「图说中国历史・秦」
中国地图出版社 www.sinomaps.com
2014年1月初版 2016年4月第2版
裏面。
『軍事』
1.秦が六国を滅ぼし封建王朝を立てる(紀元前221年)
秦国の大軍の鉄蹄は真っ先に対面した弱小国韓国(※朝鮮ではない。戦国時代の諸侯の一つ)へと向けられた。紀元前230年、内史騰ないしトウは韓を破り韓王安かんおうアンを捕虜とした。韓の地は一夜にして秦国の潁川郡となった。翌年趙国に大地震が起こり多大な被害を受けた。秦の将軍王翦オウセンはこの機に乗じて大挙して趙に攻め入った。王翦は趙の名将李牧リボクも敵ではなかった(強かった)が、趙王の寵臣郭開カクカイに金を積んで買収し趙王を怒らせて李牧を死に追い詰めた。趙国軍の士気は散逸し、王翦は軍旗を次々と奪っていきすぐに邯鄲を制圧し、趙王は図(※徴税のための地図や戸籍。つまり支配権)を献上し投降することを迫られた。公子嘉こうしカは代郡へ逃げ、失われた政権(趙国)を(再度)建立した。秦軍が公子嘉を追っている時、大軍は燕国の西南の辺境近くに迫っていた。紀元前227年燕国の荊軻ケイカが秦王を刺殺しようとして未遂に終わり、秦王政しんおうセイはすぐさま王翦を派遣し大軍で燕を攻めて辛勝した。燕王は太子丹たいしタンの首を差し出して講和を求めることになった。紀元前225年、王翦の子の王賁オウホンは魏の都・大梁を包囲し、ダムを決壊させて城を水攻めし、魏王は投降した。紀元前224年、王翦は60万の大軍を率いて楚を攻め、迅速に楚軍の主力を滅ぼし長江を渡り、江南の地を平定し会稽郡を置いた。紀元前222年、燕・趙の残党を一掃し、秦軍は全力で斉国に侵攻した。翌年斉は滅んだ。こうして秦国はたった十年のうちに六国の統一を完成させるという大業を成し、我が国の歴史上最初の統一された中央集権の封建帝国が建設されたのである。
2.秦の長城(紀元前213年)

北方に住む匈奴が度々領土に侵入して荒らすために、戦国時代の早いうちから秦、趙、燕の北方の辺境には長城が築かれた。紀元前214年、秦王朝はこの細切れの長城を一つに繋げていき、三国時代まで(修築は)続いた。修築された一本は臨洮(甘粛の岷県)からまっすぐ遼東郡の万里の長城へ到る。この万里の長城は一匹の巨竜が北の水のほとりに横たわり国内の人々の生産活動と生活を守っている姿を彷彿とさせ、今もなおその遺跡が残っている。これ(万里の長城)は人々の汗と知恵を集め働いた苦労が凝集されたもので、中華民族文明の悠久の証でもある。
3.秦末期の農民蜂起(紀元前209年)
紀元前209年、秦二世皇帝は淮河流域の900名の貧しい農民に北の漁陽を開拓するよう命じた。陳勝チンショウと呉広ゴコウもその開拓民の列の中にあり、その開拓長とされていた。彼らが蘄県の大沢郷に辿りついた時大雨に遭い、(進むのが遅れて)期限を守れず死刑となりそうだった。陳勝と呉広は(見張りの)秦尉を殺害し、木を斬って兵士の武器とし旗印として竿を掲げ、秦末期の農民蜂起の序幕を開いた。蜂起軍は破竹の勢いで蘄・銍・酇・譙・苦・柘などの地を攻め取って行った。陳県を手に入れた後、陳勝は自ら王を名乗り国号を「張楚」とした。天下にはこれに応じる者が雲のように集い、項梁コウリョウと項羽コウウは呉県で蜂起し、劉邦リュウホウは沛県で立ち上がった。六国の旧貴族や中小の官吏も次々と声を上げた。農民軍は精鋭を育て、秦王朝に総攻撃を発動した。呉広は滎陽に進攻し、宋留ソウリュウは南陽を迂回し武関を叩き、周文シュウブンは咸陽を直に攻めた。秦二世皇帝はそれを聞いて恐れおののき手足も惜しくない(何が何でも止めろ)と、急いで章邯ショウカンに30万の大軍で義軍(蜂起軍)に当たらせた。周文はひと軍で深入りしてしまったために澠地の役で主力は崩壊してしてしまった。この後、外では秦軍の猛攻があり内では権力闘争があり、義軍の勢力は弱まり度々敗退することとなった。12月、陳勝が城父まで退いた時に車夫(御者)の庄賈ショウカに殺害された。この後、呂臣リョシンの率いる奴隷を主力とした蒼頭軍と項梁の義軍が反秦の戦いを継続していった。
* * * * *
→インデックス