今日の日本の外務省は、アメリカ一辺倒で事足りていた冷戦時代のお手軽で安逸で極楽とんぼのおめでたい世界観と依存心を、今だに引きずっているせいか、はたまた、戦前の陸軍省、海軍省から尾を引く「組織防衛を第一義とする」〝組織大事〟の愚か極まる噴飯ものの忌むべき縄張り意識と因習に囚われているせいか、あるいは、個々の官僚の間で、保身と怠惰と無教養と世間知らずと事なかれ主義が蔓延しているせいなのか、選民意識とプライドばかりが目立ち、「この国の最前線に立って、この国の国民と国益を守っている」という自覚と自負と責任感が、まったく欠如しているように思える。
このように、「定められた規則に従って仕事をしていれば、それで、公僕としての義務を果たしているのだ」「諸外国に対しては、前方位に、文句も言わずに、ひたすら友好的にやっていれば、それが外交だ」「ともかく、アメリカに従っていれば日本は安全なのだ」と大きな勘違いをしている、軍事オンチで、国際感覚に乏しく、安易に流れることしか知らない〝ふやけきった〟外務省の存在は、この国の国益に完全に反する弊害の大きい組織なので、とりあえず解体した方がいいのではないだろうか。
今、日本国に必要なのは、急変する世界情勢の中、世界を知り尽くし、人間性というものを熟知した深い見識を持ち、この国の尊厳を守りうる哲学を内に秘めつつ、この国の安全保障を維持する透徹した確かな戦略を構築して、常に国家と国民のために〝戦う外務省〟である。


日本人は、一般に、説明下手で、パフォーマンスに乏しく、人に訴えかける能力と堂々たる論戦能力に乏しく、「国を挙げての情報戦や宣伝戦が国運を左右する」という切迫した重要性の認識に欠ける。しかし、風雲急を告げる今日の国際関係の中で、外務官僚までが、そうであっては、この日本が滅びる。
今、この国の生存のために、外交に求められているのは、この国の存在価値に対する深い認識に基づく日本独自の立場と価値観を打ち出し、精神的、理念的、政治的、経済的、軍事的な自立の方向性を、しっかりと定めつつ、現実的な外交使命を果敢に遂行することである。そして、そのために、寄与できる有能な外交官を、我々は切実に必要としている。
外務省は、日本の国益のために、どのような情報戦を展開しているのか、各国のプロパガンダにいかなる戦略で抗しているのか、ほとんどわからないし、まったく目立たない。
「沈黙は金」というのは、世界一の礼節の国である日本の中でしか通用しない優等生の態度なのだ。しかし、一筋縄ではいかない群雄が割拠し、ならず者どもひしめく外交の世界で、この国が生き残りを賭けて戦っていく上で必要なのは、責任回避の怠惰な沈黙ではなく、トランプのような『国力を背景とした戦略的饒舌』である。


今の外務省には、そうした発想力も使命感も危機感も、まったく感じられない。世界第3位の国力を有する大国の外交が、これでは、ぜんぜんダメだ。話にならない。
国民の努力によって築かれた国力(経済力と科学技術)の上にあぐらをかき、また、安全保障はアメリカとの関係におんぶに抱っこの状態で、これまで、どれだけ恵まれた環境条件に守られてきたのか、どこまでも無自覚なまま、ただ、無為に時を過ごし、ふんぞり返っているのが仕事なのか?
私は、外務省のすべてを否定したいわけではない。しかしながら、国際環境の変化に対応した、この国の外交の方向性を、どのように舵取りしていくつもりなのか、その指針がまったく見えない現状では、この国の将来は、はなはだ心許ないと言わざるを得ない。
そうした危機意識を、外務省が強く認識し、抜本的改革に取り組むことを、一国民として切望するのみである。時間は、そんなに残されていない。
2019年6月30日、日本は、全分担金の1割にあたる2200万円を負担する最大の会費拠出国であるにもかかわらず、その日本に文句と罵声しか浴びせず、環境テロ団体シー・シェパードらとともに、日本の捕鯨を非難中傷し、総攻撃することしか知らないIWC(国際捕鯨委員会)から正式に脱退し、7月1日から、31年ぶりに日本の経済水域での商業捕鯨を再開した。
正直、脱退は、遅すぎたくらいだ。IWCは、今となっては、何の存在意義もない国際組織であり、世界平和のためには、かえって早期の消滅が望ましい。そして、日本の商業捕鯨再開は当然だ、と私は考えている。
しかし、そのような意見は、現代の国際社会では完全に少数派であることも確かだ。
ちなみに、現在、商業捕鯨を正式に認めている国は、日本のほかには、ノルウェーとアイスランドだけであり、その他、カナダとインドネシアも、IWCの規制の外で捕鯨をしているとはいえ、商業捕鯨ではない。
ノルウェーとアイスランドは、IWCに加盟してはいるが、日本と違って商業捕鯨の停止には同意していない。アイスランドなど、一度はIWCを脱退し、商業捕鯨モラトリアム(一時停止)を留保した状態で再加盟した経緯がある。
カナダは1982年にIWCを脱退して、先住民イヌイットの人たちの手で、伝統捕鯨(生存捕鯨)が続けられてきたが、国内の反捕鯨運動の波に押され、2019年6月30日、「クジラやイルカを含む鯨類の捕獲と繁殖を禁止する法案」が議会で可決され、先住民の生存捕鯨も水族館でのイルカの飼育も禁止となる見込みだ。
インドネシアは、もともとIWCに加盟していない。そして、インドネシアのレンバタ島のラマレラ村では、数百年続く、銛一本での伝統捕鯨(生存捕鯨)が、今も続けられている。
その他、グリーンランド(デンマーク領)、ロシア、アメリカ、セントビンセントの4カ国は、IWCに加わりながら、イヌイットなど先住民による生存捕鯨だけが認められている。
ちなみに、生存捕鯨と商業捕鯨の違いは、生存捕鯨では市場での取引が許されず、あくまでも自給自足の食糧としてのみ、捕獲が許されるということだ。捕獲した獲物を市場に流通させられないということは、職業としては成り立たない。
そこで、ノルウェーとアイスランドは、あくまでも採算性のある商業捕鯨にこだわってきたのである。そして、日本も、商業捕鯨の再開を悲願としてきた。
さらに言えば、本当は、アメリカやカナダのイヌイットの人たちも、商業捕鯨を望んでいるのだ。誰だって、自分の仕事を誇りとし、その仕事で稼いで生きていきたいのは当然である。ところが、アメリカ・カナダ国内では、白人層の捕鯨への拒絶反応が強く、グリーンピースやシー・シェパードら反捕鯨団体の活動も激しく、イヌイットは、彼らの人種差別的な無視と無理解に直面して、政治的勢力を持ち得ていない現実がある。
そうした中、アイスランドの捕鯨企業の一つは、2018年7月、採算が取れないことを理由に、ミンククジラ漁からの撤退を発表した。
前途はなかなか険しいが、ともかく、今回、日本が本格的に商業捕鯨に乗り出したことで、世界の商業捕鯨国は、ノルウェー、アイスランド、日本の3カ国に増えたわけだ。


これら本格商業捕鯨国3ヵ国のうち、上記したようにノルウェーとアイスランドはIWCに加盟しており、IWCの許可した捕獲頭数範囲内で商業捕鯨を行なっている。つまり、IWCを脱退し、IWCの規約に縛られない商業捕鯨国は、日本だけということだ。
そのため、特に、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、イギリス、オランダなど、主にアングロサクソン系・ゲルマン系の反捕鯨運動の激しい国々では、戦後、これまで、国際組織から脱退したことなど一度もない日本が、IWC(国際捕鯨委員会)を脱会したことに、懸念を示す報道もある。
しかし、今回、水産庁の規定した今年の商業捕鯨による総捕獲頭数は、7月1日から12月31日までの半年間で227頭と定められている。この頭数は、例年、日本が調査捕鯨で捕獲してきた頭数のおよそ半分くらいであり、妥当な頭数と言える。
現在、日本の捕鯨対象となっているクジラは、ミンククジラはじめ、すべて絶滅危惧種ではない。また、日本含めて、世界の捕鯨国の捕獲数は、鯨類の生物多様性に悪影響を与える規模ではない。つまり、日本の捕鯨は、何ら海洋生物環境に対する脅威にはなっていない。したがって、日本の商業捕鯨は、環境保護や生物多様性維持の観点からしても、完全に持続可能な状態であると言える。
ところが、これに対して、同7月1日、韓国の海洋水産部は、日本の商業捕鯨再開について「深刻な憂慮」を表明し、「われわれの水域のクジラ資源に影響を及ぼしてはならない」とする声明を発表した。つまり、日本のせいで、韓国の経済水域に生息するクジラの数が減ることを心配しているのだ。
また、6月30日には、イギリスのロンドンでも、動物愛護団体による日本の商業捕鯨再開反対のデモが行われ、50人ほどが集まって、東京オリンピックへのボイコットが叫ばれた。
一方で、2019年4月の内閣府の調査では、国民の68%が、今回のIWC脱退と商業捕鯨の再開を評価しており、また、以前から国民の約70%が、日本の沿岸捕鯨に賛成している。
今回は、この問題について考えてみよう。


日本の捕鯨数は、例えば2014年には調査捕鯨で年間475頭、「混獲」数が116頭で、合計捕獲数は591頭であった。2013年は654頭である。なので、今回、商業捕鯨を再開したからといって、クジラの捕獲総頭数が増えるわけではない。むしろ、現状では、国内の鯨肉の需要が減っているために、捕獲頭数も減り気味である。
また、これまで、日本の調査捕鯨は、南極海など遠洋で行われてきたが、今回、再開した商業捕鯨は、日本の経済水域内でだけ行われる。他国に文句を言われる筋合いはないわけだ。
では、何が理由で、反捕鯨国は、日本の商業捕鯨再開に反対しているのだろうか。そうした当然の疑問については、後ほど考えてみるとして、まずは、参考までに、捕鯨国各国のクジラ捕獲数を見てみよう。
日本と並ぶ捕鯨国のノルウェーは、2013年の数字だが、商業捕鯨によって年間捕獲数は594頭であった。また、デンマーク領グリーンランドは、生存捕鯨ではあるが198頭を捕獲した。そして、この年、韓国の報告した捕鯨頭数は53頭である。
実は、この韓国の53頭という数字は、世界7位のクジラ捕獲数なのだ。対する日本は、この年(654頭)だけでなく、毎年不動の一位であり、世界最大の捕鯨国として知られている。(また、日本は、ノルウェー、アイスランド産鯨肉の主要な輸入国でもある。)
ちなみに、直近の2017年度の年間捕獲頭数データでは、1位日本(783頭)、2位ノルウェー(432頭)、3位グリーンランド(153頭)、4位ロシア(120頭)、5位韓国(72頭)、6位アメリカ(58頭)、7位アイスランド(17頭)となっている。
さて、上記の捕鯨国ランキングのうち、1位日本は、このデータの時点では「調査捕鯨」国である。そして、2位ノルウェー、7位アイスランドは「商業捕鯨」国であり、3位グリーンランド、4位ロシア、6位アメリカは先住民による「生存捕鯨」国である。ということで、韓国以外の6カ国は、皆、公式の捕鯨国として認知されている。


ところが、上記のクジラ捕獲数ランキング上位7カ国のうち、5位の韓国だけは、国家として、韓国政府の法令によって、捕鯨は全面的に禁止されている。だから、調査捕鯨も商業捕鯨も、公式には一切行なわれていない。もちろん、先住民生存捕鯨枠などもない。つまり、韓国は、公式に認知されている捕鯨国ではないのだ。
したがって、上記の53頭とか72頭という捕鯨数は、無許可の違法操業として、当局(韓国海洋警察)によって摘発された「違法捕鯨」によるクジラ捕獲頭数である。
例えば、2011年度、IWCに報告された加盟89カ国の「違法捕鯨」摘発数は23件だが、このうち21件は韓国で摘発されたものであった。
つまり、韓国は、国家としては捕鯨を禁じているが、「違法捕鯨」件数では圧倒的に世界一(90%以上)という〝隠れ捕鯨大国〟なのである。
この事実について、韓国の発行部数2位の大新聞「中央日報」論説委員は、「違法捕鯨の摘発数が多いのは、韓国が近海捕鯨禁止の国際約束をきっちり守ってきたためであり、我々が取り締まりを徹底してきた証拠だ」と述べている。これが〝氷山の一角ではないか〟という懸念は感じていないらしい。
しかし、実際には、違法捕鯨で摘発されても、刑は比較的軽く、初犯で2ヶ月、再犯でも懲役一年で出てこられるので、海洋警察が、いくら厳しく摘発しても、捕鯨の違法操業は後を絶たない。銛で殺したクジラは、網で海中に沈めたまま運ぶので、取り締まりは至難技で、表面に発覚した事例は、実は〝氷山の一角に過ぎない〟というのが、現場、海洋警察の見方だ。
その上、警察は、没収した鯨肉を、数ヶ月後には、業者に返却しているという事実も発覚している。これでは、取締りというより、警察もグルではないか、と思われても仕方がないだろう。
また、摘発される危険を冒してまで、漁師の間で違法の密漁が横行しているのは、それだけ、「韓国ではクジラの需要がある」ということでもある。事実、クジラ需要は、日本より韓国の方が大きいようだ。
2018年8月、韓国の輸入業者が、サメと偽って鯨肉を日本から密輸し、韓国内の鯨料理専門店に販売したことで書類送検された。韓国では、鯨肉の輸入が法令で禁止されている。
密輸の理由は、鯨肉の1キロ当たりの価格が、日本より韓国の方が3〜4倍高いために、差額で儲けようとしたのである。鯨肉の価格が高いのは、韓国で、それだけの需要があるからだ。
鯨肉の輸入も捕鯨も禁じられている韓国で、120〜140店舗ものクジラ料理専門店の営業が成り立っているらしい。その上、他にもクジラ料理を出す店は数多いと聞く。
年間53頭で、それらのすべての店に鯨肉が行き渡り、商売が成り立つだろうか?


そこから考えてもわかるように、韓国の53頭(2013)および72頭(2017)という違法摘発捕鯨数は、韓国のクジラの年間捕獲総数を、正確に表した数字では、まったくない。
実際には、例えば、「違法捕鯨」数とはべつに、韓国の2014年の合法的な「混獲」数は1849頭である。その1849頭という数から、韓国の公式なクジラ捕獲数は、日本の捕獲数591頭のおよそ3倍に当たると見る向きもある。けれども、韓国では、イルカ含めてクジラと考え、イルカとクジラを区別しないところがある。したがって、上記の数字もまた、イルカとクジラの年間総捕獲を合計した数字なのである。
また、韓国政府は、この「混獲」を、意図的な「捕鯨」とは認めていない。だから、韓国政府は、自国で水揚げされた1849頭分のクジラ・イルカの内、クジラ「混獲」数(100〜300頭)分すらカウントせず、「違法捕鯨」で捕まえた53頭だけをカウントして、海洋警察がIWCに報告しているのである。
ただし、上記の1849頭の中には、イルカだけでなく、鯨肉ではもっとも人気のあるミンククジラの混獲数もカウントされている。
その上、もっとも人気のあるミンククジラの混獲数が、年に80頭程度しかないと一部で言われていることから、実際の韓国のクジラの混獲申告数は、100〜200頭程度ではないか、という話もある。
そもそも、「混獲」というのは、誤って網にかかり、海の中で死んでしまったものをいう。その混獲された鯨も、実際には商業ベースで売られている。「網の中で死んでしまったものは仕方がない、偶然だ、わざとじゃない」と言うわけだ。
海洋警察に申請して、銛などによる外傷が認められず、「混獲」が認められると、クジラ流通証明書が発行され、鯨肉の売買が認められる。
日本の場合は、定置網によって「混獲」されたものに限って売買の許可が下りる。その他、船の網に引っかかった場合は、速やかに逃がすか、死んでしまった場合は、海に廃棄せず、自己責任で処分しなければならない。しかし、韓国では、トロール船など、船舶や地引き網での「混獲」であっても、死んでしまった場合には売買が認められている。
一方、オーストラリアなどでは、鯨類が「混獲」されると、その海域は禁漁水域に指定されて、網で魚を取ること自体が禁止されてしまう。漁師の生活より、クジラやイルカが大切らしい。
それにしても、この韓国の1894頭という鯨類(クジラ・イルカ)の「混獲」数は、どう考えても異常である。もっとも、上記したように、韓国には、クジラとイルカを区別する習慣がない。したがって、この1894頭という頭数は、クジラとイルカの混獲数を合わせた数字なのではあるが、それでも驚異的な数字である。
たとえ、その大部分がイルカであり、クジラの「混獲」頭数が100頭程度であったとしても、韓国の経済水域の狭さや日本との人口比を考えれば、かなり多い。
しかも、混獲の場合、たとえ絶滅危惧種の希少なクジラであっても、申請しさえすれば、商業ベースでの取引の許可が出るのだ。クジラを入手したい側にとっても、販売したい側にとっても、法律の抜け道となりやすいわけだ。
繰り返すが、韓国では鯨肉の需要は高い。例えばミンククジラ一頭が1100万円ほどで取り引きされる。漁師の間では、ミンククジラは「海の宝くじ」と呼ばれているという。
これは、どう考えても、「混獲という言い訳を〝隠れ蓑〟にした意図的な商業捕鯨」である。そう考えると、韓国のクジラ捕獲頭数は、例えば2017年度で、摘発された違法捕鯨72頭に加えて、混獲が100頭程度だったとしても170頭程度にはなる。
ちなみに、日本の場合、例えば2017年度の調査捕鯨783頭に混獲数120頭程度を加えると年間捕獲総数は900頭になる。


ところで、上記のように、もっとも食用に適しているミンククジラの韓国の「混獲」数は、年平均80頭ほどとも言われるのだが、実際に韓国の鯨肉店では年間240頭ほどのミンククジラが消費されているという。
つまり、公式に報告されている3倍の数のミンククジラが市場に出ているということだ。言い換えれば、韓国で消費されているミンククジラの2/3は、「違法捕鯨」の闇操業によって、申請せずに密かに捕獲されている可能性がある。つまり、上記の53頭とか72頭など、海洋警察に摘発されてカウントされたものは、クジラ密漁全体のごく一部であるということだ。
そういう違法〝闇捕鯨〟によるクジラ捕獲の総数は、推測の域を出ないが、おそらく、最低でも200頭程度は、銛を使用する密漁によって捕獲されていると思われる。ミンククジラだけでも、計算上160頭程度は密猟され、市場に流通しているというのだから。
そうすると、韓国のクジラ捕獲数は、どんなに少なく見積もっても、摘発頭数(50頭以上)、混獲(100頭以上)、密漁(200頭以上)を含めて、年350頭以上には達する。
また、ここ7年間で、韓国で「混獲」として申告されたクジラ・イルカ捕獲頭数は1万2818頭で、年平均1831頭(*)であることから、申告されていない違法操業による捕獲数も含めると、どんなに少なく見積もっても、最低でも年間2100頭以上の鯨類(クジラ・イルカ)が、韓国で捕獲されていると推測される。
そのように考えていくと、韓国のクジラ総捕獲数についても、年400頭、あるいはそれ以上という可能性が高く、日本(約900)、ノルウェー(約430)と並ぶ一大捕鯨国であることは否定できないだろう。
鯨肉料理専門店の数も、上記したように全国で120店以上と言われ、クジラ料理は韓国では、とても愛されているようだ。専門店以外でもクジラ料理を提供する店は多いし、料理の価格も日本より安い。例えば、クジラの赤肉のユッケや刺身にクジラ汁、さらにご飯と惣菜8皿ほど付いたクジラ定食が1800円程度で食べられる。
これも、鯨肉の流通量が多いこと、加えて、イルカの肉が鯨肉として売られているためもあるだろう。
そもそも、鯨類をイルカとクジラに分けて考えること自体、かなり、いい加減なものであるし、体長4m未満がイルカで、それ以上の大きさになるものがクジラというのも微妙な話ではある。
それでも、ミンククジラの鯨肉自体の卸売価格は、日本の3倍以上の値がつくのだから、韓国でクジラ料理が安いのは、イルカの肉を使用していることと同時に、国内で店VS店の価格競争が激しいためかもしれない。


矛盾するような言い方になるが、韓国は、表向きはIWC加盟の(模範的な?)捕鯨禁止国なのではあるが、実質的には世界の年間クジラ捕獲数の20%以上を占める世界第3位、あるいは、もしかすると第2位のクジラ捕獲国なのである。
さらに、鯨類の消費に関しては、人口が500万人余りしかおらず、国内消費量が少ないために、鯨肉の日本への輸出が多いノルウェーに対して、人口が10倍の5000万人もおり、鯨食文化が国民に根付いている韓国は、鯨類(クジラ・イルカ)の輸出が禁じられていることもあって、捕獲した鯨類をすべて国内で消費していることから考えて、間違いなく日本と並ぶ世界第2位のクジラ・イルカ消費国である。
それなのに、韓国政府も韓国のマスコミも市民団体も、長年に渡って、日本の捕鯨を非難する声明や日本批判報道を続けている。
活動内容は不明だが、シー・シェパードの韓国支部(2014年設立)すらあるほどだ。しかし、彼らも、韓国の捕鯨や鯨食文化を非難したり、捕鯨の町蔚山(ウルサン)のクジラ祭りなどに出向いて、韓国人を非難する反捕鯨デモを行ったという事実はない。
そして、韓国国民は、自国の市場でのクジラ流通量や混獲のカラクリや闇捕鯨の実態をほとんど知らない。なぜなら、韓国のマスコミは、自国のクジラ問題の真実を、ほとんど追求しようとしないし、韓国政府もまったく調査しないからである。〝臭い物に蓋〟〝自分に都合の悪いことは完全無視〟という状態である。
これは、慰安婦問題や徴用工問題に、非常によく似た現象である。
韓国政府は、日本のIWC脱退と商業捕鯨再開に憂慮を示す前に、自国の国内問題で、もっと気にしなければならないことがあるのではないだろうか。
実は、日本の方が、韓国に対して言いたいのである。「韓国漁民による闇捕鯨や意図的な混獲によって、我が国の経済水域における鯨類資源の減少を憂慮している」と。


さて、ここで話を戻すが、世界的な反捕鯨運動を推進しているのは、実は「動物愛護団体」である。つまり、捕鯨を〝クジラの虐殺〟と考え、「捕鯨は人道にもとる行為である」と非難しているのだ。
そして、韓国人は、相手に対して道徳優位性を失うことを、もっとも恐れる国民性を持っているために、国際社会から白い目で見られることを恐れて、「韓国は世界有数の捕鯨国である」ということを敢えて公表したくないのではないか、と私は思っている。
実際、韓国は、1986年にも、2012年にも、日本に倣って調査捕鯨に乗り出すと宣言したのだが、国際社会の激しい非難に抗しきれず、二度とも退いている。国際社会の多数派に対して、己を貫くことができず、つい長い物に巻かれてしまったのだ。
しかし、日本以上に鯨食文化が盛んであるようだし、それほど捕鯨がしたいなら、隠れて捕獲したりせずに、日本と力を合わせて、堂々と反捕鯨国と渡り合うべきであった。自国の食文化を庇護するという観点から、無教養で独善的で文化差別的な反捕鯨の主張に対して、真っ向から反論すべきだったのだ。国際社会と楽な妥協をして、偽りの道を選ぶのではなく、たとえ茨の道であっても、孤高であっても、嘘のない真実の道を歩くべきだった。
ところが、表向きは欧米基準の〝いい子〟になって、「私たちは捕鯨なんてしません」という顔をしながら、「知性を持つイルカやクジラを殺すなんて、日本人はなんて残虐なんだ」と驚き嘆く欧米人の差別主義者たちに同調して、日本を「非人間的な後進文化の国」と非難してきたのが現状である。こうして、己を省みない、あまりにも安易な日本叩きに興じつつ、正義の側に立つ愉悦を感じてきたのではないだろうか。
韓国人の観念的な正義は、常に、現実と激しく齟齬をきたしている。このギャップは、本音と建前というレベルではなく、はっきりウソだと言っていい。
もう、嘘をつくのはやめてはどうか、と思うのだが。


ところで、世界のイルカ捕獲数のベスト5は、2017年度統計で、1位グリーンランド(3162頭)、2位日本(2361頭)、3位韓国(1279頭)、4位イギリス(21頭)、5位ニュージーランド(18頭)である。
世界計は6891頭であり、そのうち98%が、グリーンランド、日本、韓国の3カ国で捕獲されている。
デンマーク領グリーンランドでの捕獲量には、追い込み漁で有名なフェロー諸島での千数百頭の捕獲も含まれている。
また、人口比で考えれば、日本と韓国の捕獲数は同じである。
イルカは、同じ鯨類であっても、IWCの管理の対象外であるので、日本でも韓国でもイルカ漁は国際的な規制に縛られることなく自由に行われている。
とは言え、韓国の国内法では、イルカ漁は禁じられている。また、韓国の場合、混獲頭数は、クジラ同様にカウントされていない可能性もある。そうすると、上記の1279頭は、違法イルカ漁の摘発頭数ということになる。
しかし、それも考えにくいので、イルカの関しては、摘発頭数に加えて混獲頭数もカウントしているのだろう。ただし、当然だが、摘発されなかった密漁の分はカウントできない。イルカの密漁は、摘発されている分だけで、年間100頭程度はある。実際の密漁頭数は、おそらく、その3倍は下らないだろう。この摘発頭数(100)と密漁頭数(300)を混獲数(1279)に加えると、実際のイルカ捕獲数は、1700頭余りになるのではないだろうか。
しかし、不思議なことに、韓国では、自国で、こうした密猟や混獲という名のイルカ漁(?)が、大規模に行われていることは、一切報道されない。それどころか、日本大使館前では、環境保護団体が、「残酷なイルカ漁をやめろ!」と度々、抗議のデモンストレーションをしている。
韓国政府も、動物愛護団体の抗議を受けて、和歌山県の太地町から、韓国の水族館が購入する予定だった生体イルカの輸入を禁止した。「非人道的な追い込み漁で確保したイルカを買ってはならない」ということらしい。
実に、奇妙な話である。どうも、彼らは、国内で、人口比で考えると、日本と同等以上の量のイルカやクジラが捕獲され、食べられていることを、全く知らないらしい。
捕獲数をかんがえても、2017年度の日本のクジラとイルカを合わせた鯨類総捕獲数は、およそ3100頭だが、韓国の鯨類総捕獲数は、推定で、およそ2100頭である。やはり、人口比で考えると同等と考えてよいだろう。
この状態で、なぜ、韓国人は、日本大使館の前で、鯨類捕獲反対の抗議運動ができるのだろうか?


和歌山県太地町と同じく、沖縄でも、本島北部の名護市は、1980年代までは、捕鯨船の基地でもあり、さらに、大規模なイルカ追い込み漁が有名であった。イルカ漁の日には学校も休みになり、老若男女が棒を手に名護湾に結集して、町を挙げて行われていた一大イベントだった。
名護市では、現在でも、銛によるイルカ漁は行われており、昔ながらの郷土料理としてイルカ(ひーとぅー)料理が有名だ。常時、イルカ料理を提供している食堂もあるが、「ヒートゥーのにんにく炒め定食」が1500円程度で、そう高くはないが、料理の中身を考えると韓国よりは割高だ。
また、スーパーでは、沖縄近海産のイルカ肉を販売しているところもある。イルカ博物館もあれば、「名護イルカ料理フェア」といったイベントも行われる。一方で、「美ら海水族館」では、イルカショーが行われたりもする。
韓国でも闇捕鯨の町蔚山(ウルサン)では、今も、捕鯨同様にイルカ漁も盛んで、鯨料理と言いつつ、イルカの肉を出している店も多いようだ。人気のあるミンククジラの肉よりも、大量に市場に出回るイルカ肉の方が、安価だからである。
蔚山には、捕鯨の歴史を展示するクジラ博物館とイルカ水族館があり、その隣にはクジラ文化村がある。また、その向かいには鯨料理専門店もある。
市内には鯨料理のみの専門店が20店ほどあり、それ以外の約70店舗の一般食堂でもクジラ料理を提供している。毎年5月か6月にはクジラ祭りが開催され、その会場では鯨食フェスティバルが行われ、屋台でも鯨肉料理が振舞われる。一方、港ではホエールウォッチングの船も出る。
太地町でも、名護市でも、蔚山でも、地元の人間にしてみれば、「昔から食べているものを食べて何が悪い?」としか言いようがないだろう。
そして、明らかに人種差別と文化差別に彩られた映像作品がアカデミー賞を受賞したのは、太地町民でなくとも残念でしょうがない。
そもそも、捕鯨やイルカ漁に対する欧米諸国の人々のヒステリックな拒絶反応に対して、違和感と悔しさを感じないとしたら、「人間として何かが欠けている」としか思えない。
私が、日本のリベラルに対して、もっとも強く感じる不信感のもとがそこにある。彼らは、どうも、一般に、深刻な〝欧米コンプレックスの病い〟に冒されていることが多いようだ。
WWFやグリーンピースの主張にかぶれて「イルカにも人権を付与すべき」などと考える人は、「何事も欧米基準で考えるのが正しい」と、頭から思い込んでいるのかもしれない。
特に、茂木健一郎氏の「今の時代に残虐な捕鯨はいらないでしょ」という捕鯨反対の主張は、よくありがちな主張ではあるが、完全に間違っている、と私は思う。
茂木氏が言うように「捕鯨推進とナショナリズムが結びついている」のではなく、むしろ、反捕鯨運動の側の欧米文化至上主義の感情論に対する日本国民の反発があるだけなのだ。いい加減にやめて欲しいのは、反捕鯨主義者らによる醜悪な「文化差別」の方だ。彼らの方が、日本人のナショナル・アイデンティティを刺激してきたのである。
そして、「シー・シェパードも、グリーンピースも関係ない」と簡単に言えるのは、いわれのない強烈な差別や侮蔑を面と向かって受けたことのない、お気軽な人間の底の浅い物言いである。
「茂木さん、『一寸の虫にも五分の魂』って、知っていますか?」


私としては、もしも、欧米人に「なぜ、イルカやクジラを殺して食べるんだ?」と聞かれたら、「じゃあ、なぜ、きみは、かわいい牛や豚や羊を殺して食べるんだ?」と、逆に聞き返したいと思うのだ。
「正直に、胸に手をあてて考えて欲しい。各家庭で、ペットのミニブタがかわいいと大人気だというのに、どうして殺せるんですか。今の感覚に照らし合わせて、あんなに愛らしい雌牛や子豚や子羊が、血まみれになって無残に殺される様子を、そして、屠殺場で助けを求めて断末魔の悲鳴をあげる様子を、あなたは直視できますか。長い間、人間に寄り添ってきた、もっとも身近な存在であり、高等な哺乳類でもある、牛さんや豚さんや羊さんを惨殺するということが、本当にやりたいことなのか、やるべきことなのか。一人一人が、胸に手をあてて考えてみればいい。もう、これ以上、非人間的なことはやめるべきだ。」
そう言われたら、欧米人は、牛や豚や羊を殺すのをやめるだろうか、鹿やカンガルーやウサギを殺して食べるのもやめるだろうか?
ビーガンも含めて、やめる人も、いるとは思う。完全菜食主義を訴える人もいるだろう。しかし、では、彼ら反高等哺乳類屠殺主義者(動物愛護テロリスト)は、牛や羊や豚を殺し食べるのをやめない人たちに対して、シー・シェパードのように、上から目線で、あからさまに軽蔑を示し、攻撃的に非難して、「牛を殺す(食べる)とは、文化の低い、非人道的なやつらめ」「お前が豚殺(豚食)をやめるまで絶対に許さない」「羊を殺す(食べる)とは、お前の行為は、私が許しても、神が許さんのだ」と、狂信的に追い回すことができるのだろうか。
彼らのそのような姿勢や行為が、世界各地で反捕鯨と同様の規模で広範に認められるなら、私は彼らが文化差別主義者ではないと認めよう。
「生きとし生けるものを殺める」ことの罪深さという意味では、豚を殺すのも、牛を殺すのも、クジラを殺すのも、イルカを殺すのも、何も変わらない。
けれども、ヒンドゥー教徒は「牛は神の乗り物で、神聖な動物だ」と考え、牛だけを特別視して殺すことも食べることもしない。逆に、イスラム教徒は、豚を不浄な生き物として、殺すことも食べることもしない。
また、江戸時代までの日本人のように、仏教徒として「人間に魂が近い」という考えから四つ足の動物を特別視し、牛や馬や鹿やウサギや豚や羊は決して食さず、殺めることもなく、代わりに、四つ足ではない鳥やイルカやクジラの肉を食べる習慣を持った人々もいる。一方で、現代の欧米人のように、牛や鹿やウサギや豚や羊は迷わず殺して食べるが、クジラやイルカを神聖視して殺すことも食べることもしない人々もいる。
誰が、他人の考えや風習を、とやかく言えるだろうか。


中には、「牛や豚や羊には心や感情はないが、イルカやクジラには心や感情があり、そのことは、科学的に証明されている」というとんでもないことを言い始める人たちも、欧米には意外と多い。特に、「イルカの知能は特別なものだ」と考える人は、科学者と呼ばれる人にも多くいる。
しかし、事実はそうではない。イルカが特別であるなら、牛も豚も羊も、やはり、特別な知能を持っているのだ。
「鯨類だけが、心や感情を持つ」と言ってしまったら、これは完全なる「ニセ科学」である。いわば、スピリチュアル・カルトの香り漂う〝似非科学〟だ。
こうなると、もう、鯨類信仰の宗教であり、私も敢えて他人の宗教に文句を言うつもりはない。クジラ教やイルカ教の信者に対して、彼らの個人的な信仰心について異議を申し立てるのはまったく無意味だ。
けれども、不信心者に対する強制入信の過激な運動は、やめてもらいたい。それは、明らかな人権侵害である。
そういう意味で、狂信的なグリーンピースやシー・シェパードの反捕鯨活動は、人類に益をもたらさないばかりか、人類社会に混乱と不信と憎悪をもたらす大迷惑活動である。
それにしても、欧米人は、いつからクジラ教に入信したのだろうか。そもそも、ペリーが日本に来たのだって、北太平洋で漁をする捕鯨船の寄港地が欲しかったからだ。おそらく、クジラ教は、20世紀後半から始まった、欧米人の精神的な熱病の一つなのだろう。デビッド・ブリンの「スタータイド・ライジング」など読んでいると、そんな気がしてくる。
私見だが、私は、「あらゆる哺乳類には心や感情がある」と考えている。特に、草食あるいは雑食の牛や豚や羊や馬や鹿には、人間の心に共鳴しうる、かなりヒトに近い心や感情があるのではないか、と思うのだ。
だから、かつて、日本人は、仏教徒として、特に、人間に魂の近い四つ脚の動物を食べることを禁忌としたのではないか。また、ムスリムの人々は、屠殺の苦しみによって肉にこびりついた不浄な念を浄化してあるハラルミートにこだわってきたのではないか。そんな風に思うこともある。
だからと言って、私は肉を食べるのをやめようとは思わないが。


ともかく、この記事のまとめとして、言っておきたいことは、以下の事柄だ。
私としては『韓国人が、日本の捕鯨を野蛮だと非難するのは、とりわけ、まったく意味がわからない』ということ。そう言うよりほかに、どう言っていいのか、他に答えが見つからない。
また、最近、韓国人が「犬を食べるのは非文明的だからやめよう」と、言いだしているのは、非常に気になる。昨年2018年6月、韓国の裁判所は犬の食肉処理を違法と判断した。
しかし、中国南部の広西チワン族自治区の王林にて、毎年6月に開催され、1日で1万匹の犬が屠殺されて食される「犬肉祭り」は、欧米の批判にも負けず、昨年(2018)6月まで、堂々と行われていた。今年はどうなっているのだろうか。
「『犬を食べるのは、非文明的』なんて言っている連中の方こそ、よっぽど非文明的なんだぞ、レヴィ・ストロースを読め」と、言ってあげたいが、西欧かぶれしている人たちには、通じないのだろうな、とも思う。
ペットのミニブタがいる一方で、家畜として屠殺される豚がいる。平和の象徴として愛でられる公園の鳩がいる一方で、食肉用の鳩が飼育されている。ペットのウサギがいる一方で、野うさぎはヘルシーな食肉として狩られる。では、ペットの犬がいる一方で、食肉用の犬は別に飼育するか、野生化した犬については、食肉として屠殺しても、動物愛護の連中も文句はないのか。それとも、クジラやイルカのように、犬も神聖な生き物だというのか。意味不明である。
沖縄では、昔から郷土料理として「ヤギ料理」や「イノシシ料理」がある。これなども、非文明的と思う連中はいるのかもしれない。
それとも、「イルカ料理は野蛮だが、ヤギ料理やイノシシ料理はそうではない」と思うのだろうか。私から見ると、どちらも沖縄の郷土料理で、野生のイノシシ(ウリボウ)も、放し飼いのヤギ(ヒージャー)も、海のイルカ(ヒートゥー)も、食肉であるという点では、何の違いもないのだが。
もちろん、動物として考えれば、野原で草を食む子ヤギも可愛いし、道端にひょっこり顔を出してこちらをじっと見ている子イノシシ(うりぼう)はとてもかわいい。海のイルカも愛らしい。子羊も、ミニブタも、可愛いことこの上ない。馬は立派な生き物だし、シャチもクジラもそうだ。
だからといって、食べないという選択肢は、私にはない。味や匂いが苦手なものはある。しかし、食肉に禁忌は一切持っていない。ウサギだって、ウズラだって、ハトだって、食卓に出されれば、一応何でも食べてみる。
生きとし生けるものは、なるべく平等に扱いたい。食文化にも偏見は持たない。それが、私のスタンスだ。


もちろん、環境保全や生物多様性の維持は大切だが、それはまた別の話だ。問題は、環境保全の問題と、殺戮の残虐さとか、動物の知性の問題を絡めて、話が道徳性や宗教性を帯びてくることなのだ。
だから、反捕鯨運動の独善性には、以前から、非常にムカついている。彼らを日本に入国させないのは正しい選択だが、それだけでは足りない。日本人自身が、どんどん海外で正当な持論を主張しなければならない。
よく、「イルカを水族館で飼うのは虐待だ」と言う人がいるが、それでは、広い海を泳いでいるクジラやイルカのお腹にプラスチックをいっぱい溜め込ませて死に至らしめるのはどうなのだ。
ここ数年、南太平洋でも、大西洋でも、イルカやクジラの大量死が、ますます目立ってきている。しかし、この大量死の原因は、実は、はっきりしている。最大の原因は、海に漂う大量のプラスティックゴミである。現状では、人間の手で殺される数より、プラスティックゴミによって死ぬ数の方が、はるかに多くなっているのではないか。
今や、鯨類滅亡をもたらしうる最大の原因は、人間の手で行われる捕鯨ではなく、人間によって無節操に捨てられ、海に漂うプラスチックやビニールだ。海こそ地獄なのだ。イルカにしてみれば、水のきれいな水族館の方が、まだマシではないか。
プラスチックやビニールは、どこから流れてきたのか。それは、ゴミを海に投げ捨てることを何とも思わない国からに決まっている。そういう国は、ゴミの分別すらまともにできない。
アメリカ人や中国人や韓国人に、日本人ほど徹底したゴミの分別はできるのか。太平洋に漂流する大量のプラスチックゴミは、いったいどこから来たのだ。誰が、海に捨てているのか。
シー・シェパードは、日本の捕鯨船を追いかけているヒマがあるなら、プラスチックを拾え!
さもなくば、プラスチックを海に捨てまくっている中国や韓国の沿岸をパトロールして、プラスチックゴミを捨てる住民と戦え!
日本の捕鯨より、海にゴミを流さないことが、クジラやイルカを守るために、はるかに重要な問題ではないか。鯨類を大切にしたいなら、日常生活の中でゴミを分別すること、ゴミを海に捨てないことを、徹底して話し合うべきだ。
プラスチックの使用禁止や生産禁止の前に、きっちり分別し、海に捨てないということを、まず徹底すればよいのだ。シー・シェパードは、ゴミの分別ができない人間を追え!
鯨を救うには、それが一番手っ取り早い。ところで、日本人は、世界で一番、そういうことが得意だ。だから、シー・シェパードはこう言うべきなのだ。
「みんな、立派な日本人を見習え!」


これ以上、一方的に理不尽な文化攻撃が続き、日本人の鬱憤が溜まりつづけると、何もいいことはない。
多くの日本人が感じている、このやり場のない憎悪は、必ず、日本国内に急進的なナショナリズムを生み出すことだろう。茂木さんも、そういうことを心配しているのだろうが、彼の発言は、どう考えても逆効果だ。
その意味で、韓国政府の日本の捕鯨への批判的言動や韓国の動物愛護団体による日本大使館前での反捕鯨デモ、イギリスでの東京オリンピックボイコット運動などが、日本の急進的ナショナリズムを、結果として焚きつけているのだ。
同じことは、過激な反捕鯨団体の攻撃対象となったデンマーク領フェロー諸島でも、現在進行形で起こっている。傲慢かつ傍若無人なシー・シェパードの活動家たちの島民に対する侮蔑的態度への憎悪は、鯨漁に興味のなかった島の若者たちの心に、伝統文化としてのゴンドウクジラとイルカの追い込み漁への関心を高めさせた。と同時に、島民としてのアイデンティティにも目覚めさせたのである。そして、多くの島の若者たちが、現在、クジラ・イルカの追い込み漁に参加するようになっている。また、フェロー諸島の捕鯨の町フラクスヴィークは、2018年に、イルカ追い込み漁で世界的に有名な和歌山県太地町と姉妹都市契約を結んだ。
シー・シェパードは関係ない?
いやいや、大いに関係がある。それどころか、彼らが一番の問題なのだ。彼ら活動家たちが理不尽に各地で騒ぎ、「ザ・コーヴ」が作られ、アカデミー賞をとり、悪質な環境テロリストが太地町に迷惑をかけていることを知らなければ、おそらく、一般の日本人は、それほど捕鯨に対して強い思い入れを持たなかったろう。
今、世界第3位の経済国家、極東の大国のナショナリズムを、太平の眠れる無風状態から、無理やり叩き起こし、揺さぶり続け、目覚めさせようとしている四つの要因がある。
その一つは、中国の急速な軍拡であり、もう一つは韓国の理不尽な反日である。さらに、アメリカのトランプによる日米同盟の片務性への的を得た言及がある。そして、最後に、もう一つ、見過ごせないのが、無法な反捕鯨運動などに代表される欧米諸国による日本への文化差別的観点からの非難と抗議である。
これらが、渾然となって、今、日本人の意識を根底から揺さぶっているという気がしてならない。


忘れていた。表題の「日本の調査捕鯨の頭数と韓国のクジラ混獲数について、どちらが多いか」についてだが、色々、考えてみたのだが、韓国の鯨類全体の「混獲」数は、最近7年間の平均値で年間約1830頭だ。そこから、例えば2017年のイルカの「混獲」頭数として、上記の1179頭を引くと、クジラだけなら約650頭という数字になる。また、日本の「混獲」数は平均で年100頭程度と考えられる。しかし、この頭数が、総捕獲数に含まれているかどうかはわからない。そうすると、2017年の日本の調査捕鯨の頭数は780頭、ないしは680頭である。
『日本の「捕鯨」数780頭VS韓国のクジラ「混獲」数650頭』だから、これは、まあ、いい勝負だ。
さらに、韓国の場合、違法捕鯨発覚頭数が最低50頭以上、さらに当局の目を逃れた密漁によって最低200頭が、上乗せされるので、総捕獲頭数は年900頭ぐらいだ。
つまり、クジラの総捕獲数で考えるなら、『日本のクジラ総捕獲数880頭VS韓国のクジラ総捕獲数900頭』となり、ますます、いい勝負になる。
ただし、上記したように、韓国のクジラの年間総捕獲数は400頭前後だという考え方もあり、この最低ラインで考えると、『日本880頭VS韓国400頭』となるが、これでも、人口比で考えると、なかなかいい勝負である。
そして、この場合でも、韓国は、れっきとした世界第3位の大捕鯨国であり、日本、ノルウェーと並んで、『捕鯨国御三家』あるいは『世界三大捕鯨大国』と呼ばれることに不服はないはずだ。
さらに、韓国は、クジラだけでなく、上記のようにイルカにおいても、グリーンランド、日本に次いで、世界第3位の捕獲国である。
さらに鯨類全体の捕獲t数で考えれば、韓国は、実質的には、日本に次ぐ、堂々、世界第2位の鯨類捕獲国であると言える。
今、日韓の間には、互いに相容れないさまざまな問題があり、そこから深刻な軋轢を生じているが、唯一、捕鯨問題に関しては、世界にまれな同好の士同士であり、むしろ、完全な双子の兄弟国と言ってよい。
であるから、蔚山(ウルサン)は、世界的にイルカ漁で有名な町として、太地町、フラクスヴィークとともに、互いに手に手を取り合い、力を合わせて、歪んだ世界に抗して欲しい。是非とも三角姉妹都市契約を結んで、互いに交流を深めると同時に、世界の人々から『イルカ三都』と呼ばれて、末永く親しまれる(?)ようになる、という構想は、いかがだろうか。
とは言え、蔚山を中心とした捕鯨文化も、文在寅大統領に言わせれば、「日帝残滓(日本時代の悪しき事物や風習の残りカス)」ということになってしまうのだろうか。
「アメリカは日本を守るために血を流すが、日本はアメリカを守らない」という片務的な日米同盟の破棄は、トランプ大統領が同盟解消について言及しようがしまいが、冷戦後の時流の当然の流れである。どれだけ日本が金を積もうと、アメリカに、日本を命がけで防衛する義務はない。お金でアメリカの若者たちの命は買えない。遅かれ早かれ、日本国内の米軍基地が、すべて撤収する日が、いずれ遠からずやってくるのは間違いないだろう。
そうすれば、いよいよ、日本も自主防衛への全面的転換を迫られることになる。独自核武装、シーレーンのタンカー保護のための海自艦隊のホルムズ海峡への常駐、沖縄の海と空を、海自と空自のみで守る術も考えなければならない。
下地島空港の空自による使用は当然だが、それだけでは足りない。嘉手納基地も空自で使用することになるだろう。
兵器についても、抑止力として、自前のスティルス戦略爆撃機や原子力潜水艦や大型空母や軍事衛星が必要になる。その他、海上兵力も航空戦力も陸戦隊も、大幅に増強する必要がある。
そして、研究開発費など諸々考えれば、現在、5兆円規模の防衛費は、少なくとも、今の3〜4倍には増額しなければならないだろう。いずれ、GDPの3〜5%程度は、国防費にぶち込む必要が出てくることは間違いのないところだ。
それでも、中国の軍事費には及ばないし、アメリカの軍事支出の1/3程度にしかならないのではあるが。
欧州のスイスなどは、永世中立とは言っても、周囲を囲むNATO諸国とは、良好な協力関係にある。それと異なり、日本には、アメリカを除いて、周辺に良好な集団安全保障的協力関係の構築が望める国がない。
中国、ロシア、北朝鮮、韓国と、油断できない国ばかりである。そして、アメリカとの軍事同盟も解消するとなると、さて、どうなるだろうか。
さあ、よくよく覚悟したほうがいい。

さらに、9条について言えば、日本国憲法がどうであれ、国家の防衛は〝統治行為〟であり、したがって、国防のあり方については、9条に違反しているとかいないとか、裁判所の判断できる範疇にはない。例えば、抑止力保持の是非については、最高裁の違憲審査権の行使の範囲を超えているということだ。
当然のことながら、憲法を改正しようがしまいが、アメリカの核の傘がなくなったとしたなら、政府は核武装を含む独自防衛の方策を構築しなければならない。嫌でも抑止力を自前で持たねばならなくなるのである。そして、主権者である国民もまた、否応無く、この現実に向き合わねばならなくなるだろう。
この国を守る最終的な責任は、主権者である国民にあるのだから。

そもそも、こんなことは、ごく当たり前のことであって、世界最強の軍事国家である超大国アメリカに、防衛を全面的に依存できたこれまでが、あまりにも日本に都合が良すぎる、世界史上においてもまれな異常事態だったのだ。
そろそろ、日本国民は、非現実的で自分都合な〝太平の夢〟から醒めて、現実の世界に戻るべきだ。
日本国民が、深刻な〝平和ボケ〟から本格的に覚醒するためには、日米同盟の解消が、一種のショック療法として、いいきっかけになるかもしれない。
そもそも、世界第3位の経済国家が、自国の独自防衛の意思も気概もないというのでは、その未来には、カルタゴ並みの惨めな最期しか用意されていないだろう。
現在、日本の周辺国を見渡せば、中国はGDP比で2%、韓国は2.5%、アメリカは3%、ロシアは4%以上を国防費につぎ込んでいる。日本だけが、アメリカの軍事力に依存して、国防費GDP比1%程度で済ませている状態だ。
これが、いつまでも続くと思い込んでいることが、そもそもおかしい。

以上の理由から、私は、トランプ大統領が「日米同盟」破棄を望むなら、それもよかろうと考える。
ただし、私の日米同盟破棄歓迎の意図は、共産党志位委員長の「トランプ大統領の日米同盟破棄の意向が本当なら結構なことだ」「たとえ日米同盟がなくなっても、何の痛痒も感じない」という意見とは、まったく立場の異なるものだ。むしろ、正反対の意見と言っていいだろう。
私は「アメリカが日本の独自核武装を容認する」という条件の上で、日米同盟破棄に賛成と言っているのだ。
当たり前のことだが、トランプの主張は、基本的にこの路線に基づいている。北朝鮮、中国、ロシアという、それほど友好的でない核武装国家に囲まれている日本の独自核武装を非難できる国は、現在の世界に存在しない。

しかし、共産党の志位委員長は違う。玉城デニー知事もそうだが、彼らは日本が核兵器禁止条約に参加することを望んでいる。
そして、核兵器禁止条約では、独自核武装を認めないばかりか、核による威嚇もまた禁じている。つまり、同盟国の核による抑止力の保持も禁じているということだ。
だから、志位委員長も、玉城デニー知事も、アメリカの「核の傘」による庇護さえも要らないと言っているわけだ。そもそも、彼らは「核によって核を抑止する」という核抑止力の考え方そのものを否定しているのである。
簡単に言うと、「周囲の全員が銃を持とうと、自分は銃を持たない」ということだ。個人的信念や信仰としては素晴らしい。しかし、政治家が、そのような個人的信仰に基づいて、国を統治するのは、はなはだ無責任である。付き合わされる国民は、たまったものではない。政治家は、現実主義者でなければ困るのだ。
しかし、おそらく、彼らは、実際にホンモノの爆弾が落ちる、その日まで、ハッとすることすらないに違いない。いや、それどころか、この日本の国がなくなっても、何の痛痒も感じず、永遠に目覚めないのかもしれない。

戦争をしたくないなら、そして、この世界でサバイバルしていく気があるなら、抑止力としての強力な独自防衛の枠組みを構築するのは当然のことだ。
そういう当たり前のことに、国民一人一人が、気づかねばならない。もう、漫然と眠ってはいられない時期が来ている。
私は極東軍事裁判について、その正当性を評価する立場ではない。むしろ、東京裁判は、ある面では、勝者による独善的な制裁であったと考えている。
けれども、東條英機については、明らかに無謀としか言いようのないインパール作戦を決行し、その後の思わしくない展開から作戦の失敗を知りながら、雨季がくるまで撤退を遅らせてしまったことで、兵士たちに地獄を味わせ、3万人の戦死者・餓死者・病死者・自殺者を出した張本人の一人として、万死に値すると考える。内閣総理大臣として、陸軍大臣として、現役陸軍大将として、軍令の最高責任者である参謀総長として、成功する見込みのない作戦に許可を出し、多大な犠牲を出した責任はあまりにも大きい。
しかも、東條は、それ以前に、ガダルカナル島の不毛極まる消耗戦を体験していたのである。それでもなお、兵站の重要性を認識していなかったのは、陸軍の最高指導者としての資質に、まったく欠けていたと言わざるを得ない。2万人が餓死したガダルカナルの戦いで何も学べず、今度は、インパールで3万人の餓死者を出したわけだ。
また、東條は、作戦の遂行状況に関して、天皇陛下に「万事うまくいっている」と嘘の報告をしていた。陛下が「どうも軍部の言うことは信用できない」とおっしゃったのも当然である。
東條は、事務官僚としては有能だったのだろう。しかし、存亡の危機にある国家の指導者としては不適格であった。近衛も含めて、当時、首相適任者が他にいたかどうかは、また別問題ではあるが。
ともかく、当時、国家全体、国民全体に言えることだが、「この国が、どれほどの難局に向き合っているのか」、理解が及ばず、まったくもって自覚が足りなかった。しかし、その最たるものが、首相である東條自身だったのだ。
その自覚の足りなさは、自殺の不手際にも現れた。切腹では死に切れないかもしれないと、迷った挙句、ピストル自殺を試みたが、胸を一発撃ったところで、心臓をはずれ、駆けつけたアメリカ軍による手術で一命をとりとめた。確実に死にたければ、口にピストルを加えて撃つべきだった。
願わくば、死刑になる前に、東條が自分の罪と責任を深く自覚する時間があったらよかっただろうに、と思う。
この日本の国の数百万の犠牲者たちの前に立ち、あの世で申し開きをしなければならない、その前に。
しかし、最後まで、そのような深い自覚には達しなかったように思われる。


もちろん、作戦立案者にして、ビルマ方面軍最高司令官として、インパール作戦を総指揮した牟田口廉也のごとき国賊が、戦後、長くのうのうと生き延び、なんの反省もないまま、穏やかな晩年を過ごしたことは、まったく納得のいかない話である。この男こそが、この誇大妄想に満ちた愚かな作戦を思いつき、己の人脈を利用して参謀本部の同意を得、ほとんどの現場指揮官たちによる当然の反対を押し切って、兵站を完全に無視した不合理極まる無茶なやり方で作戦を実行にうつしたのである。この牟田口中将の暴挙がなかったならば、皇軍の兵士たちが、戦友の肉を喰らい、仲間の屍体の人肉を売りさばく、この世の地獄は現出しなかったのだ。
牟田口は、「(自国軍の兵士を)5000人殺したら、(敵の)陣地を取れるか」などという会話を、平気で交わしていた軍上層部の人非人どもの代表格の一人である。この男は、なんの補給もなしに、各部隊を4ヶ月に渡って戦わせた。その上、武器も食糧もとうに尽きている師団に撤退を許さず、成功の見込みがまったく立たない戦いの中で、ひとえに自分の体裁のために、全軍の撤退を躊躇し続けたことで、さらに多くの部下を見殺しにしたのだ。
「牟田口よ、大和魂で、飢え死が防げるか、弾薬も食糧もない部隊が、大和魂さえあれば、持久戦に勝利できるというのか、お前の脳みそには膿でも詰まっていたのか」と言いたくもなるが、これは一概に、牟田口一人の問題とは言えない。多かれ少なかれ、当時の陸軍は、兵站を無視する悪しき傾向があったのも事実である。しかし、それにしても、配下の将兵に対し、血も涙もない酷すぎる采配であった。
そればかりか、いざ撤退が決まると、自分は、9万の将兵を雨季の地獄の中に見捨てて、恥知らずにも、一人で早々に逃げ帰ってきたのである。よくもまあ、そのような無責任なことができたものだ。
牟田口には、ビルマに屍を晒した3万の兵士たちの怨念を鎮めるために、むしろ、軍法会議で死刑になって欲しかった。いや、そもそも、この男は、なんとしても、ビルマで戦死か自決しなければならなかったのだ。これほどの惨劇を招いた責任を免がれて、おめおめと生き延びるなど、断じて有り得ぬことであった。
ところが、この男は、1966(昭和41)年に、77歳で亡くなるまで、一度たりとも、兵たちへの謝罪をしたことはなく、「インパール作戦の失敗は、私のせいじゃない、部下の無能さのせいだ」と言い張り続けたのだ。
牟田口の上官だった河辺正三中将もまた、1965年に、78歳で亡くなるまで、自分の責任を自覚することなく、自己弁護を繰り返すのみだった。
さらに、二人の上官だった南方軍総司令官寺内寿一元帥は、インパール作戦を大本営参謀本部に強引に認めさせた張本人だが、兵士たちがビルマで餓死している時に、前線に出ることなく、サイゴンの旧フランス総督官邸に留まり続け、そこまで愛人の赤坂の芸者を軍用機で呼び寄せて、現地で豪遊していた。この男も、自決する気概もなく、結局は米軍捕虜として病死することとなった。
大本営陸軍参謀総長として、インパール作戦を許可した張本人の杉山元は、終戦後、「この国にこれほどの荒廃をもたらした自分の責任は万死に値する」と天皇陛下に上奏し、インパール作戦の関係者では、唯一、ピストルで胸に4発の弾を発射して自殺し、その妻も青酸カリで自殺した。他の方々に比べれば、鮮やかな引き際であった。
ところで、杉山と陛下との間で、日米開戦前に交わされた以下の会話は有名である。
陛下に「もし、日米開戦となった場合、どのくらいで作戦を完遂する見込みか?」と対米戦争の成算を問われた参謀総長の杉山は「太平洋方面(太平洋戦争)は、3ヶ月で作戦を終了する見込みでございます」と楽観的な回答をする。
これに対して、陛下は「汝は、支那事変(日中戦争)勃発当時の陸相(陸軍大臣)である」「あのとき『事変は2ヶ月程度で片付く』と私にむかって申したのに、支那事変は、4年たった今になっても、終わっていないではないか」と語気荒く問いつめた。
答えに窮した杉山が「支那(中国)は奥地が広うございまして、作戦が予定通りにはいかなかったのであります」と言い訳すると、陛下は「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか、いったいいかなる成算があって3ヵ月と言うのか」と一喝し、杉山は言葉を失ったという。
ともかく、軍が、万事において、甘い見通しをもって行動していたことは確かであった。そして、その代償は、あまりにも大きかった。


さて、インパール作戦以前も、以降も、2万人を超える餓死者、戦死者を出したガダルカナル島の戦いや、1万人を超える戦死者と10万人のマニラ市民の犠牲を出したマニラ攻防戦など、あらゆる無理な作戦を後押しし、神風、回天、震洋など、あらゆる特攻戦法を推進した大本営の陸軍参謀本部及び海軍軍令部の参謀達についても、全員、終戦の時点で自決するか、さもなくば極刑に服するべきだったろうと思う。
しかし、現実には、彼ら参謀本部・軍令部のエリート連中の大半は、戦後、自決することもなく、罰せられることもなかった。平和な戦後の日本で、穏やかに天寿を全うし、年老いて死ぬまで、戦争中の前線の兵士たちの惨めすぎる死について、一度として耐えがたい痛みを感じることもなければ、自らの責任を痛切に感じることもなかった。この者たちの誰一人として、兵士たちの苦しみと無念を、深く思って苦悩することもなかったのだ。
そのような連中は、戦後の世界に生き延びてはいけなかった。彼らは、全員、新しい時代を前にして、恥があるなら死を選ぶべきだったろうと私は思う。しかし、どうせ、何の反省もなく、名誉ある自死を選ぶような潔い連中でもないから、実際問題としては、その罪の重さを問い、死刑を宣告するよりほかなかったろう。
ところが、それさえも、叶わなかった。世の中、悪い奴らばかりが、のうのうと生き延びる。純粋な若者たちは、特攻して死んでいったというのに。あるいは、南方で餓死していったというのに。
ドキュメント映画「ゆきゆきて、神軍(1987)」で、明らかにされた事態は、特殊な事例ではないのだ。
このドキュメントの内容は、以下のようなものだ。パプアニューギニアで、戦友が、終戦後に、なぜか戦死をした。親友の謎の死に不審を抱いた男が、親友の所属していた部隊の生き残りを訪ね、真相を追求し続ける。やがて、男は、部隊の食糧として部下を殺して食べることを率先していた上官に、従わなかった親友が口封じのために殺されたことを知る。
もちろん、男は、そうだろうと確信していた。ドキュメントは、目撃者や殺害協力者から言質を取るのが目的だった。何しろ、戦時中は、男もニューギニアにいたし、彼の部隊も、飢えとマラリアに苦しみ、千数百名のうち、生き残ったのは30数名だったのだ。男は「俺は最後の神軍だ」と叫んだ。「天罰は俺が加える!」
この男奥崎謙三は、1983年、ドキュメント撮影後、元上官宅で発砲事件を起こし、殺人未遂で服役(懲役12年)した。しかし、気持ちはわかる。


自国民を虫けら以下にしか感じない連中が国の中枢を動かしているという事実を、国民が知ってしまうということは、もはや、その国が滅びるべき国であることの明白な証である。
「国家、信なくんば立たず。」
国民が、国を信じることができなくなったら、もはや、国は立ち行かない。
東條や牟田口、河辺のような輩は、その意味で、非国民とか国賊といった軽いレベルの存在ではない。むしろ、国家の癌であり、それも、たとえるなら致命的なレベル4の癌細胞である。
そういう意味では、戦後日本が、一度は軍隊を捨てたのは、死んでいった者たちへのせめてもの禊であったと言える。
日本軍は、その自らの所業ゆえに、徹底的に解体されなければならなかったのだ。これは、日本の文化的伝統と精神からすれば、当然のことだ。


日本の右翼や保守が、「自分は国を愛する者だ」と公言するとしても、上記のことをはっきり明言しない者については、私は愛国者とは認めない。
大戦時、陸軍でも海軍でも、多くの現場指揮官たちは、兵士と苦楽を共にし、最期はすべての責任を背負って、潔く死んでいった。
玉砕を強制する大本営の司令に対して、「俺が死んだら、お前たちは、それぞれの判断で生き抜け」と言い残し、司令部から一人で、砲弾の嵐の中へ歩いていった陸軍の師団長がいた。あるいは、部下は総員退去させ、艦と運命を共にした司令官と艦長は、海軍に数多くいた。皆、部下思いの立派な指揮官だった。
硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道中将しかり、沖縄戦の牛島満中将しかり、特攻隊の生みの親である大西瀧治郎中将しかり、ミッドウェーで空母飛龍を指揮して孤軍奮闘した山口多聞少将しかり、大和の沖縄特攻を指揮した伊藤整一中将しかり、である。彼らは、東條や牟田口とはまったく違う、真の武人であった。彼らこそ、人の痛みの心底わかる乃木希典の正統な後継者だった。彼らの切なる祈りが、今の日本の繁栄の礎となったのだろう。


牛島中将に関しては、沖縄戦の最終的な局面での彼の判断のいくつかが、県民の犠牲者を大幅に増やしてしまったのは、残念ながら確かである。
しかし、そもそも、当時の日本軍とアメリカ軍との圧倒的な物量の差を考えれば、あれほどの善戦を繰り広げることができたのは、やはり、稀代の名将と言って良いだろう。
沖縄戦における日本軍の戦死者は9万人、アメリカ軍の戦死者は2万人であった。さらに、沖縄民間人の犠牲者も9万4千人に及んだ。太平洋戦争における最大の激戦であった。
よく、「沖縄は本土決戦のための捨て石にされた」という言い方をする者がいるが、そういうことではない。実際、沖縄戦では、知覧から2000機近い特攻機が繰り出され、海軍最強の戦艦大和も、片道分の燃料をかき集めて、沖縄へ向けて特攻したのである。〝捨て石〟に対して、そんなことはしない。陸軍の増援も、可能であればしただろうが、大和ですらたどり着けない状態で、兵員輸送艦が来れるわけがない。それに、大本営の〝冷血馬鹿ども〟の間で、「沖縄は本土決戦の捨て石に」という方針があったのは確かだが、沖縄防衛を任された第32軍の牛島司令官のもとに、その方針が正式に示されることはなかった。
加えて、天皇陛下は、沖縄戦が始まると、「敵の上陸に対して防衛しないのか」「陸軍は何故攻勢に出ないのか」「兵力が足りないなら援軍は出さないのか」「海軍にはもう船はないのか」「沖縄で軍が国民を守れなければ、軍に対する国民の信頼は地に堕ちる」と述べられている。少なくとも、大本営の人非人参謀どもも、陛下に対して「沖縄は時間稼ぎの捨て石に」などということは、到底言えるものではなかった。陛下は、千島から沖縄まで、〝八島の守りの内(本土)〟と考えており、沖縄防衛を最終決戦と考えていたからである。
また、当時の軍のあり方を考えれば、牛島が最後まで降伏を潔しとしなかったのも、致し方ないと言うより他ない。
もっとも、首里司令部に踏みとどまらずに、部隊を南部に転戦させたことは、後世に禍根を残す最大の失敗であった。首里で徹底抗戦して玉砕していたら、その後の民間人の多大な犠牲を出すこともなく、「沖縄を時間稼ぎの捨て石とした」との批判も起こらなかったろう。
しかし、そうではあっても、沖縄を守らなければならないという強い意志、沖縄民間人の犠牲をなるべく出さないようにしたいと手を尽くした真心に、嘘偽りはなかったのだ。
民間人をいたずらに巻き込むかたちでの地上戦をなるべく避け、無意味なバンザイ突撃や玉砕をよしとせず、アメリカ軍の攻撃によく耐え抜こうとしたが、矢尽き刀折れ、もはや、為すすべがなくなった。そして、自ら切腹自殺したのだ。
その時、牛島が「後は各個投降せよ」と言えなかったのは、当時の日本軍人の思考・言動の限界を示している。しかし、それは牛島ひとりの責任ではない。
6月6日に、海軍陸戦隊の司令官大田実少将が海軍省に向けて打った電文は「沖縄県民かく戦えり。県民に対し、後世、特別のご高配を賜らんことを」という二文で結ばれている。その心情に、嘘偽りは感じられない。
これは、県知事として赴任していた大田の盟友島田叡、陸軍第32軍司令官牛島満、海軍陸戦隊司令官大田実の三者に共通の思いであった。
島田は、6月7日、摩文仁の陸軍壕を訪れ、牛島と最後の別れを済ませ、その後、壕を出たが、後は行方が知れない。大田は、6月13日、豊見城の海軍壕内で自決した。
この頃、南部の激戦は熾烈を極めていた。アメリカ軍最高司令官バックナー中将は、6月18日、前線視察中に、日本軍の砲撃で戦死した。この時、摩文仁の司令部では、誰もが戦争で勝ったかのように喜んだが、その中で、牛島はただ一人、哀悼の情を捧げるようにうなだれて「惜しい人物を亡くした」と呟いた。
そして、牛島もまた、「沖縄県民はよく尽くしてくれた。たとえ、日本本土のどこかが戦場になったとしても、これ以上の協力はないであろう。沖縄の住民を戦の道連れにすることは、まことに忍び難い」と述べ、心底県民を想い、県民を案じつつ、6月23日、摩文仁の司令部壕内で、腹を切ったのである。
近年、日本では、女性はもちろんのこと、男性でも、小学生でさえも、毛深いことを気にして、永久脱毛することが増えているようです。
施術後、炎症を起こしたり、肌が荒れたりと、いろいろリスクがあることも知られてはきましたが、それ以上に、『脱毛はスキンケアの常識』という風潮と同調圧力の方が、世間では、はるかに強くなってきているのではないでしょうか。
「体毛はない方がいい」「体毛は邪魔」という不自然な感覚が、若い人たちの間で、ごく当たり前のようになってきているのが、とても気になります。
私は、「毛深いといじめられるから、かわいそう」と言って、小学生の男の子に全身脱毛させたお母さんの話を聞いて、この傾向は、ちょっと見過ごせないと思うようになりました。
というのも、体毛の本来の役割や意味というものが、あまりにも軽視されているような気がするからです。
そもそも、体毛は、皮膚を保護し、ウィルスや細菌による感染を防ぐためにあります。けれども、体毛が保護しているのは、皮膚だけではないのです。

人間の皮膚と呼吸器は、神経系および精神そのものと、密接な関係にあります。
例えば、精神的なストレスが、喘息を引き起こしたり、アレルギー性鼻炎を悪化させたり、過呼吸や呼吸器系の発作の原因にもなります。また、同様に、過度のストレスが、全身の皮膚に発疹を発生させたり、アトピー性皮膚炎を悪化させたり、皮膚の痒みや過敏症や炎症の原因になったりします。
また、喘息や花粉症が治って、呼吸器が楽になった代わりに、今度は、それまでなかった、皮膚の尋常性乾癬やアトピー性皮膚炎に悩み始める人もいます。内的な心因性の要因が潜んでいる場合には、その問題が、呼吸器に現れるか、皮膚に現れるかは、その時々で、移り変わるのです。
それほどに、呼吸器や皮膚というのは、神経系と直で連動する敏感で精妙な器官であり、この3器官の関連性は、非常に深いものがあります。そして、神経系との相関関係を通じて、精神的問題は、皮膚に影響を及ぼしますが、その逆もまた真なりで、皮膚の状態は、当然、精神にも大きな影響を及ぼします。

ですから、皮膚表面の体毛は、皮膚や免疫系を保護すると同時に、皮膚の状態に呼応しやすい呼吸器と神経系を保護する働きがあると考えられます。
さらに言えば、皮膚と体毛は、人の身体と外界の境界を成し、外界の状況を鋭敏に感じ取るセンサーの役割を果たすとともに、外界の影響から身体と精神を守る保護膜(バリヤー)の役割を果たすものとして機能している面があるのです。
ですから、体毛は、決して邪魔で無駄なものではないのです。それどころか、私たちにとって非常に大切な身体と心を保護する重大な役割を司っているのです。
そうした理由から、体毛をむやみに除去しようとするのは、身体と外界との境界をつくる膜を剥がしてしまうのですから、現代の医学のレベルで考えるよりも、長い目で見て、はるかに大きな危険性(リスク)をはらんだ行為となる恐れがあります。
そのダメージは、発疹ができたり、炎症を起こしたりといった、目に見える部分にだけ現れるわけではありません。むしろ、目に見えない部分のダメージこそ、深刻で恐ろしいのです。

特に、レーザーや電気的処理によって、繰り返し皮膚にダメージを蓄積する全身脱毛や、回復不能のダメージを皮膚に与える永久脱毛は、長期的に考えると非常に危険です。
皮膚が過敏になるだけでなく、自己免疫機能の低下の恐れもありますし、よほどの理由がない限り、単なる見栄えの問題から、皮膚も心もデリケートな幼年期や少年期に、全身(永久)脱毛をするなどというのは、取り返しのつかない恐ろしい行為です。もし、それを親の判断で行うというのなら、我が子を害する気の狂った所業としか思えません。
子どもの幼児教育に大金を使って能力開発に努めるよりも、あるいは、子どもの服装や髪型や体毛といった外見にこだわるよりも、まずは、子どものまだ柔らかい心と身体を守ってあげ、心身の健康な発育に気を配り、のびのびと育てた方が、優秀な子に育つのではないでしょうか。

そして、もう一つ、私が非常に気になるのは、自分自身や我が子の体毛さえも、「余計なもの」「邪魔なもの」「要らないもの」として、面倒だから排除してしまいたくなるという感じ方、「たとえ気に入らないものとでも、なんとか共存していこう」という態度がまるで見られない、令和の若い人たちの神経症的なまでに許容度の低い精神(感覚)のあり方です。
これでは、気に入らない親との同居など、とても無理ですし、気に入らない子どもにも我慢できないでしょう。もちろん、親しみのこもった近所付き合いをするのも無理だと思います。
その若者たちを育てた親の世代が、そもそも、排他的で、自己中心的で、「家族以外はどうでもいい」と、人を切り捨ててしまえる人たちだったことから、こういう若者たちが育ったのではないでしょうか。嘆かわしい限りです。
そういう若い親に全身脱毛された次世代の子どもたちは、どんな大人に育つでしょうか。人に対して超過敏で、他者への許容度ゼロのアレルギーの塊のような人に育つかもしれません。

ネット上でも、実社会においても、「永久脱毛は、今では当たり前のエチケット」というような悪しき風潮があり、非常に気になります。高いお金を払って、外見上のエチケットのために、健康を害してしまっては、たまったものではありません。特に、心の健康を害するというのは、その被害や影響が目に見えないだけに、余計に厄介なのです。
くれぐれも、エステサロンや美容クリニックの商売の餌食にならないように気をつけてください。
そして、物質的な外面のエチケットよりも、内的な精神面での人と接する姿勢や心のあり方にこそ、気を遣える人間になって欲しいと思います。その方が、間違いなく、あなた、そして、あなたの子どもたちは、より健康で幸福な人生をおくることができるでしょう。