日本学術会議は、内閣総理大臣の管轄下にあり、内閣総理大臣によって会員が任命され、税金で運営される内閣府の特別行政機関である。予算は年間10億円、会員は210名。

内閣総理大臣管轄の学術関係専門の行政機関として、年間4兆円にのぼる国の研究開発(文教)関係予算の配分という利権にも少なからず関わっていると考えられる。当然のことながら、政府の諮問機関の性格を持っている組織である以上、その活動目的は、国益に利するものでなければならない。

しかし、この政府機関の特別公務員たちが、権威に胡座をかき、自らの偏向した信念(思い込み?刷り込み)に支配されているとしたら、どうだろうか。

 

現在、アメリカの連邦裁判所の裁判官に関して、リベラルと保守の立場をとる裁判官の数のバランスが問題となっている。同様に、政府の諮問機関というものは、異なる立場をとって相対する委員や会員の数のバランスが問題となる。基本的には1:1でなければならない。そして、もしも、そのバランスが崩れているなら、政府が是正しなければならない

なぜなら、彼ら日本学術会議の会員たちは、自由で平等な選挙によって選出された学者の代表たちではないからである。彼らは、会員自身によって推薦され、内閣がその推薦されたメンバーを無条件で任命してきたに過ぎない。学者の代表でも何でもないのである。

だから、彼ら日本学術会議の会員の思想傾向は、戦後間もない頃のまま、固まった状態にある。どれほど時代遅れであっても、淘汰されることがないためだ。

 

例えば、日本学術会議は、日本の安全保障を脅かす中国への技術の流出には寛容で、むしろ、すすんで技術協力を促進しようとする一方で、自国の防衛省への協力は拒む(ように各大学・研究機関に圧力をかける/←北大事件)という方針で知られているのは周知の事実である。

また、文系の会員の多く(特に憲法学者)が、日米安保体制維持のための安保関連法に反対の立場であることも、よく知られている。そもそも、元会長からして、学者というより、むしろ、共産党シンパの左翼運動家である。

こうした点で、日本学術会議の立場は、内閣管轄下の政治諮問組織として、明らかに偏向している。

 

特別職の国家公務員である会員の任命権は内閣総理大臣にあるのだから、学術会議の推薦を首相が拒絶したとしても、非難するにはあたらない。当然だが、日本国にとって益のない人物と考えられた人は、会員に任命するべきではない。あるいは、学者個人が会員として適任であるかどうかの判断は別にして、異なる立場をとる会員の数のバランスを図るのは、むしろ、内閣総理大臣の義務である。

ここで、私が言いたいのは、「諮問機関のメンバーは、政権のイエスマンだけでいい」ということではない。むしろ、それでは危険である。だが、現状にあるような、大多数のメンバーが、政権に敵対している状況は、危険というより破滅的である。

これまで、その状態で許されてきたのは、日米同盟が盤石で、その軍事力は圧倒的であり、また、東アジアにおいて、日本の経済力が突出している、日本にとって深刻な危機や脅威が存在しない状況があった。諮問機関がどうであれ、国家の存亡に関係がなかったし、日本の安全は脅かされることがなかったのである。かつて、1990年代には日本の1/4しかなかった中国のGDPが日本の3倍となり、中国軍と自衛隊の軍事バランスも逆転している現在の情勢とはまったく異なる。

今、早急に求められていることは、繰り返すが、諮問機関内における政権に好意的なメンバーと批判的なメンバーの数のバランスの回復である。その割合は、せめて1:1、できれば2:1ぐらいが望ましい。しかし、現状は、明らかに政府に批判的な会員が多く、さらには少数の過激な左派が活動家として組織の方向性に多大な影響を与えている。

 

そもそも、国益というか、国の安全と存続と繁栄を望むなら、科学者が防衛産業へ協力することは当然だし、日米同盟維持のため、集団的自衛権に基づいて法整備するのも、内閣の当然の義務であることを、公務員たるもの、認識していなければならない。知的優越を誇る学者であれば尚更である。

しかるに、2010年代以降の国際情勢を考えれば、この国家存亡に関わる逼迫した内閣の責務の遂行を、無責任に自ら在野にいるかの如く、一貫して批判・攻撃し続ける〝日本学術会議〟には、現状、国の諮問機関としての存在意義が、そもそもない。

ここにおいても、日本学術会議側が、首相の会員の任免権を否定するなら、それは学者による民主主義の否定にほかならない。「オレたち学者に民主主義など通用すると思うなよ」「専門家の領域に口を出すな」と。これこそ通用しない。

いっそ、「シーラカンス並みの生きる化石」である〝日本学術会議〟自体、これを機に解散消滅させた方が国のためには良いのではないか。予算削減にもなる。

 

 

 

今回、会員によって推薦された105名のうち、任命されず会員になれなかった6名の方々も、立命館大学、早稲田大学、東京大学、京都大学、慈恵医科大などの教授として、活躍されているわけだし、在野から「日米同盟反対!」「防衛力増強反対!」「集団的自衛権は認めない!」「辺野古移設反対!」「9条改正反対!」と、激しく政府批判をする分には、いかに理不尽な意見を披露しようと、何の問題もない。自分の大学でもメディアを通じてでも、存分に「学問(と発言)の自由」を謳歌なされば良い

国の方針とは別の価値観で研究をしたいなら、ご自分の大学の研究室で、好きなように探求なされば良いのだ。それを誰も止めはしない。ボランティアに等しい、政府の諮問機関に無理して在籍する必要は何もない。むしろ、ご本人の研究の邪魔でさえあるだろう。任命されないなら「ああそうですか」「助かります」とさっさとご自分の研究に戻ると良い。

 

中国や北朝鮮じゃあるまいし、政府が、大学側に、「彼らを教授職から解任せよ!」と命じたり、圧力をかけたりするわけではないのだから、我が国では学問の自由は十分保障されている。立命館や早稲田や京都大学が、政府に要らぬ忖度をして彼らを教授職から解任したというわけでもない。メディアも、彼らの意見を、十分すぎるほど好意的に取り上げているではないか。

これ以上、何が不満で何が望みなのか、わからない。菅政権の姿勢を、ナチスを引き合いに出して非難する人々は多いが、まったく意味不明である。内田樹氏など「任命拒否は、政府の学者に対する恫喝」などと主張しているが、これなど典型的なステレオタイプの〝反知性的〟反応と言っても良い。

 

自分の学問の研究に何の支障もきたしていないし、生活も社会的地位も脅かされていないのに、この上、さらに、自分たちを、政府行政機関の一員に迎え入れよ、と横柄な態度で詰め寄る、自らの権威への箔付けを欲して、自分を学会の会員として承認せよと要求する、そのようなわけもなく偉そうな特権階級的な一部の学者たちの態度こそ〝恫喝的〟であり、あまりに見苦しい。「無能な愚民は学者のすることに口を出すな」と言わんばかりで、その態度は〝差別的〟でさえある。

「反権力」を叫びながら、彼ら学者たちこそが、偏狭で権威主義的で自己中心的な権力の権化なのではないか。また、知識人特有の庶民感覚の軽視と侮蔑も垣間見られる。しかも、そのことに、彼ら自身がまったく気づいていないのが、最大の悲劇だ。自分が正義だと信じている者には、反省はあり得ない。学者の無自覚、それこそが、この国の「死に至る病」の病巣の一つである。

ジョン・スチュアート・ミルは「『自分こそ正しい』という考えが、あらゆる進歩の過程で最も頑強な障害となる。これほど馬鹿げていて根拠のない考えはない」と述べているが、今日の一部学者たち、および左派メディアの〝考え〟は、まさにその典型である。

 

この機に乗じて、「政府による学問の自由への侵害だ」「菅政権はナチス独裁政権と同じ」「否認理由を明らかにせよ!」と、鬼の首を取ったかのように勇んで内閣への批判・攻撃を強める左派メディアや野党の態度にも、まったく信頼できるものがない。

そもそも、日本学術会議は研究機関ではない。敢えて言うなら、特定の政治的に偏った思想に傾倒した特権的意識を持つ政治集団である。だから、この問題は、「学問の自由」とは何の関係もない。むしろ、一種の政治闘争であり、同時に、特権集団による既成特権保持のための悪あがきに過ぎない。

ただし、ここで言う特権とは、金銭的利益ではなく、自分が身にまとう特権的な権威・権力のことである。「自分が偉そうにできる権利」と言ってもいいだろう。「私は偉いから言う事をきけ!」というわけだ。

なので、抗議や要請に応えて、否認理由を明らかにすれば、6人と同様の左翼的な大多数の会員たちはますますいきりたち、少数の意気地のない保守的な会員は口をつぐみ、政府VS日本学術会議の完全対立が起こることになるだろう。

日本学術会議の構成が、リベラルと保守の会員がほぼ対等にバランスよくいて、会議で徹底した知的な議論が白熱して展開される状況であればいざ知らず、現状では、否認理由を明らかにしたところで、内閣と学術会議側の対立が深まるだけである。

また、実際のところ、菅総理が「総合的・俯瞰的観点から任命しなかった」と発言している時点で、任命拒否の理由は、ほぼ明らかにされている。1949年の発足当時から、共産党系の偏向思想に脳内硬直している学者(実は運動家!)たちに牛耳られてきた日本学術会議のメンバー構成を、多少ともバランスの良い状態にしたい、という意図があったことは間違いない。

これは、会員の数的比率という問題だけではない。活動家は、すべてを犠牲にして、活動にのめりこめるが、普通の研究者はそうはいかない。普通の研究者は、面倒なことには関わり合いになりたくない。そのため、少数の活動家が組織を掌握するという事態になるのである。

 

馬鹿ではない国民は、当然、そのことを承知している。だから、左派メディアや野党や左の学者が大騒ぎする、この様子を見ていて、否認された学者たちに同情する国民は、それほど多くないだろう。

学歴を盾にし、権威を濫用し、既成の権利の上にあぐらをかく学者の方たちが、あまりに偉そう過ぎて、市井の人間を馬鹿にした態度にも見えてしまうためだ。

(政府が必死で維持している日米同盟への実質的依存の上にあぐらをかいて、自分は安全圏にいて、旺盛な名誉欲心の赴くままに?)「(意地悪で)突ついて、遊んで(楽しんで)いるのか?」と、言いたくもなる。

 

 

 

例えば、私は、日本国の安全を担保し、日米同盟を維持する目的で、集団的自衛権の行使のための法整備を行い、同盟の双務性を高めできた政府の努力に対し、相応の評価をできない者に、知性を感じることができない。

その意味では、「安保法制こそ、安倍政権のレガシーだ」「安倍さんが日米同盟を救った」「安保法制が必要だったということは、実は朝日と毎日の主筆も認めている」と断言してみせた田原総一朗氏の見識に、私は公正かつ良心的な優れた知性を感じている。

そして、学者の方たちも、自らの知性を誇るのであれば、それに見合う最低限の知性的な姿を見せて欲しい、と思うのだ。

 

はたして、現状、日本学術会議は、この国にとって必要なのだろうか?

この国の学問に、余計な派閥意識と権威意識を持ち込み、個々の学者の名誉欲心を掻き立て、彼らの反知性主義的な悪癖を助長する装置になっている、同時に、旧態依然の偏向学者たちを不必要に甘やかしているようにしか見えないのだが。

 

憲法神格化の牙城である憲法学者・法学者たちを中心に「リベラルの保守化(硬直化・既得権益化)」という問題点が、日本学術会議という組織にも、ドッシリと横たわっている。

今は、日本が東アジアで突出した経済力を誇り、ソ連(ロシア)が衰退し、北朝鮮も核を開発しておらず、中国の軍事力など問題にもならなかった1980〜90年代とは、まったく状況が違う。今や、中国やソ連が宇宙での覇権を狙って着々と科学技術を積み重ねている時代である。この近年の国際情勢の激変を正しく認識できず、旧態依然とした平和論者であり続けるのは、学者の怠慢にほかならない

 

しかし、日本学術会議の文系学者たち(特に憲法学者)は、「安保法制に反対する学者の会」の集まりである。そして、学術会議自体が、防衛庁への学者の協力を妨害し阻止するために、自らの権威を駆使して、日々、強力に活動している。彼らは、偏った政治的信条から「学問の自由」を踏みにじる、ある種の強力な〝過激〟政治団体である。

例えば、安保法制に反対する集会の演説で、安倍首相を「バカ」「ウソツキ」「恥を知れ」と罵った元会長の広渡清吾氏を筆頭に、さながら、共産党の外部団体のようでもある。

また、日本学術会議は、中国や韓国への技術協力は惜しまないが、中韓の科学者にとっては、軍への協力は当たり前である。つまり、日本学術会議を牛耳る日本の一部の科学者たちにとっては、膨張著しい中韓の軍事力のさらなる増強には協力を惜しまないが、自国の防衛省への協力は断固拒絶するというのが、「科学者の良心」ということらしいのだ。しかし、このように上野千鶴子氏や山極寿一氏や広瀬清吾氏らの偏った個人的な使命感が、「日本学術会議の使命感」となるようでは、日本国としては甚だ困るのである。

山極氏は「着実に全体主義への階段をあがった」などと述べているが、意味不明である。少数派の意見を大事にすることと、少数派が国の組織を牛耳るのを許すことは、まったく違う。これで、日本学術会議の前会長なのだから、組織の偏り方の酷さが垣間見れる。

そして、この総合的・俯瞰的な認識の不足と知的怠慢により、極端に偏向した組織となっている日本学術会議は、政府の諮問機関としては、まったく役に立っていない、それどころか、我が国の未来を危うくしているように思える。

つまり、『今のままでは、日本学術会議には存在価値がない』ということが、幸か不幸か、今回の一件を通して、白日の元に晒されたのである。

 

多くの国民が、そのことに気づかされただろう。

それに伴い、静岡県知事川勝平太氏の教養と人間性の偏在と欠落にも、国民は気づかされた。「菅総理は、学位欲しさに大学に入ったのであって、学問をしたかったわけではないことは、彼の経歴から判断できる」という川勝氏の言は、信じられないほど侮蔑に満ちている。これで大学の学長をしていたのだから、悪夢である。学者というものの傲慢さを表す良い例である。「なぜその判断に至ったのか、根拠を示せ」とマスコミが説明責任を追及しないのも意味がわからない。

ちなみに、私が指摘する川勝知事の教養と人間性の欠落とは何か、というと、自己の判断の独善性に思い至らず、他人が自分の言動をどう感じるか、ということについての基本的な想像力の欠如にも気づかない恐るべき鈍感さ、および、日本国首相の責務とはどのようなものか、についての基本的な知識と想像力の欠如である。

彼らの反省のなさの根源には、己の理性への過信がある。その過信の根底には、明治以来の根深い学歴選民主義がある。

今回、権威ある学者というものに関して、国民が得た、それらの一連の気づきは、悪いことではない。

 

 

それにしても、毎回、強く感じさせられるのは、マスコミが、いかに学者に弱いか、ということだ。特に、戦後、天皇への信仰を憲法信仰にすり替えた日本の左派メディアは、権力には強いが、権威には本当に弱い

このメディアの学識者コンプレックスは、本当に深刻である。特に、朝日・毎日・東京新聞など左派メディアに目立つ学者の権威への依存は、時には、この国の未来を暗くするほどにひどい。

そして、彼らは、自分たちの凝り固まった頭で「正しい」と思う方向へ世の中の向きを変えさせようと、今この時も、全力で伝達情報の印象操作に忙しい。しかし、他人の心を操作しようとする者は、必ずその報いを受けるものだ。

 

最後に、念のため言っておくが、私は、日本の科学者が、総じて思想的に偏っており、みなおかしいなどと、驕ったことを言うつもりはまったくない。

多くの国際政治学者は、世界情勢の変化を認識しており、日本学術会議を批判しているが、日本学術会議内で主導的立場にあるのは頭の固い憲法学者たちである。そして、その強大な影響力は、理系の学者たちの「学問の自由」を侵害している。

結局、日本では、既成権威に反逆して、まともなことを言う科学者は、みな孤立してしまう傾向があるのだ。そして、その諸悪の根源は、学会や学閥や日本学術会議や左派メディアにあるのではないか。そう思えてならない。

特に、日本学術会議の主要メンバーは、公務員であるのに、「全体の奉仕者」となり得ていない。菅内閣は、この歪で有害な状況を改善しようとしているだけだ。

 

ついでに、テレ朝のワイドスクランブルが、この問題で、切れ味の悪い偏向報道に終始していたが、小松アナがいなくなると、こうまで変わるのか、と暗澹たる気分になった。(←それでも、過激な反日左翼メディアである「報道特集」ほど酷くはないが。)

水面下でリベラルと保守が激しくぶつかる化学反応が伝わってくることこそが、ワイドスクランブルという報道番組の最大の魅力だったのだが。

 

今日、どこの国でも、リベラルと保守が、真正面から本音で議論すると、トランプとバイデンの感情剥き出しの不毛な罵倒合戦のように、まったく無意味で非生産的なカオス状態となってしまう可能性が強い

そこをうまく議論を噛み合わせていくのは、至難の技で、当人の人間性と知性が試される。現実には、この知的・人格的力量を持った政治家やジャーナリストや学者は、今日、非常に少ない。

だが、日本学術会議の会員には、本来、この力量が求められる、ということだ。それこそが本来の学識者の役割であろう。

 

しかし、残念ながら、世界中、どこの国の政府よりも、日本政府を信じられない人たち(←自国政府はナチス並みだと思っている)、そして、この国と国民を外国から守る必要は感じない(←独裁国家も多いのだが)が、自国政府から守る必要だけは感じるという偏った知性の持ち主たち(反知性主義者たち)には、到底、無理だろう。

世界最強の同盟国の抑止力に依存し、ぬくぬくと安全を享受しながら、「平和であり続けるために戦わない武器を持たない研究しない」などと、身勝手で甘やかされた言い分を掲げ続けてこれたのは、米軍の献身のお陰である。一部の日本人は米軍兵士たちの犠牲の上に成り立ってきた砂上の楼閣を、堅固な御殿と勘違いして生きている愚か者たちのようだ。

他者の犠牲の上で、偉そうに「学問の自由を守れ」と叫んでいるうちに、国が袋小路に追い詰められていく。この先、これまでと同じように、いつまでも平和を享受できると思うのは大間違いである。きっとバチが当たる。