中国現代語に親しむための翻訳練習です。
「图说中国历史・秦」
中国地图出版社 www.sinomaps.com
2014年1月初版 2016年4月第2版
表は現代の地図に秦王朝時代の地名を重ね合わせて表記。
表面上部。
『王朝図解』
紀元前222年、秦王政しんおうセイは楚国の江南地方(すなわち元呉・越の両国)を平定、会稽郡とし、今の江蘇長江から南の浙江の大部分と安徽の小さな地を占有した。紀元前221年、その他の六国を滅ぼし中原を統一。だが彼の前へと進む足は未だ止まるところを知らなかった。この後、秦国の勇ましい将軍らと行く手を阻む山麓や森林を越え、今の温州一帯の東甌と今の福建の境目の閩越を征服、閩中郡を置いた。秦始皇32年(紀元前215年)、蒙恬モウテンは軍を率いて河套へ、戦国時代の趙国を占領し九原郡を設置、併せて44県を置いて、そこへ罪人を連れて来て陰山より北の匈奴の勢力に対する防衛とした。翌年、秦軍は南下し越族を征服し今の広東を奪取、広西と越南東北一帯に南海、桂林、象郡の三郡を置き、50万人に五嶺を守備させた。西南方面は今の大渡河から北と岷江上流まで勢力を伸ばし、邛、筰、冉、駹などの部族の地域を占領した。紀元前210年には秦朝はすでに北は河套から陰山山脈と遼河下流の流域、南は今の越南東北部と広東大陸、西は隴山から川西高原と雲貴高原、東は朝鮮半島北部の広い地域を擁するまでになった。「史記」にはこう記されている。「その土地は東は朝鮮の海まで及び、西は臨洮・羌中に至り、南至北向戸、北は大河が塞となり、陰山と遼東を併せる。」しかし新たに占領した多くの地域では、秦朝はまだ完全な控制権を得ておらず、今の浙江南部、福建、雲南と貴州は交通路と沿線の拠点となるだけであった。雲貴高原に生活する邛、筰、夜郎、昆明、滇などの部族は依然自分たちの部族の頭領を擁していたが、新興の秦王朝と対抗する術はなかった。秦帝国の全国統一で広い国土を形成したのは歴史の発展上必然であった。西周時代から諸侯が林立し戦国時代の七雄が天下を争った800年余りで政治、軍事、経済、文化的交流が絶えてしまったものを、互いに融合し華夏族(※古代中国の民)がひとつになり、併せて高度な知識を共有することが実現したのである。秦帝国の成長の道は戦争と血なまぐささが充満したものであったが、そのおかげで政治上の統一は実現できた。秦帝国の開拓した国土は以降の歴代中原王朝の主体を構成し、中国統一の地理的基礎となった。これ(秦帝国)が存在した時間は短かったが、我が国の以降の歴史と当時の古代世界すべての生産に(※古代世界に誕生した都、かも)重要な影響を与えた。「秦人」と後の「漢人」「唐人」はどれも世界各国の人々が中国人を指す代名詞となった。
春秋戦国時代の早いうちから郡県制は頭角を顕わしており各国に期待をもって受け入れられた。春秋初期に秦、晋、楚などの国は新しく占領した土地を県を置いて改良し、内地(都)へ行き来しやすくした。国境防衛の必要が出て来て荒れた辺境の地には郡を置いた。歴史の推移に伴い郡と県は二段階の地方組織となり、秦が六国を統一した後はこの広大な領土を有効に管理するために古代の封建藩制度を廃して、この制度(郡県制)を全国に推進した。秦朝にははじめ36の郡があったがその後40あまりに増えた。郡には郡守を置き、中央がすべての郡を直接管轄下に置いた。郡守の下には郡守を補佐し軍事を司る郡尉と監察を担う監御史を置いた。各郡は毎年決まった時期に中央に郡の税収や人口統計、治安について報告させた。郡の下にはいくつかの県があり、(人口が)一万戸以上の県には県令を、一万戸未満の県には県長を置き、県下の百姓を治めさせた。県の下にはいくつかの郷があり、郷の下には里、亭、郵があった。
このような広い国土を統治するために、秦始皇帝は巨大な軍隊を作った。それは中央常駐軍と地方武装軍からなる。中央常駐軍は皇帝自らが選んだ大将に都を守らせ、地方を守らせた。地方武装軍は郡尉が指揮をとった。当時の秦帝国の防衛の軍隊は80万人以上、全国の軍人の数は100万人以上と言われる。
秦王朝の領土の外側では、匈奴が陰山より北の蒙古高原に興り、東や西へと勢力を広げつつ南下の準備をしていた。烏孫、月氏は河西回廊に住み着いた。今の新疆およびその西の地区には数十個のオアシスを中心とした小国が誕生し、青蔵高原と雲貴高原には羌人部族が暮らしていた。
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表面下部。
『都市図解』
秦孝公12年(紀元前350年)、函谷関から東へ進出し中原に鼎の軽重を問う(天下を取る、の意味)ために、都城(首都)を櫟陽から渭水の畔へ遷した。これこそが洋々たる渭水が育み繁栄を極めた咸陽城であり、覇気に満ちた秦王朝を造り上げた。この新都城は九嵕山の南で渭水の北にあり、「山河に陽(光)あり、ゆえに咸陽と名付ける」とある。咸陽城は広大で(家や施設が)散らばっており、中心街の周囲に多くの離宮や別荘が点在している。文献の記載や考古学の調べによれば、城址は咸陽市秦都区の東の長陵駅付近にあったと言われる。咸陽の宮殿は以下の三つに分けることができる。渭北部、渭南部、六国宮殿部である。渭北部は秦に咸陽の都が建立された時のもっとも早い時期の宮殿区で、冀闕と咸陽宮を含み、商鞅ショウオウが作らせた。法家の商鞅は実用的なものを求めたため、これらの宮殿は比較的簡素に建てられた。渭南部は秦の庭園で、後にも拡張されてない。興楽宮、信宮と未完成の阿房宮がある。秦王嬴政エイセイは全国統一のための戦いの間、一国を破るごとにその国をまねた宮殿を咸陽の北阪に建設した。これが「六国宮殿」である。これらの宮殿は18里の高さにあり、そこから下を見れば全域を見下ろすことができた。
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