あさひのブログ -70ページ目
中国現代語に親しむための翻訳練習です。

「图说中国历史・秦」
中国地图出版社 www.sinomaps.com
 2014年1月初版 2016年4月第2版

裏面。

『政治』
1.三公九卿制
秦始皇帝は中央に丞相を置き皇帝を補佐させ、大尉を置き軍隊を握る皇帝の補助をさせた。しかし秦の全国統一後はその位は空けたままで誰も任命せず、軍隊は皇帝自らが指揮を執った。御史大夫は監察を司る副丞相であり、実際には丞相を牽制するための位であった。封建社会の官僚システムは初めからこの二千年来、皇帝の権力と大臣の権力のバランスと矛盾が宿命づけられている。三公(丞相、大尉、御史大夫)の下の諸卿は習慣上「九卿」と呼ばれるが、実際には9つにとどまらなかった。主な所では、奉常は祭事や儀礼を司り、郎中令は宮廷警備を司り、太仆は宮廷の車馬を担当、衛尉は皇帝の宮殿の保衛、典客は少数民族に対する外交事務、廷尉は司法を司り、治粟内史は財政と税を司り、宗正は皇帝親族に関わる内部事務、少府は山川海の(交通の?)税と手工業の製造を担当。これらの官吏はすべて皇帝が任命罷免し、戦国時代の世襲制を改めた。この三公九卿制は我が国の政治文化の新局面を開き、後世に大きな影響を残した。

2.郡県制の確立
秦始皇帝は建国当初全国を36の郡に分け、秦朝末期には40近くに増えた。その下には1000近い県が設けられた。郡には郡守を置き、これが郡の最高長官であった。その下に郡下の全ての軍事を司る郡尉と、監察を負う監御史がある。郡の下には県があり、(人口が)一万戸以上の県には県令を、一万戸に満たない県には県長を置いた。県の下には郷があり、郷の下には里があった。
歴史の長い分封(封建)制に対し、秦はどうして県制度を採用しこのような軍事性の強い統治方式を採用したのか?それは郡県制と秦の辛い建国の歴史が関係している。秦が諸侯に封じられた時、周の天子から与えられた民や土地は全てではなく占有できる領土は限りがあった。秦人は戦場で殺し合い血を流し戎人から奪う事で肥沃な新地を得た。ゆえに土地を開拓するごとに県を置いて管理し、県が秦国では最もよくある行政区単位となったのだ。秦始皇帝の(全国)統一が進むにつれ郡県制も全国へと広がっていった。この後、歴史が始皇帝のこの決断が正しかったことを証明している。郡県制は中央の地方に対する抑制力をさらに強めるのに有効であり、基本的に以降の各王朝にも受け継がれ、我が国の歴史に深い影響を与え、「県」という名称は今もなお使用されている。

3.秦始皇帝の出生の謎
「秦皇、六か国を蹴散らす。虎のような眼、なんと雄々しいことか。」偉業を成し遂げた秦始皇帝は千年に一度の帝(千古一帝)と称されるが、彼の出生はかえって千年の謎(千年之謎)である。司馬遷は「史記」の中でこう言う。富豪の呂不韋リョフイには趙姫チョウキという美しい妾がいた。荘襄王ソウジョウおうが秦国の人質として趙国にいた時、歌と踊りの上手い趙姫に一目惚れした。呂不韋は"この珍しい品(※荘襄王の事)を押さえておこう"と考え、趙姫を彼に献上した。当時趙姫はすでに身ごもっており、後に生まれた子供がすなわち嬴政エイセイである。「漢書」「資治通鑑」にも同じようなことが書かれている。ある学者はこれは呂不韋が永享栄華の地位を手に入れてから造り上げた話だと認識し、またある学者は彼(呂不韋)の門客がうっぷん晴らしに嬴政を罵っただけだとも言う。早期(※当時に一番近い、の意味)の史料の中では「史記」のみにこの記載があり、他に証明するものがなく、「史記」自体にも前後関係に矛盾がある。さらには春申君シュンシンクンと女をとりまく物語とよく似ており、くだらない恋愛小説のようである。しかしこれらの学者の反駁意見にしても全ては推測である。「史記」には秦始皇帝が呂不韋の子であると明確に記載されており、また後に趙姫が太后となった時にもまだ呂不韋と私通しており、性格から見ても嬴政は臆病な荘襄王とは全く違い、呂不韋とはよく似ているだろう。

*  *  *  *  *

→インデックス
中国現代語に親しむための翻訳練習です。

「图说中国历史・秦」
中国地图出版社 www.sinomaps.com
 2014年1月初版 2016年4月第2版

表は現代の地図に秦王朝時代の地名を重ね合わせて表記。

表面上部。

『王朝図解』
紀元前222年、秦王政しんおうセイは楚国の江南地方(すなわち元呉・越の両国)を平定、会稽郡とし、今の江蘇長江から南の浙江の大部分と安徽の小さな地を占有した。紀元前221年、その他の六国を滅ぼし中原を統一。だが彼の前へと進む足は未だ止まるところを知らなかった。この後、秦国の勇ましい将軍らと行く手を阻む山麓や森林を越え、今の温州一帯の東甌と今の福建の境目の閩越を征服、閩中郡を置いた。秦始皇32年(紀元前215年)、蒙恬モウテンは軍を率いて河套へ、戦国時代の趙国を占領し九原郡を設置、併せて44県を置いて、そこへ罪人を連れて来て陰山より北の匈奴の勢力に対する防衛とした。翌年、秦軍は南下し越族を征服し今の広東を奪取、広西と越南東北一帯に南海、桂林、象郡の三郡を置き、50万人に五嶺を守備させた。西南方面は今の大渡河から北と岷江上流まで勢力を伸ばし、邛、筰、冉、駹などの部族の地域を占領した。紀元前210年には秦朝はすでに北は河套から陰山山脈と遼河下流の流域、南は今の越南東北部と広東大陸、西は隴山から川西高原と雲貴高原、東は朝鮮半島北部の広い地域を擁するまでになった。「史記」にはこう記されている。「その土地は東は朝鮮の海まで及び、西は臨洮・羌中に至り、南至北向戸、北は大河が塞となり、陰山と遼東を併せる。」しかし新たに占領した多くの地域では、秦朝はまだ完全な控制権を得ておらず、今の浙江南部、福建、雲南と貴州は交通路と沿線の拠点となるだけであった。雲貴高原に生活する邛、筰、夜郎、昆明、滇などの部族は依然自分たちの部族の頭領を擁していたが、新興の秦王朝と対抗する術はなかった。秦帝国の全国統一で広い国土を形成したのは歴史の発展上必然であった。西周時代から諸侯が林立し戦国時代の七雄が天下を争った800年余りで政治、軍事、経済、文化的交流が絶えてしまったものを、互いに融合し華夏族(※古代中国の民)がひとつになり、併せて高度な知識を共有することが実現したのである。秦帝国の成長の道は戦争と血なまぐささが充満したものであったが、そのおかげで政治上の統一は実現できた。秦帝国の開拓した国土は以降の歴代中原王朝の主体を構成し、中国統一の地理的基礎となった。これ(秦帝国)が存在した時間は短かったが、我が国の以降の歴史と当時の古代世界すべての生産に(※古代世界に誕生した都、かも)重要な影響を与えた。「秦人」と後の「漢人」「唐人」はどれも世界各国の人々が中国人を指す代名詞となった。

春秋戦国時代の早いうちから郡県制は頭角を顕わしており各国に期待をもって受け入れられた。春秋初期に秦、晋、楚などの国は新しく占領した土地を県を置いて改良し、内地(都)へ行き来しやすくした。国境防衛の必要が出て来て荒れた辺境の地には郡を置いた。歴史の推移に伴い郡と県は二段階の地方組織となり、秦が六国を統一した後はこの広大な領土を有効に管理するために古代の封建藩制度を廃して、この制度(郡県制)を全国に推進した。秦朝にははじめ36の郡があったがその後40あまりに増えた。郡には郡守を置き、中央がすべての郡を直接管轄下に置いた。郡守の下には郡守を補佐し軍事を司る郡尉と監察を担う監御史を置いた。各郡は毎年決まった時期に中央に郡の税収や人口統計、治安について報告させた。郡の下にはいくつかの県があり、(人口が)一万戸以上の県には県令を、一万戸未満の県には県長を置き、県下の百姓を治めさせた。県の下にはいくつかの郷があり、郷の下には里、亭、郵があった。

このような広い国土を統治するために、秦始皇帝は巨大な軍隊を作った。それは中央常駐軍と地方武装軍からなる。中央常駐軍は皇帝自らが選んだ大将に都を守らせ、地方を守らせた。地方武装軍は郡尉が指揮をとった。当時の秦帝国の防衛の軍隊は80万人以上、全国の軍人の数は100万人以上と言われる。

秦王朝の領土の外側では、匈奴が陰山より北の蒙古高原に興り、東や西へと勢力を広げつつ南下の準備をしていた。烏孫、月氏は河西回廊に住み着いた。今の新疆およびその西の地区には数十個のオアシスを中心とした小国が誕生し、青蔵高原と雲貴高原には羌人部族が暮らしていた。

*  *  *  *  *

表面下部。

『都市図解』
秦孝公12年(紀元前350年)、函谷関から東へ進出し中原に鼎の軽重を問う(天下を取る、の意味)ために、都城(首都)を櫟陽から渭水の畔へ遷した。これこそが洋々たる渭水が育み繁栄を極めた咸陽城であり、覇気に満ちた秦王朝を造り上げた。この新都城は九嵕山の南で渭水の北にあり、「山河に陽(光)あり、ゆえに咸陽と名付ける」とある。咸陽城は広大で(家や施設が)散らばっており、中心街の周囲に多くの離宮や別荘が点在している。文献の記載や考古学の調べによれば、城址は咸陽市秦都区の東の長陵駅付近にあったと言われる。咸陽の宮殿は以下の三つに分けることができる。渭北部、渭南部、六国宮殿部である。渭北部は秦に咸陽の都が建立された時のもっとも早い時期の宮殿区で、冀闕と咸陽宮を含み、商鞅ショウオウが作らせた。法家の商鞅は実用的なものを求めたため、これらの宮殿は比較的簡素に建てられた。渭南部は秦の庭園で、後にも拡張されてない。興楽宮、信宮と未完成の阿房宮がある。秦王嬴政エイセイは全国統一のための戦いの間、一国を破るごとにその国をまねた宮殿を咸陽の北阪に建設した。これが「六国宮殿」である。これらの宮殿は18里の高さにあり、そこから下を見れば全域を見下ろすことができた。

*  *  *  *  *

→インデックス
大兵馬俑展の物販でちょっとあやしげな中国人のお父さんが売ってた地図を買いました。


「图说中国历史・秦」中国地图出版社 www.sinomaps.com
 2014年1月初版 2016年4月第2版

多分現地の秦始皇帝陵博物館で売ってるお土産じゃないかな。
中身は中国語(簡体字)で、始皇帝時代~楚漢戦争(いわゆる「項羽と劉邦」)の歴史の簡単な解説がついてました。

中国語は外来語も漢字で当てるので、地名見てるとすごくおもしろい。
たとえばインドの方は、

孟加拉(me4ng jia1 la1)…カタカナ表記では「メンジァラ」これバングラディシュ。つかベンガル湾のベンガルってバングラディシュの事だったのかと今更気付いた。
尼泊尔(ni2 po1 e3r)…「ニープォァル」ネパールですね。尔はカタカナで書くとアルですが、"r"(巻き舌のル)の音を使いたい時に繁用されるみたい。
加尔各答(jia1 e3r ge4 da1)…「ジァァルガダ」カルカッタ。加の発音は普通話だとジァだけどもしかしたら南の方ではカなのかもしれません。
新德里(xi1n de2 li3)…「シンダリ」ニューデリー。ニュー(New)の部分は意味通りなんだ…。

モンゴルの方

贝加尔(be4i jia1 e3r)湖…「ベイジァァル」。バイカル湖。
伊尔库茨克(yi1 e3r ku4 ci2 ke4)…「イァルクツカ」イルクーツク。
乌兰巴托(wu1 la2n ba1 tuo1)…「ウランバトゥオ」ウランバートル。

日本

漢字文化があるので当て字はありません。
中国から見ると日本は諸島。北海道島、本州島、九州島のようにみんな島ってついてるw

東南アジア

菲律宾(fe1i lv4 bi1n )…「フェイリュイビン」フィリピン。
马尼拉(ma3 ni2 la1)…「マニラ」そのまんまマニラ。
文莱(we2n la2i)…「ウェンライ」ブルネイ。文の発音は南の方ではブンのような"b"の音が入るのかもしれません。
斯里巴加湾(si1 li3 ba1 jia1 wa1n)市…「スリバジァワン」バンダルスリブガワン(Bandar Seri Begawan)。ブルネイの首都。Bandarに相当する部分無いのね。
马来西亚(ma3 la2i xi1 ya4)…「マライシイァ」マレーシア。
印度尼西亚(yi4n du4 ni2 xi1 ya4)…「インドゥニシイァ」インドネシア。

*  *  *  *  *

#2 王朝図解、都市図解
#3 政治(上)
#4 政治(下)
#5 軍事(上)
#6 軍事(下)
#7 文化芸術
#8 経済と社会生活(上)
#9 経済と社会生活(下)
#10 歴史上の人物
#11 逸話(上)
#12 逸話(下)
ついで借りにドニー・イェン(甄子丹)主演のアクション映画を。

「スペシャルID 特殊身分」(2014年 原題「特殊身份/Special ID」 監督/クラレンス・フォク 主演/ドニー・イェン」
99分
スペシャルID 特殊身分 [DVD]/バップ

¥4,104
Amazon.co.jp

――憧れの警察官になったが暴力ですぐにクビになり、代わりに潜入捜査官として香港マフィアに出入りしているロン。マフィアの一派ホンのブツをアメリカ帰りの若手サニーが横取りして逃げるという事件が起こり、ロンはホンからサニーを追えと命じられる。一方で警察からもサニーを殺人容疑で捕まえるよう密かに指示されるが――(略)

う、うん・・・なんだこれ。
ツマンネーんだけども、最後まで観ちゃった!(>_<)

話はありがちでキャラも安いし、ハリウッド的な暴力とカーチェイスにやっすい恋愛をトッピング、アホでも解る親切設計。笑いなしの香港アクション映画でとってもアメリカ臭がぷんぷん。主人公のマザコンぶりはもっと中国っぽければ違和感もなかろうに、妙にアメリカちっくなので親子でベタベタしててキモい。
これはもうアクションだけ見ろと割り切って欲しい。
ところがそのアクションは、カンフーや中国武術は一切なくてただのケンカ。ボクシング系でとにかくボッコボコに殴る。技術的な凄さではなくただの暴力を描いてるので、ケンカ好きでなければ見ててもそんな楽しくないと思う。

まったく駄作一直線なのに、最後まで見てしまった、当たり外れで考えた時に外れと引き分けで迷ってしまったのは、ひとえに
ドニーがカッコイイからです!!!
あかんやろ、こんなん卑怯や!ってくらいカッコイイ。マザコンなのを除けば。
その長身、肉体美、見てるだけでおばさんウットリ・・・(*´Д`)=з

ドニーのファンにはまぁおすすめ。彼に興味ない場合は確実に駄作になります。
…こんなアホの役じゃなくバシィッと決まる強くて賢い役やってほしいなぁ。


TSUTAYA DISCAS
28勝21敗4引分け。
国立国際美術館の「始皇帝と大兵馬俑」展を見てきました。


文字通りの兵馬俑の展示だけかと思ったら、前半は春秋・戦国時代の陶器、出土品をバラエティ豊かに紹介。秦国を基点に紹介してるものの、特に始皇帝や秦のものに限らず当時勢力を誇った魏や楚、巴・蜀、北の部族の西戎など、その土地の特色をわかりやすくまとめた展示となってます。
なめらかで美しい丸みをもつ陶器の数々は、その表面に人の手でとは思えないくらい微細で機械的な模様がびっしり刻み付けられていて、とても2000年以上前のものとは思えない!
玉(ギョク)という宝石や青銅をはじめとする金属の加工技術の凄さ、それらを装飾品として、または権力の象徴として愛でた当時の人々の事を思うと、2000年の時が流れても人は変わらないんだなと、太古の人々に妙に親近感を覚えます。

そして後半は広い室内にどどどどん!!と等身大兵馬俑が並ぶ!
写真で見るよりもずっと大きくて、等身大とはいえバランスよく立たせるためにも脚部はがっしりとして姿勢よく、その表情は実直そうに口元は引き締まっていて、思った以上に迫力がありました。これが陶器だとはにわかに信じられない。こんなのが田舎の地面の下から何千体も出て来るって光景はちょっとしたホラー(^▽^;)
人だけでなく馬や馬車もあって、1/2スケールの馬車(レプリカ)も全てが陶器だと考えると凄すぎて凄すぎて…手綱まで忠実!

太古の時代とは思えない技術力の高さと、それを作らせた始皇帝の権力の大きさに驚くばかりです。この兵馬俑1体作ってどのくらい給料貰えたというのだろう…多分そんなに時間も与えられてなかっただろうに。たとえ恐怖政治だったとしてもこれだけのものを作らせるためにはそれを指示する人への給料または信頼も充分ないと統制とれないし…沢山の人を動かせたその力の源は一体何だったんだろう。

最後に兵馬俑のレプリカが並ぶ撮影コーナーがあります。

等・身・大!


一体一体顔が違う。
兵馬俑は、それまで王の死後あの世での世話係として従者が生き埋めにされてたのを人形で代わりとしたものらしいし、始皇帝のお気に入りの小姓とか部下がモデルかもしれませんね。


特別展・始皇帝と大兵馬俑
7/5(火)-10/2(日) 国立国際美術館
始皇帝が主人公(?)の漫画の原画展コーナーが併設されてました。そちらは無料です。

国立国際美術館
駅からは遠いので市バスをおすすめします。