中国土産を解読する-図説中国歴史・秦 #10 | あさひのブログ
中国現代語に親しむための翻訳練習です。

「图说中国历史・秦」
中国地图出版社 www.sinomaps.com
 2014年1月初版 2016年4月第2版

表面。

『歴史上の人物』
嬴政エイセイ(紀元前259年~紀元前210年)
すなわち秦始皇帝であり、紀元前246年~紀元前210年在位した。紀元前238年に自ら政治を執るようになってから、臣下だった嫪毐ロウアイと呂不韋リョフイから権限を取り上げた。紀元前230年~紀元前221年、東方の六か国を滅ぼしていき、我が国の歴史上初めての統一された中央集権制の国家を建立した。その後彼は最高統治者としての称号「皇帝」を確立し、その無限の権力をうたって封建制度を廃し郡県制を敷き、全国すべての土地は皇帝のものだと知らしめ、文字、貨幣、重さや長さなどのはかり、車幅を統一し、長城を修築し、馳道を建設し、焚書坑儒を行い、後の世に大きな影響を残した。彼は残虐で贅沢好きで、晩年は趙高チョウコウを信じ切ってまかせており、彼の死後趙高が権力をほしいままにし太子(後継者)を変更したことが秦朝の滅亡を早めた。

李斯リシ(?~紀元前208年)
楚の上蔡の出身で、戦国時代末期に秦にやってきた。紀元前237年(秦の)王室貴族が客卿(※外国人の大臣)を排斥し外国人を追い出そうとした際に、彼は上奏書をもって諌めようと、かの名著『諫逐客書』を書き秦王政しんおうセイに採用された。この後次第に(皇帝の)信用を得て、廷尉に昇進、六か国統一後には丞相に任じられた。彼は封建制の廃止と郡県制度の執行、『詩経』『書経』の焚書、私学を禁じることを提案し秦始皇帝に採用された。また篆書を標準とさだめ文字を整理した。彼は早いうちに嫉妬から韓非カンピを排斥し、秦始皇帝の死後は趙高と謀って秦二世皇帝を立てたが、その後趙高に殺された。李斯は有名な書道の名家であり、泰山や琅琊などの地の石に刻まれている文字は彼の直筆のものだと言われている。

陳勝チンショウ(?~紀元前208年)
字(あざな)は渉、陽城(現在の河南登封の東南)の出身で、秦末期に農民蜂起のリーダーとして立ち上がった。彼は漁陽へ出征させられた際に途中で雨にあい「失期当斬(時間切れで死刑)」となり、呉広ゴコウと蘄県の大沢郷で蜂起した。また「王侯も将軍も大臣も立ち上がれ」というスローガンを打ち出した。陳県(今の河南淮陽)に張楚政権を立てた。だが後に秦の将軍章邯ショウカンの反撃に遭い、失敗して敗走、裏切り者の庄賈ショウカによって殺害された。

項羽コウウ(紀元前232年~紀元前202年)
名は籍、字は羽、下相(現在の江蘇宿遷の西)の出身。秦末期の農民蜂起のリーダーで、楚国の貴族出身。秦二世皇帝元年(紀元前209年)、叔父の項梁コウリョウについて呉(今の江蘇蘇州)で蜂起した。巨鹿の戦いにおいて秦軍主力に大ダメージを与え大きな功を建てた。秦の滅亡後、自ら西楚の覇王として立ち封建制をよみがえらせた。楚漢戦争では劉邦リュウホウにやられ、垓下(今の安徽霊壁の南)へ逃げ烏江(今の安徽和県の東北)で自殺した。項羽は鉄骨錚々、その勇猛さは古今無双、戦場においては向かう所敵なしであったが、政治上ではとても幼稚で感情に流されやすく、ついに烏江で自刎し若くして命を落とすこととなった。彼は後の世に崇められるようになった、古代の有名な悲劇の英雄である。

胡亥コガイ(紀元前230年~紀元前207年)
すなわち秦の二世(皇帝)であり、秦朝の第二代皇帝である。趙高の扶助で公子扶蘇こうしフソに取って代わり皇帝に即位し、紀元前210年~紀元前207年在位した。彼には父親である秦始皇帝のような雄才や偉大な計略はみじんもなく、しかし残虐で贅沢好きな所はさらに上を行った。統治期間は趙高に全権を預けた。阿房宮と馳道の建設を継続し、徴税と服役はさらに頻繁に重ねられた。まもなく陳勝と呉広の蜂起が爆発的に起こった。後に趙高によって自殺に追い込まれた。

張良チョウリョウ(?~紀元前186年)
字は子房、城父(今の安徽省亳州)の出身と言われている。祖先は遡る五代がみな韓国の官吏で、韓国の貴族であった。秦朝が韓国を滅ぼした後、彼は国の再興を図り刺客と交わりを結び、博浪沙(現在の河南省原陽)で秦始皇帝を刺殺(しようとした)。刺殺は果たせず、下邳(現在の江蘇省邳県)あたりに逃亡し、黄石公に会い彼の『太公兵法』を伝授された。秦末期の農民戦争中、彼は率いていた仲間と共に劉邦の麾下に入り、劉邦軍の知恵袋となった。特に、楚漢戦争においては六国の跡を継ぐ英布エイフ、彭越ホウエツ、韓信カンシンらが(呼びかけても)やってこないことに策略を提示し、また項羽を追撃する際にも楚軍を徹底的に潰すことを主張した。そのため劉邦の最後の勝利の隠れた汗馬の功労者である。劉邦は彼を賞賛し「作戦は本陣の中で立て、勝利は千里の外で決める」と言った。漢朝建立後はその功をもって留侯に封じられた。

韓信カンシン(?~紀元前196年)
淮陽の出身で初めは項羽の下についたが後に劉邦に帰属した。楚漢戦争時、劉邦と項羽が滎陽、成皋の間でにらみ合いを続けていた際に、彼は軍を率いて項羽の背後を取り黄河下流域を占領した。非常に名高い戦功を上げたため、劉邦は彼を斉王に封じざるを得なくなった。漢朝建立後は当時の勢力としては最も強大な地方をもらい受け勢力をほこった。後に叛乱を謀ったとして淮陽候に降格。まもなく呂后リョこうによって殺された。彼は『兵法』三篇を著したが、後に失われてしまった。

虞姫グキ(?~紀元前202年)
帳の下で美しい人(※虞姫の事)が涙を拭う、
門前の兵士らの士気は雲のよう(に散っていく)
こんな(追い詰められた)時にも君王(※項羽の事)の気持ちは負けぬ、
ただ虞姫と鄭君(※項羽の忠臣)さえいるならばと。
 ――蘇軾『虞姫墓』

姓は虞だとも、あるいは名が虞だとも言われる。項羽の愛人で、出征時にいつも連れて行った。項羽が垓下で劉邦軍に包囲され、彼女は項羽と共に歌ったという、後世に伝わる歌詞がこれだ「漢兵はすでにこの地を政略し、四方から楚の歌声が聞こえる。大王の意気がくじかれてしまったら、わたくしはどうして生きていけましょうか。」

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