「图说中国历史・秦」
中国地图出版社 www.sinomaps.com
2014年1月初版 2016年4月第2版
裏面。
『軍事』
4.巨鹿の戦い(紀元前208年)
章邯の秦軍が項梁軍を破ると、戦争の矛先は張耳チョウジと陳余チンヨの率いる趙軍へと向かった。趙軍が巨鹿城を攻められ危うくなり、項羽と劉邦に救援を要請した。(義軍の)首領は相談して義軍を二手に分けることにした。宋義ソウギ、項羽、范増ハンゾウ率いる主力は北上し趙の救援に当たることとし、宋義に統率させた。劉邦には西の関中へ進軍させた。大軍が安陽(今の山東省曹県東南)に入ると、宋義は敵を虎のごとく恐れ、考えてばかりで前へ進もうとしなかった。項羽は宋義を殺害し、紀元前208年に英布エイフと蒲ホ将軍に命じて漳河を渡らせ巨鹿を救った。初戦に勝ったと聞き、陳余は再度救援を要請、項羽は義軍を全て率いて河を渡り、(その後)調理鍋を壊し船を沈めてその決心を示した(※早期決着させるという意志)。義軍主力の雷のような行動の迅速さに(城を)包囲していた秦将軍王離オウリは耳を疑った。激戦が続き、(義軍が)九戦九勝、秦軍は大敗した。章邯は気をくじかれすごすごと兵を退き、二度と項羽と交戦しようとしなかった。紀元前207年、洹水の南の殷朝の陵墓にて義軍に白旗を上げ、秦軍主力は消滅した。
5.楚漢戦争(紀元前206~202年)
勝敗は兵法家でも予測できない、恥辱を耐え忍ぶのが男子たるものだ。
江東の弟子には俊才が多い、もう一度戦えたらどうなったものか。
――杜牧『題烏江亭』
百戦に及ぶ戦いで戦士は哀しみにくれる、中原で一度の敗けで形勢は返り難い。
江東の弟子がまだ残っていようとも、君王のために戦い巻き返せるだろうか!
――王安石『烏江亭』
項羽が北上している頃、劉邦は咸陽にほど近い武関にまっすぐに入っていった。紀元前207年、軍は覇上に到着。間もなく46代秦王の子嬰シエイを乗せた白馬が引く簡素な車が投降に来て、秦王朝が滅んだ事を宣告した。劉邦は軍を咸陽に進めた後、法三章(三つの決まり)を取り決め、軍規を厳明にし、項羽との雌雄を決める戦いのために力を蓄えて行った。鴻門の宴の後、項羽は軍を率いて咸陽入りし、自ら西楚の覇王と称し、秦王を殺しその財産を奪い、麾下の将軍らを王に封じた。そして劉邦は巴蜀漢中の漢王とされた。心中不満を持つ劉邦と項羽は四年近い楚漢の争いを展開する。紀元前206年、劉邦は項羽が斉の地の田栄デンエイを標的に攻め入った際にひそかに陳倉を渡り、関中へ攻め入り咸陽、隴西、北地、上郡を占領、翌年には項羽の都城の彭城へと攻め入った。だが項羽の精鋭が引き返してきたため惨敗し逃走した。その後何度も戦旗や太鼓が用意され(※戦が繰り返され、の意味)戦闘が続き、双方が互いの勝負により一帯を形成し、境界線が定められ、天下を中ほどで分割した。だが劉邦は項羽に息切れする暇も与えず勝利に乗じて進攻し、項羽は次々と敗北し垓下まで退き、四面楚歌の中南へ逃げ、最後は烏江で自刎した。「我が力は山を越え気概は世を覆い尽くすほどであった」という西楚の覇王はこのような魂(思い)を河の畔に留め、英雄の最後の悲しい歌として書き残されている。
6.兵符
「国の大事は斎戒にある」というが、最高統治者は堅牢たる将兵権をも手に握っている。では、派遣された軍隊を動かす場合はその権利を持っていることを何を証拠にするのか?こういう時のために、兵符が作られた。兵符は金、玉、銅、竹などの材料で製作され、銅で作られたものが多い。また昔の人は虎を「百獣の長」として猛威の象徴として崇拝していたため、戦国、秦漢時代の兵符は虎の形をしたものが多く、そのため兵符は「虎符」と呼ばれることも多い。虎符の背中には銘文が刻まれ、二つに分かれ、右半分は朝廷に残し、左半分を兵将を統率する者あるいは地方の官吏に発給した。必要時に符を用い(?)ひとつの場所にひとつの符とし、兵を動かす時は二つの符がぴったり合ったら兵を動かすことができた。漢代になると虎符は大きく改良され、ひとつの場所にひとつの符から五つの符へと改めた。秦時代では左右の二つの符の上に刻まれた内容は同じで虎の背中で合わさる所に一行の銘文が刻まれたが、左右の符に文字が半分になるようにして、符を合わせるとやっと全文が見えるようにした。この後、唐朝は魚符を、宋朝は虎符を、元朝は虎の頭の牌を用いるなど、兵符の形は豊富になっていった。* * * * *
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