公明党の支持母体である創価学会の故池田大作名誉会長は、北京大学から名誉教授の肩書きを贈られており、創価学会は長年にわたって親中国の姿勢をとり続けている。

今回、突然の連立離脱には創価学会(公明党)に対して北京からの指令があったのではないだろうか。実際、連立離脱のニュースを真っ先に発信した国は、アメリカでもロシアでもフランスでも韓国でもなく、中国であった。

そういうわけで、今回の公明離脱の裏には、中国による高市潰しの意図が潜んでいるのではないか、という印象が強い。

実際、公明党の斉藤鉄夫代表は、連立離脱の4日前、10月6日に中国大使と会っていた。その時、直接指令があったかどうかは定かではないが、中国側からの圧力の一部であった可能性は高い。

ただ、「公明党の決断の裏に、そういった中国の陰謀があるのでは?」という疑念が広まれば、日本国民の創価学会へのイメージは、旧統一教会並みに悪くなり、信者の学会離れも、より加速していくだろう。

公明党としては、それは絶対に避けたいので、決裂の理由として、政治と金の問題という建前(安全な言い訳)だけをことさらに言い立てているように感じられる。


いろいろな意味で、自民党は危機に陥っていることは間違いない。ただ、その本質は、長年のカルト教団(親北朝鮮系の旧統一教会・親中派の創価学会など)との無節操な理念なき野合がもたらした破局であり、当然の帰結であるとも言える。

安倍元首相の暗殺も、公明党連立離脱も、元を糺せば、安易なカルトとの結びつきが、長い目で見て、大きな災厄の種になるということを、自民党が深く考えることなく、あまりにも軽々しく政治及び選挙活動をしてきた報いである。

安倍さんも高市さんも、その代償を払わされているわけだ。

その結果、自民党は、今、まさに解党的出直しを迫られているのだろう。

この大波を乗り越えるには、これまで自民党を支えてきたあらゆる国民の支持に深く感謝し、人の人情の機微に敏感であるとともに、何がこの国のために必要か、真摯に考え、勇気を持って行動できる知恵と志が必要になる。

新総裁として、高市さんには、そうした人間的な懐の深さと世間的な知恵と日本の明日を切り開く志があるかどうか、試されているのだ。


公明党の斉藤鉄夫代表としても、さまざまな圧力の中で、不本意な決断だっただろう。そうした斉藤氏の言葉にできない心情を汲み取る余裕のない高市総裁の会見の様子にも、一抹の不安を感じざるを得なかった。

「一方的に連立解消を申し渡された」と文句を言う前に、まずは、長い間、協力関係を維持してきた公明党への敬意を表する言葉があって然るべきだった。それが、一国を率いるリーダーとしての大人の対応というものだろう。



※本来、中国とのしっかりした外交と自国防衛の責務を両立させることは、日本の政治にとって、必要不可欠なことである。

しかし、この国の親中派は、自国防衛の責務を安易に投げ出してしまう傾向が強い。

「中国は攻めてこない」「だから、日本は安全」というわけだ。

逆に、自国防衛の責務をしっかり担おうとすると、それだけで反中派と呼ばれてしまうのである。

安倍元首相もそうで、外交的に中国包囲網の形成に尽力したり、集団的自衛権に踏み込んだ自国防衛を明確にしただけで、極右とか反中と言われたものだ。

自国核武装を主張していた石原慎太郎などは、中国では極右の代表のように言われていた。

高市氏も、同じように見られていることは、まず間違いないと思われる。


日本人の眉は、近年、若者を中心に、ますます細く薄く淡くなっているように見える。

とは言え、日本人にとっては、昭和の時代から、眉を細く薄くするのが一般的な美意識の現れであった。

これには、江戸時代の浮世絵(歌麿とか)の美人画の描き方などに美意識のルーツがあるのかもしれないし、さらに遡って、平安時代の貴族の女性の眉剃りの風習に伝統のルーツがあるのかもしれない。

しかし、この日本伝統の細眉を好む傾向は、昨今、あまりに極端になってきている気がする。

ともかく、現代の日本では、イモトアヤコさんのように、お笑い的個性を狙うのでなければ、男性も女性も、眉を太く濃くすることはまずない。

ブルック・シールズ(1982年カネボウCMで来日)やリリー・コリンズ(2012年映画『白雪姫と鏡の女王』で初主演/来日)やカーラ・デルヴィーニュのような極太眉は、この国では一時的な刺激は与えても、絶対にモードの主流として流行ることはない。「細く薄く淡い眉こそが美しい」と、そう考えるのが、この国ではあくまでも普通(スタンダード)の感覚なのである。


ところが、この日本の常識もまた、世界の常識とは言いがたい。

例えば、イタリアの超人気テレビドラマ・シリーズ「DOC 明日へのカルテ」(2020〜)では、ジュリア、カロリーナ、チェチーリア、アルバなどドラマの中のヒロインたちの眉がクッキリと太く濃く目立っている。特にエリーザの超極太で漆黒の眉は、日本ではまず見られないもので、一見の価値がある。加えて、アンドレア、エンリコ、ガブリエル、ロレンツォ、ダミアーノなど男性陣の眉も、とても太く濃く野生味にあふれる感じである。

また、フランスの超人気テレビドラマ・シリーズ「アストリットとラファエル 文書係の事件録」(2019〜)でも、主人公の一人ラファエルの眉は相当に濃く太い。主要な登場人物の1人ウイリアムの眉も太いし、アストリットの恋人役の日本人俳優齊藤研吾さんですら、フランス人の美意識に合わせてか、かなり太い眉になっている。

同じフランスの人気テレビドラマ・シリーズ「バルタザール 法医学者捜査ファイル」(2018〜2022)でも、ヒロイン級の登場人物であるカミーユやオリビアの眉はとてもクッキリしている。

いずれのドラマにおいても、日本のような超極細眉の人はほとんど見当たらない。

そして、「日本人の考える太眉など、欧州では細眉と見られるレベルの細さに過ぎない」ということが、これらのドラマを観れば理解できるだろう。


思うに、眉を細く薄く淡くしたがるのは、日本、中国、韓国、台湾など東アジア文化圏特有の美意識なのではないだろうか。そして、そのもともとの発信元は、おそらく日本だ。そこから韓国や中国へと流行の発信源が移動していっているのだろう。

そして、少なくとも、眉の細さと薄さを尊ぶという感覚は、欧州文化圏の美意識においてはうすいように思う。

これには、東洋人と西洋人の顔の彫りの深さの違いも関係しているのだろう。太眉は彫りの深い西洋人の顔にこそ、よりフィットするのは確かだ。

しかし、それとは別にしても、私としては、眉毛を抜かず、自分の自然な眉の太さや濃さを受け入れている欧州の美意識のあり方の方が、むしろ、自由で健康的だと感じられる。

そういう面で、欧州の感覚を取り入れるような国際化は個人的には大歓迎なのだが、こういう開放的な美意識は、伝統的に手の込んだ作為を好む、この国ではあまり広まってくれない。残念なことだ。

どうも「日本国民の間では『強い政府は悪い政府』という偏向した思い込みがある」ように思う。

この極端な思い込みは、連綿と続けられてきた戦後教育によって、日本人の精神のかなり深いところに刻まれており、たとえものを知らない中学生ぐらいの少年少女と言えども、無意識にそう思っている傾向があるようだ。

「強い政府は悪い政府だ!」と。

憲法改正を目標に掲げ、選挙では連勝を続け、党内ではライバル不在で強い指導力を発揮した安倍政権などは、そうした〝悪い政府〟の代表だったと言えるだろう。

しかし、本当に安倍政権が他国並みの〝強い政府〟であったなら、コロナ禍での市民の外出禁止やパチンコ営業停止を強要できたはずだし、兵器輸出や独自核武装も実現しているはずだ。外国人による土地の買い占めも阻止できたはずである。しかし、現実はそうではない。安倍政権と言えども、国際的な基準で考えれば、強権的な指導力や市民への強制力に乏しい〝弱い政府〟に過ぎなかったのだ。


戦後、憲法学者は「平和憲法は強権的な政府の圧政を抑制するためにある」と宣い、歴史学者は「戦前・戦中の軍国主義の先鋭化こそが、強い政府が悪であることを証明している」と主張してきた。

しかし、私は、歴史的にも現在においても日本政府は基本的に「弱い政府」であると考えている。

憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と正義に信頼して我らの生存と平和を保持しようと決意した」の部分と、その前文の内容に基づく9条は、国家の権限を縛り過ぎ、結果、独立国家としての条件を満たしていない最悪の条文だと思っているし、戦前・戦中の軍国主義については、政府が強かったわけではなく、むしろ、弱い政府の指導者が軍部の勝手な暴走を抑えきれなかったことが問題だったと考える。


そもそも、普遍的現象として、一般に、特に民主主義国家においては特徴的だが、危機において国民は強い政府を望む。だから、コロナ禍では、ほとんどの国で、政府支持率が軒並上昇した。具体的には人口比で日本の50倍の感染死者を出していた欧州やアメリカで、政府の支持率はどんどん上がっていった。その一方で、欧米よりはるかに犠牲者が少なく、コロナ患者の治療を完全に公費でまかなうという至れり尽くせりの政策を実施していた日本で、政府への支持は下がり続けた。

重症者には無料でエクモを使用し、1人の患者につき医師五人体制で手厚く治療を続けていたが、それでも、世界唯一のエクモ無料提供国である日本でだけは、国民の政府への不満は高まり、国民の過半数が「政府は適切な政策をとっていない」と考え、政府に不信感を抱いていた。


一方、アメリカでは、コロナで2週間入院したら400万円の治療費を患者が自腹で支払わねばならなかった。コロナ禍で仕事もないのに、そんな大金はとても払えない。だから、皆、具合が悪くなるギリギリまで病院へ行こうとしなかった。それで、手遅れになり、亡くなる人が多かったのかもしれない。

日本では、たとえ重症化しても、治療費1千万円を超えるエクモ治療費用さえ全て政府が肩代わりしてくれたので、感染者は安心して医療機関へ治療を求めることができた。だから、日本では死者が増えず、重症化しても助かる人が多かったのかもしれない。


欧米では、コロナ基幹病院でエクモを使用している国など聞いたことがない。挿管しても肺が酸素を吸収できなくなれば、それ以上、打つ手はなかったのだ。そもそも患者の自腹でエクモ治療して、それでも亡くなったら、遺族に数千万円の借金が残ることになる。それは一般市民の多くにとって現実的な治療手段ではなかったろう。

ともかく、日本の治療環境は、他国と比べれば至れり尽くせりと言ってよいもので、そのおかげか、日本のコロナ死者数は少なかった。欧米と比較して50分の1、100分の1の少なさだった。にもかかわらず、それでも、市民の政府への非難の声は、欧米より日本の方が大きかった。

一般に日本人は、政府への不信感が大きく、弱い政府であることを求めながら、同時に政府への依存が強く、政府への注文が多い。依存しながら、不信感の塊で、文句を言い続ける。残念ながら、それが今日の日本国民の政府への態度の典型であるようだ。


欧米では危機において、政府を支えようという国民意識が強く働き、政府の強い指導力が求められた。ところが日本ではそうではなかった。「危機を口実にして強い政府が生まれる」ことを忌避する意識の方が勝っていたのだ。

それほどに、今日の日本人は自国政府を信じることができず、そのため、危機においても政府を支えようという国民の意欲がまったく高まらない。

こうした状況は、国民を主権者とする民主主義国家ではあるまじき状況で、きわめて危機的、あるいは末期的とも言える。

ところが、当の日本人自身はそうは思っていないらしい。

それほどに『強い政府は悪い政府』という思い込みの呪縛は深刻で、この国の政治状況を蝕む最大の要因となっている。


私がここで最後に一つ指摘しておきたいのは、こうした『強い政府は悪い政府』という考え方自体の是非ではない。そうではなく、強調したいのは「日本の常識は、必ずしも世界の常識ではない」ということだ。

国際的には、一般に、特に危機においては、諸国民は強い政府、強い指導者を求める。これは人類史上における一般的傾向である。だから、トランプやプーチンや習近平や金正恩が国民の大多数の支持を集め、欧州やイスラエルでもナショナリズムを標榜する極右政党が支持を得て躍進する。

現実の国際社会は「平和を愛する諸国民の公正と正義に信頼できる」状況ではないのだ。

であるなら、「自らの生存と平和は自らの意志と力で保持しなければならない」のは自明の理である。



8月6日の日テレNEWSで、祖父が広島・長崎で被爆した被爆者3世の日本人と、広島・長崎に原爆投下した航空機乗組員の孫のアメリカ人が、仲良く原爆ドームに向かって祈っていた。

このアメリカ人は、これまでにも多くの被爆者と会って話を聞いてきたという。


ニュースキャスターが、このアメリカ人の若者に「あなたのお祖父さんが直接関わった広島・長崎への原爆投下は正しかったと思いますか?」と尋ねた。

しかし、彼は「過去に起こってしまったことについて考えるのは意味がないと思います、過去は変えられないから」と答えた。


それを聞いて、私は、彼は当事者の子孫として戦争犯罪の問題に直面することから避けた、逃げた、詭弁を弄した、都合よくごまかしたと思った。

アメリカ人の一般的見解では「原爆投下のおかげで戦争が早く終わり、結果として米兵の犠牲者(日本の民間人の犠牲者ではない)も少なくて済んだのだから、アメリカ軍による核兵器の使用は正しい選択だった」とされている。これはアメリカ政府の公式見解でもある。アメリカの学校では、今でも『原爆投下は正義』と教えられている。だから、この若者も、そう信じているのだろう。


しかし、当時、日本には軍艦や航空機や戦車に使用する燃料も弾薬もほとんど残っていなかった。日本の戦争継続能力はすでに破綻していたのだ。沖縄に特攻した戦艦大和だって片道ぶんの燃料しか積めなかった。当時の日本軍は〝矢尽き刀折れ〟の状態だった。したがって「戦争の犠牲を減らすために核兵器を使用した」というのは、まったくの詭弁である。

この時期には地上戦などやらなくても、B29による高度1万メートルからの無差別絨毯爆撃で、ほとんど日本軍の反撃を受けることなく、米軍の攻撃機隊の損害ゼロで、日本の各都市を次々と火の海に変えていたのだから。

大和魂で日本人の竹槍が高度一万メートルのB29に届くか、という話なのだ。

この上、新兵器(原爆)まで投入する必然性はどこにもない。


「戦争を早く終わらせるため」という公式の理由が詭弁であるなら、では本当の目的は何だったのか?

ドイツの教科書には書いてあることだが、原爆投下は、白人至上の人種差別主義者たちによる、黄色人種を実験材料とした人体実験だったのだ。そのため、わざわざ空襲の影響の薄い無傷の都市に落として、その被害状況を観察したのだ。

広島にはウラン型、長崎にはプルトニウム型が、それぞれ使用された。2種の原爆の威力を比較するためだ。

ドイツがアジア系のユダヤ人をアウシュヴィッツで大量虐殺したのと同じように、アメリカは原爆でイエローモンキー無差別虐殺を行なったわけだ。


たとえ日本の教科書には記載されていなくても、歴史的事実は明らかである。

そうした事実を学んでいるのかいないのか、アメリカの原爆投下の正当性に何の疑問を感じないアメリカ人の思い上がった若者と馴れ合うこの国の被爆者の子孫の姿勢には疑問を禁じえない。


また、被爆者たちは石破総理に「日本は80年平和だったが、これからも戦争しないように約束して欲しい」と要求していたが、これも理解に苦しむ。

日本が80年間外国から攻撃されなかったのは平和憲法のおかげではない。世界最強の軍事大国との同盟関係のお陰であり、同時に、日本がアジア地域で突出した経済・技術超大国であったためだ。しかし、そうした安定的状況は、すでに過去のものである。


アメリカの軍事的プレゼンスも、日本の経済的プレゼンスも、急速に凋落しつつある。

戦争とは、片方の国がどんなにしたくないと願っていても、もう片方の国が突然攻め込んでくることがあるのだ。

そもそも、日本が周辺国に戦争を仕掛ける可能性などまったくない。問題は軍拡を続ける周辺核保有国の側にある。だから、石破首相に向かって言うよりは、習近平や金正恩やプーチンやトランプやネタニヤフに「戦争するな」と言った方が良いと思うのだ。


また、広島市長は広島の平和式典の演説で、核抑止の効果を否定する発言をしていたが、それは、中国・北朝鮮・ロシア・アメリカと核保有国に囲まれ、韓国でさえも独自核武装議論が進む中で、我が国の地政学的な状況を無視して、『日本だけは独自核武装はもちろんアメリカとの軍事同盟による核の傘すら必要ない』とする実にナイーブな意見表明であったように思える。


このような『日本の核武装は信じないが、周辺国の核武装は信頼する』という彼の奇妙に偏った非論理的態度は、ある意味、この国の反核主義者に典型的な姿勢ではある。

極端な例ではあるが「アメリカの核は悪の核、北朝鮮の核は正義の核」と発言する学者すらいる。

核兵器に正義とか悪とかあるだろうか。ともかく、「周辺国がどれほど核武装しようと、日本は核武装すべきでない」というのが、この国の反核論者のコンセンサスであるようだ。

しかし、こうした核抑止を否定する態度は、国防についての世論の形成に影響力を持つ学者・政治家・ジャーナリストの発言としては極めて無責任な発言であるように思える。


広島の慰霊碑に刻まれている「過ちは繰り返しません」という文字は、「(我々人類は)原爆投下という過ちは2度と繰り返しません」という意味であると、一般に理解されている。

しかし、投下した当事者の子孫であるアメリカ人の大多数が原爆投下を過ちと思っていない現状では、このような誓いに意味があるとはまったく思えない。

日本のように核兵器の保有や使用をタブー視する国は、他にない。

むしろ、核兵器など、いつ再び使用されてもおかしくないのが世界の現状である。


特に、攻撃範囲を限定する戦術核兵器であれば、なおさら、いつ使用されてもおかしくない。そうした限定的な核使用が、ついには戦略核兵器の使用にまでエスカレートしないとも限らない。

それを防ぐのは、はたして核保有国やその同盟国が一つも加盟していない無力な核兵器禁止条約か、それともパワーバランスの均衡による核抑止か、公正に現実的に考え、真摯な議論を重ねるのは主権者である日本国民の義務であろう。


日本国憲法 前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

そもそも国政は、 国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


日本国憲法の前文の全文を上記した。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい(そんな国際社会がどこにある?)」

「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない(どこも自国の国益を最重視だろ!)」

「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる(信じるのは勝手だが…。)」

等々、確かに「崇高な理念」が記されている。

ここで記されている「われら」とは誰か、「名誉ある地位を占めたい」とは誰が占めたいのか、「信ずる」とは誰が信じるのか。

当然、その主体は、憲法をつくった人々であり、その人々とは、この国の主権者である国民自身、あるいは、その代表者ということになっている。

この点については、上記の前文に以下のように記してあることからも明らかである。

「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」

「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」

「これ(国民主権)は人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」

「われらは、これ(国民主権の原理)に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」


しかし、上記の前文の内容は、本当に、日本国民の総意であると言えるのか。実は、一度たりとも確かめられたことがないのである。

そう考えると、上記の前文は、壮大なフィクションであり、誤解を恐れずに言うならば、重大なごまかしの上に成り立つ砂上の楼閣である

特に問題をはらむのは、以下の部分である。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」

理念は素晴らしい。

『あらゆる国家、あらゆる民族が平和を愛しており、それらの国々の公正と信義は信頼に足る』

『だから、この国に攻めてくる脅威は存在しないと信頼し、われらは武装せずとも安全であり、われらの生存は恒久的に保持できるという考えに基づいて国家を形成・運営しようと決意した』

こうした前文の精神に基づいて、「戦力を持たない」「交戦権を保持しない」という、前代未聞・空前絶後の憲法9条が生まれた。

クェーカーやアーミッシュなどといった信仰共同体であれば、そのような宗教的決意もあり得るだろう。しかし、雑多な主義・信条・信仰を有する日本国民が、総意として本当に上記の崇高な理想を深く自覚したのか、そして、その理念に殉じると「決意した」のか。さらには、それを誰がどうやって確認したのか。実は誰も知らないのである。

そこに問題がある。


一番重要な問題は『信頼には常にリスクが伴う』という事実である。

はたして、われわれは、今日、真実、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できるのか。

日本の周辺国であるロシア、中国、北朝鮮、韓国、アメリカについて、われわれは本当に信頼できるだろうか。

この点に関して、個人の理念として「信頼できる」と「決意する」のは、信条として立派である。

しかし、国の最高法規として、根拠もなく「信頼できる」と「(日本国民は)決意する」と記したのは、いささか軽率ではなかっただろうか。

その「信頼」が破られた時のリスクを負うのは国民である。であるなら、この前文の内容は、真に国民自身が「信頼できる」と決意したものでなければならない。

戦力を持たず、交戦権もなく、外国によって日本の国土と国民が蹂躙され、占領・支配・亡国の憂き目を見たとしても、それが自ら決意した結果であれば、自己責任で自らの信条に殉じたわけであって、同情の余地はない。

しかし、実際には、上記の前文の問題点について、国民的な議論がなされたことは一度もない

それはなぜか。

最大の問題は教育にある。


この国の教育には、伝統的に「書かれたものは信じる」という文化がある。特に権威ある文章については無批判に信じる傾向がある。

この国の憲法学者は、憲法を批判的に論じることなく、憲法という権威を高めることに努めることで、自らの権威を高めるのだ。

言い換えれば、この国の憲法学者は、本質的には国民主権を信じていない。国民が憲法を批判し、議論し、変えていくことを良しとせず、むしろ、国民の意思の上に憲法を置こうとするのだ。

その意味では、憲法学者にとって、日本国憲法は宗教的な『聖典』のようなものである。

この憲法の内容、特に「前文」などは、『人類の普遍的な理念を記したものであり、永遠不変の理念であるから、主権者である国民といえども変えることはできない』と主張する学者さえいるようだ。

そうなると、憲法の内容は、まったく議論の対象にならない。この国の学者・教育者・メディアは、そうした『決して憲法を批判しない』という態度を貫いてきた。

だから、最近になって、ようやく憲法9条を問題視する人は増えてきたが、「前文にこそ、根本的な問題がある」と批判する人は、いまだにほとんどいないのではないだろうか。

これこそが『憲法前文の呪い』である。


この呪いを解き、憲法前文及び第9条を改正しない限り、この国では『独自核武装の是非についての国民的な議論』が、現実的なものにはなり得ないし、そうである以上、この国の平和と安全を保持することは、現実的には不可能なのである。

なぜなら、わたしたち(日本国民)は、自国ファーストが当たり前の今日の情勢において、もはや周辺国(米露中韓北)の公正と信義を信頼していないからだ。

周辺国のほとんど(米露中北)は核武装しているし、韓国でさえ、独自核武装の是非についての国民的議論がある。

そして、我が国の経済力は、かつてのように東アジアにおいて圧倒的な巨人ではない。

それどころか、中国経済は既に我が国の3倍の規模を有しており、中国・韓国・台湾には先端技術産業で後塵を拝し、資源大国ロシアのような経済の自立性も持ち得ない。

今日の日本は、経済的にも軍事的にもあまりにも脆弱な国家である。

そして、経済も軍事も、丸ごとアメリカに依存している。

しかも、この依存は、日本国民が、アメリカの公正と信義に信頼して、われらの平和と安全を保持しようと決意した結果というわけではない。

何の理念も信条も独立心も対等の意識も意地もなく、ただアメリカの策略に対して無抵抗・無防備に全面依存しているだけである。

このような他律的で脆弱な国家は、周辺状況の変化によって、簡単に滅びてしまう。例えば、この国は遠からず中国に飲み込まれてしまうかもしれない。

そうしたどうしようもない依存性と他律性が、今日の日本国の情けない姿に目立つ特徴であり、その国家の姿は、主権を有する日本国民自身の貧弱な姿の反映でもある。

上記のような現状の日本の危機を招いている元凶の一つが〈前文の呪い〉なのである。


最後に、この呪いを打ち破る言葉を記そう。

「書かれたものを疑え!」

「権威を疑い、自分で考えてみよう。」

「一身独立(自立)して一国独立す(福沢諭吉)」


われわれ(日本国民)は、亡国を回避し、独立した国家として平和と安全を保持するために、前文と9条を捨てて、最小限の独自の核抑止力を持たなければならない

その第一歩として、われわれ個人個人が、依存心を克服して精神的に自立しなければならないだろう。

親に依存しないように生活し、権威に依存しないように思考しなければならない