明治以来、令和の今日に至るまで、日本の法学が抱えている最大の問題点は、多神教を宗教と認めず、日本古来の多神教的世界観や価値観を、意味あるものとして認めてこなかったことにある。

明治初期には、欧米の文化に圧倒された自虐的精神によって、自らの精神文化を無価値なものと考えてしまったのは致し方ないと言えるかも知れない。しかし、現在の法学者たちも今だに同じ価値観のままであるのは、学者の怠慢と言うよりないだろう。

確かに、過去の文献を見ても、欧米人や明治日本の知識人たちは、「日本には宗教と言えるものがない」などと書いているが、それは「聖典や教義を持つ一神教が存在しない」というだけであって、日本人に信仰心や宗教心がないというわけではない。ただ、彼らレヴィ・ストロース以前の学者たちが、言語化されない精神世界に価値を認めなかっただけである。

古来より、日本人は形而上の物事を言語化する事をしなかったが、だからといって深い精神世界を持たなかったというわけではないのだ。それを、長い間、ウィトゲンシュタイン以前の『言語化されない精神の働きは無価値である』としてきた近代の価値観が偏っていたため、彼らのものの見方には重大な欠落があった。そして、日本の法学は、その欠落を今に至るまで引きずっている。

日本人は神を知らなかった。」「古来より日本人は無神論者。」これが、日本の法学者の心を縛っている強烈な思い込みである。

 

アメリカのスーザン・ハンレーという学者が、「19世紀前半に自分が生まれる場所を選ぶとするなら、貴族に生まれるならイギリス人、庶民として生まれるなら日本人」という言葉を遺しているが、当時の欧米人にとっても、江戸時代の日本人は幸福に思えたようだ。言い換えれば、江戸時代の日本人の庶民の生活に豊かな精神性を感じていないわけではなかったと思うのだ。

ただ、彼らは、多神教的信仰心を、評価する物差しを持っていなかったので、日本人に宗教心はないと記すよりなかったのだ。だから、「神道も、仏教も、儒教も宗教ではない」と彼らは記述している。

だが、そうした文献を、現在の日本人の法学者たちが鵜呑みにしてしまうのは、どうしたことだろうか。

日本人自身が、日本の精神文化を不当に低く評価しているようでは、「西欧文化・文明への劣等感があまりに強すぎる」と言うよりない。

欧米人や明治期の日本の学識者たちが、人種的偏見を有していたからといって、現代の我々がそれを引きずっていて良いものだろうか。断じて良いわけはない。

 

そもそも、イギリスにおいて「法の支配」における法とは、不文法である〝神の法〟を指す。だから、「(三権を有する)国王と言えども〝法〟には従わねばならない」という言説が成り立つのである。立法権を有する者は、人間の法には従う必要はない。気に入らない法は変えてしまえばいいのだから。三権を有する独裁者であっても従わなければならない〝法〟とは、「人の法」ではなく「神の法」である。

しかし、神への信仰を持たない人々にとって、神の法とか自然法と言っても、信じていない以上、何の意味もなさない。そして、日本人に、信仰がなかったとすれば、日本人にとっては、目に見えずかたちのない不文法による「法の支配」はまったく成り立たないということになる。

だから、この立場に立てば、「日本人に対しては、『法の支配』は、目に見える成文法によるものでなければならない」という強迫観念が、特に憲法学者たちの心に生じることになるわけだ。

 

こうして、必然的に、日本では、「憲法は、成文法で、なおかつ硬性憲法でなければならぬ」ということになり、同時に、この「人の手で書かれた憲法(自然法・神の法)」自体を、(主に無意識界で)聖典として神格化する傾向も強まることになった。

特に、もう一つの神格化された存在であった天皇の人間化(「人間宣言」)以降、憲法神格化の傾向はさらに強まり、多くの日本人にとって「一言一句、変えてはならぬ」という強烈な執着の対象となってしまった。いわば、天皇を憲法に据え替えたのである。

この状況は、今も変わらない。

彼らは「成文憲法が私たちの社会を守っている」と考えている。しかし、実際には、憲法が私たちを守っているのではなく、私たちが憲法を守っているのである。私たちが憲法を守ることができるのは、私たちが宗教心を持ち、見えない「法の支配」を信じているからだ。

世界中に優れた憲法は数多いが、実際に人々がその憲法を重んじ、憲法に従っているか、というと、そういう法治主義の確立している国は、それほど多くはない。きっちり文字に書かれた成文憲法と言えども、それに心から従う国民がいなければ、どんな優れた憲法も、絵に描いた餅に過ぎない。大切なことは、憲法の基にある理念、自然権や自然法の理念を、大切に思う心が育っているかどうかだ。憲法が大切なのではなく、かたちのない理念・哲学・信仰こそが大切なのだ。

 

憲法学者たちは、そのことが分からず、「憲法がなくなったら、法の支配そのものが崩れる」という強迫観念に囚われている。

その理由は、「法の支配」を支えているものが、人間精神の一部に過ぎない〝理性〟の働きのみと考え、さらには「学問が理性を鍛え支える」という思い込みから、「無学な民草は、自分たち学者と違って理性がないのだから、理性のない無知蒙昧の民は、黙って憲法に従っていればいい」と、勝手に思い上がっているためだ。

そして、憲法がなくなれば、愚民を扇動するポピュリズムに対する歯止めが効かなくなると恐れているのである。民主主義国家における主権者である国民の総体を、彼らは〝愚民〟と考える。言い換えれば、リベラルが好んで主張する「憲法は権力の抑制のためにある」という言葉は、「憲法は主権者たる愚民をコントロールするためにある」と言い換えることができるのである。

つまり、学者自身が、民主主義を信じていない、だから、なおさら憲法に執着する、という悪循環が起こっている。こうした学者特有の心性スパイラルは、己の理性への過信から始まる。その点では、ナチズムと一緒である。

以上、考察してきたような憲法に対する「病的な執着」が、いずれ日本を滅ぼすことになるのではないか、と不安に思えてならない。

 

日本人には、日本の歴史に根ざした宗教心があり、日本人なりの自然法の感覚がもともとあるのであって、憲法がなくなると、日本社会の中で、自然法や自然権に寄って立つ価値観が消失するわけではない。

だから、成文憲法を失うことを恐れる必要はないのだ。

たとえ成文憲法を失っても、自然法や自然権自体を失うわけではないのだから、これをもって日本社会の(目に見えぬ)「法の支配」そのものが揺らぐというわけではない、ということだ。

 

日本人は「法の支配」を信じている

私たちは、憲法の条文程度のものは、自由に変えてよいのである。

 

 

ただし、現代人は、我々の運命すべてを司る大いなる存在を信じられないという世界共通の問題にさらされているのも確かだ。

かつて、この国にも見えない世界に恐れを感じる人たちがいた。これは、内田樹氏が「狐に化かされた日本人」の中で、論考している通りである。しかし、昭和40年代以降、そういうことはなくなったという。

現在の日本国民の多くは、諸外国の国民同様に、無神論者である。そして、そこに、現代の憲法学者たちの不安の根拠も、またあるのである。

 

上記の記述と矛盾するようだが、いずれにしても、取り組むべき疑問は残っている。

はたして、日本人の心に、本当に「法の支配」の精神は根づいているのか。現行の成文憲法を塗り替え、これからの日本にとって必要な新たな憲法を、我々は生み出すことができるのか。

そもそも、信仰を持たぬ者は、「法の支配」を信じることはできない。では、我々日本人の内面世界は、「法の支配」を支えうるほどに、信じるに足る成熟に達しているか。そうでないとしても、少なくとも向かっているのか。向かっていないとしたら、何が問題なのか。

これからの法学は、そこに焦点が当てられなければならないはずだ。

 

「人間精神への信頼と不信」は、私たちの社会の中で表裏一体である。そして、学問もまた、その信と不信のせめぎ合いの中でこそ、かろうじて意味を持つのではないだろうか。

日本学術会議は、内閣総理大臣の管轄下にあり、内閣総理大臣によって会員が任命され、税金で運営される内閣府の特別行政機関である。予算は年間10億円、会員は210名。

内閣総理大臣管轄の学術関係専門の行政機関として、年間4兆円にのぼる国の研究開発(文教)関係予算の配分という利権にも少なからず関わっていると考えられる。当然のことながら、政府の諮問機関の性格を持っている組織である以上、その活動目的は、国益に利するものでなければならない。

しかし、この政府機関の特別公務員たちが、権威に胡座をかき、自らの偏向した信念(思い込み?刷り込み)に支配されているとしたら、どうだろうか。

 

現在、アメリカの連邦裁判所の裁判官に関して、リベラルと保守の立場をとる裁判官の数のバランスが問題となっている。同様に、政府の諮問機関というものは、異なる立場をとって相対する委員や会員の数のバランスが問題となる。基本的には1:1でなければならない。そして、もしも、そのバランスが崩れているなら、政府が是正しなければならない

なぜなら、彼ら日本学術会議の会員たちは、自由で平等な選挙によって選出された学者の代表たちではないからである。彼らは、会員自身によって推薦され、内閣がその推薦されたメンバーを無条件で任命してきたに過ぎない。学者の代表でも何でもないのである。

だから、彼ら日本学術会議の会員の思想傾向は、戦後間もない頃のまま、固まった状態にある。どれほど時代遅れであっても、淘汰されることがないためだ。

 

例えば、日本学術会議は、日本の安全保障を脅かす中国への技術の流出には寛容で、むしろ、すすんで技術協力を促進しようとする一方で、自国の防衛省への協力は拒む(ように各大学・研究機関に圧力をかける/←北大事件)という方針で知られているのは周知の事実である。

また、文系の会員の多く(特に憲法学者)が、日米安保体制維持のための安保関連法に反対の立場であることも、よく知られている。そもそも、元会長からして、学者というより、むしろ、共産党シンパの左翼運動家である。

こうした点で、日本学術会議の立場は、内閣管轄下の政治諮問組織として、明らかに偏向している。

 

特別職の国家公務員である会員の任命権は内閣総理大臣にあるのだから、学術会議の推薦を首相が拒絶したとしても、非難するにはあたらない。当然だが、日本国にとって益のない人物と考えられた人は、会員に任命するべきではない。あるいは、学者個人が会員として適任であるかどうかの判断は別にして、異なる立場をとる会員の数のバランスを図るのは、むしろ、内閣総理大臣の義務である。

ここで、私が言いたいのは、「諮問機関のメンバーは、政権のイエスマンだけでいい」ということではない。むしろ、それでは危険である。だが、現状にあるような、大多数のメンバーが、政権に敵対している状況は、危険というより破滅的である。

これまで、その状態で許されてきたのは、日米同盟が盤石で、その軍事力は圧倒的であり、また、東アジアにおいて、日本の経済力が突出している、日本にとって深刻な危機や脅威が存在しない状況があった。諮問機関がどうであれ、国家の存亡に関係がなかったし、日本の安全は脅かされることがなかったのである。かつて、1990年代には日本の1/4しかなかった中国のGDPが日本の3倍となり、中国軍と自衛隊の軍事バランスも逆転している現在の情勢とはまったく異なる。

今、早急に求められていることは、繰り返すが、諮問機関内における政権に好意的なメンバーと批判的なメンバーの数のバランスの回復である。その割合は、せめて1:1、できれば2:1ぐらいが望ましい。しかし、現状は、明らかに政府に批判的な会員が多く、さらには少数の過激な左派が活動家として組織の方向性に多大な影響を与えている。

 

そもそも、国益というか、国の安全と存続と繁栄を望むなら、科学者が防衛産業へ協力することは当然だし、日米同盟維持のため、集団的自衛権に基づいて法整備するのも、内閣の当然の義務であることを、公務員たるもの、認識していなければならない。知的優越を誇る学者であれば尚更である。

しかるに、2010年代以降の国際情勢を考えれば、この国家存亡に関わる逼迫した内閣の責務の遂行を、無責任に自ら在野にいるかの如く、一貫して批判・攻撃し続ける〝日本学術会議〟には、現状、国の諮問機関としての存在意義が、そもそもない。

ここにおいても、日本学術会議側が、首相の会員の任免権を否定するなら、それは学者による民主主義の否定にほかならない。「オレたち学者に民主主義など通用すると思うなよ」「専門家の領域に口を出すな」と。これこそ通用しない。

いっそ、「シーラカンス並みの生きる化石」である〝日本学術会議〟自体、これを機に解散消滅させた方が国のためには良いのではないか。予算削減にもなる。

 

 

 

今回、会員によって推薦された105名のうち、任命されず会員になれなかった6名の方々も、立命館大学、早稲田大学、東京大学、京都大学、慈恵医科大などの教授として、活躍されているわけだし、在野から「日米同盟反対!」「防衛力増強反対!」「集団的自衛権は認めない!」「辺野古移設反対!」「9条改正反対!」と、激しく政府批判をする分には、いかに理不尽な意見を披露しようと、何の問題もない。自分の大学でもメディアを通じてでも、存分に「学問(と発言)の自由」を謳歌なされば良い

国の方針とは別の価値観で研究をしたいなら、ご自分の大学の研究室で、好きなように探求なされば良いのだ。それを誰も止めはしない。ボランティアに等しい、政府の諮問機関に無理して在籍する必要は何もない。むしろ、ご本人の研究の邪魔でさえあるだろう。任命されないなら「ああそうですか」「助かります」とさっさとご自分の研究に戻ると良い。

 

中国や北朝鮮じゃあるまいし、政府が、大学側に、「彼らを教授職から解任せよ!」と命じたり、圧力をかけたりするわけではないのだから、我が国では学問の自由は十分保障されている。立命館や早稲田や京都大学が、政府に要らぬ忖度をして彼らを教授職から解任したというわけでもない。メディアも、彼らの意見を、十分すぎるほど好意的に取り上げているではないか。

これ以上、何が不満で何が望みなのか、わからない。菅政権の姿勢を、ナチスを引き合いに出して非難する人々は多いが、まったく意味不明である。内田樹氏など「任命拒否は、政府の学者に対する恫喝」などと主張しているが、これなど典型的なステレオタイプの〝反知性的〟反応と言っても良い。

 

自分の学問の研究に何の支障もきたしていないし、生活も社会的地位も脅かされていないのに、この上、さらに、自分たちを、政府行政機関の一員に迎え入れよ、と横柄な態度で詰め寄る、自らの権威への箔付けを欲して、自分を学会の会員として承認せよと要求する、そのようなわけもなく偉そうな特権階級的な一部の学者たちの態度こそ〝恫喝的〟であり、あまりに見苦しい。「無能な愚民は学者のすることに口を出すな」と言わんばかりで、その態度は〝差別的〟でさえある。

「反権力」を叫びながら、彼ら学者たちこそが、偏狭で権威主義的で自己中心的な権力の権化なのではないか。また、知識人特有の庶民感覚の軽視と侮蔑も垣間見られる。しかも、そのことに、彼ら自身がまったく気づいていないのが、最大の悲劇だ。自分が正義だと信じている者には、反省はあり得ない。学者の無自覚、それこそが、この国の「死に至る病」の病巣の一つである。

ジョン・スチュアート・ミルは「『自分こそ正しい』という考えが、あらゆる進歩の過程で最も頑強な障害となる。これほど馬鹿げていて根拠のない考えはない」と述べているが、今日の一部学者たち、および左派メディアの〝考え〟は、まさにその典型である。

 

この機に乗じて、「政府による学問の自由への侵害だ」「菅政権はナチス独裁政権と同じ」「否認理由を明らかにせよ!」と、鬼の首を取ったかのように勇んで内閣への批判・攻撃を強める左派メディアや野党の態度にも、まったく信頼できるものがない。

そもそも、日本学術会議は研究機関ではない。敢えて言うなら、特定の政治的に偏った思想に傾倒した特権的意識を持つ政治集団である。だから、この問題は、「学問の自由」とは何の関係もない。むしろ、一種の政治闘争であり、同時に、特権集団による既成特権保持のための悪あがきに過ぎない。

ただし、ここで言う特権とは、金銭的利益ではなく、自分が身にまとう特権的な権威・権力のことである。「自分が偉そうにできる権利」と言ってもいいだろう。「私は偉いから言う事をきけ!」というわけだ。

なので、抗議や要請に応えて、否認理由を明らかにすれば、6人と同様の左翼的な大多数の会員たちはますますいきりたち、少数の意気地のない保守的な会員は口をつぐみ、政府VS日本学術会議の完全対立が起こることになるだろう。

日本学術会議の構成が、リベラルと保守の会員がほぼ対等にバランスよくいて、会議で徹底した知的な議論が白熱して展開される状況であればいざ知らず、現状では、否認理由を明らかにしたところで、内閣と学術会議側の対立が深まるだけである。

また、実際のところ、菅総理が「総合的・俯瞰的観点から任命しなかった」と発言している時点で、任命拒否の理由は、ほぼ明らかにされている。1949年の発足当時から、共産党系の偏向思想に脳内硬直している学者(実は運動家!)たちに牛耳られてきた日本学術会議のメンバー構成を、多少ともバランスの良い状態にしたい、という意図があったことは間違いない。

これは、会員の数的比率という問題だけではない。活動家は、すべてを犠牲にして、活動にのめりこめるが、普通の研究者はそうはいかない。普通の研究者は、面倒なことには関わり合いになりたくない。そのため、少数の活動家が組織を掌握するという事態になるのである。

 

馬鹿ではない国民は、当然、そのことを承知している。だから、左派メディアや野党や左の学者が大騒ぎする、この様子を見ていて、否認された学者たちに同情する国民は、それほど多くないだろう。

学歴を盾にし、権威を濫用し、既成の権利の上にあぐらをかく学者の方たちが、あまりに偉そう過ぎて、市井の人間を馬鹿にした態度にも見えてしまうためだ。

(政府が必死で維持している日米同盟への実質的依存の上にあぐらをかいて、自分は安全圏にいて、旺盛な名誉欲心の赴くままに?)「(意地悪で)突ついて、遊んで(楽しんで)いるのか?」と、言いたくもなる。

 

 

 

例えば、私は、日本国の安全を担保し、日米同盟を維持する目的で、集団的自衛権の行使のための法整備を行い、同盟の双務性を高めできた政府の努力に対し、相応の評価をできない者に、知性を感じることができない。

その意味では、「安保法制こそ、安倍政権のレガシーだ」「安倍さんが日米同盟を救った」「安保法制が必要だったということは、実は朝日と毎日の主筆も認めている」と断言してみせた田原総一朗氏の見識に、私は公正かつ良心的な優れた知性を感じている。

そして、学者の方たちも、自らの知性を誇るのであれば、それに見合う最低限の知性的な姿を見せて欲しい、と思うのだ。

 

はたして、現状、日本学術会議は、この国にとって必要なのだろうか?

この国の学問に、余計な派閥意識と権威意識を持ち込み、個々の学者の名誉欲心を掻き立て、彼らの反知性主義的な悪癖を助長する装置になっている、同時に、旧態依然の偏向学者たちを不必要に甘やかしているようにしか見えないのだが。

 

憲法神格化の牙城である憲法学者・法学者たちを中心に「リベラルの保守化(硬直化・既得権益化)」という問題点が、日本学術会議という組織にも、ドッシリと横たわっている。

今は、日本が東アジアで突出した経済力を誇り、ソ連(ロシア)が衰退し、北朝鮮も核を開発しておらず、中国の軍事力など問題にもならなかった1980〜90年代とは、まったく状況が違う。今や、中国やソ連が宇宙での覇権を狙って着々と科学技術を積み重ねている時代である。この近年の国際情勢の激変を正しく認識できず、旧態依然とした平和論者であり続けるのは、学者の怠慢にほかならない

 

しかし、日本学術会議の文系学者たち(特に憲法学者)は、「安保法制に反対する学者の会」の集まりである。そして、学術会議自体が、防衛庁への学者の協力を妨害し阻止するために、自らの権威を駆使して、日々、強力に活動している。彼らは、偏った政治的信条から「学問の自由」を踏みにじる、ある種の強力な〝過激〟政治団体である。

例えば、安保法制に反対する集会の演説で、安倍首相を「バカ」「ウソツキ」「恥を知れ」と罵った元会長の広渡清吾氏を筆頭に、さながら、共産党の外部団体のようでもある。

また、日本学術会議は、中国や韓国への技術協力は惜しまないが、中韓の科学者にとっては、軍への協力は当たり前である。つまり、日本学術会議を牛耳る日本の一部の科学者たちにとっては、膨張著しい中韓の軍事力のさらなる増強には協力を惜しまないが、自国の防衛省への協力は断固拒絶するというのが、「科学者の良心」ということらしいのだ。しかし、このように上野千鶴子氏や山極寿一氏や広瀬清吾氏らの偏った個人的な使命感が、「日本学術会議の使命感」となるようでは、日本国としては甚だ困るのである。

山極氏は「着実に全体主義への階段をあがった」などと述べているが、意味不明である。少数派の意見を大事にすることと、少数派が国の組織を牛耳るのを許すことは、まったく違う。これで、日本学術会議の前会長なのだから、組織の偏り方の酷さが垣間見れる。

そして、この総合的・俯瞰的な認識の不足と知的怠慢により、極端に偏向した組織となっている日本学術会議は、政府の諮問機関としては、まったく役に立っていない、それどころか、我が国の未来を危うくしているように思える。

つまり、『今のままでは、日本学術会議には存在価値がない』ということが、幸か不幸か、今回の一件を通して、白日の元に晒されたのである。

 

多くの国民が、そのことに気づかされただろう。

それに伴い、静岡県知事川勝平太氏の教養と人間性の偏在と欠落にも、国民は気づかされた。「菅総理は、学位欲しさに大学に入ったのであって、学問をしたかったわけではないことは、彼の経歴から判断できる」という川勝氏の言は、信じられないほど侮蔑に満ちている。これで大学の学長をしていたのだから、悪夢である。学者というものの傲慢さを表す良い例である。「なぜその判断に至ったのか、根拠を示せ」とマスコミが説明責任を追及しないのも意味がわからない。

ちなみに、私が指摘する川勝知事の教養と人間性の欠落とは何か、というと、自己の判断の独善性に思い至らず、他人が自分の言動をどう感じるか、ということについての基本的な想像力の欠如にも気づかない恐るべき鈍感さ、および、日本国首相の責務とはどのようなものか、についての基本的な知識と想像力の欠如である。

彼らの反省のなさの根源には、己の理性への過信がある。その過信の根底には、明治以来の根深い学歴選民主義がある。

今回、権威ある学者というものに関して、国民が得た、それらの一連の気づきは、悪いことではない。

 

 

それにしても、毎回、強く感じさせられるのは、マスコミが、いかに学者に弱いか、ということだ。特に、戦後、天皇への信仰を憲法信仰にすり替えた日本の左派メディアは、権力には強いが、権威には本当に弱い

このメディアの学識者コンプレックスは、本当に深刻である。特に、朝日・毎日・東京新聞など左派メディアに目立つ学者の権威への依存は、時には、この国の未来を暗くするほどにひどい。

そして、彼らは、自分たちの凝り固まった頭で「正しい」と思う方向へ世の中の向きを変えさせようと、今この時も、全力で伝達情報の印象操作に忙しい。しかし、他人の心を操作しようとする者は、必ずその報いを受けるものだ。

 

最後に、念のため言っておくが、私は、日本の科学者が、総じて思想的に偏っており、みなおかしいなどと、驕ったことを言うつもりはまったくない。

多くの国際政治学者は、世界情勢の変化を認識しており、日本学術会議を批判しているが、日本学術会議内で主導的立場にあるのは頭の固い憲法学者たちである。そして、その強大な影響力は、理系の学者たちの「学問の自由」を侵害している。

結局、日本では、既成権威に反逆して、まともなことを言う科学者は、みな孤立してしまう傾向があるのだ。そして、その諸悪の根源は、学会や学閥や日本学術会議や左派メディアにあるのではないか。そう思えてならない。

特に、日本学術会議の主要メンバーは、公務員であるのに、「全体の奉仕者」となり得ていない。菅内閣は、この歪で有害な状況を改善しようとしているだけだ。

 

ついでに、テレ朝のワイドスクランブルが、この問題で、切れ味の悪い偏向報道に終始していたが、小松アナがいなくなると、こうまで変わるのか、と暗澹たる気分になった。(←それでも、過激な反日左翼メディアである「報道特集」ほど酷くはないが。)

水面下でリベラルと保守が激しくぶつかる化学反応が伝わってくることこそが、ワイドスクランブルという報道番組の最大の魅力だったのだが。

 

今日、どこの国でも、リベラルと保守が、真正面から本音で議論すると、トランプとバイデンの感情剥き出しの不毛な罵倒合戦のように、まったく無意味で非生産的なカオス状態となってしまう可能性が強い

そこをうまく議論を噛み合わせていくのは、至難の技で、当人の人間性と知性が試される。現実には、この知的・人格的力量を持った政治家やジャーナリストや学者は、今日、非常に少ない。

だが、日本学術会議の会員には、本来、この力量が求められる、ということだ。それこそが本来の学識者の役割であろう。

 

しかし、残念ながら、世界中、どこの国の政府よりも、日本政府を信じられない人たち(←自国政府はナチス並みだと思っている)、そして、この国と国民を外国から守る必要は感じない(←独裁国家も多いのだが)が、自国政府から守る必要だけは感じるという偏った知性の持ち主たち(反知性主義者たち)には、到底、無理だろう。

世界最強の同盟国の抑止力に依存し、ぬくぬくと安全を享受しながら、「平和であり続けるために戦わない武器を持たない研究しない」などと、身勝手で甘やかされた言い分を掲げ続けてこれたのは、米軍の献身のお陰である。一部の日本人は米軍兵士たちの犠牲の上に成り立ってきた砂上の楼閣を、堅固な御殿と勘違いして生きている愚か者たちのようだ。

他者の犠牲の上で、偉そうに「学問の自由を守れ」と叫んでいるうちに、国が袋小路に追い詰められていく。この先、これまでと同じように、いつまでも平和を享受できると思うのは大間違いである。きっとバチが当たる。

 

①ペルー     1000 中南米👈中南米で最悪

②ベルギー    877 欧州👈欧州で最悪

③ボリビア    708 中南米

④ブラジル    705 中南米

⑤スペイン    704 欧州

⑥チリ      693 中南米

⑦エクアドル   688 中南米

⑧アメリカ    661 北米👈北米で最悪◁GDP9位

⑨メキシコ    647 北米

⑩イギリス    629 欧州

 

⑪イタリア    598 欧州

⑫スウェーデン  583 欧州

⑬パナマ     573 中南米

⑭コロンビア   542 中南米

⑮アルゼンチン  520 中南米

⑯フランス    500 欧州

⑰オランダ    383 欧州

⑱北マケドニア  377 欧州

⑲アイルランド  368 欧州◁GDP5位

⑳モルドバ    362 欧州

 

㉑アルメニア   343 欧州・西アジア👈西アジアで最悪

㉒イラン     336 中東・西アジア👈中東で最悪

㉓南アフリカ   297 アフリカ👈アフリカで最悪

㉔ボスニア    283 欧州

㉕ルーマニア   279 欧州    

㉖カナダ     254 北米

㉗ホンジュラス  251 中南米

㉘イラク     242 中東・西アジア

㉙スイス     241 欧州◁GDP2位

㉚イスラエル   211 中東・西アジア

 

㉛ポルトガル   203 欧州

㉜ドミニカ    199 中南米

㉝オマーン    196 中東・西アジア

㉞グアテマラ   187 中南米

㉟キルギス    165 中央アジア👈中央アジアで最悪

㊱ロシア     154 欧州・アジア

㊲クウェート   153 中東・西アジア

㊳パラグアイ   149 中南米

㊴サウジアラビア 144 中東・西アジア

㊵エルサルバドル 137 中南米◀︎世界平均137

 

㊶ブルガリア   129 欧州

㊷ドイツ     116 欧州

㊸デンマーク   115 欧州◁GDP10位

㊹ウクライナ   112 欧州

㊺トルコ     104 欧州・中東・西アジア

㊻ハンガリー   97 欧州

㊼ベラルーシ   94 欧州

㊽オーストリア  94 欧州

㊾カザフスタン  93 中央アジア

㊿リビア     90 アフリカ

 

チェコ      88 欧州

セルビア     87 欧州

ポーランド    79 欧州

カタール     78 中東・西アジア◁GDP7位

インド      78 南アジア👈南アジアで最悪

パレスチナ    74 中東・西アジア

モロッコ     69 アフリカ

レバノン     67 中東・西アジア

フィンランド   62 欧州

アゼルバイジャン 60 欧州・西アジア

 

エジプト     59 アフリカ

フィリピン    57 東南アジア👈東南アジアで最悪

ノルウェー    51 欧州◁GDP4位

エストニア    51 欧州

モナコ      51 欧州

ジャマイカ    47 中南米

アラブ首長国連邦 45 中東・西アジア

インドネシア   43 東南アジア

ギリシャ     42 欧州

アルジェリア   41 アフリカ

 

アフガニスタン  38 西アジア

チュニジア    35 アフリカ

オーストラリア  35 オセアニア👈オセアニアで最悪

バングラデシュ  33 南アジア

パキスタン    30 南アジア

アイスランド   29 欧州

ベネズエラ    24 中南米

ニカラグア    23 中南米

ネパール     21 南アジア

イエメン     20 中東・西アジア

 

ハイチ      20 中南米

スーダン     19 アフリカ

セネガル     19 アフリカ

ジョージア    18 欧州・西アジア

ザンビア     18 アフリカ

カメルーン    16 アフリカ

ジンバブエ    15 アフリカ

ウズベキスタン  15 中央アジア

ウルグアイ    14 中南米

ケニア      14 アフリカ

 

香港       14 東アジア👈東アジアで最悪

日本       13 東アジア

シリア      12 中東・西アジア

キューバ     11 中南米

エチオピア    11 アフリカ

スロバキア    11 欧州

ミャンマー    11 東南アジア

ガーナ      10 アフリカ

マラウイ     9 アフリカ

マダガスカル   9 アフリカ

 

タジキスタン   8 中央アジア

韓国       8 東アジア

ブルネイ     7 東南アジア

ソマリア     6 アフリカ

アンゴラ     6 アフリカ

マリ       6 アフリカ

ニュージーランド 5 オセアニア

ナイジェリア   5 アフリカ

ギニア      5 アフリカ

コートジボワール 5 アフリカ

 

シンガポール   5 東南アジア◁GDP8位

マレーシア    5 東南アジア

南スーダン    5 アフリカ

ベナン      3 アフリカ

中国       3 東アジア

ルワンダ     2 アフリカ

モザンビーク   2 アフリカ

ウガンダ     2 アフリカ

タイ       0.8 東南アジア

スリランカ    0.6 南アジア

 

ベトナム     0.4 東南アジア

台湾       0.3 東アジア

タンザニア    0.3 アフリカ

モンゴル     0 東アジア

カンボジア    0 東南アジア

ラオス      0 東南アジア

東ティモール   0 東南アジア

ブータン     0 南アジア

ドミニカ     0 中南米

エリトリア    0 アフリカ

 

※サンマリノ、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク、セーシェル、フィジー、グリーンランド、グレナダ、バチカン、セントルシアなど、人口が極少なく、地理的にも目立たない数十カ国は、割愛させていただきました。

 

〈都市比較〉   100万人あたり死者数

ニューヨーク   2813

ボストン     1376

フィラデルフィア  1110

ロサンゼルス     571

サンフランシスコ     97

東京都          29

大阪府          23

 

 

 

上位①〜⑳まで、すべて、ウイルス発生地である中国から最も遠く、それゆえにコロナウイルスへの自然免疫が脆弱な欧州(10)・中南米(8)・北米(2)の国です。

PCR検査数が多く、厳しい都市封鎖を行なっているペルーが、死者数1位になっていることについて、貧富の格差によるものと説明されていますが、まったくナンセンスです。確かに、中南米でも、ペルーは4位のボリビアと並んで貧富の格差が激しい国です。けれども、6位のチリは、ウルグアイと並んで、中南米でも屈指の経済格差の少ない豊かな国なのです。また、ペルーと1位を争うベルギーは、欧州でも、最も豊かな国の一つであり、医療も進んでおり、行政機構も整っています。

一人当たりGDPの世界ランキング上位の国々に、コロナ蔓延国が多いということから考えても、貧富の差とコロナの蔓延には、ほとんど関係がないことが明らかです。

そうしたことから、「貧富の差、医療の差、社会的な安定度といった環境条件は、各地域のコロナの蔓延状況や致死率の差とは、まったく何の関係もない」ということがわかります。

 

決定的要因は、中国からの距離です。

上位①〜㉚まで、南アフリカを除いて、すべて、中国から最も遠い欧州・中南米・北米・中東/西アジアの国です。

上位①〜㊵まででも、南アフリカとキルギスを除いて、すべて、欧州・中南米・北米・中東/西アジアの国です。

上位①〜㊿までの範囲でも、南アフリカ、キルギス、カザフスタン・リビアの4カ国を除いて、すべて、中国から遠いために体質的に新型コロナに弱い人の多い欧州・中南米・北米・中東/西アジアの国です。内訳は、欧州が最多の23カ国、中南米が13カ国、中東が8カ国、それに北米のアメリカ、メキシコ、カナダが含まれます。その他では、中央アジアのキルギスとカザフスタン、アフリカ大陸では南アフリカとリビアだけです。

一方で、中国との付き合いが歴史的に濃密で、新型コロナウイルスに最も強い自然免疫を有する東アジア、東南アジア、南アジア地域の国は、中国との交流が盛んで、中国発のウイルスに圧倒的に晒されやすいにもかかわらず、上位①〜㊿の中に、一国もありません

 

歴史的に中国との付き合いが浅い遠方の地域の中でも、アフリカについては、人的交流の少なさからウイルス蔓延の速度が抑えられ、むしろ、これから感染者数が増えていくのかもしれません。23位の南アフリカの場合は、経済規模が大きく、中国との人的交流の量が多いため、先に蔓延したのでしょう。

また、オセアニアの白人たちもコロナには弱いと思われますが、特にニュージーランドの場合は、「新規感染者4人で即、再封鎖」というような、政府による徹底した都市封鎖が、これまでのところ、功を奏してきたのではないでしょうか。

 

ちなみに、我が国における新型コロナウイルスの脅威は、インフルエンザ以下であることが、ますます明確になってきました。

9月25日現在、新型コロナの国内の累計感染者数は8万人、関連死者数は1520人です。そして、例年インフルエンザの感染者数は約1000万人、関連死者数は推計1万人とされています。

一方で、アメリカにおける新型コロナ関連の累計死者数は20万人であり、インフルエンザ関連死者数は、例年5万人程度とされます。

そこから言えることは、「新型コロナウイルスの脅威は、日本では、インフルエンザ以下ですが、アメリカではインフルエンザより怖い」ということです。

また、日本では、多い年には、特に高齢者を中心に熱中症で1700人とか1500人もの方が亡くなります。そう考えると、新型コロナの脅威は、熱中症レベルと考えていいかもしれません。

したがって、コロナを「インフルエンザ以下!」と発言するトランプ大統領は、日本の状況に照らし合わせれば正しいのです。

 

今回のコロナ騒動で、日本人のマスク好きが、ますます高じているようです。

しかし、そもそも、実は、マスクなど意味がないのです。マスクをつけることで、マスク装着者本人がウイルスに感染するのを防ぐことはできません。だから、風邪をひいて咳など激しい人が、他人への飛沫感染を気遣って、マスクをするのはわかるのですが、健康で元気な人が感染予防のためにマスクをするのは、本当に意味がありません。

特に、戸外でのマスク装着義務など、まったく無意味です。

日本人よ、無意味なマスクなど、戸外でつけるのはやめましょう。屋内でも、絶対につけなければならないわけではありません。

インフルエンザ以下の脅威しかないウイルスに、そもそもマスクの必要があるでしょうか。メディアに踊らされて、コロナに必要以上に神経質になるのは、もうやめましょう。

 

我々、東アジア人は、中国発のウイルスには、圧倒的に自然免疫が強いのです。上記のデータが、そのことを明白に証明しています。

マスクや飛沫などに気を遣い過ぎて、鬱屈してストレスを溜めると、かえって自然免疫を低下させ、コロナにかかりやすくなります。本末転倒です。

 

欧州・北米・中南米の感染死者数が、東アジア・東南アジアと比べて100倍、1000倍になる理由は、中国からの距離が遠く、歴史的交流が少ないためにコロナウイルスへの自然免疫が弱いということのほかに、砂糖の摂取量が莫大であること、ヘビースモーカーが多いこと、なども関係しているかもしれません。山中教授の指摘するファクターX、ですね。

 

 

もしも、あなたが、自分は政治的に保守であると思うのであれば、保守の立場に立つ証しとして、以下の踏み絵を踏むことができなければならない。

 

①日本の安全保障上欠くことのできない日米同盟を、双務関係として維持するため、集団的自衛権に基づく平和安全法制の整備は必要だった、と正しく理解して主張できること。←立憲民主党、国民民主党、社会民主党、日本共産党は、集団的自衛権を行使することに反対している。

 

潜在的核保有国として、核保有の選択肢を残しておくためにも、米国の「核の傘」を抑止力とするためにも、核による抑止を認めない核兵器禁止条約に調印しないのは、現時点では完全に正しい判断である、と理解して主張できること。←立憲民主党、国民民主党、社会民主党、日本共産党は、核兵器禁止条約に今すぐ調印・批准するべき、としている。

 

③安全保障上、万が一に備えて核開発の技術を保持しておく必要があるので、原子力発電所の全廃(原発ゼロ)達成は望ましくない、と理解し主張できること。←立憲民主党、社会民主党、日本共産党は、即時の全原発の使用停止と廃棄(原発ゼロ)を求めている。

 

④日本の軍事力増強が周辺国の軍事的脅威となる心配よりも、中国、韓国、北朝鮮など周辺国の急速な軍事力増大(←事実)によって、日本が軍事的な脅迫を受けることの方を心配している。そして、正しいデータに基づいて国際情勢を理解し、極東の軍事バランスの維持のため、防衛費の大幅な増額を主張できること。←立憲民主党、社会民主党、共産党は、「安倍政権の防衛費の増額は異常」と主張し、防衛費増額に反対している。

 

⑤1989年の冷戦終、ベルリンの壁崩壊、1990年の東西ドイツ統一、1991年のソ連崩壊によって、世界の枠組みや構造は根本的に激変した。アメリカは、台頭する中国やロシアを牽制しつつも、現在の多極化した世界で、以前の冷戦期のようには同盟国を手厚く保護する意思を持たず、自国第一で動いている。この冷戦後の世界で、情勢の変化に柔軟に対応し、国家としてサバイバルしていく意思とビジョンを持った政治を支持すること。←この点で、鳩山民主党政権は史上最低であった。しかし、その反省は、枝野氏、蓮舫氏、辻本氏ら、旧民主党勢力からまったく聞かれない。

 

⑥上記の観点にかんがみて、外交・安全保障政策において、安倍政権を高く評価し、安倍政権を継承する菅内閣の誕生を歓迎できること。←「安倍政権を継承した菅内閣に未来はない(共産党志位委員長)」「菅内閣は、安倍亜流内閣であり、安倍政権の負の部分を肥大化させると危惧する(立憲民主党枝野幸男代表)」

 

 

余談だが、今回、菅さんが、総裁選に出馬するにあたって、協力を取り付けるのに、一番苦労したのが、真理子夫人だったと明かした。真理子夫人は「夫が総裁選に出馬するなら離婚します」と周囲に話していたという。

目立つことを好まない、賢い、しっかりした方のようだし、内閣総理大臣など、どんなに努力しても、世間から陰口や文句しか言われないし、気苦労ばかりで、ろくなことがないと思っていらしたとしても、何ら不思議ではない。

 

立憲民主党の小川淳也衆議院議員のように「どういう人間かは、どういう生い立ち、どういう環境(で育った)かに規定されるんですよ」「国会で首相の生い立ちを明らかにさせるべき(←首相の説明責任?)」「(「叩き上げ」などという嘘で、首相が自ら)虚像を貼っているなら(よくよく精査して、化けの皮を)剥がさなければならない」などと、他人のプライバシーを蛇のように追及する下劣なやからもいる。

内閣総理大臣などになると、本当にろくなことがない。真理子夫人が首相夫人などになるのを忌み嫌うのも、もっともなことと思える。

 

それにしても、小川議員には問いたい。「リベラルって、何なんですか?」

自分では、差別意識はないというのだが、実は、こういう「罪の意識がない」というのが、一番厄介な手合いなのだ。無邪気に人の心を踏みにじる、この悪い意味での鈍感力こそが、「なぜ君は内閣総理大臣になれないのか?」という疑問への答えとなっているのではないだろうか。

本人は、情熱的に自分の理想を追っているつもりであり、優秀で能力もある、圧倒的に善意の人物である。例によって、国民を分断することに、無意識に重要な役割を果たす方が、また一人現れたようだ。

 

アメリカでは、毎年のように、一般市民が、警官によって射殺されている

パトロール中の警官が、呼び止めた市民に対して、恐らくは身分証明書を持ってこさせるためなのか、再び自家用車に潜り込ませた後で、あるいは勝手に市民の方がクルマに潜り込んだのかもしれないが、その市民の背中向かって、突然、警官が7発の銃弾を打ち込む、ということが、どうして起こるのか?

 

それは、一般市民が、銃を持っているからである

アメリカの銃の所持率は、人口100人あたり90丁である。そして、年間1万人以上が、銃によって死んでいる。ちなみに、そのうち、50%は自殺である。

さらに、アメリカでは、ピストルやライフルだけでなく、20〜30発の弾丸を連射できる自動小銃(アサルトライフル/マシンガン)まで、民間人の所有が認められている。そして、こうした銃による乱射事件が、毎年のように起こるのである。

アメリカの統計では、毎年9000人以上が、殺人事件によって殺されている。ちなみに、その殺人の53%(5000人以上)を、総人口の13%を占める黒人が犯している。参考に、日本の他殺者数は、年間300人未満である。

なので、アメリカでは、一般市民の側も、家族で食事に外出する際などにも、用心深い人であれば、家族の誰かが銃を所持しているのが普通である。

コロナ禍で、ガンショップに行列ができた風景は記憶に新しいが、つまりは、それほどに、アメリカでは、市民の自衛意識が高いということだ。そして、市民による射殺という事件も多発しており、それが正当防衛なのか、過剰防衛なのか、殺人なのかが問われるケースも多い。

 

一方で、アメリカでは、警察官の殉職者数が、毎年100人を超える。そして、そのうち、毎年40人程度の警官が、銃で撃ち殺されている。対して、日本の警察官の殉職者数は、毎年4、5人であり、銃で殺された殉職者はゼロと、その危険度は、まったく比較にならない。

日本の警察官は、日常、職務質問で呼び止めた市民や、交通違反の取り締まりで車を止めさせた相手に銃で撃たれる不安を感じることはまったくない。日本の一般市民は、銃を持っていないからだ。

しかし、アメリカの警察官は、日常的に、見知らぬ誰かに撃たれる恐怖を感じながら、職務を行なっているのである。

 

沖縄在住のアメリカ人(白人)によく聞く話だが、アメリカでは、警官に職務質問を受けたり、クルマを止められたりした時、免許書や身分証明書の提示を求められたら、慌ててはいけないと教えられる。慌てて素早くバッグやクルマのダッシュボードなどから身分証を取り出そうとすると、銃を取り出そうとしていると勘違いされて、警官に撃たれる恐れがあるからだ。

気を配るべきことは、常に両手を警官から見える位置に挙げておくことと、命じられた行動をする場合にも、動きを隠さず、常に警官が確認可能な角度とスピードを心がけて、慌てずゆっくり動くことが、撃たれないためには重要なポイントとなる。

一般のアメリカ人は、警官に間違って撃たれないために、最大限に気をつかうというのが常識であり、自分の命を守るために、常に冷静な行動が必要となる国なのだ。当然、職務質問を受けた際に、警官に抵抗するのは、愚の骨頂である。些細なことで、命を失う恐れがあるからだ。

 

 

ところが、昨今のように、警官への市民の激しい反感が、世の中に広く醸成されてくると、市民の側も警察に対して挑発的な態度をとる者が増えてくるし、警官の側もますます疑心暗鬼になってしまう。そして、警官に職務質問を受けた際には、従順な態度を示さず、激しく抵抗するのが当たり前、という市民と、その抵抗に身の危険を感じる警官との間で、不幸な事件が起こる可能性も高くなる。

つまり、警官が自分の命を守るために発砲する頻度が増えてくると同時に、誤って射殺される市民の数も増えてくるのである。

 

アメリカでは、毎年1000人以上の犯人や容疑者が、警官によって射殺されている。警官に射殺された人の内訳は、白人が37%、黒人が24%、ヒスパニックが16%である。上記した犯罪発生率など考慮すると、必ずしも、黒人が極端に多いというわけではない。

また、警官に射殺された人の多くは犯罪者であり、銃を所持していたのだが、中には、銃を持っていなかったが、警官から見て威嚇的な動きをしたために、射殺された者もいる。その数は、毎年100人以上(銃不保持の犯罪者含む)とも言われる。この銃不保持の状態で射殺された市民にも、黒人、ヒスパニック、白人がいる。黒人が多いのは確かだが、白人は撃たれないというわけではない。

ただし、銃を持っていなくても、また、犯罪者でなくとも、警官に職務質問されている最中、警官に蹴りを加えたり、それどころか、警官の銃を奪おうとする勇猛な一般市民も、アメリカには実際にいるのだ。日本の大人しい一般市民には、とうてい考えられない猛々しい行動である。

そして、多くのケースで、警官は、恐慌状態に陥っており、1人に7発を連射するという事件になっている場合もよくある。

 

一方、日本では、犯人が警官に射殺されるケースは、年間2、3人に過ぎない。しかも、この射殺件数は、ほぼ日本の警官の全発砲件数に重なる。警官が撃つ時、犯人の無力化を狙うため、射殺に至る確率は高いという点では、日米で変わりはないものの、日本の警察官は、国全土で、年間、2発しか発砲しないということだ。だから、日本では、ほとんどの警官が、一度も発砲することなく定年退職する。まったくの別世界である。

したがって、我々、日本人には、アメリカの警察官が、なぜ、犯人に向かって、あるいは市民に向かって、拳銃を乱射してしまうのか、その現実の状況をリアルに想像することが、極めて困難である。

 

アメリカで、市民が警官に撃たれる場合、警官の過剰防衛や過剰反応で、市民が死に至るケースも、確かに増えているのだろうと思う。白人警官の黒人への不信感が、過剰防衛の背景にあることも確かだろう。強烈な有色人種への差別意識を持っていて、身の危険を感じているわけでもないのに、黒人には、ためらわず撃つという〝人間失格〟の警官も、中にはいるだろう。もちろん、そのような場合、罪を犯した警官が、きちんと適切に裁かれることが、絶対に必要である。その意味で、私は大坂なおみさんの抗議活動に共感する。

しかし、さまざまなケースがあるのはもちろんだが、多くのケースで、アメリカの警察官が、一般市民に銃を撃ち放つのは、自分の身を守ろうとして、撃たれる前に撃とうとした、というのが主たる理由なのだということは、知っておいた方がいい。

上述したように、アメリカでは、毎年100人以上の市民が、銃を所持していないのに警官に射殺される事件が起こっている一方で、警官もまた、毎年40人ほどが、銃撃で殉職しているのである

 

 

私は、アメリカの警官が、それほど質が悪いとは思わない。警官もまた、過酷な状況を生きている普通の人間なのだ。

アメリカでは、毎年5000人以上の一般市民が、黒人の殺人犯によって殺されている。けれども、大多数の黒人は凶悪な殺人犯ではない。同様に、アメリカでは、毎年100人以上の銃を持たない市民(主に黒人)が、白人の警官によって射殺されている。けれども、大多数の警官は差別守護者の殺人警官ではない

ところが、メディアの極端な報道姿勢は、そうした事実をかき消してしまい、あたかもアメリカのすべての警官が悪党であるかのような間違った印象を視聴者に与えているのではないか、と危惧する。