私は極東軍事裁判について、その正当性を評価する立場ではない。むしろ、東京裁判は、ある面では、勝者による独善的な制裁であったと考えている。
けれども、東條英機については、明らかに無謀としか言いようのないインパール作戦を決行し、その後の思わしくない展開から作戦の失敗を知りながら、雨季がくるまで撤退を遅らせてしまったことで、兵士たちに地獄を味わせ、3万人の戦死者・餓死者・病死者・自殺者を出した張本人の一人として、万死に値すると考える。内閣総理大臣として、陸軍大臣として、現役陸軍大将として、軍令の最高責任者である参謀総長として、成功する見込みのない作戦に許可を出し、多大な犠牲を出した責任はあまりにも大きい。
しかも、東條は、それ以前に、ガダルカナル島の不毛極まる消耗戦を体験していたのである。それでもなお、兵站の重要性を認識していなかったのは、陸軍の最高指導者としての資質に、まったく欠けていたと言わざるを得ない。2万人が餓死したガダルカナルの戦いで何も学べず、今度は、インパールで3万人の餓死者を出したわけだ。
また、東條は、作戦の遂行状況に関して、天皇陛下に「万事うまくいっている」と嘘の報告をしていた。陛下が「どうも軍部の言うことは信用できない」とおっしゃったのも当然である。
東條は、事務官僚としては有能だったのだろう。しかし、存亡の危機にある国家の指導者としては不適格であった。近衛も含めて、当時、首相適任者が他にいたかどうかは、また別問題ではあるが。
ともかく、当時、国家全体、国民全体に言えることだが、「この国が、どれほどの難局に向き合っているのか」、理解が及ばず、まったくもって自覚が足りなかった。しかし、その最たるものが、首相である東條自身だったのだ。
その自覚の足りなさは、自殺の不手際にも現れた。切腹では死に切れないかもしれないと、迷った挙句、ピストル自殺を試みたが、胸を一発撃ったところで、心臓をはずれ、駆けつけたアメリカ軍による手術で一命をとりとめた。確実に死にたければ、口にピストルを加えて撃つべきだった。
願わくば、死刑になる前に、東條が自分の罪と責任を深く自覚する時間があったらよかっただろうに、と思う。
この日本の国の数百万の犠牲者たちの前に立ち、あの世で申し開きをしなければならない、その前に。
しかし、最後まで、そのような深い自覚には達しなかったように思われる。
もちろん、作戦立案者にして、ビルマ方面軍最高司令官として、インパール作戦を総指揮した牟田口廉也のごとき国賊が、戦後、長くのうのうと生き延び、なんの反省もないまま、穏やかな晩年を過ごしたことは、まったく納得のいかない話である。この男こそが、この誇大妄想に満ちた愚かな作戦を思いつき、己の人脈を利用して参謀本部の同意を得、ほとんどの現場指揮官たちによる当然の反対を押し切って、兵站を完全に無視した不合理極まる無茶なやり方で作戦を実行にうつしたのである。この牟田口中将の暴挙がなかったならば、皇軍の兵士たちが、戦友の肉を喰らい、仲間の屍体の人肉を売りさばく、この世の地獄は現出しなかったのだ。
牟田口は、「(自国軍の兵士を)5000人殺したら、(敵の)陣地を取れるか」などという会話を、平気で交わしていた軍上層部の人非人どもの代表格の一人である。この男は、なんの補給もなしに、各部隊を4ヶ月に渡って戦わせた。その上、武器も食糧もとうに尽きている師団に撤退を許さず、成功の見込みがまったく立たない戦いの中で、ひとえに自分の体裁のために、全軍の撤退を躊躇し続けたことで、さらに多くの部下を見殺しにしたのだ。
「牟田口よ、大和魂で、飢え死が防げるか、弾薬も食糧もない部隊が、大和魂さえあれば、持久戦に勝利できるというのか、お前の脳みそには膿でも詰まっていたのか」と言いたくもなるが、これは一概に、牟田口一人の問題とは言えない。多かれ少なかれ、当時の陸軍は、兵站を無視する悪しき傾向があったのも事実である。しかし、それにしても、配下の将兵に対し、血も涙もない酷すぎる采配であった。
そればかりか、いざ撤退が決まると、自分は、9万の将兵を雨季の地獄の中に見捨てて、恥知らずにも、一人で早々に逃げ帰ってきたのである。よくもまあ、そのような無責任なことができたものだ。
牟田口には、ビルマに屍を晒した3万の兵士たちの怨念を鎮めるために、むしろ、軍法会議で死刑になって欲しかった。いや、そもそも、この男は、なんとしても、ビルマで戦死か自決しなければならなかったのだ。これほどの惨劇を招いた責任を免がれて、おめおめと生き延びるなど、断じて有り得ぬことであった。
ところが、この男は、1966(昭和41)年に、77歳で亡くなるまで、一度たりとも、兵たちへの謝罪をしたことはなく、「インパール作戦の失敗は、私のせいじゃない、部下の無能さのせいだ」と言い張り続けたのだ。
牟田口の上官だった河辺正三中将もまた、1965年に、78歳で亡くなるまで、自分の責任を自覚することなく、自己弁護を繰り返すのみだった。
さらに、二人の上官だった南方軍総司令官寺内寿一元帥は、インパール作戦を大本営参謀本部に強引に認めさせた張本人だが、兵士たちがビルマで餓死している時に、前線に出ることなく、サイゴンの旧フランス総督官邸に留まり続け、そこまで愛人の赤坂の芸者を軍用機で呼び寄せて、現地で豪遊していた。この男も、自決する気概もなく、結局は米軍捕虜として病死することとなった。
大本営陸軍参謀総長として、インパール作戦を許可した張本人の杉山元は、終戦後、「この国にこれほどの荒廃をもたらした自分の責任は万死に値する」と天皇陛下に上奏し、インパール作戦の関係者では、唯一、ピストルで胸に4発の弾を発射して自殺し、その妻も青酸カリで自殺した。他の方々に比べれば、鮮やかな引き際であった。
ところで、杉山と陛下との間で、日米開戦前に交わされた以下の会話は有名である。
陛下に「もし、日米開戦となった場合、どのくらいで作戦を完遂する見込みか?」と対米戦争の成算を問われた参謀総長の杉山は「太平洋方面(太平洋戦争)は、3ヶ月で作戦を終了する見込みでございます」と楽観的な回答をする。
これに対して、陛下は「汝は、支那事変(日中戦争)勃発当時の陸相(陸軍大臣)である」「あのとき『事変は2ヶ月程度で片付く』と私にむかって申したのに、支那事変は、4年たった今になっても、終わっていないではないか」と語気荒く問いつめた。
答えに窮した杉山が「支那(中国)は奥地が広うございまして、作戦が予定通りにはいかなかったのであります」と言い訳すると、陛下は「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか、いったいいかなる成算があって3ヵ月と言うのか」と一喝し、杉山は言葉を失ったという。
ともかく、軍が、万事において、甘い見通しをもって行動していたことは確かであった。そして、その代償は、あまりにも大きかった。
さて、インパール作戦以前も、以降も、2万人を超える餓死者、戦死者を出したガダルカナル島の戦いや、1万人を超える戦死者と10万人のマニラ市民の犠牲を出したマニラ攻防戦など、あらゆる無理な作戦を後押しし、神風、回天、震洋など、あらゆる特攻戦法を推進した大本営の陸軍参謀本部及び海軍軍令部の参謀達についても、全員、終戦の時点で自決するか、さもなくば極刑に服するべきだったろうと思う。
しかし、現実には、彼ら参謀本部・軍令部のエリート連中の大半は、戦後、自決することもなく、罰せられることもなかった。平和な戦後の日本で、穏やかに天寿を全うし、年老いて死ぬまで、戦争中の前線の兵士たちの惨めすぎる死について、一度として耐えがたい痛みを感じることもなければ、自らの責任を痛切に感じることもなかった。この者たちの誰一人として、兵士たちの苦しみと無念を、深く思って苦悩することもなかったのだ。
そのような連中は、戦後の世界に生き延びてはいけなかった。彼らは、全員、新しい時代を前にして、恥があるなら死を選ぶべきだったろうと私は思う。しかし、どうせ、何の反省もなく、名誉ある自死を選ぶような潔い連中でもないから、実際問題としては、その罪の重さを問い、死刑を宣告するよりほかなかったろう。
ところが、それさえも、叶わなかった。世の中、悪い奴らばかりが、のうのうと生き延びる。純粋な若者たちは、特攻して死んでいったというのに。あるいは、南方で餓死していったというのに。
ドキュメント映画「ゆきゆきて、神軍(1987)」で、明らかにされた事態は、特殊な事例ではないのだ。
このドキュメントの内容は、以下のようなものだ。パプアニューギニアで、戦友が、終戦後に、なぜか戦死をした。親友の謎の死に不審を抱いた男が、親友の所属していた部隊の生き残りを訪ね、真相を追求し続ける。やがて、男は、部隊の食糧として部下を殺して食べることを率先していた上官に、従わなかった親友が口封じのために殺されたことを知る。
もちろん、男は、そうだろうと確信していた。ドキュメントは、目撃者や殺害協力者から言質を取るのが目的だった。何しろ、戦時中は、男もニューギニアにいたし、彼の部隊も、飢えとマラリアに苦しみ、千数百名のうち、生き残ったのは30数名だったのだ。男は「俺は最後の神軍だ」と叫んだ。「天罰は俺が加える!」
この男奥崎謙三は、1983年、ドキュメント撮影後、元上官宅で発砲事件を起こし、殺人未遂で服役(懲役12年)した。しかし、気持ちはわかる。
自国民を虫けら以下にしか感じない連中が国の中枢を動かしているという事実を、国民が知ってしまうということは、もはや、その国が滅びるべき国であることの明白な証である。
「国家、信なくんば立たず。」
国民が、国を信じることができなくなったら、もはや、国は立ち行かない。
東條や牟田口、河辺のような輩は、その意味で、非国民とか国賊といった軽いレベルの存在ではない。むしろ、国家の癌であり、それも、たとえるなら致命的なレベル4の癌細胞である。
そういう意味では、戦後日本が、一度は軍隊を捨てたのは、死んでいった者たちへのせめてもの禊であったと言える。
日本軍は、その自らの所業ゆえに、徹底的に解体されなければならなかったのだ。これは、日本の文化的伝統と精神からすれば、当然のことだ。
日本の右翼や保守が、「自分は国を愛する者だ」と公言するとしても、上記のことをはっきり明言しない者については、私は愛国者とは認めない。
大戦時、陸軍でも海軍でも、多くの現場指揮官たちは、兵士と苦楽を共にし、最期はすべての責任を背負って、潔く死んでいった。
玉砕を強制する大本営の司令に対して、「俺が死んだら、お前たちは、それぞれの判断で生き抜け」と言い残し、司令部から一人で、砲弾の嵐の中へ歩いていった陸軍の師団長がいた。あるいは、部下は総員退去させ、艦と運命を共にした司令官と艦長は、海軍に数多くいた。皆、部下思いの立派な指揮官だった。
硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道中将しかり、沖縄戦の牛島満中将しかり、特攻隊の生みの親である大西瀧治郎中将しかり、ミッドウェーで空母飛龍を指揮して孤軍奮闘した山口多聞少将しかり、大和の沖縄特攻を指揮した伊藤整一中将しかり、である。彼らは、東條や牟田口とはまったく違う、真の武人であった。彼らこそ、人の痛みの心底わかる乃木希典の正統な後継者だった。彼らの切なる祈りが、今の日本の繁栄の礎となったのだろう。
牛島中将に関しては、沖縄戦の最終的な局面での彼の判断のいくつかが、県民の犠牲者を大幅に増やしてしまったのは、残念ながら確かである。
しかし、そもそも、当時の日本軍とアメリカ軍との圧倒的な物量の差を考えれば、あれほどの善戦を繰り広げることができたのは、やはり、稀代の名将と言って良いだろう。
沖縄戦における日本軍の戦死者は9万人、アメリカ軍の戦死者は2万人であった。さらに、沖縄民間人の犠牲者も9万4千人に及んだ。太平洋戦争における最大の激戦であった。
よく、「沖縄は本土決戦のための捨て石にされた」という言い方をする者がいるが、そういうことではない。実際、沖縄戦では、知覧から2000機近い特攻機が繰り出され、海軍最強の戦艦大和も、片道分の燃料をかき集めて、沖縄へ向けて特攻したのである。〝捨て石〟に対して、そんなことはしない。陸軍の増援も、可能であればしただろうが、大和ですらたどり着けない状態で、兵員輸送艦が来れるわけがない。それに、大本営の〝冷血馬鹿ども〟の間で、「沖縄は本土決戦の捨て石に」という方針があったのは確かだが、沖縄防衛を任された第32軍の牛島司令官のもとに、その方針が正式に示されることはなかった。
加えて、天皇陛下は、沖縄戦が始まると、「敵の上陸に対して防衛しないのか」「陸軍は何故攻勢に出ないのか」「兵力が足りないなら援軍は出さないのか」「海軍にはもう船はないのか」「沖縄で軍が国民を守れなければ、軍に対する国民の信頼は地に堕ちる」と述べられている。少なくとも、大本営の人非人参謀どもも、陛下に対して「沖縄は時間稼ぎの捨て石に」などということは、到底言えるものではなかった。陛下は、千島から沖縄まで、〝八島の守りの内(本土)〟と考えており、沖縄防衛を最終決戦と考えていたからである。
また、当時の軍のあり方を考えれば、牛島が最後まで降伏を潔しとしなかったのも、致し方ないと言うより他ない。
もっとも、首里司令部に踏みとどまらずに、部隊を南部に転戦させたことは、後世に禍根を残す最大の失敗であった。首里で徹底抗戦して玉砕していたら、その後の民間人の多大な犠牲を出すこともなく、「沖縄を時間稼ぎの捨て石とした」との批判も起こらなかったろう。
しかし、そうではあっても、沖縄を守らなければならないという強い意志、沖縄民間人の犠牲をなるべく出さないようにしたいと手を尽くした真心に、嘘偽りはなかったのだ。
民間人をいたずらに巻き込むかたちでの地上戦をなるべく避け、無意味なバンザイ突撃や玉砕をよしとせず、アメリカ軍の攻撃によく耐え抜こうとしたが、矢尽き刀折れ、もはや、為すすべがなくなった。そして、自ら切腹自殺したのだ。
その時、牛島が「後は各個投降せよ」と言えなかったのは、当時の日本軍人の思考・言動の限界を示している。しかし、それは牛島ひとりの責任ではない。
6月6日に、海軍陸戦隊の司令官大田実少将が海軍省に向けて打った電文は「沖縄県民かく戦えり。県民に対し、後世、特別のご高配を賜らんことを」という二文で結ばれている。その心情に、嘘偽りは感じられない。
これは、県知事として赴任していた大田の盟友島田叡、陸軍第32軍司令官牛島満、海軍陸戦隊司令官大田実の三者に共通の思いであった。
島田は、6月7日、摩文仁の陸軍壕を訪れ、牛島と最後の別れを済ませ、その後、壕を出たが、後は行方が知れない。大田は、6月13日、豊見城の海軍壕内で自決した。
この頃、南部の激戦は熾烈を極めていた。アメリカ軍最高司令官バックナー中将は、6月18日、前線視察中に、日本軍の砲撃で戦死した。この時、摩文仁の司令部では、誰もが戦争で勝ったかのように喜んだが、その中で、牛島はただ一人、哀悼の情を捧げるようにうなだれて「惜しい人物を亡くした」と呟いた。
そして、牛島もまた、「沖縄県民はよく尽くしてくれた。たとえ、日本本土のどこかが戦場になったとしても、これ以上の協力はないであろう。沖縄の住民を戦の道連れにすることは、まことに忍び難い」と述べ、心底県民を想い、県民を案じつつ、6月23日、摩文仁の司令部壕内で、腹を切ったのである。
けれども、東條英機については、明らかに無謀としか言いようのないインパール作戦を決行し、その後の思わしくない展開から作戦の失敗を知りながら、雨季がくるまで撤退を遅らせてしまったことで、兵士たちに地獄を味わせ、3万人の戦死者・餓死者・病死者・自殺者を出した張本人の一人として、万死に値すると考える。内閣総理大臣として、陸軍大臣として、現役陸軍大将として、軍令の最高責任者である参謀総長として、成功する見込みのない作戦に許可を出し、多大な犠牲を出した責任はあまりにも大きい。
しかも、東條は、それ以前に、ガダルカナル島の不毛極まる消耗戦を体験していたのである。それでもなお、兵站の重要性を認識していなかったのは、陸軍の最高指導者としての資質に、まったく欠けていたと言わざるを得ない。2万人が餓死したガダルカナルの戦いで何も学べず、今度は、インパールで3万人の餓死者を出したわけだ。
また、東條は、作戦の遂行状況に関して、天皇陛下に「万事うまくいっている」と嘘の報告をしていた。陛下が「どうも軍部の言うことは信用できない」とおっしゃったのも当然である。
東條は、事務官僚としては有能だったのだろう。しかし、存亡の危機にある国家の指導者としては不適格であった。近衛も含めて、当時、首相適任者が他にいたかどうかは、また別問題ではあるが。
ともかく、当時、国家全体、国民全体に言えることだが、「この国が、どれほどの難局に向き合っているのか」、理解が及ばず、まったくもって自覚が足りなかった。しかし、その最たるものが、首相である東條自身だったのだ。
その自覚の足りなさは、自殺の不手際にも現れた。切腹では死に切れないかもしれないと、迷った挙句、ピストル自殺を試みたが、胸を一発撃ったところで、心臓をはずれ、駆けつけたアメリカ軍による手術で一命をとりとめた。確実に死にたければ、口にピストルを加えて撃つべきだった。
願わくば、死刑になる前に、東條が自分の罪と責任を深く自覚する時間があったらよかっただろうに、と思う。
この日本の国の数百万の犠牲者たちの前に立ち、あの世で申し開きをしなければならない、その前に。
しかし、最後まで、そのような深い自覚には達しなかったように思われる。
もちろん、作戦立案者にして、ビルマ方面軍最高司令官として、インパール作戦を総指揮した牟田口廉也のごとき国賊が、戦後、長くのうのうと生き延び、なんの反省もないまま、穏やかな晩年を過ごしたことは、まったく納得のいかない話である。この男こそが、この誇大妄想に満ちた愚かな作戦を思いつき、己の人脈を利用して参謀本部の同意を得、ほとんどの現場指揮官たちによる当然の反対を押し切って、兵站を完全に無視した不合理極まる無茶なやり方で作戦を実行にうつしたのである。この牟田口中将の暴挙がなかったならば、皇軍の兵士たちが、戦友の肉を喰らい、仲間の屍体の人肉を売りさばく、この世の地獄は現出しなかったのだ。
牟田口は、「(自国軍の兵士を)5000人殺したら、(敵の)陣地を取れるか」などという会話を、平気で交わしていた軍上層部の人非人どもの代表格の一人である。この男は、なんの補給もなしに、各部隊を4ヶ月に渡って戦わせた。その上、武器も食糧もとうに尽きている師団に撤退を許さず、成功の見込みがまったく立たない戦いの中で、ひとえに自分の体裁のために、全軍の撤退を躊躇し続けたことで、さらに多くの部下を見殺しにしたのだ。
「牟田口よ、大和魂で、飢え死が防げるか、弾薬も食糧もない部隊が、大和魂さえあれば、持久戦に勝利できるというのか、お前の脳みそには膿でも詰まっていたのか」と言いたくもなるが、これは一概に、牟田口一人の問題とは言えない。多かれ少なかれ、当時の陸軍は、兵站を無視する悪しき傾向があったのも事実である。しかし、それにしても、配下の将兵に対し、血も涙もない酷すぎる采配であった。
そればかりか、いざ撤退が決まると、自分は、9万の将兵を雨季の地獄の中に見捨てて、恥知らずにも、一人で早々に逃げ帰ってきたのである。よくもまあ、そのような無責任なことができたものだ。
牟田口には、ビルマに屍を晒した3万の兵士たちの怨念を鎮めるために、むしろ、軍法会議で死刑になって欲しかった。いや、そもそも、この男は、なんとしても、ビルマで戦死か自決しなければならなかったのだ。これほどの惨劇を招いた責任を免がれて、おめおめと生き延びるなど、断じて有り得ぬことであった。
ところが、この男は、1966(昭和41)年に、77歳で亡くなるまで、一度たりとも、兵たちへの謝罪をしたことはなく、「インパール作戦の失敗は、私のせいじゃない、部下の無能さのせいだ」と言い張り続けたのだ。
牟田口の上官だった河辺正三中将もまた、1965年に、78歳で亡くなるまで、自分の責任を自覚することなく、自己弁護を繰り返すのみだった。
さらに、二人の上官だった南方軍総司令官寺内寿一元帥は、インパール作戦を大本営参謀本部に強引に認めさせた張本人だが、兵士たちがビルマで餓死している時に、前線に出ることなく、サイゴンの旧フランス総督官邸に留まり続け、そこまで愛人の赤坂の芸者を軍用機で呼び寄せて、現地で豪遊していた。この男も、自決する気概もなく、結局は米軍捕虜として病死することとなった。
大本営陸軍参謀総長として、インパール作戦を許可した張本人の杉山元は、終戦後、「この国にこれほどの荒廃をもたらした自分の責任は万死に値する」と天皇陛下に上奏し、インパール作戦の関係者では、唯一、ピストルで胸に4発の弾を発射して自殺し、その妻も青酸カリで自殺した。他の方々に比べれば、鮮やかな引き際であった。
ところで、杉山と陛下との間で、日米開戦前に交わされた以下の会話は有名である。
陛下に「もし、日米開戦となった場合、どのくらいで作戦を完遂する見込みか?」と対米戦争の成算を問われた参謀総長の杉山は「太平洋方面(太平洋戦争)は、3ヶ月で作戦を終了する見込みでございます」と楽観的な回答をする。
これに対して、陛下は「汝は、支那事変(日中戦争)勃発当時の陸相(陸軍大臣)である」「あのとき『事変は2ヶ月程度で片付く』と私にむかって申したのに、支那事変は、4年たった今になっても、終わっていないではないか」と語気荒く問いつめた。
答えに窮した杉山が「支那(中国)は奥地が広うございまして、作戦が予定通りにはいかなかったのであります」と言い訳すると、陛下は「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか、いったいいかなる成算があって3ヵ月と言うのか」と一喝し、杉山は言葉を失ったという。
ともかく、軍が、万事において、甘い見通しをもって行動していたことは確かであった。そして、その代償は、あまりにも大きかった。
さて、インパール作戦以前も、以降も、2万人を超える餓死者、戦死者を出したガダルカナル島の戦いや、1万人を超える戦死者と10万人のマニラ市民の犠牲を出したマニラ攻防戦など、あらゆる無理な作戦を後押しし、神風、回天、震洋など、あらゆる特攻戦法を推進した大本営の陸軍参謀本部及び海軍軍令部の参謀達についても、全員、終戦の時点で自決するか、さもなくば極刑に服するべきだったろうと思う。
しかし、現実には、彼ら参謀本部・軍令部のエリート連中の大半は、戦後、自決することもなく、罰せられることもなかった。平和な戦後の日本で、穏やかに天寿を全うし、年老いて死ぬまで、戦争中の前線の兵士たちの惨めすぎる死について、一度として耐えがたい痛みを感じることもなければ、自らの責任を痛切に感じることもなかった。この者たちの誰一人として、兵士たちの苦しみと無念を、深く思って苦悩することもなかったのだ。
そのような連中は、戦後の世界に生き延びてはいけなかった。彼らは、全員、新しい時代を前にして、恥があるなら死を選ぶべきだったろうと私は思う。しかし、どうせ、何の反省もなく、名誉ある自死を選ぶような潔い連中でもないから、実際問題としては、その罪の重さを問い、死刑を宣告するよりほかなかったろう。
ところが、それさえも、叶わなかった。世の中、悪い奴らばかりが、のうのうと生き延びる。純粋な若者たちは、特攻して死んでいったというのに。あるいは、南方で餓死していったというのに。
ドキュメント映画「ゆきゆきて、神軍(1987)」で、明らかにされた事態は、特殊な事例ではないのだ。
このドキュメントの内容は、以下のようなものだ。パプアニューギニアで、戦友が、終戦後に、なぜか戦死をした。親友の謎の死に不審を抱いた男が、親友の所属していた部隊の生き残りを訪ね、真相を追求し続ける。やがて、男は、部隊の食糧として部下を殺して食べることを率先していた上官に、従わなかった親友が口封じのために殺されたことを知る。
もちろん、男は、そうだろうと確信していた。ドキュメントは、目撃者や殺害協力者から言質を取るのが目的だった。何しろ、戦時中は、男もニューギニアにいたし、彼の部隊も、飢えとマラリアに苦しみ、千数百名のうち、生き残ったのは30数名だったのだ。男は「俺は最後の神軍だ」と叫んだ。「天罰は俺が加える!」
この男奥崎謙三は、1983年、ドキュメント撮影後、元上官宅で発砲事件を起こし、殺人未遂で服役(懲役12年)した。しかし、気持ちはわかる。
自国民を虫けら以下にしか感じない連中が国の中枢を動かしているという事実を、国民が知ってしまうということは、もはや、その国が滅びるべき国であることの明白な証である。
「国家、信なくんば立たず。」
国民が、国を信じることができなくなったら、もはや、国は立ち行かない。
東條や牟田口、河辺のような輩は、その意味で、非国民とか国賊といった軽いレベルの存在ではない。むしろ、国家の癌であり、それも、たとえるなら致命的なレベル4の癌細胞である。
そういう意味では、戦後日本が、一度は軍隊を捨てたのは、死んでいった者たちへのせめてもの禊であったと言える。
日本軍は、その自らの所業ゆえに、徹底的に解体されなければならなかったのだ。これは、日本の文化的伝統と精神からすれば、当然のことだ。
日本の右翼や保守が、「自分は国を愛する者だ」と公言するとしても、上記のことをはっきり明言しない者については、私は愛国者とは認めない。
大戦時、陸軍でも海軍でも、多くの現場指揮官たちは、兵士と苦楽を共にし、最期はすべての責任を背負って、潔く死んでいった。
玉砕を強制する大本営の司令に対して、「俺が死んだら、お前たちは、それぞれの判断で生き抜け」と言い残し、司令部から一人で、砲弾の嵐の中へ歩いていった陸軍の師団長がいた。あるいは、部下は総員退去させ、艦と運命を共にした司令官と艦長は、海軍に数多くいた。皆、部下思いの立派な指揮官だった。
硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道中将しかり、沖縄戦の牛島満中将しかり、特攻隊の生みの親である大西瀧治郎中将しかり、ミッドウェーで空母飛龍を指揮して孤軍奮闘した山口多聞少将しかり、大和の沖縄特攻を指揮した伊藤整一中将しかり、である。彼らは、東條や牟田口とはまったく違う、真の武人であった。彼らこそ、人の痛みの心底わかる乃木希典の正統な後継者だった。彼らの切なる祈りが、今の日本の繁栄の礎となったのだろう。
牛島中将に関しては、沖縄戦の最終的な局面での彼の判断のいくつかが、県民の犠牲者を大幅に増やしてしまったのは、残念ながら確かである。
しかし、そもそも、当時の日本軍とアメリカ軍との圧倒的な物量の差を考えれば、あれほどの善戦を繰り広げることができたのは、やはり、稀代の名将と言って良いだろう。
沖縄戦における日本軍の戦死者は9万人、アメリカ軍の戦死者は2万人であった。さらに、沖縄民間人の犠牲者も9万4千人に及んだ。太平洋戦争における最大の激戦であった。
よく、「沖縄は本土決戦のための捨て石にされた」という言い方をする者がいるが、そういうことではない。実際、沖縄戦では、知覧から2000機近い特攻機が繰り出され、海軍最強の戦艦大和も、片道分の燃料をかき集めて、沖縄へ向けて特攻したのである。〝捨て石〟に対して、そんなことはしない。陸軍の増援も、可能であればしただろうが、大和ですらたどり着けない状態で、兵員輸送艦が来れるわけがない。それに、大本営の〝冷血馬鹿ども〟の間で、「沖縄は本土決戦の捨て石に」という方針があったのは確かだが、沖縄防衛を任された第32軍の牛島司令官のもとに、その方針が正式に示されることはなかった。
加えて、天皇陛下は、沖縄戦が始まると、「敵の上陸に対して防衛しないのか」「陸軍は何故攻勢に出ないのか」「兵力が足りないなら援軍は出さないのか」「海軍にはもう船はないのか」「沖縄で軍が国民を守れなければ、軍に対する国民の信頼は地に堕ちる」と述べられている。少なくとも、大本営の人非人参謀どもも、陛下に対して「沖縄は時間稼ぎの捨て石に」などということは、到底言えるものではなかった。陛下は、千島から沖縄まで、〝八島の守りの内(本土)〟と考えており、沖縄防衛を最終決戦と考えていたからである。
また、当時の軍のあり方を考えれば、牛島が最後まで降伏を潔しとしなかったのも、致し方ないと言うより他ない。
もっとも、首里司令部に踏みとどまらずに、部隊を南部に転戦させたことは、後世に禍根を残す最大の失敗であった。首里で徹底抗戦して玉砕していたら、その後の民間人の多大な犠牲を出すこともなく、「沖縄を時間稼ぎの捨て石とした」との批判も起こらなかったろう。
しかし、そうではあっても、沖縄を守らなければならないという強い意志、沖縄民間人の犠牲をなるべく出さないようにしたいと手を尽くした真心に、嘘偽りはなかったのだ。
民間人をいたずらに巻き込むかたちでの地上戦をなるべく避け、無意味なバンザイ突撃や玉砕をよしとせず、アメリカ軍の攻撃によく耐え抜こうとしたが、矢尽き刀折れ、もはや、為すすべがなくなった。そして、自ら切腹自殺したのだ。
その時、牛島が「後は各個投降せよ」と言えなかったのは、当時の日本軍人の思考・言動の限界を示している。しかし、それは牛島ひとりの責任ではない。
6月6日に、海軍陸戦隊の司令官大田実少将が海軍省に向けて打った電文は「沖縄県民かく戦えり。県民に対し、後世、特別のご高配を賜らんことを」という二文で結ばれている。その心情に、嘘偽りは感じられない。
これは、県知事として赴任していた大田の盟友島田叡、陸軍第32軍司令官牛島満、海軍陸戦隊司令官大田実の三者に共通の思いであった。
島田は、6月7日、摩文仁の陸軍壕を訪れ、牛島と最後の別れを済ませ、その後、壕を出たが、後は行方が知れない。大田は、6月13日、豊見城の海軍壕内で自決した。
この頃、南部の激戦は熾烈を極めていた。アメリカ軍最高司令官バックナー中将は、6月18日、前線視察中に、日本軍の砲撃で戦死した。この時、摩文仁の司令部では、誰もが戦争で勝ったかのように喜んだが、その中で、牛島はただ一人、哀悼の情を捧げるようにうなだれて「惜しい人物を亡くした」と呟いた。
そして、牛島もまた、「沖縄県民はよく尽くしてくれた。たとえ、日本本土のどこかが戦場になったとしても、これ以上の協力はないであろう。沖縄の住民を戦の道連れにすることは、まことに忍び難い」と述べ、心底県民を想い、県民を案じつつ、6月23日、摩文仁の司令部壕内で、腹を切ったのである。