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庶民に広く親しまれている歴史武侠物語「隋唐演義」のキャラクターの一人、李元霸を主人公にしたドラマ。「(98版)水滸伝」の張紹林監督作品。

「傻小李元霸」(2004年 監督/張紹林 主演/李解)
全35話


傻はばか、まぬけの意味。けなし言葉というよりは「(愛情込めて)馬鹿な子だね」とか「(驚いて)そんな馬鹿な話があるか!」みたいな時に使われている気がする。
李元霸は史実では唐の高祖・李淵の三男(建成、世民の弟、元吉の兄)だけど早逝したらしい。「隋唐演義」では四男(元吉の弟)の設定で、子供なのに超怪力で天真爛漫に暴れ回り大人を困らせるという、わりとよくあるキャラクター。

――隋煬帝の時代。太原を治める李淵の四男・元霸は心が幼く怪力で暴れ出すと止まらない。しかし幼少のころから一緒に育った肖美娘ととても仲が良く、彼女の言う事なら素直に聞いた。
宰相の宇文化及は皇帝のご機嫌を取りながらも腹の内では謀反を企てていた。まずは邪魔な太原侯・李淵を陥れるために皇帝専用の別荘を半年で建造しろと無理難題を吹っ掛ける。そして息子の宇文成都を視察に向かわせた。また皇帝には後宮に国中の美女を集めると提案し、全国に美女召集令が発布された。
肖美娘の母は自分の娘が若く美しいために召集されるのではと心配するが、美娘は大丈夫、といつものように出掛けて行った――

史実では煬帝の正室である簫美娘が、実は李元霸の幼馴染で…という設定のコメディ。「隋唐演義」をベースに置いたまったく新しい物語。
キャラがわかりやすくギャグもとってもベタでわかりやすく、安心して観られる。ただ終始コメディというわけではなく、元霸と美娘の純愛を軸に描いてたり、羅姑娘の復讐劇は任侠もののそれだし、中盤では元霸が殆ど出てこずお堅い歴史陰謀ものになってたりでバラエティに富んでいる作品。

純心無邪気で強い李元霸は子供たちにとってはヒーローに見えるし、大人からは手がかかるけど可愛い息子を見てるよう。もちろん立派な大人が演じてるけど、本当に愛すべきというキャラクターになってる。彼自身はいわゆるイケメン、憧れの男子という感じではないけど、ライバル役の宇文成都がばっちりイケメン俳優だし、美娘、邵陽公主、羅素梅の三種三様な恋模様が女子視聴者をがっつり捉える。アクションはコメディらしいブッ飛びもありつつカメラの早回しなどで迫力をみせる武術で爽快。

いやしかし、これお兄ちゃんの李世民がカッコ良すぎるんよ。この作品では李建成と李元吉は存在しないかのような扱いで、李淵はなんか頼りないし、李世民が正義役を一手に引き受けてるような恰好になってて。演じるのは「大秦帝国」の景監をやってたユィ・ヤン(于洋)。生真面目ゆえに自由人に振り回されるという役どころはまったく同じなのに、やたらカッコイイ。そして「大秦帝国」で彼を振り回してた自由人・衛鞅を演ってたワン・ジーフェイ(王志飛)が楊広というのがまた妙な組み合わせw
一見頼りなさそうな李淵を演じるのは私の好きな俳優ヤオ・ルー(姚魯)さん。正義側の李淵をなんで彼みたいなコワモテに演らせるんだろうと最初は疑問だったけど、この李淵は相当なタヌキおやじ。納得の配役。
ヒロイン美娘はニン・チン(寧静)。彼女の芝居はやっぱ凄い。ただカワイく見せるだけじゃない、計算高さが見えるところが好き。小悪魔だねぇ~。
あと斉士達を演じるリー・トングォ(李冬果)は「(98版)水滸伝」の阮小七。似たような山賊役なのにこっちは大変かわいそうな目に遭う。でもなんかドリフのいかりや長介みたいなプロフェッショナルシップを感じさせるんだなぁ。

せっかく「隋唐演義」がドラマで人気を呼んでるので、この作品もスピンオフな感じで日本語版でやってほしいなぁと思った。そりゃまぁイケメンは一人しか出てこないから華やかさに欠けるかもだけど、楽しいし物語的には絶対女子ウケする。
中国語ちょっとでもわかる方は是非。


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主な登場人物
(カッコ内はドラマでの主な呼び名。)

李元霸(四公子)
太原侯・李淵の四男。発達障害で心が幼く、無鉄砲で怪力。暴れ出したら止められないが、唯一幼馴染の美娘の言う事だけは素直に聞く。

肖美娘(美姐姐)
元霸を育てた乳母の娘。一緒に育った元霸を実の弟のように可愛がっている。傾国の美女。

李淵(太原侯)
隋朝の重臣であったが政敵の宇文化及に追い出され今は太原をおさめている。優秀な次男・世民に仕事をまかせっきり。趣味は小鳥の飼育。

李世民(二公子、老二)
李淵の次男。しっかり者。皇帝の別荘の建設を任されているがとても間に合いそうになく途方に暮れている。

福福&蛋蛋
元霸付きの小姓(遊び相手)。

宇文化及(相国)
皇帝の寵臣。実は皇帝を暗殺し国を乗っ取る計画を立てている。

宇文成都(天宝将軍)
宇文化及の息子。李淵を牽制するため太原へやってくるが、そこで美娘に一目惚れしてしまう。

楊広(皇上)
隋皇帝。いろんな事にやる気がなく日々だらだら過ごしている。後宮に美女がいないと嘆き宇文化及に美女を集めるよう命じる。

邵陽公主
楊広のいとこ。宇文成都が好きで結婚したいと逆プロポーズして追いかけまわす恋する乙女。

羅素梅(羅姑娘、羅妹妹)
宇文化及に父を殺され復讐を誓う娘。山賊に襲われたところを宇文成都に助けられ、親の仇と知らず恋に落ちてしまう。

斉士達(斉大侠、斉大哥)
山賊のボス。美娘に一目惚れし恋煩いに陥る。
中国現代語に親しむための翻訳練習です。

「图说中国历史・秦」
中国地图出版社 www.sinomaps.com
 2014年1月初版 2016年4月第2版

表面。

『逸話』

股下の辱め
韓信カンシンは小さい頃とても貧乏で、だが当時の遊侠(浪人)と同じように剣を持っているのが好きだった。淮陰城内の多くの少年らはみんな彼の事を笑った「おまえは背が高くて剣まで持ってるが、実際は鼠の胆(臆病者)なんだろう。」その中で屠夫(食肉解体業)の息子で特に冷酷な子が続けて侮辱した「おまえをちょっと試してやろう。できるものなら、その剣でおれを刺してみろよ。できないのなら、おれのズボンの下(股の間)をくぐりぬけていけ!」そう言うと、両足を開いて、馬鹿にした目で彼を見た。韓信はこの少年を眺めてしばらくすると、何も言わず本当に彼のズボンの下を這ってくぐり抜けた。悪ガキらはみんな大笑いして手を打って騒いだ「臆病者!臆病者!韓信は胆の小さい奴だ!」

烏江自刎
生きては優れた人物となるべきで、死しては英雄であったと称えられるような人物になるべきだ。
今思い出す、項羽が決して江東へ渡ろうとしなかったことを。
 ――李清照『絶句』

西楚覇王の項羽コウウは垓下で劉邦リュウホウに敗れた後、厚い包囲網を突破して南へ逃げた。烏江辺りに着いた時、子弟の兵は26人しか残っていなかった。この時烏江の亭長は河辺に一隻の小舟をつけて河を渡れるよう準備していた。「江東は小さいとはいえ千里の土地と数十万の百姓がおります。大王さまはそちらで王を続けられます。すぐに追っ手がまいりますからどうか早く河を渡ってください!」項羽は苦笑して言った「最初は八千の江東の子弟と一緒に江山(世の中)へ打って出たのだ。だが今や彼らはみんな戦死してしまった。私だけが生きている。いくら江東の父兄(皆さん)が私に同情して私を王に立ててくれても、私はどうして彼らに顔を見せられるだろうか!」そして愛馬の烏騅ウスイを亭長に贈り、追って来た漢兵と戦い続け、仲間が皆戦死してしまうと、彼は剣を抜いて自殺した。

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この時代を舞台にした中国ドラマ


『乱世英雄呂不韋』(2001年)※日本語版ありません。
始皇帝の父かも!?な商人・呂不韋が主人公の物語。青年呂不韋が成り上がって最後自殺に追い込まれるまで。おもしろいんだけど中国語をある程度勉強しないとさすがにわからないか…。


『始皇帝-勇壮なる戦い』(2009年)
タイトルはこんなだけど将軍・蒙恬が主人公の物語。秦帝国ができて間もない頃から始まって趙高が殺される所までじゃなかったかな。原題は「大秦直道」で、直道を建設しようとする蒙恬と阿房宮を建設しようとする趙高とどっちつかずの李斯の三すくみの陰謀合戦だったはず。


『秦時明月』(2015年)※日本語版まだありません。
秦始皇帝時代を舞台に、暗殺者・荊軻の息子を主人公にしたヒーローアニメの実写版。最後まで見てないのでどの時代まで描いてるか知りません。フィクションだけど史実上の人物がいろいろ出て来ます。


『項羽と劉邦-King's War-』(2012年)
イケメン俳優が演じる項羽と実力派俳優が演じる劉邦のW主人公の物語。項羽は項梁と共に逃亡生活、劉邦は沛県で自堕落生活してる所から始まり、劉邦が項羽を倒して帝位につく所まで。楚漢戦争をじっくりがっつり描いてる。とーにかく長い!!
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表面。

『逸話』
鴻門宴
劉邦リュウホウが咸陽に入り、関中王を名乗ろうとしたため、項羽コウウはかんかんに怒り、すぐさま新豊の鴻門に軍を敷き劉邦を殺そうとした。うまい巡り合わせがあり劉邦は項羽の叔父項伯コウハクと交わりを結んでおり、この知らせを知ってすぐに鴻門へ行って項羽に謝罪した。項羽は目を殺気立たせ劉邦の三つの罪を挙げた。劉邦がおどおどとした言葉でへりくだった態度をとったため、項羽の怒りは静まり、彼を留めて酒を飲んだ。范増ハンゾウは劉邦の野心が(見た目通りに)小さいわけではないとわかっており、この機会にさっさと根絶しようと二度玉玦(腰の飾りの宝石)を手にして項羽に合図を送った。しかし項羽は安っぽい同情心から手を下すに忍びないと考えた。范増は三度目に、項庄コウソウに命じて剣舞を舞わせ密かに劉邦を殺害しようとした。だが項伯が劉邦を助けるため彼も剣舞をはじめ項庄を阻止した。やがて樊噲ハンカイも劉邦を守るため闖入してきて、最後まで項羽の思い通りにはさせなかった。その後劉邦は便所へ行くと行って(席を外し)、その機に小道を迂回して自分の軍営に戻り、残っていた張良チョウリョウが彼の代わりに(お別れの)挨拶をして帰った。その後は范増の言った通りで、劉邦の野心は勢い盛んにして、項羽を滅ぼした。西楚覇王烏江にて自刎するという歴史上に語られる悲劇である

荊軻ケイカが秦王を刺す
「風はもの淋しく吹き易水(※河川名)は冷たい、壮士(※自分の事を指す)は旅立てば二度と戻っては来ない。」
 ――荊軻が
(暗殺に)向かう前に言ったという歌
秦国が燕国を攻め取ろうとしていたため、燕国の太子丹たいしタンは非常に焦り、すぐに剣客の荊軻に秦王嬴政しんおうエイセイを刺殺するよう頼んだ。荊軻は秦舞陽シンブヨウを連れて、燕国の支配する土地の地図と秦国の裏切り者の樊於期将軍ハンオキしょうぐんの首と、毒薬に浸した一本の匕首を持って出発した。嬴政は彼の持ってきた贈り物をとても喜んですぐに面会した。だが秦舞陽はその(謁見の間の)雰囲気に両足ががたがた震えてきて、荊軻だけ一人で(秦王に)地図を差し出しに殿上に上がって行った。地図を全部広げていくと、中から匕首が出て来た。荊軻は秦王の袖を左手でつかんで右手で素早く匕首を繰り出し嬴政を刺した。嬴政はとっさに身をかわし袖を引きちぎって逃げ屏風の影に隠れたが荊軻はすぐに追いかけて来た。二人は大殿上の柱の間を逃げ回り追いかけ回し、誰もがこの状況がどうなるかわからなかった。大殿上の文官は皆驚きの余り動けなかったし、離れた所にいた武士らは殿上に上がることは許されなかった。この時、近くにいた侍医の夏無且カムショがタイミングを見計らって薬入れの缶を荊軻に投げつけた。この隙に嬴政は(持っていた)宝剣を抜き、荊軻の足を刺した。荊軻は歩けなくなったが、すぐに匕首を秦嬴政に向かって投げつけた。だが嬴政はそれをかわし、(匕首は)銅柱に刺さった。嬴政は荊軻を何度も刺し、その後人に命じて外へ連れ出し殺した。荊軻は嬴政を刺殺できず、却って秦王を刺激し燕国へ侵攻させてしまった。

張良が師を得る
博浪沙の秦始皇帝刺殺の失敗後(※)、張良は名を隠し下邳に潜んだ。ある日、彼は一人の老人が橋の上に座っているのを見た。わざと靴を橋の下に落として、張良に言った「小僧、下りてわしの靴を拾ってこい。」張良はちょっと腹が立ったが彼がずっと年上の者だったので、言われた通りにした。だが老人は手を伸ばすことなくこう言った「履かせんか!」張良はぐっとこらえて膝をついて彼に靴を履かせてやった。老人は何も言わず笑って去って行った。張良はまったく驚いてしまって老人の去って行ったあとをぼうっと眺めて立っていた。すると思いがけず老人が戻って来て、こう言った。「小僧にいいことを教えてやろう!五日後の夜明けに、橋の上でわしを待ってろ。」張良はすぐにひざまずいて感謝を述べた。五日後すぐにその場所へ行くと、あの老人は既に来ていて、怒って言った「お前はなぜ老人(目上の人)を待たせるのじゃ?五日後にまた来る。」その次に鶏が鳴く頃に張良は走って行くと、しかし老人はもう着いていた。顔中怒りに満ちて「なんでこんなに遅いのじゃ?また五日後だ。」今度は張良は四日目の夜中から橋の近くにいた。しばらくして老人がやってきて、とても満足そうに、一本の書を彼に与えて言った「お前はこの本をしっかりよみなさい、将来必ず帝王の軍師になれるぞ。」空が明るくなって張良が見ると、それは伝説の軍事について述べてある『太公兵法』だった。
※原文「博浪沙刺殺秦始皇失敗后」これは荊軻による暗殺の事ではなく張良が試みた暗殺を指すが、張良はたしか刺殺ではなく圧殺を試みたはずだが…?

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表面。

『歴史上の人物』
嬴政エイセイ(紀元前259年~紀元前210年)
すなわち秦始皇帝であり、紀元前246年~紀元前210年在位した。紀元前238年に自ら政治を執るようになってから、臣下だった嫪毐ロウアイと呂不韋リョフイから権限を取り上げた。紀元前230年~紀元前221年、東方の六か国を滅ぼしていき、我が国の歴史上初めての統一された中央集権制の国家を建立した。その後彼は最高統治者としての称号「皇帝」を確立し、その無限の権力をうたって封建制度を廃し郡県制を敷き、全国すべての土地は皇帝のものだと知らしめ、文字、貨幣、重さや長さなどのはかり、車幅を統一し、長城を修築し、馳道を建設し、焚書坑儒を行い、後の世に大きな影響を残した。彼は残虐で贅沢好きで、晩年は趙高チョウコウを信じ切ってまかせており、彼の死後趙高が権力をほしいままにし太子(後継者)を変更したことが秦朝の滅亡を早めた。

李斯リシ(?~紀元前208年)
楚の上蔡の出身で、戦国時代末期に秦にやってきた。紀元前237年(秦の)王室貴族が客卿(※外国人の大臣)を排斥し外国人を追い出そうとした際に、彼は上奏書をもって諌めようと、かの名著『諫逐客書』を書き秦王政しんおうセイに採用された。この後次第に(皇帝の)信用を得て、廷尉に昇進、六か国統一後には丞相に任じられた。彼は封建制の廃止と郡県制度の執行、『詩経』『書経』の焚書、私学を禁じることを提案し秦始皇帝に採用された。また篆書を標準とさだめ文字を整理した。彼は早いうちに嫉妬から韓非カンピを排斥し、秦始皇帝の死後は趙高と謀って秦二世皇帝を立てたが、その後趙高に殺された。李斯は有名な書道の名家であり、泰山や琅琊などの地の石に刻まれている文字は彼の直筆のものだと言われている。

陳勝チンショウ(?~紀元前208年)
字(あざな)は渉、陽城(現在の河南登封の東南)の出身で、秦末期に農民蜂起のリーダーとして立ち上がった。彼は漁陽へ出征させられた際に途中で雨にあい「失期当斬(時間切れで死刑)」となり、呉広ゴコウと蘄県の大沢郷で蜂起した。また「王侯も将軍も大臣も立ち上がれ」というスローガンを打ち出した。陳県(今の河南淮陽)に張楚政権を立てた。だが後に秦の将軍章邯ショウカンの反撃に遭い、失敗して敗走、裏切り者の庄賈ショウカによって殺害された。

項羽コウウ(紀元前232年~紀元前202年)
名は籍、字は羽、下相(現在の江蘇宿遷の西)の出身。秦末期の農民蜂起のリーダーで、楚国の貴族出身。秦二世皇帝元年(紀元前209年)、叔父の項梁コウリョウについて呉(今の江蘇蘇州)で蜂起した。巨鹿の戦いにおいて秦軍主力に大ダメージを与え大きな功を建てた。秦の滅亡後、自ら西楚の覇王として立ち封建制をよみがえらせた。楚漢戦争では劉邦リュウホウにやられ、垓下(今の安徽霊壁の南)へ逃げ烏江(今の安徽和県の東北)で自殺した。項羽は鉄骨錚々、その勇猛さは古今無双、戦場においては向かう所敵なしであったが、政治上ではとても幼稚で感情に流されやすく、ついに烏江で自刎し若くして命を落とすこととなった。彼は後の世に崇められるようになった、古代の有名な悲劇の英雄である。

胡亥コガイ(紀元前230年~紀元前207年)
すなわち秦の二世(皇帝)であり、秦朝の第二代皇帝である。趙高の扶助で公子扶蘇こうしフソに取って代わり皇帝に即位し、紀元前210年~紀元前207年在位した。彼には父親である秦始皇帝のような雄才や偉大な計略はみじんもなく、しかし残虐で贅沢好きな所はさらに上を行った。統治期間は趙高に全権を預けた。阿房宮と馳道の建設を継続し、徴税と服役はさらに頻繁に重ねられた。まもなく陳勝と呉広の蜂起が爆発的に起こった。後に趙高によって自殺に追い込まれた。

張良チョウリョウ(?~紀元前186年)
字は子房、城父(今の安徽省亳州)の出身と言われている。祖先は遡る五代がみな韓国の官吏で、韓国の貴族であった。秦朝が韓国を滅ぼした後、彼は国の再興を図り刺客と交わりを結び、博浪沙(現在の河南省原陽)で秦始皇帝を刺殺(しようとした)。刺殺は果たせず、下邳(現在の江蘇省邳県)あたりに逃亡し、黄石公に会い彼の『太公兵法』を伝授された。秦末期の農民戦争中、彼は率いていた仲間と共に劉邦の麾下に入り、劉邦軍の知恵袋となった。特に、楚漢戦争においては六国の跡を継ぐ英布エイフ、彭越ホウエツ、韓信カンシンらが(呼びかけても)やってこないことに策略を提示し、また項羽を追撃する際にも楚軍を徹底的に潰すことを主張した。そのため劉邦の最後の勝利の隠れた汗馬の功労者である。劉邦は彼を賞賛し「作戦は本陣の中で立て、勝利は千里の外で決める」と言った。漢朝建立後はその功をもって留侯に封じられた。

韓信カンシン(?~紀元前196年)
淮陽の出身で初めは項羽の下についたが後に劉邦に帰属した。楚漢戦争時、劉邦と項羽が滎陽、成皋の間でにらみ合いを続けていた際に、彼は軍を率いて項羽の背後を取り黄河下流域を占領した。非常に名高い戦功を上げたため、劉邦は彼を斉王に封じざるを得なくなった。漢朝建立後は当時の勢力としては最も強大な地方をもらい受け勢力をほこった。後に叛乱を謀ったとして淮陽候に降格。まもなく呂后リョこうによって殺された。彼は『兵法』三篇を著したが、後に失われてしまった。

虞姫グキ(?~紀元前202年)
帳の下で美しい人(※虞姫の事)が涙を拭う、
門前の兵士らの士気は雲のよう(に散っていく)
こんな(追い詰められた)時にも君王(※項羽の事)の気持ちは負けぬ、
ただ虞姫と鄭君(※項羽の忠臣)さえいるならばと。
 ――蘇軾『虞姫墓』

姓は虞だとも、あるいは名が虞だとも言われる。項羽の愛人で、出征時にいつも連れて行った。項羽が垓下で劉邦軍に包囲され、彼女は項羽と共に歌ったという、後世に伝わる歌詞がこれだ「漢兵はすでにこの地を政略し、四方から楚の歌声が聞こえる。大王の意気がくじかれてしまったら、わたくしはどうして生きていけましょうか。」

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裏面。

『経済と社会生活』
2.阿房宮の神秘のベールを開ける(紀元前212年)
六王の時代は終わり世界は一つになり、蜀山は地肌を表し阿房宮ができた(蜀山の樹を伐採して阿房宮を建てたという意味か?)
(その建物は)三百里あまりを覆いつくし、天の日(が降りそそぐの)を遮る。
(その建物は)驪山の北から西にへ折れ曲がり、真っ直ぐ咸陽を向く。
二つの川がゆらゆらと宮殿内に流れ込む。
五歩歩けば楼台があり、十歩進めば高殿があり、
廊下は途中でゆるやかに曲がり、ひさしの尖った先は
(鳥が)何かをついばんでいるかのよう。
それぞれが地勢をもって勾心斗角
(相手を排斥すべくあれこれ計略をめぐらす)しているがごとし。
円堂の数々、穀倉の数々、蜂の巣のように水の渦の様にそびえ立ちその数幾万個あるかもわからない。
長い橋の波に横たわるのは、雲も出てないのにどこの竜だ?
また道の空を行くのは、雨上がりの晴空でもないのにどこの虹だ?
高低は冥々として迷い、西も東もわからない
(広すぎて自分がどこにいるのかもわからない)
歌台(歌を披露するステージ)のあたたかな響きは春の日差しのようにやわらかで、
舞殿
(舞を披露するステージ)の冷ややかに舞う袖は、吹きつける風雨のよう。
一日のうちでも、一つの建物の間でも、気候は同じではない。
 ――杜牧『阿房宮賦』


この『阿房宮賦』は阿房宮の千年の美麗と千年の神秘を表現しつくしている。司馬遷の記した『史記』によれば、紀元前212年、秦始皇帝は東西500歩南北50丈で、上には一万人を収容可、下には5丈の大旗を立てられる阿房宮の建設を命じた。だが『史記』によると阿房宮は未完成のうちに秦始皇帝はあの世へ行ったとも。では阿房宮は完成したのか?本当に西楚の覇王項羽コウウによって燃やされたのか?『阿房宮賦』はただの美しい誤解(フィクション)なのか?
2002年考古学者は発掘物を科学を通してその神秘的なベールを開いた。阿房宮は秦始皇帝の心の中では既に美麗絵巻のように存在したが、完成していたのは建築基礎部分と一部の宮殿の壁だけであった。項羽はそもそも焼き捨てる必要もなかったのだ。発掘物からは未だ焼けたの土や木炭、灰など、火事の痕跡となるものは見つかっていない。咸陽宮に近い遺跡では大量の火事の痕跡が発見されていることから、西楚の覇王が焼き捨てたのは咸陽宮であって阿房宮ではないのだ。

3.霊渠(紀元前214年)
秦が六国を滅ぼした後、広い嶺南地方を開拓するため国尉屠睢こくいトスイ率いる50万の大軍を派遣した。だが道のりは長く糧秣も不足し、地元の越族と持ちこたえること三年、秦始皇帝は嶺南の戦争を支援し征服するため監御史禄かんぎょしロクに命じて今の広西興安県を掘らせ人口運河――霊渠を作らせた。平らな部分、鍬のような堤、水道、水門、排水口とその他付属する施設がある(?)。霊渠が一通りできあがると、秦軍の糧秣は漢水と長江を通って洞庭湖へ進めることができた。湘江を遡れば霊渠を経て漓江へ到った。漓江は珠江へ通じているため、東南は番禺から南海へ入ることが可能になり、西は珠江上流の左右の河と紅水河で雲南や貴州に到達する。珠江支流の東江は福建へ達し、北江は湖南へ達するからである。このように長江水系と珠江水系の首を抑えることで、中国の大半の水運が霊渠によって一枚の盤の上の駒のように生きるのである。まもなく秦朝は嶺南の諸族を征服し南海、桂林、象三郡を置いた。以後の歴代王朝は暴君始皇帝を批難したが、霊渠は修復して使い続けられていった。霊渠はいつまでも嶺南の大地を流れ、軍隊や糧秣を運んだり、灌漑農業で重要な力を発揮した。

4.統一貨幣

戦国時代は各国が独自に貨幣を作っていること少なくなく、ひとつの諸侯の国内の各地区すべてで貨幣を作っていることはまれであった。各地の貨幣は形状も大きさも重さもみんな同じでなく、価値や計算単位も等しくなく、全国統一後の秦朝の経済生活はおおいに混乱することが心配された。秦始皇帝は貨幣の統一を命じた。二つのクラスに分け、上幣として黄金を用い、単位は鎰とした。下幣として円形で四角い穴をあけた銅銭を用い、単位は半両とした。関中およびその他の地方では多くの半両銭が出土しており、これがその統一貨幣法を反映しているものである。

5.始皇帝26年の方升
四角い升形で壁面は真っ直ぐ、短い柄のはかりである。外壁には秦始皇帝26年の詔書と刻まれている。秦始皇帝26年に完成した天下統一で百姓は平和に守られ、ゆえに皇帝と称して立つ、併せて丞相の隗状カイジョウと王綰オウワンに命じて度量の法令を定めた、と書いてある。この方升と商鞅ショウオウの方升はよく似ているが容積がやや大きい。現在は上海博物館に所蔵されている。

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