「图说中国历史・秦」
中国地图出版社 www.sinomaps.com
2014年1月初版 2016年4月第2版
裏面。
『政治』
1.三公九卿制
秦始皇帝は中央に丞相を置き皇帝を補佐させ、大尉を置き軍隊を握る皇帝の補助をさせた。しかし秦の全国統一後はその位は空けたままで誰も任命せず、軍隊は皇帝自らが指揮を執った。御史大夫は監察を司る副丞相であり、実際には丞相を牽制するための位であった。封建社会の官僚システムは初めからこの二千年来、皇帝の権力と大臣の権力のバランスと矛盾が宿命づけられている。三公(丞相、大尉、御史大夫)の下の諸卿は習慣上「九卿」と呼ばれるが、実際には9つにとどまらなかった。主な所では、奉常は祭事や儀礼を司り、郎中令は宮廷警備を司り、太仆は宮廷の車馬を担当、衛尉は皇帝の宮殿の保衛、典客は少数民族に対する外交事務、廷尉は司法を司り、治粟内史は財政と税を司り、宗正は皇帝親族に関わる内部事務、少府は山川海の(交通の?)税と手工業の製造を担当。これらの官吏はすべて皇帝が任命罷免し、戦国時代の世襲制を改めた。この三公九卿制は我が国の政治文化の新局面を開き、後世に大きな影響を残した。
2.郡県制の確立
秦始皇帝は建国当初全国を36の郡に分け、秦朝末期には40近くに増えた。その下には1000近い県が設けられた。郡には郡守を置き、これが郡の最高長官であった。その下に郡下の全ての軍事を司る郡尉と、監察を負う監御史がある。郡の下には県があり、(人口が)一万戸以上の県には県令を、一万戸に満たない県には県長を置いた。県の下には郷があり、郷の下には里があった。
歴史の長い分封(封建)制に対し、秦はどうして県制度を採用しこのような軍事性の強い統治方式を採用したのか?それは郡県制と秦の辛い建国の歴史が関係している。秦が諸侯に封じられた時、周の天子から与えられた民や土地は全てではなく占有できる領土は限りがあった。秦人は戦場で殺し合い血を流し戎人から奪う事で肥沃な新地を得た。ゆえに土地を開拓するごとに県を置いて管理し、県が秦国では最もよくある行政区単位となったのだ。秦始皇帝の(全国)統一が進むにつれ郡県制も全国へと広がっていった。この後、歴史が始皇帝のこの決断が正しかったことを証明している。郡県制は中央の地方に対する抑制力をさらに強めるのに有効であり、基本的に以降の各王朝にも受け継がれ、我が国の歴史に深い影響を与え、「県」という名称は今もなお使用されている。
3.秦始皇帝の出生の謎「秦皇、六か国を蹴散らす。虎のような眼、なんと雄々しいことか。」偉業を成し遂げた秦始皇帝は千年に一度の帝(千古一帝)と称されるが、彼の出生はかえって千年の謎(千年之謎)である。司馬遷は「史記」の中でこう言う。富豪の呂不韋リョフイには趙姫チョウキという美しい妾がいた。荘襄王ソウジョウおうが秦国の人質として趙国にいた時、歌と踊りの上手い趙姫に一目惚れした。呂不韋は"この珍しい品(※荘襄王の事)を押さえておこう"と考え、趙姫を彼に献上した。当時趙姫はすでに身ごもっており、後に生まれた子供がすなわち嬴政エイセイである。「漢書」「資治通鑑」にも同じようなことが書かれている。ある学者はこれは呂不韋が永享栄華の地位を手に入れてから造り上げた話だと認識し、またある学者は彼(呂不韋)の門客がうっぷん晴らしに嬴政を罵っただけだとも言う。早期(※当時に一番近い、の意味)の史料の中では「史記」のみにこの記載があり、他に証明するものがなく、「史記」自体にも前後関係に矛盾がある。さらには春申君シュンシンクンと女をとりまく物語とよく似ており、くだらない恋愛小説のようである。しかしこれらの学者の反駁意見にしても全ては推測である。「史記」には秦始皇帝が呂不韋の子であると明確に記載されており、また後に趙姫が太后となった時にもまだ呂不韋と私通しており、性格から見ても嬴政は臆病な荘襄王とは全く違い、呂不韋とはよく似ているだろう。
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