たとえ信心深い人であっても、宗教に疑いをいだく決定的な瞬間というものがある。

たとえば、ドストエフスキーの未完の遺作「カラマーゾフの兄弟」の中に、イエスを拒絶する、有名な「大審問官」の章がある。さらに、その前章「反逆」には、次男イヴァンによる「神の存在そのものの否定」が描かれている。その内容は、非常に説得力のあるもので、同様の内容はホロコーストの生存者エリ・ヴィーゼルの自伝「夜」にも見られる。

エリ・ヴィーゼルはアウシュヴィッツに収容された時、15歳の少年だった。彼が体験したエピソードの一つに、次のようなものがある。


その美しさから、ナチスの将校や憲兵隊に可愛がられ、アウシュヴィッツ収容所の中でも特別扱いされて、そのおかげで収容所内を自由に動き回れたユダヤ人の利発な少年が、収容所で衰弱していく人々に、密かにパンを配ってまわっていた。しかし、ある日、この少年が、見せしめのために殺されて、その死体は絞首台に吊され、ぶら下げられた。

その死体を見た一人の男が「いったい神はどこにおられるのだ?」と呟いた。そして、それを聞いたエリ・ヴィーゼルは、自分の心の中で、誰かの声がその男に答えているのを感じた。「どこだって?ここにおられるーここに、この絞首台に吊るされておられる…。」


名著「夜」の中でも、最も印象的なシーンである。

上記の出来事、つまり、虐げられている善良で罪のない者たちを助け、唯一の希望となっていた、勇敢で慈悲に溢れた存在を、無慈悲に処刑するーこれが、神の計画の一部だと言うのなら、そのような邪悪な存在を、私は神と呼ぶことはできない。そんなものがいるとしたら、それは、人の運命をもてあそぶ〝存在X〟に過ぎない。

人類の歴史を裏から支配する全能なる存在の計画があるなどとしたら、ホラーでしかない。

だから、私は神の存在を信じることができないのだ。

まさにニーチェが言うように「神は死んだ」ということなのだろう。


仏教でも、親より先に死んだ子どもの霊は、親不孝の大罪を為したので、成仏することができず、三途の川を渡ることができないので、賽の河原で石積みをしなければならないなどと理不尽なことを言う。

しかし、この子どもたちが、どんな罪を犯したと言うのだろうか。「親を悲しませた罪」とは言うが、それでは、親の虐待で亡くなった子どもの場合はどうなのだ。真夏のパチンコ屋の駐車場で、閉め切った車の中に放置されて、親がパチンコに夢中になっている間に脱水症状で命を落とした子どももいる。罪があるのは親であって、子どもに罪はないだろう。

飢えた人たちにパンを配って処刑されたアウシュヴィッツの少年は、どんな罪を犯したというのか。彼こそは生ける天使であった。邪悪なる者たちの手によって理不尽に命を奪われた天使に何の罪があったというのだ。


病気で亡くなる子どもたちも、「途上国でなければ、親が貧乏でなければ助かった」という場合が少なくないだろう。そうすると、そもそも、生まれた場所が間違っていたということになる。しかし、子どもは生まれ落ちる場所を選べない。それなのに、なぜ、間違った場所に生まれたことが子ども自身の罪になるのか。

生まれつき障害を持って生まれ、ほとんど世の中のことを何も知ることなく、ただ家族の愛情に包まれて、およそ、この世の穢れをほとんど知らず、罪を犯す事なく、早逝した霊もあるだろう。

汚れなき障害児たちに何の罪があると言うのだろうか。むしろ、生きている我々の方が、はるかに罪が深いのではないか。

罪なき者たちに罪を押しつける無法がまかり通る。

あの世ですら、そんなパワハラが起こるというのなら、もはや、私は、神の教えも仏の教えも信じられない。


世界は差別と不平等でできている。だから、人間のつくった宗教の教えにも、差別と不平等の刻印がある。

例えば、ヒンズー教では、カーストによる身分差別が認められている。最上級のカーストであるバラモンに生まれた者は、前世で功徳を積んだために魂が清浄であり、そのおかげで、今世でも最上級のカーストに生まれることができたのだという。一方で、最下級カーストの不可触民は、前世の悪行のせいで魂が穢れており、そのために今世でも最下級カーストに生まれることになったというのだ。彼ら不可触民の魂の穢れはひどいので、近寄ると、こちらの魂も穢れてしまう。それが嫌なら、不可触民には絶対に触れるなと言うのだ。


こうした身分制度を固定化する価値観は、インドに侵入したアーリア人がドラヴィダ人支配を恒常化するために生み出した支配階級に都合の良い考え方だ。

当時、インドを征服し、支配者となったアーリア人は、金髪碧眼、白い肌を有する自分たちは、霊性から高貴な生まれながらの貴人であり、土着の先住民である黒髪黒眼、浅黒い肌のドラヴィダ人は、霊性から卑しい穢れた民で、奴隷にふさわしいと考えたのだ。

しかし、このインドのヒンズー教の教えは、日本の仏教にも大きな影響を与えている。

日本のお坊さんも、現世で金持ちに生まれた人、優れた才能を持って生まれた人は、前世で功徳を積んだおかげだという。逆に、今世で不幸な人、貧困や病いや孤独や虐待に苦しむ人、障害者や才のない人は、前世の行いが悪かったからだと説くのだ。


しかし、ガンジーは、豊かな商人の家に生まれたが、自宅の便所掃除をしている不可触民の姿が見えた時に、優しい母親から「あの人たちを見てはいけません」と言われて、ショックを受けたという。そして、イギリスで弁護士資格を得て、インドに帰ってきたガンジーは、一族の反対をおしきって不可触民の娘を養女とした。ガンジーは「不可触民と呼ばれる人々は、最も困難な環境で魂の修行を続けているという点で、最も神の御心にかなった清浄な魂を持つ人々だ」と述べた。

しかし、そう教え諭していたガンジーも、頑迷な者たちの逆恨みによって暗殺されてしまった。その立派な優しい教えも、現在、インドでは見向きもされない。ガンジーの銅像も、倒されて打ち捨てられ、苔むして朽ちていくのみだ。


教えが正しいから広まるのではない。教えが人を幸せにするから広がるのでもない。より優れた教えが残るのでもない。

類が友を呼び、悪貨が良貨を駆逐し、さながら時間の経過とともにエントロピーが増大するように、混乱と狂気が蔓延していく。ただそれだけのことだ。

マルクスの言葉で、唯一正しかったのは「宗教はアヘンである」という言葉かもしれない。

人は精神的な危機に陥ると、容易に共同幻想という狂気に依存するようになる。そして、その依存は、アヘンのように禁断症状を伴うようにもなる。

宗教の薬害は、麻薬同様に深刻であり、その被害は甚大なものとなる。


いったい宗教に何の意味がある?

ただ人心を惑わし、人の心を頑なにし、より多くの混乱と対立と悲劇と犠牲者を生み出すだけではないのか。

ちょうど、パレスチナやイランとイスラエルの紛争が終わることがないように、宗教は終わりなき争いを生み出す元凶に過ぎないのではないか。


アメリカのSF界の大御所ロバート・A・ハインラインの長編小説に『ダブル・スター(1956)』という作品がある。同じハインライン作品の『人形つかい(1951)』『夏への扉(1957)』『大宇宙の少年(1958)』『宇宙の戦士(1959)』などと並んで、アメリカの〝黄金の50年代SF〟を代表する古典の一つである。


一方で、イギリスを代表する児童文学作家の一人であるローズマリー・サトクリフの長編小説に『王のしるし(1965)』という作品がある。同じサトクリフ作品の『第九軍団のワシ(1954)』『太陽の戦士(1957)』『ともしびをかかげて(1959)』『運命の騎士(1960)』などと並んで、イギリス伝統の歴史児童文学を代表する作品の一つである。


さて、このハインラインの『ダブル・スター』とサトクリフの『王のしるし』は、作者もジャンルもまったく違う作品であり、作品の舞台も、一方は近未来の火星植民地で、もう一方は古代ローマ帝国時代のブリテン島と、ある意味、正反対ではあるのだが、実は、驚くべき共通点を持っている。


「生きる意味を見失い、食い詰めた自暴自棄の主人公が、別世界への誘いを受けて、志半ばで倒れた過酷な運命を背負った指導者の代役(身代わり)を務めるうちに、命懸けの戦いを通じて、その新世界の人々と心を通わせるようになり、再び生きる意味を見いだす」というストーリー全体の骨格が同じであるばかりか、「主人公と別世界からの使者との出会い」「主人公と身代わりになる指導者に関わる重要な女性との関係の変化」といった、いくつかの主要なエピソードが、完全に重なる一卵性双生児のような作品なのだ。


例えば、剣闘士フェドルスが強者ゴールトと出会い、新しい得体の知れない仕事を受けるかどうか、迫られる『王のしるし』の印象的なシーンは、売れない俳優ロレンゾが宇宙飛行士と出会い、新しい得体の知れない仕事を受けるかどうか、迫られる『ダブル・スター』の冒頭のシーンとほとんど同じである。

ここまでそっくりだと、二つの物語が互いに関係がないということは絶対にありえない。


ハインラインの『ダブル・スター』が、アメリカのアウスタンディング誌に連載され、その年のヒューゴー賞ベスト長編に選ばれたのは1956年。『ダブル・スター』は、ヒューゴー賞長編部門で4度受賞した巨匠ハインラインの最初の同賞の受賞作である。一方で、サトクリフの『王のしるし』が、イギリスで出版されたのは1965年で、『ダブル・スター』が世に出てから9年後のことである。


作品発表の時系列から考えて、サトクリフが、ハインラインの『ダブル・スター』を読み、感銘を受けていたことは間違いない。そして、ハインラインの小説へのオマージュのような作品として『王のしるし』を書き上げたのだろう。だが、この作品は、『ダブル・スター』のパロディではなかった。むしろ、より文学的に深められ、オリジナルを超える珠玉の名作となった。


こうしたサトクリフとハインラインの関係性は、ロシアの文豪ドストエフスキーが、イギリスの文豪ディケンズから強く影響を受けながら、より優れた文学作品を次々と生み出していったことに似ているかもしれない。例えば、ディケンズの『骨董店(1841)』の影響が、ドストエフスキーの『虐げられた人々(1861)』にはっきりみて取れる、というように。

ただ、ディケンズとドストエフスキーの関係などに比べて、ハインラインとサトクリフの、この二つの作品がそっくりであることは、あまり世に知られていないのではないかと感じる。

それは、娯楽SFと歴史児童文学の読者層や批評家があまり重ならないせいかもしれない。


SFの分野でも、ル・グウィンやディックやクラークやレムのように文学的評価の高い作家はたくさんいる。しかし、ハインラインはその1人ではない。

ハインラインは控えめに言っても、人気はあるが文学的評価はさほど高くない大衆娯楽小説作家だし、一方、サトクリフは格調高い英国伝統の歴史小説作家であり、彼女の作品は文学として揺るぎない評価を得ている。

だから「ハインラインのファンで尚且つサトクリフのファンでもある」という読者は、それほどいないだろう。


しかし、2人には共通点もある。

ハインラインはアメリカ海軍士官だったが、サトクリフの父親もイギリス海軍士官で、彼女はその父親に厳しく育てられた。

その意味で、二人は海軍という共通するバックボーンを持っていると言える。

そして、もう一つの共通点は、対象とする読者についてだ。サトクリフの作品は児童文学であり、その対象は小学校高学年から高校生ぐらいがメインである。

一方で、初期のハインラインは、少年少女を対象としたジュブナイルSFを書いており、その分野の先駆者である。

主な読者対象を少年少女としているという点で、この二人の作家は似ていると言える。


因みに、私は二人の大ファンだ。

サトクリフの作品では、実は『王のしるし』が一番好きで、『ともしびをかかげて』『太陽の戦士』までがベスト3。次点で『運命の騎士』と『第九軍団のワシ』という感じだ。

一方、ハインライン作品では、好きな作品のベスト3が、1位『大宇宙の少年(スターファイター)』、2位『宇宙の孤児』、3位『月は無慈悲な夜の女王(1966)』で、次点が『宇宙の戦士』と『夏への扉』という感じで、『ダブル・スター』はその次ぐらい。

オリジナルとしての価値は『ダブル・スター』にあるが、文学作品としては、『王のしるし』の方が間違いなく素晴らしいと思う。だが、『ダブル・スター』が書かれなければ、『王のしるし』も書かれることはなかったのだ。


なぜ人はカルト・宗教・陰謀論にハマるのか?


それについて考える上で、まずは「カルト・宗教・陰謀論とは何か?」について考えてみたい。

「人間の幸福とは何か?」

「人生の成功とは何か?」

「神とは何か?」

「魂とは何か?」

「人はなぜ不幸になるのか?」

「人は死んだらどうなるのか?」

「人間に魂はあるのか?」

「死後の世界はあるのか?」

「神はいるのか?」

「どうすれば苦難から逃れられるのか?」

「どうすれば死の恐怖を克服できるのか?」

「どうすれば幸福になれるのか?」

「どうすれば成功できるのか?」

「人類社会が幸せになるのを邪魔するものは何か?」

「どうすれば人類は破滅に向かうことなく、現在の困難な課題を乗り越えられるのか?」

そうした切実な課題に対して、カルト・宗教・陰謀論は、わかりやすい答えを用意している。


しかし、彼らが用意している答えは、事実や理性に基づく科学的なものではなく、偏った価値観やゆがんだ世界観や誇大妄想が混ざった歪なファンタジーである

そうしたカルトの代表として、幸福の科学、GLA、旧統一教会、顕彰会、アーレフ(旧オウム真理教)、ラエリアン・ムーブメント、一貫道(天道)、モルモン教、エホバの証人、キリスト教原理主義、イスラム教原理主義、シオニズムなどがある。

例えば、幸福の科学の創始者である大川隆法氏は、自らギリシャ神話の商業神ヘルメスと仏陀の生まれ変わりで、地球神(エル・カンターレ)の中核(本体意識)と称する。また、大川氏の先妻のきょう子氏は、アフロディーテや文殊菩薩の生まれ変わりとされていたが、離婚した途端、ユダの生まれ変わりとされ、代わりに後妻の紫央氏は坂本龍馬の生まれ変わりとされている。まるで、昨今のライトノベルの定番である異世界転生のアイディアを利用した神さま詐欺のようにしか思えない。

また、旧統一教会の創始者文鮮明は、15歳の時にイエスの霊から「自分の果たせなかったメシアとしての使命を果たしてほしい」と頼まれ、このイエスの頼みを受諾したと述べている。つまり、イエスに代わって救世主(メシア)として世界を救うことを引き受けたというのだ。

しかしながら、私としては、地球神(ブッダ?)と救世主(キリスト?)が、同時代・同一地域に二人も揃っていたにも関わらず、彼らが生きていた間に人類が救われたとは到底思えない。


ラエリアン、アーレフなど一部のカルトは、自分たちの教えは科学であると主張しているが、事実はそうではないので、彼らの教えを疑似科学・ニセ科学と批判することもできるだろう。

例えば、ラエリアン・ムーブメントは、人類含めてすべての地球生命は、地球外生命体エロヒムの遺伝子操作によって創造され、進化させられたと主張する。創始者であるフランス人ラエルは、UFOからのエロヒムのメッセージを受け取った20番目にして最後の預言者で、その与えられた使命は、クローンと記憶データ転送技術の開発による不老不死の実現である。ラエリアンは、魂など存在しないと考えており、適切な方法でクローンの脳に記憶を転写できれば、人の不老不死が実現すると信じている。ラエリアンの洗礼を受けた者は、洗礼を受けた時に遺伝情報がUFOに送られており、死後、今度は記憶情報がUFOに送られて、エロヒムによってUFO内でクローンが作られ、記憶が転写されて、無事、宇宙で復活することができるという。まるで、萩尾望都のSF作品『A-A’』の内容そのものである。

また、ラエルは、信者の減ったフランスから世界一信者の多い日本(千葉の本部)に移り住んでいたのだが、3.11での放射能の被害を恐れて、千葉から沖縄県南城市に移住した。

人類よりはるかに進んだ知的生命体エロヒムと交信しているラエル(「UFOに選ばれた男?」)が、なぜ福島の原発事故如きの微細な放射能の害を恐れて、わざわざ千葉の総本部から沖縄に移住しなければならなかったのか、意味不明である。エロヒムの放射能除去装置はどうした?


加えて、上記のカルト・宗教は、陰謀論との親和性も高い。陰謀論者たちにおいては「イルミナティやQアノンなど世界征服を企む悪魔的秘密結社が今も活発に活動している」と信じられている。ビル・ゲイツは、秘密結社の手先であり、トランプは結社と戦う戦士なのだそうだ。

また、極左の中核派や革マル派や赤軍派などの組織集団も、政治的なカルトである。彼らにとっては、アメリカの核は悪い核で、北朝鮮の核は善い核である。いずれにしても、ひどく偏っている。

そして、彼らカルトは「自分たちは、外の社会の悪意から、不当な抑圧や攻撃を受けている」と信じている

その反面、大学生などに、「サークル勧誘」を装ったりして、監禁・脅迫まがいの過激な勧誘を繰り返し、多くの逮捕者を出しながらも、逮捕された信者を機関紙で英雄としてたたえるという、なりふり構わぬ折伏至上主義の顕正会に代表されるような、しつこい勧誘のために法的なトラブルが常態化している戦闘集団的カルトもある。

また、カルト集団のほとんどは、多かれ少なかれ現世利益的であり、組織が効率的な集金システム装置として機能するように、彼らの教えを最大限に利用している。

厳格な「10分の1律法」で信者の収入の10分の1を集めるモルモン教以外にも、出家者に全財産を寄進させるオウム真理教や、極端な資産の寄進をさせる旧統一教会などに見られるように、カルトには、大規模な集団詐欺組織のように見えるものさえある。



それでは、なぜ人はカルト・宗教・陰謀論に引っかかるのだろうか?


◯最大の理由としては、彼らが、「自分が求める幸福とは何か?」「どうすれば不安や虚しさから解放されるか?」「自分が幸福になるために、何を追求すべきか?」といった哲学的問題にじっくり時間をかけて向き合うのが苦手ということがある。そのため、彼らは、常日頃から、問題の手っ取り早い解決法を探している

今日、多くの人が、健康で、お金があって、面倒な雑事が減れば、それで自分は幸せになれると、呆れるほど素朴に単純に考えている。

実利的で効率重視の現代人には、このタイプが多いようだ。

見方を変えれば、体調の変化や経済的負担や仕事上のストレスなど、物理的な目に見える、あるいは五感ではっきりと知覚できる問題には敏感だが、目に見えない内面的な問題には鈍感であったり、取り扱いが不慣れであったり、何かと無視しがちな人が増えているということでもある。

ストレスに関しても、疲れやすいとかだるいとか眠れないとか下痢をするとか頭痛がするとか、身体に苦痛として現れている状態だけを問題視して、根幹の内面的問題は見つめようとしない。

しかし、そういう人が、放置してきた内面の問題が積もり積もった状態で、精神の危機に見舞われた場合、あるいは人生の破綻に直面した時、彼らはどうしたらよいのか、まったくわからなくなる。八方塞がりのお手あげ状態となり、打つ手なしで降参するしかなくなるのである。

だから、切羽詰まって、「南無阿弥陀仏を唱えれば救われる」とか、「バプテスマを受ければよい」「入信すればよい」とか、「布教して信者をたくさん入信させればよい」「折伏すればよい」とか、「お布施をたくさんすればよい」「寄進すればよい」とか、他人が用意してくれる安易なわかりやすい答えに飛びついてしまう


◯第二に、彼らは幼少期から読書によって、例えば「ピノキオ」「ピーターパン」「不思議の国のアリス」「ニルスのふしぎな旅」「北風のうしろの国」「夢を追う子」「オズの魔法使い」「風の妖精たち」「はるかな国の兄弟」「忘れ川をこえた子どもたち」「誰も知らない小さな国」「時の旅人」「ジェニーの肖像」「思い出のマーニー」「クラバート」「ナルニア国物語」「ゲド戦記」「指輪物語」「西遊記」「千夜一夜物語」「ギルガメシュ物語」「北欧神話」「ギリシャ神話」「旧約聖書」などの壮大なファンタジーの世界観に親しむことなく、「ノーストリリア」「星を継ぐ者」「冷たい方程式」「所有せざる人々」「地球の長い午後」「いまひとたびの生」「都市と星」「ハイライズ」「大宇宙の少年」「アンドロイド」「火星年代記」「神様はつらい」「星からの帰還」「アルジャーノンに花束を」「残像」「ライアへの賛歌」「中性子星」「都市」「エンパイア・スター」「人間以上」「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」「高い城の男」「1984年」「たった一つの冴えたやり方」などの絢爛たるSFの奇異な宇宙観に触れることもなく、「トルストイの民話」「石の花」「王子とこじき」「モンテ・クリスト伯」「レ・ミゼラブル」「大いなる遺産」「復讐には天使の優しさを」「大地」「人間の絆」「フラニーとゾーイー」「青銅の弓」「剣と絵筆」「王のしるし」「ともしびをかかげて」「風のような物語」「星の王子さま」「蜘蛛の糸」「ペスト」「七つの人形の恋物語」「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」「ドン・キホーテ」「蝿の王」「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」などの古典的作品を読むことで経験できる深い倫理的思索を楽しむこともなかった。要するに文学的素養に欠けている。同時に、読書による精神形成の機会もなく、自らの貧困なる精神を自覚して耕す努力もせず、人間的に成熟することなく生きてきたのである。

だから、カルトの提示する出来の悪いファンタジーの薄っぺらい世界観や価値観にも、疑問や反発を感じずに素直に丸呑みできてしまうのだ

それもこれも、彼らが文化的芸術的素養に乏しく、性質としてナイーブ(未熟・知識不足・判断力に欠ける)であるからだ。


◯第三に、彼らは、幼少期の家庭において、信頼できる人との持続的・安定的な人間関係を築いていく経験を欠いていた

原因は親との死別や離別、家庭崩壊や仮面家族状態など、さまざまな要因がある。そして、青年期においても、自力で信頼できる人間関係を築くことに失敗し、内面では精神の危機が進行していく。彼らは、家族や友人や隣人などとの安定的で親密な関係がつくれないまま、不安と孤独とストレスに苛まれて生きている。

問題の一部は、親子モデル、夫婦モデル、友人モデルの欠如から、人間的成熟が阻害されていることである。そして、もう一つ、重大な問題は、人間不信から、日常的に虚無感に襲われやすいことだ。

そのため、カルトの擬似家族的関係に惹かれやすく、いったんハマってしまうと、カルトへの依存から逃れるのが難しくなる

同時に、リアルの家族との関係は、ますます希薄になり、夫婦の別離や親子の断絶は決定的となり、それがまた、信者たちのカルトへの依存を強める。

一般社会から切り離されることで、ますますカルトへの依存が強まるという負のスパイラルである。

昔ながらの地域共同体(コミュニティー)が崩壊し、人間関係が希薄になりがちな現代社会においては、以前よりもカルトにハマりやすい環境が醸成されているといえる。


◯第四の要因は、親自身が、カルト的な精神の呪縛に囚われていており、子どもも親の呪縛的価値観に影響されて、親の望み通りに支配されてしまい、自由に考えることができなくなってしまうことから生じる強迫観念である。

ここで言う「親自身が囚われているカルト的な精神の呪縛」とは、必ずしも既成のカルト教団の教えを意味するわけではない。

カルト教団の教えとは関係のない、一般的な呪縛に囚われる親子の例として、典型的な関係は、例えば「お受験」にも見られる。多くの場合、「受験のために勉強することは絶対善である」という親の呪縛的価値観が、子どもの自由と好奇心と創造性を阻害し、ストレスに弱く依存的な性質を育てるのだ。そして、「答える時、間違えてはいけない」「勉強していないと負け組になる」という根拠のない強迫観念を生む。いわゆる〝優等生気質〟をつくりあげる。

ここで言う強迫観念とは、間違えることへの不安、そして、自分はきちんと努力していないのではないかという不安である。こうした呪縛的な不安は、幼い頃に、周囲の文化的環境によって植え付けられたもので、根が深く、矯正が困難である。また、信者の不安を煽ることで、信者を教団に依存させるのは、カルトの常套手段である。このため、大人になって、たとえ支配的な親から離れることができたとしても、似たような呪縛的価値観を持つ支配的なカルトに容易に囚われてしまうという負の連鎖が止められない。






およそ700万年前、最も近縁の類人類であるチンパンジーと分岐した時に、ドーパミンやエンドルフィンなどの神経伝達物質の放出量が減り、不安を強く感じる変化をもたらす遺伝子の変異が人類に生じた。この変異は、人類が、猿人、原人、旧人、そして現生人類(ホモ・サピエンス)などに分化する前に生じたものと考えられている。実際、ネアンデルタール人やデニソワ人など、4万年前まで生息していた現生人類と近縁の種(旧人)のゲノムを調べたところ、どの人種においても、この変異は共有されていた。


因みに「不安」とは異なり、「恐怖」は、あらゆる脊椎動物が、危機において、たとえば天敵(捕食者)と遭遇した時などに側頭葉の扁桃体が分泌するストレスホルモンによって感じるものである。

また、チンパンジーを含めて類人猿は、孤独に放置された状態においても、激しい孤独の苦痛を感じ、それが長期に渡った場合には、脳にも物理的な傷(トラウマ)が残ることがある。

だが、それらの恐怖や孤独は不安ではない。恐怖や孤独は直接的で体感的なものだが、不安は目に見えないもの、未知なるものに対するこわさであって、性質の異なるものである。


この「不安」の遺伝子は、気候変動による環境の変化によって、アフリカ中部の密林が小さくなり、否応なく草原に出ざるを得なかったサルたちの中で、最も遠くまで旅した種族(ヒト)が、360度、身を隠すところのない草原で生きていく上で、警戒心を維持するために獲得されたと考えられる。

ヒトは、この「不安」を感じる能力を発達させることで、危険な環境で生きていくことが可能になった。その意味で、ヒトは、最も勇敢に旅を続けたサルの一種族であると言える。言い換えると、「不安」は、サルがヒトへと進化する必要条件の一つだったのである。


このように、私たちは「不安」を肯定的に捉えることもできる。しかし、その一方で、「不安」には否定的な側面もある。不安が強いと、人は過度に失敗を恐れて、過去の成功体験にしがみつき、なるべく安全策を取ろうとする。「不安」は人を保守的にする。それは新しい試みをためらわせ、創造性の発揮を阻害し、多様な選択肢を吟味する機会や学習の機会を失わせる。「不安」は、側頭葉(扁桃体)のストレス・ホルモンの分泌を誘発し、その一方で、前頭葉の活動を鈍らせ、結果として脳の進化を遅らせる。


およそ10万年前、ホモ・サピエンスにおいて、今度は、ドーパミンなど幸せホルモン系の神経伝達物質の放出量を増やし、不安を感じにくくする遺伝子の変異が生じた。この変異は、ホモ・サピエンスの「出アフリカ」の時期と重なる。

また、現代人のゲノム配列の調査では、アフリカ大陸内には、この変異を持つ人がほとんどいないことがわかっている。さらにネアンデルタール人やデニソワ人にも、この変異は生じていない。「出アフリカ」したユーラシア大陸の現生人類においてのみ、地域差はあるが、およそ30%に、この変異が生じている。


ユーラシア大陸のホモ・サピエンスは、不安を強く感じる遺伝変異のみ有する人たちと、不安を感じにくい変異も有する人たちが、10万年にわたって共存してきた。このうち、不安を感じにくい遺伝変異を有する人たちは、前頭葉が活性化しやすく、多様な創造性の発露によって人類社会の変革に貢献してきたと考えられる。そして、この「不安遺伝子」と「不安緩和遺伝子」の取り合わせが、人類社会の維持と進化に、共に必要であったことが推測される。


例えば、不安遺伝子しか持たないネアンデルタール人やデニソワ人は、ホモ・サピエンスに比べて、脳の容積自体は大きく、記憶を司る側頭葉(海馬)はホモ・サピエンス以上に発達していたが、予測や応用を司る前頭葉は未発達であった。彼らは、一度記憶したことは、決して忘れなかったが、その一度覚えたやり方を、状況に応じて臨機応変に改良して用いる柔軟性や創造性に欠けていた。

不安は、知識(データ)を記憶し、忘れないようにしようという意識につながる。その意味では「知りたい」という欲求はある。だが、その欲求は、知らないことへの不安から生じたものだ。だから、不安の強い人は、知識(データ)を溜め込みがちになる。しかし、データを積み上げ、保存したことで安心してしまい、それ以上、情報の分析や理解・把握に努め、知識を深める意欲には繋がらない。そこには発展がない。


一方で、不安がない人は、好奇心から「知りたい」と思う。そこには新たな発見への意欲があり、未知のものへの憧れがある。彼らは、分からなかったことが、少しづつ分かってくる過程そのものに快感を感じる。だから、「出アフリカ」した人々は、ユーラシア大陸の果て、オーストラリアやアメリカ大陸までも旅を続けたのだ。

不安は、私たちの前頭葉を硬直させ、私たちの感情も磨滅させる。その状態が続くと、喜びは失われ、虚無と絶望に取り憑かれるようになる。

だから、子供を優秀にしたければ、子供を不安な状態に放置しないことだ。安心を与えること、それは、特に、幼い子ほど大切なことだ。そうすれば、子供たちの自然な好奇心が開花するだろう。


それから、ある種の「覗き見趣味」と好奇心の違いについても述べておこう。覗き見趣味は、疑心暗鬼や不信感や対抗意識から、「お前の秘密を見抜いてやる、暴いてやる」という意識の現れであることが多い。あるいは、「他の人が誰も知らないこと、隠しておきたいことを知っている」という密かな優越感を抱きたいがための衝動とも言える。

しかし、その「知りたい」という衝動は〝好奇心〟ではない。

また、自分の病理診断を知りたがるのも、不安から生じる欲求であって、それは好奇心ではない。理科の試験に備えて「虹はなぜ生じるのか?」と先生に訊くのも好奇心からではない。

好奇心は、不安や自意識や競争心や優越感やテストの準備とはまったく関係がない。好奇心は、内発的動機に基づく完全に個人的で没頭的なもので、腰を据えた持続的集中力を生み出す原動力である。不安とストレスのない状態で、はじめてヒトは好奇心のままに創造性を発揮する。




沖縄県は、翁長雄志知事時代の2015年4月に、普天間基地移設問題に反対する県の姿勢を米国政府に直接訴える目的でロビー活動を行うために、知事の強い意向でワシントン事務所を開設しました。

しかし、当時、アメリカ国務省は、外交権を持たない日本の地方自治体が政治的・外交的な意図を持って設立した事務所を、非課税(非営利)事業者として登録することに難色を示しました。

そのままでは県職員が駐在職員として就労ビザを取ることができず、事務所が運営できなかったため、アメリカの弁護士の助言を得て、沖縄県が100%出資する「株式会社沖縄県ワシントン事務所」を設立し、駐在職員のビザの申請では、沖縄県から直接雇用されていない株式会社が雇用する社員であるとして、「社長」「副社長」と記載してありました。しかし、実際には、ワシントン事務所の職員は、県職員の身分を有した地方公務員のままで、営利企業従事許可を得ていない公務員による違法な兼業状態だったのです。

(これは、ある種の〝イカサマ〟〝ごまかし〟であり、県の関与した詐欺行為であるとも言えます。)

その上、ロビー活動自体は、アメリカのコンサルティング会社に年間7000万円で業務委託し、出納・会計含めて活動・運営を完全に丸投げの状態で、県はその活動実態を全く把握せず、その上、県は100%出資法人に関わる法令義務に反して議会への事務所の活動報告も9年間行いませんでした。というか、報告すべき活動内容を関知しておらず、完全放置の状態でした。

また、当時、沖縄のメディアは、県がワシントン事務所を設置して普天間基地移設反対を訴えるロビー活動を行うことは大々的に報じていましたが、こうした運営の実態については何も報道しませんでした。

県民は、ワシントン事務所は基地反対のロビー活動のために運営されていると信じ込まされていましたが、実際には、営利目的の株式会社の名目で存在していた事務所は、何の営利活動も行うことなく、無駄に県民の税金を費やしていました。しかし、このことは、昨年まで、9年間、県民には知らされませんでした。

この事務所の活動内容については、アメリカの首都ワシントンで、沖縄の基地問題を啓発するとか基地に関する情報収集をするとか、知事がワシントンに来た時の案内などとなっています。

しかし、「営利目的で設立されているはずの株式会社が何の営利活動もしていない」という事務所の実態がアメリカ国務省にバレると、隠された意図を持つダミー会社と判断され、県はまずい立場になるのではないでしょうか。

また、営利目的のはずの株式会社が、主たる活動として米軍基地反対運動を大々的に行う(しかも米国の首都で)というのも、実際にはかなり難しいのではないかと思うのです。

そもそも、知事のワシントン訪問とか、ただの県民向けパフォーマンスにしかならない活動が、なぜ必要なのかという問題もあります。

いずれにしても、この事務所は、県民にとっては予算ばかり食う本当に意味のない存在です。


2024年の10月に玉城デニー知事は、「先日、事務方から報告を受けた」と公表し、それまで、アメリカのコンサルティング会社への普天間基地移設反対のロビー活動の委託については報告を受けていたが、株式会社ワシントン事務所の存在は知らなかったと述べました。

一言で言えば、毎年7000万円の県の予算をドブに捨てていたことについて、知っていたのに、まったく気にしていなかったわけで、「きわめてだらしがない」と言わざるを得ません。

それにも関わらず、玉城デニー知事は、今年も、このコンサルティング会社への委託(2023年度一般会計で1億円の出費)を続け、ワシントン事務所を維持したいという意向で、県議会に決算や予算を提出しました。それに対して、公明・自民・維新の野党三会派が多数の県議会は、この玉城デニー知事の提出した決算を不認定とし、2025年度予算については、ワシントン事務所の維持費用3900万円を含む予算委の審議を拒絶しました。

2025年3月28日、ワシントン事務所経費を全額削除する予算の修正案が、県議会で可決され、ようやくワシントン事務所が閉鎖される見込みとなりました。ところが、玉城デニー知事は、4月11日の定例記者会見で事務所再設置に強い意欲を示しています。

つまり、玉城県政としては、百条委で「事務所設立と運営に関して、いくつか重大な瑕疵がある」と指摘された点については、瑕疵を法的・制度的に是正すれば良いのであって、今回は議会が予算を認めなかったから、一時的に事務所は閉鎖しますが、今後、法的に問題ない建て付けにして事務所再開を目指すという立場なのです。

具体的には、県による営利法人設立の追認の事務手続きを完了し、県職員であるワシントン駐在職員の営利企業従事許可を行い、取得した株式の登録を行い、法的な瑕疵を是正すれば、事務所を再開して問題はないと考えているということです。


しかし、何のために、この事務所は維持されなければならないのでしょうか?

これまで、事務所の存在自体を知らず、活用できなかったので、知事のワシントン行きに今度こそ利用したいとでもいうことなのでしょうか。

何の成果も期待できない、何の役割も果たしていない事務所の維持に固執するのは、本当に意味がわかりません。

それでも、ともかく「何としてもワシントン事務所を維持したい」という知事の意志は固いようです。

ですから、次回、選挙で玉城デニー知事を支持する〝オール沖縄〟が勝てば、金食い虫の上に役立たずのワシントン事務所は復活するでしょう。

すべては県民次第というわけです。

ただ、沖縄県のメディアは、この問題の推移について、おおよそ沈黙しており、〝疑惑のデパート〟であるワシントン事務所の職員の業務実態や米コンサルティング会社に委託された活動の内容や資金の流れについて追及する百条委員会の動きについてなど、あまり報道されていません。

ですから、ほとんどの県民は、この問題について何も知りません。

もし、知ったなら、県民の多くは、県の活動のずさんさといくぶん誇大妄想的な散財の実態(総額で7億円を超える)に驚き呆れるに違いないと思うのですが…。

実際には、この「ワシントン事務所」問題は、一般の県民の中では何の問題にもなっていないのが現状で、県の行政を批判したり、県の責任を追及する世論は少なくとも県内には存在しません。

ですから、野党多数の県議会で百条委員会による県への責任追及が続いている渦中であっても、県側は、堂々と「事務所再開を目指す」などと公言できるのです。

基地移設反対運動の側の人々にとっては、あくまでも〝ワシントン事務所設置は正義〟という認識であるように思われます。

つまり、「基地反対は正義であるから、当然、ワシントン事務所存続が正しい選択」であるらしいのです。もっと言えば、「たとえ運営実態が詐欺的であったとしてもかまわない、なぜなら存在していることに意義があるから」というわけです。