新・迷って、悩んで、でも笑ったりもして…。 -5ページ目

新・迷って、悩んで、でも笑ったりもして…。

不惑の40代などと言うものの、40代になってから「踏んだり蹴ったり」、「弱り目に祟り目」な日々…。
あれから幾年過ぎ、日々の一喜一憂を好き勝手にほざいてる次第です。

前スレッドでは、期間限定特別展「東京六大学野球連盟100周年記念展」に関して記したが、今回は野球殿堂博物館内の常設展示エリアから幾つか紹介します。

 

すぐに圧倒されるのは、プロ野球12球団のユニフォームと現役選手に関する用具の展示。

セントラル・リーグ。

パシフィック・リーグ。

 

タイムリーなところでは、今年殿堂入りした4名に関する品々。

イチロー氏、岩瀬仁紀氏、掛布雅之氏、富澤宏哉氏。

富澤氏は通算3775試合ものゲームを裁いた名審判。

 

そして、今年残念ながら鬼籍に入られた長嶋茂雄氏のジャイアンツ現役時代の品々。

同じくジャイアンツで長嶋と並ぶスターだった王貞治氏がなんと!バッティング練習で使用した日本刀!!

 

来春開催されるWBCですが、歴代の侍JAPANのユニフォーム。

記憶に新しい2023年優勝のトロフィー!

その立役者の大谷翔平選手とヌートバー選手のユニフォーム。

ヌートバーのところにペッパーミルも置かれてるのが可笑しい。

そして、現ロサンジェルス・ドジャーズでの大谷のユニフォーム。

北海道日本ハムファイターズ時代のも。

 

同じく、日本野球からメジャーで活躍したイチローのも。

 

変わったところでは、東京ドームの天井に入ってしまったボール達も!(笑)

松井秀喜、大谷翔平、岡本和真の3人のボールに、ちゃんとサインも入って展示。(笑)

 

プロ野球のみならず、学生野球、社会人野球、女子野球に関するものも展示してある。

懐かしい試合映像も上映されており、野球殿堂博物館なかなか面白いです。

野球好きな方は、一度は訪れて損は無いです。

 

 

 

 

3連休でしたが、皆さんはいかがお過ごしでしたでしょうか?

わたくしは全日仕事…。(と言ってもフルタイムではないのですが)

で、このままでは、ちと寂しいので、本日午前仕事後にこちらへ向かいました!

「野球殿堂博物館」です。

以前、当ブログでも紹介した特別展示「東京六大学野球連盟100周年記念展」へ行って参りました。

野球殿堂博物館も思えば12年ぶり2回目。

あの頃は、入場料500円(大人)でしたが、今は800円。

常設コーナーを回った後、企画展示室へ。

今年は春季大会に行けたが、現在開催中の秋季大会は行けてない…。

本当は4日(土)に行くつもりだったが、雨天でついつい尻込み。

行ってれば、来季から東京ヤクルトスワローズGMアシスト職に就くエイオーキ!こと青木宣親氏(早稲田大学)の始球式や、東京大学が慶應大学に勝利する奇跡的場面も観れたのに…。

さてさて、今回の特別展示ではこれまでの東京六大学野球にまつわる新旧様々な物が展示されていた。

こちらで全展示物リストが載っています。

まずは、東京六大学野球100年前のその黎明期の話。

実は、さらに18年遡る、118年前(1903年)に初の早慶野球試合が行われていた。

早稲田大学から慶応義塾大学に試合の申し込みをしたのが始まり。

上掲画像はその書簡の複製。

そして、同館の常設展示の方には、慶應からの返信書簡もある。

ところが、まだ明治時代の豪放大学生の応援の過熱から両校の試合が中止となってしまった。

しかしながら、100年前の1925年に、早稲田、慶應、明治、法政、立教、東京帝国(現東京)の各大学によって東京六大学野球連盟が発足し、現在に至っている。

 

これまでの歴代順位表。

その六大学の新旧ユニフォーム。

まずは、早稲田大学と慶応義塾大学。

明治大学と法政大学。

そして、立教大学と東京大学。

 

他に各大学にちなんだ展示物がガラスケース内に収められていた。

早稲田大学。

高梨雄平投手(現ジャイアンツ)2013年の完全試合のウィニングボールなどがあった。

 

慶応義塾大学。

こちらは、高橋由伸(元ジャイアンツ)のリーグ記録の23号ホームラン時のバットとボールが!

 

明治大学。

こちらでは、高山俊(元タイガース)の128安打新記録時のバットとボールも。

 

法政大学。

こちらには、“昭和の怪物”江川卓の当時のサインボールなどが展示。

 

立教大学。

あの長嶋茂雄の、当時記録だった通算8号本塁打時のバットなどが展示。

 

東京大学。

ここは何と!かつてノーヒットノーランを達成した時のスコアブックなどを展示。

 

他にも、1926年秋から43年まで優勝杯として下賜されていた東宮賜盃が82年ぶりに公開され、天皇杯、連盟杯、優勝旗、明治神宮杯、アメリカ大使杯、NHK杯の優勝カップ、等々が展示されています。

 

「東京六大学野球連盟100周年記念展」は、11月24日(月・振休)まで、野球殿堂博物館 企画展示室にて展示されています。

ご興味のある方は訪館してみて下さい。

 

次回は常設展示の方を紹介します。

 

 

過日、池袋で会食した後、知人と2人で2件目として向かったのが「サン浜名」さん!

この何とも言えない看板の奥の階段を昇った2階にある。

相変わらず、雑多な風貌の店内。(笑)

今回は、店内盛況で客が多く撮影は自粛…。

店内の雰囲気は、昨年末の初訪問時のものを見ていただければと…。

 

こちらの店主は阪神タイガース贔屓。

セリーグ優勝おめでとうございます!

いや、圧倒的に強かったです。

ちなみに、1階にも和食・定食の「サン浜名」が有り、そちらは弟さん(?)が経営しており、そちらの店主は東京ヤクルトスワローズ贔屓らしい。(まだ、1階にはお邪魔出来てない)

 

この日は、ビールとチューハイ系をそれぞれ2~3杯飲み、つまみとしてまず「もやし炒め」。

それと「ウインナー炒め」。

出てきたら、お店の娘に「ウインナーが2本しか残ってなかったので、ベーコン足しておいたのでご勘弁を」と言われる。(笑)

2次会なので、もう腹も満たされてるし、アルコールもそれなりに入っているので、気にせず。

最後に〆の「五目ラーメン」を頼んでシェアした。(写真撮り忘れた…)

2人で酒代含め2000円台で済んだじゃなかったかな?安っ!!

 

こちら2階の「サン浜名」はかつて「マツコの知らない世界」や「モヤモヤさまぁ~ず2」、「町中華で飲ろうぜ」にも紹介された。

深夜2時くらいまでは営業しており、休みは主人の気分次第らしい。(笑)

よろしければ「サン浜名」お立ち寄りください。

 

 

 

 

 

 

昨日、うちに詐欺電話がかかってきた。

自分が仕事で外出中に家の電話が鳴り、家族が取ったとの事。

自分のフルネームを言い、東京医科大学病院を名乗ったそうだ。

自分も齢なので医者へ行く事もたまにある。

家族もひょっとして病院へ行ったのかな?と思ったらしく、話を聞くと、家族の属性を尋ねられ、そして何度も親御さんを電話口に出して欲しいと言ったらしい。

そこまで来ると、さすがに家族も怪しく感じ、「本人と連絡して電話させるので、電話番号、所属部署、氏名を教えてくれ」と言うや、電話を切ったそうだ。

 

思えば4年前に、老母が一度詐欺電話に対応して、自分の名を知らしてしまった。

4年を経て電話してくるとは用意周到。

 

改めて家族には、自分の名を言ってきたら、警察を名乗ろうが、病院を名乗ろうが、役所を名乗ろうが、企業名を名乗ろうが、「そんな人はいない」or「死んだ」と言うように言い聞かせた。

もう20年くらいは、連絡先は携帯番号しか書かないし、本当に用があるなら何度も続けて電話も来るだろうし。

皆様もどうぞお気をつけ下さいませ。

 

 

 

 

 

まだ、あのハリウッド映画がトーキー(無声映画)の頃、3人のコメディ俳優が人気を博した。

1人は言わずもがな喜劇王のチャールズ・チャップリン、そしてロイド眼鏡の呼称の元となったハロルド・ロイド、あと一人が決して笑わない(感情を顔に出さない)ストーン・フェイスのバスター・キートン

チャップリン、ロイド、キートン、とみな身体を張って笑いを作るタイプ。

(と同時に監督、脚本、制作も全員がこなすマルチな才能)

それが、もうスタントマン、アスリート、と言えるレベル。

とにかく身体能力が高すぎる!

短くまとめたキートンの名演の映像があるので観て欲しい。

どうですか?!

今では、CGで幾らでも出来るが、1920年代~30年代の事ですから、本人がやりきるしかない。(着色されているが、元はモノクロ・フィルムです)

 

バスター・キートン、1895年10月4日アメリカ生まれ。

なので、本日が生誕130周年の記念日。

舞台芸人の両親の第一子として生まれ、4歳から両親と一緒に舞台に出る生活を送る。

しかも、父親がキートンをぶんぶん振り回したり、思い切り投げ飛ばしたり、かなり乱暴に扱う芸で、しかし痛い怖い泣くと言った表情を一切表さないでいるという芸風をしこまれ、それが前述の無表情なキャラクターとして最後まで続くのだった。

1917年、初めて映画に出演してから、そのキャラクターが受け、一躍トップスターとなる。

成功と富を手にするも、大金が入ると家族や妻の一族までもが、キートンの金で贅を尽くすことになり、キートンは次第に心の拠り所を失い、飲めなかった酒に手を出しアル中となってしまう。

その後、介抱してくれた看護師と結婚するも財産が無くなるや彼の元を去る。

おりしも映画は脱トーキーの時代に入り、キートンは居場所を失う。

しかしながら、彼の映画のファンだった若いダンサーが彼と結婚し、支えてくれるようになる。

1950年代になると、また映画へのオファーや、キートンのかつての映画の再評価も上がり、同時代の喜劇王であるチャップリンと「ライムライト」(1952年)で初共演。

映画自体、老いて時代とかみ合わなくなってきた芸人の映画でもあり、面白いながらも切ない作品。

その2人の共演シーンがこちら!

 

バスター・キートン生誕130周年の機に、YouTubeでも多くの作品やダイジェストもあるので、よかったら探して観て下さい。