あさひのブログ -69ページ目
中国現代語に親しむための翻訳練習です。

「图说中国历史・秦」
中国地图出版社 www.sinomaps.com
 2014年1月初版 2016年4月第2版

裏面。

『経済と社会生活』
1.秦始皇帝陵
秦始皇帝陵は陜西省西安市臨潼区の城東5000メートルの驪山の北麓にある。南は高い峰々が連なる驪山に依りかかり、北はおだやかに湾曲している渭水を臨む。これは我が国一番の皇帝の陵園であり、古代の物としては最大の規模で非常に美しく設計された帝王陵である。秦始皇帝陵の地下宮殿はその中心部分で、土の下に封じられている。『史記』の記載によれば「(地下宮殿は)三つの泉が掘られ、銅で作られた(?)外棺には宮殿にいるかのような百人の官吏と貴重な宝物がいっぱいに納められている。匠に作らせた弩弓がそこに近づくものを射貫くようになっている。水銀でできた百の川や海が広がり、(からくり仕掛けで)なみなみと流れている。天井には星空が描かれ床は地図が描かれ、灯りとして人魚膏が用いられ、不滅で永久に続くようである。」考古学者はこの地下宮の面積は約18万平方メートル、中心の深さは約30メートルであることを発表した。周囲に陪葬されている者も多く、国内外に知られる兵馬俑坑、銅車馬坑以外にも、大型の石製武具坑、百戦俑坑、文官俑坑と600以上の陪葬墓もあり、出土物は10万件余りになる。1987年、秦始皇帝陵および兵馬俑は「世界遺産名録」に登録された。

1974年~1977年、考古学者の努力の下、兵馬俑の横穴が発見され、世界の考古学界を驚かせ、世界七大奇跡(※日本語では「世界の七不思議」)に並ぶ「世界八番目の奇跡」と言われた。全部で25380平方メートルあり、四つの坑に分かれる。四号坑は未完成にて廃棄されたため除き、それ以外は品の字のような形に並んでいる。中には大量の武士俑、木製の戦車と陶製の馬、青銅兵器、車馬道具が埋められていた。一号坑は最も大きく、1.4万平方メートル余りで、四角く長い廊下のような空間に9本の長さ184メートルの東西に渡る洞があり、洞は土壁で区切られ、その内部には6000体以上の等身大の陶製の俑と50両以上の戦車があり、長方形の軍隊を形成している。二号坑は車兵と歩兵、騎兵で組織された曲がった形の軍隊で、出土した各種の陶俑・陶馬は1300体以上、戦車が89両、車馬は356頭、鞍馬(人が直接乗る馬)は100頭以上ある。三号坑は軍事を指揮する中心で、面積はごく小さいが、その地位(役割)はとても重要な部分ある。この二千年以上前の帝国の兵団、陣はきれいに整列し装備も良く威風凛凛としており、その中に身を置くと、当時の金属製武器を持ち鉄の鞍をつけた馬で駆け出し刀剣をきらめかせ戦旗を奪い合う光景がすぐ目の前に広がっているかのような錯覚を覚える。

これらの本当の人間のような陶俑は大体が1.8メートルくらい(の背丈)で、みな彩色が施されていた。武装俑は緑と褐色に、衣服や袖口は紫色で、黒い甲をつけ、甲には白い甲釘、紫色の甲紐、黄色の甲ボタンがついている。下穿(ボトムス)は深い藍色のズボンをはき、足には黒い履物でオレンジ色の靴紐をしめている。体の部分は、手足はうすいピンク色で目は白に黒の眼球。ある者は赤色と褐色を着て、衣服や袖口は藍色、暗褐色の鎧兜を身に着け甲釘は赤色ないし緑色、甲紐はオレンジ色、ズボンは藍色または緑色で黒い履物である。陶俑はとても数が多く、しかし彼らの表情はそれそれ異なっており、その表情はとても豊かでまるで生きているかのようである。

●灰陶跪射武士俑
この跪射武士俑は頭に髷を結い右に垂らし赤色の帯で束ねている。顔は左側を向き二つの目は意志強くはっきり見開き(?)前方をじっと見つめ薄い唇はしっかりと閉じている。首は長く肩幅は広く、胸を張り、右足を曲げ膝を地に着け、左足を立てて右足ですぐ立てるようにしている。両手で弓を握り、いつでも射られる準備をしている。彼は戦着を着て鎧を身に着け、足には具足があり、四角いつま先のそろいの靴を履き、靴底にも麻の点模様がびっしりつけられている。現在は秦始皇帝兵馬俑博物館が所蔵している。


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 2014年1月初版 2016年4月第2版

裏面。

『文化芸術』
1.統一文字
戦国時代、文字の形は非常に入り乱れており、ひとつの字に当てられている読み方も形も大きく異なっていた。このことが政令と文化交流の道を阻む一匹の虎のようであった。咸陽の詔書が桂林へ届いても、一般人は誰も解らなかった。文字の統一が帝国を成すための当面の急務であった。まもなく秦始皇帝は李斯、趙高、胡毋敬コムケイらが文字を整理し、標準文字として書く篆書を制定し、公文書や法令書に使用した。歴史の車輪がどんどん前へ進むにつれ、まもなく民間でよく使われている字体とはかけ離れてしまったので、また整理しさらに簡便な隷書ができた。1975年、湖北省の雲夢から出土した秦時代の竹簡は我々に二千年前の秦の隷書を見せてくれた。秦の古文字は時が経つごとに整理され、字体の組み立てはシンプルに法則化され、すでに後の漢字と大差ないものであった。

2.秦陵の銅車馬

この銅車馬は1980年陜西省の臨潼にある始皇帝の陵墓から出土したもので、二体あるうちの二つ目である。長さ317センチ、高さ106.2センチ、現在は秦始皇帝兵馬俑博物館に所蔵されている。車は二つの車輪と一つの轅(ながえ)を備え、四頭立てで車の前部に坐っている御者は冠を被り帯をしめ、剣を佩び手には縄を持っている。車の後部には箱(部屋)があり、箱の後面に入口があり、箱の前と左右は窓が開く。車の上には楕円形の屋根がついており、車の内外には雲気紋、菱門、あるいは何らかの紋が描かれ、御者の衣冠にもあざやかな絵が描かれ、四匹の馬は白く塗られている。この銅車馬は秦朝の車馬の形を再現しており、当時の青銅鋳造工芸の突出した技術を物語っている。

3.雲夢睡虎の秦簡
雲夢県は湖北省の中央より東に位置し、睡虎はその(雲夢県の)中央より西に位置する。1975年睡虎の考古学者は西部の12基の秦墓を発掘していた。ここで小型の土坑に埋められていた木の外棺が墓中から出土し、400点近い漆器、銅器が発見された。また11号墓からも1100枚以上の秦時代の竹簡が出土した。大部分は秦朝の法律と文書で、ほぼ完全に保たれており、字もはっきりと見えるものであった。その内容はおそらく十種、『編年紀』『語書』『秦律十八種』『效律』『秦律雑抄』『法律答問』『封診式』『為吏之道』『日書(甲)』『日書(乙)』である。これらの秦簡は戦国時代末期から秦朝に至るまでの政治、経済、軍事、文化、社会生活において特に法律が重視されたことを示す研究に重要な材料を提供してくれた。

4.小篆体十二字方磚
この道の舗装に用いられていたレンガは長さ30.8センチ幅26.7センチ厚さ4センチ。正面は盛り上がった線で12個の四角に区切られ、その四角の中には一個の秦篆書体の陽文(※浮き彫りにした文字や模様)が書かれているため、秦代の遺物と推測できる。レンガの文章は「国中の者は皆(大切な)臣、幾歳が過ぎても、道に飢え人を出すことなし」これは秦朝の政治の徳や功績を讃える言葉である。現在は中国国家博物館が所蔵している。

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 2014年1月初版 2016年4月第2版

裏面。

『軍事』
4.巨鹿の戦い(紀元前208年)
章邯の秦軍が項梁軍を破ると、戦争の矛先は張耳チョウジと陳余チンヨの率いる趙軍へと向かった。趙軍が巨鹿城を攻められ危うくなり、項羽と劉邦に救援を要請した。(義軍の)首領は相談して義軍を二手に分けることにした。宋義ソウギ、項羽、范増ハンゾウ率いる主力は北上し趙の救援に当たることとし、宋義に統率させた。劉邦には西の関中へ進軍させた。大軍が安陽(今の山東省曹県東南)に入ると、宋義は敵を虎のごとく恐れ、考えてばかりで前へ進もうとしなかった。項羽は宋義を殺害し、紀元前208年に英布エイフと蒲将軍に命じて漳河を渡らせ巨鹿を救った。初戦に勝ったと聞き、陳余は再度救援を要請、項羽は義軍を全て率いて河を渡り、(その後)調理鍋を壊し船を沈めてその決心を示した(※早期決着させるという意志)。義軍主力の雷のような行動の迅速さに(城を)包囲していた秦将軍王離オウリは耳を疑った。激戦が続き、(義軍が)九戦九勝、秦軍は大敗した。章邯は気をくじかれすごすごと兵を退き、二度と項羽と交戦しようとしなかった。紀元前207年、洹水の南の殷朝の陵墓にて義軍に白旗を上げ、秦軍主力は消滅した。

5.楚漢戦争(紀元前206~202年)
 勝敗は兵法家でも予測できない、恥辱を耐え忍ぶのが男子たるものだ。
 江東の弟子には俊才が多い、もう一度戦えたらどうなったものか。
 ――杜牧『題烏江亭』

 百戦に及ぶ戦いで戦士は哀しみにくれる、中原で一度の敗けで形勢は返り難い。
 江東の弟子がまだ残っていようとも、君王のために戦い巻き返せるだろうか!
 ――王安石『烏江亭』


項羽が北上している頃、劉邦は咸陽にほど近い武関にまっすぐに入っていった。紀元前207年、軍は覇上に到着。間もなく46代秦王の子嬰シエイを乗せた白馬が引く簡素な車が投降に来て、秦王朝が滅んだ事を宣告した。劉邦は軍を咸陽に進めた後、法三章(三つの決まり)を取り決め、軍規を厳明にし、項羽との雌雄を決める戦いのために力を蓄えて行った。鴻門の宴の後、項羽は軍を率いて咸陽入りし、自ら西楚の覇王と称し、秦王を殺しその財産を奪い、麾下の将軍らを王に封じた。そして劉邦は巴蜀漢中の漢王とされた。心中不満を持つ劉邦と項羽は四年近い楚漢の争いを展開する。紀元前206年、劉邦は項羽が斉の地の田栄デンエイを標的に攻め入った際にひそかに陳倉を渡り、関中へ攻め入り咸陽、隴西、北地、上郡を占領、翌年には項羽の都城の彭城へと攻め入った。だが項羽の精鋭が引き返してきたため惨敗し逃走した。その後何度も戦旗や太鼓が用意され(※戦が繰り返され、の意味)戦闘が続き、双方が互いの勝負により一帯を形成し、境界線が定められ、天下を中ほどで分割した。だが劉邦は項羽に息切れする暇も与えず勝利に乗じて進攻し、項羽は次々と敗北し垓下まで退き、四面楚歌の中南へ逃げ、最後は烏江で自刎した。「我が力は山を越え気概は世を覆い尽くすほどであった」という西楚の覇王はこのような魂(思い)を河の畔に留め、英雄の最後の悲しい歌として書き残されている。

6.兵符
「国の大事は斎戒にある」というが、最高統治者は堅牢たる将兵権をも手に握っている。では、派遣された軍隊を動かす場合はその権利を持っていることを何を証拠にするのか?こういう時のために、兵符が作られた。兵符は金、玉、銅、竹などの材料で製作され、銅で作られたものが多い。また昔の人は虎を「百獣の長」として猛威の象徴として崇拝していたため、戦国、秦漢時代の兵符は虎の形をしたものが多く、そのため兵符は「虎符」と呼ばれることも多い。虎符の背中には銘文が刻まれ、二つに分かれ、右半分は朝廷に残し、左半分を兵将を統率する者あるいは地方の官吏に発給した。必要時に符を用い(?)ひとつの場所にひとつの符とし、兵を動かす時は二つの符がぴったり合ったら兵を動かすことができた。漢代になると虎符は大きく改良され、ひとつの場所にひとつの符から五つの符へと改めた。秦時代では左右の二つの符の上に刻まれた内容は同じで虎の背中で合わさる所に一行の銘文が刻まれたが、左右の符に文字が半分になるようにして、符を合わせるとやっと全文が見えるようにした。この後、唐朝は魚符を、宋朝は虎符を、元朝は虎の頭の牌を用いるなど、兵符の形は豊富になっていった。

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『軍事』
1.秦が六国を滅ぼし封建王朝を立てる(紀元前221年)
秦国の大軍の鉄蹄は真っ先に対面した弱小国韓国(※朝鮮ではない。戦国時代の諸侯の一つ)へと向けられた。紀元前230年、内史騰ないしトウは韓を破り韓王安かんおうアンを捕虜とした。韓の地は一夜にして秦国の潁川郡となった。翌年趙国に大地震が起こり多大な被害を受けた。秦の将軍王翦オウセンはこの機に乗じて大挙して趙に攻め入った。王翦は趙の名将李牧リボクも敵ではなかった(強かった)が、趙王の寵臣郭開カクカイに金を積んで買収し趙王を怒らせて李牧を死に追い詰めた。趙国軍の士気は散逸し、王翦は軍旗を次々と奪っていきすぐに邯鄲を制圧し、趙王は図(※徴税のための地図や戸籍。つまり支配権)を献上し投降することを迫られた。公子嘉こうしカは代郡へ逃げ、失われた政権(趙国)(再度)建立した。秦軍が公子嘉を追っている時、大軍は燕国の西南の辺境近くに迫っていた。紀元前227年燕国の荊軻ケイカが秦王を刺殺しようとして未遂に終わり、秦王政しんおうセイはすぐさま王翦を派遣し大軍で燕を攻めて辛勝した。燕王は太子丹たいしタンの首を差し出して講和を求めることになった。紀元前225年、王翦の子の王賁オウホンは魏の都・大梁を包囲し、ダムを決壊させて城を水攻めし、魏王は投降した。紀元前224年、王翦は60万の大軍を率いて楚を攻め、迅速に楚軍の主力を滅ぼし長江を渡り、江南の地を平定し会稽郡を置いた。紀元前222年、燕・趙の残党を一掃し、秦軍は全力で斉国に侵攻した。翌年斉は滅んだ。こうして秦国はたった十年のうちに六国の統一を完成させるという大業を成し、我が国の歴史上最初の統一された中央集権の封建帝国が建設されたのである。

2.秦の長城(紀元前213年)
北方に住む匈奴が度々領土に侵入して荒らすために、戦国時代の早いうちから秦、趙、燕の北方の辺境には長城が築かれた。紀元前214年、秦王朝はこの細切れの長城を一つに繋げていき、三国時代まで(修築は)続いた。修築された一本は臨洮(甘粛の岷県)からまっすぐ遼東郡の万里の長城へ到る。この万里の長城は一匹の巨竜が北の水のほとりに横たわり国内の人々の生産活動と生活を守っている姿を彷彿とさせ、今もなおその遺跡が残っている。これ(万里の長城)は人々の汗と知恵を集め働いた苦労が凝集されたもので、中華民族文明の悠久の証でもある。

3.秦末期の農民蜂起(紀元前209年)
紀元前209年、秦二世皇帝は淮河流域の900名の貧しい農民に北の漁陽を開拓するよう命じた。陳勝チンショウと呉広ゴコウもその開拓民の列の中にあり、その開拓長とされていた。彼らが蘄県の大沢郷に辿りついた時大雨に遭い、(進むのが遅れて)期限を守れず死刑となりそうだった。陳勝と呉広は(見張りの)秦尉を殺害し、木を斬って兵士の武器とし旗印として竿を掲げ、秦末期の農民蜂起の序幕を開いた。蜂起軍は破竹の勢いで蘄・銍・酇・譙・苦・柘などの地を攻め取って行った。陳県を手に入れた後、陳勝は自ら王を名乗り国号を「張楚」とした。天下にはこれに応じる者が雲のように集い、項梁コウリョウと項羽コウウは呉県で蜂起し、劉邦リュウホウは沛県で立ち上がった。六国の旧貴族や中小の官吏も次々と声を上げた。農民軍は精鋭を育て、秦王朝に総攻撃を発動した。呉広は滎陽に進攻し、宋留ソウリュウは南陽を迂回し武関を叩き、周文シュウブンは咸陽を直に攻めた。秦二世皇帝はそれを聞いて恐れおののき手足も惜しくない(何が何でも止めろ)と、急いで章邯ショウカンに30万の大軍で義軍(蜂起軍)に当たらせた。周文はひと軍で深入りしてしまったために澠地の役で主力は崩壊してしてしまった。この後、外では秦軍の猛攻があり内では権力闘争があり、義軍の勢力は弱まり度々敗退することとなった。12月、陳勝が城父まで退いた時に車夫(御者)の庄賈ショウカに殺害された。この後、呂臣リョシンの率いる奴隷を主力とした蒼頭軍と項梁の義軍が反秦の戦いを継続していった。

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裏面。

『政治』
4.焚書坑儒(紀元前212年)
 書物を焼き捨てた皇帝の業は虚しい、
 関所や河も皇帝の居城を守れなかった。
 (書物を焼き捨てた)穴の灰が冷める前に山東では反乱が起き、
 劉邦も項羽も元々書を読む性質ではなかった!――唐・章碣『焚書坑』


紀元前213年、博士の淳于越ジュンウエツは分封(封建)制の復活を提議した。丞相の李斯リシはこの威勢のいい古くさい言葉(思想)に断固反対し、"古めかしさをもって現代に害を与える"儒教の禁止を主張。『秦紀』、医薬、卜占、農業書と国家が所蔵している『詩(詩経)』『書(書経)』、諸子百家の書物は除き、それ以外は私的に所有している各種書籍は官府へ提出させ破棄させる、『詩』や『書』について論じる者は死刑、古めかしい(儒教の)教えにこだわり今(の政策)を受け入れない者は一族根絶やしの刑、私学(独自に思想などを勉強・研究すること)を厳しく禁じると。秦始皇帝はこれ(李斯の意見)を全て認可し、ついに歴史的な「焚書」事件が起こり、古典文化が一度目の大災難に遭った。紀元前212年、何名かの方士(※方術士。占い師の一派。)や儒家が法に触れるのを覚悟で、秦始皇帝への不満の言論を公開発表した。秦始皇帝は大いに怒り、奴らは妖しい言葉で人々を惑わす輩だとして、兵を出して逮捕した460人の方士・儒家をみんな穴に落として殺した。この「坑儒」の悲劇は咸陽に永遠に刻み付けられ、また歴史の天空にもいつまでも残るものである。この「坑儒」が行われた場所は西安の洪慶堡、臨潼韓裕郷油王村と洪慶堡の間だと言われている。

5.秦始皇帝が泰山で封禅を行う(紀元前219年)
秦始皇帝が即位して三年目(紀元前219年)、大臣将士を引き連れて千里の道のりを歩き、泰山にて封禅(※天から指名された正式の支配者であることを発表する儀式)を行った。彼はまずその峰の山に到着すると、山上に秦の偉業を記した石碑を立て、斉や魯の人々に自分のまれに見る功績を見せつけることで泰山での封禅の序幕とした。泰山のふもとに到着すると、彼は70余名の斉や魯の儒家博士を集め、封禅の儀式のやり方を教えろとたずねた。その博士らが地を掃き清めてから祭事を行うと言い出すとは思わなかったので、将士の乗る車の車輪を包んでいた蒲草を用いた(?)。そのため山の草木が刈り取られ損なわれるようなことはなかった。これがどうして秦始皇帝の"天下を席巻する世界一の"偉業を表すというか?(と疑問に思った)秦始皇帝は儒家らを下がらせ、山道を整備させて泰山の日の上る山頂へ登り、(彼の)徳を讃える石碑を立て、雍の祭祀を天帝の形式として行い封禅の儀とした。天下に向けて彼が天から皇帝の権利を授かったということを明示した。途中で彼らは風雨に遭い、秦始皇帝は一本の大木の下で休憩したが、後に戻って来てこの樹を五大夫に封じた。この樹も泰山の千年来の目印となった。

6.秦朝の主要な交通幹線(紀元前220~212年)
秦始皇帝は中原統一後、戦国時代に壊されてしまった各国の辺境にある関所、砦を補修し、27年(紀元前220年)に咸陽城を中心とした馳道を修復建設した。その一本はまっすぐ東の燕・斉へと通じ、一本は南の呉・楚へ通じ、幅は50歩、道には三丈ごとの間隔で青松を植えた。35年(紀元前212年)には蒙恬モウテンに命じて「直道」を作らせた。これは雲陽、上郡を経てまっすぐ九原まで、綿々と伸びる900,000メートル余りで、まるで一匹の巨竜が蒼茫たる大地に横たわっているかのように、その跡が今も残っている。さらに常頞ジョウアツに命じて現在の雲南、貴州の「五尺道」を修繕させ現在の湖南、江西、広東、広西の五つの嶺を乗り越え、山を切り開いて路を作り、「新道」を作った。このようして咸陽を中心に四方八方へと向かう交通網が全国に作られたのである。同時に車の車幅を六尺と統一して定め、車輌が道をスムーズに行き来できるようにした。

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