「图说中国历史・秦」
中国地图出版社 www.sinomaps.com
2014年1月初版 2016年4月第2版
裏面。
『政治』
4.焚書坑儒(紀元前212年)
書物を焼き捨てた皇帝の業は虚しい、関所や河も皇帝の居城を守れなかった。
(書物を焼き捨てた)穴の灰が冷める前に山東では反乱が起き、
劉邦も項羽も元々書を読む性質ではなかった!――唐・章碣『焚書坑』
紀元前213年、博士の淳于越ジュンウエツは分封(封建)制の復活を提議した。丞相の李斯リシはこの威勢のいい古くさい言葉(思想)に断固反対し、"古めかしさをもって現代に害を与える"儒教の禁止を主張。『秦紀』、医薬、卜占、農業書と国家が所蔵している『詩(詩経)』『書(書経)』、諸子百家の書物は除き、それ以外は私的に所有している各種書籍は官府へ提出させ破棄させる、『詩』や『書』について論じる者は死刑、古めかしい(儒教の)教えにこだわり今(の政策)を受け入れない者は一族根絶やしの刑、私学(独自に思想などを勉強・研究すること)を厳しく禁じると。秦始皇帝はこれ(李斯の意見)を全て認可し、ついに歴史的な「焚書」事件が起こり、古典文化が一度目の大災難に遭った。紀元前212年、何名かの方士(※方術士。占い師の一派。)や儒家が法に触れるのを覚悟で、秦始皇帝への不満の言論を公開発表した。秦始皇帝は大いに怒り、奴らは妖しい言葉で人々を惑わす輩だとして、兵を出して逮捕した460人の方士・儒家をみんな穴に落として殺した。この「坑儒」の悲劇は咸陽に永遠に刻み付けられ、また歴史の天空にもいつまでも残るものである。この「坑儒」が行われた場所は西安の洪慶堡、臨潼韓裕郷油王村と洪慶堡の間だと言われている。
5.秦始皇帝が泰山で封禅を行う(紀元前219年)
秦始皇帝が即位して三年目(紀元前219年)、大臣将士を引き連れて千里の道のりを歩き、泰山にて封禅(※天から指名された正式の支配者であることを発表する儀式)を行った。彼はまずその峰の山に到着すると、山上に秦の偉業を記した石碑を立て、斉や魯の人々に自分のまれに見る功績を見せつけることで泰山での封禅の序幕とした。泰山のふもとに到着すると、彼は70余名の斉や魯の儒家博士を集め、封禅の儀式のやり方を教えろとたずねた。その博士らが地を掃き清めてから祭事を行うと言い出すとは思わなかったので、将士の乗る車の車輪を包んでいた蒲草を用いた(?)。そのため山の草木が刈り取られ損なわれるようなことはなかった。これがどうして秦始皇帝の"天下を席巻する世界一の"偉業を表すというか?(と疑問に思った)秦始皇帝は儒家らを下がらせ、山道を整備させて泰山の日の上る山頂へ登り、(彼の)徳を讃える石碑を立て、雍の祭祀を天帝の形式として行い封禅の儀とした。天下に向けて彼が天から皇帝の権利を授かったということを明示した。途中で彼らは風雨に遭い、秦始皇帝は一本の大木の下で休憩したが、後に戻って来てこの樹を五大夫に封じた。この樹も泰山の千年来の目印となった。
6.秦朝の主要な交通幹線(紀元前220~212年)
秦始皇帝は中原統一後、戦国時代に壊されてしまった各国の辺境にある関所、砦を補修し、27年(紀元前220年)に咸陽城を中心とした馳道を修復建設した。その一本はまっすぐ東の燕・斉へと通じ、一本は南の呉・楚へ通じ、幅は50歩、道には三丈ごとの間隔で青松を植えた。35年(紀元前212年)には蒙恬モウテンに命じて「直道」を作らせた。これは雲陽、上郡を経てまっすぐ九原まで、綿々と伸びる900,000メートル余りで、まるで一匹の巨竜が蒼茫たる大地に横たわっているかのように、その跡が今も残っている。さらに常頞ジョウアツに命じて現在の雲南、貴州の「五尺道」を修繕させ現在の湖南、江西、広東、広西の五つの嶺を乗り越え、山を切り開いて路を作り、「新道」を作った。このようして咸陽を中心に四方八方へと向かう交通網が全国に作られたのである。同時に車の車幅を六尺と統一して定め、車輌が道をスムーズに行き来できるようにした。* * * * *
→インデックス