なぜ人はカルト・宗教・陰謀論にハマるのか?


それについて考える上で、まずは「カルト・宗教・陰謀論とは何か?」について考えてみたい。

「人間の幸福とは何か?」

「人生の成功とは何か?」

「神とは何か?」

「魂とは何か?」

「人はなぜ不幸になるのか?」

「人は死んだらどうなるのか?」

「人間に魂はあるのか?」

「死後の世界はあるのか?」

「神はいるのか?」

「どうすれば苦難から逃れられるのか?」

「どうすれば死の恐怖を克服できるのか?」

「どうすれば幸福になれるのか?」

「どうすれば成功できるのか?」

「人類社会が幸せになるのを邪魔するものは何か?」

「どうすれば人類は破滅に向かうことなく、現在の困難な課題を乗り越えられるのか?」

そうした切実な課題に対して、カルト・宗教・陰謀論は、わかりやすい答えを用意している。


しかし、彼らが用意している答えは、事実や理性に基づく科学的なものではなく、偏った価値観やゆがんだ世界観や誇大妄想が混ざった歪なファンタジーである

そうしたカルトの代表として、幸福の科学、GLA、旧統一教会、顕彰会、アーレフ(旧オウム真理教)、ラエリアン・ムーブメント、一貫道(天道)、モルモン教、エホバの証人、キリスト教原理主義、イスラム教原理主義、シオニズムなどがある。

例えば、幸福の科学の創始者である大川隆法氏は、自らギリシャ神話の商業神ヘルメスと仏陀の生まれ変わりで、地球神(エル・カンターレ)の中核(本体意識)と称する。また、大川氏の先妻のきょう子氏は、アフロディーテや文殊菩薩の生まれ変わりとされていたが、離婚した途端、ユダの生まれ変わりとされ、代わりに後妻の紫央氏は坂本龍馬の生まれ変わりとされている。まるで、昨今のライトノベルの定番である異世界転生のアイディアを利用した神さま詐欺のようにしか思えない。

また、旧統一教会の創始者文鮮明は、15歳の時にイエスの霊から「自分の果たせなかったメシアとしての使命を果たしてほしい」と頼まれ、このイエスの頼みを受諾したと述べている。つまり、イエスに代わって救世主(メシア)として世界を救うことを引き受けたというのだ。

しかしながら、私としては、地球神(ブッダ?)と救世主(キリスト?)が、同時代・同一地域に二人も揃っていたにも関わらず、彼らが生きていた間に人類が救われたとは到底思えない。


ラエリアン、アーレフなど一部のカルトは、自分たちの教えは科学であると主張しているが、事実はそうではないので、彼らの教えを疑似科学・ニセ科学と批判することもできるだろう。

例えば、ラエリアン・ムーブメントは、人類含めてすべての地球生命は、地球外生命体エロヒムの遺伝子操作によって創造され、進化させられたと主張する。創始者であるフランス人ラエルは、UFOからのエロヒムのメッセージを受け取った20番目にして最後の預言者で、その与えられた使命は、クローンと記憶データ転送技術の開発による不老不死の実現である。ラエリアンは、魂など存在しないと考えており、適切な方法でクローンの脳に記憶を転写できれば、人の不老不死が実現すると信じている。ラエリアンの洗礼を受けた者は、洗礼を受けた時に遺伝情報がUFOに送られており、死後、今度は記憶情報がUFOに送られて、エロヒムによってUFO内でクローンが作られ、記憶が転写されて、無事、宇宙で復活することができるという。まるで、萩尾望都のSF作品『A-A’』の内容そのものである。

また、ラエルは、信者の減ったフランスから世界一信者の多い日本(千葉の本部)に移り住んでいたのだが、3.11での放射能の被害を恐れて、千葉から沖縄県南城市に移住した。

人類よりはるかに進んだ知的生命体エロヒムと交信しているラエル(「UFOに選ばれた男?」)が、なぜ福島の原発事故如きの微細な放射能の害を恐れて、わざわざ千葉の総本部から沖縄に移住しなければならなかったのか、意味不明である。エロヒムの放射能除去装置はどうした?


加えて、上記のカルト・宗教は、陰謀論との親和性も高い。陰謀論者たちにおいては「イルミナティやQアノンなど世界征服を企む悪魔的秘密結社が今も活発に活動している」と信じられている。ビル・ゲイツは、秘密結社の手先であり、トランプは結社と戦う戦士なのだそうだ。

また、極左の中核派や革マル派や赤軍派などの組織集団も、政治的なカルトである。彼らにとっては、アメリカの核は悪い核で、北朝鮮の核は善い核である。いずれにしても、ひどく偏っている。

そして、彼らカルトは「自分たちは、外の社会の悪意から、不当な抑圧や攻撃を受けている」と信じている

その反面、大学生などに、「サークル勧誘」を装ったりして、監禁・脅迫まがいの過激な勧誘を繰り返し、多くの逮捕者を出しながらも、逮捕された信者を機関紙で英雄としてたたえるという、なりふり構わぬ折伏至上主義の顕正会に代表されるような、しつこい勧誘のために法的なトラブルが常態化している戦闘集団的カルトもある。

また、カルト集団のほとんどは、多かれ少なかれ現世利益的であり、組織が効率的な集金システム装置として機能するように、彼らの教えを最大限に利用している。

厳格な「10分の1律法」で信者の収入の10分の1を集めるモルモン教以外にも、出家者に全財産を寄進させるオウム真理教や、極端な資産の寄進をさせる旧統一教会などに見られるように、カルトには、大規模な集団詐欺組織のように見えるものさえある。



それでは、なぜ人はカルト・宗教・陰謀論に引っかかるのだろうか?


◯最大の理由としては、彼らが、「自分が求める幸福とは何か?」「どうすれば不安や虚しさから解放されるか?」「自分が幸福になるために、何を追求すべきか?」といった哲学的問題にじっくり時間をかけて向き合うのが苦手ということがある。そのため、彼らは、常日頃から、問題の手っ取り早い解決法を探している

今日、多くの人が、健康で、お金があって、面倒な雑事が減れば、それで自分は幸せになれると、呆れるほど素朴に単純に考えている。

実利的で効率重視の現代人には、このタイプが多いようだ。

見方を変えれば、体調の変化や経済的負担や仕事上のストレスなど、物理的な目に見える、あるいは五感ではっきりと知覚できる問題には敏感だが、目に見えない内面的な問題には鈍感であったり、取り扱いが不慣れであったり、何かと無視しがちな人が増えているということでもある。

ストレスに関しても、疲れやすいとかだるいとか眠れないとか下痢をするとか頭痛がするとか、身体に苦痛として現れている状態だけを問題視して、根幹の内面的問題は見つめようとしない。

しかし、そういう人が、放置してきた内面の問題が積もり積もった状態で、精神の危機に見舞われた場合、あるいは人生の破綻に直面した時、彼らはどうしたらよいのか、まったくわからなくなる。八方塞がりのお手あげ状態となり、打つ手なしで降参するしかなくなるのである。

だから、切羽詰まって、「南無阿弥陀仏を唱えれば救われる」とか、「バプテスマを受ければよい」「入信すればよい」とか、「布教して信者をたくさん入信させればよい」「折伏すればよい」とか、「お布施をたくさんすればよい」「寄進すればよい」とか、他人が用意してくれる安易なわかりやすい答えに飛びついてしまう


◯第二に、彼らは幼少期から読書によって、例えば「ピノキオ」「ピーターパン」「不思議の国のアリス」「ニルスのふしぎな旅」「北風のうしろの国」「夢を追う子」「オズの魔法使い」「風の妖精たち」「はるかな国の兄弟」「忘れ川をこえた子どもたち」「誰も知らない小さな国」「時の旅人」「ジェニーの肖像」「思い出のマーニー」「クラバート」「ナルニア国物語」「ゲド戦記」「指輪物語」「西遊記」「千夜一夜物語」「ギルガメシュ物語」「北欧神話」「ギリシャ神話」「旧約聖書」などの壮大なファンタジーの世界観に親しむことなく、「ノーストリリア」「星を継ぐ者」「冷たい方程式」「所有せざる人々」「地球の長い午後」「いまひとたびの生」「都市と星」「ハイライズ」「大宇宙の少年」「アンドロイド」「火星年代記」「神様はつらい」「星からの帰還」「アルジャーノンに花束を」「残像」「ライアへの賛歌」「中性子星」「都市」「エンパイア・スター」「人間以上」「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」「高い城の男」「1984年」「たった一つの冴えたやり方」などの絢爛たるSFの奇異な宇宙観に触れることもなく、「トルストイの民話」「石の花」「王子とこじき」「モンテ・クリスト伯」「レ・ミゼラブル」「大いなる遺産」「復讐には天使の優しさを」「大地」「人間の絆」「フラニーとゾーイー」「青銅の弓」「剣と絵筆」「王のしるし」「ともしびをかかげて」「風のような物語」「星の王子さま」「蜘蛛の糸」「ペスト」「七つの人形の恋物語」「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」「ドン・キホーテ」「蝿の王」「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」などの古典的作品を読むことで経験できる深い倫理的思索を楽しむこともなかった。要するに文学的素養に欠けている。同時に、読書による精神形成の機会もなく、自らの貧困なる精神を自覚して耕す努力もせず、人間的に成熟することなく生きてきたのである。

だから、カルトの提示する出来の悪いファンタジーの薄っぺらい世界観や価値観にも、疑問や反発を感じずに素直に丸呑みできてしまうのだ

それもこれも、彼らが文化的芸術的素養に乏しく、性質としてナイーブ(未熟・知識不足・判断力に欠ける)であるからだ。


◯第三に、彼らは、幼少期の家庭において、信頼できる人との持続的・安定的な人間関係を築いていく経験を欠いていた

原因は親との死別や離別、家庭崩壊や仮面家族状態など、さまざまな要因がある。そして、青年期においても、自力で信頼できる人間関係を築くことに失敗し、内面では精神の危機が進行していく。彼らは、家族や友人や隣人などとの安定的で親密な関係がつくれないまま、不安と孤独とストレスに苛まれて生きている。

問題の一部は、親子モデル、夫婦モデル、友人モデルの欠如から、人間的成熟が阻害されていることである。そして、もう一つ、重大な問題は、人間不信から、日常的に虚無感に襲われやすいことだ。

そのため、カルトの擬似家族的関係に惹かれやすく、いったんハマってしまうと、カルトへの依存から逃れるのが難しくなる

同時に、リアルの家族との関係は、ますます希薄になり、夫婦の別離や親子の断絶は決定的となり、それがまた、信者たちのカルトへの依存を強める。

一般社会から切り離されることで、ますますカルトへの依存が強まるという負のスパイラルである。

昔ながらの地域共同体(コミュニティー)が崩壊し、人間関係が希薄になりがちな現代社会においては、以前よりもカルトにハマりやすい環境が醸成されているといえる。


◯第四の要因は、親自身が、カルト的な精神の呪縛に囚われていており、子どもも親の呪縛的価値観に影響されて、親の望み通りに支配されてしまい、自由に考えることができなくなってしまうことから生じる強迫観念である。

ここで言う「親自身が囚われているカルト的な精神の呪縛」とは、必ずしも既成のカルト教団の教えを意味するわけではない。

カルト教団の教えとは関係のない、一般的な呪縛に囚われる親子の例として、典型的な関係は、例えば「お受験」にも見られる。多くの場合、「受験のために勉強することは絶対善である」という親の呪縛的価値観が、子どもの自由と好奇心と創造性を阻害し、ストレスに弱く依存的な性質を育てるのだ。そして、「答える時、間違えてはいけない」「勉強していないと負け組になる」という根拠のない強迫観念を生む。いわゆる〝優等生気質〟をつくりあげる。

ここで言う強迫観念とは、間違えることへの不安、そして、自分はきちんと努力していないのではないかという不安である。こうした呪縛的な不安は、幼い頃に、周囲の文化的環境によって植え付けられたもので、根が深く、矯正が困難である。また、信者の不安を煽ることで、信者を教団に依存させるのは、カルトの常套手段である。このため、大人になって、たとえ支配的な親から離れることができたとしても、似たような呪縛的価値観を持つ支配的なカルトに容易に囚われてしまうという負の連鎖が止められない。






およそ700万年前、最も近縁の類人類であるチンパンジーと分岐した時に、ドーパミンやエンドルフィンなどの神経伝達物質の放出量が減り、不安を強く感じる変化をもたらす遺伝子の変異が人類に生じた。この変異は、人類が、猿人、原人、旧人、そして現生人類(ホモ・サピエンス)などに分化する前に生じたものと考えられている。実際、ネアンデルタール人やデニソワ人など、4万年前まで生息していた現生人類と近縁の種(旧人)のゲノムを調べたところ、どの人種においても、この変異は共有されていた。


因みに「不安」とは異なり、「恐怖」は、あらゆる脊椎動物が、危機において、たとえば天敵(捕食者)と遭遇した時などに側頭葉の扁桃体が分泌するストレスホルモンによって感じるものである。

また、チンパンジーを含めて類人猿は、孤独に放置された状態においても、激しい孤独の苦痛を感じ、それが長期に渡った場合には、脳にも物理的な傷(トラウマ)が残ることがある。

だが、それらの恐怖や孤独は不安ではない。恐怖や孤独は直接的で体感的なものだが、不安は目に見えないもの、未知なるものに対するこわさであって、性質の異なるものである。


この「不安」の遺伝子は、気候変動による環境の変化によって、アフリカ中部の密林が小さくなり、否応なく草原に出ざるを得なかったサルたちの中で、最も遠くまで旅した種族(ヒト)が、360度、身を隠すところのない草原で生きていく上で、警戒心を維持するために獲得されたと考えられる。

ヒトは、この「不安」を感じる能力を発達させることで、危険な環境で生きていくことが可能になった。その意味で、ヒトは、最も勇敢に旅を続けたサルの一種族であると言える。言い換えると、「不安」は、サルがヒトへと進化する必要条件の一つだったのである。


このように、私たちは「不安」を肯定的に捉えることもできる。しかし、その一方で、「不安」には否定的な側面もある。不安が強いと、人は過度に失敗を恐れて、過去の成功体験にしがみつき、なるべく安全策を取ろうとする。「不安」は人を保守的にする。それは新しい試みをためらわせ、創造性の発揮を阻害し、多様な選択肢を吟味する機会や学習の機会を失わせる。「不安」は、側頭葉(扁桃体)のストレス・ホルモンの分泌を誘発し、その一方で、前頭葉の活動を鈍らせ、結果として脳の進化を遅らせる。


およそ10万年前、ホモ・サピエンスにおいて、今度は、ドーパミンなど幸せホルモン系の神経伝達物質の放出量を増やし、不安を感じにくくする遺伝子の変異が生じた。この変異は、ホモ・サピエンスの「出アフリカ」の時期と重なる。

また、現代人のゲノム配列の調査では、アフリカ大陸内には、この変異を持つ人がほとんどいないことがわかっている。さらにネアンデルタール人やデニソワ人にも、この変異は生じていない。「出アフリカ」したユーラシア大陸の現生人類においてのみ、地域差はあるが、およそ30%に、この変異が生じている。


ユーラシア大陸のホモ・サピエンスは、不安を強く感じる遺伝変異のみ有する人たちと、不安を感じにくい変異も有する人たちが、10万年にわたって共存してきた。このうち、不安を感じにくい遺伝変異を有する人たちは、前頭葉が活性化しやすく、多様な創造性の発露によって人類社会の変革に貢献してきたと考えられる。そして、この「不安遺伝子」と「不安緩和遺伝子」の取り合わせが、人類社会の維持と進化に、共に必要であったことが推測される。


例えば、不安遺伝子しか持たないネアンデルタール人やデニソワ人は、ホモ・サピエンスに比べて、脳の容積自体は大きく、記憶を司る側頭葉(海馬)はホモ・サピエンス以上に発達していたが、予測や応用を司る前頭葉は未発達であった。彼らは、一度記憶したことは、決して忘れなかったが、その一度覚えたやり方を、状況に応じて臨機応変に改良して用いる柔軟性や創造性に欠けていた。

不安は、知識(データ)を記憶し、忘れないようにしようという意識につながる。その意味では「知りたい」という欲求はある。だが、その欲求は、知らないことへの不安から生じたものだ。だから、不安の強い人は、知識(データ)を溜め込みがちになる。しかし、データを積み上げ、保存したことで安心してしまい、それ以上、情報の分析や理解・把握に努め、知識を深める意欲には繋がらない。そこには発展がない。


一方で、不安がない人は、好奇心から「知りたい」と思う。そこには新たな発見への意欲があり、未知のものへの憧れがある。彼らは、分からなかったことが、少しづつ分かってくる過程そのものに快感を感じる。だから、「出アフリカ」した人々は、ユーラシア大陸の果て、オーストラリアやアメリカ大陸までも旅を続けたのだ。

不安は、私たちの前頭葉を硬直させ、私たちの感情も磨滅させる。その状態が続くと、喜びは失われ、虚無と絶望に取り憑かれるようになる。

だから、子供を優秀にしたければ、子供を不安な状態に放置しないことだ。安心を与えること、それは、特に、幼い子ほど大切なことだ。そうすれば、子供たちの自然な好奇心が開花するだろう。


それから、ある種の「覗き見趣味」と好奇心の違いについても述べておこう。覗き見趣味は、疑心暗鬼や不信感や対抗意識から、「お前の秘密を見抜いてやる、暴いてやる」という意識の現れであることが多い。あるいは、「他の人が誰も知らないこと、隠しておきたいことを知っている」という密かな優越感を抱きたいがための衝動とも言える。

しかし、その「知りたい」という衝動は〝好奇心〟ではない。

また、自分の病理診断を知りたがるのも、不安から生じる欲求であって、それは好奇心ではない。理科の試験に備えて「虹はなぜ生じるのか?」と先生に訊くのも好奇心からではない。

好奇心は、不安や自意識や競争心や優越感やテストの準備とはまったく関係がない。好奇心は、内発的動機に基づく完全に個人的で没頭的なもので、腰を据えた持続的集中力を生み出す原動力である。不安とストレスのない状態で、はじめてヒトは好奇心のままに創造性を発揮する。




沖縄県は、翁長雄志知事時代の2015年4月に、普天間基地移設問題に反対する県の姿勢を米国政府に直接訴える目的でロビー活動を行うために、知事の強い意向でワシントン事務所を開設しました。

しかし、当時、アメリカ国務省は、外交権を持たない日本の地方自治体が政治的・外交的な意図を持って設立した事務所を、非課税(非営利)事業者として登録することに難色を示しました。

そのままでは県職員が駐在職員として就労ビザを取ることができず、事務所が運営できなかったため、アメリカの弁護士の助言を得て、沖縄県が100%出資する「株式会社沖縄県ワシントン事務所」を設立し、駐在職員のビザの申請では、沖縄県から直接雇用されていない株式会社が雇用する社員であるとして、「社長」「副社長」と記載してありました。しかし、実際には、ワシントン事務所の職員は、県職員の身分を有した地方公務員のままで、営利企業従事許可を得ていない公務員による違法な兼業状態だったのです。

(これは、ある種の〝イカサマ〟〝ごまかし〟であり、県の関与した詐欺行為であるとも言えます。)

その上、ロビー活動自体は、アメリカのコンサルティング会社に年間7000万円で業務委託し、出納・会計含めて活動・運営を完全に丸投げの状態で、県はその活動実態を全く把握せず、その上、県は100%出資法人に関わる法令義務に反して議会への事務所の活動報告も9年間行いませんでした。というか、報告すべき活動内容を関知しておらず、完全放置の状態でした。

また、当時、沖縄のメディアは、県がワシントン事務所を設置して普天間基地移設反対を訴えるロビー活動を行うことは大々的に報じていましたが、こうした運営の実態については何も報道しませんでした。

県民は、ワシントン事務所は基地反対のロビー活動のために運営されていると信じ込まされていましたが、実際には、営利目的の株式会社の名目で存在していた事務所は、何の営利活動も行うことなく、無駄に県民の税金を費やしていました。しかし、このことは、昨年まで、9年間、県民には知らされませんでした。

この事務所の活動内容については、アメリカの首都ワシントンで、沖縄の基地問題を啓発するとか基地に関する情報収集をするとか、知事がワシントンに来た時の案内などとなっています。

しかし、「営利目的で設立されているはずの株式会社が何の営利活動もしていない」という事務所の実態がアメリカ国務省にバレると、隠された意図を持つダミー会社と判断され、県はまずい立場になるのではないでしょうか。

また、営利目的のはずの株式会社が、主たる活動として米軍基地反対運動を大々的に行う(しかも米国の首都で)というのも、実際にはかなり難しいのではないかと思うのです。

そもそも、知事のワシントン訪問とか、ただの県民向けパフォーマンスにしかならない活動が、なぜ必要なのかという問題もあります。

いずれにしても、この事務所は、県民にとっては予算ばかり食う本当に意味のない存在です。


2024年の10月に玉城デニー知事は、「先日、事務方から報告を受けた」と公表し、それまで、アメリカのコンサルティング会社への普天間基地移設反対のロビー活動の委託については報告を受けていたが、株式会社ワシントン事務所の存在は知らなかったと述べました。

一言で言えば、毎年7000万円の県の予算をドブに捨てていたことについて、知っていたのに、まったく気にしていなかったわけで、「きわめてだらしがない」と言わざるを得ません。

それにも関わらず、玉城デニー知事は、今年も、このコンサルティング会社への委託(2023年度一般会計で1億円の出費)を続け、ワシントン事務所を維持したいという意向で、県議会に決算や予算を提出しました。それに対して、公明・自民・維新の野党三会派が多数の県議会は、この玉城デニー知事の提出した決算を不認定とし、2025年度予算については、ワシントン事務所の維持費用3900万円を含む予算委の審議を拒絶しました。

2025年3月28日、ワシントン事務所経費を全額削除する予算の修正案が、県議会で可決され、ようやくワシントン事務所が閉鎖される見込みとなりました。ところが、玉城デニー知事は、4月11日の定例記者会見で事務所再設置に強い意欲を示しています。

つまり、玉城県政としては、百条委で「事務所設立と運営に関して、いくつか重大な瑕疵がある」と指摘された点については、瑕疵を法的・制度的に是正すれば良いのであって、今回は議会が予算を認めなかったから、一時的に事務所は閉鎖しますが、今後、法的に問題ない建て付けにして事務所再開を目指すという立場なのです。

具体的には、県による営利法人設立の追認の事務手続きを完了し、県職員であるワシントン駐在職員の営利企業従事許可を行い、取得した株式の登録を行い、法的な瑕疵を是正すれば、事務所を再開して問題はないと考えているということです。


しかし、何のために、この事務所は維持されなければならないのでしょうか?

これまで、事務所の存在自体を知らず、活用できなかったので、知事のワシントン行きに今度こそ利用したいとでもいうことなのでしょうか。

何の成果も期待できない、何の役割も果たしていない事務所の維持に固執するのは、本当に意味がわかりません。

それでも、ともかく「何としてもワシントン事務所を維持したい」という知事の意志は固いようです。

ですから、次回、選挙で玉城デニー知事を支持する〝オール沖縄〟が勝てば、金食い虫の上に役立たずのワシントン事務所は復活するでしょう。

すべては県民次第というわけです。

ただ、沖縄県のメディアは、この問題の推移について、おおよそ沈黙しており、〝疑惑のデパート〟であるワシントン事務所の職員の業務実態や米コンサルティング会社に委託された活動の内容や資金の流れについて追及する百条委員会の動きについてなど、あまり報道されていません。

ですから、ほとんどの県民は、この問題について何も知りません。

もし、知ったなら、県民の多くは、県の活動のずさんさといくぶん誇大妄想的な散財の実態(総額で7億円を超える)に驚き呆れるに違いないと思うのですが…。

実際には、この「ワシントン事務所」問題は、一般の県民の中では何の問題にもなっていないのが現状で、県の行政を批判したり、県の責任を追及する世論は少なくとも県内には存在しません。

ですから、野党多数の県議会で百条委員会による県への責任追及が続いている渦中であっても、県側は、堂々と「事務所再開を目指す」などと公言できるのです。

基地移設反対運動の側の人々にとっては、あくまでも〝ワシントン事務所設置は正義〟という認識であるように思われます。

つまり、「基地反対は正義であるから、当然、ワシントン事務所存続が正しい選択」であるらしいのです。もっと言えば、「たとえ運営実態が詐欺的であったとしてもかまわない、なぜなら存在していることに意義があるから」というわけです。




以前、別の記事で、日本で少子化が進んでいるのは、結婚率が低下し、晩婚化しているからで、その原因は、家庭も子どもも恋人も欲しがらない若者たちが増えているためだということを記した。

しかも、それは経済的な理由からではなく、彼らは、そもそも結婚に興味がなく、異性とつきあうこと自体〝面倒くさい〟と感じているからだと指摘した。

今回は、その続きを論じてみたい。

 

「現代の若者は、なぜ家庭をつくることや異性とつきあうことに興味を持てず、面倒に感じるのか?」

人間は誰しも幸せになりたいと思っている。なのに結婚したくないのは、結婚に夢を持てないからだ。異性とつきあう気になれないのは、恋愛で幸せになれると思えないからだ。彼らにとっては、他者と深く関係を結ぶことが喜びではないのだ。

ある意味、人間不信の極みである。自分自身についても、人と愛情を育むことができる人間だとは信じていないということでもある。

 

しかし、自分が家族から愛されなかったなら、かえってなおさら強く愛を求めるようになるのではないだろうか?

せめて自分は愛情に満ちた家庭を築こうと思うのではないだろうか?

なぜ、そうならず、陰々滅々の方向へ振り切れてしまうのだろうか?

 

それは、おそらく彼らが生まれた時から、嘘しか言わない家庭で育ったからではないかと私は思う。その家庭に愛があるかどうかはわからない。ただ、もし彼らが家庭で互いに本心本音を言い合ったら、ほとんどの家庭が崩壊していただろう。

そして、日本の離婚率はフランスを飛び越えて振り切れることだろう。

しかし、現状、そうはならず、この国の家庭の多くは、嘘と沈黙、策略と不干渉によって、かろうじて維持されている。

互いに本音を口にすることなく、なんとなく〝かたち〟だけは維持されている、そのような家庭で育った子どもたちは、親の言葉に何一つ〝本当のことがない〟ことを、本能的に見抜いている。そして、家族の言葉が信じられず、家族の愛情も実感としてわからないまま成長し、自分自身、嘘しか言えない大人になる。

泉谷しげるの「春夏秋冬(※)」ではないが…。

「夢のない家を出て愛のない人に会う。」というわけだ。

 

彼らは人と心で繋がるすべを知らない。そして、誰かを愛することもない。

彼らが関心を持つのは、自分のことだけである。

だから、異性とつきあうのも、家庭をつくるのも、彼らには何がそんなに良いのかわからない。

彼ら自身にはそういう欲求がまったくないからだ。

そのように彼らを不自然な生き物に育てたのは、見栄っ張りで嘘つきの親たちだ。

とは言え、もうすでに大人なのだから、それは彼らの自己責任でもある。

本当に幸せになりたいなら、「人は独りでは幸せになれない」ということに、彼らは青年期に気づくべきだった。

そして、親の生き方や価値観と決別し、自らの生きる道を自分で選んで歩み始めるべきだったのだ。

 

アーシュラ・K・ル・グィンが短編小説で描いた「オメラスから歩み去る人々(※※)」が生まれ育った都を後にするように。

 

そして、あなた達は、親の価値観を捨て去ろうと引き継ごうと、いずれにせよ、遅かれ早かれ、上記のような事実を、つまり、「嘘がどれほど人間精神を蝕んでいくか」を、年を経るごとに身に沁みて感じるようになるだろう。

古代ギリシャのサモス島の賢人にして〝自然哲学の父〟ターレスが次のように言うのはまったく真実である。

「一番賢いものは時である。というのも最も秘められた物事を暴くからである。」 

また、同時期のアテネの立法者にして放浪の賢人ソロンの言葉にも同様のものがある。

「生涯の終わりに達していない人の幸せについて、人は判断を下すことができない。人が幸福であると言い切るためには、結末を見ることが何より大切である。神様に幸福を垣間見させてもらった末、一転して奈落に突き落とされた人はいくらでもいる。」

これもまた、まったく真実である。

嘘しかない人生の最後は、必ず惨めなものとなるだろう。

 

 

 

※春夏秋冬⇨本人の作詞作曲による泉谷しげるの代表曲で1972年に発表された。歌詞に「季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち、夢のない家を出て、愛のない人に会う」とある。

 

※※オメラスから歩み去る人々⇨アメリカの作家アーシュラ・K・ル・グィンが1975年に発表した短編小説で、処女短編集「風の十二方位」に収録されている。架空の幸せの都オメラスでは、不幸せな見捨てられた状態で監禁されている子どもがいる。そのたった一人の子どもの犠牲を代償にオメラスの幸せは成り立っている。その子どもに手を差し伸べ解放したならば、オメラスの繁栄は終わりを迎えて、この都は滅んでしまうのだ。だから、この街のすべての人は、自分たちの幸福が、この子供の不幸の上に成り立っていることを知っている。子供たちは、適当な年齢になると、親など大人に連れられて、この牢獄の中の子どもを見せられる。幸せに育っている子どもたちは、この不幸な子どもを見て、驚き、嘆き悲しみ、後ろめたい気持ちに苦しむ。しかし、やがて、そのショックを克服し、何の犠牲もない幸福などないのだと自らに言い聞かせ、その分、かえってこの都の幸福を大切に思うようになる。

ところが、この幸せの都から、去っていく者たちもいるのだ。彼らは、大抵、誰にも相談することも、別れを告げることもなく、ある日、1人きりでこの都を後にする。少年や少女もいれば、大人の場合もある。不思議なことに、彼らは皆、自分の行先を知っているようなのだ。彼らはためらうことも、惑うこともなく、しっかりとした足取りでオメラスから歩み去る。

 

 

 

スティーブ・ジョブズは自身がリード大学を6カ月で中退しているせいもあってか、大学の卒業式に招かれてスピーチを行ったのは、生涯に一度だけである。それが2005年のスタンフォード大学における卒業式でのスピーチだ。

この有名なスピーチはYouTubeでも英文及び日本語訳付きで全編が公開されている。したがって、聴きたい人は誰でも聴くことができる。

ただし、このスピーチで彼が伝えたかったことの中身は、非常に簡潔でユーモアとウィットに富んだ言葉で語られているにも関わらず、実はかなり難解で意味が深い。

この記事では、スティーブ・ジョブズが卒業生たちに伝えたかったこと、その内容について少し掘り下げてみたい。

全部で13分ほどの短いスピーチの中で、彼は3つのことを話している。

 

第一のテーマで彼が伝えたかったことを一言で表すと次のようになる。

「これが自分の役に立つのか?」何のために、これをやるんだ?」「これは自分にとって何の意味があるんだ?と問うなかれ、ということだ。

「何の役に立つのか?」なんて、そんなことは考えても意味がない。なぜなら、人間には、自分の未来において何が役に立つのか、前もって判断することは不可能なのだから。

人間に、そんな予知能力はない。だから、逆に言えば、「あなたの未来のために、これが必要だからやりなさい」と誰かに押し付けられた作業(苦役)で、貴重なあなたの今の時間を費やしてはならない。

具体的に言うなら、「あなたの将来のために、この勉強をしなさいこの学校に行きなさい)」という大人のもっともらしい言葉に騙されてはならない、ということだ。なぜなら、大人たちは、あなたの未来のために何が必要か、本当は何もわかっていないのだから。

しかし、「こんな勉強が何の役に立つ?(いや、何の役にも立たない!)」と一方的に拒絶するのも浅はかで間違っているかもしれない、とも言える。

物事は常に多面的である。

 

第二のテーマで彼が伝えたかったことは次のようなことだ。

未来に必要なことなど誰にもわからない。だから、今、あなたが本当にやりたいことをやりなさい。夢中になれることをしなさい。そして、心に幸せを感じられる時間を過ごしなさい。

もし、あなたが、やりたくもない、でも、自分の将来のために必要だからやらねばならない(と信じ込まされている)こと(例えば受験勉強など)で、自分の時間を埋め尽くして、味気ない生活をしているなら、やがては自分の人生そのものを愛せなくなってしまう。自分の人生を愛せない人は不幸な人だ。

そうならないように、人生を愛せる人になるために、やりたくないことなどやるのはやめて、充実した時間をおくりなさい。

立ち止まることなく、好きなものや人、夢中にさせてくれるものや人を探し続けなさい。

そして、諦めずに幸せを掴みなさい。

「喜びのない日常の連続は不幸をもたらす」ということだ。

 

そして、第三のテーマでジョブズが伝えたかったことは、ちょっと難しいが、次のようなことだ。

自分の寿命が今日1日しかないとしても、あなたは今日予定していたことを、それでもやるだろうか?

自分にそう問いかけた時、「いや、こんなことはしない」と思うとしたら、それは、自分にとって、あまり大切なことではないということだ。そのように感じることは、初めからしない方がよい。

ただし、これは、『自分の寿命には限りがある』と本当に自覚しない限り、わからない命題である。

自分の時間がそれほど多くないと知っている人は「はたしてこれは、残り少ない自分の時間を費やして良いことだろうか、その価値はあるのか?」と自然に自問自答するものだ。

実際、迫り来る死と向き合った時、その不安や恐怖の前には、世の中のたいていの瑣末な雑事は何の意味もなくなる。これは味わった人しかわからないだろう。

だが、考えてみれば、人間の人生など、いつ終わるか、誰にもわからない。その意味では儚い命である。だからこそ、愛おしい。

限りある命だからこそ、人生を愛しむべきだ。

人は幸福にならねばならない。

死の直前まで、その渇きを満たすために求め続けなさい。

 

ジョブズは、上記のような助言を若者たちに遺した。

世界は、人と違う何かを持ったあなたを必要としている。もし、あなたが人と同じであるなら、あなたの代わりはいつでも用意できる。だが、誰とも異なるあなたに代われる人はいない。あなたの存在は、この世で唯一無二であるのだから。

27クラブの一人でもあるアメリカのロック・ミュージシャンのカート・コバーンは次のような言葉を遺している。

人と違う私を皆は笑うが、私は人と同じ皆を笑う。』

かけがえのないあなただけの人生を大切に生きて欲しい。