近い色の政党であると思う。
菅内閣不信任決議案が2日の衆議院本会議で否決された。賛成152票、反対293票。大差での否決となった。
ただ“こんな時期にまた闇将軍が政局を”という世間一般的な思考の中から別な見方が不意に閃いたものだから、少し反応を窺いたいと思った。キーワードは菅首相が“東日本大震災の対応の目処がついた段階”で退陣することを“自発的に”言ったこと。あとそれを受けたポッポ由紀夫が“迅速に”グループに不信任案否決を呼びかけたこと。
ポッポは悪人ではないのだろうけれど、その優柔不断・理想主義的態度から政治的無能という烙印を有権者から焼き付けられた政治家だと思ってる。果断・迅速・秩序だった思考というのは、鳩山政権を擁護してきた僕にとっても彼に似合うとは口が裂けても言えない言葉だ。
そのポッポが菅首相の震災対応が一段落した時期を落とし所に、“民主党は団結しないといけない”とグループに“迅速”呼びかけることで、小沢一郎の計算を狂わせた、これ以上ないドラマティックな場面を演出したことそれ自体、その時に僕が感じた感情そのものとは別に、なんとも不思議な感覚がする。
一つのごくごく微小な可能性として(陰謀論に傾きすぎているかも知れないが)、ポッポと菅が一定の合意を得ていたり、小沢一朗との秘密会談の時にその話をしていたことは、そう容易に否定できることでもないと思う。
そう考えてみると、菅首相の“震災対応に目処”という時期設定、それは闇将軍に追い詰められた居眠り居士が政治生命を守る窮余の策として打ち出した、悲しい妥協の産物だとなんとなくおもっていたが、よくよく考えてみればここ最近の有権者がごく日常的に考えていたベストな菅総理の退陣時期と一致することを思い出した。
ポッポの裏側に見え隠れする小沢一郎の意図として、本当にこの時期での総辞職(もしくは解散)が彼ら二人に対してのメリットに成り得るかと問われてみれば、有権者の“なんでこの時期に”というごく一般的な想念を踏まえて考えると相当疑問だ。何が言いたいのかまるで分からないと思うのではっきり書こう。小沢一郎の意図というのは、菅首相に世間の求める時期での退陣が党にとって必要だと教えること、つまり
“菅さんに自発的に退陣時期を言わせること”
にあったんじゃないか。そもそも菅内閣の支持率は震災前からレッドゾーンに突入していたし、震災以後は非常時ということで消極的に菅政権を見守っている状態に過ぎない。つまりポッポ小沢はもとより民主党全体にとって最悪なのは、小沢が自ら作った震災対応に追われるこの時期に総辞職(解散)という事態を除けば、菅首相がこのままズルズルと政権維持すると有権者に“思われる”ことなんじゃなかろうか。
民主党が辛うじて有権者から見捨てられていないのは、政権担当能力にどれほど問題があったとしても“改革者”として何かしらの期待がまだ完全には裏切られていないところにあると思う。それは一時期の自民党との対比で捉えられることでもあるが、今回の地震・原発問題に際して菅政権が有効に機能したと考える事は相当な肯定派でもなかなか難しいところで、せいぜい原発問題のいきつく前与党とのコントラストで映えるばかりで、政権担当能力という民主党の弱点をますます露呈することになったことも正直疑う余地はない。
既に失敗の焼印を押されつつある菅政権について、これを存続させることは民主党のイメージとして良い訳がなく、ましてや今後もこの政権が続くという誤解を有権者に植えつけることとなれば長期的な民主党の支持は絶望的な水準へと向かう。
菅さん自らが“菅政権は暫定的なものですよ”と訴えた背景には震災対応のまずさというよりも、意外に支持されなかった震災前の彼の政治に対する危機感が尾を引いているのではないだろうか。仮に不信任案が最初からなかったとしても、震災対応を言い訳にずるずる延命を図ることは、震災前後どちらの有権者意識から見ても違和感が残る。
その際に最善の選択肢として残るのは、混乱を避けるために暫定的に菅首相が政権を維持しつつも、よりよい首相候補を民主党内で探り、党内(と有権者)での一応の一致を見た上で、一段落した段階でバトンを渡す緩やかな退陣であると思う。むしろその選択をしない限り、民主党が与党としてキャスティングボードに残ることは難しいんじゃないか。
菅首相はそういう意味で物分りの良い人格者には見えないから、周囲からの突き上げがない限り辞任を覚悟することはないであろうし、まして明言することも考えにくい。そうすると混乱の中での総辞職、世論からの政局バッシングとともに新政権が発足することになり民主党は難しい立場に立たされる。
そうしたなんとなくの予測において、今回の不信任案を巡る一連の騒動を通じて小沢一朗の演じた役割は、党内外からの非常な憎悪を集めつつも結果論としては与党たる民主党の利益=日本へのいい意味での影響を及ぼすと思うのだ。それだけ菅さんから退陣の言質を引き出した功績は大きいのではないか。
谷垣総裁がぼやくように辞職を予定する内閣と戦う野党こそいい面の皮だが、現段階および震災の記憶の生々しい近い将来においての政権交代はまともな思考能力を備えた有権者であれば誰もが望まないことであるし、従って自民党はしばらく野党として機能するしかないのであるから、大人しく次政権成立を待つしかない。そして政局とは本来的にはゲーム要素を楽しむものではなく、国を動かす政治家の良識的な判断で動かされるものであるのだから、建前はともかく本音としては黙っていて欲しいと思う。
民主党がいま小沢一郎の除籍を検討しているらしい。混乱を引き起こした元兇として、かつての剛腕、求心力を失いつつある敗軍の将として、執行部からの処分は甘んじて受けねばならないだろう。だけれども今回の騒動での彼の役割-死に体になりつつある菅内閣(正確には首相)に喝を入れ引導を渡した-は僕達有権者の記憶には留めておきたい。
僕は当時の鳩山首相・菅首相共に支持してきて、いま解散総選挙があったとしても民主党に入れる気持ちには変わりがない。しかし彼らの資質を評価するというよりはむしろ、政党としての民主党、そこに所属している中堅若手議員の活気や能力を信頼してきた。現段階では菅さんを応援することに変化はないが、今後民主党に生まれる新内閣が党の活力をより引き出す可能性があるのなら、僕は躊躇いなくそれを支持しようと思う。
小沢一郎という古い政治家の投じた一石はそうした可能性を感じさせるものだった。金権権力欲に塗れた民主党の裏の顔が短期的には自らのために起こした運動だったのかもしれないが、彼なりの菅政権への危機感や民主党・この国の危機感打破に打った一手のような気もしている。今後支持率に悩むであろう、そして政治的資質に疑問符のつけられつつある首相を変える・変えないという重要な決断は、未来を予測できない我々同様一人間に過ぎない小沢一郎にとって、ただただ政争の具としてだけでない大きな意味を持っていたと思う。
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面白いサイト
http://jp.akinator.com/
20前後の質問に答えるだけで
自分が好きな、ハリウッド女優から日本の歌手、アニメのキャラクターまで
何でも当ててしまうというというサイト
外国人が作ったらしい。
アンテナサイトで見つけた。キャラクターを頭に思い描いて、質問に答える。微妙な質問は濁せば20問でほぼ正解が出る。まさかとは思ったけどアイシャ当てられてびっくりした。ガリィとかミギーとか。暇人はお試しあれ。
すごいサイト見つけたw
http://www32.ocn.ne.jp/~emina/
お遊びとか占いとかじゃなくて世界一有名な精神分析
MBTIってやつをやってみないか? アメリカじゃあみんな受けてるテストで
ユングの弟子がつくったらしい
診断したあとはタイプの説明ってやつを参照しながらどーぞ、
精神分析も面白い。こんなに当てられると、なんか努力とかではどうにもできない何かを感じる。僕はINFP型です。たぶん典型的なINFPなんだと思う。理想家肌だってさ。「自画自賛と自己卑下のあいだで葛藤をくり返し、結局は自分を過小評価しがちである。」そりゃどうも。
ガ チ な 精 神 分 析 してみないか?
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