明治以来、令和の今日に至るまで、日本の法学が抱えている最大の問題点は、多神教を宗教と認めず、日本古来の多神教的世界観や価値観を、意味あるものとして認めてこなかったことにある。

明治初期には、欧米の文化に圧倒された自虐的精神によって、自らの精神文化を無価値なものと考えてしまったのは致し方ないと言えるかも知れない。しかし、現在の法学者たちも今だに同じ価値観のままであるのは、学者の怠慢と言うよりないだろう。

確かに、過去の文献を見ても、欧米人や明治日本の知識人たちは、「日本には宗教と言えるものがない」などと書いているが、それは「聖典や教義を持つ一神教が存在しない」というだけであって、日本人に信仰心や宗教心がないというわけではない。ただ、彼らレヴィ・ストロース以前の学者たちが、言語化されない精神世界に価値を認めなかっただけである。

古来より、日本人は形而上の物事を言語化する事をしなかったが、だからといって深い精神世界を持たなかったというわけではないのだ。それを、長い間、ウィトゲンシュタイン以前の『言語化されない精神の働きは無価値である』としてきた近代の価値観が偏っていたため、彼らのものの見方には重大な欠落があった。そして、日本の法学は、その欠落を今に至るまで引きずっている。

日本人は神を知らなかった。」「古来より日本人は無神論者。」これが、日本の法学者の心を縛っている強烈な思い込みである。

 

アメリカのスーザン・ハンレーという学者が、「19世紀前半に自分が生まれる場所を選ぶとするなら、貴族に生まれるならイギリス人、庶民として生まれるなら日本人」という言葉を遺しているが、当時の欧米人にとっても、江戸時代の日本人は幸福に思えたようだ。言い換えれば、江戸時代の日本人の庶民の生活に豊かな精神性を感じていないわけではなかったと思うのだ。

ただ、彼らは、多神教的信仰心を、評価する物差しを持っていなかったので、日本人に宗教心はないと記すよりなかったのだ。だから、「神道も、仏教も、儒教も宗教ではない」と彼らは記述している。

だが、そうした文献を、現在の日本人の法学者たちが鵜呑みにしてしまうのは、どうしたことだろうか。

日本人自身が、日本の精神文化を不当に低く評価しているようでは、「西欧文化・文明への劣等感があまりに強すぎる」と言うよりない。

欧米人や明治期の日本の学識者たちが、人種的偏見を有していたからといって、現代の我々がそれを引きずっていて良いものだろうか。断じて良いわけはない。

 

そもそも、イギリスにおいて「法の支配」における法とは、不文法である〝神の法〟を指す。だから、「(三権を有する)国王と言えども〝法〟には従わねばならない」という言説が成り立つのである。立法権を有する者は、人間の法には従う必要はない。気に入らない法は変えてしまえばいいのだから。三権を有する独裁者であっても従わなければならない〝法〟とは、「人の法」ではなく「神の法」である。

しかし、神への信仰を持たない人々にとって、神の法とか自然法と言っても、信じていない以上、何の意味もなさない。そして、日本人に、信仰がなかったとすれば、日本人にとっては、目に見えずかたちのない不文法による「法の支配」はまったく成り立たないということになる。

だから、この立場に立てば、「日本人に対しては、『法の支配』は、目に見える成文法によるものでなければならない」という強迫観念が、特に憲法学者たちの心に生じることになるわけだ。

 

こうして、必然的に、日本では、「憲法は、成文法で、なおかつ硬性憲法でなければならぬ」ということになり、同時に、この「人の手で書かれた憲法(自然法・神の法)」自体を、(主に無意識界で)聖典として神格化する傾向も強まることになった。

特に、もう一つの神格化された存在であった天皇の人間化(「人間宣言」)以降、憲法神格化の傾向はさらに強まり、多くの日本人にとって「一言一句、変えてはならぬ」という強烈な執着の対象となってしまった。いわば、天皇を憲法に据え替えたのである。

この状況は、今も変わらない。

彼らは「成文憲法が私たちの社会を守っている」と考えている。しかし、実際には、憲法が私たちを守っているのではなく、私たちが憲法を守っているのである。私たちが憲法を守ることができるのは、私たちが宗教心を持ち、見えない「法の支配」を信じているからだ。

世界中に優れた憲法は数多いが、実際に人々がその憲法を重んじ、憲法に従っているか、というと、そういう法治主義の確立している国は、それほど多くはない。きっちり文字に書かれた成文憲法と言えども、それに心から従う国民がいなければ、どんな優れた憲法も、絵に描いた餅に過ぎない。大切なことは、憲法の基にある理念、自然権や自然法の理念を、大切に思う心が育っているかどうかだ。憲法が大切なのではなく、かたちのない理念・哲学・信仰こそが大切なのだ。

 

憲法学者たちは、そのことが分からず、「憲法がなくなったら、法の支配そのものが崩れる」という強迫観念に囚われている。

その理由は、「法の支配」を支えているものが、人間精神の一部に過ぎない〝理性〟の働きのみと考え、さらには「学問が理性を鍛え支える」という思い込みから、「無学な民草は、自分たち学者と違って理性がないのだから、理性のない無知蒙昧の民は、黙って憲法に従っていればいい」と、勝手に思い上がっているためだ。

そして、憲法がなくなれば、愚民を扇動するポピュリズムに対する歯止めが効かなくなると恐れているのである。民主主義国家における主権者である国民の総体を、彼らは〝愚民〟と考える。言い換えれば、リベラルが好んで主張する「憲法は権力の抑制のためにある」という言葉は、「憲法は主権者たる愚民をコントロールするためにある」と言い換えることができるのである。

つまり、学者自身が、民主主義を信じていない、だから、なおさら憲法に執着する、という悪循環が起こっている。こうした学者特有の心性スパイラルは、己の理性への過信から始まる。その点では、ナチズムと一緒である。

以上、考察してきたような憲法に対する「病的な執着」が、いずれ日本を滅ぼすことになるのではないか、と不安に思えてならない。

 

日本人には、日本の歴史に根ざした宗教心があり、日本人なりの自然法の感覚がもともとあるのであって、憲法がなくなると、日本社会の中で、自然法や自然権に寄って立つ価値観が消失するわけではない。

だから、成文憲法を失うことを恐れる必要はないのだ。

たとえ成文憲法を失っても、自然法や自然権自体を失うわけではないのだから、これをもって日本社会の(目に見えぬ)「法の支配」そのものが揺らぐというわけではない、ということだ。

 

日本人は「法の支配」を信じている

私たちは、憲法の条文程度のものは、自由に変えてよいのである。

 

 

ただし、現代人は、我々の運命すべてを司る大いなる存在を信じられないという世界共通の問題にさらされているのも確かだ。

かつて、この国にも見えない世界に恐れを感じる人たちがいた。これは、内田樹氏が「狐に化かされた日本人」の中で、論考している通りである。しかし、昭和40年代以降、そういうことはなくなったという。

現在の日本国民の多くは、諸外国の国民同様に、無神論者である。そして、そこに、現代の憲法学者たちの不安の根拠も、またあるのである。

 

上記の記述と矛盾するようだが、いずれにしても、取り組むべき疑問は残っている。

はたして、日本人の心に、本当に「法の支配」の精神は根づいているのか。現行の成文憲法を塗り替え、これからの日本にとって必要な新たな憲法を、我々は生み出すことができるのか。

そもそも、信仰を持たぬ者は、「法の支配」を信じることはできない。では、我々日本人の内面世界は、「法の支配」を支えうるほどに、信じるに足る成熟に達しているか。そうでないとしても、少なくとも向かっているのか。向かっていないとしたら、何が問題なのか。

これからの法学は、そこに焦点が当てられなければならないはずだ。

 

「人間精神への信頼と不信」は、私たちの社会の中で表裏一体である。そして、学問もまた、その信と不信のせめぎ合いの中でこそ、かろうじて意味を持つのではないだろうか。